氷川日菜&羽沢つぐみ「小競り合い」
※キャラ崩壊してます
362: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/20(水) 22:32:10.07 ID:gN/n8PIA0
――氷川家 紗夜の部屋――
氷川日菜「…………」
羽沢つぐみ「…………」
日菜「おねーちゃん、なかなか帰ってこないね」
つぐみ「そうですね。ロゼリアの練習が長引いてるんでしょうか」
日菜「かもねー。……そういえば、つぐちゃん」
つぐみ「はい、なんですか?」
日菜「すっごく自然だったから何も言わなかったけど……どうしておねーちゃんの部屋にいるの?」
つぐみ「え、紗夜さんのお誕生日だからですけど……」
日菜「そっかー、じゃあ仕方ないね。部屋の中につぐちゃんいた時はちょっとびっくりしちゃったけど」
つぐみ「あ、日菜先輩もお誕生日おめでとうございます」
日菜「ん、ありがと」
つぐみ「誕生日繋がりですけど……日菜先輩、パスパレの方はいいんですか?」
日菜「何が?」
つぐみ「イヴちゃん、今年もたくさんお祝いするんだーって気合入れてましたよ。お誕生日会開いてくれるんじゃないですか?」
日菜「あー、それなら明日やるからヘーキだよ。今日はおねーちゃんの誕生日をお祝いさせてほしいってみんなに言ってあるから」
つぐみ「なるほど」
日菜「うん」
つぐみ「…………」
日菜「…………」
つぐみ「紗夜さんって」
日菜「うん」
つぐみ「私のこと好きですよね」
日菜「どうしたの? 頭の中に花粉でも入っちゃった?」
つぐみ「いえ、なんとなく思っただけです」
日菜「そっか。まーつぐちゃんがどう思おうと勝手だけど、おねーちゃんはあたしの方が大好きだからね」
つぐみ「誕生日だからって言って良いことと悪いことがあると思いますよ」
日菜「宣戦布告はつぐちゃんからだよね?」
つぐみ「せ、宣戦布告なんてしてないですよ。事実を話しただけですから」
日菜「やっぱり戦争するしかないみたいだね」
つぐみ「そういうのは良くないと思います」
日菜「つぐちゃんがそれ言うの?」
つぐみ「いえ、紗夜さんが私のことを好きなのは疑いようない事実ですから」
日菜「もうヤル気満々だよね? あたしは受けて立つよ?」
つぐみ「勝敗は決まってますし、戦う気はありませんよ」
日菜「そうなんだ」
つぐみ「はい」
日菜「…………」
つぐみ「…………」
日菜「話変わるけどさ」
つぐみ「はい」
日菜「おねーちゃんってさ、優しいんだ」
つぐみ「はい」
日菜「今年……あ、もう去年か。花女と一緒に天体観測したよね?」
つぐみ「ええ。みんな楽しそうで私も嬉しかったですし、天文部が続けられてよかったですね」
日菜「ありがと。でね? その時にこんな話したんだ。ふたご座はふたごだけど、それぞれに輝き方が違うって。だからあたしとおねーちゃんはそれぞれ自分らしく輝けばいいって」
つぐみ「はい」
日菜「だからそれぞれが違うからこそ助け合える……これって半分愛の告白だよね」
つぐみ「違うんじゃないですか?」
日菜「なんで?」
つぐみ「多分ですけど、紗夜さんはそんなつもりで言ったんじゃないと思います」
日菜「そうかなぁ。あれは照れ隠しだと思うけど」
つぐみ「それは勘違いですね。間違いないです」
日菜「つぐちゃんがイジワルする~……」
つぐみ「すいません、そこは譲っちゃいけないって思ったので……」
日菜「そっかぁ、じゃあ仕方ないね」
つぐみ「…………」
日菜「…………」
つぐみ「紗夜さんって」
日菜「うん」
つぐみ「珈琲、好きですよね」
日菜「うん」
つぐみ「去年の話ですけど、紗夜さんがどれくらいウチに珈琲を飲みに来てくれたか知ってますか?」
日菜「43回でしょ?」
つぐみ「57回です」
日菜「おねーちゃん、あたしの知らないとこでそんなに通ってたんだ」
つぐみ「はい、たくさん来てくれました」
日菜「それで、それがどうかしたの?」
つぐみ「年に57回ってことは、最低でも毎週1回以上は珈琲を飲みに来てくれてるってことですよね?」
日菜「そうだね」
つぐみ「足しげく、習慣のように私のもとへ来てくれる……これって半分愛の告白ですよね」
日菜「それは違うんじゃないかな?」
つぐみ「どうしてですか?」
日菜「おねーちゃんが好きなのは珈琲で、つぐちゃんが目的でつぐちゃん家のお店に行ってる訳じゃないよ」
つぐみ「そうですかね。紗夜さんの照れ隠しだと思いますけど」
日菜「それはただの勘違いだね。間違いなく」
つぐみ「……そう、ですか……」
日菜「ごめんね、ここはあたしも譲れないから」
つぐみ「いえいえ、仕方ないことですから」
日菜(……やっぱりおねーちゃんが絡むとつぐちゃんは強敵だ)
つぐみ(流石日菜先輩……紗夜さんが絡むことにはすごく強い……)
日菜「…………」
つぐみ「…………」
日菜「そういえばさ」
つぐみ「はい」
日菜「おねーちゃんになに用意したの?」
つぐみ「誕生日プレゼントですか?」
日菜「うん。ちなみにあたしはパスパレのみんながくれたプラネタリウムのチケットと、都内で有名な美味しいケーキ屋さんのケーキだよ」
つぐみ「私はわんニャン王国の年間ペアパスポートと手作りケーキです」
日菜「そうなんだ。でもおねーちゃん、去年……去年だっけ? あれ……?」
つぐみ「去年でいいと思いますよ」
日菜「そっか。それじゃあ去年、友希那ちゃんに同じようなの貰ってたよ」
つぐみ「はい。日菜先輩と行ってとても楽しかったって言ってました」
日菜「でしょ? それと同じものをあげるのってどうなのかなぁ?」
つぐみ「違いますよ、日菜先輩。これは一度きりのチケットじゃなくて、今日から一年間使い放題のペアチケットです」
日菜「へぇ~」
つぐみ「こういうところは季節で催し物が変わりますし、何度行っても楽しいはずです。だから紗夜さん、きっと喜んでくれると思います」
日菜「そっかぁ」
つぐみ「それに義理堅い紗夜さんは、きっと私を一度目のフリーパスに誘ってくれると信じてます」
日菜「つぐちゃん、もしかして羨ましかったの?」
つぐみ「…………」フイ
日菜「誰にも言わないよ?」
つぐみ「……はい、実はちょっと……いえ、かなり……じゃなくて、すごく……」
日菜「そっか」
日菜(乙女だなぁつぐちゃんは)
つぐみ「わ、私のことは置いておいて、日菜先輩はどうなんですか?」
日菜「なにが?」
つぐみ「パスパレのみなさんから貰ったプラネタリウムのチケットって言ってましたよね?」
日菜「うん。みんながおねーちゃんと行ってきてって、さっきくれたんだ」
つぐみ「…………」
日菜「つぐちゃん?」
つぐみ「いえ……なんでもないです……」
日菜「ふーん?」
つぐみ(貰いものをプレゼントするのは、なんて言おうとしたけど……パスパレのみなさんの気持ちも入ってるものだからやっぱりそんなこと言えないよ……)
日菜(よく分かんないけど何かすごく真面目なこと考えてそう)
つぐみ「……ケーキ、美味しそうですね。すごく豪華な箱に入ってますし」
日菜「なんかすっごく有名なお店のやつで、朝から並ばないと買えないんだって。ウチのスタッフさんが事務所の伝手で話つけて用意してくれたんだ」
つぐみ「そうなんですね……はぁ……」
日菜「どしたの、急にため息吐いて?」
つぐみ「その、なんだか自信がなくなってきて……。そうですよね、赤の他人の私なんかよりたった一人の大切な妹の日菜先輩からの豪華なプレゼントの方が嬉しいに決まってますよね……って思っちゃいまして……」
日菜「そんなことないよー。おねーちゃん、基本的に物を貰うのは嫌がるっていうか、あんまり嬉しがらないんだ」
つぐみ「…………」
日菜「つぐちゃんのケーキ、手作りでしょ? そういう気持ちが入ってる物はおねーちゃんだって嬉しいって思うだろーし」
つぐみ「そう……ですか……?」
日菜「そーだよ、きっと! だから元気出して、つぐちゃん。つぐちゃんが元気ないと、あたしもおねーちゃんのことで張り合いがなくなっちゃうよ」
つぐみ「……そう、ですね。やる前から諦めてたらダメですよね!」
日菜「そーそー! 薫くんも言ってたよ。何もしなければ何も始まらないって!」
つぐみ「分かりました! ありがとうございます、日菜先輩!」
日菜「それでこそおねーちゃんのことが大好きなつぐちゃんだよ」
つぐみ「はい! 大好きです!」
――氷川家 廊下――
氷川紗夜「…………」
<ダイスキナツグチャンダヨ
<ハイ! ダイスキデス!
紗夜(ロゼリアの練習から帰ってきたら、妹と、親しい友人が私の部屋に勝手に入って何かをしていた)
紗夜(私のプライバシーはどこへ行ってしまったのだろうか)
<マケマセンヨ、ヒナセンパイ!
<アタシダッテマケナイヨ!
紗夜(……だけどなんだかとても仲良さそうにしているし、あの2人に見られて困るようなものも置いていないし……いいのかしらね)
紗夜「けど、入るタイミングを完全に逃したわね……」
<ア、コノボードニカザッテアルノッテ...
<シャシン、デスネ
紗夜(日菜と羽沢さんがあんなに親しくしているとは知らなかったし、急に入っても邪魔になるだけよね)
<...エ、コレッテ...
<ソ、ソンナ...サヨサン...
紗夜(だけど流石にギターは部屋に置きたい……どうすればいいのかしら)
<...
<...
紗夜「あら? 急に静かになったわ。……入るなら今がいいわね。それから一応注意もしておかないと」
――ガチャ
紗夜「ただいま。日菜、勝手に私の部屋に入らな……」
日菜「っ!」キッ
つぐみ「っ!」キッ
紗夜「……えっ」
紗夜(どうして私は2人にいきなり睨まれているのかしら……?)
日菜「おねーちゃん……これ、どういうこと……?」
紗夜「何の話? それよりも、私の部屋に勝手に……」
つぐみ「紗夜さん……これ、嘘ですよね……?」
紗夜「……はい? 羽沢さんもどうしたんですか?」
日菜「とぼけないでよ! このボードに貼ってある写真……っていうか、正確にはプリクラ!」
つぐみ「ロゼリアのみなさんとのツーショット写真もありますけど、これに関してだけはちゃんと話をして欲しいです……」
紗夜「プリクラ……ああ、今井さんと撮った」
日菜「っ!!」
つぐみ「そ、そんな……紗夜さん、本当に……?」
紗夜「どうしてそんなショックを受けた顔をしているの、あなたたちは?」
日菜「どうして!? おねーちゃん、こーいうの絶対に撮らないじゃん!?」
つぐみ「そ、そうですよ。何かの間違いですよね?」
紗夜「どうしても何も、それは私から今井さんにお願いして撮ってもらったものよ」
日菜「なっ……!?」
つぐみ「そんな……!」
紗夜「だからどうしてそんな衝撃的な告白をされたような顔を……」
日菜「あたしたちにとっては十分衝撃的だよ!!」
つぐみ「そうですよ! 少しは私たちの気持ちを考えてください!!」
紗夜(何故私が怒られる立場なのかしら……)
日菜「これ、どうしておねーちゃんの方からリサちーに頼んだの!?」
つぐみ「返答次第ではいくら紗夜さんといえど……!」
紗夜「別に深い理由はないわよ。というか、私に何をするつもりなんですか羽沢さんは」
日菜「深い理由もなく!? じゃあ、リサちーの隣にある燐子ちゃんとのプリクラは!?」
紗夜「それは……ええと、まず白金さんから相談されたのよ。人の多い場所に慣れたいから、少し付き合ってくれないかって」
つぐみ「それとこれとにどういう関係が……はっ、まさか付き合ってってそういう……!?」
紗夜「そのまさかが何のまさかは計り知れないけど、羽沢さんが考えていることではないと断言できるわ」
紗夜「白金さんにはプリクラというものに付き合ってほしいと言われたのよ。そういうところに行ってみれば少しは人混みが苦手なのも克服できるかもしれないから……と」
紗夜「仲間の相談は無下には出来ないわ。だから私は頷いたんだけど、私だってそういう場所には縁がなかったから、白金さんと一緒に行く前に今井さんに手ほどきを受けた。それが今井さんとのプリクラね」
日菜「じゃ、じゃあ、おねーちゃんとリサちーと燐子ちゃんの3人で行けばよかったじゃん!? どうして両方ともツーショットなの!?」
紗夜「今井さんと白金さんの予定が合わなかったのよ。幸い、私は2人の都合に合わせられたからそれぞれと行ったというだけ」
つぐみ「そんな……こんなことって……」
日菜「こんなの……あんまりだよ……」
紗夜「……2人がそこまで落ち込んでいる理由が分からないんだけど……というか、そもそも私の部屋に勝手に――」
日菜「だってだって!」
紗夜(……話を最後まで聞きなさい、と言いたい。けれどこういう時は日菜に思うだけ喋らせた方が早いかしらね……)
日菜「おねーちゃんの初めてがリサちーに盗られちゃったんだよ!?」
紗夜「やっぱり全部喋らせるべきじゃなかったわ」
つぐみ「紗夜さんの初めてが……うぅ……」
紗夜「羽沢さんも何を言っているんですか? 私は日菜の相手だけで手一杯ですよ?」
日菜「ああぁ……これであたしとプリクラを撮りに行ってもおねーちゃんに思われるんだ……」
紗夜『へぇ、日菜はこうするのね。今井さんはもっと上手だったけれど……まぁ、人それぞれよね』
日菜「って……」
紗夜「…………」
つぐみ「かといって……ちょっと拙くリードされる展開を期待しても……」
紗夜『羽沢さんはこういうのに慣れていないのね。でも白金さんよりは教えやすいかしら……少し物足りないわね』
つぐみ「って比較されて……」
紗夜「…………」
日菜「あたしはどうすればいいの、おねーちゃん!?」
つぐみ「私はどうしたらいいんでしょうか、紗夜さん!?」
紗夜「そっくりそのまま2人にその言葉を返すわよ」
日菜「その言葉を……」
つぐみ「返す……」
紗夜「……ええ」
日菜「…………」
つぐみ「…………」
紗夜「…………」
紗夜(そんなに難しい顔をして考えるようなことだったかしら)
日菜(『どうすればいいの』を返すってことは……?)
つぐみ(『あなたのためなら何でもしてあげるわよ』ってこと……!?)
日菜「……あは」
つぐみ「……えへ」
紗夜(……なんだろうか、何故だかとても嫌な予感がする)
日菜「おねーちゃんの気持ちは分かったよ! ね、つぐちゃん!」
つぐみ「はい! 順番なんて気にしてた私たちが間違ってました!」
紗夜「…………」
紗夜(どうしてだろうか、2人の言葉が私の中の何かにひっかかる)
日菜「とりあえずおねーちゃん、今度プラネタリウム行こ!」
紗夜「……まぁ、いいけど」
つぐみ「紗夜さん、一緒にわんニャン王国に行きましょう!」
紗夜「……ええ、いいですけど」
日菜「まったくもー、おねーちゃんってば恥ずかしがりの言葉足らずなんだから~!」
つぐみ「でもそういう優しくて照れ屋さんなところ、すごく素敵だと思います!」
紗夜(……安易に頷かない方がよかったような気がしてならない)
日菜「あ、そうだ!」
つぐみ「そういえばすっかり言い忘れてましたね」
紗夜「今度はどうしたのよ……」
日菜「おねーちゃん、お誕生日おめでとう!」
つぐみ「おめでとうございます、紗夜さん!」
紗夜「……ええ、そうだったわね。ありがとう、日菜、羽沢さん。それと……日菜もおめでとう」
日菜「ありがと!」
つぐみ「これ、私たちからのプレゼントです!」
紗夜(プラネタリウムのチケットとわんニャン王国の年間ペアチケット……)
紗夜(特に何の変哲もない物だけど、どうしてこんなにも嫌な予感がするのだろうか)
紗夜「ええと、ありがとう?」
日菜(おねーちゃんとプラネタリウム行って、スマイル遊園地にも行って、プリクラであたし色にして……えへへ、楽しみだなぁ~!)
つぐみ(紗夜さんと月一回わんニャン王国デート……ふれあいコーナーでわんわんしてニャンニャンして……犬耳とか付けたら私もたくさん撫でてくれて……ふふ、楽しみだなぁ)
紗夜(どうしてだろうか。何でもない言葉のはずなのに、何故かこう……身の危険を感じるというか、何か見えない欲望が私を取り巻いているような気が……)
日菜「ケーキもあるよ! はい、あたしとつぐちゃんからのバースデーケーキ!」
つぐみ「あ、私お茶淹れますね! こんなこともあろうかと色々家から持ってきてるので!」
紗夜「……ええ」
日菜「今年もよろしくね、おねーちゃん!」
つぐみ「今年もよろしくお願いしますね、紗夜さん!」
紗夜「そう、ね……よろしくお願いします」
日菜「あはは!」
つぐみ「えへへっ」
紗夜(……まぁ、気にしたら負け……なのかしらね……?)
後日、日菜ちゃんとつぐちゃんに色々と振り回されまくって、軽々しく頷いたことを後悔する紗夜さんでしたとさ。
おわり
今朝のおはガチャで紗夜さんの限定☆4が出て、「あ、誕生日にこれって紗夜さん俺のこと好きだな」とかなり気持ち悪いことを思いました。
そんな衝動で書いた話でしたすいませんでした。
お誕生日おめでとうございます、紗夜さん、日菜ちゃん。
白金燐子「夜光虫」
スマートフォンの時計には午前二時の表示。それを確認してから車の運転席に乗り込んで、バッグとスマホを助手席に放る。クラッチを踏み込んで、プッシュスタートを押し込んだ。
セルの回る音が二度してから、エンジンに火が灯る。遠慮がちな排気音が夜半の冷たい空気を震わせた。
『1』の数字の辺りで微かに揺れるタコメーターを見つめながら、やっぱり寒いのは嫌いだ、とわたしは思う。
季節は晩冬、二月の終わり。足元から身体の熱を奪っていく鋭い寒さも幾分和らいだとは言えども、夜中から明け方にかけては吐く息が真っ白に染め上げられる。手がかじかんでキーボードも思うように叩けないし、本当に寒いのは嫌いだ。
それに、わたしにとって冬は別れの季節だ。
一年前の今頃を思うと、今でもわたしの胸の中は色んな形がぐちゃぐちゃに混ざり合った気持ちで一杯になる。特に、温かな思い出が色濃く残る、この淡い青をしたスポーツハッチバックを運転している時は。
それでもこの車に乗り続けているのだから、わたしもわたしでいつまでも未練がましい女だと思う。
憂色のため息を吐き出す。それからシートベルトをして、わたしは家の車庫から車を出した。
◆
車の免許を取ったのは、二年前……大学一年生の春だった。
いつか免許は取るだろうけど車を運転することは多分ないだろう。最初こそはそんな風に思っていた。その気持ちが変わったのは、あこちゃんと行ったゲームセンターでのことだった。
「りんりん、NFOのアーケードバージョンが出るんだって! やりに行こ!」
そんな誘い文句に頷いて、二人で一緒にそれをプレイした。それから「一度やってみたかったんだ」とあこちゃんが言っていた、レースゲームで一緒に遊んだ。
それは群馬最速のお豆腐屋さんが主人公のゲームで、出てくる車の名前も全然分からなかったけど、それでもハンドルを握ってアクセルを踏み込むのが楽しかった。
その時に初めて実際の車を動かしてみたいと思って、それからすぐに車の免許を取った。そして、「新しく車買うから、今あるやつは燐子の好きに使っていいぞ」と、お父さんが今まで乗っていた車を譲り受けることになった。
淡い青色をしたスポーツハッチバック。かつて日本で一番売れていた車の名前を冠しているそれは、スリーペダル……いわゆるMT、マニュアルトランスミッションだった。
教習所では一応マニュアルで免許を取っていたから、道路交通法上は乗れる車。だけど流石に最初は怖かった。
「大丈夫だよ、今の技術はすごいから。この車はな、電子制御で発進のサポートとシフトチェンジ時の回転数を合わせてくれて……いやでもやっぱりそういうのは自分でやりたいっていうのもあるんだけどな? だけどやっぱりこういうのがあると楽だよ。だから大丈夫大丈夫」
そんなことをお父さんは言っていたけど、免許を取りたてで、車の種類も未だによく分からないわたしには何を言っているのか理解できるはずもない。
だから最初はお父さんに助手席に乗ってもらって運転していた。そうしてひと月も経つと、車の操作には慣れた。でもやっぱり公道はまだ少し怖かった。
そんな時にわたしのドライブに付き合ってくれたのが、紗夜さん――今は氷川さんと呼ぶべきか――だった。
「い、命の保証は出来ないけど……付き合ってください……」
「そんなものに私を巻き込むのね……」
氷川さんはそう言って呆れたような顔をしていたけれど、わたしが頼めばいつだって助手席に乗ってくれた。
わたしは運転席から眺める氷川さんのその横顔が好きだった。
ありがとうございます、やっぱり優しいですね。そう言うと、いつも照れたように「別に」と助手席の窓へ顔を向ける仕草が愛おしかった。
けれど、彼女がこの車に乗ることはきっともうないのだろう。
◆
わたしは夜中の道路が好きだった。人も車も少ないそこをマイペースに走るのが好きだった。今日も今日とて、習慣になっている午前二時過ぎのドライブだ。
国道を適当に北にのぼる。無心にクラッチを踏んでシフトを動かし、アクセルを踏み込む。窓の外を流れていく街灯や微かな家々の明かりを横目に、どこへ行くともなく、ただただ走り続ける。
けれども赤信号に引っかかって手持ち無沙汰になると、どうしてもわたしの視線はがらんどうの助手席へ向いてしまう。
そこにいるハズなんかないのに、それでももしかしたら、なんて愚かな期待を持ちながら、わたしの視線は左隣へたゆたう。だけどやっぱりそこには誰もいなくて、瞳には少し遠い助手席の窓の風景が映り込むだけ。
かぶりを振って、努めてドライブのことだけを考えるようにする。
いい加減今日の行き先を決めよう。そう思って、ナビのディスプレイをタッチした。
その途端、いつかの冬の一日が脳裏に蘇る。
あれは海に向かって鳥居が立つ神社に朝日を見に行った時のことだ。
あの日もいつものように氷川さんをわたしが迎えに行って、今日みたいに夜中の二時に出発して、茨城の大洗を目指した。
氷川さんは「こんな夜更けに出かけるなんて、あまり良いことだとは言えないわね」なんて言っていた。だけど助手席の横顔は少し楽しそうで、それがすごく可愛いと思った。
夜中の道路は空いていたから、わたしたちは午前五時前に目的地に着いてしまって、空が明るみ始めるまで駐車場でなんともない会話を交わした。エンジンは切っていたからどんどん車内の気温は下がるけど、家から持ってきておいた毛布にくるまって日の出を待っていた。
……あのまま時間が止まってくれていたならどんなに幸せだったろうか。
寒い寒いと震えながら笑っていたことも、海に向かう鳥居にかかる鮮やかな朝日も、車に戻るとフロントガラスが凍っていたことも、その氷が溶けるまで肩を寄せ合っていたことも、今でも手を伸ばせば届く距離にあったならどれだけ幸せだったろうか。
ナビやシフトの操作。そのために忙しなく動くわたしの左手は、助手席の氷川さんの一番近くにあった。
二人でナビと睨めっこしてはディスプレイに触れ、あるいは氷川さんがドリンクホルダーに手を伸ばした時にわたしがシフトを操作して、偶然重なる手と手。その時に感じられた、氷川さんの冷たかった右手の温もりが蘇ってしまう。
だけど今のわたしは一人きり。寂れた冷たい街灯の下、夜の空気を震わせる車の中にそんな温もりなんてない。何度助手席を見たってそこはからっぽだ。
考えないようにしていたのにまた氷川さんのことを考えてしまっている自分に自嘲とも落胆ともつかないため息を吐き出す。それから「今日は朝日でも見に行こう」と誰に聞かせるでもなく言葉にして、わたしは千葉に向かうことにした。
◆
北にのぼり続けた国道を、荒川を超えた先の交差点で右に曲がり環状七号線に入る。それからしばらく道沿いに走り続け、国道14号線、船橋という青看板が見える側道に入り、東京湾を沿って千葉を目指した。
東京を抜けるまではトラックやタクシーもそれなりに走っていたけど、千葉駅を超えて16号線へ入るころにはほとんどわたし以外の車は見当たらなくなった。
そのまま内房に沿って南下し続けて、木更津金田ICから東京湾アクアラインに乗る。
ETCレーンを通り抜け、3速でアクセルを踏み込み、HUDの速度表示が時速80㎞になったところで6速にシフトを入れる。右足の力を緩め、ほとんど惰性で走るように速度を維持した。
ナビのデジタル時計は午前五時だった。まだまだ朝日は遠くて、眼前に広がる西の空の低い場所には、少し欠けた丸い月が見える。
今日は朝日を見ようなんて思い立ったけど、わたしは朝が嫌いだ。習慣になっている夜中のドライブでは特にそう思う。
東から明るみ始める空。徐々に増えていく交通量。
夜が追い立てられて、わたしから離れていく。それを必死に追いかけようとしたところで、増えていく車のせいで思うように走れない。夜がどんどん遠くへ行ってしまう。どんなに手を伸ばしたって、懸命に走ったって、届かない場所へ行ってしまう。
だから朝が嫌いだ。わたしはきっといつまでも夜が好きなんだ。ずっとずっと、あの冷たい温もりに浸されていたんだ。
そんな子供みたいなわがままと未練を引きずって、わたしが操る車は海上道路を走る。
時おり助手席に目をやると、誰もいない窓の向こうには真っ暗な海が彼方まで広がっていて、少しだけ怖くなった。
それを誤魔化すようにオーディオの音量を少し上げる。なんとはなしにつけていたFMラジオから、昔映画にされたらしい曲が流れてくる。意識してそれに耳を傾けて、歌詞を頭の中で咀嚼する。
繰り返されていくゲーム。流れ落ちる赤い鼓動。心無きライオンがテレビの向こうで笑う。あんな風に子供のまんまで世界を動かせられるのなら、僕はどうして大人になりたいんだろう。
そうしているうちに、道路の両脇に灯された光たちが次々と過ぎていく。明らかに速度違反を取られるスピードで走るトラックが、右車線を駆け抜けていった。
遠くなるそのナンバーを見送りながら、わたしもあれくらい急げば、もがけば、いつかまた届くのだろうか……と少しだけ考えた。
◆
午前五時半前のパーキングエリアに人気は少なかった。二年くらい前に始まった改修工事も去年の春ごろにようやく終わって、東京湾のど真ん中に鎮座する五階建てのここには静寂が我が物顔でふんぞり返っている。
わたしは車を降りると、パーキングエリアの中に入っているコンビニでカップのホットカフェラテを買った。それから四階の屋内休憩所の椅子に座って、東の方角をぼんやりと眺める。
千葉方面に伸びる道路には白い灯りが煌々とさんざめいて、昔に遊んだ機械生命体とアンドロイドのゲームを思わせる。その仰々しさと機械的な外観が少し好きだった。
そんな話を氷川さんに振ったら、彼女はなんと答えるだろうか。
「何事にも限度があるし、好きなのは知ってるけどやりすぎはよくないわ」と、少し呆れたような口調でわたしのゲーム好きを咎めるだろうか。
「白金さんが好きなゲームですか。少し興味があるわね」と、乗り気で話に付き合ってくれるだろうか。
「私はここより、川崎の工場夜景の方がそれに近いと思うわよ」と、まさかの既プレイ済みでそんなことを言ってくるだろうか。
「ねぇ、どうですか……紗夜さん……」
小さく呟いて、また左へ顔を向けた。静まり返った、誰もいない空間が瞳に映る。海を一望できるこの休憩所にはわたしひとりしかいなくて、返事なんてある訳がなかった。
その現実を目の当たりにして、自分の心の中にあったのは諦観や寂寥、自嘲ともつかない曖昧な気持ちだった。
もうわたしの左隣には、愛おしい彼女の姿はない。一年前の冬に他でもないあの人から別れを告げられた瞬間から、ずっとそうだった。
始まりはわたしから。終わりはあの人から。言葉にすれば簡潔明瞭で、一方通行の恋路が行き止まりにぶつかって途絶えたというだけのお話。世界中のそこかしこに溢れかえっている、ごく平凡なお話だ。
そしてこのお話の中でのわたしは、さぞかし重たくて痛い女だろう。
別れを告げられて、泣くでも縋るでもなくそれを受け入れて、一年経った今でも温かな思い出を捨てられずにいる。ただ彼女との日々を忘れないように何度も何度も繰り返しなぞり続けている。
わたしは夜が好きだ。夜は見たくないものを包み隠してくれる。
痛みも後悔も、鏡に映る醜いわたしも、素知らぬ顔で隠してくれる。そして綺麗な光と温もりを持った思い出だけを際立たせてくれるから、より鮮明になった紗夜さんの残滓をわたしに感じさせてくれる。
こんなことをしていたって何も変わらない。今じゃ疎遠な最愛の人に再び相見えることもない。そんな現実を忘れさせてくれて、仄暗い灯りをわたしに与えてくれる。
だけどその灯りは朝日を前にするとあっという間に溶けていってしまうのだ。
朝は嫌いだ。夜の残滓がくれた幻を余すことなく照らし上げては蹴散らして、わたしがひとりぼっちなことをこれ以上ないくらいに思い知らせてくる。
いつまでも朝がやって来なければいいのに。そうすれば……わたしはずっと夜と寄り添い合って生きいけるのにな。
◆
気が付いたら東の空が明るみ始めていた。
知らぬうちにウトウトとしていたようだ。傍らに置いたカフェラテのカップに手をやると、半分ほど残っていた中身が随分冷えていた。
少しため息を吐き出して、カップを持って立ち上がる。そして近くの水道に中身を捨てて、空になった容器もゴミ箱に捨てた。少し申し訳ない気分になったけれど、今は冷たいものを飲む気力がなかった。
わたしは屋内休憩所を出て、エスカレーターで五階へ向かう。
五階は展望デッキと直に繋がっていて、エスカレーターを上りきると、早朝の海風が身を切った。首を竦めて小さく独りごちる。ああ、やっぱり寒いのは大嫌いだ。
微かに白くなる息を吐き出しながら展望デッキに出て、右手側の東の海に面している方へ歩いて行く。
何ものにも邪魔されない視界の先の彼方には、太陽が僅かに顔を出していた。
眩しいな、と呟きながら、展望デッキの最前列の手すりへと向かった。
板張りの床には露が降りていた。手すりのすぐ後ろにはベンチがあったけど、恐らくそこも濡れているだろうから、わたしは手すりに寄りかかる。
瞳を強く射してくる朝焼け。それを正面からただジッと見つめる。
徐々に太陽がその姿を現す。海の向こうの半円がだんだん大きくなっていって、やがて円形に近付いていく。そしていつしか水平線と切り離され、ぷっくりとした橙色の陽光が揺れる海面を強く照らしだした。
今日も夜が追い立てられた。そしてわたしが拒んだ朝がやってきた。
燃える日輪の光に写るわたしはどんな色をしているんだろうか。きっと仄暗い灯りなんてとうに霞んで、影みたいな暗い色をしているんだろう。
「……ああ、綺麗だなぁ」
朝が嫌いだ。でも、やっぱりあの朝焼けは好きだ。綺麗で、キラキラしていて、温かいから。
わたしもいつかはあんな光になれるだろうか。不意によぎったその問いに対して、きっと無理だろうな、と思った。
朝焼けを眺めたあと、わたしは駐車場に戻って車に乗り込む。
がらんどうの助手席が一番に目について、手にしていたスマートフォンとバッグを後部座席に放り込んだ。
クラッチを踏み込んで、プッシュスタートを押し込む。すぐにエンジンがかかり、暖房が足元から噴き出してくる。
車のフロントガラスは凍ってなんかいなくて、少しだけ曇っていた。エアコンの吹き出し口をデフロスターに切り替えると、すぐにそれもとれていった。
「……帰ろう」
わたしは呟いて、シートベルトを締める。サイドブレーキを下ろして、クラッチを踏んでシフトレバーを手にする。1速に入れてクラッチを繋ぐと、電子制御されたエンジンが少し回転数を上げた。
FMラジオではパーソナリティが天気の話をしている。木曜の夜を超えたら今年も冬が終わるらしい。
それくらいなら寒がりのわたしでもきっと我慢できそうだな。そう思いながら、朝焼けに照らされた二月の帰り道をひとりで辿った。
◆
冬が過ぎると、あっという間に桜の季節になっていた。
冬は寒くて大嫌いだけど、春は暖かいから好きだった。特に桜の木を見ると、氷川さんとの始まりのことを思い出して少しだけ胸が温かかくなる。
わたしたちの始まりもちょうど三月の終わり、桜の蕾が開きだしたころだ。
花咲川に沿った道にある少し大きな公園。そこの小高い丘のようになっている場所に、一本だけあるちょっと背の低い桜の木。そこでわたしは、氷川さんに募る思いの丈を打ち明けた。
それになんて思われるか、なんて返されるかが怖くてしょうがなかったけど、高校卒業という一つの節目を前に、わたしはなけなしの勇気を振り絞ったのだった。
その答えは嬉しいものだったし、それからの一年間は幸せな日々が続いた。……だからこそ、去年の冬に別れてからのわたしは暗澹たる気持ちを影のように引きずって歩き続けているのだけど。
けれど、もういい加減それも終わりにするべきだろう。
いつまでもいつまでも、彼女の影を探して俯いたまま歩いているんじゃ、いつかきっと転んでしまう。もうわたしも前を見て進むべきなんだ。
だから、始まりになったあの場所で、わたしは自分にケジメをつけようと思っていた。
家を出て、今ではもう懐かしい花咲川女子学園に続く道を歩く。
花咲川沿いの道にも桜がたくさん植えられていて、開きだした花弁を道行く人たちが見上げる。わたしはその中に紛れ、ただ目的の場所だけを目指して歩を進め続ける。
やがて目的の公園に辿り着いた。
この近辺では比較的大きな広場と滑り台が一番に目に付く。その脇を通り抜けて、小高い丘のようになっている場所を目指す。
普段の運動不足が祟って少し息が上がりそうだったけど、新緑と桃色の花びらを鮮やかに照らすうらうらとした陽射しが気持ちよかった。
やっぱり春は好きだ。温かくて、陽射しが気持ちよくて、またもう一度、新しくわたしを始められそうな予感を覚えさせてくれる。
その新しいわたしの隣にはもう氷川さんの影も形もないのかもしれない。けれどそれでいいのかもしれない。前を向くということはきっとそういうことなんだと思う。
でも、と少しだけ胸中で呟く。
(それでも、またどこかで紗夜さんと出会えたなら……素敵だな)
もしもそうなったら、その時は笑おう。疎遠になったこともとても近くなったことも関係なく笑おう。何の後腐れもなかったように、無邪気に笑おう。今日つけにきたケジメは、多分そういう類のケジメだ。
そんな決心を抱いたところで、丘を登りきる。
そこには二年前の今日と同じように背の低い桜の木があって、色づき始めた枝を春の風がそよそよと揺らしていた。
氷川紗夜「燐光」
私には恋人がいた。その相手はかつて同じバンドでキーボードを担当していた白金燐子という女性で、高校を卒業する時に彼女から愛の告白をされた。
目を瞑れば、今でもあの春の一幕を瞼の裏に鮮明に思い描ける。
花咲川沿いの少し大きな公園の、小高い丘の上の、ちょっと背の低い桜の木の下。
そこで、うつむき加減の顔を赤くさせた彼女から、静かな声をいつもより大きく震わせて、思いの丈を打ち明けられた。
その告白を受けて、私に迷いがなかったと言えば嘘になるだろう。私と白金さんは女性同士だ。世間一般において、同性愛というのはまだまだ理解が及ばないものだという認識がある。
けれど、白金さんの懸命な言葉を受けて、私はネガティブな印象を抱くことがなかったのも事実だった。
生徒会長と風紀委員長という関係。白金さんと私は、花咲川女子学園では大抵一緒にいたし、学校が終わっても同じバンドのメンバーとして共に行動することが多かった。
その時間は私にとってとても心地のいいものであったし、そんな彼女ともっと深い関係になるということを想像すると、温かな想いが胸中に広がった。
だから私は一生懸命な白金さんの言葉に頷いた。こんな私で良ければ、と。そうして私と白金さんはいわゆる恋人同士と呼ばれる関係になったのだった。
その温かな関係は、去年の冬に終わりを告げた。
◆
「寒いわね……」
大学の講義が終わって、駅へと向かう道すがら、私は巻いているマフラーに首をすぼめて小さく呟く。
今日はこの冬一番の寒さだと朝のニュースで言っていた。それを聞いて、私は今でも彼女のことを考えてしまうのだからどうしようもないと思ったことを思い出す。
別れを告げたのは私からなのに、事あるごとに、私は白金さんのことを脳裏に思い浮かべてしまう。今日みたいに冷たいビル風が吹き抜ける日なんかには、それが顕著だ。
「寒いの……本当に嫌いなんです……」と、静かな声が何をしていても頭によぎる。街中で見慣れた色と形の車を見かけるたびにそれを目で追って、そしていつまでも忘れられないナンバーとは違う数字をつけていることに気付いてため息を吐き出してしまう。
こんなに面影を探してしまうなら別れ話なんてしなければよかったのに。追い出せそうにない思考を頭に浮かべたまま、私は雑踏に紛れて足を動かす。
◆
私の脳裏に今でも特に強く根を張っている記憶があった。それは白金さんが乗っている淡い青色の車のことだとか、彼女と見た朝焼けだとか、そういう温かい記憶なんかじゃなく、私から別れを告げた日の記憶だ。
「もう、終わりにしませんか」
そっけない私の言葉を聞いた白金さんは、一瞬でくしゃりと顔を歪ませて、それからまた何ともないような顔を必死に作ろうとしていた。そんな様子を見ていられずに、私は目を逸らした。
「……はい、分かり……ました」
震えた声が私の鼓膜を揺らす。大好きな彼女の小さな声が、その時だけは絶対に聞きたくない音となって私を襲った。
けれど、放ってしまった言葉は取り消せない。冗談です、とも言える訳がない。私とて、それなりの覚悟を持って彼女に別れを切り出したのだから。
私が二十歳になるひと月前にした別れ話は、さんざん悩んだ割にあっさりと終わった。私と彼女の関係も、ただの知人というものにあっけなく戻った。それだけの話。
そう、ただそれだけの話のはずなのだ。それなのに、いつまでもいつまでも私の脳裏には白金さんの悲壮な表情と震えた声が張り付いている。
自分の胸の深い場所まで潜れば、私の本当の気持ちというものが見えてくる。けれど、私はそれに蓋をして見て見ぬ振りを貫くことにした。
何故ならこれは、この別れは、私たちに必要なものだったからだ。成人式を終えて、一つの節目として大人になった私たちには必要な別れだったんだ。
私たちはいつまでも子供のままじゃいられない。好きなものを好きだと言うのはいいことだと思うけれど、それにだって限度がある。特に、世間様から認められないようなことは。
だから白金さんをばっさりと振って、後腐れないように関係をなくす。彼女の傷付いた顔が私の胸を激しく切りつけたけど、これは必要な痛みなんだと自分に言い聞かせた。
これでいいんだ、これが私たちのあるべき姿なんだ。
……じゃあ、それからの私の行動はなんだろう。
寒いという言葉、冬という言葉を聞く度に、静かな声が脳裏をかすめる。
淡い青色の車を見かける度に、それを目で追い続ける。
誕生日でもないのに彼女からもらったペンダントを、ほこりの一つも付かないよう後生大事に部屋に飾ってある。
考えれば考えるほどに自分が愚かしくなるから、その行動の原理にも蓋をしておくことにした。
私たちがあの頃描いていた未来。いつかの冬の日に、朝日を待って彼女の車の中でずっと喋っていたこと。毛布に包まりながら、大学を卒業したら、就職したら、二人でああしようこうしよう。
そんなものは、もう二度と訪れることはないのだ。
◆
季節は気付いたら移ろっているもので、三月初めの木曜日を超えてから、日ごとに気温は高くなっていった。
私は寒いのも嫌いだけど、春もそこそこに苦手だった。
春は始まりの季節、とはよく言うもので、忘れたくても忘れられないことが始まったこの季節を迎えると、自分の感情が上手に整理できなくなる。
特に桜を見てしまうとダメだ。
麗らかで柔らかい陽射しに映えるソメイヨシノは、かつての私たちの関係を如実にあらわす徒桜だ。せっかく綺麗に咲き誇ったのにすぐに散ってしまうその姿を自分に重ねると、胸がキュッとして泣きそうになる。私が見えないように蓋をしたものを、これでもかと目の前に突き付けてくる。
……かつてはとても親しかった彼女。
けれど、私は彼女の名前を一度だって呼んだことはなかった。
いつでも名字に「さん」付け。私は名前で呼ばれているのに、どうしても私から同じように呼び返すことが出来なかった。
それには照れも含まれていたけれど、結局のところ、私は彼女へ踏み込むのが怖かっただけなんだろう。
約一年間の交際の中で、意図的に手を繋いだこともない。寒い季節は肩と肩が触れるくらい身を寄せ合ったこともあったけれど、それ以上身体的に接触したことはなかった。
偶然の接触ならあった。彼女の運転する車の助手席に乗っている時、私がナビに触れたりドリンクホルダーの飲み物を取ろうとして、ちょうど白金さんの左手と私の右手がぶつかるというようなことだ。
その時の手の温かさだとか柔らかさだとか、照れたようにはにかむ白金さんの横顔だとか、妙に熱を持ってしまう私の頬だとか、そういうことを思い出すと何とも言えない気持ちが心中に去来する。
いや、何とも言えないというのは私の臆病のせいか。
私はきっと嬉しかったんだろう。けれど、それを認めてしまうと自分に歯止めが効かなくなるような気がした。
これは世間一般では認められない関係だから、あまり踏み込んではいけない関係だから、と何重にも自制かけていたのだ。
そもそもの話、そんな風に思うのなら最初から告白を断ればよかったのだ。そうすればよかったのだ。それならきっと白金さんだってそんなに傷付かなかったかもしれないし、私だってこんなに彼女のことを――
「はぁ……」
行き過ぎた思考をため息で無理矢理止める。それから思うのは、やっぱり春は苦手だ、ということ。
今日は三月の終わり。二年前に、私が白金さんに告白をされた日だった。
今日も今日とて空は快晴で、春の温かな陽射しが容赦なく私の部屋に差し込んできていた。その窓からの光に心全部を暴かれそうになるのだから嫌になる。
もういっそ、全て白日の下に晒してしまおうか。
ふと思い立ったその考えが妙にしっくりと自分の腑に落ちた。もしかしたらの話だけど、目を逸らし続けるから気になるのであって、いっそ思い出もかつて言えなかった言葉たちも太陽の光に晒してみれば、それですっきり忘れられるのかもしれない。
そう思って、思索に耽っていた椅子から立ち上がり、私は部屋を出た。
◆
特に行き場所は決めていなかった。
朗らかな陽光を一身に受けて、まだ若干の冷たさが残るそよ風に吹かれながら、私は花咲川に沿って歩を進める。
川沿いに植えられた桜たちも徐々に蕾をほころばせていて、それを見上げる人たちがそこそこいたけど、私は桜には目もくれずに歩き続ける。
そうしながら、私の中で燻る記憶たちを開き直りにも近い形で取り出して、胸の中でじっくりと眺めてみる。
ある一つの記憶は桜色をしていた。
花咲川沿いの少し大きな公園の、小高い丘の上の、ちょっと背の低い桜の木の下での思い出。あの時に私の胸中に一番に浮かんだ感情の名前は、喜びだった。
ある一つの記憶は淡い青色をしていた。
「い、命の保証は出来ないけど……付き合ってください……」と、私の大好きな静かな声が揺れる。免許を取って、父親に車を譲ってもらったけど、まだ一人で運転するのは怖いから……という言葉に続いた誘い文句だった。
それに返した私の言葉は捻くれていたけど、その裏にあった気持ちは「彼女に信頼されているんだ」という嬉しさだった。
ある一つの記憶は橙色をしていた。
真冬の真夜中に淡い青色の車が迎えに来てくれて、もはや私だけの指定席になっている助手席に身を置いて、茨城の大洗に日の出を見に行ったこと。早く着きすぎて、二人で未来の話をしたこと。肩を寄せ合って、鳥居にかかる綺麗な橙色の朝焼けを見たこと。
その時の私は幸せで、ものすごく怖くなった。
ある一つの記憶は透き通った青色をしていた。
まだ誕生日には早いですけど、去年の分です。そんな前置きとともに渡された、青水晶のペンダント。私は照れてしまって、とても優しく微笑む彼女の顔を直視することが出来なかった。
そのペンダントは一度も身に着けることなく、今でも特別に大切な宝物として私の部屋に飾ってある。
ある一つの記憶は灰色をしていた。
別れを切り出した建て前は、世間では認められないことだから。けれど私の奥底にあった本当の気持ちはなんだったろうか。
そうだ、私はただ怖かったのだ。
白金さんとの日々はとても温かくて幸せで、ずっとこんな日々が続けばいいと、本当は心の底から願っていた。
だけど、物事にはいつだって終わりがつきものだ。諸行無常、盛者必衰。どれだけ美しい花が咲けど、それはいつか枯れてしまうし、知らぬ間に踏みにじられてしまうかもしれない。
それが怖くて怖くて仕方なかった。いつこの温もりが消えるとも分からないのが恐ろしかった。
白金さんに愛想を尽かされたら、世間から誹りを受けたら、この関係はきっとすぐに霧散する。それは元々の関係に戻るというだけのことだけど、私はもう幸せを知ってしまっていた。この幸せが奪われることでどれだけ自分が傷付くのか、寒い思いをするのか知ってしまっていた。
だから私は私自身の手で、その関係に終止符を打ったのだ。せめて傷が深くならないように、不意を打たれて死ぬほど惨めな思いをしないように、と。
ああ、と小さく口から漏れた呟き。自分を貶すための言葉が種々様々に混ざり合っていた呟きだから、その色は工業廃水を垂れ流したドブ川の色に似ていた。
なんてことはない。結局、私は自分が傷付きたくなかったのだ。その為に世界で一番大好きな人をみだりに傷付けたんだ。
一枚ずつ剥がしていった建て前。蓋を外した本当の気持ち。それを今さら直視して思うことは、なんて嫌な人間だという自己嫌悪。
一見筋の通ったような理由を重ねて、最愛の彼女を傷付けてでも守りたかったのは、私自身だったんだ。
そのくせ白金さんの面影を探し続けているんだから、本当にどうしようもない。
少し涙が浮かんできたのは花粉のせいにして、私は目元を一度拭う。それから始まりの公園に足を向けた。
目的の公園に辿り着くと、この近辺では比較的大きな広場と滑り台が一番に目に付く。その脇を通り抜けて、小高い丘のようになっている場所を目指す。
ここへ来た理由は、私自身に勇気と覚悟を持たせるため。今になってこんなことを思ったって遅すぎるのは分かっているけれど、それでも私は彼女に……今でも大好きなままの白金さんに、面と向かって謝りたかった。
今まで自分本位な気持ちでいてごめんなさい。傷付くことを恐れて、あなたを傷付けてごめんなさい。
これもただの自己満足だと思う。今では疎遠な関係の女に、今さらそんなことを言われたってきっと彼女は迷惑するだろう。だけど、これは私が白金さんに対してつけなければいけないケジメだ。
そんな決心を抱いて、坂を登りきる。
小高い丘には誰の姿もなくて、辺り一面新緑の木々に囲まれた中に、ポツンと一本だけ桜の木があった。あそこが始まりの場所だ。
私はその傍に歩み寄って行って、幹に手を置く。桜はまだ半分ほどしか咲いていなかった。
三月の終わり。かつて、白金さんに想いを告白された日と同じ日付。あの日もまだ桜は満開ではなかったことを思い出す。
「…………」
黙ったままその花弁を見上げる。そして、あの時に白金さんがどれだけ勇気を振り絞っていたかを想像する。
彼女は引っ込み思案で、いつも遠慮をする。生徒会長になって初めてやった全校集会の挨拶は散々な出来で、それでもそんな自分を変えようとひたむきに努力をしていた。そんな白金さんがここで告白に臨んだ覚悟や勇気というのは、私では到底及ばないほどに強く大きいものだったろう。
私も彼女のようになれるだろうか。名前の通り、夜のように暗く惨めな私でも、彼女のように凛とした光を持つことが出来るだろうか。
いや、そうならないとダメだ。ここに来て、彼女の大きな勇気に触れたのはそのためだ。どんなに惨めな思いをしようと、詰られようと、一生癒えない傷を負おうと、今度は私が白金さんに告白をするんだ。
建て前を全部脱ぎ捨てた気持ちで、今までのことの謝罪と感謝を伝えるんだ。
そして、もしも彼女がまだ僅かな慈悲を私に抱いてくれているのなら、その時は……
(……燐子さん。今でも私は、あなたのことが大好きです)
……ようやく掴んで吐き出した自分の弱さの底の底にあるこの言葉を、いつかあなたに伝えられますように。
春の風が吹き抜けた。五分咲きの桜の枝がそよそよと揺れる。それに紛れて、後ろから控えめな足音が聞こえた。きっと桜の見物客だろう。
ケジメはもうつけた。この先のことは私の覚悟次第だ。
木の幹から手を離す。見物の妨げになるだろうから、邪魔者はもう帰ろう。帰って、一年と少し振りに白金さんにメッセージを送ろう。
そう思い、桜に背を向けて、私は一歩を踏み出した。
おわり
市ヶ谷有咲「いい加減にしろ」
※ >>29と同じ世界の話です
――有咲の蔵――
山吹沙綾「…………」
戸山香澄「…………」
沙綾「……香澄、いい加減折れたら?」
香澄「やだ。そっちこそ折れてよ」
沙綾「それは無理」
香澄「さーやの分からず屋」
沙綾「香澄だけには言われたくない」
香澄「ふん、知らないもん」
沙綾「なんでこんなに頑固なのかなぁ」
香澄「それこそさーやにだけは言われたくないよ」
沙綾「はいはいそうですか」
香澄「さーやのバカ」
沙綾「言うに事欠いてバカ? バカって言う方がバカなんだよ?」
香澄「知らないっ」
沙綾「はぁー……」
香澄「……なに、そのわざとらしいため息は?」
沙綾「いいえ、別に?」
香澄「別にじゃないでしょ」
沙綾「はぁー、そう。そんなに気になるんだ。はぁー……」
香澄「なんでそんなイジワルするの?」
沙綾「別に? 私はイジワルしてるつもりなんてないよ?」
香澄「イジワルだよ。どう考えても嫌がらせみたいな感じだもん」
沙綾「香澄がそう思うならそうなんじゃない?」
香澄「ほら! そう言うってことはやっぱりイジワルなんじゃん!!」
沙綾「知らないよ。香澄がそう思うならって私は言っただけだし」
香澄「うぅぅっ……!」
沙綾「……ふんだ」
香澄「ああもう、分かった!! それじゃあ白黒ハッキリさせようよ!!」
沙綾「いいよ。こっちもいい加減、純みたいに拗ねた香澄の相手なんてしてられないし」
香澄「またそうやって子供扱いする!!」
沙綾「事実だし。私間違ったこと言ってないし」
香澄「さーやの方が子供っぽいじゃん!」
沙綾「そんなことありませーん」
香澄「ちょっと妹と弟がいてお姉ちゃんオーラバリバリだからって調子に乗らないでよ!!」
沙綾「香澄こそ、妹がいるくせに甘えたがりの妹オーラバリバリのくせに変なこと言わないで」
香澄「あーもう怒った! 私、完全に怒ったからね!」
沙綾「私はもうとっくに怒ってるけどね。香澄よりも断然早く怒ってるからね」
香澄「でも怒りレベルはこっちの方が上だから!」
沙綾「いやこっちの方が怒ってる時間長いから。私の方がレベル上だから。それなのに香澄に付き合ってあげてたからね?」
香澄「さーやいつも何も言わないじゃん! 言ってくれなきゃ分かんないもんそんなの! そんなこと言うならちゃんと怒ってよ! 一緒に怒らせてよ!!」
沙綾「言ってること無茶苦茶だからね。今回は香澄だって何も聞いてこなかったじゃん」
香澄「だって当たり前のことだもん!!」
沙綾「当たり前? はぁ、当たり前。へぇ、香澄は自分が当たり前だって思うことを平気で私に『当たり前』として押し付けるんだ? へぇ?」
香澄「だからどうしてそんなイジワルな言い方するの!?」
沙綾「事実を言っただけだし。イジワルじゃないし」
香澄「もう本当の本当に怒ったからね!? 知らないよ!?」
沙綾「私も知らない。朝ご飯はパンじゃなくて白米派の香澄なんて知らないよ」
香澄「何言ってるの、さーや!? 白いご飯は日本の特産だよ!? 日本のソウルフードなんだよ!? それなのにさーやが『朝は断然パンだよね』なんて言うからこうなったんじゃん!!」
沙綾「だって当たり前のことだし。時代は移ろうんだよ? 朝ご飯は白米なんていう固定観念に囚われてたら時間の流れに置いてかれるよ?」
香澄「そんなことないもん!!」
沙綾「そんなことありますからねー? 統計でも出てるからね? 今はパン派の方が多いんだよ? ほらほら、ここにそう書いてあるでしょ?」つスマホ
香澄「そのデータ古いじゃん! 2012年のやつって書いてある!! そんなこと言うなら……ほらこれ!! ご飯派は『絶対にご飯がいい』っていう固定ファンが多い統計もあるから!!」つスマホ
沙綾「やっぱり朝に白いご飯を食べる人は頑固な人が多いんだね。香澄みたいに」
香澄「さーやも十分頑固だからね!!」
沙綾「知らなーい」
香澄「分かった分かりました!! さーやがそう言うならこっちにだって考えがあるもん!!」
沙綾「つーん」
香澄「そんなそっぽを向いてられるのも今のうちだからね!! ちょっと待ってて、絶対に逃げないでよ!?」
沙綾「はいはい、絶対的な勝者のパン派は逃げるなんて臆病なことはしないから、早く行ってきたら?」
香澄「ふんっ、そんなことすぐに言えなくさせるから!!」
―しばらくして―
香澄「ただいまっ!!!」
沙綾「おかえり。遅かったね、そのまま逃げ帰ったのかと思ったよ」
香澄「さーや置いてひとりで帰るワケないじゃん!!」
沙綾「知ってる」
香澄「じゃあいちいちイジワルな言い方しないで! とにかく、コレ!!」つオニギリ
沙綾「はぁ、そのおにぎりがどうかしたの?」
香澄「食べて!」
沙綾「はー、そういう強硬手段に出るんだ? 言葉じゃ勝てないから実力行使に出るんだ? そんな手にいちいち」
香澄「今っ、有咲のおばあちゃんにご飯炊いてもらって、私が握ったやつだから!! 食べられないなら私が食べさせるよ!!」
沙綾「背中の傷はパン派の恥だからね。正々堂々受けて立つよ」
香澄「じゃあどうぞ! あーん!!」
沙綾「はぁー、仕方ないなぁホント。はむっ……」
香澄「どう!? 分かったでしょ!?」
沙綾「……いや、こんなおにぎり1個で分かれば苦労はしないからね? きのことたけのこは戦争しないからね? 香澄が直に手で握ってくれたっていう温もりは感じるけど、それとこれとは話が別だからね?」
香澄「そう言うと思ってまだあと3個用意してきてあるから!!」
沙綾「はー、出た出た。まーたそういうことするんだね? はぁー本当にもう、はぁー……」
香澄「さぁ食べて!!」
沙綾「はいはい、言われなくても食べるから。はぁ……食べやすいようにひとつひとつが小さく握られててちゃんと海苔も巻いてあって私の好みの塩加減になってるとか、白米派はやることがいやらしいなぁホント。はむはむ……」
香澄「お茶! ここに置いておくからね!!」
沙綾「それはどーも。はむはむはむ……」
香澄「どう!? これで分かったでしょう!?」
沙綾「いいや、分からないよ。白米の良さなんてこれから毎日香澄がおにぎり作ってくれなきゃ絶対に理解できないね」
香澄「いーよ、受けて立つよ!!」
沙綾「はぁー、ホント好戦的で困るなぁ。ここまでされたら私も黙ってるワケにはいかないじゃん」
香澄「なに!? まだ何か言いたいことがあるの!?」
沙綾「別に? 目には目をってことだけど? ちょっと待っててもらえる? まぁ、負けるのが怖いなら逃げてもいいけど」
香澄「さーやが待ってって言うなら死ぬまで待つに決まってるじゃん!!」
沙綾「その言葉、後悔しないといいね。それじゃあちょっと行ってくるから」
―しばらくして―
沙綾「ハァハァ……ちゃ、ちゃんと逃げないで……ハァ、待ってたね……」
香澄「当たり前だよ! そっちこそ、あんまり遅いから事故にでもあったんじゃないかってちょっと不安になってたからね!!」
沙綾「ハー、敵に塩を送ったつもりかな? 本当に卑怯だよね、香澄って……ハー、ハー」
香澄「そんな息も絶え絶えに言われたって心配しかしないんだから!! お茶飲んでさーや!!」
沙綾「言われなくたって……」ゴクゴク
香澄「それで!? はっ、その手に持ってるのはまさか……!」
沙綾「ぷは……そう、やまぶきベーカリーのパンだよ。それも私の手作りで焼きたての」
香澄「うっわぁ、さーやって本当にそういうズルい手ばっかりいつも使ってくるよね!? どうせ息を切らせてたのだってパンが冷めないようにって全力疾走してきたんでしょ!?」
沙綾「さぁ? 香澄がそう思うならそうなんじゃない?」
香澄「出た出たお決まりのセリフ!! ホントさーやズルい!!」
沙綾「いやいや、香澄には負けますからねー?」
香澄「どーいう意味!?」
沙綾「別に? それより、これを食べればいかにパンが白米より優れてるかって分かるから、覚悟が出来たらさっさと食べてもらっていいかな?」
香澄「ふん、そんなこと言う人のパンなんて」
沙綾「ああそうだ。私は香澄に強引に食べさせられたのに、香澄はそういう辱めを受けないのは不公平だよね。仕方ないから私が直々に食べさせてあげるよ」つパン
香澄「覚悟とは! 暗闇の荒野に進むべき道を切り開くこと! 受けて立つよさーや!!」
沙綾「威勢だけはいいね。それじゃあさっさと食べてくれるかな? はい、あーん」
香澄「あーん!! もぐ……!」
沙綾「分かったでしょ?」
香澄「……全然、ぜーんぜん分からないからね! こんなことで分かるならイヌ派とネコ派も戦争しないからね! いつもさーやからフワッて香る甘くていい匂いがギュッと詰まってるけど、それとこれとは全然関係ないからね!!」
沙綾「本当に香澄は分からず屋の頑固者だねー。まぁ、往生際が悪いのも想定内だし、まだまだたくさんパンはあるんだけど」
香澄「出たっ、さーやお得意の私のことはなんでも分かってますよーってやつ!! そういうところがズルいよね! パンだって食べやすいサイズに切り分けられてるし、甘いものから塩っぽいやつまで飽きないようにバリエーションが無駄に豊富で食べる人のことをちゃんと考えてあるし!! 本当にズルい!! もぐもぐ……!」
沙綾「牛乳はここに置いとくから。飲みたければ飲めば?」
香澄「またそうやって! 私がパンと一緒に牛乳飲むのにハマってることまで把握してるし!! もぐもぐもぐ……!」
沙綾「これで流石に香澄も分かったよね?」
香澄「何にも分かんないよ! これから毎日さーやの手作りパン食べなきゃ何にも分かんないもんね!!」
沙綾「いいよ。仕方ないから頑固で分からず屋の香澄が理解できるまで生涯付き合ってあげる」
香澄「聞いたからね! その言葉絶対忘れないからね!!」
沙綾「どうぞご自由に。私だってさっき香澄が言ったセリフ、何があっても絶対に忘れないから」
香澄「あーもう!」
沙綾「あーホント」
香澄「さーや大好き!!」
沙綾「香澄大好き」
……………………
――有咲の蔵 階段前――
市ヶ谷有咲「…………」
有咲「…………」
有咲「……いや、なんだよこれ。あいつら本当にいい加減しろよ」
有咲「はぁー……本当にもう……はぁぁぁぁ~……」
有咲「……りみんとこ行こ……」
おわり
なんだかんだポピパが一番好きで、その中でも特に沙綾ちゃんが好きです。
エイプリールフールの沙綾ちゃんの「元村娘の聖女」とかいう設定はとても妄想が捗ります。
でも白米派の自分とは相容れないだろうなーと思いました。そんな話でした。
大和麻弥「なんだろう、これ……」
※『パスパレのデートシミュレーション』と同じ世界の話です
――花音との同棲部屋――
――ガチャ
松原花音「あ、おかえりなさい」
花音「今日も1日お疲れ様。もうすぐご飯できるけど、お風呂とどっち先にする?」
花音「……うん? ど、どうかしたの? すごく暗い顔になってるよ……?」
花音「え? ……そっか。お仕事で辛いことがあったんだね……」
花音「ううん、謝らないで。いいんだよ、私の前でくらい謝ることなんかしなくても」
花音「……また謝って……大丈夫だよ。あなたのことを心配するのも、気を遣うのも、私は好きだから」
花音「ほら、先にお風呂に入ってさっぱりしてきちゃお? ね?」
花音「うん、いい子いい子……あ、ごめんね? 急に頭撫でたりして」
花音「あ、あはは……昔の話なんだけど、バンドの中で先生の役をやったことがあって……」
花音「なんだろうね。好きな人をね、子供みたいにあやすの……なんだか心が温かくなるから好きなんだ」
花音「……あやしてほしいの?」
花音「ううん、そんなに取り繕わなくて平気だよ。だって、嬉しいから」
花音「うん、嬉しい。あなたが私を頼ってくれるのが嬉しいんだ」
花音「えへへ、今夜はたくさん甘えていいからね?」
花音「うん、うん……いい子いい子。大丈夫だよ、私に寄りかかっても。まっすぐ歩けるように支えてあげるから」
花音「さ、それじゃあお風呂に行こっか?」
――浴室――
花音「はーい、それじゃあシャワーかけるよ~?」
花音「うん? どうかしたの?」
花音「……恥ずかしい? ふふっ、今さら恥ずかしがっちゃダメですよ~?」
花音「大丈夫だよ。私は服着てるし、ただあなたの頭と背中を洗うだけなんだから」
花音「……そうそう。ちゃんと言うことが聞けるいい子ですね~」
花音「お湯の温度は……うん、ちょうどいいかな。それじゃあ、いくよ~?」
花音「まずは頭を流すからね? 目に入らないようにちゃんと瞑ってるんだよ? 大丈夫? 瞑れてる?」
花音「……はーい、分かりました。流すよ~」
――シャァァ……
花音「お湯加減は大丈夫? 熱かったり冷たかったりしないかな?」
花音「ちょうどいい? うん、分かった。それじゃあこのまま続けるね」
花音「まずはてっぺんから前髪の方を……っと。よいしょ……」
花音「次は横の方……あ、耳に入らないように、ちゃんと耳も塞がなくちゃ」
花音「え? ああ、あなたはそのままで大丈夫だよ。私が片手で塞いでシャワーしてあげるから」
花音「はい、じゃあまず左耳から……ちょっと触るよ? 痛かったらすぐ言ってね?」
花音「あんまり力を込めないで……そーっと……よし……よし……っと」
花音「大丈夫? 水、耳に入らなかった?」
花音「……そっか。良かった。それじゃあ次は反対側だね」
花音「右耳もちょっとごめんね? うんしょっ……と……」
花音「……はい、それじゃあ最後は後ろの方まで流して……よし、こんな感じで大丈夫かな」キュッ
花音「それじゃあ、シャンプーしていくよ」
花音「髪を傷めないように優しくしないとね。まずは髪の毛全体に馴染ませるように泡を立てて」シュワシュワ
花音「……ん、こんな感じ、かな。じゃあ、しっかり洗っていくからね? 痛かったりしたらちゃんと言うんだよ?」
花音「……うん、しっかりお返事が出来るいい子ですね~、えらいえらい。はーい、それじゃあゴシゴシしますよ~?」
花音「え? 子供扱いしすぎ?」ゴシゴシ
花音「ふふ、ごめんね。なんだか今日のあなたがすごく可愛くて……」ゴシゴシ
花音「……別に嫌じゃないからいい? ふふ、そっか。ふふふ……」
花音「……ううん、何でもないよ。やっぱり可愛いなぁって思って。あ、ごめんね? 手が止まってたね」
花音「大丈夫。あなたは目を瞑って、何にも考えないでいいんだよ。私がちゃんと洗ってあげるからね。大丈夫だよー、そのままでいいんだよー……」ゴシゴシ
花音「ごしごし、ごしごし……」ゴシゴシ
花音「よいしょ……よいしょ……っと」ゴシゴシ
花音「どこか痒いところはありませんか~?」
花音「……耳の後ろ辺り? うん、分かったよ」
花音「耳に泡が入らないようにして……優しく優しく……」コシュコシュ
花音「撫でるように……よいしょ、よいしょ……」コシュコシュ
花音「……もう大丈夫? うん、分かったよ。それじゃあ、シャンプーも流していくね?」キュッ、シャァァ……
花音「ちゃんと目を瞑ってるんだよ~? お目々に泡が入ったら痛いからね~?」
花音「また頭の上の方から……下の方に優しく流して……」
花音「耳、また塞ぐね? うん、いい子いい子」
花音「ふんふんふーん……♪」
花音「あ、ごめんね? 鼻歌、気になっちゃった?」
花音「うん、なんかちょっと楽しくて……つい……」
花音「……もっと聴いてたい? そっか。うん、分かったよ」
花音「ふんふんふーん……♪」シャァァ……
花音「……よし、っと。流し終わったから、軽く拭いていくね?」
花音「だーめ。髪を拭くまでがシャンプーなんだから、大人しく言うことを聞かなきゃだよ?」
花音「……そう。ちゃんと言うことを聞けるいい子だね。大丈夫だよ、任せてね」
花音「あんまり強くやり過ぎちゃうと髪が痛むから……優しく、優しく」コシコシ
花音「髪、巻き込んだりしてない? 痛くない?」
花音「……平気? そっか、よかった。それじゃあ、頭全体を撫でる様にして……」コシコシ
花音「なでなで……なでなで~……」コシコシ
花音「……こんな感じ、かな。うん」
花音「どう? 少しはさっぱり出来た?」
花音「……ん、そっか。それならよかった。えへへ」
花音「それじゃあ次は背中だね。……あ、こーら。遠慮なんてしちゃダメですよ~?」
花音「大丈夫。私に全部任せてね。痛いことなんて何もないよ。辛いことなんて何もないよ。だから……ね?」
花音「……そうそう。素直ないい子だね。いい子いい子……」
花音「さぁ、背中も流すよー?」シャァァ……
……………………
――ダイニング――
――ガチャ
花音「あ、お風呂あがったんだね。さっぱり出来た?」
花音「……そっか。よかった。さ、そうしたら一緒にご飯食べよ?」
花音「ご飯を食べないと、頑張るための元気が出てこないからね。たくさん食べなきゃダメだよ?」
花音「ほら、私の隣に座って?」
花音「……え? どうして、って……あなたに食べさせるためだけど?」
花音「照れくさいからそれはちょっと? もぅ、そんな遠慮をしちゃいけませんよー?」
花音「はい、いい子だから……おいで?」
花音「……そう。ちゃんと言うことが聞けたね。えらいえらい」
花音「それじゃあ、何が食べたいかな?」
花音「すごく疲れてそうだったから、今日はさっぱりしたものをたくさん用意したよ」
花音「好きだもんね、さっぱりした食べ物。大丈夫、あなたのことなら私はなんでも知ってるからね?」
花音「私の前では何にも気にしないでいいんだよ。あなたが望むことだって分かっちゃうんだから、遠慮する必要もないし、気を張る必要もないんだよ?」
花音「……うん、それじゃあまずお豆腐だね」
花音「もみじおろし、ちょっとかけるよね? うん、大丈夫。ちゃーんと分かってるからね~?」
花音「それじゃ、はい。あーん」
花音「……どうしたのかなぁ? お口あーん出来ないのかな? まだちょっと恥ずかしがり屋さんなのかな?」
花音「大丈夫だよ。ここでなら誰もあなたのことを責めないんだよ。誰もあなたのことを傷付けないんだよ」
花音「だから、ほら……あーん、出来るかな? 出来るよね? ……ね?」
花音「……そう。いい子いい子」
花音「はい、あーん……」
花音「……おいしい? そっか、よかった。ふふっ」
花音「ううん、何でもないよ。それじゃあ次は何がいいかな? お豆腐のハンバーグ? それとも大根の和風サラダ? それよりも身体が温まる卵としいたけのスープの方がいいかな?」
花音「あ、急かしちゃってごめんね? ううん、今のは私が悪かったよ。ごめんね?」
花音「ゆっくりでいいよ。あなたが食べたいもの、あなたがして欲しいこと、ちゃんと言えるまでずっと待っててあげるから」
花音「時間とか、そういうのは何も気にしないでいいんだよ。私と一緒にいる時は、あなたの好きなペースでいていいんだよ。私はいつだってちゃんと隣にいるからね?」
花音「…………」
花音「……うん、スープだね。分かったよ。熱いから火傷しないように……」
花音「ふー、ふー……」
花音「……はい、あーん」
花音「大丈夫? 熱くなかった?」
花音「……ちょうどいい? そっか、ふふ。それじゃあ次は……しいたけとネギ、卵もしっかり掬って……」
花音「ふー、ふー……」
花音「はい、あーん」
花音「……上手にあーんできたね。えらいえらい」
花音「……次はハンバーグ? うん、分かったよ」
花音「ううん、気にしないでいいんだよ。私が好きでやってることだから」
花音「ここでなら、私になら、どんどんワガママを言っていいんだから。……ね?」
……………………
――寝室――
花音「疲れた時は早く寝るのが一番だよね。温かいお風呂に入って、温かいご飯を食べて、温かいお布団に入って……」ゴソゴソ
花音「……うん? どうかしたの?」
花音「え? 何をって……添い寝、だけど?」
花音「……こーら。さっきも言ったよね? 私には遠慮なんかしないでいいし、ワガママを言っていいんだよ?」
花音「辛い時はね、疲れた時はね、人肌に触れるのが一番効果的だってテレビで言ってたよ」
花音「だから添い寝だよ。嫌なことも辛いことも、今晩はぜーんぶ忘れちゃお?」
花音「……それとも、私とじゃ……イヤ、かな?」
花音「……そっか、心臓がどきどきして眠れなくなるくらい、嬉しいんだ。ふふ、そっかそっか。えへへ……」
花音「ううん、何でもないよ。それじゃあ、お邪魔しまーす」ゴソゴソゴソ
花音「……えへへ、温かいね」
花音「今年の春はまだ朝と夜が冷え込むもんね。あなたはどう? 寒くない?」
花音「……そっか、ちょうどいい温かさなんだ。よかった」
花音「でも……もっとこっちに来ていいんだよ? 私に背を向けないで、ぎゅーって抱き着いてきてもいいんだよ?」
花音「……そうすると本当に眠れなくなる? ふふ……大丈夫だよー。そうしたら、あなたが眠れるまで、眠くなるまで、ずっと背中をポンポンしたり、頭をなでなでしててあげるから」
花音「ね? だから……こっちにおいで?」
花音「……そうそう、いい子だね。ちゃんとこっちに向けたね。えらいえらい」ナデナデ
花音「あれ? お顔がちょっと赤いね? ……それは熱いせい? そっか。あなたがそう言うならきっとそうなんだろうね」
花音「ふふ、ごめんね? あなたがすごく可愛いからちょっとからかいたくなっちゃった」
花音「うん、ごめんごめん。大丈夫だよ、あなたが嫌がることなんて何もしないから」ギュッ
花音「大人しくギュってされたね。ちゃんと素直になれたね。いい子、いい子……」ナデナデ
花音「毎日毎日、お疲れ様。大変だよね。色んなことがあるもんね。でも、あなたはとっても頑張ってるんだよね」
花音「辛いことがあっても、嫌なことがあっても、ちゃんと頑張ってきたもんね。えらいえらい。大丈夫だよ。私はちゃんと、あなたがすっごく頑張ってること知ってるよ」
花音「誰にも理解されないなんてことはないんだよ。私はちゃーんと知ってるんだよ。だから安心してね? あなたのことをちゃんと分かってる人はいるんだから」ナデナデ
花音「んっ……急にギュってしてきたね?」
花音「ううん、責めてなんかいないよ。謝らないで? ここにはあなたの嫌いなものはないんだから。好きなだけ私の胸の中で甘えていいんだよ」
花音「……うん。大丈夫。大丈夫だよ。あなたが幸せな夢を見れるまで、私はずーっとずーっと、あなたのことをぎゅーってしてるからね」
花音「それだけじゃ足りないなら髪も撫でるし……」ナデナデ
花音「あなたが安心できるまで、背中をぽんぽんしててあげるから」ポンポン
花音「どっちをしてて欲しい? ……どっちもしてて欲しいの? ふふ、甘えん坊さんですねー?」
花音「ううん、いいんだよ。私は甘えん坊さんなあなたも、いつもすっごく頑張ってるあなたも、私を気遣ってくれる優しいあなたも、全部全部大好きなんだから」ナデナデ
花音「何があったって、あなたを嫌いになるなんてことはないからね?」ポンポン
花音「だから、私の前ではいいんだよ。無理をしないでいいんだ。カッコつけなくたっていいの。素直に甘えちゃっていいんだよ」ナデナデ
花音「大丈夫だよ。いいんだよ。あなたは毎日とっても頑張ってるんだから。えらいえらい」ポンポン
花音「もっともっとぎゅーってくっついていいんだよ。泣いたっていいんだよ。弱音を吐いたっていいんだよ」ナデナデ
花音「嫌なことは全部、忘れちゃおうね。大丈夫だよ。私の前でなら、子供みたいにワガママを言ったっていいんだよ」ポンポン
花音「大丈夫、大丈夫……」ナデナデ
花音「いい子、いい子……」ポンポン
花音「……もうおねむかな? いいよ、おねむなら寝ちゃおう」ナデナデ
花音「大丈夫だよ。眠っても、私は傍にいるよ」ポンポン
花音「大丈夫。ずっと、ずっと隣にいるから」ナデナデ
花音「今晩は目いっぱい休んで、また明日から頑張ろ? ね?」ポンポン
花音「また辛くなったら、疲れちゃったら、私がいるからね?」ナデナデ
花音「うん。いい子いい子。えらいえらい」ポンポン
花音「……うん、それじゃあ……おやすみなさい」ナデナデ
花音「幸せな夢を見て、たくさん癒されてね」ポンポン
花音「私はいつだってここにいるから……ね?」
――――――――――
―――――――
――――
……
――芸能事務所 倉庫――
大和麻弥(始まりはなんでもないことでした)
麻弥(予定されていたジブンの仕事が急遽延期になって、事務所にいてもやることがなかったんです)
麻弥(パスパレのみなさんは他の仕事ですし、手持無沙汰だったんです)
麻弥(だから、慌ただしく事務所の掃除をしていたスタッフさんに、軽い気持ちで言ったんです)
麻弥「ジブン、やることないんで何か手伝いましょうか?」
麻弥(……と)
麻弥(最初こそ「アイドルにそんなことをさせる訳には……」と言っていたスタッフさんですが、猫の手も借りたいような状況だったらしく、一番簡単に終わる、事務所の倉庫の整理をお願いされました)
麻弥(倉庫には昔使った舞台衣装や台本なんかが乱雑に置かれていて、それを種類別に整理整頓することがジブンのミッションでした)
麻弥(こういうことは学校の演劇部でもやり慣れていますし、別に大した苦労もなく作業は終わりました)
麻弥(けど、乱雑に積まれた台本の中に1冊だけ、やけに埃を被っていないものを見つけてしまったのが……多分、運の尽きだったんだと思います)
麻弥「なんだろう、これ……」
麻弥(表紙も背表紙にも何も書かれていない水色の台本。ジブンはなんとはなしに、それを開き、そして言葉を失いました)
麻弥(そこには、ある特定の人物とデートしたりだとか、姉妹になったりだとか、とことん甘やかされたりだとか……そんなシチュエーションが非常に多岐に渡って書き込まれていました)
麻弥(効果音の指定や演技指導まで事細かに但し書きがされていました)
麻弥(……そして、この台本の主役となるだろう人物や、書き込まれた字、脇に書かれたおどろおどろしいウサギやハートの絵に、どこか見覚えや心当たりがありました)
麻弥「まさか、そんな……」
麻弥(これ以上見てはダメだ。そう理性がジブンに語りかけますが、しかし、怖いもの見たさという本能は本当に恐ろしいものです)
麻弥(……何故なら、背後で倉庫の扉が開いた音にも、ジブンに忍び寄る足音にも気付かないくらい、その本を覗き込んでしまっていたのですから)
???「麻弥、ちゃん?」
麻弥「ヒッ……!?」
麻弥(氷のような温度の言葉が背中に突き刺さりました)
麻弥(マズイ、逃げなければ。そう思ったけれど、ジブンの身体は先ほどの言葉によって身動きが出来ないほど固まってしまって、それが出来ませんでした)
???「その手にあるのは……そう。それを見てしまったのね。ふふ、仕方ない麻弥ちゃんね……ふふ、ふふふ……」
麻弥(聞き覚えのある声でした。けど、脳が理解することを、推測することを拒みました。本能が、それ以上考えたら死ぬぞと警鐘を打ち鳴らしていました)
???「知られてしまった以上、ただで帰す訳にはいかないわね。……さぁ、こっちへいらっしゃい?」
麻弥「ひっ、ひっ……!!」
麻弥(ジブンの肩に手が置かれて、振り返るとそこには、悪魔の笑みがあって――)
麻弥(――次に気が付いた時には、いつもの会議室の椅子に座っていました)
麻弥(辺りを見回すと、千聖さんが何かの雑誌を読んでいる姿が目に入りました)
白鷺千聖「あら? おはよう麻弥ちゃん」
麻弥「え、あ、は、はい……おはようございます……?」
麻弥(千聖さんはジブンの視線に気付くと、雑誌を閉じて穏やかな微笑みをこちらへ向けてきました。それに曖昧な挨拶を返します)
千聖「麻弥ちゃん、さっきから椅子に座ったまま眠っていたわよ?」
麻弥「えっ、そ、そうだったんですか?」
千聖「ええ。私が来てから15分くらいしか経ってないけど……でも、うなされていたわ。もしかして疲れてるんじゃないかしら?」
麻弥「あ……えーっと……」
千聖「……それとも」
麻弥(なんてことない千聖さんの言葉と笑顔。それが何故だか急にスッと熱を失って、ジブンの喉元に突き付けられた気がしました)
千聖「なにか、怖い夢でも見ていたのかしらね……麻弥ちゃん?」
麻弥「い、い、いえ! た、多分昨日遅くまでライブの動画を見てたせいで疲れてたんだと思います!!」
麻弥(理性と本能が同じことを伝えてきます。『何も思い出すな。何も考えるな』と。だからジブンは迷わずそれに従いました)
千聖「……そう。駄目よ、麻弥ちゃん。好きなのは分かるけど、体調管理も仕事の一環なんだから」
麻弥「は、はい、以後気をつけます!!」
千聖「そんなに畏まらなくてもいいのに。おかしな麻弥ちゃんね、ふふ……」
麻弥(千聖さんはそう言って笑いました。それは、いつもの笑顔と言葉でした)
麻弥(だからジブンはジブンに言い聞かせました)
麻弥(今日は事務所の倉庫の整理なんてしていない)
麻弥(千聖さんの言う通り、仕事が延期になって手持無沙汰のジブンは、疲れから会議室でうたた寝してしまっていたんだ)
麻弥(それ以上もそれ以下もないんだ……と)
千聖「ふふふ……うふふふ……」
おわり
バックステージパス2のかのちゃん先生が自分の中の何かに火をともしました。
そんな話でした。全体的にごめんなさい。
氷川紗夜「ある夏の日の話」
高校三年生の夏は想像以上の忙しさだった。
蝉の大合唱をBGMに照り付けられたアスファルトを踏みしめながら、私は人生で十八回目のこの夏の記憶を掘り起こす。
まず第一に、受験勉強。
私には明確な将来の目標がなかった。双子の妹である日菜のように、アイドルとして天下を取るだなんていう崇高な、ともすれば酔狂とも表現される夢というものがなかった。頭の内にあるのは、人並みの仕事に就いて人並みに幸せでいること。それだけだった。
だから、担任の先生から勧められた国立大学を目指すことにして、日々勉学に勤しんでいる。
次に、ロゼリアのこと。
私たちの音楽に言い訳はない。ある程度の考慮はするけれど、やるからには徹底的にやりきるのが私たちのやり方だ。ロゼリアというバンドが頂点を目指すと決めた以上、妥協は許さず、私たちの音をとことん追求している。
高校最後の夏休みだってそれに変わりはない。気の置けない親友たちと共に、日々練習やライブに精力的に取り組んでいる。
それから、風紀委員の仕事。
学年も一番上になって、私は風紀委員長になった。当然それだけ責任も仕事も増す。それと、生徒会長になった白金さんが困っていればそれを放ってはおけないから、生徒会の仕事も少し手伝うようになった。
ただ、今は八月の半ば。夏休み期間中は特にやることもないので、現状ではこれに割く時間は少ない。
この三つが交互に入れ替わり、時には一緒になってやってくる夏の日々。確かに忙しいは忙しいけれど、それでも私は毎日が充実していると感じていた。この日常を楽しいと思っていた。
けれど、往々にしてそういう時こそ自分自身の体調を気にするべきだという思いがある。
弓の弦と一緒で、常に張りつめていたのであれば、いずれ緩みきって矢を放てなくなってしまう。もしくは引きちぎれて、使い物にならなくなってしまうかもしれない。
大切なのはメリハリだ。やる時は全力で物事に取り組む。そして、休む時はしっかり休む。何事もそういう緩急が大切なのだと私は常日頃から思っている。
ここ一週間は塾やスタジオに入り詰めで、ずっと肩に力を入れてきた。だから今日一日はしっかりと休み、また明日からの英気を養う日だと決めてある。であれば徹底的に気を休めるのが今日という日の正しい在り方だし、そのためにはまず落ち着ける場所に行くことが大切なのだ。
そんな言い訳じみたことを頭に浮かべながら、私は茹だる炎天下の中、商店街に足を運んでいた。
◆
もう目を瞑っていてもたどり着けるのではないか、というほどに歩き慣れた道を往き、商店街のアーチをくぐる。通りにはいつもよりも人が多く、左右の軒先を見渡してみると、お店の人や街行く人も、どこか活気に溢れているような気がした。
それらの人々を横目にまっすぐ歩き、北沢精肉店のある十字路を超えるとすぐに目当ての場所が目に付いた。私は迷わずにそこへ向かいお店のドアを開く。
カランコロン、とドアに付けられた鈴の音。それから、いつもの明るい「いらっしゃいませ」の声に出迎えられる。
「あっ、紗夜さん。こんにちはっ」
「ええ。こんにちは、羽沢さん」
続いた挨拶がどことなく嬉しそうに聞こえたのは、きっと自分の自惚れと勉強疲れのせいだろう。そう思いながら、朗らかな笑顔を浮かべて出迎えてくれた羽沢さんに、私は会釈と挨拶を返した。
「ご案内しますね」
「はい」
エプロンをつけた羽沢さんは、私を先導してぱたぱたと軽い足取りで空いている席へ向かう。その姿をぼんやり眺めながら後に着いていくと、言葉にするのが少し難しい気持ちが胸中に訪れる。
それは意識的に無視しつつ、「こちらへどうぞ」と案内された席へ腰を下ろす。そんな私を見て、羽沢さんはまたニコリと微笑んだ。
「今日は塾もバンドもお休みなんですか?」
「ええ。先週は毎日どちらかの予定が入っていましたけど、今日はお休みです」
「そうなんですね。いつもお疲れさまです、紗夜さん」
「いえ、羽沢さんこそ」
軽く手を振って言葉を返すと、羽沢さんはどこか照れたようにはにかんだ。その表情を見て、肩に入っていた余計な力や身体の奥底に溜まっていた疲れというものがスッと抜けるような感覚がした。
(……私はここへ何をしに来ているのかしらね)
そんな軽い自嘲で自分の本心には目をやらないようにしつつ、メニューを手に取る。
「お決まりですか?」
「そうね……」
頼むものは実はもう決まっていた。けれど私は迷うような素振りをして、メニューの上に目を滑らせる。どうしてそんなことをするのか、という自問がまた頭をもたげるけれど、「ふむ……」なんてわざとらしい呟きでそれも押し殺すことにした。
「すいませーん」
と、そうしているうちに、二つ隣のテーブルから羽沢さんに声がかけられる。
「あっ、はい。少々お待ちください。……ごめんなさい、他のお客さんに呼ばれちゃったので……」
「私のことは気にしないで。ゆっくり考えていますから」
「すいません。……お伺いしまーす!」
ぺこりと頭を下げて、羽沢さんはパタパタと呼ばれた席へ向かう。その後ろ姿を見送りながら、本当に私は何をしているんだろうか、と呆れたように苦笑した。
◆
「はい、ご注文の紅茶とチーズケーキ、お持ちしました」
「ええ、ありがとう」
私の元へ戻ってきた羽沢さんに注文を伝えて、それからフロアを忙しなく動き回る彼女の姿を目で追っていると、思ったよりもすぐに頼んだものが運ばれてきた。恭しくテーブルにカップの乗ったソーサーとお皿を置く羽沢さんにお礼を言ってから、私は改めて店内を見回す。
お店の壁にかけられた時計は午後二時を少し回ったところ。この時間なら空いているだろうと思って来たのだが、どうやら今日はお客さんが多いようだ。
「すいません、忙しい時間に」
「い、いえいえ! いつもこの時間はそんなに忙しくないんですけど、その、偶然お客さんが重なっただけなので!」
慌てたように手を振りながら、羽沢さんは言葉を続ける。
「それに、ちょうど紗夜さんと入れ替わりでほとんどの方が帰ったので……今はもう暇ですから」
「そうですか」
それは良かった、と返そうとして、その返答は色々な意味でどうかと思い口を閉ざす。けれどこれだけだと何か羽沢さんを邪険にしているようにも聞こえる気がしたので、私は急いで頭の中で続く言葉を探した。すぐに当たり障りのない話題を見つけたから、それを手早く言葉にする。
「そういえば、今日はなんだか商店街が活気づいていますね」
「あ、そうなんです。実は明後日にお祭りがあるんですよ」
「お祭り……ああ、そういえば日菜が何か言っていたわね」
商店街にほど近い、花咲川のとある神社で行われるお祭り。あたしはパスパレの仕事で行けないんだ~、というようなことをさして残念とも思っていないような様子で話していた、先月の日菜の姿を思い出す。
「花火が綺麗……らしいわね」
「はい。私も去年はアフターグロウのみんなと行ったんですけど、本当にすごく綺麗で……」
羽沢さんは私の注文の品を乗せていた丸いトレーを胸に抱いて、どこかうっとりした様子で目を閉じる。きっとそのとても綺麗だった花火を脳裏に呼び起こしているのだろう。
そんな彼女の様子を眺めながら、私も頭の中に色とりどりの鮮やかな花火を思い描いてみる。
人のあまりいない神社の境内の隅で、夜空に目を向ける。しばらくシンとした夏の夜の空気が漂うけれど、すぐに遠くから明るい光が打ちあがり、やがて轟音とともに大きな火の花が咲く。それをしみじみ眺めている私。そしてその隣には、目を輝かせた羽沢さんがいて――
と、そこまで考えて気恥しくなったから、私は小さく咳ばらいをした。
どうして花火を見上げるところを想像したのに羽沢さんのことまで鮮明に思い描いたのか。まったく、やっぱり私は勉強疲れでどうにかしているのかもしれない。
「羽沢さんは今年もアフターグロウのみなさんと行くんですか?」
誤魔化すように羽沢さんに言葉をかける。
「……いえ、今年はみんな予定が入っちゃってるみたいで……私は何にもないんですけどね。でも一人で見に行くのもなぁって感じです」
彼女は残念そうに肩を落としながら言葉を返してくれる。その顔には寂しげな表情が浮かんでいて、そういう顔を見てしまうと、私はどうしようもないくらいにどうしようもないことを考えてしまう癖があるのを最近少しだけ自覚した。
「それなら」
そのどうしようもない思考は私の口をさっさと開かせてしまう。いけない、と思ってすぐに口を閉ざしたけど、言いかけた言葉はあまりにもはっきりと響きすぎてしまっていて、羽沢さんにはしっかり届いてしまっているようだった。きょとんと首を傾げられ、私は観念したように――あるいは赤裸々な望みを誤魔化すように、わざとらしく大きく息を吸って続きの言葉を吐き出す。
「羽沢さんさえ良かったら、一緒に行きませんか?」
「一緒にって……お祭りに、ですか?」
「ええ。羽沢さんが嫌なら――」
「い、いえ! そんなことないですっ!」
やはり私とでは嫌だったろうか。不安になりながら続けた言葉が、大きな声に遮られる。
羽沢さんは「あっ」と片手で口を押えて、その頬を少し赤くさせた。それは思ったよりも大きな声が出たことを恥ずかしがっているのか、それとも何か別の理由で頬に朱がさしたのか……と、私はまたどうしようもないことを考えてしまった。
「え、えっと、紗夜さんが一緒に行ってくれるなら……はい。私もお祭りに行きたいです」
続けて放たれた言葉の真意を探ろうとして、すぐに止めた。それを考えたって仕方のないことだろう。
「それでは、一緒に行きましょうか」
「は、はいっ」
私の言葉に羽沢さんは大きく頷く。まだその頬には朱の色が淡く残っていた。
◆
お祭りの当日は、午後六時に羽沢珈琲店で待ち合わせだった。羽沢さんは夕方くらいまでお店の手伝いがあるし、私だって遊びに行く分いつも以上に勉強をしなければいけなかったから、ちょうどいい時間だと思っていた。そう、思っていた。
「……思っていたのだけど……ね」
しかし今の私の心境はどうだろうか。
朝、目が覚めてからはよかった。羽沢さんとお祭りに行けるということが私にやる気を与えてくれて、いつも以上に集中して机に向かえていたと思う。けれど、時計の針が中天を指し、そこから段々右回りに落ちていくと、どんどん私は落ち着かなくなってしまっていた。
今の時刻は午後三時前。数式を解く際も、英文を訳す際も、どうにも頭の中に何かがチラついてしまい、集中が出来なくなっている。
私はため息を吐き出して、持っていたシャープペンシルを勉強机の上に放る。そしてもういっそ開き直ってしまおうと、広げていた参考書を片付けた。
(集中できない時に無理をしても効率が悪いわ。今日はもう辞めにしよう)
そんな言い訳じみたことを頭の中で呟いて、部屋に用意しておいた浴衣へ目をやる。羽沢さんは浴衣を着ていくと言っていたから、私も急いで準備したものだ。
ゆっくりとその深い紺色をした浴衣に近づいて手を触れる。綿麻生地の触り心地が妙にくすぐったくて、私は余計に落ち着かなくなってしまった。
今の時刻は午後三時を少し過ぎたころ。羽沢珈琲店までは歩いてニ十分ほどだから、まだまだ準備をするには早すぎる。
だというのに、気付けば私は浴衣を手に持って、洗面所へ向かっていた。
午後六時の商店街はいつもとまったく違う様相を呈している。
至るところに提灯が下げられ、行き交う人々はほとんどが和を装い、夏の斜陽に長い影を作る。設けられたスピーカーからは賑やかなお囃子が流されて、それに合わせてご機嫌な足音を奏でる子供たちが駆けていった。
その中を、紺色の浴衣を纏った私は、目的地へ向けて下駄をカランコロンと転がしながら歩く。
やっぱり落ち着かない気分だった。それは普段は着ない浴衣を纏っているせいなのか、履き慣れない下駄を履いているせいなのか、珍しく頭の後ろで髪をお団子に結んだせいなのか、その全部のせいなのか。
そよ風が吹き、私のうなじを撫でていく。ほどよく温い、夏の風だ。
それにますます落ち着かない気分になる。そうしてそわそわしながら歩いていると、すぐに羽沢珈琲店が見えてきた。そして、その軒先に立つ浴衣の少女が目についた。
淡い水色の浴衣。両手で持った白を基調とした花柄の巾着袋。そして、やや俯きがちで、どこかそわそわしているような表情。
ああ、羽沢さんも私と同じなのかもしれないな。
そう思うと私の胸中は喜びによく似た感情の色で塗りたくられる。けれどそれが正確には何色なのかということは気にしないようにして、私は足早に彼女へ歩み寄っていく。
「すいません。お待たせしました、羽沢さん」
「あ、紗夜さん! いえいえ、こちらこそわざわざウチにまで来てもらっちゃって……」
声をかけると、淡い水色の上に艶やかな笑顔がパッと花開く。それを見て、多分私も同じように笑った。
それからお互いの浴衣姿を褒め合い、それに気恥しさとこそばゆさが混じった気持ちになりながら、私と羽沢さんは神社を目指す。
日暮れて連れあう街に、蝉時雨が降りそそいでいた。
ひぐらしの寂しげな声も、街ゆく人々の笑顔も、拳三つ分ほど離れて並ぶ羽沢さんも、全部がとても綺麗だな、なんて思いながら、私は羽沢さんと肩を並べて歩き続ける。
◆
神社の参道は多くの人で混雑していた。
境内へと続く参道の両脇には色々な屋台が幟を立てていて、それらから威勢のいい声が上がる。それが行き交う人々の喧騒と混ざり合う。なるほど、こういったことにあまり興味がない私ですら「花火が綺麗」だと知っているのだから、それほどこの花火大会は有名なんだろう。
羽沢さんとはぐれないようにしなくては、と思い、すぐに浮かんだ選択肢が『手を繋ぐ』というものだった。私は慌てて頭を振る。
「ど、どうかしたんですか?」
「いいえ、なにも。予想以上に人が多くて少し驚いただけですよ」
何を考えているんだ、と思いながら、私は羽沢さんに言葉を返す。
「そうですね……ここの花火って結構有名みたいですから。去年も人がたくさんいて、みんなとはぐれないようにするのが大変でした」
「私たちも気を付けましょう」
「はいっ」
そう言って、羽沢さんが拳一つ分、私との距離を縮める。それがまた私の中のおかしな感情を刺激してくるけど、努めて気にしないようにする。
「まずは……どうしましょう、紗夜さん」
「そうね。色々な屋台が出ているし、少し見て回りましょうか」
「分かりました」
こくんと頷き、羽沢さんは笑顔を浮かべる。それを見て私も笑った。
人混みをかき分けて、私たちは参道に連なる屋台を覗いて回る。
屋台は食べ物を出しているところが多かった。かき氷に綿菓子、焼きそばにお好み焼き……それぞれの屋台に近付く度に、夕風に乗って、夏の匂いと種々様々の食べ物の匂いが運ばれてくる。
少しお腹が減ってきたな、と思ったところで、「くぅ」という可愛らしい音が隣から聞こえてきた。羽沢さんを見ると、彼女は顔を赤らめながら、照れ笑いを浮かべていた。
「あ、あはは……その、お祭りで食べるかなって思って、お昼あんまり食べなかったので……」
「……ええ、その気持ちは分かるわ。私もあまりお昼は食べなかったから。何か食べましょうか」
「はい……」
お腹の音が相当恥ずかしかったのか、赤い顔と肩を落とす羽沢さん。その様子を見て、胸中には若干の申し訳なさと大きな慈しみが混ざったような感情が沸き起こった。私はこみ上げてくる穏やかな笑い声を喉の奥に押し止めながら、「何か食べたいものはありますか?」と尋ねる。
「えっと、その……たこ焼き、ですかね……」
羽沢さんは近くの屋台をチラリと見やる。そこには「たこ焼き」と書かれた赤い幟が立っていた。確かにそこからはソースのいい匂いがふわりと漂ってきていて、それのせいで羽沢さんのお腹の虫は元気よく鳴いてしまったのだろう。
「分かりました。……ふふっ」
なんだか今日の羽沢さんは一段と幼げだな……なんてことを考えていたら、とうとう押し殺しておいた笑い声が口から漏れてしまう。羽沢さんはそれを聞いて、勢いよく私の方へ赤くなった顔を向けてきた。
「さ、紗夜さんっ」
「ご、ごめんなさい……でも……ふふふ……」
謝るけれど、一度口から出してしまうと止まらなかった。申し訳なさと慈しみ、それと何か自分自身では計り難い気持ちのこもった笑い声が喧騒に溶けていく。「もう……」と羽沢さんはちょっとだけ拗ねたように口を尖らせて、それがやっぱりとても可愛らしく思えてしまう。
「ふぅ……。すいません、羽沢さん。思わず笑ってしまって」
そのいろんな感情が織り交ざった笑いもどうにか収まったころ、私は改めて羽沢さんに謝罪をする。
「……別にいいですよ? 紗夜さんが楽しそうで私も嬉しいですから?」
「……ふ、ふっ……」
けれど、また拗ねたような口ぶりでそんなことを言われてしまい、私の口からはやっぱり先ほどと同じものが漏れてしまった。
「紗夜さんっ!」
「ごめんなさい……一度ツボに入るとどうしても……ふふふ……」
「もう……くすっ」
「羽沢さんだって笑ってるじゃないですか」
「それは紗夜さんのせいですっ」
「ふふ……確かにそうね。それでは、お詫びと言ってはなんですが、たこ焼きは奢りますよ」
いつもよりもずっと子供っぽい羽沢さんの様子を見て、私は気付けばそんなことを言っていた。普段の姿とのギャップというものもあるのだろうけど、そういう姿を見ると、どうしても私は彼女を甘やかしたくなってしまうらしい。
「そ、それはちょっと悪いですよ」
「いえ、笑ってしまったのは私ですから」
「…………」
羽沢さんは少し真面目な顔をして、何かを考えこむように口元へ手を当てる。
「……分かりました。それじゃあ、こうしませんか? たこ焼きとか、分けられるものは一つだけ買って、二人だけ分け合う……っていう風に」
「一つを分け合う……」
「はい。あっ、も、もちろん紗夜さんが嫌じゃなければです!」
慌てたように言葉が付け足される。私もその答えを考える振りをして、それっぽく右手を口元に持っていく。
だけど、羽沢さんのその提案に対する答えはとっくに出ていた。彼女と同じものを食べることに抵抗はないし、私を気遣っての言葉だ。それを嬉しく思えど、嫌がって断る理由はない。
ではどうして考える振りをしてまで口元を隠したのか、と問われれば……つまりそういうことだ。
「そうですね。羽沢さんの言う通りにしましょう」
やおらに緩みそうな頬をどうにか抑えて、私は真面目くさってそう答える。
「は、はいっ! ありがとうございます!」
羽沢さんは飛び跳ねるようにお礼を返してくれる。それに「お礼を言うのは私の方よ」と言おうとして、ちょっと迷ってからやめた。
「いいえ。その方が色々なものをたくさん食べられますからね」
代わりに口から出た照れ隠しの言葉は、彼女にどう届いただろうか。
また少し頬を赤くさせては拗ねたようにしながら、それでも楽しそうに「えへへ」と笑った羽沢さん。
その笑顔の真意を推し量ろうとするより早く、私はたこ焼きの屋台へ足を向けた。
それから私たちは色々な屋台をめぐり、様々なものを二人で分け合った。たこ焼きのあとは焼きそばを、焼きそばのあとはかき氷を、という風に。
個数で分かれているたこ焼きはともかくとして、焼きそばとかき氷はそうやって食べるものではないと思ったけど、お祭りの空気というものはそういう些末なことを気にさせなくする作用があるらしい。普段であれば照れくさくて出来ないことも平然とやれるし、そのときどきの自分の本心を探るようなこともしなかった。
だから私は何も考えずに笑えていたし、羽沢さんもおそらく同じような思いで笑顔を浮かべていてくれたと思う。
そうしているうちに夜の帳が街に下りる。東の方から幾分かの星が瞬く黒い空がやってくる。
時計の針が指し示す時刻は午後八時前。もうそろそろ花火の打ち上がる時間だった。
私は羽沢さんと連れ立って、相変わらず人の多い参道の端で、言葉も少なく夜空を見上げていた。
人の数は私たちがここへやって来た時からますます増えているように見受けられる。だけど、その喧騒はどこか落ち着きを持ったように思えた。
時おり吹き抜ける夜風に鎮守の森がささめく。その音がやたらとはっきり聞こえるような気がした。夜空に浮かぶ月はどこか朧げで、もしかしたら明日は雨でも降るのかもしれない。
「もうすぐですね……」
隣に並ぶ羽沢さんが夜の空気を震わせる。その小さな声も朧げな形をしているのに、はっきりとした輪郭を持って私の耳を打った。
「……ええ、そうね」
その余韻を楽しむように、少し間を置いてから声を返す。羽沢さんにこの声はどう届いただろうか、と考えて、私と同じように届いていたら嬉しいな、なんて思ってしまう。
「…………」
「…………」
それきり無言で、私たちは夜空へ目を向ける。いつ上がるかという正確な時間は分からないけれど、やがて打ち上がる花火を待つ。
二人で何もない夜空を見上げる時間。その長さがどれくらいのものだったかは曖昧だ。もしかしたら五分、十分とこのままでいたかもしれないし、あるいは三十秒にも満たなかったのかもしれない。でも、そんなことはきっとどうでもよかった。
私は、この時間がただ嬉しかった。隣に羽沢さんがいて、同じ時間を、きっと同じ気持ちで共有しているだろうことが楽しかった。だから長さなんてどうでもいい。この時間に何ものにも代えられない価値があるというだけでいいんだ、と、いつもより大分素直にそう思っていた。
そんなことを考えていると、夜空に一筋の光が伸びる。それは遠い空の高い場所までまっすぐ昇っていき、パッと弾けて、花を開かせた。遅れて、ドン、という轟音が私のお腹の底まで響く。それを皮切りにして、次々と光の筋が空へ昇っていった。
花咲川に花火が咲く。色鮮やかな火の花の数々を、地球が落とした暗幕の上に描いては消し、消しては描いていく。
しばらくその光に圧倒されるよう見入っていたけれど、私はふと思い立ったように視線を落とす。
参道にいる人々はみんな夜空を見つめていた。拳一つ分の距離を置いて隣に並ぶ羽沢さんも、うっとりと夜空を見つめていた。
手を動かすだけで届く距離の横顔が、花火の光に淡く照らされている。それがなにかとても尊いものに見えてしまって、私は視線が動かせなくなる。
身体を震わす轟音と、夏の緑の匂いに混じった僅かな硝煙の香り。
人々の喧騒が別世界の出来事のように遠く感じられて、今この世界には、この一瞬だけを切り取った私と羽沢さん以外に誰も人がいないような錯覚をおぼえてしまう。
不意に羽沢さんも夜空から視線を落とす。そして、私の方へ顔を向けた。
視線と視線がぶつかり合う。「どうしたんですか?」という風に、綺麗な光に彩られた顔を傾げられて、私は急に照れくさくなってしまった。「なんでもありませんよ」と言葉にしないで首を振り、再び夜空に視線を戻す。
どこまでも広がる黒い空。そこに爆ぜる色とりどりの光の花たちはやっぱりとても綺麗で、感嘆のため息を吐き出す。
叶うのならば、ずっとこのままでいたい。
普段であれば、目を逸らして見ない振りをする気持ち。だけど、これをすんなりと受け入れてしまおうと思えるくらいに花火たちは煌びやかだった。
だから、この一瞬を切り取った世界を、羽沢さんとの距離を、私はきっとずっと忘れることがないだろうと思った。
◆
物事の終わりというものには常に寂しさが付き纏うもので、特に賑やかで楽しい時間が終わったあとは殊更強くそう感じてしまう。
花火はもう打ち上がり終わって、参道に並んだ屋台も全部が片付けに入っていた。あれほどごった返していた人ごみも気が付けば散り散りになっていて、惚けたように花火の余韻を噛みしめていた私と羽沢さんだけが、この風景から浮き彫りにされたような感覚がする。
夜空に静寂が訪れてから、私は何も言葉にしなかった。
この時間を終わらせてしまうのが名残惜しい。何かを話してしまえば、今日という時間が終わり、もう二度と手の届かないものになってしまうような気がしてしまっていた。
羽沢さんはどうなんだろうと思い、視線を隣に並ぶ彼女へ向ける。すると、同時に私の方へ顔を向けた羽沢さんと目が合う。
しばらく無言で見つめ合って、それからどちらともなく吹き出した。
歓楽極まりて哀情多し、とはこのことだろう。楽しかった思い出があるからこそ、終わる時にこんなにも寂しい気持ちになるのだ。ならばこの寂寥は決して悪いものではない。
それにこの時間が終わったとして、羽沢さんと私の関係が今日ここで途絶える訳でもないのだ。
「帰りましょうか」
「……はい」
ふぅ、と小さく息を吐いてから、羽沢さんにそう声をかける。彼女は何かを噛みしめるように頷いた。それにまた私は何とも言い難い気持ちになったけれど、今はそんなことは気にしない。
「羽沢さん」だからその気持ちに少しだけ従って、私は言葉を続ける。「一応、私の方が先輩なので……家まで送りますね」
「…………」
羽沢さんはそれを聞いて、何かを考える様に少し俯いてから顔を上げて、私の顔を真正面から見つめる。その顔には、お祭りを楽しんでいた時のような、いつもよりあどけない表情が浮かんでいた。
「……紗夜さんが遠回りになっちゃいますけど……お願いします」
そして思っていたよりずっとすんなりと羽沢さんは頷く。それにどうしてか少し嬉しくなりながら、私は羽沢さんと並んで歩きだす。
拳一つ分ほどの距離で連れ合う帰り道。そこに響くのは虫たちの声ばかりで、相変わらず言葉は少なかった。
だけど、会話を交わすよりもずっと雄弁に、私たちは何かを語り合っているような気持ちでいたと思う。羽沢さんはどうか分からないけれど、少なくとも私はそうだった。
浴衣を褒め合ったことも、屋台でいろんなものを一緒に食べたことも、並んで花火を見上げたことも、それらの余韻も……全てを言葉に頼らずに共有出来ていることが、この上なく嬉しい。
カランコロン、カランコロンと、二人で下駄を鳴らす帰り道。今の私たちが発するのは、きっとこの音だけでいいんだろう。
そうして静謐な気持ちを抱いて辿る家路は、往路よりもずっとずっと短い。私たちはあっという間に羽沢珈琲店に着いてしまった。
「すいません、わざわざ送ってもらっちゃって」
「いいえ。年長者として当たり前のことです」
軒先で向かい合って、そんな言葉を交わし合う。それからまた、私たちの間に静寂が訪れた。
次に放つ言葉は「さようなら」だろう。それが分かっているからこそ、私は別れの寂しさを胸中で燻らせてしまい、口を開けなくなってしまう。
羽沢さんはどうだろうか、と彼女の様子をうかがえば、少し顔を俯かせて、時おり私のことを上目遣いで見やっていた。
もしかしたら羽沢さんも私と同じ気持ちなのかもしれない。ある種の傲慢ともとれる思考が頭に浮かび、私は自身に向けて呆れたように小さなため息を吐き出した。
「今日はありがとうございました」
このままでは埒が明かないな、と思って、口を開く。だけど出てきた言葉は少しでも「さようなら」を遠ざけるためのもので、未練がましい自分をもう一度胸中で自嘲する。
「いえいえ……私の方こそ、今日は誘ってくれてありがとうございました」
「ええ、どういたしまして」
パタパタと手を振った羽沢さんの顔を見ないよう、少しだけ俯く。彼女の顔を見てしまうときっといつまでも別れを切り出せないだろうから、そのまま「それでは、」と口にしてから顔を上げた。
「私はここで」
「あっ……」
そしてそれだけ言って踵を返そうとしたけれど、羽沢さんが何かを言いかけて、私の身体は中途半端に横を向いたところで止まってしまう。
「……どうかしましたか?」
「あ……えっと……な、なんでもないです、えへへ……」
尋ねてみたけど、羽沢さんはもごもごと口を動かしてから、柔らかくはにかんだ。困ったことに、そんな顔を見せられてしまうと胸が温かくなって、余計に別れ難くなる。だけどこのままでは夜が明けるまでずっとこうしていてしまうだろう。
「そうですか。……それでは、羽沢さん。また今度」
私は後ろ髪を引く誘惑を断ち切って、けれども若干の未練を残した言葉を吐き出す。
「はいっ、また今度。帰り道……気を付けてくださいね、紗夜さん」
「ええ、ありがとう」
もう一度羽沢さんに軽く頭を下げて、今度こそ私は背を向けて歩きだす。羽沢珈琲店から離れていく。
商店街の夜道には、まるで私の行く先を示すように盆提灯たちがぶら下がっていた。
お祭りから取り残された彼らが朱色の影絵を作る。それを視界に収めながら、胸中には静かな満足感と、どこかノスタルジック気持ちがあった。
その二つの感情をおもむろに混ぜ合わせて、私はいつもよりずっと素直に考える。羽沢さんと交わし合った「また今度」。その「また今度」の中で、いつか私と彼女の関係が変わるといいな……なんて。
そう思ってからすぐ、どうしようもないことをどうしようもないくらいに考えてしまう捻くれ者の私は、自嘲の織り交ざったため息を夜空に吐き出した。
関係が変わる。それを怖がっているのは私じゃないか。赤裸々な気持ちに蓋をして、いつまでも向き合うことをしないのは、他でもない私だ。
「でも、いつか……」
その先は言葉にしない。心にも思わない。だけど、いつか……とだけ、もう一度胸中で繰り返した。
夏の夜風が頬を撫でていく。その風にはもう硝煙の燻るような香りはないけれど、まだ蒸した緑の匂いがあった。
おわり
コンビニエンス・ファストフード
ありさーやの場合
控えめな雨音が窓から忍び込んでくる自分の部屋。ベッドを背もたれにして、畳の上に腰を下ろす私と、同じように畳の上に座って僅かに身体を預けてくる右隣の沙綾。
特に何をするでもなく、私たちはぼんやりとしていた。
沙綾が身じろぎをすると、柔らかいポニーテールがふわりと揺れて、時たま私の首筋をくすぐった。それがちょっと気持ちいいな、と思うくらいで、特筆することは他に何もない。
「有咲」
「んー?」
「……呼んでみただけ」
「んー……」
たまに交わす言葉もそんなことばかり。中身なんてものはこれっぽっちも存在していない。
チラリと時計を見やると、短針が『4』の数字を指していた。気が付けば一時間近く私と沙綾はこんな時間を過ごしていたらしい。これを無駄に時間を消費したと捉えるべきか、贅沢に時間を消費したと捉えるべきか。
「あー……」
なんて、考えるまでもないか。
「どうしたの、有咲?」
「いや、なんでもー」
だるんだるんと過ぎていく時間に釣られて緩んだ口から、自分でも間抜けだなぁと思わざるを得ない伸びた声が漏れる。それを聞いて、沙綾は「そっか」と言い、おかしそうにちょっと笑った。私も何だか幸せになったから「へへ」なんて笑った。
蔵ではなく、自分の部屋の方に沙綾を招き入れるのは今に始まったことじゃなかった。
いつそうなったのか、どうやってそうなったのか……なんてのは別のお話だけど、私と沙綾は、友達と呼ぶにはいささか踏み込み過ぎた関係になっていた。だからこうして自分の部屋に沙綾とふたりきりでいるのは何もおかしくないことで、むしろ当たり前というか、そうあるべきというか……まぁそんな感じのこと。
(それにしても……)
自身の中に浮かんだ言葉。『友達と呼ぶにはいささか踏み込み過ぎた関係』なんていう響き。それがなんだかものすごく滑稽に聞こえた。まぁでも、うん、そう、そうだよな、こういう表現でも間違ってはいないよな……と誰にするでもない言い訳を頭に浮かべる。
私たちの関係を端的に表現する言葉はいくらでも思い付く。沙綾はそれを面と向かってまっすぐに言ってくれるけれど、私は未だに照れがある。ただそれだけの話だ。
そしてそんな私を沙綾はいつも楽しそうにからかってくるし、私も私で沙綾にからかわれるのは……ここだけの話、大好きだから、それはそれでいいんだろうと思う。
「んー……ふわぁ」
沙綾が伸びをして眠たげな声を上げた。その拍子にふわっと甘いパンの香りが広がる。それが鼻腔をついて、私は頭にもたげた言葉を何の考えもなしに取り出す。
「やっぱり沙綾ってパンの匂いがするよなぁ……」
「んー、そうだねー」
何でもないように間延びした声が返ってくる。それに対してちょっとモヤッとした日の記憶が頭に蘇り、私の口からは「あー」とも「うー」ともつかない妙ちくりんな声が漏れた。
「どうしたの、変な声だして?」
「いや……」
きょとんとした顔がこちらへ向けられる。それになんて返したものかと迷ってしまい、視線を天井、畳、時計と順に巡らす。それからチラリと沙綾に視線を送ると、綺麗な青い瞳が不思議そうに私を覗き込んでいた。
その目で見つめられてしまうと隠し事が何も出来ないから是非ともやめて欲しいけどやめて欲しくない、なんてことを言ったら沙綾はなんて思うかなー……と少し現実逃避じみたことを考えてから、私は観念したように正直な言葉を吐き出す。
「ほら、モカちゃん……」
「モカ?」
「うん。モカちゃんともたまに遊んだりとかするんだけどさ……その、同じ匂いっていうか……まぁ、パンの匂いがしてさ……」
「……ああ」
沙綾は合点がいったように頷いて、けれどその顔に私の大好きなイタズラな笑みを浮かべて、しらばっくれた言葉を続ける。
「そりゃあ、モカはウチの常連さんだからね」
「…………」
私は私でそんな沙綾に恨めしく抗議の目を向ける。『私の言いたいことが分かってるくせに、どうしてそんな風な言葉をいつも投げてくるのか』とか、そんな気持ちを込めて。
「どうしたの、有咲?」
だけどやっぱり沙綾は白々しい笑顔を浮かべて、楽しそうにそんなことを聞いてくるのだから本当にアレだと思う。そして何より、こうすると沙綾が喜ぶということも、こうされると私が喜ぶということもしっかり理解している自分自身が本当にアレだと思う。
「分かってるくせに……」
だから私はいじけた声を出して、沙綾の肩にコテンと頭を預ける。
こういう時は張り合わず、さっさと甘えてしまうのが結果的に一番疲れないしモヤモヤしないということを、最近私は発見した。沙綾にはどうやっても敵わないなぁということも学習した。いや、だからと言って全面降伏はちょっと悔しいから少しは抵抗するんだけど。それにさっさと甘えるのも別に私が常に沙綾に甘えたいと思ってるとかそういうんじゃなくて――
「ふふ、ごめんね? どうしてもさ、有咲が可愛くて……ついからかいたくなっちゃうんだ」
「……ん」
――とか考えるけど、沙綾の柔らかな手が私の髪を梳くと、そんな些細なことはいつもどうでもよくなってしまう。
甘い甘いパンの匂い。あったかい体温。私よりも背丈のある沙綾に身を預けて、イジワルなくせにめちゃくちゃ優しい掌が、私の頭を撫でる。
ああ、無理無理。無理だって。肩肘張ろうとしても、身体の奥底から力がどんどん抜けていっちゃうもん。こんなの素直になるしかねーじゃん。
「いつもの有咲も好きだけど、素直な有咲もとっても可愛くて好きだよ」
「……うん」
されるがままに、私は沙綾に身を任せる。柔らかい手が私の頭を、髪を、背中を通り過ぎるたびに、一枚ずつ理性の鎧をはぎ取っていく。気持ちのいい、陽だまりのような温みが心を溶かして、ただ純粋な願いを口から出していってしまう。
「さあや……」
我ながら随分と甘えた声だなぁ、と残り僅かな理性が考えた。
「ん……いいよ」
その理性も、沙綾を見つめて、それだけで私のことを全部分かってくれる青い瞳が頷くだけで、さっさとどこかへ行ってしまうのだ。
こうなってしまっては仕方ない。今日はもう沙綾に抵抗しようという気力が起きないであろうことは、これまでの経験から痛いほど分かっている。
だから私は瞼を閉じた。『私の理性は何も見ていないよ』と、『沙綾になら何をされてもいいよ』と、『でも、するならやっぱりとびっきり優しくしてほしいな』と、愛しい恋人へ向けて、情けなくなるくらいに白旗を振り回す。
暗い視界にシトシトと雨の滴る音。それから私の髪を弄んでいた手がスルリと左頬にまで動いていって、甘い甘いパンの香りがふわりと揺れた。
その一瞬後に、唇に柔い感触。目と鼻先以上に近い、沙綾の艶やかな息遣い。
それは私の脳まで一直線に快楽信号を届けていって、すぐに沙綾のことだけしか考えられなくなる。口に感じる沙綾の感触とか、耳に感じる沙綾の息遣いとか、鼻に感じる沙綾の匂いとか……それら全部が、みっともなく白旗を上げた私を支配する。唯一目は閉じているけれど、暗い瞼の裏にだって沙綾が私に口づけている姿が浮かぶから、きっと五感全部を沙綾に奪われているんだ。そう思うと、もう堪らなくなってしまう。
「さあやぁ……」
「ふふ……蕩けた有咲も可愛い」
だから沙綾が唇を離す僅かな時間すら、長いお預けを食らっているような気持ちになる。
私は目を瞑ったまま右手を伸ばす。それはすぐに沙綾の左手に絡めとられて、『今さら嫌だって言っても逃がさないよ?』と、ギュッと握られた。私も『逃げる気は毛頭ないから、早くしてほしい』と、その手を握り返した。
それからまたすぐに、柔らかい唇の感触が私を支配せしめんと侵攻してきた。今度の攻め方は、一気呵成に本丸を落とさんとする一大攻勢のようだ。
それを為すすべもなく受け入れるふやけた私の心は、『ああ、やっぱり素直に甘えさせてくれる沙綾が大好きだなぁ』なんてことをただ思い続けるのだった。
蘭モカの場合
羽丘女子学園の屋上から見る夕景もとうに見慣れたもので、その光景について回る思い出も気付けば数え切れないくらいの量になっていた。フェンスにもたれて眺める夕陽も、みんなで他愛のないことを話す黄昏も、数ある思い出の一ページ。
それなら今この瞬間、塔屋に背を預けて座り、落陽をぼんやり眺めるのも、いつも通りの日常のひとかけら。なんでもなくて、ありふれていて、数年を経た未来にとってはきっとかけがえのない思い出のひとつになるんだろう。
「……蘭~、もしかして話、聞いてない?」
そんな物思いに耽るあたしの右耳に、聞き慣れた間延びしている声。そちらへ視線を送れば、あたしと同じように塔屋の壁を背もたれにして座り、パンについての蘊蓄を好き勝手に話し続けていたモカが唇を尖らせていた。
「イースト菌がどうだとか、ってところまでは聞いてたよ」
あたしはそれに応える。「も~、全然最初の方じゃんそれ~」と不服そうに言って、モカはまたパンに関しての雑学を話し始めた。
それもやっぱり右から左に聞き流しながら、みんなは今ごろ忙しいのかな、と考える。
今は放課後で、巴とひまりはそれぞれ部活。つぐみは生徒会。そしてあたしたちは何も予定がなかった。
今日は天気がいいし春の温さが心地よかったから、あたしとモカがこうやって屋上で夕景を眺めるのは何もおかしなことじゃない。
そう、おかしなことじゃないんだけど、どうしてか今日はモカのパンについての蘊蓄話――あたしは勝手にパン口上って呼ぶことにしてるけど――がやたらと長い。
「……というわけで、今日のパンさんはー、メロンパンとグリッシーニ~」
まぁ、モカだしそういう日もあるか……そう思ってまた夕間暮れに思い耽っていると、長々としたパン口上の末に、膝の上に抱いた袋を指さすモカ。それを横目に見て、やっと終わったか、なんて思いながらあたしは言葉を返す。
「グリッシーニ?」
「そう、グリッシーニ~」
メロンパンは分かるけど、グリッシーニってどんなだろう。そう首を傾げていると、モカが袋から細長い棒状のパン……のようなものを取り出した。
「それ、パンなの? なんかスティックのお菓子を大きくしたようにしか見えないけど」
「あーあー、この違いが分からないなんて……蘭もまだまだだね~」
「はぁ……それは悪かったね」
呆れたようため息交じりの声を返す。けど、何が違うのかが少しだけ気になったから、あとでちょっと調べてみよう。調子に乗るだろうからモカには絶対に言わないけど。
「それじゃあ蘭ー、はい」
モカはグリッシーニを袋の中に戻して、今度はメロンパンを取り出す。そして一口サイズにちぎって、それをあたしに手渡してきた。
「……なに? 食べさせろってこと?」
一緒に食べよう、という意味かと普通は思うけど、相手はモカだ。そんな当たり前が通用する訳ない。
「ご明察~」モカはそれを聞いて嬉しそうに笑った。やっぱりか。「さぁさぁ蘭さんや、あ~ん」
私の答えなんか待たずに口を開ける。まるで親鳥からのエサを待つひな鳥だな、なんて思いながら、あたしはまたため息を吐き出した。
「……あーん」
それから逡巡を一瞬、だけど逆らったところで面倒な駄々をこねられるだけだというのは分かっていた。それにひな鳥みたいなモカが少し可愛かったから、文句も本音も口から漏らさずに、あたしはパンを差し出した。
モカはやっぱり嬉しそうに眼を細めて、眼前に突き出されたメロンパンを頬張る。そして幸せそうにもぐもぐと咀嚼する。そんな幼馴染の姿を見て、あたしはフッと笑みを漏らした。
「おかえしだよ~。はい、蘭」
それを飲み下すと、またメロンパンを一口サイズにちぎったモカが、その欠片をあたしに向けて差し出してくる。少しだけ照れくさかったけれど、それはそれでまぁ悪くはないかな、という気持ちだった。
あたしは「はいはい」とぶっきらぼうに言って、口を開く。そこにモカがメロンパンを放り込む。胸焼けするんじゃないかってくらいに甘ったるい味がしたけど……まぁ、たまにはいいか。
モカがメロンパンをちぎって渡してきて、それをあたしがモカに差し出す。次は「はい、あーん」という言葉と一緒にあたしに差し出してくる。
黄昏色に染まる屋上で、塔屋に背を預けてそんなやりとりを繰り返しているうちに、メロンパンはあっさりとあたしたちの胃袋に収まった。本当にどうかと思うおふざけだったけれど、終わってみれば意外と楽しんでいたことに気付いて、また少し照れくさくなる。
そんなあたしの隣で、モカは袋からグリッシーニを取り出し、それを半分に折って口にくわえる。真っ二つにした時に『ポキ』なんて軽い音がしたし、やっぱりそれはパンじゃなくてスティック菓子なんじゃないか……と言おうとしてやめた。
あたしはモカから視線を外して、沈みゆく夕陽を見つめる。
何かをしていても、何もしていなくても、陽は沈む。いつ終わるともしれないけれど、また今日が終わっていく。赤く燃える太陽が地平線の彼方、稜線の向こう側の世界へ朝を届けにいって、あたしとモカが過ごした何でもない今日を思い出に変えていく。
それに一抹の寂しさを覚えてしまう。
いつでも会える幼馴染がいる。その中でもとりわけ大切な人が隣にいて、下らないことでふざけあった先ほどのこと。その時間、その一瞬は、人生でもう二度と訪れることはない。通り過ぎたばかりの今でも既に数ある輝かしい記憶の一つになりかけているし、分け合ったメロンパンを消化しきるころにはもう手の届かない思い出だ。
そう考えてしまうとどうにもセンチメンタルな気分になる。これも春っていう季節のせいなのかな。
「蘭~」
間延びした声。いつも通りの響きがあたしを呼ぶ。少し野暮ったい気持ちで首をめぐらせると、まるでタバコみたいにグリッシーニをくわえたモカが、「ん」と口を突き出してきた。
「…………」
「ん~?」
「……いや、なに?」
「んー……」
何をしたいのか掴み損ねて尋ねるけれど、モカは変わらずくわえたグリッシーニを突き出すだけだった。あたしはそんなモカの姿を見て、少し吹き出した。
「まさかとは思うけど、これ、あたしも食べろって?」
「んー」
どうやらそのまさかだったようだ。モカはニコリと笑って頷いた。
「まったく……これじゃあやっぱりパンじゃなくてお菓子じゃん」
「んーん、ふぁんふぁよ~」
そこは譲れないらしく、何故かキリっとした表情で曖昧な否定の言葉を貰った。あたしはそれにまた少し笑いそうになって、取り繕うように少し俯いた。
「んーんー……」
「……はいはい、分かったよ。やればいいんでしょ」
けれど、どう取り繕ったってモカにはあたしのことはほとんど筒抜けだろう。あたしにはモカのことがほとんど筒抜けなのと一緒だ。
あたしが夕陽に面倒くさいアンニュイを重ねたことはモカに筒抜け。モカがそんなあたしを笑わせようとしたことも、あたしには筒抜け。
あたしが照れ隠しとか、そういうニュアンスで俯いたことも筒抜け。モカが実はこういうことをやってみたかったという気持ちも筒抜け。
どうして分かるのかと聞かれれば、あたしとモカがそういう関係だからというだけの話。
「んー」
嬉しそうな響きの声。モカのそういう声を聞くのをあたしは好きで、あたしのそういう声を聞くのをモカも好き。だからまぁ……恥ずかしいは恥ずかしいけど、ちょっとくらいなら付き合ってあげたって全然構いはしない。
「あ、む……」
差し出されたグリッシーニをくわえる。おおよそ15センチ先、茜色に染まるモカの顔。
自分の顔もきっと赤いだろうな、と思いながら一口パンをかじると、ビスケットのような食感が口の中に広がった。やっぱりこれそういうお菓子だ、と思っていると、モカも同じくパンをかじる。
距離が縮まって、おおよそ10センチ弱。あと二口ほどこのまま食べたら口づけてしまうだろう。だから、あたしはもう一度噛み進めたら口を離そうと思った。
サクリ、とモカがもう一口分あたしに近付く。
あたしもそれにならって一口モカに近付いて――
サクサクサク。
――口を離そうと思った瞬間、一気に三口、モカがグリッシーニを噛み進めた。というか、全部食べた。
「っ!?」
「ん……」
距離がなくなって、間にあったグリッシーニはモカの口の中。
焦ってとにかく文句とか何かを言おうとした唇、モカとの距離がゼロセンチ。
思考回路がショートして、今の状況が分からなくなって、あたしは口を離すことも言葉を吐き出すことも出来なくなった。
「……ふはぁ」
そのままどれくらい時間が経ったのか全く分からなかったけど、呼吸を止めていたらしいモカが顔を離す。それから大仰に息を吐き出して、あたしはようやく我に返った。
「も、もも、も、もかっ……!?」
けれど未だにモカの感触が残った唇は全然まともに動いてくれなくて、やたらと舌が空回るだけ。
「……んへへ」
それをどうにか落ち着けて、とにかく文句の一つでも言わなくちゃ……と思った矢先、モカのふやけたはにかみ顔が目に付いて、「ああもうっ」とあたしは胸中で毒づいた。
これはどういうつもりなのか、事故で済ますつもりなのか故意なのか、責任を取るつもりはあるのかただのおふざけで済ますつもりなのかとか、聞きたいことは山ほどあるけど、モカとあたしは全部筒抜けの関係な訳であって、夕陽よりも朱が差したモカの頬を見ればそれには及ばないというかなんというか……とにかく。
――あ、モカの唇、柔らかくて気持ちいい。
なんて思ってしまったことだけはどうにか隠し通せないだろうか、と考えながら、あたしは次にモカにかける言葉を探すのだった。
ちさイヴの場合
「では、白鷺さん。本日はよろしくお願いいたします」
「はい、こちらこそ」
事務所の応接室。そこそこ上質な素材で出来た、それなりにふかふかのソファー。そこに机を挟んで向かい合って座る私と某アイドル雑誌のライターさん。
「お忙しい中、貴重なお時間を頂き……」だとかそんなテンプレートの挨拶を丁寧な言葉でかけられて、私もいつも通り丁寧に頭を下げる。今まで何度となくこなしている、雑誌のインタビューを受ける仕事だった。
机の上に置かれたICレコーダーが赤いランプを点滅させている。それを見つめながら、今はこういう録音もスマートフォンで済ます人が多いな、なんて思う。黒い長方形のレコーダーはところどころ色が褪せていて、きっと使い込まれたものなんだろう。対面に視線を移すと、三十代後半の女性ライターは、黒縁の眼鏡の奥に柔和な目を湛えていた。
「それでは早速なんですが……」という柔らかく丁寧な響き。次々と繰り出されてくる質問。きっと場数を踏んで慣れているのだろう。時間が限られているということをキチンと知っていて、失礼にならないように、彼女は私から出来るだけ面白い話を聞き出そうとしている。
「ええ、はい。そうですね……」
私は逐一丁寧にそれに答える。私も私で、それなりにこういう仕事はこなしていた。だから相手が慣れている人物だとやりやすい。
だけどあまりに慣れ過ぎていると、立て板に水を流すような話術に、ついうっかり隠しておくべき本心なんかも喋ってしまうことが稀にあった。それだけは少し気をつけないといけない。
「では、白鷺さん本人のことではなく、パステルパレットのメンバーに対する印象はどうですか?」
「印象ですか。そうですね……」
早速気をつけるべき質問が飛んできて、私はみんなの印象を考えこむ振りをする。そうして、脳裏に真っ先に思い浮かんだイヴちゃんの屈託ない笑顔をどうにか消そうと試みる。
……第一印象はとても綺麗な女の子。フィンランド人と日本人のハーフの子で、背もスラリと高く、スタイルも良くて、まさにモデルさんという格好いい女の子。
けど、その印象はすぐに霧散した。
あの子は、侍とか武士道とかそういう古風な日本文化が好きな、無邪気で可愛い女の子だ。パステルパレットを踏み台としか思っていなかった昔の冷たい私にさえ懐いて、しょっちゅう抱き着いてきたり手をとったりしてきて……まるで人懐っこい大型犬のようだった。
私よりも身長が10センチくらい高いけど、どうしてかそんな気がしない。家で飼っている犬と彼女を知らないうちに重ねてしまっているのだろうか。それはそれで非常に失礼なことだけど、イヴちゃんにそう言ったら「わんわん! えへへ、チサトさん、撫でてください!」なんて乗り気で言ってくれそうだな、と思ってしまう。
そんな純粋で無邪気な彼女だからこそ、私はどうしても放っておけなくて世話を焼きたくなる。暇さえあれば思わず彼女を構いたくなるし、あの子のわがままであれば可能な限り聞いてあげたくなる。
そうすると、きっとイヴちゃんはぱぁっと朗らかな笑みを浮かべるだろう。そんな顔を見てしまうとまた私は彼女の頭を撫でたい衝動に駆られたりなんだりしてしまって、だからこそ――
「こう言っては語弊があるかもしれないですけど、みんな個性豊かな動物さんみたいですよ」と、イヴちゃんの笑顔を頭から消そうとしたら余計に浮かんできてしまったので、私は強引に思考を切って言葉を吐き出す。
「動物さん、ですか?」
「はい。これは日菜ちゃんのお姉さんが言っていたことなんですけど、私たちはワンちゃんみたいに見えるらしくて」
首を傾げたライターさんに、私は日菜ちゃんから伝え聞いた、紗夜ちゃんが抱いている私たちの印象を、ある程度オブラートに包んで話す。
彩ちゃんは小さくて可愛い小型犬。ちょっと臆病なところがあるけど元気一杯で、みんなに愛されるワンちゃん。
麻弥ちゃんはしっかりしてる大型犬。言いつけはしっかり守るし、何かあればみんなを助けてくれるお利口なワンちゃん。
日菜ちゃんだけは自由気ままな猫。気分次第であっちへフラフラこっちへフラフラ。誰もその舵をとれないけれど、そういう気まぐれなところが魅力な猫ちゃん。
そしてイヴちゃんは……
……イヴちゃんはいつも、感情表現がストレートだ。
生まれも育ちもフィンランドという環境がそうさせるのか、はたまた彼女が生まれ持った元来の性格なのか、百面相の彩ちゃんとはまた違った純真さがある。
嬉しいこと、楽しいことがあれば「チサトさん!」と元気な声を上げて、もしも彼女に犬の尻尾がついていればそれをブンブンと千切れんばかりの勢いで振っているだろうことを鮮明に連想させる笑顔を浮かべて、私にハグしてくる。
悲しいことがあれば「チサトさん……」とシュンとしながら、もしも彼女に犬耳がついていればそれをペタンと折っているだろうことを容易に想像させるほど肩を落として、私になんでも相談しにきてくれる。
寂しい時には「……チサトさん」とどこか潤んだような瞳でこちらを見つめてきて、甘えん坊の表情を顔に覗かせる。だからこそ私の理性のタガというものはあっさりと緩んでしまい――
慌てて首を振った。仕事中だというのに私は何を考えているのだろうか。
「あの、どうかされましたか?」
「……いえ」
ライターさんから心配そうな声が届けられる。それになんて言おうか少し考えてから、「今度のドラマの役のことを少し考えてしまって……すみません」と笑顔で謝った。
「あ、そうでしたか。今度のドラマというと、月9の――」
「はい。そのドラマの役で、この役は――」
頭を振ったおかげか、頭の中一杯に広がっていたイヴちゃんの笑顔はどうにか隅っこの方に行ってくれた。これでもう大丈夫だろう。パスパレのみんなのことから女優の仕事のことに質問が変わり、矢継ぎ早の質問に最適であろう答えを返していく。
そうしながら、自分自身に向けて胸中で呆れたように呟く。
まったく、仕事中に全然関係のないことを考えてしまうなんて、私はどうしてしまったのかしらね。そもそもの話、どうしてイヴちゃんのことをこんなにも頭に呼び起こしてしまうのか。
確かにあの子はとても人懐っこくて、無邪気で、何事にも一生懸命で、顔だって妖精みたいに整っていて可愛いし、スタイルだって抜群で、髪の毛もちょっと妬いてしまうくらいにサラサラで、非の打ちどころがない女の子だ。
そんな子に懐かれて悪い気がする訳がないというのは確かにそうだけど、だからといって限度がある。これじゃあまるで四六時中私がイヴちゃんのことを考えているみたいじゃない。そんなことはないわ。仮にそうだとしても、それは一時のことだろう。そう、だってこれは一昨日の件が原因で……
……彩ちゃんはオフでバイト、日菜ちゃんと麻弥ちゃんはバラエティ番組のロケがあって、事務所の会議室には私とイヴちゃんだけ。いつも騒がしい声が反響するこの部屋も、ふたりきりだと音が少ない。どこかシンとした空気だった。
そんななか、イヴちゃんはいつものように、私が座るソファの隣に腰を落としていた。私も私でそれを何も気にすることなく、ファッション雑誌に目を落としていた。
イヴちゃんは手持ち無沙汰なのか、雑誌を読む私をじーっと見つめている。私はそんなイヴちゃんを横目で確認すると、無意識のうちに右手を彼女の頭に伸ばし、絹のように柔らかい髪を梳いていた。
「えへへ……」なんて気持ちよさそうに目を細めるイヴちゃんを見て、私も力の抜けた笑みを浮かべる。それからまた雑誌に視線を戻すけど、ちょんちょんと服の袖を引かれる。
「どうかしたの?」とイヴちゃんに顔を向けると目の前に妖精みたいに整った顔があった。
「チサトさん」という甘い声が私をくすぐって、そして目が瞑られる。その顔はどんどん私に近付いてきて、だけどそれを避けようという気は微塵もない訳で、私も目を――
「ごほんっ」
思った以上に大きくなった咳払いが応接室に響いた。対面に座るライターさんが目を丸くしている。
「ごめんなさい、歌の練習をしすぎて喉が少し」
心配されるより早く、そんなことを言って右手を口元に持っていく。色々と本当にアウトなことを誤魔化すための方便と行動だったけど、人差し指と中指が唇に触れて、イヴちゃんの感触がありありとそこに蘇ってしまった。
……ああ、本当に私は何を考えているんだろうか。
気付かないうちに脳裏に思い描いていた一昨日の出来事をどうにか頭から消そうとするけれど、そう意識すればするほど強く鮮明にイヴちゃんが私の頭の中で笑顔を咲かせる。
どうしたらいいのか、とは思う。仕事中だというのにこんなことでは、そのうち大きなミスをおかすだろうことは想像に難くない。
けど同時に消したくない私がいるのもまた事実であって、もちろん私だってイヴちゃんのことは好き……そう、色んな意味で大好きではあるけれど、いまいち素直になりきれないというか照れがあるというか……いや違う、今考えなきゃいけないことはそうじゃなくて……。
「女優とアイドルの両立は大変ですね。しかもパステルパレットはバンドですし、音楽もやらなくてはいけませんもんね」
「え、ええ……すみません、折角こちらまで足を運んで頂いたのに上の空で……」
「いえいえ」
こんがらがった思考はひとまず放っておいて、私は気遣いの言葉に謝罪を返す。ライターさんはその言葉を聞いて、柔和な瞳を細めて笑った。もしかして私の考えていることが漏れ伝わってしまったのだろうか、と少しだけ心配になる。
「白鷺さんは多忙な身であると思いますけど、何か支えとなっていることはありますか?」
「支え……ですか」
そんな訳ないか、と思う。すると安心した気持ちと、どこか悔しいというかもどかしいというか、自分でも推し量ることが出来ない感情の胸中に渦巻く。そこに新しい質問が飛んできて、私の頭の中のイヴちゃんがまたぱぁーっと笑顔を輝かせた。
「……そうですね。無邪気に私を頼ってくれたり、甘えてきたり、気遣ってくれる人が傍にいますので……その存在が、これ以上ないほど私の支えになっています」
私の口からはそんな言葉が出てくる。偽りのない本心だけど、はたしてこれはみんなに……いや、イヴちゃんにどういう形で届くのだろうか。
私の中の推し量ることが出来ない感情。その正体はきっと、イヴちゃんをみんなに認めてもらいたいという気持ち。そして、本当は私とイヴちゃんはこんなにも仲が良いんだと、お互いに特別な存在であるんだと喧伝したい衝動。
けれど私は素直でまっすぐな人間ではなく、どちらかといえば狡猾で打算的な人間だ。こんな面倒くさい方法で、回りくどい言葉で、あの子に、あわよくば世間の人々に、この気持ちがさりげなく伝わればいいと思っているんだ。
イヴちゃんにいつも助けてもらってるということと、そんなあなたが大好きだっていうことを。
「あ、もしかして恋人ですか?」
ライターさんがからかうように、明るい声を放った。冗談で言っているのであろうことはどこか優し気で悪戯な笑みを見れば明白だったから、私も微笑みを浮かべる。
「ふふ、ご想像にお任せしますね」
そうして返した言葉。これは臆病で打算的な私が吐き出させたものか、素直な恋する乙女の私が形作らせたものなのか。
その判断はつかなかったけど、きっと今の私は今日一番の笑顔を浮かべているだろうな、と思った。
かのここの場合
「花音、キスしましょう!」なんてこころちゃんが言うから、私の口からは今日も「ふえぇ……」なんていう情けない声が漏れてしまった。
でも、それは仕方のないことだと思う。
穏やかな春の休日の昼下がり。天井が高すぎて、上を見上げると目が回りそうなこころちゃんのお屋敷の一室には、窓から麗らかな陽光が差し込んできている。
その光に当たりながらふたりで和んでいたと思ったら、唐突にこころちゃんが「そうだ!」と立ち上がってそんな刺激的な言葉をくれたのだから、びっくりしちゃうのは仕方がない……はず。
でもよく考えてみると、こころちゃんが唐突じゃなかったことの方が珍しいのかな。むしろ言いたいこととかしたいことを言外に匂わせてから、しっかり段階を踏んで私にお願いしてくる方がびっくりしてしまうかもしれない。
例えば、そう。私がこころちゃんに告白された……告白って言っていいのかどうかはちょっと悩むけど、とにかく、告白された時。
「あなたと一緒にいると、他のみんなと一緒にいる時よりもすっごくぽかぽかして楽しい気持ちになるの! 大好きよ、花音!」
なんてあまりにもこころちゃんらしい言葉を貰って、その時も確かにびっくりしたはびっくりしたけど、こころちゃんの言う大好きはきっと親愛の情の大好きだろうな、とは思っていた。
「だから結婚を前提にお付き合いしましょう!」
「え……? ……えっ!?」
そう、そんな風に思っていたから、続けられた言葉にとてもびっくりしたのをよく覚えている。普通に嬉しいって思っちゃったのもよく覚えている。でもなんて答えたらいいのか分からなくて、こくん、と頷いたらこころちゃんがすごく嬉しそうな顔をして抱き着いてきたのもよく覚えている。
あれ、でもこれ、しっかり段階は踏んでるけど……どちらかというと意外性の方に分けられるような……。
「花音? どうかしたの?」
「あ、え、ええと……」
と、あまりの衝撃にふた月ほど前のこころちゃんとの馴れ初めに迷い込んだ意識が現在に帰ってくる。私はなんて返そうか迷ってちょっと俯いてから、今日も爛々と輝いている瞳に向き合う。
「その、急にどうしたの?」
「なにが?」
「えと、突然……その、き、きす、したいって……」
「そのことね! ひまりが貸してくれた少女漫画っていう本に描いてあったのよ! 大好きで大切な人とキスすると、心がとーってもあったかくなって幸せになれるって!」
だからキスしましょう、花音! と、いつも通り照れとかそういう感情が一切ない返事がきて、私の口からはまた「ふえぇ」と出かかってしまう。だけどどうにかそれを飲み込む。その代わりに、『思えばこのふた月、恋人らしいことなんてこれっぽっちもなかったなぁ……』なんて、また意識がこれまでのことの回想に向けられる。
こころちゃんが大好きだって言ってくれて、結婚を前提にお付き合いをするようになってからも、私たちに大きく変わったことはなかった。
いつものようにバンドの練習をしたり、ライブをしたり、みんなで遊びに行ったり……その中で、ふたりきりでお昼ご飯を食べたり、おでかけしたりする時間が以前より五倍くらいに増えただけ。
気付けば起きている時間の半分くらいはこころちゃんと一緒にいるようになってはいるけど、その時間はデートとか逢引きとかって言うのにはいつも通りすぎていたと思う。
手を繋いで街を歩いたり、こころちゃんが嬉しそうに抱き着いてきたりすることはあるけど、それはお付き合いを始める前から変わらないこと。確かにいつでも天真爛漫なこころちゃんをこれまで以上に可愛いとは常々思うようになったけど、それだって前々から思っていたことだし、そんなに大きく変わってはいない。
けど『キス』は流石に今までしたことがない、特別に踏み込んだ行為だ。
だから私はびっくりして怯んでしまった。
こころちゃんのことはもちろん前から好きだし、お付き合いをするようになってからはもっと大好きになったし、こんな私でもこころちゃんよりはお姉さんなんだから、こころちゃんを支えられるように、こころちゃんが喜んでくれるように、こころちゃんがいつまでも純真な笑顔を浮かべていられるように、こころちゃんがもっともっと私を好きだって思ってくれるように、しっかりしなくちゃいけないな……と、私なりの決意は抱いていたのに。
やっぱり私はダメだな、と思いかけて、いや、とすぐに首を振る。ここでダメだって思って落ち込むだけじゃ、本当にダメになっちゃう。
きゅっと胸の前で両手を握って、私は自分を奮い立たせる。そして意識を現実のこころちゃんに戻して、いつもの天使のように可愛い顔と真正面に向かい合って、言葉を投げる。
「……わ、分かった……キス、しよう、こころちゃん……!」
「ええ!」
こころちゃんは私の言葉を聞いて、平常時の三割増しくらい笑顔を輝かせる。その眩しさに網膜を焼かれて脳裏にこころちゃんという存在をいつも以上に強く刻み込まれたような感覚がして少し幸せになったけど、今からこれじゃあ先が思いやられるから、私は一度深呼吸をした。
「えと、それじゃあ私からするから……」
「分かったわ!」
こころちゃんはコクンと頷いて、大人しく気を付けして私を待ち構える。その姿に一歩近づいて、両肩に手を置いた。
「…………」
「…………」
顔を近づけると、やっぱりキラキラした笑顔が私を射抜いてくる。今日のキラキラ笑顔は「これから起こることが楽しみなワクワク系」に分類されるもの。やっぱり可愛いなぁ、と思いつつ、私はこころちゃんにひとつお願いをする。
「あの……目は閉じてて欲しいな……」
「どうして?」
「え、えっと……キスってそういうものだから、かな……?」
「そうなのね! 分かったわ!」
こころちゃんは素直に頷く。
前からもそうだったけど、お付き合いをするようになってからますます私の言葉を疑うことがなくなったように思える。すぐにバレる嘘を吐いてもこころちゃんは「花音が言うならそうに違いないわ!」と信じちゃうだろうし、そしてそれが弦巻財閥で叶えられる嘘だと全部まことにされてしまうから、自分の言動には気をつけないといけない。
そんなことを考えているうちに、こころちゃんがスッと瞼を落とす。無防備な顔を私だけに見せてくれる。
笑顔が天使のように可愛いというのはもちろんだけど、こうして大人しい表情を間近で見つめると、睫毛の長さや整った鼻筋にちょっとドキドキする。いけない、私の方がお姉さんなんだからちゃんとこころちゃんをリードしなきゃ……と自分に喝を入れた。
それからこころちゃんの唇を見つめて、私は顔を近づけていく。
鼻と鼻が触れ合いそうな距離で、私も目を瞑る。唇の場所は目に焼き付けたからきっと間違えないはずだ、大丈夫、大丈夫……。
そう思いながら、息を止めて、そーっとそーっと顔を近づけていって――
ちゅっ。
――と、唇に柔らかい感触が伝わった。
軽く触れ合っただけのオママゴトみたいなキスだったと思う。
けれどどうしたことだろう、私の心臓はバクバクと16拍子を刻み始める。いけない、これじゃあツインペダルじゃないとバスドラムが間に合わない、間に合わないよぉ……と情けない思考が頭にもたげる。
内から胸を叩き続ける怒涛のビートに急かされるように、私はパッとこころちゃんの唇から離れる。顔が熱い。身体全体が熱い。ただ唇を合わせるだけの行為がどうしてこんなにも身体を震わせるのだろうか。
両肩に手を置いたままこころちゃんの顔を見つめていたら、すぅっと瞼が持ち上がる。天使のような顔に装飾されたふたつの黄金の宝石は、いつもの爛々とした光を引っ込めて、穏やかな水面に注ぐ木漏れ日のような光を湛えていた。私は少し心配になってしまう。
「……こころちゃん? ちょっとボーっとしてるけど、大丈夫……?」
「……大丈夫よ、花音……」
その水面はやっぱり凪いだままで、まるで海月がたゆたうような頼りのない響きが返ってきたから、もっと心配になってしまった。
どうしよう、何か間違えちゃったかな……そう思っていると、静かな湖面に果実が緩やかに投げ入れられるように、こころちゃんからぽつりと言葉が紡ぎだされる。
「でも……なんだかふわふわしてて、ぽわぽわーってしてて、でもぎゅーんっていう感じがあって……落ち着かないの……」
「…………」
出会った時からの記憶を掘り起こしても、絶対に見たことがないいじらしい表情。それを俯かせて、私の胸の辺りを見て放たれた、こちらも今まで聞いたことがないたどたどしい口調の言葉。
驚天動地って、きっとこういうことを言うんだろうな。こんなにしおらしいこころちゃんを見たのは初めてで、とても、とってもびっくりしちゃって……
「こころちゃん」
「……なに、花音?」
「もう一回してみよっか」
……私は、自分の中で何かのスイッチが入ったことを強く自覚した。
「もう一回?」
「そう、もう一回……ううん、もう一回じゃなくて、もう何回も。そうすればきっとこころちゃんの気持ちももっとちゃんと分かると思うから」
顔を近づける。こころちゃんはちょっとだけびっくりしたように、目をキュッと瞑った。その様子を間近で見て、私は胸がキュンとした。
天真爛漫なこころちゃん。
いつだって明るくて自信満々で、まっすぐ前を見て進み続けるこころちゃん。
この世に遣わされた天使のように可愛くて愛しくてずっと笑ってて欲しいなと心の底から思っているこころちゃん。
そのこころちゃんが、未知の感覚に対してちょっとしおらしくなっている。
それが……こう言っちゃうととっても危ない人に聞こえるけど……堪らなく、可愛い。どうしようもないくらいいじらしく思えて、今すぐにこころちゃんの身体をぎゅっと抱きしめて、何度も唇を奪ってしまいたい。そんな衝動に駆られる。でもそれは流石にダメかな……?
(……ううん、ダメじゃない、よね)
自問自答。そんな思考を否定して、その衝動を肯定した。
そう、ダメじゃない。だって私はお姉さんなんだから、しっかりこころちゃんをリードする立場にいて当たり前なんだ。こころちゃんがよく分からない感情に苛まれて落ち着かないなら、それが分かるようになるまで何回も何回もキスをして助けてあげなくちゃ。不安にならないように優しく、何度も唇を重ね合わさなくちゃ。
「ん……」
「……っ」
出来るだけ優しく、もう一度唇を重ね合わせる。こころちゃんの肩がぴくりと跳ねる。大丈夫だよ、怖くないよ……と、私は両肩に置いた手をこころちゃんの背中に回して、そっと抱きしめた。
この胸を焦がす衝動の名前はなんだろうな。ちょっと考えたけど、あんまりよく分からなかったから母性本能だと思うことにした。
母性による本能的な行動なら全然悪いことじゃないよね? 普通に良いことだよね?
「こころちゃん……大好きだよ」
「ん、うん……」
だから私は、しおらしく頷くこころちゃんに愛を囁きながら、何度も繰り返しキスをするのだった。
さよつぐの場合
愛されるより愛したい、というのは男性アイドルデュオの昔の歌だ。
子供のころにお父さんが口ずさんでいるのを聞いたり、テレビで流れているのを聞いたりするたびに、私はいつも疑問だった。
愛だ恋だっていうのは幼い私には分からなかったけど――いや、高校生になった今でも十全に理解が及んでいるとは言えないけれど――、与えるよりも与えられる方が嬉しいんじゃないだろうかというのは昔からずっと思っていた。
だって愛することは簡単だ。好きだと口にすればいいだけだから。相手がどうとかじゃなくて、自分がそう思うだけで完結するじゃないか。
逆に愛されることは難しい。自分だけのことではないから、誰かとの間にある気持ちだから、自分がどれだけ頑張ったって報われないことがあるだろう。
私はずっと思っていた。愛されるより愛したい。そんなのはただの言葉遊びだし、聞こえのいい戯言だろうと。
その気持ちが変わることはなかった。ギターを始めて音楽に深く没頭していくようになってからも私は人に認められたいという気持ちの方が大きかったし、耳にする音楽だって愛されたいと歌うものが多かった。
だから思っていたのだ。
世の中には様々な人がいるから、もちろん私と違う思想の人がいて当たり前であるし、それにとやかく言うつもりもなければ私の気持ちにどうこう言われる筋合いもない。こんな取るに足らない屁理屈じみた気持ちは私の中だけで処理すればいいものだ……と。
確かに私はそう思っていたのだ。
つぐみさんの部屋の壁時計は、午後五時前を指していた。
窓から斜陽の濃い色をした光が差し込む。それに半身を照らされながらソファーに座って、私は彼女の部屋でひとり、ぼんやりと佇んでいた。つぐみさんのバイトが終わるまでここで待ってて欲しいと言われたからだ。
なんとはなしに室内を見回すと、私が持ち込んだお気に入りのクッションや緊急時の着替えとか、自分の私物がちらほらと目に映る。この部屋に入るようになった当初は全然落ち着かなかったけれど、半分自分の部屋のようになっている今となっては、ともすれば我が家よりも落ち着く空間だ。
本棚の上に置かれた、寄り添い合いながら座るクマとキツネのぬいぐるみに視線を定めつつ、愛するとはこういうことなんだろうな、と思う。
自分の部屋というのは、きっと世界中のどこよりもプライベートな空間だ。そのスペースに『踏み入ってもいいですよ』、『ここまで入ってきてもいいんですよ』と受け入れられている。私を置く場所を作ってくれている。それだけ心を許されているんだ……と、こうして実感すると私は満たされた気持ちになる。
当たり前だけど、私が招かれるように、私の部屋につぐみさんを招くこともある。そこにもつぐみさんの私物がいくつも置いてあるし、どこか殺風景だった自分の部屋だってそのおかげでどこか華やいだように感じられる。
それに、彼女には内緒にしているけれど、ひどく寂しい気持ちになった夜なんかは、つぐみさんが置いていったちょっと大きな犬のぬいぐるみを抱きしめたりもしている。絵面的にどうかと思う行動だけど、そうすると心が温まるというか、どこか安心するのだから仕方ない。
ともあれ、愛するというのはそういうことなんだろう。
こうやってプライベートな空間を共有できて、心を委ねてもいいと思える人間がいる。それはかくも幸せなことだ。
もしかしたらの話だけど、これは一種の承認欲求なのかもしれない。
人を愛するということ。私が彼女を愛するということ。
そうやって私は私という存在の中につぐみさんの場所を作って、それを拠り所にして自分自身の輪郭を明確に保っているのかもしれない。
だとするならばこの気持ちも自分本位のもので、世間一般では独善的な愛と呼ばれるのだろう。
そう後ろ指さされるのであれば、私はもっともっと彼女を愛そうと思う。世間体だとか、承認欲求だとか、独り善がりだとか……そんな面倒なものを考える隙間がなくなるまで、彼女のことを想い、愛そうと強く思う。
最初からハッピーエンドの映画なんて三分あれば終わる、というのも子供のころに聞いたラブソング。
その歌の通りだろう。高校生の私が『愛』というものを真に理解するのは難しいけれど、それはなんとなく感覚で理解できる。
誰もに理解されて祝福されるように、何の障害もすれ違いもないように、初めからそこに完全な形であるのなら、悩むことなんてない。不安に震えることも、ひどく寂しい夜をひとりで乗り越えることもない。
だけど、そんな風に愛が当たり前に完全な形であったのなら、こんなにも胸が高鳴ることも温かくなることもきっとないのだから。
そう思ったところで、部屋のドアが開く。視線をそちらへやれば、「ごめんなさい、お待たせしました」と少し息を切らせたつぐみさんの姿があった。
「いいえ」私はフッと軽く息を吐き出して応える。「つぐみさんを待つ時間はいつもとても楽しいので、気にしないでください」
それを聞くと、彼女は照れたようにはにかんだ。胸が温かくなって、私も笑顔を浮かべた。そして今まで考えていたことがどこか遠くに霞んで消えていく。
小難しく考えていた愛がどうだとかなんだとか、そんな面倒なこと。それがつぐみさんの顔を見るだけでこんなにあっさりと霧散するのだから滑稽だ。
それでも私はまた何度も見えない不安に襲われて、何度も同じことを考えるのだろう。だけど、目に見えない不確かな愛の形を確かめる方法を、私はもう知っている。
ソファーの隣につぐみさんが腰かける。ふわりと珈琲の匂いが薫って、少し幸せな気持ちになった。
「つぐみさん」
その気持ちのまま、私は囁くように彼女に呼びかける。つぐみさんは私に顔をめぐらせて、少し首を傾げた。その瞳をじっと見つめると、すぐに彼女は私の望みを分かってくれる。
「いいですよ」
頬を赤らめながら、つぐみさんは頷く。そしてその瞳がすっと閉じられる。
私は隣り合って向かい合う彼女の肩に手を回して優しく抱き寄せる。それから、世界で一番大切な人の唇へ、自分の唇を重ね合わせた。
愛だ恋だなんていう、形の見えない面倒で難しいものたち。きっとその実態は、言葉をああだこうだとこねくり回しても掴めないのだろう。
けれど、こうやって触れ合って、口づけ合えば、簡単にここにあることが分かる。その形を確かめることが出来る。
キスがこんなにも心地いいのは、きっとそのせいだ。
「……はぁ」
唇を離して軽く息を吐き出す。私の心はこれ以上ないくらいに満たされて、つぐみさんはどうだろうか、と彼女の様子を窺えば、彼女も熱に浮かされたように蕩けた顔をしているからもっと満たされた気持ちになる。
心の栄養補給とはこのことだろう。唇を重ねるだけで、寂しさも悲しみもなくなって、嬉しさと幸せとを倍にしてくれる。キスは便利な心のファストフードだ。
けれど、そう表現するとどこか健康に悪い気がする。食べるに越したことはないけれど、食べ過ぎては却って身体に悪いというか、なんというか。
「紗夜さん……」
「ええ」
そんな思考も、つぐみさんの熱を帯びた声を聞けばすぐに霧散する。
……大丈夫、私はその辺りの線引きはしっかり出来ているつもりだし、ファストフードも大好きであるし、つぐみさんのことも愛して愛してやまない。
「んっ……」
だから、彼女からの「おかわり」を拒む理由なんて何ひとつとして私の中には存在していないのだ。甘えるように瞳を閉じるつぐみさんの唇に、もう一度自分の唇を重ね合わせた。
つぐみさんが求めてくれるなら、その全てを叶えたい。そして彼女に幸せになってもらいたい。そう思って幸福を感じるのは、私が彼女を愛しているから。
愛されるより愛したい。
ただの言葉遊びかもしれないけれど、聞こえのいい戯言かもしれないけれど、今の私はその言葉に心の底から共感できる。
リサゆきの場合
選択肢を間違えたなぁ、というのは、最近のアタシの悩みの種だった。
アタシには誰よりも大切な幼馴染の友希那がいて、友希那も友希那でアタシを大切だって思ってくれていて、それで幼馴染っていう関係が冬の終わりに恋人っていうこそばゆい響きの関係に変わって……と、そこまではいい。アタシは昔から友希那が大好きだし、友希那もアタシのことを好きだって言ってくれるなら、まったくこれっぽっちも問題はない。
じゃあ何の選択肢を間違えてしまったのかっていうと、それは付き合い始めてからのこと。
綺麗な星座の下で……なんていうほどロマンチックでもないけれど、とにかく澄んだ夜空に星がそれなりにキラキラしていた日に、アタシは友希那とキスをした。それはいわゆるファーストキスというやつで、甘酸っぱいだとかそんな風な味だって言われるもので、友希那に唇を奪われたアタシは「これが友希那のキスの味……」とかちょっと危ないことを考えていたような気がするけど、それもひとまず問題ではない。
問題はその後のこと。
アタシたちも気付けば高校三年生で、受験戦争という荒波が唸る海に航路をとらなくちゃいけない時期になっていた。
だけど友希那は相変わらずだった。
「勉強……そうね、勉強は大切よね」
アタシが大学受験のことをそれとなく話題に出すと、そんなことを言って明後日の方向や猫のいる方へ視線を逸らす。まともに話を聞く気がない時特有の行動だった。
そんな友希那のことが心配になるのは当たり前で、『将来音楽で食べていくつもりなのは知っているけど、それでも大学はしっかり通って卒業してほしい』と、友希那のお義母さんが言っていたこともあるし、アタシはどうにか友希那をやる気にさせようと必死に考えた。
その結果、そっぽを向く友希那に対して、アタシの口からはこんな言葉が出た。
「分かった、それじゃあ友希那が勉強を頑張る度に、その、き、キス……するよ」
未だにキスという単語を口にするのが照れくさいのは置いておいて、友希那はその言葉に反応した。興味を示した。
「……本気なの、リサ?」
「ほ、本気っ、本気だよ!」
「そう……そこまで本気なら、分かったわ。私も本気を見せてあげる」
友希那はどうしてか得意気に頷いてくれて、よかった、これで少しは勉強にも向き合ってくれそうだな、なんて呑気に思っていた。
それが春先のことで、アタシが間違えたと思った選択肢のこと。
本気を見せる、と言った友希那は……すごかった。
友希那の成績は学年の平均よりやや下。それは元々音楽に全身全霊を打ち込んでいて、勉強に労力を割いていなかったせいだとは知っていた。だからやる気を出せば平均を上回ることくらいは簡単だろう、と思っていた。
その推測はいい意味で甘かった。アタシは友希那の集中力を舐めていたのだ。
「本気を見せてあげる」と言われた日から、メッセージを送ったり電話をかけても、なかなか応答がないことが多くなった。
そしてニ、三時間後にやっときた返事には決まって「ごめんなさい、ちょっと勉強をしていたわ」という枕言葉。それに続いて「今日は4時間頑張ったから、キス権一回分ね」という返詞。「うん、分かったよー」と、内心ドキドキしながらのアタシの返信。
そんなことが何十回か重なった。
そうしてるうちに一学期の中間試験が終わり、返ってきた友希那の答案用紙を見せてもらうと、そこに書き込まれていた点数はどれもこれもが80を下らなかった。
あっという間にアタシの成績を追い抜いていった……というのは別によくて、一番問題なのはそのあとのこと。
「思ったより出来なかったわね。やっぱりもっと集中しないといけないわ」
「え」
「それと、今日まででキス権が三十八回あるから、それも消化するわね。使わないと溜まっていく一方だもの」
「え」
「とりあえず一回いいかしら。……いえ、聞くのはおかしいわね。リサが私にくれたキス権だもの。キスするわよ、リサ」
「え!?」
そう言って、誰もいない放課後の教室で、友希那は有無を言わさずアタシの唇を奪うのだった。
これが間違えた選択肢の上に乗っかってる問題であり悩みの種だ。それから何度となく、アタシは友希那にキスをされることになる。
別にキスされるのが嫌な訳じゃない。ちょっと強引にされるのもそれはそれで好きだし、友希那のことは大好きだし。
ただ、それでも場所は選んで欲しいと思うのはワガママじゃないはず。
アタシの部屋とか友希那の部屋なら、本当、いつだってウェルカムだけど、放課後の教室とか練習前のスタジオとか、果てには人気の少ない通学路とかは本当に――いや、それはそれでドキドキしちゃうアタシがいるのも事実ではあるけど――やめてほしい。
「これはリサから言い出したことよ?」
それとなく友希那にそう伝えたら『何を言ってるの?』という顔をされた。確かにそうだなぁ、と思ってしまうあたり、アタシは押しに弱いのかもしれない。
けど、友希那のお義父さんとお義母さんには「リサちゃんのおかげで友希那も真面目に勉強するようになったよ。ありがとう」と感謝された。湊家とアタシの関係が変わらず良好なのは、いずれ嫁ぐ身としては願ったり叶ったりだからそれはそれで嬉しかった。
それはそれとして、友希那が勉強にも頑張ってくれるようになってくれたのは当初の目論見通りだったけど、流石にこれほどまでキスを求められるとは思っていなかったから、アタシは色々と困ってしまうのだ。
「はぁ~……」
「どうしたの、リサ? そんなに大きなため息を吐いて」
だというのに、アタシがため息を吐けば、友希那はそんな風に首を傾げて聞いてくるのだからちょっと参ってしまう。こんなにアタシをドギマギさせてるくせに無自覚だなんて……本当にもう、しょうがない友希那だ。
「なんでもないよ」
「そう? 困ったことがあるなら何でも相談して頂戴ね。リサにはいつも助けられてばかりなんだから、たまには私にもあなたのことを助けさせて」
「……うん」
そしてさらに無自覚でそんな言葉を投げてくるんだから友希那はしょうがない。本当にしょうがない。そんなにアタシをキュンキュンさせて嬉しくさせて、本当にどうしたいのだろうか。
「それはそれとして、キス権使うわね。……んっ」
「んん……」
さらに『今日は優しくしてほしいなぁ』とか思ってると本当に優しくしてくれるから……友希那はしょうがなさすぎでしょうがないと心の底から思う。式は教会にするか神前にするか、そろそろ考えておかないと。
間違えた選択の上に乗っかる日々も、気付けば過ぎているもの。
ところ構わず友希那とキスを繰り返しているうちに、いつの間にかキス権がなくなってきたらしい。梅雨を超えて初夏の風が吹き抜けるあたりには、友希那がキス権を使う頻度が減っていった。
それは間違いなくいいことではあると思うのだけど、ほぼ毎日キスを繰り返していたらそれに慣れてしまったというのもまた実情で、言葉にはしないけど、なんだか唇がさびしいと感じることが多かった。
そんなある七月の日のこと。
「そういえば八月にフェスがあるの。ロゼリアでそのフェスのオーディションに挑戦しようと思うけど、リサはどう思う?」
いつも通りアタシの部屋でベッドに座って作曲に勤しんでいた友希那が、ふと思い出したように、隣でベースを弄っていたアタシに尋ねてくる。
「どう思う、って言われてもなぁ。アタシは賛成だけど、まずはみんなの予定から聞かないと。紗夜と燐子も夏は受験勉強とかで忙しいかもだし」
「なるほど、分かったわ。リサは賛成ね。ふふふ……賛成なのね」
やたらと引っかかる言い方だったから、アタシは首を傾げながら友希那の顔を見る。
愛しい恋人の顔。いつも張り付いているクールな表情が崩れ、そこには薄っすらと微笑みが浮かんでいた。見ようによっては良い表情だと思うけど、アタシには分かる。これは何か良くないことを考えている時の顔だ。
「そうしたら、今作っているこの曲も早く完成させなくちゃいけないわね」
「……そう、だね」
何を企んでいるのかな、と思いながら、慎重に言葉を返す。友希那はそんなアタシを見て、やっぱり変わらない微笑みを浮かべている。
「この曲、ベースが主体の曲なのよね。結構フレーズもリズムも激しくて、ソロもあるんだけど……リサ、大丈夫?」
「うーん、聞いてみないとなんとも言えないけど……」
「もし頑張ってくれるなら……ご褒美にキス権をあげるけど、どうかしら?」
「…………」
ああ、そういうことか。
友希那の企みを理解して、まず一番に思ったのは『キス権に理由をつける友希那かわいい』で、次に思ったのは『ご褒美にキスしたいのは友希那じゃないの?』で、最後に思ったのは『いや、ご褒美にキスって響きは確かに素敵だけど』ということ。
それにしても、ご褒美にキス権……かぁ。アタシがベース頑張って、それで……
友希那、アタシこんなに頑張ったんだよ。ほら見てみて、難しいソロパートも完璧に弾けるようになったよ。
リサは頑張り屋さんね。そんなに頑張ってくれたなら……ご褒美をあげないといけないわね。
い、いやいや、アタシは別にキスがしたくて頑張ったわけじゃないって。ロゼリアのためだし、友希那が頑張って作ってくれた曲をちゃんと表げ、ん――
――んっ、ふふ。ごめんなさい、私のためにって言ってくれるリサがとても可愛くて、つい。
…………。
まだ……足りないのね? 仕方のないリサ。こっちへいらっしゃい……
「うん、アタシがんばる」
脳裏に一瞬のうちに描かれた『ご褒美のキス』というシチュエーションが、気付けばアタシの口を動かしていた。
「それでこそリサね。……そうだ、ただキス権っていうだけだと私のと同じだし……そうね、キス権が二十個たまったら、何でも言うことをひとつ聞くわ」
「オッケー、超がんばる」
自分の内側で、かつてないほど炎が猛々しく燃え盛っているのを強く実感する。些細なことはその炎の嵐に全て飲み込まれていく。選択肢を間違えたなぁという悩みの種もその火焔の中に放り込まれてあっという間に燃え尽きた。
それと同時に、「ああ、友希那もアタシに言われた時、こんな気持ちだったんだなぁ」と、最愛の恋人のことをまたひとつ理解出来てアタシは幸せだった。
(何でも言うことを聞く……何でも……えへへ)
そして何でも言うことを聞いてくれる友希那の姿を想像してもっと幸せになるのだった。
おわり
キスが主題の話たちでした。
タイトル通り手軽にさくっと読める話になってたら嬉しいです。
まったく別件ですが、一昨日スマホを床に落として液晶がバグって操作不能になりました。あえなく交換です。
贔屓のプロ野球チームも昨日まで10連敗していましたし、平成の最後は踏んだり蹴ったりだなぁと思いました。
山吹沙綾「誕生日、ペペロンチーノにやさしくされた」
山吹沙綾(高校を卒業してから、気付けば二年が経っていた)
沙綾(花粉の季節もゴールデンウィークも気付けば過ぎていて、今年も今年でもう五月が半分以上が終わったある日)
沙綾(勤めているいる某パン会社から一人暮らしの小平駅近くのアパートへ帰る道すがら)
沙綾(春の風、というには少し温い夜風を浴びながら、ふと気づく)
沙綾(そうだ、今日は私の誕生日だった)
沙綾(そう思って手にしたスマートフォンには、一時間前くらいにみんなからのお祝いのメッセージが届いていた。それに逐一返事を返す)
沙綾(「おめでとう!」「ありがとう」「またみんなで集まりたいね!」「休みの予定はこんな感じだよ」……なんて)
沙綾(高校の友は一生の友、とはよく聞く言葉で、その例に漏れず私が花咲川女子学園で得た親友たちとは今でも深いつながりがある)
沙綾(みんなは大学生で、私は社会人という立場だけど、それでも青春を共にしたという事実が変わるわけでもなくなるわけでもない)
沙綾(みんなとこうして繋がっているんだ、と思うと、社会の荒波に揉まれ、知らず知らずに強張っていた肩からすっと力が抜けるような感覚をおぼえる)
沙綾(私は少しだけ軽くなった足取りで家路を辿った)
――沙綾のアパート――
沙綾(……そして、玄関のドアを開けて、ダイニングキッチンに足を踏み入れて、私は硬直することになる)
沙綾(キッチンとくっついたダイニング。そこに置かれた小さなテーブル)
沙綾(その上に、明らかに出来立てほやほやのペペロンチーノが置かれていたからだ)
沙綾「…………」
沙綾(なにこれ、空き巣? 空き巣の新しい形なの?)
「こんばんは、沙綾さん」
沙綾「えっ!?」
沙綾(不意に名前を呼ばれる。びっくりしてきょろきょろ室内を見回すけど、誰の姿も見えない)
沙綾「だ、誰? 誰かいるの……?」
「私です」
沙綾「私って……まさか……?」チラ
「そうです。あなたの目の前にいるペペロンチーノです」
沙綾「……えぇ」
沙綾(唖然として言葉を失う私を意に介さず、目の前のペペロンチーノは続ける)
「私の名前はチーノ。ペペロンチーノのチーノです。気軽にチーノちゃんとでも呼んでください」
沙綾「え、あ、はぁ……」
チーノ「今日……お誕生日ですよね? 待っていましたよ、あなたが帰ってくるのを」
沙綾「…………」
沙綾(まずいと思った)
沙綾(どうやら私は、気付かないうちに相当疲れをため込んでいたようだ)
沙綾(もう二十歳を超えて、高校生の頃みたいに無理は効かない身体になったんだ)
沙綾(きっとそうだ、そうに違いない。ああ、こういう日は早くお風呂に入って寝よう……)フラフラ
チーノ「あ、お風呂ですか? 沸かしてあるのでゆっくり温まってきてくださいね」
沙綾「え」
チーノ「大丈夫です、ちゃんと浴槽も綺麗に洗っておきましたから」
沙綾「あ、はい……え、いやどうやって……?」
チーノ「お部屋の片付けも簡単にしておきましたよ。捨てようと思ったものは部屋の隅にまとめてあります。曜日ごとに分別してあるので、忘れずに捨ててくださいね」
沙綾「いや……どうやって……」
チーノ「さぁさぁ、何も心配せずに早くお風呂に入ってきてください。今日の入浴剤はヤングビーナスβですよ」
沙綾「買ったおぼえのない入浴剤が勝手に使われてるし……」
沙綾(ダメだ、考えれば考えるほど分からない。このペペロンチーノがどうやってお風呂と部屋を掃除したのか、勝手に知らない入浴剤を使っているのかとか……)
沙綾(……いや、真面目に考えちゃダメだ。きっとこれは夢だ)
沙綾(そうだよ、夢に違いないよ。やだなぁホント、夢の中でこんなマジになっちゃって……さっさとお風呂に入って寝よ……)フラフラ
チーノ「ごゆっくりどうぞ」
……………………
チーノ「ヤングビーナスβは別府温泉の湯の花エキスを配合した入浴剤で、温泉由来の成分が温浴効果を高め血行を促進し、新陳代謝を促します。弱アルカリ性のまろやかな湯質で、敏感肌の方、乾燥肌の方にもおすすめです」
沙綾「…………」
沙綾(湯船に浸かってぼんやりとしてから再びダイニングキッチンに足を運ぶと、やっぱりペペロンチーノはほかほかと湯気を上げながらテーブルに鎮座していた。そして聞いてもいない入浴剤の説明を饒舌にしてきた)
チーノ「βの特徴としましては、無香料・微着色という点が挙げられます。入浴剤と言えば香りで気分をゆったりさせるものですけども、このヤングビーナスβはあえて香料を用いず、温浴効果を際立たせることを重要視しています」
沙綾(そっかー……夢じゃないのかー……)
チーノ「微着色というのは、ビタミン色素によってほんのりとお湯の色が変わるということです。これなら浴槽の洗浄も比較的楽ですし、淡い山吹色のお湯に浸かることは精神的にも――」
沙綾「ねぇ、えぇと、チーノちゃん……?」
チーノ「はい、なんでしょうか」
沙綾「君はペペロンチーノ……なんだよね?」
チーノ「イエス、ペペロンチーノ」
沙綾「えーっと、その、どうして喋れるの?」
チーノ「むしろどうしてペペロンチーノが喋れないのかと。そういう常識を疑うべきです」
沙綾「えぇ……」
沙綾(当たり前みたいな風に言い切られた……)
チーノ「ふんふんふーん♪」
沙綾(鼻歌まで歌ってる……いや、もうこの際それはあんまりよくないけどいいや)
沙綾「それで、どうして君はここにいるの?」
チーノ「よくぞ聞いてくれましたっ」
沙綾(うわぁ、待ってましたと言わんばかりの嬉々とした声……)
チーノ「私がここにいる理由。それは沙綾さんの助けになりたかったからです」
沙綾「助けに?」
チーノ「はい。私は沙綾さんにご購入いただいてから、ずっと戸棚の中であなたのことを見ていました」
沙綾「購入……?」
チーノ「覚えてませんか? 一週間前、スーパーの割引コーナーにいた私のことを」
沙綾「……あー」
沙綾(そういえば先週の日曜日にペペロンチーノのパスタソースが安かったから買ったような気がする)
チーノ「あの日のことは今でも鮮明に思い出せます」
沙綾「はぁ」
チーノ「あの割引コーナーは食材の墓場です。打ち立てられた【大特価!】の赤札は、さながら現代の飽食を象徴した墓標です」
沙綾「…………」
チーノ「その地獄から私を救い出してくれたのがあなたです、沙綾さん」
沙綾「ああ、うん……」
チーノ「あなたは毎日忙しそうにしていました。朝早くに家を出て、夜遅くに帰ってきて……休みの日は家事に追われて……」
沙綾「いや、そんな言うほどでもないけどなぁ」
チーノ「だから私は決めたんです。大変そうな沙綾さんを癒してあげよう! と。そう強く思っているうちに、こうなっていました」
沙綾「因果関係がこれっぽっちも分からないよ」
チーノ「アレです、付喪神みたいなものです」
沙綾「……そっか」
沙綾(付喪神がつくほど売れ残ってたのかな……賞味期限の偽装とかされてないよね……)
沙綾(いや、ていうかそんなことよりもペペロンチーノが喋ったりする方がよっぽどおかしいか……)
チーノ「なので沙綾さん。存分に癒されてくださいね」
沙綾「……気持ちは嬉しけど、もうこれ以上は平気だよ」
チーノ「何を言ってるんですか、メインはこれからですよ」
沙綾「え」
チーノ「さぁ、食べてください」
沙綾「食べてって……君を?」
チーノ「はい。食べ物ですから」
沙綾「…………」
沙綾(いや、こんな喋ったりする得体のしれないものなんか食べたくないんだけど……)
チーノ「沙綾さん? どうかしましたか?」
沙綾「えっと、気持ちだけでお腹いっぱい……かな」
チーノ「何を言ってるんですか。沙綾さんはペペロンチーノが大好物じゃないですか」
沙綾「好きは好きだけど、流石にちょっと……」
チーノ「じれったいですね……そっちがその気なら……」フワリ
沙綾「え……えっ?」
沙綾(パスタ麺が宙に浮いた……?)
チーノ「私が食べさせてあげますから、沙綾さん。お口を開けてください」
沙綾「ちょ……!」
沙綾(ひゅん、とどこからともなくフォークが飛んできて、ペペロンチーノに刺さる。そしてくるくる巻かれる。それからそれが私の口元へ迫ってくる)
沙綾(なにこれ……?)
チーノ「食べ物は食べられてこその食べ物なんです。それが私たちのレゾンテートルなんです。知り合いのところてんさんも言っていました。『売れ残るとスーパーで肩身が狭い』って」
沙綾「そ、そう言われても……」
チーノ「ペペロンチーノ、好きって言ったじゃないですか」
沙綾「好きは好きだよ? でも、流石に君は食べ辛いっていうか――」
チーノ「好きなら問題ありませんよね。はい、あーん」
沙綾「いや、しないよ……?」
チーノ「どうしてですか」
沙綾「……正直に言うと、得体の知れないペペロンチーノは食べたくない……かな」
チーノ「…………」
沙綾「…………」
沙綾(ちょっと言い過ぎちゃったかな……)
チーノ「……仕方ありませんね」
沙綾「あ、よかった。大人しく引き下がって――」
チーノ「無理矢理食べさせましょう」
沙綾「くれてない!」
チーノ「はぁっ!」
沙綾「きゃっ!? ……え、あれ……か、身体が動かせない……!?」
チーノ「見えない麺で拘束させて頂きました。付喪神ですから、この程度造作もありません」
沙綾「なにそれ!?」
チーノ「ついでに肩と背中をマッサージしてあげます」モミモミ
沙綾「チ、チーノちゃん! そんなワケ分かんない力でマッサージしないで!」
チーノ「うるさいですね……」モミモミ
沙綾「あ、あぁ~……肩こりと背中の張りが楽になってく……」
チーノ「はい、今日のお仕事は終わりですよ。お疲れさまでした」モミモミモミモミ
沙綾「うぅ……」
チーノ「こんなにがっちがちに肩がこるまで一生懸命頑張ってしまう沙綾さんを見過ごせません。やはり私が癒してあげないと……」
沙綾「いや、もう十分に癒されたから……」
チーノ「ダメです。まだ足りてません。さぁ、お風呂で温まって、凝り固まった肩と背中をほぐしたら、次は美味しいご飯の時間ですよ」サッ
沙綾「だからペペロンチーノは……好きだけど、それは……」
チーノ「上手にブレーキを踏めない沙綾さんのために、私があなたの中にいます。胃の中でしっかりもたれてあげますから」
沙綾「いやそれは本当にゴメンなんだけど」
チーノ「私のベーコンを噛まないで飲んでください」
沙綾「いやいや、そのベーコンの厚さはヤバすぎでしょ? ベーコンステーキって呼ばれるやつだよねそれ?」
チーノ「ニンニクとオリーブオイルに絡めて、風味もばっちりです。美味しいですよ」
沙綾「美味しそうは美味しそうだけど……ちょ、近い、そんなグイグイしないで!」
チーノ「あーんしてください。あーん」グググ
沙綾(あ……これ食べないと多分ダメなやつだ……ペペロンチーノに窒息させられるやつだ……)
沙綾「うぅ……あんまり食べたくないけど……あ、あーん」
チーノ「それでこそ沙綾さんですね。それっ」
沙綾「あむ、むぐ……あ、美味しい」
チーノ「でしょう?」
沙綾「う、うん……」
チーノ「ふふ……お誕生日おめでとうございます、沙綾さん」
沙綾「えーっと、ありがと」
チーノ「さぁ、さめる前に食べきってくださいね」グイグイ
沙綾「わ、分かったからそんなにフォークを押しつけてこないでってば」
沙綾(けど……本当に美味しいは美味しいし……まぁいいのかな……)
チーノ「ああ、沙綾さんの中に私が入ってます……ひとつになってます……」
沙綾「……いややっぱ食べづらいよ……」
――――――――――
―――――――
――――
……
――山吹家 沙綾の部屋――
――ピピピピピ...
沙綾「……はっ」
――ピピピピピ...
沙綾「…………」ムクッ、カチャ
沙綾「…………」
沙綾「ああ、やっぱり夢だった……」
沙綾「ここ私の部屋だし……自分の家だし……今は高校二年生だし……」
沙綾「なんであんな変な夢見たんだろ。誕生日は先週だったのに――あ」
沙綾(枕元のスマートフォンに目をやって、昨日の夜にモカから送られてきた動画を思い出す)
青葉モカ『沙綾にぴったりの歌見つけたから、弾き語りした動画送るね~』
沙綾(とか、そんな感じのこと言って、おかしな歌詞の歌をやたらと切ない調子の弾き語りで披露してくれた)
沙綾「絶対あれのせいだ……なんか本当に胃もたれしてる感じがする……」
沙綾(恨みがましくスマートフォンを見つめる)
沙綾(誕生日をまた祝ってくれたのは嬉しいけど……もう少し、何かこう、他になかったのかな……)
沙綾(胸のあたりには、夢の中で厚切りベーコンステーキを本当に噛まないで飲み込まされた感触が残っているような気がした)
沙綾(もうしばらく……ペペロンチーノは食べたくない……)
おわり
参考にしました
家の裏でマンボウが死んでるP 『誕生日、ペペロンチーノにやさしくされる』
https://nico.ms/sm14794929
言い訳だけします。
お誕生日というのは特別なものだし妙齢の女性とかでもなければ何度祝われても嬉しいものは嬉しいだろうと思いました。当日はメットライフドームで端から見たら気持ち悪いくらい心を込めてバースデーソングを沙綾ちゃんに歌ったしこれくらいはまぁいいんじゃないかと思いました。
そんなアレでした。
ハッピーバースデー沙綾ちゃん。そしてごめんなさい。
――氷川家 紗夜の部屋――
氷川日菜「…………」
羽沢つぐみ「…………」
363: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/20(水) 22:32:41.44 ID:gN/n8PIA0
日菜「おねーちゃん、なかなか帰ってこないね」
つぐみ「そうですね。ロゼリアの練習が長引いてるんでしょうか」
日菜「かもねー。……そういえば、つぐちゃん」
つぐみ「はい、なんですか?」
日菜「すっごく自然だったから何も言わなかったけど……どうしておねーちゃんの部屋にいるの?」
つぐみ「え、紗夜さんのお誕生日だからですけど……」
日菜「そっかー、じゃあ仕方ないね。部屋の中につぐちゃんいた時はちょっとびっくりしちゃったけど」
つぐみ「あ、日菜先輩もお誕生日おめでとうございます」
日菜「ん、ありがと」
364: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/20(水) 22:33:08.14 ID:gN/n8PIA0
つぐみ「誕生日繋がりですけど……日菜先輩、パスパレの方はいいんですか?」
日菜「何が?」
つぐみ「イヴちゃん、今年もたくさんお祝いするんだーって気合入れてましたよ。お誕生日会開いてくれるんじゃないですか?」
日菜「あー、それなら明日やるからヘーキだよ。今日はおねーちゃんの誕生日をお祝いさせてほしいってみんなに言ってあるから」
つぐみ「なるほど」
日菜「うん」
365: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/20(水) 22:33:34.41 ID:gN/n8PIA0
つぐみ「…………」
日菜「…………」
366: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/20(水) 22:34:13.18 ID:gN/n8PIA0
つぐみ「紗夜さんって」
日菜「うん」
つぐみ「私のこと好きですよね」
日菜「どうしたの? 頭の中に花粉でも入っちゃった?」
つぐみ「いえ、なんとなく思っただけです」
日菜「そっか。まーつぐちゃんがどう思おうと勝手だけど、おねーちゃんはあたしの方が大好きだからね」
つぐみ「誕生日だからって言って良いことと悪いことがあると思いますよ」
日菜「宣戦布告はつぐちゃんからだよね?」
つぐみ「せ、宣戦布告なんてしてないですよ。事実を話しただけですから」
日菜「やっぱり戦争するしかないみたいだね」
つぐみ「そういうのは良くないと思います」
日菜「つぐちゃんがそれ言うの?」
つぐみ「いえ、紗夜さんが私のことを好きなのは疑いようない事実ですから」
日菜「もうヤル気満々だよね? あたしは受けて立つよ?」
つぐみ「勝敗は決まってますし、戦う気はありませんよ」
日菜「そうなんだ」
つぐみ「はい」
367: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/20(水) 22:34:38.86 ID:gN/n8PIA0
日菜「…………」
つぐみ「…………」
368: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/20(水) 22:35:23.68 ID:gN/n8PIA0
日菜「話変わるけどさ」
つぐみ「はい」
日菜「おねーちゃんってさ、優しいんだ」
つぐみ「はい」
日菜「今年……あ、もう去年か。花女と一緒に天体観測したよね?」
つぐみ「ええ。みんな楽しそうで私も嬉しかったですし、天文部が続けられてよかったですね」
日菜「ありがと。でね? その時にこんな話したんだ。ふたご座はふたごだけど、それぞれに輝き方が違うって。だからあたしとおねーちゃんはそれぞれ自分らしく輝けばいいって」
つぐみ「はい」
日菜「だからそれぞれが違うからこそ助け合える……これって半分愛の告白だよね」
つぐみ「違うんじゃないですか?」
日菜「なんで?」
つぐみ「多分ですけど、紗夜さんはそんなつもりで言ったんじゃないと思います」
日菜「そうかなぁ。あれは照れ隠しだと思うけど」
つぐみ「それは勘違いですね。間違いないです」
日菜「つぐちゃんがイジワルする~……」
つぐみ「すいません、そこは譲っちゃいけないって思ったので……」
日菜「そっかぁ、じゃあ仕方ないね」
369: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/20(水) 22:35:54.79 ID:gN/n8PIA0
つぐみ「…………」
日菜「…………」
370: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/20(水) 22:36:57.77 ID:gN/n8PIA0
つぐみ「紗夜さんって」
日菜「うん」
つぐみ「珈琲、好きですよね」
日菜「うん」
つぐみ「去年の話ですけど、紗夜さんがどれくらいウチに珈琲を飲みに来てくれたか知ってますか?」
日菜「43回でしょ?」
つぐみ「57回です」
日菜「おねーちゃん、あたしの知らないとこでそんなに通ってたんだ」
つぐみ「はい、たくさん来てくれました」
日菜「それで、それがどうかしたの?」
371: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/20(水) 22:37:25.33 ID:gN/n8PIA0
つぐみ「年に57回ってことは、最低でも毎週1回以上は珈琲を飲みに来てくれてるってことですよね?」
日菜「そうだね」
つぐみ「足しげく、習慣のように私のもとへ来てくれる……これって半分愛の告白ですよね」
日菜「それは違うんじゃないかな?」
つぐみ「どうしてですか?」
日菜「おねーちゃんが好きなのは珈琲で、つぐちゃんが目的でつぐちゃん家のお店に行ってる訳じゃないよ」
つぐみ「そうですかね。紗夜さんの照れ隠しだと思いますけど」
日菜「それはただの勘違いだね。間違いなく」
つぐみ「……そう、ですか……」
日菜「ごめんね、ここはあたしも譲れないから」
つぐみ「いえいえ、仕方ないことですから」
日菜(……やっぱりおねーちゃんが絡むとつぐちゃんは強敵だ)
つぐみ(流石日菜先輩……紗夜さんが絡むことにはすごく強い……)
372: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/20(水) 22:37:51.41 ID:gN/n8PIA0
日菜「…………」
つぐみ「…………」
373: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/20(水) 22:39:09.75 ID:gN/n8PIA0
日菜「そういえばさ」
つぐみ「はい」
日菜「おねーちゃんになに用意したの?」
つぐみ「誕生日プレゼントですか?」
日菜「うん。ちなみにあたしはパスパレのみんながくれたプラネタリウムのチケットと、都内で有名な美味しいケーキ屋さんのケーキだよ」
つぐみ「私はわんニャン王国の年間ペアパスポートと手作りケーキです」
日菜「そうなんだ。でもおねーちゃん、去年……去年だっけ? あれ……?」
つぐみ「去年でいいと思いますよ」
日菜「そっか。それじゃあ去年、友希那ちゃんに同じようなの貰ってたよ」
つぐみ「はい。日菜先輩と行ってとても楽しかったって言ってました」
374: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/20(水) 22:39:39.36 ID:gN/n8PIA0
日菜「でしょ? それと同じものをあげるのってどうなのかなぁ?」
つぐみ「違いますよ、日菜先輩。これは一度きりのチケットじゃなくて、今日から一年間使い放題のペアチケットです」
日菜「へぇ~」
つぐみ「こういうところは季節で催し物が変わりますし、何度行っても楽しいはずです。だから紗夜さん、きっと喜んでくれると思います」
日菜「そっかぁ」
つぐみ「それに義理堅い紗夜さんは、きっと私を一度目のフリーパスに誘ってくれると信じてます」
日菜「つぐちゃん、もしかして羨ましかったの?」
つぐみ「…………」フイ
日菜「誰にも言わないよ?」
つぐみ「……はい、実はちょっと……いえ、かなり……じゃなくて、すごく……」
日菜「そっか」
日菜(乙女だなぁつぐちゃんは)
375: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/20(水) 22:40:15.64 ID:gN/n8PIA0
つぐみ「わ、私のことは置いておいて、日菜先輩はどうなんですか?」
日菜「なにが?」
つぐみ「パスパレのみなさんから貰ったプラネタリウムのチケットって言ってましたよね?」
日菜「うん。みんながおねーちゃんと行ってきてって、さっきくれたんだ」
つぐみ「…………」
日菜「つぐちゃん?」
つぐみ「いえ……なんでもないです……」
日菜「ふーん?」
つぐみ(貰いものをプレゼントするのは、なんて言おうとしたけど……パスパレのみなさんの気持ちも入ってるものだからやっぱりそんなこと言えないよ……)
日菜(よく分かんないけど何かすごく真面目なこと考えてそう)
つぐみ「……ケーキ、美味しそうですね。すごく豪華な箱に入ってますし」
日菜「なんかすっごく有名なお店のやつで、朝から並ばないと買えないんだって。ウチのスタッフさんが事務所の伝手で話つけて用意してくれたんだ」
つぐみ「そうなんですね……はぁ……」
376: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/20(水) 22:40:47.75 ID:gN/n8PIA0
日菜「どしたの、急にため息吐いて?」
つぐみ「その、なんだか自信がなくなってきて……。そうですよね、赤の他人の私なんかよりたった一人の大切な妹の日菜先輩からの豪華なプレゼントの方が嬉しいに決まってますよね……って思っちゃいまして……」
日菜「そんなことないよー。おねーちゃん、基本的に物を貰うのは嫌がるっていうか、あんまり嬉しがらないんだ」
つぐみ「…………」
日菜「つぐちゃんのケーキ、手作りでしょ? そういう気持ちが入ってる物はおねーちゃんだって嬉しいって思うだろーし」
つぐみ「そう……ですか……?」
日菜「そーだよ、きっと! だから元気出して、つぐちゃん。つぐちゃんが元気ないと、あたしもおねーちゃんのことで張り合いがなくなっちゃうよ」
つぐみ「……そう、ですね。やる前から諦めてたらダメですよね!」
日菜「そーそー! 薫くんも言ってたよ。何もしなければ何も始まらないって!」
つぐみ「分かりました! ありがとうございます、日菜先輩!」
日菜「それでこそおねーちゃんのことが大好きなつぐちゃんだよ」
つぐみ「はい! 大好きです!」
377: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/20(水) 22:41:28.06 ID:gN/n8PIA0
――氷川家 廊下――
氷川紗夜「…………」
<ダイスキナツグチャンダヨ
<ハイ! ダイスキデス!
紗夜(ロゼリアの練習から帰ってきたら、妹と、親しい友人が私の部屋に勝手に入って何かをしていた)
紗夜(私のプライバシーはどこへ行ってしまったのだろうか)
<マケマセンヨ、ヒナセンパイ!
<アタシダッテマケナイヨ!
紗夜(……だけどなんだかとても仲良さそうにしているし、あの2人に見られて困るようなものも置いていないし……いいのかしらね)
紗夜「けど、入るタイミングを完全に逃したわね……」
378: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/20(水) 22:41:57.86 ID:gN/n8PIA0
<ア、コノボードニカザッテアルノッテ...
<シャシン、デスネ
紗夜(日菜と羽沢さんがあんなに親しくしているとは知らなかったし、急に入っても邪魔になるだけよね)
<...エ、コレッテ...
<ソ、ソンナ...サヨサン...
紗夜(だけど流石にギターは部屋に置きたい……どうすればいいのかしら)
<...
<...
紗夜「あら? 急に静かになったわ。……入るなら今がいいわね。それから一応注意もしておかないと」
――ガチャ
紗夜「ただいま。日菜、勝手に私の部屋に入らな……」
日菜「っ!」キッ
つぐみ「っ!」キッ
紗夜「……えっ」
紗夜(どうして私は2人にいきなり睨まれているのかしら……?)
379: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/20(水) 22:42:46.11 ID:gN/n8PIA0
日菜「おねーちゃん……これ、どういうこと……?」
紗夜「何の話? それよりも、私の部屋に勝手に……」
つぐみ「紗夜さん……これ、嘘ですよね……?」
紗夜「……はい? 羽沢さんもどうしたんですか?」
日菜「とぼけないでよ! このボードに貼ってある写真……っていうか、正確にはプリクラ!」
つぐみ「ロゼリアのみなさんとのツーショット写真もありますけど、これに関してだけはちゃんと話をして欲しいです……」
紗夜「プリクラ……ああ、今井さんと撮った」
日菜「っ!!」
つぐみ「そ、そんな……紗夜さん、本当に……?」
紗夜「どうしてそんなショックを受けた顔をしているの、あなたたちは?」
380: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/20(水) 22:43:44.00 ID:gN/n8PIA0
日菜「どうして!? おねーちゃん、こーいうの絶対に撮らないじゃん!?」
つぐみ「そ、そうですよ。何かの間違いですよね?」
紗夜「どうしても何も、それは私から今井さんにお願いして撮ってもらったものよ」
日菜「なっ……!?」
つぐみ「そんな……!」
紗夜「だからどうしてそんな衝撃的な告白をされたような顔を……」
日菜「あたしたちにとっては十分衝撃的だよ!!」
つぐみ「そうですよ! 少しは私たちの気持ちを考えてください!!」
紗夜(何故私が怒られる立場なのかしら……)
381: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/20(水) 22:44:39.07 ID:gN/n8PIA0
日菜「これ、どうしておねーちゃんの方からリサちーに頼んだの!?」
つぐみ「返答次第ではいくら紗夜さんといえど……!」
紗夜「別に深い理由はないわよ。というか、私に何をするつもりなんですか羽沢さんは」
日菜「深い理由もなく!? じゃあ、リサちーの隣にある燐子ちゃんとのプリクラは!?」
紗夜「それは……ええと、まず白金さんから相談されたのよ。人の多い場所に慣れたいから、少し付き合ってくれないかって」
つぐみ「それとこれとにどういう関係が……はっ、まさか付き合ってってそういう……!?」
紗夜「そのまさかが何のまさかは計り知れないけど、羽沢さんが考えていることではないと断言できるわ」
紗夜「白金さんにはプリクラというものに付き合ってほしいと言われたのよ。そういうところに行ってみれば少しは人混みが苦手なのも克服できるかもしれないから……と」
紗夜「仲間の相談は無下には出来ないわ。だから私は頷いたんだけど、私だってそういう場所には縁がなかったから、白金さんと一緒に行く前に今井さんに手ほどきを受けた。それが今井さんとのプリクラね」
日菜「じゃ、じゃあ、おねーちゃんとリサちーと燐子ちゃんの3人で行けばよかったじゃん!? どうして両方ともツーショットなの!?」
紗夜「今井さんと白金さんの予定が合わなかったのよ。幸い、私は2人の都合に合わせられたからそれぞれと行ったというだけ」
382: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/20(水) 22:45:11.58 ID:gN/n8PIA0
つぐみ「そんな……こんなことって……」
日菜「こんなの……あんまりだよ……」
紗夜「……2人がそこまで落ち込んでいる理由が分からないんだけど……というか、そもそも私の部屋に勝手に――」
日菜「だってだって!」
紗夜(……話を最後まで聞きなさい、と言いたい。けれどこういう時は日菜に思うだけ喋らせた方が早いかしらね……)
日菜「おねーちゃんの初めてがリサちーに盗られちゃったんだよ!?」
紗夜「やっぱり全部喋らせるべきじゃなかったわ」
つぐみ「紗夜さんの初めてが……うぅ……」
紗夜「羽沢さんも何を言っているんですか? 私は日菜の相手だけで手一杯ですよ?」
383: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/20(水) 22:46:12.58 ID:gN/n8PIA0
日菜「ああぁ……これであたしとプリクラを撮りに行ってもおねーちゃんに思われるんだ……」
紗夜『へぇ、日菜はこうするのね。今井さんはもっと上手だったけれど……まぁ、人それぞれよね』
日菜「って……」
紗夜「…………」
つぐみ「かといって……ちょっと拙くリードされる展開を期待しても……」
紗夜『羽沢さんはこういうのに慣れていないのね。でも白金さんよりは教えやすいかしら……少し物足りないわね』
つぐみ「って比較されて……」
紗夜「…………」
日菜「あたしはどうすればいいの、おねーちゃん!?」
つぐみ「私はどうしたらいいんでしょうか、紗夜さん!?」
紗夜「そっくりそのまま2人にその言葉を返すわよ」
384: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/20(水) 22:47:10.68 ID:gN/n8PIA0
日菜「その言葉を……」
つぐみ「返す……」
紗夜「……ええ」
日菜「…………」
つぐみ「…………」
紗夜「…………」
紗夜(そんなに難しい顔をして考えるようなことだったかしら)
日菜(『どうすればいいの』を返すってことは……?)
つぐみ(『あなたのためなら何でもしてあげるわよ』ってこと……!?)
日菜「……あは」
つぐみ「……えへ」
紗夜(……なんだろうか、何故だかとても嫌な予感がする)
385: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/20(水) 22:47:41.92 ID:gN/n8PIA0
日菜「おねーちゃんの気持ちは分かったよ! ね、つぐちゃん!」
つぐみ「はい! 順番なんて気にしてた私たちが間違ってました!」
紗夜「…………」
紗夜(どうしてだろうか、2人の言葉が私の中の何かにひっかかる)
日菜「とりあえずおねーちゃん、今度プラネタリウム行こ!」
紗夜「……まぁ、いいけど」
つぐみ「紗夜さん、一緒にわんニャン王国に行きましょう!」
紗夜「……ええ、いいですけど」
日菜「まったくもー、おねーちゃんってば恥ずかしがりの言葉足らずなんだから~!」
つぐみ「でもそういう優しくて照れ屋さんなところ、すごく素敵だと思います!」
紗夜(……安易に頷かない方がよかったような気がしてならない)
386: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/20(水) 22:48:29.89 ID:gN/n8PIA0
日菜「あ、そうだ!」
つぐみ「そういえばすっかり言い忘れてましたね」
紗夜「今度はどうしたのよ……」
日菜「おねーちゃん、お誕生日おめでとう!」
つぐみ「おめでとうございます、紗夜さん!」
紗夜「……ええ、そうだったわね。ありがとう、日菜、羽沢さん。それと……日菜もおめでとう」
日菜「ありがと!」
つぐみ「これ、私たちからのプレゼントです!」
紗夜(プラネタリウムのチケットとわんニャン王国の年間ペアチケット……)
紗夜(特に何の変哲もない物だけど、どうしてこんなにも嫌な予感がするのだろうか)
387: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/20(水) 22:49:18.49 ID:gN/n8PIA0
紗夜「ええと、ありがとう?」
日菜(おねーちゃんとプラネタリウム行って、スマイル遊園地にも行って、プリクラであたし色にして……えへへ、楽しみだなぁ~!)
つぐみ(紗夜さんと月一回わんニャン王国デート……ふれあいコーナーでわんわんしてニャンニャンして……犬耳とか付けたら私もたくさん撫でてくれて……ふふ、楽しみだなぁ)
紗夜(どうしてだろうか。何でもない言葉のはずなのに、何故かこう……身の危険を感じるというか、何か見えない欲望が私を取り巻いているような気が……)
日菜「ケーキもあるよ! はい、あたしとつぐちゃんからのバースデーケーキ!」
つぐみ「あ、私お茶淹れますね! こんなこともあろうかと色々家から持ってきてるので!」
紗夜「……ええ」
日菜「今年もよろしくね、おねーちゃん!」
つぐみ「今年もよろしくお願いしますね、紗夜さん!」
紗夜「そう、ね……よろしくお願いします」
日菜「あはは!」
つぐみ「えへへっ」
紗夜(……まぁ、気にしたら負け……なのかしらね……?)
後日、日菜ちゃんとつぐちゃんに色々と振り回されまくって、軽々しく頷いたことを後悔する紗夜さんでしたとさ。
おわり
388: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/20(水) 22:50:04.06 ID:gN/n8PIA0
今朝のおはガチャで紗夜さんの限定☆4が出て、「あ、誕生日にこれって紗夜さん俺のこと好きだな」とかなり気持ち悪いことを思いました。
そんな衝動で書いた話でしたすいませんでした。
お誕生日おめでとうございます、紗夜さん、日菜ちゃん。
390: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 00:36:55.33 ID:8BOSmMOw0
白金燐子「夜光虫」
391: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 00:37:22.59 ID:8BOSmMOw0
スマートフォンの時計には午前二時の表示。それを確認してから車の運転席に乗り込んで、バッグとスマホを助手席に放る。クラッチを踏み込んで、プッシュスタートを押し込んだ。
セルの回る音が二度してから、エンジンに火が灯る。遠慮がちな排気音が夜半の冷たい空気を震わせた。
『1』の数字の辺りで微かに揺れるタコメーターを見つめながら、やっぱり寒いのは嫌いだ、とわたしは思う。
季節は晩冬、二月の終わり。足元から身体の熱を奪っていく鋭い寒さも幾分和らいだとは言えども、夜中から明け方にかけては吐く息が真っ白に染め上げられる。手がかじかんでキーボードも思うように叩けないし、本当に寒いのは嫌いだ。
それに、わたしにとって冬は別れの季節だ。
一年前の今頃を思うと、今でもわたしの胸の中は色んな形がぐちゃぐちゃに混ざり合った気持ちで一杯になる。特に、温かな思い出が色濃く残る、この淡い青をしたスポーツハッチバックを運転している時は。
それでもこの車に乗り続けているのだから、わたしもわたしでいつまでも未練がましい女だと思う。
憂色のため息を吐き出す。それからシートベルトをして、わたしは家の車庫から車を出した。
392: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 00:37:59.39 ID:8BOSmMOw0
◆
車の免許を取ったのは、二年前……大学一年生の春だった。
いつか免許は取るだろうけど車を運転することは多分ないだろう。最初こそはそんな風に思っていた。その気持ちが変わったのは、あこちゃんと行ったゲームセンターでのことだった。
「りんりん、NFOのアーケードバージョンが出るんだって! やりに行こ!」
そんな誘い文句に頷いて、二人で一緒にそれをプレイした。それから「一度やってみたかったんだ」とあこちゃんが言っていた、レースゲームで一緒に遊んだ。
それは群馬最速のお豆腐屋さんが主人公のゲームで、出てくる車の名前も全然分からなかったけど、それでもハンドルを握ってアクセルを踏み込むのが楽しかった。
その時に初めて実際の車を動かしてみたいと思って、それからすぐに車の免許を取った。そして、「新しく車買うから、今あるやつは燐子の好きに使っていいぞ」と、お父さんが今まで乗っていた車を譲り受けることになった。
393: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 00:38:29.71 ID:8BOSmMOw0
淡い青色をしたスポーツハッチバック。かつて日本で一番売れていた車の名前を冠しているそれは、スリーペダル……いわゆるMT、マニュアルトランスミッションだった。
教習所では一応マニュアルで免許を取っていたから、道路交通法上は乗れる車。だけど流石に最初は怖かった。
「大丈夫だよ、今の技術はすごいから。この車はな、電子制御で発進のサポートとシフトチェンジ時の回転数を合わせてくれて……いやでもやっぱりそういうのは自分でやりたいっていうのもあるんだけどな? だけどやっぱりこういうのがあると楽だよ。だから大丈夫大丈夫」
そんなことをお父さんは言っていたけど、免許を取りたてで、車の種類も未だによく分からないわたしには何を言っているのか理解できるはずもない。
だから最初はお父さんに助手席に乗ってもらって運転していた。そうしてひと月も経つと、車の操作には慣れた。でもやっぱり公道はまだ少し怖かった。
394: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 00:38:57.39 ID:8BOSmMOw0
そんな時にわたしのドライブに付き合ってくれたのが、紗夜さん――今は氷川さんと呼ぶべきか――だった。
「い、命の保証は出来ないけど……付き合ってください……」
「そんなものに私を巻き込むのね……」
氷川さんはそう言って呆れたような顔をしていたけれど、わたしが頼めばいつだって助手席に乗ってくれた。
わたしは運転席から眺める氷川さんのその横顔が好きだった。
ありがとうございます、やっぱり優しいですね。そう言うと、いつも照れたように「別に」と助手席の窓へ顔を向ける仕草が愛おしかった。
けれど、彼女がこの車に乗ることはきっともうないのだろう。
395: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 00:39:38.85 ID:8BOSmMOw0
◆
わたしは夜中の道路が好きだった。人も車も少ないそこをマイペースに走るのが好きだった。今日も今日とて、習慣になっている午前二時過ぎのドライブだ。
国道を適当に北にのぼる。無心にクラッチを踏んでシフトを動かし、アクセルを踏み込む。窓の外を流れていく街灯や微かな家々の明かりを横目に、どこへ行くともなく、ただただ走り続ける。
けれども赤信号に引っかかって手持ち無沙汰になると、どうしてもわたしの視線はがらんどうの助手席へ向いてしまう。
そこにいるハズなんかないのに、それでももしかしたら、なんて愚かな期待を持ちながら、わたしの視線は左隣へたゆたう。だけどやっぱりそこには誰もいなくて、瞳には少し遠い助手席の窓の風景が映り込むだけ。
かぶりを振って、努めてドライブのことだけを考えるようにする。
いい加減今日の行き先を決めよう。そう思って、ナビのディスプレイをタッチした。
その途端、いつかの冬の一日が脳裏に蘇る。
396: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 00:40:25.42 ID:8BOSmMOw0
あれは海に向かって鳥居が立つ神社に朝日を見に行った時のことだ。
あの日もいつものように氷川さんをわたしが迎えに行って、今日みたいに夜中の二時に出発して、茨城の大洗を目指した。
氷川さんは「こんな夜更けに出かけるなんて、あまり良いことだとは言えないわね」なんて言っていた。だけど助手席の横顔は少し楽しそうで、それがすごく可愛いと思った。
夜中の道路は空いていたから、わたしたちは午前五時前に目的地に着いてしまって、空が明るみ始めるまで駐車場でなんともない会話を交わした。エンジンは切っていたからどんどん車内の気温は下がるけど、家から持ってきておいた毛布にくるまって日の出を待っていた。
……あのまま時間が止まってくれていたならどんなに幸せだったろうか。
寒い寒いと震えながら笑っていたことも、海に向かう鳥居にかかる鮮やかな朝日も、車に戻るとフロントガラスが凍っていたことも、その氷が溶けるまで肩を寄せ合っていたことも、今でも手を伸ばせば届く距離にあったならどれだけ幸せだったろうか。
397: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 00:41:05.61 ID:8BOSmMOw0
ナビやシフトの操作。そのために忙しなく動くわたしの左手は、助手席の氷川さんの一番近くにあった。
二人でナビと睨めっこしてはディスプレイに触れ、あるいは氷川さんがドリンクホルダーに手を伸ばした時にわたしがシフトを操作して、偶然重なる手と手。その時に感じられた、氷川さんの冷たかった右手の温もりが蘇ってしまう。
だけど今のわたしは一人きり。寂れた冷たい街灯の下、夜の空気を震わせる車の中にそんな温もりなんてない。何度助手席を見たってそこはからっぽだ。
考えないようにしていたのにまた氷川さんのことを考えてしまっている自分に自嘲とも落胆ともつかないため息を吐き出す。それから「今日は朝日でも見に行こう」と誰に聞かせるでもなく言葉にして、わたしは千葉に向かうことにした。
398: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 00:41:56.75 ID:8BOSmMOw0
◆
北にのぼり続けた国道を、荒川を超えた先の交差点で右に曲がり環状七号線に入る。それからしばらく道沿いに走り続け、国道14号線、船橋という青看板が見える側道に入り、東京湾を沿って千葉を目指した。
東京を抜けるまではトラックやタクシーもそれなりに走っていたけど、千葉駅を超えて16号線へ入るころにはほとんどわたし以外の車は見当たらなくなった。
そのまま内房に沿って南下し続けて、木更津金田ICから東京湾アクアラインに乗る。
ETCレーンを通り抜け、3速でアクセルを踏み込み、HUDの速度表示が時速80㎞になったところで6速にシフトを入れる。右足の力を緩め、ほとんど惰性で走るように速度を維持した。
ナビのデジタル時計は午前五時だった。まだまだ朝日は遠くて、眼前に広がる西の空の低い場所には、少し欠けた丸い月が見える。
399: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 00:42:43.56 ID:8BOSmMOw0
今日は朝日を見ようなんて思い立ったけど、わたしは朝が嫌いだ。習慣になっている夜中のドライブでは特にそう思う。
東から明るみ始める空。徐々に増えていく交通量。
夜が追い立てられて、わたしから離れていく。それを必死に追いかけようとしたところで、増えていく車のせいで思うように走れない。夜がどんどん遠くへ行ってしまう。どんなに手を伸ばしたって、懸命に走ったって、届かない場所へ行ってしまう。
だから朝が嫌いだ。わたしはきっといつまでも夜が好きなんだ。ずっとずっと、あの冷たい温もりに浸されていたんだ。
そんな子供みたいなわがままと未練を引きずって、わたしが操る車は海上道路を走る。
時おり助手席に目をやると、誰もいない窓の向こうには真っ暗な海が彼方まで広がっていて、少しだけ怖くなった。
400: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 00:43:37.68 ID:8BOSmMOw0
それを誤魔化すようにオーディオの音量を少し上げる。なんとはなしにつけていたFMラジオから、昔映画にされたらしい曲が流れてくる。意識してそれに耳を傾けて、歌詞を頭の中で咀嚼する。
繰り返されていくゲーム。流れ落ちる赤い鼓動。心無きライオンがテレビの向こうで笑う。あんな風に子供のまんまで世界を動かせられるのなら、僕はどうして大人になりたいんだろう。
そうしているうちに、道路の両脇に灯された光たちが次々と過ぎていく。明らかに速度違反を取られるスピードで走るトラックが、右車線を駆け抜けていった。
遠くなるそのナンバーを見送りながら、わたしもあれくらい急げば、もがけば、いつかまた届くのだろうか……と少しだけ考えた。
401: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 00:44:59.30 ID:8BOSmMOw0
◆
午前五時半前のパーキングエリアに人気は少なかった。二年くらい前に始まった改修工事も去年の春ごろにようやく終わって、東京湾のど真ん中に鎮座する五階建てのここには静寂が我が物顔でふんぞり返っている。
わたしは車を降りると、パーキングエリアの中に入っているコンビニでカップのホットカフェラテを買った。それから四階の屋内休憩所の椅子に座って、東の方角をぼんやりと眺める。
千葉方面に伸びる道路には白い灯りが煌々とさんざめいて、昔に遊んだ機械生命体とアンドロイドのゲームを思わせる。その仰々しさと機械的な外観が少し好きだった。
そんな話を氷川さんに振ったら、彼女はなんと答えるだろうか。
「何事にも限度があるし、好きなのは知ってるけどやりすぎはよくないわ」と、少し呆れたような口調でわたしのゲーム好きを咎めるだろうか。
「白金さんが好きなゲームですか。少し興味があるわね」と、乗り気で話に付き合ってくれるだろうか。
「私はここより、川崎の工場夜景の方がそれに近いと思うわよ」と、まさかの既プレイ済みでそんなことを言ってくるだろうか。
402: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 00:46:09.56 ID:8BOSmMOw0
「ねぇ、どうですか……紗夜さん……」
小さく呟いて、また左へ顔を向けた。静まり返った、誰もいない空間が瞳に映る。海を一望できるこの休憩所にはわたしひとりしかいなくて、返事なんてある訳がなかった。
その現実を目の当たりにして、自分の心の中にあったのは諦観や寂寥、自嘲ともつかない曖昧な気持ちだった。
もうわたしの左隣には、愛おしい彼女の姿はない。一年前の冬に他でもないあの人から別れを告げられた瞬間から、ずっとそうだった。
403: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 00:46:53.85 ID:8BOSmMOw0
始まりはわたしから。終わりはあの人から。言葉にすれば簡潔明瞭で、一方通行の恋路が行き止まりにぶつかって途絶えたというだけのお話。世界中のそこかしこに溢れかえっている、ごく平凡なお話だ。
そしてこのお話の中でのわたしは、さぞかし重たくて痛い女だろう。
別れを告げられて、泣くでも縋るでもなくそれを受け入れて、一年経った今でも温かな思い出を捨てられずにいる。ただ彼女との日々を忘れないように何度も何度も繰り返しなぞり続けている。
404: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 00:47:36.68 ID:8BOSmMOw0
わたしは夜が好きだ。夜は見たくないものを包み隠してくれる。
痛みも後悔も、鏡に映る醜いわたしも、素知らぬ顔で隠してくれる。そして綺麗な光と温もりを持った思い出だけを際立たせてくれるから、より鮮明になった紗夜さんの残滓をわたしに感じさせてくれる。
こんなことをしていたって何も変わらない。今じゃ疎遠な最愛の人に再び相見えることもない。そんな現実を忘れさせてくれて、仄暗い灯りをわたしに与えてくれる。
だけどその灯りは朝日を前にするとあっという間に溶けていってしまうのだ。
朝は嫌いだ。夜の残滓がくれた幻を余すことなく照らし上げては蹴散らして、わたしがひとりぼっちなことをこれ以上ないくらいに思い知らせてくる。
いつまでも朝がやって来なければいいのに。そうすれば……わたしはずっと夜と寄り添い合って生きいけるのにな。
405: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 00:48:54.77 ID:8BOSmMOw0
◆
気が付いたら東の空が明るみ始めていた。
知らぬうちにウトウトとしていたようだ。傍らに置いたカフェラテのカップに手をやると、半分ほど残っていた中身が随分冷えていた。
少しため息を吐き出して、カップを持って立ち上がる。そして近くの水道に中身を捨てて、空になった容器もゴミ箱に捨てた。少し申し訳ない気分になったけれど、今は冷たいものを飲む気力がなかった。
わたしは屋内休憩所を出て、エスカレーターで五階へ向かう。
五階は展望デッキと直に繋がっていて、エスカレーターを上りきると、早朝の海風が身を切った。首を竦めて小さく独りごちる。ああ、やっぱり寒いのは大嫌いだ。
微かに白くなる息を吐き出しながら展望デッキに出て、右手側の東の海に面している方へ歩いて行く。
何ものにも邪魔されない視界の先の彼方には、太陽が僅かに顔を出していた。
406: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 00:49:47.27 ID:8BOSmMOw0
眩しいな、と呟きながら、展望デッキの最前列の手すりへと向かった。
板張りの床には露が降りていた。手すりのすぐ後ろにはベンチがあったけど、恐らくそこも濡れているだろうから、わたしは手すりに寄りかかる。
瞳を強く射してくる朝焼け。それを正面からただジッと見つめる。
徐々に太陽がその姿を現す。海の向こうの半円がだんだん大きくなっていって、やがて円形に近付いていく。そしていつしか水平線と切り離され、ぷっくりとした橙色の陽光が揺れる海面を強く照らしだした。
今日も夜が追い立てられた。そしてわたしが拒んだ朝がやってきた。
燃える日輪の光に写るわたしはどんな色をしているんだろうか。きっと仄暗い灯りなんてとうに霞んで、影みたいな暗い色をしているんだろう。
「……ああ、綺麗だなぁ」
朝が嫌いだ。でも、やっぱりあの朝焼けは好きだ。綺麗で、キラキラしていて、温かいから。
わたしもいつかはあんな光になれるだろうか。不意によぎったその問いに対して、きっと無理だろうな、と思った。
407: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 00:50:53.62 ID:8BOSmMOw0
朝焼けを眺めたあと、わたしは駐車場に戻って車に乗り込む。
がらんどうの助手席が一番に目について、手にしていたスマートフォンとバッグを後部座席に放り込んだ。
クラッチを踏み込んで、プッシュスタートを押し込む。すぐにエンジンがかかり、暖房が足元から噴き出してくる。
車のフロントガラスは凍ってなんかいなくて、少しだけ曇っていた。エアコンの吹き出し口をデフロスターに切り替えると、すぐにそれもとれていった。
「……帰ろう」
わたしは呟いて、シートベルトを締める。サイドブレーキを下ろして、クラッチを踏んでシフトレバーを手にする。1速に入れてクラッチを繋ぐと、電子制御されたエンジンが少し回転数を上げた。
FMラジオではパーソナリティが天気の話をしている。木曜の夜を超えたら今年も冬が終わるらしい。
それくらいなら寒がりのわたしでもきっと我慢できそうだな。そう思いながら、朝焼けに照らされた二月の帰り道をひとりで辿った。
408: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 00:52:23.38 ID:8BOSmMOw0
◆
冬が過ぎると、あっという間に桜の季節になっていた。
冬は寒くて大嫌いだけど、春は暖かいから好きだった。特に桜の木を見ると、氷川さんとの始まりのことを思い出して少しだけ胸が温かかくなる。
わたしたちの始まりもちょうど三月の終わり、桜の蕾が開きだしたころだ。
花咲川に沿った道にある少し大きな公園。そこの小高い丘のようになっている場所に、一本だけあるちょっと背の低い桜の木。そこでわたしは、氷川さんに募る思いの丈を打ち明けた。
それになんて思われるか、なんて返されるかが怖くてしょうがなかったけど、高校卒業という一つの節目を前に、わたしはなけなしの勇気を振り絞ったのだった。
その答えは嬉しいものだったし、それからの一年間は幸せな日々が続いた。……だからこそ、去年の冬に別れてからのわたしは暗澹たる気持ちを影のように引きずって歩き続けているのだけど。
409: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 00:53:16.41 ID:8BOSmMOw0
けれど、もういい加減それも終わりにするべきだろう。
いつまでもいつまでも、彼女の影を探して俯いたまま歩いているんじゃ、いつかきっと転んでしまう。もうわたしも前を見て進むべきなんだ。
だから、始まりになったあの場所で、わたしは自分にケジメをつけようと思っていた。
家を出て、今ではもう懐かしい花咲川女子学園に続く道を歩く。
花咲川沿いの道にも桜がたくさん植えられていて、開きだした花弁を道行く人たちが見上げる。わたしはその中に紛れ、ただ目的の場所だけを目指して歩を進め続ける。
やがて目的の公園に辿り着いた。
この近辺では比較的大きな広場と滑り台が一番に目に付く。その脇を通り抜けて、小高い丘のようになっている場所を目指す。
410: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 00:55:21.20 ID:8BOSmMOw0
普段の運動不足が祟って少し息が上がりそうだったけど、新緑と桃色の花びらを鮮やかに照らすうらうらとした陽射しが気持ちよかった。
やっぱり春は好きだ。温かくて、陽射しが気持ちよくて、またもう一度、新しくわたしを始められそうな予感を覚えさせてくれる。
その新しいわたしの隣にはもう氷川さんの影も形もないのかもしれない。けれどそれでいいのかもしれない。前を向くということはきっとそういうことなんだと思う。
でも、と少しだけ胸中で呟く。
(それでも、またどこかで紗夜さんと出会えたなら……素敵だな)
もしもそうなったら、その時は笑おう。疎遠になったこともとても近くなったことも関係なく笑おう。何の後腐れもなかったように、無邪気に笑おう。今日つけにきたケジメは、多分そういう類のケジメだ。
そんな決心を抱いたところで、丘を登りきる。
そこには二年前の今日と同じように背の低い桜の木があって、色づき始めた枝を春の風がそよそよと揺らしていた。
411: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 00:55:53.91 ID:8BOSmMOw0
412: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 00:56:20.51 ID:8BOSmMOw0
氷川紗夜「燐光」
413: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 00:57:06.17 ID:8BOSmMOw0
私には恋人がいた。その相手はかつて同じバンドでキーボードを担当していた白金燐子という女性で、高校を卒業する時に彼女から愛の告白をされた。
目を瞑れば、今でもあの春の一幕を瞼の裏に鮮明に思い描ける。
花咲川沿いの少し大きな公園の、小高い丘の上の、ちょっと背の低い桜の木の下。
そこで、うつむき加減の顔を赤くさせた彼女から、静かな声をいつもより大きく震わせて、思いの丈を打ち明けられた。
その告白を受けて、私に迷いがなかったと言えば嘘になるだろう。私と白金さんは女性同士だ。世間一般において、同性愛というのはまだまだ理解が及ばないものだという認識がある。
414: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 00:57:48.19 ID:8BOSmMOw0
けれど、白金さんの懸命な言葉を受けて、私はネガティブな印象を抱くことがなかったのも事実だった。
生徒会長と風紀委員長という関係。白金さんと私は、花咲川女子学園では大抵一緒にいたし、学校が終わっても同じバンドのメンバーとして共に行動することが多かった。
その時間は私にとってとても心地のいいものであったし、そんな彼女ともっと深い関係になるということを想像すると、温かな想いが胸中に広がった。
だから私は一生懸命な白金さんの言葉に頷いた。こんな私で良ければ、と。そうして私と白金さんはいわゆる恋人同士と呼ばれる関係になったのだった。
その温かな関係は、去年の冬に終わりを告げた。
415: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 00:58:24.42 ID:8BOSmMOw0
◆
「寒いわね……」
大学の講義が終わって、駅へと向かう道すがら、私は巻いているマフラーに首をすぼめて小さく呟く。
今日はこの冬一番の寒さだと朝のニュースで言っていた。それを聞いて、私は今でも彼女のことを考えてしまうのだからどうしようもないと思ったことを思い出す。
別れを告げたのは私からなのに、事あるごとに、私は白金さんのことを脳裏に思い浮かべてしまう。今日みたいに冷たいビル風が吹き抜ける日なんかには、それが顕著だ。
「寒いの……本当に嫌いなんです……」と、静かな声が何をしていても頭によぎる。街中で見慣れた色と形の車を見かけるたびにそれを目で追って、そしていつまでも忘れられないナンバーとは違う数字をつけていることに気付いてため息を吐き出してしまう。
こんなに面影を探してしまうなら別れ話なんてしなければよかったのに。追い出せそうにない思考を頭に浮かべたまま、私は雑踏に紛れて足を動かす。
416: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 00:59:23.56 ID:8BOSmMOw0
◆
私の脳裏に今でも特に強く根を張っている記憶があった。それは白金さんが乗っている淡い青色の車のことだとか、彼女と見た朝焼けだとか、そういう温かい記憶なんかじゃなく、私から別れを告げた日の記憶だ。
「もう、終わりにしませんか」
そっけない私の言葉を聞いた白金さんは、一瞬でくしゃりと顔を歪ませて、それからまた何ともないような顔を必死に作ろうとしていた。そんな様子を見ていられずに、私は目を逸らした。
「……はい、分かり……ました」
震えた声が私の鼓膜を揺らす。大好きな彼女の小さな声が、その時だけは絶対に聞きたくない音となって私を襲った。
けれど、放ってしまった言葉は取り消せない。冗談です、とも言える訳がない。私とて、それなりの覚悟を持って彼女に別れを切り出したのだから。
417: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 01:00:01.38 ID:8BOSmMOw0
私が二十歳になるひと月前にした別れ話は、さんざん悩んだ割にあっさりと終わった。私と彼女の関係も、ただの知人というものにあっけなく戻った。それだけの話。
そう、ただそれだけの話のはずなのだ。それなのに、いつまでもいつまでも私の脳裏には白金さんの悲壮な表情と震えた声が張り付いている。
自分の胸の深い場所まで潜れば、私の本当の気持ちというものが見えてくる。けれど、私はそれに蓋をして見て見ぬ振りを貫くことにした。
何故ならこれは、この別れは、私たちに必要なものだったからだ。成人式を終えて、一つの節目として大人になった私たちには必要な別れだったんだ。
私たちはいつまでも子供のままじゃいられない。好きなものを好きだと言うのはいいことだと思うけれど、それにだって限度がある。特に、世間様から認められないようなことは。
だから白金さんをばっさりと振って、後腐れないように関係をなくす。彼女の傷付いた顔が私の胸を激しく切りつけたけど、これは必要な痛みなんだと自分に言い聞かせた。
これでいいんだ、これが私たちのあるべき姿なんだ。
418: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 01:00:51.48 ID:8BOSmMOw0
……じゃあ、それからの私の行動はなんだろう。
寒いという言葉、冬という言葉を聞く度に、静かな声が脳裏をかすめる。
淡い青色の車を見かける度に、それを目で追い続ける。
誕生日でもないのに彼女からもらったペンダントを、ほこりの一つも付かないよう後生大事に部屋に飾ってある。
考えれば考えるほどに自分が愚かしくなるから、その行動の原理にも蓋をしておくことにした。
私たちがあの頃描いていた未来。いつかの冬の日に、朝日を待って彼女の車の中でずっと喋っていたこと。毛布に包まりながら、大学を卒業したら、就職したら、二人でああしようこうしよう。
そんなものは、もう二度と訪れることはないのだ。
419: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 01:01:33.25 ID:8BOSmMOw0
◆
季節は気付いたら移ろっているもので、三月初めの木曜日を超えてから、日ごとに気温は高くなっていった。
私は寒いのも嫌いだけど、春もそこそこに苦手だった。
春は始まりの季節、とはよく言うもので、忘れたくても忘れられないことが始まったこの季節を迎えると、自分の感情が上手に整理できなくなる。
特に桜を見てしまうとダメだ。
麗らかで柔らかい陽射しに映えるソメイヨシノは、かつての私たちの関係を如実にあらわす徒桜だ。せっかく綺麗に咲き誇ったのにすぐに散ってしまうその姿を自分に重ねると、胸がキュッとして泣きそうになる。私が見えないように蓋をしたものを、これでもかと目の前に突き付けてくる。
420: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 01:02:14.50 ID:8BOSmMOw0
……かつてはとても親しかった彼女。
けれど、私は彼女の名前を一度だって呼んだことはなかった。
いつでも名字に「さん」付け。私は名前で呼ばれているのに、どうしても私から同じように呼び返すことが出来なかった。
それには照れも含まれていたけれど、結局のところ、私は彼女へ踏み込むのが怖かっただけなんだろう。
約一年間の交際の中で、意図的に手を繋いだこともない。寒い季節は肩と肩が触れるくらい身を寄せ合ったこともあったけれど、それ以上身体的に接触したことはなかった。
偶然の接触ならあった。彼女の運転する車の助手席に乗っている時、私がナビに触れたりドリンクホルダーの飲み物を取ろうとして、ちょうど白金さんの左手と私の右手がぶつかるというようなことだ。
その時の手の温かさだとか柔らかさだとか、照れたようにはにかむ白金さんの横顔だとか、妙に熱を持ってしまう私の頬だとか、そういうことを思い出すと何とも言えない気持ちが心中に去来する。
421: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 01:02:47.50 ID:8BOSmMOw0
いや、何とも言えないというのは私の臆病のせいか。
私はきっと嬉しかったんだろう。けれど、それを認めてしまうと自分に歯止めが効かなくなるような気がした。
これは世間一般では認められない関係だから、あまり踏み込んではいけない関係だから、と何重にも自制かけていたのだ。
そもそもの話、そんな風に思うのなら最初から告白を断ればよかったのだ。そうすればよかったのだ。それならきっと白金さんだってそんなに傷付かなかったかもしれないし、私だってこんなに彼女のことを――
422: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 01:03:17.77 ID:8BOSmMOw0
「はぁ……」
行き過ぎた思考をため息で無理矢理止める。それから思うのは、やっぱり春は苦手だ、ということ。
今日は三月の終わり。二年前に、私が白金さんに告白をされた日だった。
今日も今日とて空は快晴で、春の温かな陽射しが容赦なく私の部屋に差し込んできていた。その窓からの光に心全部を暴かれそうになるのだから嫌になる。
もういっそ、全て白日の下に晒してしまおうか。
ふと思い立ったその考えが妙にしっくりと自分の腑に落ちた。もしかしたらの話だけど、目を逸らし続けるから気になるのであって、いっそ思い出もかつて言えなかった言葉たちも太陽の光に晒してみれば、それですっきり忘れられるのかもしれない。
そう思って、思索に耽っていた椅子から立ち上がり、私は部屋を出た。
423: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 01:03:59.58 ID:8BOSmMOw0
◆
特に行き場所は決めていなかった。
朗らかな陽光を一身に受けて、まだ若干の冷たさが残るそよ風に吹かれながら、私は花咲川に沿って歩を進める。
川沿いに植えられた桜たちも徐々に蕾をほころばせていて、それを見上げる人たちがそこそこいたけど、私は桜には目もくれずに歩き続ける。
そうしながら、私の中で燻る記憶たちを開き直りにも近い形で取り出して、胸の中でじっくりと眺めてみる。
424: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 01:04:32.15 ID:8BOSmMOw0
ある一つの記憶は桜色をしていた。
花咲川沿いの少し大きな公園の、小高い丘の上の、ちょっと背の低い桜の木の下での思い出。あの時に私の胸中に一番に浮かんだ感情の名前は、喜びだった。
425: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 01:05:07.17 ID:8BOSmMOw0
ある一つの記憶は淡い青色をしていた。
「い、命の保証は出来ないけど……付き合ってください……」と、私の大好きな静かな声が揺れる。免許を取って、父親に車を譲ってもらったけど、まだ一人で運転するのは怖いから……という言葉に続いた誘い文句だった。
それに返した私の言葉は捻くれていたけど、その裏にあった気持ちは「彼女に信頼されているんだ」という嬉しさだった。
426: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 01:05:33.28 ID:8BOSmMOw0
ある一つの記憶は橙色をしていた。
真冬の真夜中に淡い青色の車が迎えに来てくれて、もはや私だけの指定席になっている助手席に身を置いて、茨城の大洗に日の出を見に行ったこと。早く着きすぎて、二人で未来の話をしたこと。肩を寄せ合って、鳥居にかかる綺麗な橙色の朝焼けを見たこと。
その時の私は幸せで、ものすごく怖くなった。
427: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 01:06:07.21 ID:8BOSmMOw0
ある一つの記憶は透き通った青色をしていた。
まだ誕生日には早いですけど、去年の分です。そんな前置きとともに渡された、青水晶のペンダント。私は照れてしまって、とても優しく微笑む彼女の顔を直視することが出来なかった。
そのペンダントは一度も身に着けることなく、今でも特別に大切な宝物として私の部屋に飾ってある。
428: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 01:06:46.60 ID:8BOSmMOw0
ある一つの記憶は灰色をしていた。
別れを切り出した建て前は、世間では認められないことだから。けれど私の奥底にあった本当の気持ちはなんだったろうか。
429: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 01:08:11.27 ID:8BOSmMOw0
そうだ、私はただ怖かったのだ。
白金さんとの日々はとても温かくて幸せで、ずっとこんな日々が続けばいいと、本当は心の底から願っていた。
だけど、物事にはいつだって終わりがつきものだ。諸行無常、盛者必衰。どれだけ美しい花が咲けど、それはいつか枯れてしまうし、知らぬ間に踏みにじられてしまうかもしれない。
それが怖くて怖くて仕方なかった。いつこの温もりが消えるとも分からないのが恐ろしかった。
白金さんに愛想を尽かされたら、世間から誹りを受けたら、この関係はきっとすぐに霧散する。それは元々の関係に戻るというだけのことだけど、私はもう幸せを知ってしまっていた。この幸せが奪われることでどれだけ自分が傷付くのか、寒い思いをするのか知ってしまっていた。
430: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 01:09:29.92 ID:8BOSmMOw0
だから私は私自身の手で、その関係に終止符を打ったのだ。せめて傷が深くならないように、不意を打たれて死ぬほど惨めな思いをしないように、と。
ああ、と小さく口から漏れた呟き。自分を貶すための言葉が種々様々に混ざり合っていた呟きだから、その色は工業廃水を垂れ流したドブ川の色に似ていた。
なんてことはない。結局、私は自分が傷付きたくなかったのだ。その為に世界で一番大好きな人をみだりに傷付けたんだ。
一枚ずつ剥がしていった建て前。蓋を外した本当の気持ち。それを今さら直視して思うことは、なんて嫌な人間だという自己嫌悪。
一見筋の通ったような理由を重ねて、最愛の彼女を傷付けてでも守りたかったのは、私自身だったんだ。
そのくせ白金さんの面影を探し続けているんだから、本当にどうしようもない。
少し涙が浮かんできたのは花粉のせいにして、私は目元を一度拭う。それから始まりの公園に足を向けた。
431: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 01:10:20.78 ID:8BOSmMOw0
目的の公園に辿り着くと、この近辺では比較的大きな広場と滑り台が一番に目に付く。その脇を通り抜けて、小高い丘のようになっている場所を目指す。
ここへ来た理由は、私自身に勇気と覚悟を持たせるため。今になってこんなことを思ったって遅すぎるのは分かっているけれど、それでも私は彼女に……今でも大好きなままの白金さんに、面と向かって謝りたかった。
今まで自分本位な気持ちでいてごめんなさい。傷付くことを恐れて、あなたを傷付けてごめんなさい。
これもただの自己満足だと思う。今では疎遠な関係の女に、今さらそんなことを言われたってきっと彼女は迷惑するだろう。だけど、これは私が白金さんに対してつけなければいけないケジメだ。
432: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 01:11:00.41 ID:8BOSmMOw0
そんな決心を抱いて、坂を登りきる。
小高い丘には誰の姿もなくて、辺り一面新緑の木々に囲まれた中に、ポツンと一本だけ桜の木があった。あそこが始まりの場所だ。
私はその傍に歩み寄って行って、幹に手を置く。桜はまだ半分ほどしか咲いていなかった。
三月の終わり。かつて、白金さんに想いを告白された日と同じ日付。あの日もまだ桜は満開ではなかったことを思い出す。
「…………」
黙ったままその花弁を見上げる。そして、あの時に白金さんがどれだけ勇気を振り絞っていたかを想像する。
433: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 01:12:00.53 ID:8BOSmMOw0
彼女は引っ込み思案で、いつも遠慮をする。生徒会長になって初めてやった全校集会の挨拶は散々な出来で、それでもそんな自分を変えようとひたむきに努力をしていた。そんな白金さんがここで告白に臨んだ覚悟や勇気というのは、私では到底及ばないほどに強く大きいものだったろう。
私も彼女のようになれるだろうか。名前の通り、夜のように暗く惨めな私でも、彼女のように凛とした光を持つことが出来るだろうか。
いや、そうならないとダメだ。ここに来て、彼女の大きな勇気に触れたのはそのためだ。どんなに惨めな思いをしようと、詰られようと、一生癒えない傷を負おうと、今度は私が白金さんに告白をするんだ。
建て前を全部脱ぎ捨てた気持ちで、今までのことの謝罪と感謝を伝えるんだ。
そして、もしも彼女がまだ僅かな慈悲を私に抱いてくれているのなら、その時は……
434: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 01:13:12.20 ID:8BOSmMOw0
(……燐子さん。今でも私は、あなたのことが大好きです)
……ようやく掴んで吐き出した自分の弱さの底の底にあるこの言葉を、いつかあなたに伝えられますように。
春の風が吹き抜けた。五分咲きの桜の枝がそよそよと揺れる。それに紛れて、後ろから控えめな足音が聞こえた。きっと桜の見物客だろう。
ケジメはもうつけた。この先のことは私の覚悟次第だ。
木の幹から手を離す。見物の妨げになるだろうから、邪魔者はもう帰ろう。帰って、一年と少し振りに白金さんにメッセージを送ろう。
そう思い、桜に背を向けて、私は一歩を踏み出した。
おわり
435: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/29(金) 01:13:54.34 ID:8BOSmMOw0
437: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 05:49:03.68 ID:kMuPU5cK0
市ヶ谷有咲「いい加減にしろ」
※ >>29と同じ世界の話です
438: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 05:49:38.75 ID:kMuPU5cK0
――有咲の蔵――
山吹沙綾「…………」
戸山香澄「…………」
439: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 05:50:21.55 ID:kMuPU5cK0
沙綾「……香澄、いい加減折れたら?」
香澄「やだ。そっちこそ折れてよ」
沙綾「それは無理」
香澄「さーやの分からず屋」
沙綾「香澄だけには言われたくない」
香澄「ふん、知らないもん」
沙綾「なんでこんなに頑固なのかなぁ」
香澄「それこそさーやにだけは言われたくないよ」
沙綾「はいはいそうですか」
香澄「さーやのバカ」
沙綾「言うに事欠いてバカ? バカって言う方がバカなんだよ?」
香澄「知らないっ」
440: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 05:50:58.17 ID:kMuPU5cK0
沙綾「はぁー……」
香澄「……なに、そのわざとらしいため息は?」
沙綾「いいえ、別に?」
香澄「別にじゃないでしょ」
沙綾「はぁー、そう。そんなに気になるんだ。はぁー……」
香澄「なんでそんなイジワルするの?」
沙綾「別に? 私はイジワルしてるつもりなんてないよ?」
香澄「イジワルだよ。どう考えても嫌がらせみたいな感じだもん」
沙綾「香澄がそう思うならそうなんじゃない?」
香澄「ほら! そう言うってことはやっぱりイジワルなんじゃん!!」
沙綾「知らないよ。香澄がそう思うならって私は言っただけだし」
香澄「うぅぅっ……!」
沙綾「……ふんだ」
441: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 05:51:41.76 ID:kMuPU5cK0
香澄「ああもう、分かった!! それじゃあ白黒ハッキリさせようよ!!」
沙綾「いいよ。こっちもいい加減、純みたいに拗ねた香澄の相手なんてしてられないし」
香澄「またそうやって子供扱いする!!」
沙綾「事実だし。私間違ったこと言ってないし」
香澄「さーやの方が子供っぽいじゃん!」
沙綾「そんなことありませーん」
香澄「ちょっと妹と弟がいてお姉ちゃんオーラバリバリだからって調子に乗らないでよ!!」
沙綾「香澄こそ、妹がいるくせに甘えたがりの妹オーラバリバリのくせに変なこと言わないで」
442: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 05:52:36.67 ID:kMuPU5cK0
香澄「あーもう怒った! 私、完全に怒ったからね!」
沙綾「私はもうとっくに怒ってるけどね。香澄よりも断然早く怒ってるからね」
香澄「でも怒りレベルはこっちの方が上だから!」
沙綾「いやこっちの方が怒ってる時間長いから。私の方がレベル上だから。それなのに香澄に付き合ってあげてたからね?」
香澄「さーやいつも何も言わないじゃん! 言ってくれなきゃ分かんないもんそんなの! そんなこと言うならちゃんと怒ってよ! 一緒に怒らせてよ!!」
沙綾「言ってること無茶苦茶だからね。今回は香澄だって何も聞いてこなかったじゃん」
香澄「だって当たり前のことだもん!!」
沙綾「当たり前? はぁ、当たり前。へぇ、香澄は自分が当たり前だって思うことを平気で私に『当たり前』として押し付けるんだ? へぇ?」
香澄「だからどうしてそんなイジワルな言い方するの!?」
沙綾「事実を言っただけだし。イジワルじゃないし」
443: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 05:53:30.54 ID:kMuPU5cK0
香澄「もう本当の本当に怒ったからね!? 知らないよ!?」
沙綾「私も知らない。朝ご飯はパンじゃなくて白米派の香澄なんて知らないよ」
香澄「何言ってるの、さーや!? 白いご飯は日本の特産だよ!? 日本のソウルフードなんだよ!? それなのにさーやが『朝は断然パンだよね』なんて言うからこうなったんじゃん!!」
沙綾「だって当たり前のことだし。時代は移ろうんだよ? 朝ご飯は白米なんていう固定観念に囚われてたら時間の流れに置いてかれるよ?」
香澄「そんなことないもん!!」
沙綾「そんなことありますからねー? 統計でも出てるからね? 今はパン派の方が多いんだよ? ほらほら、ここにそう書いてあるでしょ?」つスマホ
香澄「そのデータ古いじゃん! 2012年のやつって書いてある!! そんなこと言うなら……ほらこれ!! ご飯派は『絶対にご飯がいい』っていう固定ファンが多い統計もあるから!!」つスマホ
444: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 05:53:59.89 ID:kMuPU5cK0
沙綾「やっぱり朝に白いご飯を食べる人は頑固な人が多いんだね。香澄みたいに」
香澄「さーやも十分頑固だからね!!」
沙綾「知らなーい」
香澄「分かった分かりました!! さーやがそう言うならこっちにだって考えがあるもん!!」
沙綾「つーん」
香澄「そんなそっぽを向いてられるのも今のうちだからね!! ちょっと待ってて、絶対に逃げないでよ!?」
沙綾「はいはい、絶対的な勝者のパン派は逃げるなんて臆病なことはしないから、早く行ってきたら?」
香澄「ふんっ、そんなことすぐに言えなくさせるから!!」
445: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 05:54:40.56 ID:kMuPU5cK0
―しばらくして―
香澄「ただいまっ!!!」
沙綾「おかえり。遅かったね、そのまま逃げ帰ったのかと思ったよ」
香澄「さーや置いてひとりで帰るワケないじゃん!!」
沙綾「知ってる」
香澄「じゃあいちいちイジワルな言い方しないで! とにかく、コレ!!」つオニギリ
沙綾「はぁ、そのおにぎりがどうかしたの?」
香澄「食べて!」
沙綾「はー、そういう強硬手段に出るんだ? 言葉じゃ勝てないから実力行使に出るんだ? そんな手にいちいち」
香澄「今っ、有咲のおばあちゃんにご飯炊いてもらって、私が握ったやつだから!! 食べられないなら私が食べさせるよ!!」
沙綾「背中の傷はパン派の恥だからね。正々堂々受けて立つよ」
446: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 05:55:35.26 ID:kMuPU5cK0
香澄「じゃあどうぞ! あーん!!」
沙綾「はぁー、仕方ないなぁホント。はむっ……」
香澄「どう!? 分かったでしょ!?」
沙綾「……いや、こんなおにぎり1個で分かれば苦労はしないからね? きのことたけのこは戦争しないからね? 香澄が直に手で握ってくれたっていう温もりは感じるけど、それとこれとは話が別だからね?」
香澄「そう言うと思ってまだあと3個用意してきてあるから!!」
沙綾「はー、出た出た。まーたそういうことするんだね? はぁー本当にもう、はぁー……」
香澄「さぁ食べて!!」
沙綾「はいはい、言われなくても食べるから。はぁ……食べやすいようにひとつひとつが小さく握られててちゃんと海苔も巻いてあって私の好みの塩加減になってるとか、白米派はやることがいやらしいなぁホント。はむはむ……」
香澄「お茶! ここに置いておくからね!!」
沙綾「それはどーも。はむはむはむ……」
447: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 05:56:12.26 ID:kMuPU5cK0
香澄「どう!? これで分かったでしょう!?」
沙綾「いいや、分からないよ。白米の良さなんてこれから毎日香澄がおにぎり作ってくれなきゃ絶対に理解できないね」
香澄「いーよ、受けて立つよ!!」
沙綾「はぁー、ホント好戦的で困るなぁ。ここまでされたら私も黙ってるワケにはいかないじゃん」
香澄「なに!? まだ何か言いたいことがあるの!?」
沙綾「別に? 目には目をってことだけど? ちょっと待っててもらえる? まぁ、負けるのが怖いなら逃げてもいいけど」
香澄「さーやが待ってって言うなら死ぬまで待つに決まってるじゃん!!」
沙綾「その言葉、後悔しないといいね。それじゃあちょっと行ってくるから」
448: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 05:57:07.72 ID:kMuPU5cK0
―しばらくして―
沙綾「ハァハァ……ちゃ、ちゃんと逃げないで……ハァ、待ってたね……」
香澄「当たり前だよ! そっちこそ、あんまり遅いから事故にでもあったんじゃないかってちょっと不安になってたからね!!」
沙綾「ハー、敵に塩を送ったつもりかな? 本当に卑怯だよね、香澄って……ハー、ハー」
香澄「そんな息も絶え絶えに言われたって心配しかしないんだから!! お茶飲んでさーや!!」
沙綾「言われなくたって……」ゴクゴク
香澄「それで!? はっ、その手に持ってるのはまさか……!」
沙綾「ぷは……そう、やまぶきベーカリーのパンだよ。それも私の手作りで焼きたての」
449: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 05:57:44.10 ID:kMuPU5cK0
香澄「うっわぁ、さーやって本当にそういうズルい手ばっかりいつも使ってくるよね!? どうせ息を切らせてたのだってパンが冷めないようにって全力疾走してきたんでしょ!?」
沙綾「さぁ? 香澄がそう思うならそうなんじゃない?」
香澄「出た出たお決まりのセリフ!! ホントさーやズルい!!」
沙綾「いやいや、香澄には負けますからねー?」
香澄「どーいう意味!?」
沙綾「別に? それより、これを食べればいかにパンが白米より優れてるかって分かるから、覚悟が出来たらさっさと食べてもらっていいかな?」
香澄「ふん、そんなこと言う人のパンなんて」
沙綾「ああそうだ。私は香澄に強引に食べさせられたのに、香澄はそういう辱めを受けないのは不公平だよね。仕方ないから私が直々に食べさせてあげるよ」つパン
香澄「覚悟とは! 暗闇の荒野に進むべき道を切り開くこと! 受けて立つよさーや!!」
450: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 05:59:09.61 ID:kMuPU5cK0
沙綾「威勢だけはいいね。それじゃあさっさと食べてくれるかな? はい、あーん」
香澄「あーん!! もぐ……!」
沙綾「分かったでしょ?」
香澄「……全然、ぜーんぜん分からないからね! こんなことで分かるならイヌ派とネコ派も戦争しないからね! いつもさーやからフワッて香る甘くていい匂いがギュッと詰まってるけど、それとこれとは全然関係ないからね!!」
沙綾「本当に香澄は分からず屋の頑固者だねー。まぁ、往生際が悪いのも想定内だし、まだまだたくさんパンはあるんだけど」
香澄「出たっ、さーやお得意の私のことはなんでも分かってますよーってやつ!! そういうところがズルいよね! パンだって食べやすいサイズに切り分けられてるし、甘いものから塩っぽいやつまで飽きないようにバリエーションが無駄に豊富で食べる人のことをちゃんと考えてあるし!! 本当にズルい!! もぐもぐ……!」
沙綾「牛乳はここに置いとくから。飲みたければ飲めば?」
香澄「またそうやって! 私がパンと一緒に牛乳飲むのにハマってることまで把握してるし!! もぐもぐもぐ……!」
451: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 05:59:36.42 ID:kMuPU5cK0
沙綾「これで流石に香澄も分かったよね?」
香澄「何にも分かんないよ! これから毎日さーやの手作りパン食べなきゃ何にも分かんないもんね!!」
沙綾「いいよ。仕方ないから頑固で分からず屋の香澄が理解できるまで生涯付き合ってあげる」
香澄「聞いたからね! その言葉絶対忘れないからね!!」
沙綾「どうぞご自由に。私だってさっき香澄が言ったセリフ、何があっても絶対に忘れないから」
452: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 06:00:02.42 ID:kMuPU5cK0
香澄「あーもう!」
沙綾「あーホント」
香澄「さーや大好き!!」
沙綾「香澄大好き」
……………………
453: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 06:00:41.88 ID:kMuPU5cK0
――有咲の蔵 階段前――
市ヶ谷有咲「…………」
有咲「…………」
有咲「……いや、なんだよこれ。あいつら本当にいい加減しろよ」
有咲「はぁー……本当にもう……はぁぁぁぁ~……」
有咲「……りみんとこ行こ……」
おわり
454: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 06:01:09.95 ID:kMuPU5cK0
なんだかんだポピパが一番好きで、その中でも特に沙綾ちゃんが好きです。
エイプリールフールの沙綾ちゃんの「元村娘の聖女」とかいう設定はとても妄想が捗ります。
でも白米派の自分とは相容れないだろうなーと思いました。そんな話でした。
455: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 06:02:53.26 ID:kMuPU5cK0
大和麻弥「なんだろう、これ……」
※『パスパレのデートシミュレーション』と同じ世界の話です
456: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 06:03:29.77 ID:kMuPU5cK0
――花音との同棲部屋――
――ガチャ
松原花音「あ、おかえりなさい」
花音「今日も1日お疲れ様。もうすぐご飯できるけど、お風呂とどっち先にする?」
花音「……うん? ど、どうかしたの? すごく暗い顔になってるよ……?」
花音「え? ……そっか。お仕事で辛いことがあったんだね……」
花音「ううん、謝らないで。いいんだよ、私の前でくらい謝ることなんかしなくても」
花音「……また謝って……大丈夫だよ。あなたのことを心配するのも、気を遣うのも、私は好きだから」
457: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 06:03:57.03 ID:kMuPU5cK0
花音「ほら、先にお風呂に入ってさっぱりしてきちゃお? ね?」
花音「うん、いい子いい子……あ、ごめんね? 急に頭撫でたりして」
花音「あ、あはは……昔の話なんだけど、バンドの中で先生の役をやったことがあって……」
花音「なんだろうね。好きな人をね、子供みたいにあやすの……なんだか心が温かくなるから好きなんだ」
花音「……あやしてほしいの?」
花音「ううん、そんなに取り繕わなくて平気だよ。だって、嬉しいから」
花音「うん、嬉しい。あなたが私を頼ってくれるのが嬉しいんだ」
花音「えへへ、今夜はたくさん甘えていいからね?」
花音「うん、うん……いい子いい子。大丈夫だよ、私に寄りかかっても。まっすぐ歩けるように支えてあげるから」
花音「さ、それじゃあお風呂に行こっか?」
458: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 06:04:33.72 ID:kMuPU5cK0
――浴室――
花音「はーい、それじゃあシャワーかけるよ~?」
花音「うん? どうかしたの?」
花音「……恥ずかしい? ふふっ、今さら恥ずかしがっちゃダメですよ~?」
花音「大丈夫だよ。私は服着てるし、ただあなたの頭と背中を洗うだけなんだから」
花音「……そうそう。ちゃんと言うことが聞けるいい子ですね~」
花音「お湯の温度は……うん、ちょうどいいかな。それじゃあ、いくよ~?」
花音「まずは頭を流すからね? 目に入らないようにちゃんと瞑ってるんだよ? 大丈夫? 瞑れてる?」
花音「……はーい、分かりました。流すよ~」
――シャァァ……
459: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 06:05:03.55 ID:kMuPU5cK0
花音「お湯加減は大丈夫? 熱かったり冷たかったりしないかな?」
花音「ちょうどいい? うん、分かった。それじゃあこのまま続けるね」
花音「まずはてっぺんから前髪の方を……っと。よいしょ……」
花音「次は横の方……あ、耳に入らないように、ちゃんと耳も塞がなくちゃ」
花音「え? ああ、あなたはそのままで大丈夫だよ。私が片手で塞いでシャワーしてあげるから」
花音「はい、じゃあまず左耳から……ちょっと触るよ? 痛かったらすぐ言ってね?」
花音「あんまり力を込めないで……そーっと……よし……よし……っと」
花音「大丈夫? 水、耳に入らなかった?」
花音「……そっか。良かった。それじゃあ次は反対側だね」
花音「右耳もちょっとごめんね? うんしょっ……と……」
花音「……はい、それじゃあ最後は後ろの方まで流して……よし、こんな感じで大丈夫かな」キュッ
460: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 06:05:35.03 ID:kMuPU5cK0
花音「それじゃあ、シャンプーしていくよ」
花音「髪を傷めないように優しくしないとね。まずは髪の毛全体に馴染ませるように泡を立てて」シュワシュワ
花音「……ん、こんな感じ、かな。じゃあ、しっかり洗っていくからね? 痛かったりしたらちゃんと言うんだよ?」
花音「……うん、しっかりお返事が出来るいい子ですね~、えらいえらい。はーい、それじゃあゴシゴシしますよ~?」
花音「え? 子供扱いしすぎ?」ゴシゴシ
花音「ふふ、ごめんね。なんだか今日のあなたがすごく可愛くて……」ゴシゴシ
花音「……別に嫌じゃないからいい? ふふ、そっか。ふふふ……」
花音「……ううん、何でもないよ。やっぱり可愛いなぁって思って。あ、ごめんね? 手が止まってたね」
461: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 06:06:21.90 ID:kMuPU5cK0
花音「大丈夫。あなたは目を瞑って、何にも考えないでいいんだよ。私がちゃんと洗ってあげるからね。大丈夫だよー、そのままでいいんだよー……」ゴシゴシ
花音「ごしごし、ごしごし……」ゴシゴシ
花音「よいしょ……よいしょ……っと」ゴシゴシ
花音「どこか痒いところはありませんか~?」
花音「……耳の後ろ辺り? うん、分かったよ」
花音「耳に泡が入らないようにして……優しく優しく……」コシュコシュ
花音「撫でるように……よいしょ、よいしょ……」コシュコシュ
花音「……もう大丈夫? うん、分かったよ。それじゃあ、シャンプーも流していくね?」キュッ、シャァァ……
462: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 06:06:53.54 ID:kMuPU5cK0
花音「ちゃんと目を瞑ってるんだよ~? お目々に泡が入ったら痛いからね~?」
花音「また頭の上の方から……下の方に優しく流して……」
花音「耳、また塞ぐね? うん、いい子いい子」
花音「ふんふんふーん……♪」
花音「あ、ごめんね? 鼻歌、気になっちゃった?」
花音「うん、なんかちょっと楽しくて……つい……」
花音「……もっと聴いてたい? そっか。うん、分かったよ」
花音「ふんふんふーん……♪」シャァァ……
463: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 06:07:53.32 ID:kMuPU5cK0
花音「……よし、っと。流し終わったから、軽く拭いていくね?」
花音「だーめ。髪を拭くまでがシャンプーなんだから、大人しく言うことを聞かなきゃだよ?」
花音「……そう。ちゃんと言うことを聞けるいい子だね。大丈夫だよ、任せてね」
花音「あんまり強くやり過ぎちゃうと髪が痛むから……優しく、優しく」コシコシ
花音「髪、巻き込んだりしてない? 痛くない?」
花音「……平気? そっか、よかった。それじゃあ、頭全体を撫でる様にして……」コシコシ
花音「なでなで……なでなで~……」コシコシ
花音「……こんな感じ、かな。うん」
464: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 06:08:30.54 ID:kMuPU5cK0
花音「どう? 少しはさっぱり出来た?」
花音「……ん、そっか。それならよかった。えへへ」
花音「それじゃあ次は背中だね。……あ、こーら。遠慮なんてしちゃダメですよ~?」
花音「大丈夫。私に全部任せてね。痛いことなんて何もないよ。辛いことなんて何もないよ。だから……ね?」
花音「……そうそう。素直ないい子だね。いい子いい子……」
花音「さぁ、背中も流すよー?」シャァァ……
……………………
465: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 06:09:17.13 ID:kMuPU5cK0
――ダイニング――
――ガチャ
花音「あ、お風呂あがったんだね。さっぱり出来た?」
花音「……そっか。よかった。さ、そうしたら一緒にご飯食べよ?」
花音「ご飯を食べないと、頑張るための元気が出てこないからね。たくさん食べなきゃダメだよ?」
花音「ほら、私の隣に座って?」
花音「……え? どうして、って……あなたに食べさせるためだけど?」
花音「照れくさいからそれはちょっと? もぅ、そんな遠慮をしちゃいけませんよー?」
花音「はい、いい子だから……おいで?」
花音「……そう。ちゃんと言うことが聞けたね。えらいえらい」
466: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 06:10:19.29 ID:kMuPU5cK0
花音「それじゃあ、何が食べたいかな?」
花音「すごく疲れてそうだったから、今日はさっぱりしたものをたくさん用意したよ」
花音「好きだもんね、さっぱりした食べ物。大丈夫、あなたのことなら私はなんでも知ってるからね?」
花音「私の前では何にも気にしないでいいんだよ。あなたが望むことだって分かっちゃうんだから、遠慮する必要もないし、気を張る必要もないんだよ?」
花音「……うん、それじゃあまずお豆腐だね」
花音「もみじおろし、ちょっとかけるよね? うん、大丈夫。ちゃーんと分かってるからね~?」
花音「それじゃ、はい。あーん」
花音「……どうしたのかなぁ? お口あーん出来ないのかな? まだちょっと恥ずかしがり屋さんなのかな?」
花音「大丈夫だよ。ここでなら誰もあなたのことを責めないんだよ。誰もあなたのことを傷付けないんだよ」
花音「だから、ほら……あーん、出来るかな? 出来るよね? ……ね?」
467: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 06:11:14.16 ID:kMuPU5cK0
花音「……そう。いい子いい子」
花音「はい、あーん……」
花音「……おいしい? そっか、よかった。ふふっ」
花音「ううん、何でもないよ。それじゃあ次は何がいいかな? お豆腐のハンバーグ? それとも大根の和風サラダ? それよりも身体が温まる卵としいたけのスープの方がいいかな?」
花音「あ、急かしちゃってごめんね? ううん、今のは私が悪かったよ。ごめんね?」
花音「ゆっくりでいいよ。あなたが食べたいもの、あなたがして欲しいこと、ちゃんと言えるまでずっと待っててあげるから」
花音「時間とか、そういうのは何も気にしないでいいんだよ。私と一緒にいる時は、あなたの好きなペースでいていいんだよ。私はいつだってちゃんと隣にいるからね?」
468: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 06:11:55.44 ID:kMuPU5cK0
花音「…………」
花音「……うん、スープだね。分かったよ。熱いから火傷しないように……」
花音「ふー、ふー……」
花音「……はい、あーん」
花音「大丈夫? 熱くなかった?」
花音「……ちょうどいい? そっか、ふふ。それじゃあ次は……しいたけとネギ、卵もしっかり掬って……」
花音「ふー、ふー……」
花音「はい、あーん」
花音「……上手にあーんできたね。えらいえらい」
花音「……次はハンバーグ? うん、分かったよ」
花音「ううん、気にしないでいいんだよ。私が好きでやってることだから」
花音「ここでなら、私になら、どんどんワガママを言っていいんだから。……ね?」
……………………
469: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 06:12:41.53 ID:kMuPU5cK0
――寝室――
花音「疲れた時は早く寝るのが一番だよね。温かいお風呂に入って、温かいご飯を食べて、温かいお布団に入って……」ゴソゴソ
花音「……うん? どうかしたの?」
花音「え? 何をって……添い寝、だけど?」
花音「……こーら。さっきも言ったよね? 私には遠慮なんかしないでいいし、ワガママを言っていいんだよ?」
花音「辛い時はね、疲れた時はね、人肌に触れるのが一番効果的だってテレビで言ってたよ」
花音「だから添い寝だよ。嫌なことも辛いことも、今晩はぜーんぶ忘れちゃお?」
花音「……それとも、私とじゃ……イヤ、かな?」
花音「……そっか、心臓がどきどきして眠れなくなるくらい、嬉しいんだ。ふふ、そっかそっか。えへへ……」
花音「ううん、何でもないよ。それじゃあ、お邪魔しまーす」ゴソゴソゴソ
470: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 06:13:23.38 ID:kMuPU5cK0
花音「……えへへ、温かいね」
花音「今年の春はまだ朝と夜が冷え込むもんね。あなたはどう? 寒くない?」
花音「……そっか、ちょうどいい温かさなんだ。よかった」
花音「でも……もっとこっちに来ていいんだよ? 私に背を向けないで、ぎゅーって抱き着いてきてもいいんだよ?」
花音「……そうすると本当に眠れなくなる? ふふ……大丈夫だよー。そうしたら、あなたが眠れるまで、眠くなるまで、ずっと背中をポンポンしたり、頭をなでなでしててあげるから」
花音「ね? だから……こっちにおいで?」
471: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 06:13:56.98 ID:kMuPU5cK0
花音「……そうそう、いい子だね。ちゃんとこっちに向けたね。えらいえらい」ナデナデ
花音「あれ? お顔がちょっと赤いね? ……それは熱いせい? そっか。あなたがそう言うならきっとそうなんだろうね」
花音「ふふ、ごめんね? あなたがすごく可愛いからちょっとからかいたくなっちゃった」
花音「うん、ごめんごめん。大丈夫だよ、あなたが嫌がることなんて何もしないから」ギュッ
花音「大人しくギュってされたね。ちゃんと素直になれたね。いい子、いい子……」ナデナデ
472: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 06:14:43.19 ID:kMuPU5cK0
花音「毎日毎日、お疲れ様。大変だよね。色んなことがあるもんね。でも、あなたはとっても頑張ってるんだよね」
花音「辛いことがあっても、嫌なことがあっても、ちゃんと頑張ってきたもんね。えらいえらい。大丈夫だよ。私はちゃんと、あなたがすっごく頑張ってること知ってるよ」
花音「誰にも理解されないなんてことはないんだよ。私はちゃーんと知ってるんだよ。だから安心してね? あなたのことをちゃんと分かってる人はいるんだから」ナデナデ
花音「んっ……急にギュってしてきたね?」
花音「ううん、責めてなんかいないよ。謝らないで? ここにはあなたの嫌いなものはないんだから。好きなだけ私の胸の中で甘えていいんだよ」
花音「……うん。大丈夫。大丈夫だよ。あなたが幸せな夢を見れるまで、私はずーっとずーっと、あなたのことをぎゅーってしてるからね」
花音「それだけじゃ足りないなら髪も撫でるし……」ナデナデ
花音「あなたが安心できるまで、背中をぽんぽんしててあげるから」ポンポン
473: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 06:15:46.55 ID:kMuPU5cK0
花音「どっちをしてて欲しい? ……どっちもしてて欲しいの? ふふ、甘えん坊さんですねー?」
花音「ううん、いいんだよ。私は甘えん坊さんなあなたも、いつもすっごく頑張ってるあなたも、私を気遣ってくれる優しいあなたも、全部全部大好きなんだから」ナデナデ
花音「何があったって、あなたを嫌いになるなんてことはないからね?」ポンポン
花音「だから、私の前ではいいんだよ。無理をしないでいいんだ。カッコつけなくたっていいの。素直に甘えちゃっていいんだよ」ナデナデ
花音「大丈夫だよ。いいんだよ。あなたは毎日とっても頑張ってるんだから。えらいえらい」ポンポン
花音「もっともっとぎゅーってくっついていいんだよ。泣いたっていいんだよ。弱音を吐いたっていいんだよ」ナデナデ
花音「嫌なことは全部、忘れちゃおうね。大丈夫だよ。私の前でなら、子供みたいにワガママを言ったっていいんだよ」ポンポン
474: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 06:16:12.48 ID:kMuPU5cK0
花音「大丈夫、大丈夫……」ナデナデ
花音「いい子、いい子……」ポンポン
475: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 06:17:15.37 ID:kMuPU5cK0
花音「……もうおねむかな? いいよ、おねむなら寝ちゃおう」ナデナデ
花音「大丈夫だよ。眠っても、私は傍にいるよ」ポンポン
花音「大丈夫。ずっと、ずっと隣にいるから」ナデナデ
花音「今晩は目いっぱい休んで、また明日から頑張ろ? ね?」ポンポン
花音「また辛くなったら、疲れちゃったら、私がいるからね?」ナデナデ
花音「うん。いい子いい子。えらいえらい」ポンポン
花音「……うん、それじゃあ……おやすみなさい」ナデナデ
花音「幸せな夢を見て、たくさん癒されてね」ポンポン
花音「私はいつだってここにいるから……ね?」
――――――――――
―――――――
――――
……
476: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 06:17:56.97 ID:kMuPU5cK0
――芸能事務所 倉庫――
大和麻弥(始まりはなんでもないことでした)
麻弥(予定されていたジブンの仕事が急遽延期になって、事務所にいてもやることがなかったんです)
麻弥(パスパレのみなさんは他の仕事ですし、手持無沙汰だったんです)
麻弥(だから、慌ただしく事務所の掃除をしていたスタッフさんに、軽い気持ちで言ったんです)
麻弥「ジブン、やることないんで何か手伝いましょうか?」
麻弥(……と)
477: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 06:18:31.17 ID:kMuPU5cK0
麻弥(最初こそ「アイドルにそんなことをさせる訳には……」と言っていたスタッフさんですが、猫の手も借りたいような状況だったらしく、一番簡単に終わる、事務所の倉庫の整理をお願いされました)
麻弥(倉庫には昔使った舞台衣装や台本なんかが乱雑に置かれていて、それを種類別に整理整頓することがジブンのミッションでした)
麻弥(こういうことは学校の演劇部でもやり慣れていますし、別に大した苦労もなく作業は終わりました)
麻弥(けど、乱雑に積まれた台本の中に1冊だけ、やけに埃を被っていないものを見つけてしまったのが……多分、運の尽きだったんだと思います)
478: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 06:19:20.08 ID:kMuPU5cK0
麻弥「なんだろう、これ……」
麻弥(表紙も背表紙にも何も書かれていない水色の台本。ジブンはなんとはなしに、それを開き、そして言葉を失いました)
麻弥(そこには、ある特定の人物とデートしたりだとか、姉妹になったりだとか、とことん甘やかされたりだとか……そんなシチュエーションが非常に多岐に渡って書き込まれていました)
麻弥(効果音の指定や演技指導まで事細かに但し書きがされていました)
麻弥(……そして、この台本の主役となるだろう人物や、書き込まれた字、脇に書かれたおどろおどろしいウサギやハートの絵に、どこか見覚えや心当たりがありました)
麻弥「まさか、そんな……」
麻弥(これ以上見てはダメだ。そう理性がジブンに語りかけますが、しかし、怖いもの見たさという本能は本当に恐ろしいものです)
麻弥(……何故なら、背後で倉庫の扉が開いた音にも、ジブンに忍び寄る足音にも気付かないくらい、その本を覗き込んでしまっていたのですから)
479: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 06:19:50.12 ID:kMuPU5cK0
???「麻弥、ちゃん?」
麻弥「ヒッ……!?」
480: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 06:20:32.31 ID:kMuPU5cK0
麻弥(氷のような温度の言葉が背中に突き刺さりました)
麻弥(マズイ、逃げなければ。そう思ったけれど、ジブンの身体は先ほどの言葉によって身動きが出来ないほど固まってしまって、それが出来ませんでした)
???「その手にあるのは……そう。それを見てしまったのね。ふふ、仕方ない麻弥ちゃんね……ふふ、ふふふ……」
麻弥(聞き覚えのある声でした。けど、脳が理解することを、推測することを拒みました。本能が、それ以上考えたら死ぬぞと警鐘を打ち鳴らしていました)
???「知られてしまった以上、ただで帰す訳にはいかないわね。……さぁ、こっちへいらっしゃい?」
麻弥「ひっ、ひっ……!!」
麻弥(ジブンの肩に手が置かれて、振り返るとそこには、悪魔の笑みがあって――)
481: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 06:21:14.32 ID:kMuPU5cK0
麻弥(――次に気が付いた時には、いつもの会議室の椅子に座っていました)
麻弥(辺りを見回すと、千聖さんが何かの雑誌を読んでいる姿が目に入りました)
白鷺千聖「あら? おはよう麻弥ちゃん」
麻弥「え、あ、は、はい……おはようございます……?」
麻弥(千聖さんはジブンの視線に気付くと、雑誌を閉じて穏やかな微笑みをこちらへ向けてきました。それに曖昧な挨拶を返します)
482: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 06:21:49.56 ID:kMuPU5cK0
千聖「麻弥ちゃん、さっきから椅子に座ったまま眠っていたわよ?」
麻弥「えっ、そ、そうだったんですか?」
千聖「ええ。私が来てから15分くらいしか経ってないけど……でも、うなされていたわ。もしかして疲れてるんじゃないかしら?」
麻弥「あ……えーっと……」
千聖「……それとも」
麻弥(なんてことない千聖さんの言葉と笑顔。それが何故だか急にスッと熱を失って、ジブンの喉元に突き付けられた気がしました)
483: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 06:22:22.93 ID:kMuPU5cK0
千聖「なにか、怖い夢でも見ていたのかしらね……麻弥ちゃん?」
484: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 06:23:54.12 ID:kMuPU5cK0
麻弥「い、い、いえ! た、多分昨日遅くまでライブの動画を見てたせいで疲れてたんだと思います!!」
麻弥(理性と本能が同じことを伝えてきます。『何も思い出すな。何も考えるな』と。だからジブンは迷わずそれに従いました)
千聖「……そう。駄目よ、麻弥ちゃん。好きなのは分かるけど、体調管理も仕事の一環なんだから」
麻弥「は、はい、以後気をつけます!!」
千聖「そんなに畏まらなくてもいいのに。おかしな麻弥ちゃんね、ふふ……」
麻弥(千聖さんはそう言って笑いました。それは、いつもの笑顔と言葉でした)
麻弥(だからジブンはジブンに言い聞かせました)
麻弥(今日は事務所の倉庫の整理なんてしていない)
麻弥(千聖さんの言う通り、仕事が延期になって手持無沙汰のジブンは、疲れから会議室でうたた寝してしまっていたんだ)
麻弥(それ以上もそれ以下もないんだ……と)
千聖「ふふふ……うふふふ……」
おわり
485: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/04(木) 06:24:33.78 ID:kMuPU5cK0
バックステージパス2のかのちゃん先生が自分の中の何かに火をともしました。
そんな話でした。全体的にごめんなさい。
486: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:35:33.70 ID:5F36JuUh0
氷川紗夜「ある夏の日の話」
487: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:36:14.23 ID:5F36JuUh0
高校三年生の夏は想像以上の忙しさだった。
蝉の大合唱をBGMに照り付けられたアスファルトを踏みしめながら、私は人生で十八回目のこの夏の記憶を掘り起こす。
まず第一に、受験勉強。
私には明確な将来の目標がなかった。双子の妹である日菜のように、アイドルとして天下を取るだなんていう崇高な、ともすれば酔狂とも表現される夢というものがなかった。頭の内にあるのは、人並みの仕事に就いて人並みに幸せでいること。それだけだった。
だから、担任の先生から勧められた国立大学を目指すことにして、日々勉学に勤しんでいる。
488: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:36:43.31 ID:5F36JuUh0
次に、ロゼリアのこと。
私たちの音楽に言い訳はない。ある程度の考慮はするけれど、やるからには徹底的にやりきるのが私たちのやり方だ。ロゼリアというバンドが頂点を目指すと決めた以上、妥協は許さず、私たちの音をとことん追求している。
高校最後の夏休みだってそれに変わりはない。気の置けない親友たちと共に、日々練習やライブに精力的に取り組んでいる。
489: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:37:10.59 ID:5F36JuUh0
それから、風紀委員の仕事。
学年も一番上になって、私は風紀委員長になった。当然それだけ責任も仕事も増す。それと、生徒会長になった白金さんが困っていればそれを放ってはおけないから、生徒会の仕事も少し手伝うようになった。
ただ、今は八月の半ば。夏休み期間中は特にやることもないので、現状ではこれに割く時間は少ない。
490: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:37:38.32 ID:5F36JuUh0
この三つが交互に入れ替わり、時には一緒になってやってくる夏の日々。確かに忙しいは忙しいけれど、それでも私は毎日が充実していると感じていた。この日常を楽しいと思っていた。
けれど、往々にしてそういう時こそ自分自身の体調を気にするべきだという思いがある。
弓の弦と一緒で、常に張りつめていたのであれば、いずれ緩みきって矢を放てなくなってしまう。もしくは引きちぎれて、使い物にならなくなってしまうかもしれない。
大切なのはメリハリだ。やる時は全力で物事に取り組む。そして、休む時はしっかり休む。何事もそういう緩急が大切なのだと私は常日頃から思っている。
ここ一週間は塾やスタジオに入り詰めで、ずっと肩に力を入れてきた。だから今日一日はしっかりと休み、また明日からの英気を養う日だと決めてある。であれば徹底的に気を休めるのが今日という日の正しい在り方だし、そのためにはまず落ち着ける場所に行くことが大切なのだ。
そんな言い訳じみたことを頭に浮かべながら、私は茹だる炎天下の中、商店街に足を運んでいた。
491: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:38:14.63 ID:5F36JuUh0
◆
もう目を瞑っていてもたどり着けるのではないか、というほどに歩き慣れた道を往き、商店街のアーチをくぐる。通りにはいつもよりも人が多く、左右の軒先を見渡してみると、お店の人や街行く人も、どこか活気に溢れているような気がした。
それらの人々を横目にまっすぐ歩き、北沢精肉店のある十字路を超えるとすぐに目当ての場所が目に付いた。私は迷わずにそこへ向かいお店のドアを開く。
カランコロン、とドアに付けられた鈴の音。それから、いつもの明るい「いらっしゃいませ」の声に出迎えられる。
「あっ、紗夜さん。こんにちはっ」
「ええ。こんにちは、羽沢さん」
続いた挨拶がどことなく嬉しそうに聞こえたのは、きっと自分の自惚れと勉強疲れのせいだろう。そう思いながら、朗らかな笑顔を浮かべて出迎えてくれた羽沢さんに、私は会釈と挨拶を返した。
492: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:38:58.23 ID:5F36JuUh0
「ご案内しますね」
「はい」
エプロンをつけた羽沢さんは、私を先導してぱたぱたと軽い足取りで空いている席へ向かう。その姿をぼんやり眺めながら後に着いていくと、言葉にするのが少し難しい気持ちが胸中に訪れる。
それは意識的に無視しつつ、「こちらへどうぞ」と案内された席へ腰を下ろす。そんな私を見て、羽沢さんはまたニコリと微笑んだ。
「今日は塾もバンドもお休みなんですか?」
「ええ。先週は毎日どちらかの予定が入っていましたけど、今日はお休みです」
「そうなんですね。いつもお疲れさまです、紗夜さん」
「いえ、羽沢さんこそ」
軽く手を振って言葉を返すと、羽沢さんはどこか照れたようにはにかんだ。その表情を見て、肩に入っていた余計な力や身体の奥底に溜まっていた疲れというものがスッと抜けるような感覚がした。
(……私はここへ何をしに来ているのかしらね)
そんな軽い自嘲で自分の本心には目をやらないようにしつつ、メニューを手に取る。
493: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:39:31.14 ID:5F36JuUh0
「お決まりですか?」
「そうね……」
頼むものは実はもう決まっていた。けれど私は迷うような素振りをして、メニューの上に目を滑らせる。どうしてそんなことをするのか、という自問がまた頭をもたげるけれど、「ふむ……」なんてわざとらしい呟きでそれも押し殺すことにした。
「すいませーん」
と、そうしているうちに、二つ隣のテーブルから羽沢さんに声がかけられる。
「あっ、はい。少々お待ちください。……ごめんなさい、他のお客さんに呼ばれちゃったので……」
「私のことは気にしないで。ゆっくり考えていますから」
「すいません。……お伺いしまーす!」
ぺこりと頭を下げて、羽沢さんはパタパタと呼ばれた席へ向かう。その後ろ姿を見送りながら、本当に私は何をしているんだろうか、と呆れたように苦笑した。
494: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:41:04.46 ID:5F36JuUh0
◆
「はい、ご注文の紅茶とチーズケーキ、お持ちしました」
「ええ、ありがとう」
私の元へ戻ってきた羽沢さんに注文を伝えて、それからフロアを忙しなく動き回る彼女の姿を目で追っていると、思ったよりもすぐに頼んだものが運ばれてきた。恭しくテーブルにカップの乗ったソーサーとお皿を置く羽沢さんにお礼を言ってから、私は改めて店内を見回す。
お店の壁にかけられた時計は午後二時を少し回ったところ。この時間なら空いているだろうと思って来たのだが、どうやら今日はお客さんが多いようだ。
「すいません、忙しい時間に」
「い、いえいえ! いつもこの時間はそんなに忙しくないんですけど、その、偶然お客さんが重なっただけなので!」
慌てたように手を振りながら、羽沢さんは言葉を続ける。
「それに、ちょうど紗夜さんと入れ替わりでほとんどの方が帰ったので……今はもう暇ですから」
495: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:41:58.58 ID:5F36JuUh0
「そうですか」
それは良かった、と返そうとして、その返答は色々な意味でどうかと思い口を閉ざす。けれどこれだけだと何か羽沢さんを邪険にしているようにも聞こえる気がしたので、私は急いで頭の中で続く言葉を探した。すぐに当たり障りのない話題を見つけたから、それを手早く言葉にする。
「そういえば、今日はなんだか商店街が活気づいていますね」
「あ、そうなんです。実は明後日にお祭りがあるんですよ」
「お祭り……ああ、そういえば日菜が何か言っていたわね」
商店街にほど近い、花咲川のとある神社で行われるお祭り。あたしはパスパレの仕事で行けないんだ~、というようなことをさして残念とも思っていないような様子で話していた、先月の日菜の姿を思い出す。
「花火が綺麗……らしいわね」
「はい。私も去年はアフターグロウのみんなと行ったんですけど、本当にすごく綺麗で……」
羽沢さんは私の注文の品を乗せていた丸いトレーを胸に抱いて、どこかうっとりした様子で目を閉じる。きっとそのとても綺麗だった花火を脳裏に呼び起こしているのだろう。
496: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:42:41.18 ID:5F36JuUh0
そんな彼女の様子を眺めながら、私も頭の中に色とりどりの鮮やかな花火を思い描いてみる。
人のあまりいない神社の境内の隅で、夜空に目を向ける。しばらくシンとした夏の夜の空気が漂うけれど、すぐに遠くから明るい光が打ちあがり、やがて轟音とともに大きな火の花が咲く。それをしみじみ眺めている私。そしてその隣には、目を輝かせた羽沢さんがいて――
と、そこまで考えて気恥しくなったから、私は小さく咳ばらいをした。
どうして花火を見上げるところを想像したのに羽沢さんのことまで鮮明に思い描いたのか。まったく、やっぱり私は勉強疲れでどうにかしているのかもしれない。
「羽沢さんは今年もアフターグロウのみなさんと行くんですか?」
誤魔化すように羽沢さんに言葉をかける。
「……いえ、今年はみんな予定が入っちゃってるみたいで……私は何にもないんですけどね。でも一人で見に行くのもなぁって感じです」
彼女は残念そうに肩を落としながら言葉を返してくれる。その顔には寂しげな表情が浮かんでいて、そういう顔を見てしまうと、私はどうしようもないくらいにどうしようもないことを考えてしまう癖があるのを最近少しだけ自覚した。
497: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:43:30.81 ID:5F36JuUh0
「それなら」
そのどうしようもない思考は私の口をさっさと開かせてしまう。いけない、と思ってすぐに口を閉ざしたけど、言いかけた言葉はあまりにもはっきりと響きすぎてしまっていて、羽沢さんにはしっかり届いてしまっているようだった。きょとんと首を傾げられ、私は観念したように――あるいは赤裸々な望みを誤魔化すように、わざとらしく大きく息を吸って続きの言葉を吐き出す。
「羽沢さんさえ良かったら、一緒に行きませんか?」
「一緒にって……お祭りに、ですか?」
「ええ。羽沢さんが嫌なら――」
「い、いえ! そんなことないですっ!」
やはり私とでは嫌だったろうか。不安になりながら続けた言葉が、大きな声に遮られる。
498: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:44:00.44 ID:5F36JuUh0
羽沢さんは「あっ」と片手で口を押えて、その頬を少し赤くさせた。それは思ったよりも大きな声が出たことを恥ずかしがっているのか、それとも何か別の理由で頬に朱がさしたのか……と、私はまたどうしようもないことを考えてしまった。
「え、えっと、紗夜さんが一緒に行ってくれるなら……はい。私もお祭りに行きたいです」
続けて放たれた言葉の真意を探ろうとして、すぐに止めた。それを考えたって仕方のないことだろう。
「それでは、一緒に行きましょうか」
「は、はいっ」
私の言葉に羽沢さんは大きく頷く。まだその頬には朱の色が淡く残っていた。
499: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:44:57.23 ID:5F36JuUh0
◆
お祭りの当日は、午後六時に羽沢珈琲店で待ち合わせだった。羽沢さんは夕方くらいまでお店の手伝いがあるし、私だって遊びに行く分いつも以上に勉強をしなければいけなかったから、ちょうどいい時間だと思っていた。そう、思っていた。
「……思っていたのだけど……ね」
しかし今の私の心境はどうだろうか。
朝、目が覚めてからはよかった。羽沢さんとお祭りに行けるということが私にやる気を与えてくれて、いつも以上に集中して机に向かえていたと思う。けれど、時計の針が中天を指し、そこから段々右回りに落ちていくと、どんどん私は落ち着かなくなってしまっていた。
今の時刻は午後三時前。数式を解く際も、英文を訳す際も、どうにも頭の中に何かがチラついてしまい、集中が出来なくなっている。
500: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:45:24.04 ID:5F36JuUh0
私はため息を吐き出して、持っていたシャープペンシルを勉強机の上に放る。そしてもういっそ開き直ってしまおうと、広げていた参考書を片付けた。
(集中できない時に無理をしても効率が悪いわ。今日はもう辞めにしよう)
そんな言い訳じみたことを頭の中で呟いて、部屋に用意しておいた浴衣へ目をやる。羽沢さんは浴衣を着ていくと言っていたから、私も急いで準備したものだ。
ゆっくりとその深い紺色をした浴衣に近づいて手を触れる。綿麻生地の触り心地が妙にくすぐったくて、私は余計に落ち着かなくなってしまった。
今の時刻は午後三時を少し過ぎたころ。羽沢珈琲店までは歩いてニ十分ほどだから、まだまだ準備をするには早すぎる。
だというのに、気付けば私は浴衣を手に持って、洗面所へ向かっていた。
501: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:46:22.29 ID:5F36JuUh0
午後六時の商店街はいつもとまったく違う様相を呈している。
至るところに提灯が下げられ、行き交う人々はほとんどが和を装い、夏の斜陽に長い影を作る。設けられたスピーカーからは賑やかなお囃子が流されて、それに合わせてご機嫌な足音を奏でる子供たちが駆けていった。
その中を、紺色の浴衣を纏った私は、目的地へ向けて下駄をカランコロンと転がしながら歩く。
やっぱり落ち着かない気分だった。それは普段は着ない浴衣を纏っているせいなのか、履き慣れない下駄を履いているせいなのか、珍しく頭の後ろで髪をお団子に結んだせいなのか、その全部のせいなのか。
そよ風が吹き、私のうなじを撫でていく。ほどよく温い、夏の風だ。
それにますます落ち着かない気分になる。そうしてそわそわしながら歩いていると、すぐに羽沢珈琲店が見えてきた。そして、その軒先に立つ浴衣の少女が目についた。
淡い水色の浴衣。両手で持った白を基調とした花柄の巾着袋。そして、やや俯きがちで、どこかそわそわしているような表情。
ああ、羽沢さんも私と同じなのかもしれないな。
そう思うと私の胸中は喜びによく似た感情の色で塗りたくられる。けれどそれが正確には何色なのかということは気にしないようにして、私は足早に彼女へ歩み寄っていく。
502: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:46:48.67 ID:5F36JuUh0
「すいません。お待たせしました、羽沢さん」
「あ、紗夜さん! いえいえ、こちらこそわざわざウチにまで来てもらっちゃって……」
声をかけると、淡い水色の上に艶やかな笑顔がパッと花開く。それを見て、多分私も同じように笑った。
それからお互いの浴衣姿を褒め合い、それに気恥しさとこそばゆさが混じった気持ちになりながら、私と羽沢さんは神社を目指す。
日暮れて連れあう街に、蝉時雨が降りそそいでいた。
ひぐらしの寂しげな声も、街ゆく人々の笑顔も、拳三つ分ほど離れて並ぶ羽沢さんも、全部がとても綺麗だな、なんて思いながら、私は羽沢さんと肩を並べて歩き続ける。
503: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:48:03.66 ID:5F36JuUh0
◆
神社の参道は多くの人で混雑していた。
境内へと続く参道の両脇には色々な屋台が幟を立てていて、それらから威勢のいい声が上がる。それが行き交う人々の喧騒と混ざり合う。なるほど、こういったことにあまり興味がない私ですら「花火が綺麗」だと知っているのだから、それほどこの花火大会は有名なんだろう。
羽沢さんとはぐれないようにしなくては、と思い、すぐに浮かんだ選択肢が『手を繋ぐ』というものだった。私は慌てて頭を振る。
「ど、どうかしたんですか?」
「いいえ、なにも。予想以上に人が多くて少し驚いただけですよ」
何を考えているんだ、と思いながら、私は羽沢さんに言葉を返す。
「そうですね……ここの花火って結構有名みたいですから。去年も人がたくさんいて、みんなとはぐれないようにするのが大変でした」
「私たちも気を付けましょう」
「はいっ」
そう言って、羽沢さんが拳一つ分、私との距離を縮める。それがまた私の中のおかしな感情を刺激してくるけど、努めて気にしないようにする。
504: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:48:33.40 ID:5F36JuUh0
「まずは……どうしましょう、紗夜さん」
「そうね。色々な屋台が出ているし、少し見て回りましょうか」
「分かりました」
こくんと頷き、羽沢さんは笑顔を浮かべる。それを見て私も笑った。
人混みをかき分けて、私たちは参道に連なる屋台を覗いて回る。
屋台は食べ物を出しているところが多かった。かき氷に綿菓子、焼きそばにお好み焼き……それぞれの屋台に近付く度に、夕風に乗って、夏の匂いと種々様々の食べ物の匂いが運ばれてくる。
少しお腹が減ってきたな、と思ったところで、「くぅ」という可愛らしい音が隣から聞こえてきた。羽沢さんを見ると、彼女は顔を赤らめながら、照れ笑いを浮かべていた。
505: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:49:07.28 ID:5F36JuUh0
「あ、あはは……その、お祭りで食べるかなって思って、お昼あんまり食べなかったので……」
「……ええ、その気持ちは分かるわ。私もあまりお昼は食べなかったから。何か食べましょうか」
「はい……」
お腹の音が相当恥ずかしかったのか、赤い顔と肩を落とす羽沢さん。その様子を見て、胸中には若干の申し訳なさと大きな慈しみが混ざったような感情が沸き起こった。私はこみ上げてくる穏やかな笑い声を喉の奥に押し止めながら、「何か食べたいものはありますか?」と尋ねる。
「えっと、その……たこ焼き、ですかね……」
羽沢さんは近くの屋台をチラリと見やる。そこには「たこ焼き」と書かれた赤い幟が立っていた。確かにそこからはソースのいい匂いがふわりと漂ってきていて、それのせいで羽沢さんのお腹の虫は元気よく鳴いてしまったのだろう。
506: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:49:56.16 ID:5F36JuUh0
「分かりました。……ふふっ」
なんだか今日の羽沢さんは一段と幼げだな……なんてことを考えていたら、とうとう押し殺しておいた笑い声が口から漏れてしまう。羽沢さんはそれを聞いて、勢いよく私の方へ赤くなった顔を向けてきた。
「さ、紗夜さんっ」
「ご、ごめんなさい……でも……ふふふ……」
謝るけれど、一度口から出してしまうと止まらなかった。申し訳なさと慈しみ、それと何か自分自身では計り難い気持ちのこもった笑い声が喧騒に溶けていく。「もう……」と羽沢さんはちょっとだけ拗ねたように口を尖らせて、それがやっぱりとても可愛らしく思えてしまう。
507: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:50:43.91 ID:5F36JuUh0
「ふぅ……。すいません、羽沢さん。思わず笑ってしまって」
そのいろんな感情が織り交ざった笑いもどうにか収まったころ、私は改めて羽沢さんに謝罪をする。
「……別にいいですよ? 紗夜さんが楽しそうで私も嬉しいですから?」
「……ふ、ふっ……」
けれど、また拗ねたような口ぶりでそんなことを言われてしまい、私の口からはやっぱり先ほどと同じものが漏れてしまった。
「紗夜さんっ!」
「ごめんなさい……一度ツボに入るとどうしても……ふふふ……」
「もう……くすっ」
「羽沢さんだって笑ってるじゃないですか」
「それは紗夜さんのせいですっ」
「ふふ……確かにそうね。それでは、お詫びと言ってはなんですが、たこ焼きは奢りますよ」
いつもよりもずっと子供っぽい羽沢さんの様子を見て、私は気付けばそんなことを言っていた。普段の姿とのギャップというものもあるのだろうけど、そういう姿を見ると、どうしても私は彼女を甘やかしたくなってしまうらしい。
508: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:51:59.07 ID:5F36JuUh0
「そ、それはちょっと悪いですよ」
「いえ、笑ってしまったのは私ですから」
「…………」
羽沢さんは少し真面目な顔をして、何かを考えこむように口元へ手を当てる。
「……分かりました。それじゃあ、こうしませんか? たこ焼きとか、分けられるものは一つだけ買って、二人だけ分け合う……っていう風に」
「一つを分け合う……」
「はい。あっ、も、もちろん紗夜さんが嫌じゃなければです!」
慌てたように言葉が付け足される。私もその答えを考える振りをして、それっぽく右手を口元に持っていく。
だけど、羽沢さんのその提案に対する答えはとっくに出ていた。彼女と同じものを食べることに抵抗はないし、私を気遣っての言葉だ。それを嬉しく思えど、嫌がって断る理由はない。
ではどうして考える振りをしてまで口元を隠したのか、と問われれば……つまりそういうことだ。
509: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:53:10.15 ID:5F36JuUh0
「そうですね。羽沢さんの言う通りにしましょう」
やおらに緩みそうな頬をどうにか抑えて、私は真面目くさってそう答える。
「は、はいっ! ありがとうございます!」
羽沢さんは飛び跳ねるようにお礼を返してくれる。それに「お礼を言うのは私の方よ」と言おうとして、ちょっと迷ってからやめた。
「いいえ。その方が色々なものをたくさん食べられますからね」
代わりに口から出た照れ隠しの言葉は、彼女にどう届いただろうか。
また少し頬を赤くさせては拗ねたようにしながら、それでも楽しそうに「えへへ」と笑った羽沢さん。
その笑顔の真意を推し量ろうとするより早く、私はたこ焼きの屋台へ足を向けた。
510: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:54:36.86 ID:5F36JuUh0
それから私たちは色々な屋台をめぐり、様々なものを二人で分け合った。たこ焼きのあとは焼きそばを、焼きそばのあとはかき氷を、という風に。
個数で分かれているたこ焼きはともかくとして、焼きそばとかき氷はそうやって食べるものではないと思ったけど、お祭りの空気というものはそういう些末なことを気にさせなくする作用があるらしい。普段であれば照れくさくて出来ないことも平然とやれるし、そのときどきの自分の本心を探るようなこともしなかった。
だから私は何も考えずに笑えていたし、羽沢さんもおそらく同じような思いで笑顔を浮かべていてくれたと思う。
そうしているうちに夜の帳が街に下りる。東の方から幾分かの星が瞬く黒い空がやってくる。
時計の針が指し示す時刻は午後八時前。もうそろそろ花火の打ち上がる時間だった。
私は羽沢さんと連れ立って、相変わらず人の多い参道の端で、言葉も少なく夜空を見上げていた。
511: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:55:33.35 ID:5F36JuUh0
人の数は私たちがここへやって来た時からますます増えているように見受けられる。だけど、その喧騒はどこか落ち着きを持ったように思えた。
時おり吹き抜ける夜風に鎮守の森がささめく。その音がやたらとはっきり聞こえるような気がした。夜空に浮かぶ月はどこか朧げで、もしかしたら明日は雨でも降るのかもしれない。
「もうすぐですね……」
隣に並ぶ羽沢さんが夜の空気を震わせる。その小さな声も朧げな形をしているのに、はっきりとした輪郭を持って私の耳を打った。
「……ええ、そうね」
その余韻を楽しむように、少し間を置いてから声を返す。羽沢さんにこの声はどう届いただろうか、と考えて、私と同じように届いていたら嬉しいな、なんて思ってしまう。
512: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:56:15.35 ID:5F36JuUh0
「…………」
「…………」
それきり無言で、私たちは夜空へ目を向ける。いつ上がるかという正確な時間は分からないけれど、やがて打ち上がる花火を待つ。
二人で何もない夜空を見上げる時間。その長さがどれくらいのものだったかは曖昧だ。もしかしたら五分、十分とこのままでいたかもしれないし、あるいは三十秒にも満たなかったのかもしれない。でも、そんなことはきっとどうでもよかった。
私は、この時間がただ嬉しかった。隣に羽沢さんがいて、同じ時間を、きっと同じ気持ちで共有しているだろうことが楽しかった。だから長さなんてどうでもいい。この時間に何ものにも代えられない価値があるというだけでいいんだ、と、いつもより大分素直にそう思っていた。
そんなことを考えていると、夜空に一筋の光が伸びる。それは遠い空の高い場所までまっすぐ昇っていき、パッと弾けて、花を開かせた。遅れて、ドン、という轟音が私のお腹の底まで響く。それを皮切りにして、次々と光の筋が空へ昇っていった。
513: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:57:10.35 ID:5F36JuUh0
花咲川に花火が咲く。色鮮やかな火の花の数々を、地球が落とした暗幕の上に描いては消し、消しては描いていく。
しばらくその光に圧倒されるよう見入っていたけれど、私はふと思い立ったように視線を落とす。
参道にいる人々はみんな夜空を見つめていた。拳一つ分の距離を置いて隣に並ぶ羽沢さんも、うっとりと夜空を見つめていた。
手を動かすだけで届く距離の横顔が、花火の光に淡く照らされている。それがなにかとても尊いものに見えてしまって、私は視線が動かせなくなる。
身体を震わす轟音と、夏の緑の匂いに混じった僅かな硝煙の香り。
人々の喧騒が別世界の出来事のように遠く感じられて、今この世界には、この一瞬だけを切り取った私と羽沢さん以外に誰も人がいないような錯覚をおぼえてしまう。
514: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:58:22.22 ID:5F36JuUh0
不意に羽沢さんも夜空から視線を落とす。そして、私の方へ顔を向けた。
視線と視線がぶつかり合う。「どうしたんですか?」という風に、綺麗な光に彩られた顔を傾げられて、私は急に照れくさくなってしまった。「なんでもありませんよ」と言葉にしないで首を振り、再び夜空に視線を戻す。
どこまでも広がる黒い空。そこに爆ぜる色とりどりの光の花たちはやっぱりとても綺麗で、感嘆のため息を吐き出す。
叶うのならば、ずっとこのままでいたい。
普段であれば、目を逸らして見ない振りをする気持ち。だけど、これをすんなりと受け入れてしまおうと思えるくらいに花火たちは煌びやかだった。
だから、この一瞬を切り取った世界を、羽沢さんとの距離を、私はきっとずっと忘れることがないだろうと思った。
515: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:59:15.71 ID:5F36JuUh0
◆
物事の終わりというものには常に寂しさが付き纏うもので、特に賑やかで楽しい時間が終わったあとは殊更強くそう感じてしまう。
花火はもう打ち上がり終わって、参道に並んだ屋台も全部が片付けに入っていた。あれほどごった返していた人ごみも気が付けば散り散りになっていて、惚けたように花火の余韻を噛みしめていた私と羽沢さんだけが、この風景から浮き彫りにされたような感覚がする。
夜空に静寂が訪れてから、私は何も言葉にしなかった。
この時間を終わらせてしまうのが名残惜しい。何かを話してしまえば、今日という時間が終わり、もう二度と手の届かないものになってしまうような気がしてしまっていた。
羽沢さんはどうなんだろうと思い、視線を隣に並ぶ彼女へ向ける。すると、同時に私の方へ顔を向けた羽沢さんと目が合う。
しばらく無言で見つめ合って、それからどちらともなく吹き出した。
歓楽極まりて哀情多し、とはこのことだろう。楽しかった思い出があるからこそ、終わる時にこんなにも寂しい気持ちになるのだ。ならばこの寂寥は決して悪いものではない。
それにこの時間が終わったとして、羽沢さんと私の関係が今日ここで途絶える訳でもないのだ。
516: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 19:00:03.18 ID:5F36JuUh0
「帰りましょうか」
「……はい」
ふぅ、と小さく息を吐いてから、羽沢さんにそう声をかける。彼女は何かを噛みしめるように頷いた。それにまた私は何とも言い難い気持ちになったけれど、今はそんなことは気にしない。
「羽沢さん」だからその気持ちに少しだけ従って、私は言葉を続ける。「一応、私の方が先輩なので……家まで送りますね」
「…………」
羽沢さんはそれを聞いて、何かを考える様に少し俯いてから顔を上げて、私の顔を真正面から見つめる。その顔には、お祭りを楽しんでいた時のような、いつもよりあどけない表情が浮かんでいた。
「……紗夜さんが遠回りになっちゃいますけど……お願いします」
そして思っていたよりずっとすんなりと羽沢さんは頷く。それにどうしてか少し嬉しくなりながら、私は羽沢さんと並んで歩きだす。
517: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 19:00:39.05 ID:5F36JuUh0
拳一つ分ほどの距離で連れ合う帰り道。そこに響くのは虫たちの声ばかりで、相変わらず言葉は少なかった。
だけど、会話を交わすよりもずっと雄弁に、私たちは何かを語り合っているような気持ちでいたと思う。羽沢さんはどうか分からないけれど、少なくとも私はそうだった。
浴衣を褒め合ったことも、屋台でいろんなものを一緒に食べたことも、並んで花火を見上げたことも、それらの余韻も……全てを言葉に頼らずに共有出来ていることが、この上なく嬉しい。
カランコロン、カランコロンと、二人で下駄を鳴らす帰り道。今の私たちが発するのは、きっとこの音だけでいいんだろう。
そうして静謐な気持ちを抱いて辿る家路は、往路よりもずっとずっと短い。私たちはあっという間に羽沢珈琲店に着いてしまった。
518: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 19:02:06.21 ID:5F36JuUh0
「すいません、わざわざ送ってもらっちゃって」
「いいえ。年長者として当たり前のことです」
軒先で向かい合って、そんな言葉を交わし合う。それからまた、私たちの間に静寂が訪れた。
次に放つ言葉は「さようなら」だろう。それが分かっているからこそ、私は別れの寂しさを胸中で燻らせてしまい、口を開けなくなってしまう。
羽沢さんはどうだろうか、と彼女の様子をうかがえば、少し顔を俯かせて、時おり私のことを上目遣いで見やっていた。
もしかしたら羽沢さんも私と同じ気持ちなのかもしれない。ある種の傲慢ともとれる思考が頭に浮かび、私は自身に向けて呆れたように小さなため息を吐き出した。
「今日はありがとうございました」
このままでは埒が明かないな、と思って、口を開く。だけど出てきた言葉は少しでも「さようなら」を遠ざけるためのもので、未練がましい自分をもう一度胸中で自嘲する。
519: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 19:02:53.26 ID:5F36JuUh0
「いえいえ……私の方こそ、今日は誘ってくれてありがとうございました」
「ええ、どういたしまして」
パタパタと手を振った羽沢さんの顔を見ないよう、少しだけ俯く。彼女の顔を見てしまうときっといつまでも別れを切り出せないだろうから、そのまま「それでは、」と口にしてから顔を上げた。
「私はここで」
「あっ……」
そしてそれだけ言って踵を返そうとしたけれど、羽沢さんが何かを言いかけて、私の身体は中途半端に横を向いたところで止まってしまう。
「……どうかしましたか?」
「あ……えっと……な、なんでもないです、えへへ……」
尋ねてみたけど、羽沢さんはもごもごと口を動かしてから、柔らかくはにかんだ。困ったことに、そんな顔を見せられてしまうと胸が温かくなって、余計に別れ難くなる。だけどこのままでは夜が明けるまでずっとこうしていてしまうだろう。
520: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 19:03:20.29 ID:5F36JuUh0
「そうですか。……それでは、羽沢さん。また今度」
私は後ろ髪を引く誘惑を断ち切って、けれども若干の未練を残した言葉を吐き出す。
「はいっ、また今度。帰り道……気を付けてくださいね、紗夜さん」
「ええ、ありがとう」
もう一度羽沢さんに軽く頭を下げて、今度こそ私は背を向けて歩きだす。羽沢珈琲店から離れていく。
521: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 19:03:56.71 ID:5F36JuUh0
商店街の夜道には、まるで私の行く先を示すように盆提灯たちがぶら下がっていた。
お祭りから取り残された彼らが朱色の影絵を作る。それを視界に収めながら、胸中には静かな満足感と、どこかノスタルジック気持ちがあった。
その二つの感情をおもむろに混ぜ合わせて、私はいつもよりずっと素直に考える。羽沢さんと交わし合った「また今度」。その「また今度」の中で、いつか私と彼女の関係が変わるといいな……なんて。
そう思ってからすぐ、どうしようもないことをどうしようもないくらいに考えてしまう捻くれ者の私は、自嘲の織り交ざったため息を夜空に吐き出した。
関係が変わる。それを怖がっているのは私じゃないか。赤裸々な気持ちに蓋をして、いつまでも向き合うことをしないのは、他でもない私だ。
522: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 19:04:24.82 ID:5F36JuUh0
「でも、いつか……」
その先は言葉にしない。心にも思わない。だけど、いつか……とだけ、もう一度胸中で繰り返した。
夏の夜風が頬を撫でていく。その風にはもう硝煙の燻るような香りはないけれど、まだ蒸した緑の匂いがあった。
おわり
523: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 19:05:19.99 ID:5F36JuUh0
525: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 13:28:32.48 ID:GzIRVoN90
コンビニエンス・ファストフード
526: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 13:30:36.12 ID:GzIRVoN90
ありさーやの場合
控えめな雨音が窓から忍び込んでくる自分の部屋。ベッドを背もたれにして、畳の上に腰を下ろす私と、同じように畳の上に座って僅かに身体を預けてくる右隣の沙綾。
特に何をするでもなく、私たちはぼんやりとしていた。
沙綾が身じろぎをすると、柔らかいポニーテールがふわりと揺れて、時たま私の首筋をくすぐった。それがちょっと気持ちいいな、と思うくらいで、特筆することは他に何もない。
「有咲」
「んー?」
「……呼んでみただけ」
「んー……」
たまに交わす言葉もそんなことばかり。中身なんてものはこれっぽっちも存在していない。
527: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 13:31:12.34 ID:GzIRVoN90
チラリと時計を見やると、短針が『4』の数字を指していた。気が付けば一時間近く私と沙綾はこんな時間を過ごしていたらしい。これを無駄に時間を消費したと捉えるべきか、贅沢に時間を消費したと捉えるべきか。
「あー……」
なんて、考えるまでもないか。
「どうしたの、有咲?」
「いや、なんでもー」
だるんだるんと過ぎていく時間に釣られて緩んだ口から、自分でも間抜けだなぁと思わざるを得ない伸びた声が漏れる。それを聞いて、沙綾は「そっか」と言い、おかしそうにちょっと笑った。私も何だか幸せになったから「へへ」なんて笑った。
528: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 13:32:09.44 ID:GzIRVoN90
蔵ではなく、自分の部屋の方に沙綾を招き入れるのは今に始まったことじゃなかった。
いつそうなったのか、どうやってそうなったのか……なんてのは別のお話だけど、私と沙綾は、友達と呼ぶにはいささか踏み込み過ぎた関係になっていた。だからこうして自分の部屋に沙綾とふたりきりでいるのは何もおかしくないことで、むしろ当たり前というか、そうあるべきというか……まぁそんな感じのこと。
(それにしても……)
自身の中に浮かんだ言葉。『友達と呼ぶにはいささか踏み込み過ぎた関係』なんていう響き。それがなんだかものすごく滑稽に聞こえた。まぁでも、うん、そう、そうだよな、こういう表現でも間違ってはいないよな……と誰にするでもない言い訳を頭に浮かべる。
私たちの関係を端的に表現する言葉はいくらでも思い付く。沙綾はそれを面と向かってまっすぐに言ってくれるけれど、私は未だに照れがある。ただそれだけの話だ。
そしてそんな私を沙綾はいつも楽しそうにからかってくるし、私も私で沙綾にからかわれるのは……ここだけの話、大好きだから、それはそれでいいんだろうと思う。
529: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 13:33:05.27 ID:GzIRVoN90
「んー……ふわぁ」
沙綾が伸びをして眠たげな声を上げた。その拍子にふわっと甘いパンの香りが広がる。それが鼻腔をついて、私は頭にもたげた言葉を何の考えもなしに取り出す。
「やっぱり沙綾ってパンの匂いがするよなぁ……」
「んー、そうだねー」
何でもないように間延びした声が返ってくる。それに対してちょっとモヤッとした日の記憶が頭に蘇り、私の口からは「あー」とも「うー」ともつかない妙ちくりんな声が漏れた。
「どうしたの、変な声だして?」
「いや……」
きょとんとした顔がこちらへ向けられる。それになんて返したものかと迷ってしまい、視線を天井、畳、時計と順に巡らす。それからチラリと沙綾に視線を送ると、綺麗な青い瞳が不思議そうに私を覗き込んでいた。
その目で見つめられてしまうと隠し事が何も出来ないから是非ともやめて欲しいけどやめて欲しくない、なんてことを言ったら沙綾はなんて思うかなー……と少し現実逃避じみたことを考えてから、私は観念したように正直な言葉を吐き出す。
530: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 13:34:22.55 ID:GzIRVoN90
「ほら、モカちゃん……」
「モカ?」
「うん。モカちゃんともたまに遊んだりとかするんだけどさ……その、同じ匂いっていうか……まぁ、パンの匂いがしてさ……」
「……ああ」
沙綾は合点がいったように頷いて、けれどその顔に私の大好きなイタズラな笑みを浮かべて、しらばっくれた言葉を続ける。
「そりゃあ、モカはウチの常連さんだからね」
「…………」
私は私でそんな沙綾に恨めしく抗議の目を向ける。『私の言いたいことが分かってるくせに、どうしてそんな風な言葉をいつも投げてくるのか』とか、そんな気持ちを込めて。
「どうしたの、有咲?」
だけどやっぱり沙綾は白々しい笑顔を浮かべて、楽しそうにそんなことを聞いてくるのだから本当にアレだと思う。そして何より、こうすると沙綾が喜ぶということも、こうされると私が喜ぶということもしっかり理解している自分自身が本当にアレだと思う。
531: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 13:36:17.13 ID:GzIRVoN90
「分かってるくせに……」
だから私はいじけた声を出して、沙綾の肩にコテンと頭を預ける。
こういう時は張り合わず、さっさと甘えてしまうのが結果的に一番疲れないしモヤモヤしないということを、最近私は発見した。沙綾にはどうやっても敵わないなぁということも学習した。いや、だからと言って全面降伏はちょっと悔しいから少しは抵抗するんだけど。それにさっさと甘えるのも別に私が常に沙綾に甘えたいと思ってるとかそういうんじゃなくて――
「ふふ、ごめんね? どうしてもさ、有咲が可愛くて……ついからかいたくなっちゃうんだ」
「……ん」
――とか考えるけど、沙綾の柔らかな手が私の髪を梳くと、そんな些細なことはいつもどうでもよくなってしまう。
532: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 13:38:06.64 ID:GzIRVoN90
甘い甘いパンの匂い。あったかい体温。私よりも背丈のある沙綾に身を預けて、イジワルなくせにめちゃくちゃ優しい掌が、私の頭を撫でる。
ああ、無理無理。無理だって。肩肘張ろうとしても、身体の奥底から力がどんどん抜けていっちゃうもん。こんなの素直になるしかねーじゃん。
「いつもの有咲も好きだけど、素直な有咲もとっても可愛くて好きだよ」
「……うん」
されるがままに、私は沙綾に身を任せる。柔らかい手が私の頭を、髪を、背中を通り過ぎるたびに、一枚ずつ理性の鎧をはぎ取っていく。気持ちのいい、陽だまりのような温みが心を溶かして、ただ純粋な願いを口から出していってしまう。
「さあや……」
我ながら随分と甘えた声だなぁ、と残り僅かな理性が考えた。
「ん……いいよ」
その理性も、沙綾を見つめて、それだけで私のことを全部分かってくれる青い瞳が頷くだけで、さっさとどこかへ行ってしまうのだ。
533: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 13:39:03.76 ID:GzIRVoN90
こうなってしまっては仕方ない。今日はもう沙綾に抵抗しようという気力が起きないであろうことは、これまでの経験から痛いほど分かっている。
だから私は瞼を閉じた。『私の理性は何も見ていないよ』と、『沙綾になら何をされてもいいよ』と、『でも、するならやっぱりとびっきり優しくしてほしいな』と、愛しい恋人へ向けて、情けなくなるくらいに白旗を振り回す。
暗い視界にシトシトと雨の滴る音。それから私の髪を弄んでいた手がスルリと左頬にまで動いていって、甘い甘いパンの香りがふわりと揺れた。
その一瞬後に、唇に柔い感触。目と鼻先以上に近い、沙綾の艶やかな息遣い。
それは私の脳まで一直線に快楽信号を届けていって、すぐに沙綾のことだけしか考えられなくなる。口に感じる沙綾の感触とか、耳に感じる沙綾の息遣いとか、鼻に感じる沙綾の匂いとか……それら全部が、みっともなく白旗を上げた私を支配する。唯一目は閉じているけれど、暗い瞼の裏にだって沙綾が私に口づけている姿が浮かぶから、きっと五感全部を沙綾に奪われているんだ。そう思うと、もう堪らなくなってしまう。
534: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 13:39:51.72 ID:GzIRVoN90
「さあやぁ……」
「ふふ……蕩けた有咲も可愛い」
だから沙綾が唇を離す僅かな時間すら、長いお預けを食らっているような気持ちになる。
私は目を瞑ったまま右手を伸ばす。それはすぐに沙綾の左手に絡めとられて、『今さら嫌だって言っても逃がさないよ?』と、ギュッと握られた。私も『逃げる気は毛頭ないから、早くしてほしい』と、その手を握り返した。
それからまたすぐに、柔らかい唇の感触が私を支配せしめんと侵攻してきた。今度の攻め方は、一気呵成に本丸を落とさんとする一大攻勢のようだ。
それを為すすべもなく受け入れるふやけた私の心は、『ああ、やっぱり素直に甘えさせてくれる沙綾が大好きだなぁ』なんてことをただ思い続けるのだった。
535: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 13:41:06.25 ID:GzIRVoN90
蘭モカの場合
羽丘女子学園の屋上から見る夕景もとうに見慣れたもので、その光景について回る思い出も気付けば数え切れないくらいの量になっていた。フェンスにもたれて眺める夕陽も、みんなで他愛のないことを話す黄昏も、数ある思い出の一ページ。
それなら今この瞬間、塔屋に背を預けて座り、落陽をぼんやり眺めるのも、いつも通りの日常のひとかけら。なんでもなくて、ありふれていて、数年を経た未来にとってはきっとかけがえのない思い出のひとつになるんだろう。
「……蘭~、もしかして話、聞いてない?」
そんな物思いに耽るあたしの右耳に、聞き慣れた間延びしている声。そちらへ視線を送れば、あたしと同じように塔屋の壁を背もたれにして座り、パンについての蘊蓄を好き勝手に話し続けていたモカが唇を尖らせていた。
「イースト菌がどうだとか、ってところまでは聞いてたよ」
あたしはそれに応える。「も~、全然最初の方じゃんそれ~」と不服そうに言って、モカはまたパンに関しての雑学を話し始めた。
536: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 13:41:53.23 ID:GzIRVoN90
それもやっぱり右から左に聞き流しながら、みんなは今ごろ忙しいのかな、と考える。
今は放課後で、巴とひまりはそれぞれ部活。つぐみは生徒会。そしてあたしたちは何も予定がなかった。
今日は天気がいいし春の温さが心地よかったから、あたしとモカがこうやって屋上で夕景を眺めるのは何もおかしなことじゃない。
そう、おかしなことじゃないんだけど、どうしてか今日はモカのパンについての蘊蓄話――あたしは勝手にパン口上って呼ぶことにしてるけど――がやたらと長い。
「……というわけで、今日のパンさんはー、メロンパンとグリッシーニ~」
まぁ、モカだしそういう日もあるか……そう思ってまた夕間暮れに思い耽っていると、長々としたパン口上の末に、膝の上に抱いた袋を指さすモカ。それを横目に見て、やっと終わったか、なんて思いながらあたしは言葉を返す。
「グリッシーニ?」
「そう、グリッシーニ~」
メロンパンは分かるけど、グリッシーニってどんなだろう。そう首を傾げていると、モカが袋から細長い棒状のパン……のようなものを取り出した。
「それ、パンなの? なんかスティックのお菓子を大きくしたようにしか見えないけど」
「あーあー、この違いが分からないなんて……蘭もまだまだだね~」
「はぁ……それは悪かったね」
呆れたようため息交じりの声を返す。けど、何が違うのかが少しだけ気になったから、あとでちょっと調べてみよう。調子に乗るだろうからモカには絶対に言わないけど。
537: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 13:42:25.85 ID:GzIRVoN90
「それじゃあ蘭ー、はい」
モカはグリッシーニを袋の中に戻して、今度はメロンパンを取り出す。そして一口サイズにちぎって、それをあたしに手渡してきた。
「……なに? 食べさせろってこと?」
一緒に食べよう、という意味かと普通は思うけど、相手はモカだ。そんな当たり前が通用する訳ない。
「ご明察~」モカはそれを聞いて嬉しそうに笑った。やっぱりか。「さぁさぁ蘭さんや、あ~ん」
私の答えなんか待たずに口を開ける。まるで親鳥からのエサを待つひな鳥だな、なんて思いながら、あたしはまたため息を吐き出した。
538: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 13:43:18.11 ID:GzIRVoN90
「……あーん」
それから逡巡を一瞬、だけど逆らったところで面倒な駄々をこねられるだけだというのは分かっていた。それにひな鳥みたいなモカが少し可愛かったから、文句も本音も口から漏らさずに、あたしはパンを差し出した。
モカはやっぱり嬉しそうに眼を細めて、眼前に突き出されたメロンパンを頬張る。そして幸せそうにもぐもぐと咀嚼する。そんな幼馴染の姿を見て、あたしはフッと笑みを漏らした。
「おかえしだよ~。はい、蘭」
それを飲み下すと、またメロンパンを一口サイズにちぎったモカが、その欠片をあたしに向けて差し出してくる。少しだけ照れくさかったけれど、それはそれでまぁ悪くはないかな、という気持ちだった。
あたしは「はいはい」とぶっきらぼうに言って、口を開く。そこにモカがメロンパンを放り込む。胸焼けするんじゃないかってくらいに甘ったるい味がしたけど……まぁ、たまにはいいか。
539: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 13:44:10.19 ID:GzIRVoN90
モカがメロンパンをちぎって渡してきて、それをあたしがモカに差し出す。次は「はい、あーん」という言葉と一緒にあたしに差し出してくる。
黄昏色に染まる屋上で、塔屋に背を預けてそんなやりとりを繰り返しているうちに、メロンパンはあっさりとあたしたちの胃袋に収まった。本当にどうかと思うおふざけだったけれど、終わってみれば意外と楽しんでいたことに気付いて、また少し照れくさくなる。
そんなあたしの隣で、モカは袋からグリッシーニを取り出し、それを半分に折って口にくわえる。真っ二つにした時に『ポキ』なんて軽い音がしたし、やっぱりそれはパンじゃなくてスティック菓子なんじゃないか……と言おうとしてやめた。
540: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 13:44:47.45 ID:GzIRVoN90
あたしはモカから視線を外して、沈みゆく夕陽を見つめる。
何かをしていても、何もしていなくても、陽は沈む。いつ終わるともしれないけれど、また今日が終わっていく。赤く燃える太陽が地平線の彼方、稜線の向こう側の世界へ朝を届けにいって、あたしとモカが過ごした何でもない今日を思い出に変えていく。
それに一抹の寂しさを覚えてしまう。
いつでも会える幼馴染がいる。その中でもとりわけ大切な人が隣にいて、下らないことでふざけあった先ほどのこと。その時間、その一瞬は、人生でもう二度と訪れることはない。通り過ぎたばかりの今でも既に数ある輝かしい記憶の一つになりかけているし、分け合ったメロンパンを消化しきるころにはもう手の届かない思い出だ。
そう考えてしまうとどうにもセンチメンタルな気分になる。これも春っていう季節のせいなのかな。
541: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 13:45:46.49 ID:GzIRVoN90
「蘭~」
間延びした声。いつも通りの響きがあたしを呼ぶ。少し野暮ったい気持ちで首をめぐらせると、まるでタバコみたいにグリッシーニをくわえたモカが、「ん」と口を突き出してきた。
「…………」
「ん~?」
「……いや、なに?」
「んー……」
何をしたいのか掴み損ねて尋ねるけれど、モカは変わらずくわえたグリッシーニを突き出すだけだった。あたしはそんなモカの姿を見て、少し吹き出した。
「まさかとは思うけど、これ、あたしも食べろって?」
「んー」
どうやらそのまさかだったようだ。モカはニコリと笑って頷いた。
542: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 13:46:45.94 ID:GzIRVoN90
「まったく……これじゃあやっぱりパンじゃなくてお菓子じゃん」
「んーん、ふぁんふぁよ~」
そこは譲れないらしく、何故かキリっとした表情で曖昧な否定の言葉を貰った。あたしはそれにまた少し笑いそうになって、取り繕うように少し俯いた。
「んーんー……」
「……はいはい、分かったよ。やればいいんでしょ」
けれど、どう取り繕ったってモカにはあたしのことはほとんど筒抜けだろう。あたしにはモカのことがほとんど筒抜けなのと一緒だ。
あたしが夕陽に面倒くさいアンニュイを重ねたことはモカに筒抜け。モカがそんなあたしを笑わせようとしたことも、あたしには筒抜け。
あたしが照れ隠しとか、そういうニュアンスで俯いたことも筒抜け。モカが実はこういうことをやってみたかったという気持ちも筒抜け。
どうして分かるのかと聞かれれば、あたしとモカがそういう関係だからというだけの話。
「んー」
嬉しそうな響きの声。モカのそういう声を聞くのをあたしは好きで、あたしのそういう声を聞くのをモカも好き。だからまぁ……恥ずかしいは恥ずかしいけど、ちょっとくらいなら付き合ってあげたって全然構いはしない。
543: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 13:47:22.57 ID:GzIRVoN90
「あ、む……」
差し出されたグリッシーニをくわえる。おおよそ15センチ先、茜色に染まるモカの顔。
自分の顔もきっと赤いだろうな、と思いながら一口パンをかじると、ビスケットのような食感が口の中に広がった。やっぱりこれそういうお菓子だ、と思っていると、モカも同じくパンをかじる。
距離が縮まって、おおよそ10センチ弱。あと二口ほどこのまま食べたら口づけてしまうだろう。だから、あたしはもう一度噛み進めたら口を離そうと思った。
サクリ、とモカがもう一口分あたしに近付く。
あたしもそれにならって一口モカに近付いて――
サクサクサク。
――口を離そうと思った瞬間、一気に三口、モカがグリッシーニを噛み進めた。というか、全部食べた。
544: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 13:48:11.32 ID:GzIRVoN90
「っ!?」
「ん……」
距離がなくなって、間にあったグリッシーニはモカの口の中。
焦ってとにかく文句とか何かを言おうとした唇、モカとの距離がゼロセンチ。
思考回路がショートして、今の状況が分からなくなって、あたしは口を離すことも言葉を吐き出すことも出来なくなった。
「……ふはぁ」
そのままどれくらい時間が経ったのか全く分からなかったけど、呼吸を止めていたらしいモカが顔を離す。それから大仰に息を吐き出して、あたしはようやく我に返った。
545: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 13:49:05.73 ID:GzIRVoN90
「も、もも、も、もかっ……!?」
けれど未だにモカの感触が残った唇は全然まともに動いてくれなくて、やたらと舌が空回るだけ。
「……んへへ」
それをどうにか落ち着けて、とにかく文句の一つでも言わなくちゃ……と思った矢先、モカのふやけたはにかみ顔が目に付いて、「ああもうっ」とあたしは胸中で毒づいた。
これはどういうつもりなのか、事故で済ますつもりなのか故意なのか、責任を取るつもりはあるのかただのおふざけで済ますつもりなのかとか、聞きたいことは山ほどあるけど、モカとあたしは全部筒抜けの関係な訳であって、夕陽よりも朱が差したモカの頬を見ればそれには及ばないというかなんというか……とにかく。
――あ、モカの唇、柔らかくて気持ちいい。
なんて思ってしまったことだけはどうにか隠し通せないだろうか、と考えながら、あたしは次にモカにかける言葉を探すのだった。
546: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 13:50:43.32 ID:GzIRVoN90
ちさイヴの場合
「では、白鷺さん。本日はよろしくお願いいたします」
「はい、こちらこそ」
事務所の応接室。そこそこ上質な素材で出来た、それなりにふかふかのソファー。そこに机を挟んで向かい合って座る私と某アイドル雑誌のライターさん。
「お忙しい中、貴重なお時間を頂き……」だとかそんなテンプレートの挨拶を丁寧な言葉でかけられて、私もいつも通り丁寧に頭を下げる。今まで何度となくこなしている、雑誌のインタビューを受ける仕事だった。
机の上に置かれたICレコーダーが赤いランプを点滅させている。それを見つめながら、今はこういう録音もスマートフォンで済ます人が多いな、なんて思う。黒い長方形のレコーダーはところどころ色が褪せていて、きっと使い込まれたものなんだろう。対面に視線を移すと、三十代後半の女性ライターは、黒縁の眼鏡の奥に柔和な目を湛えていた。
547: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 13:52:05.95 ID:GzIRVoN90
「それでは早速なんですが……」という柔らかく丁寧な響き。次々と繰り出されてくる質問。きっと場数を踏んで慣れているのだろう。時間が限られているということをキチンと知っていて、失礼にならないように、彼女は私から出来るだけ面白い話を聞き出そうとしている。
「ええ、はい。そうですね……」
私は逐一丁寧にそれに答える。私も私で、それなりにこういう仕事はこなしていた。だから相手が慣れている人物だとやりやすい。
だけどあまりに慣れ過ぎていると、立て板に水を流すような話術に、ついうっかり隠しておくべき本心なんかも喋ってしまうことが稀にあった。それだけは少し気をつけないといけない。
「では、白鷺さん本人のことではなく、パステルパレットのメンバーに対する印象はどうですか?」
「印象ですか。そうですね……」
早速気をつけるべき質問が飛んできて、私はみんなの印象を考えこむ振りをする。そうして、脳裏に真っ先に思い浮かんだイヴちゃんの屈託ない笑顔をどうにか消そうと試みる。
548: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 13:53:06.07 ID:GzIRVoN90
……第一印象はとても綺麗な女の子。フィンランド人と日本人のハーフの子で、背もスラリと高く、スタイルも良くて、まさにモデルさんという格好いい女の子。
けど、その印象はすぐに霧散した。
あの子は、侍とか武士道とかそういう古風な日本文化が好きな、無邪気で可愛い女の子だ。パステルパレットを踏み台としか思っていなかった昔の冷たい私にさえ懐いて、しょっちゅう抱き着いてきたり手をとったりしてきて……まるで人懐っこい大型犬のようだった。
549: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 13:53:42.02 ID:GzIRVoN90
私よりも身長が10センチくらい高いけど、どうしてかそんな気がしない。家で飼っている犬と彼女を知らないうちに重ねてしまっているのだろうか。それはそれで非常に失礼なことだけど、イヴちゃんにそう言ったら「わんわん! えへへ、チサトさん、撫でてください!」なんて乗り気で言ってくれそうだな、と思ってしまう。
そんな純粋で無邪気な彼女だからこそ、私はどうしても放っておけなくて世話を焼きたくなる。暇さえあれば思わず彼女を構いたくなるし、あの子のわがままであれば可能な限り聞いてあげたくなる。
そうすると、きっとイヴちゃんはぱぁっと朗らかな笑みを浮かべるだろう。そんな顔を見てしまうとまた私は彼女の頭を撫でたい衝動に駆られたりなんだりしてしまって、だからこそ――
550: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 13:54:11.82 ID:GzIRVoN90
「こう言っては語弊があるかもしれないですけど、みんな個性豊かな動物さんみたいですよ」と、イヴちゃんの笑顔を頭から消そうとしたら余計に浮かんできてしまったので、私は強引に思考を切って言葉を吐き出す。
「動物さん、ですか?」
「はい。これは日菜ちゃんのお姉さんが言っていたことなんですけど、私たちはワンちゃんみたいに見えるらしくて」
首を傾げたライターさんに、私は日菜ちゃんから伝え聞いた、紗夜ちゃんが抱いている私たちの印象を、ある程度オブラートに包んで話す。
551: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 13:54:45.61 ID:GzIRVoN90
彩ちゃんは小さくて可愛い小型犬。ちょっと臆病なところがあるけど元気一杯で、みんなに愛されるワンちゃん。
麻弥ちゃんはしっかりしてる大型犬。言いつけはしっかり守るし、何かあればみんなを助けてくれるお利口なワンちゃん。
日菜ちゃんだけは自由気ままな猫。気分次第であっちへフラフラこっちへフラフラ。誰もその舵をとれないけれど、そういう気まぐれなところが魅力な猫ちゃん。
そしてイヴちゃんは……
552: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 13:56:47.82 ID:GzIRVoN90
……イヴちゃんはいつも、感情表現がストレートだ。
生まれも育ちもフィンランドという環境がそうさせるのか、はたまた彼女が生まれ持った元来の性格なのか、百面相の彩ちゃんとはまた違った純真さがある。
嬉しいこと、楽しいことがあれば「チサトさん!」と元気な声を上げて、もしも彼女に犬の尻尾がついていればそれをブンブンと千切れんばかりの勢いで振っているだろうことを鮮明に連想させる笑顔を浮かべて、私にハグしてくる。
悲しいことがあれば「チサトさん……」とシュンとしながら、もしも彼女に犬耳がついていればそれをペタンと折っているだろうことを容易に想像させるほど肩を落として、私になんでも相談しにきてくれる。
寂しい時には「……チサトさん」とどこか潤んだような瞳でこちらを見つめてきて、甘えん坊の表情を顔に覗かせる。だからこそ私の理性のタガというものはあっさりと緩んでしまい――
553: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 13:57:29.78 ID:GzIRVoN90
慌てて首を振った。仕事中だというのに私は何を考えているのだろうか。
「あの、どうかされましたか?」
「……いえ」
ライターさんから心配そうな声が届けられる。それになんて言おうか少し考えてから、「今度のドラマの役のことを少し考えてしまって……すみません」と笑顔で謝った。
「あ、そうでしたか。今度のドラマというと、月9の――」
「はい。そのドラマの役で、この役は――」
頭を振ったおかげか、頭の中一杯に広がっていたイヴちゃんの笑顔はどうにか隅っこの方に行ってくれた。これでもう大丈夫だろう。パスパレのみんなのことから女優の仕事のことに質問が変わり、矢継ぎ早の質問に最適であろう答えを返していく。
554: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 13:58:20.91 ID:GzIRVoN90
そうしながら、自分自身に向けて胸中で呆れたように呟く。
まったく、仕事中に全然関係のないことを考えてしまうなんて、私はどうしてしまったのかしらね。そもそもの話、どうしてイヴちゃんのことをこんなにも頭に呼び起こしてしまうのか。
確かにあの子はとても人懐っこくて、無邪気で、何事にも一生懸命で、顔だって妖精みたいに整っていて可愛いし、スタイルだって抜群で、髪の毛もちょっと妬いてしまうくらいにサラサラで、非の打ちどころがない女の子だ。
そんな子に懐かれて悪い気がする訳がないというのは確かにそうだけど、だからといって限度がある。これじゃあまるで四六時中私がイヴちゃんのことを考えているみたいじゃない。そんなことはないわ。仮にそうだとしても、それは一時のことだろう。そう、だってこれは一昨日の件が原因で……
555: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 13:59:22.19 ID:GzIRVoN90
……彩ちゃんはオフでバイト、日菜ちゃんと麻弥ちゃんはバラエティ番組のロケがあって、事務所の会議室には私とイヴちゃんだけ。いつも騒がしい声が反響するこの部屋も、ふたりきりだと音が少ない。どこかシンとした空気だった。
そんななか、イヴちゃんはいつものように、私が座るソファの隣に腰を落としていた。私も私でそれを何も気にすることなく、ファッション雑誌に目を落としていた。
イヴちゃんは手持ち無沙汰なのか、雑誌を読む私をじーっと見つめている。私はそんなイヴちゃんを横目で確認すると、無意識のうちに右手を彼女の頭に伸ばし、絹のように柔らかい髪を梳いていた。
「えへへ……」なんて気持ちよさそうに目を細めるイヴちゃんを見て、私も力の抜けた笑みを浮かべる。それからまた雑誌に視線を戻すけど、ちょんちょんと服の袖を引かれる。
「どうかしたの?」とイヴちゃんに顔を向けると目の前に妖精みたいに整った顔があった。
「チサトさん」という甘い声が私をくすぐって、そして目が瞑られる。その顔はどんどん私に近付いてきて、だけどそれを避けようという気は微塵もない訳で、私も目を――
556: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 13:59:51.62 ID:GzIRVoN90
「ごほんっ」
思った以上に大きくなった咳払いが応接室に響いた。対面に座るライターさんが目を丸くしている。
「ごめんなさい、歌の練習をしすぎて喉が少し」
心配されるより早く、そんなことを言って右手を口元に持っていく。色々と本当にアウトなことを誤魔化すための方便と行動だったけど、人差し指と中指が唇に触れて、イヴちゃんの感触がありありとそこに蘇ってしまった。
……ああ、本当に私は何を考えているんだろうか。
気付かないうちに脳裏に思い描いていた一昨日の出来事をどうにか頭から消そうとするけれど、そう意識すればするほど強く鮮明にイヴちゃんが私の頭の中で笑顔を咲かせる。
557: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 14:01:08.78 ID:GzIRVoN90
どうしたらいいのか、とは思う。仕事中だというのにこんなことでは、そのうち大きなミスをおかすだろうことは想像に難くない。
けど同時に消したくない私がいるのもまた事実であって、もちろん私だってイヴちゃんのことは好き……そう、色んな意味で大好きではあるけれど、いまいち素直になりきれないというか照れがあるというか……いや違う、今考えなきゃいけないことはそうじゃなくて……。
「女優とアイドルの両立は大変ですね。しかもパステルパレットはバンドですし、音楽もやらなくてはいけませんもんね」
「え、ええ……すみません、折角こちらまで足を運んで頂いたのに上の空で……」
「いえいえ」
こんがらがった思考はひとまず放っておいて、私は気遣いの言葉に謝罪を返す。ライターさんはその言葉を聞いて、柔和な瞳を細めて笑った。もしかして私の考えていることが漏れ伝わってしまったのだろうか、と少しだけ心配になる。
「白鷺さんは多忙な身であると思いますけど、何か支えとなっていることはありますか?」
「支え……ですか」
そんな訳ないか、と思う。すると安心した気持ちと、どこか悔しいというかもどかしいというか、自分でも推し量ることが出来ない感情の胸中に渦巻く。そこに新しい質問が飛んできて、私の頭の中のイヴちゃんがまたぱぁーっと笑顔を輝かせた。
558: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 14:01:38.69 ID:GzIRVoN90
「……そうですね。無邪気に私を頼ってくれたり、甘えてきたり、気遣ってくれる人が傍にいますので……その存在が、これ以上ないほど私の支えになっています」
私の口からはそんな言葉が出てくる。偽りのない本心だけど、はたしてこれはみんなに……いや、イヴちゃんにどういう形で届くのだろうか。
私の中の推し量ることが出来ない感情。その正体はきっと、イヴちゃんをみんなに認めてもらいたいという気持ち。そして、本当は私とイヴちゃんはこんなにも仲が良いんだと、お互いに特別な存在であるんだと喧伝したい衝動。
けれど私は素直でまっすぐな人間ではなく、どちらかといえば狡猾で打算的な人間だ。こんな面倒くさい方法で、回りくどい言葉で、あの子に、あわよくば世間の人々に、この気持ちがさりげなく伝わればいいと思っているんだ。
イヴちゃんにいつも助けてもらってるということと、そんなあなたが大好きだっていうことを。
559: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 14:02:13.00 ID:GzIRVoN90
「あ、もしかして恋人ですか?」
ライターさんがからかうように、明るい声を放った。冗談で言っているのであろうことはどこか優し気で悪戯な笑みを見れば明白だったから、私も微笑みを浮かべる。
「ふふ、ご想像にお任せしますね」
そうして返した言葉。これは臆病で打算的な私が吐き出させたものか、素直な恋する乙女の私が形作らせたものなのか。
その判断はつかなかったけど、きっと今の私は今日一番の笑顔を浮かべているだろうな、と思った。
560: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 14:03:28.60 ID:GzIRVoN90
かのここの場合
「花音、キスしましょう!」なんてこころちゃんが言うから、私の口からは今日も「ふえぇ……」なんていう情けない声が漏れてしまった。
でも、それは仕方のないことだと思う。
穏やかな春の休日の昼下がり。天井が高すぎて、上を見上げると目が回りそうなこころちゃんのお屋敷の一室には、窓から麗らかな陽光が差し込んできている。
その光に当たりながらふたりで和んでいたと思ったら、唐突にこころちゃんが「そうだ!」と立ち上がってそんな刺激的な言葉をくれたのだから、びっくりしちゃうのは仕方がない……はず。
でもよく考えてみると、こころちゃんが唐突じゃなかったことの方が珍しいのかな。むしろ言いたいこととかしたいことを言外に匂わせてから、しっかり段階を踏んで私にお願いしてくる方がびっくりしてしまうかもしれない。
561: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 14:05:16.90 ID:GzIRVoN90
例えば、そう。私がこころちゃんに告白された……告白って言っていいのかどうかはちょっと悩むけど、とにかく、告白された時。
「あなたと一緒にいると、他のみんなと一緒にいる時よりもすっごくぽかぽかして楽しい気持ちになるの! 大好きよ、花音!」
なんてあまりにもこころちゃんらしい言葉を貰って、その時も確かにびっくりしたはびっくりしたけど、こころちゃんの言う大好きはきっと親愛の情の大好きだろうな、とは思っていた。
「だから結婚を前提にお付き合いしましょう!」
「え……? ……えっ!?」
そう、そんな風に思っていたから、続けられた言葉にとてもびっくりしたのをよく覚えている。普通に嬉しいって思っちゃったのもよく覚えている。でもなんて答えたらいいのか分からなくて、こくん、と頷いたらこころちゃんがすごく嬉しそうな顔をして抱き着いてきたのもよく覚えている。
あれ、でもこれ、しっかり段階は踏んでるけど……どちらかというと意外性の方に分けられるような……。
562: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 14:05:58.47 ID:GzIRVoN90
「花音? どうかしたの?」
「あ、え、ええと……」
と、あまりの衝撃にふた月ほど前のこころちゃんとの馴れ初めに迷い込んだ意識が現在に帰ってくる。私はなんて返そうか迷ってちょっと俯いてから、今日も爛々と輝いている瞳に向き合う。
「その、急にどうしたの?」
「なにが?」
「えと、突然……その、き、きす、したいって……」
「そのことね! ひまりが貸してくれた少女漫画っていう本に描いてあったのよ! 大好きで大切な人とキスすると、心がとーってもあったかくなって幸せになれるって!」
だからキスしましょう、花音! と、いつも通り照れとかそういう感情が一切ない返事がきて、私の口からはまた「ふえぇ」と出かかってしまう。だけどどうにかそれを飲み込む。その代わりに、『思えばこのふた月、恋人らしいことなんてこれっぽっちもなかったなぁ……』なんて、また意識がこれまでのことの回想に向けられる。
563: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 14:06:47.15 ID:GzIRVoN90
こころちゃんが大好きだって言ってくれて、結婚を前提にお付き合いをするようになってからも、私たちに大きく変わったことはなかった。
いつものようにバンドの練習をしたり、ライブをしたり、みんなで遊びに行ったり……その中で、ふたりきりでお昼ご飯を食べたり、おでかけしたりする時間が以前より五倍くらいに増えただけ。
気付けば起きている時間の半分くらいはこころちゃんと一緒にいるようになってはいるけど、その時間はデートとか逢引きとかって言うのにはいつも通りすぎていたと思う。
手を繋いで街を歩いたり、こころちゃんが嬉しそうに抱き着いてきたりすることはあるけど、それはお付き合いを始める前から変わらないこと。確かにいつでも天真爛漫なこころちゃんをこれまで以上に可愛いとは常々思うようになったけど、それだって前々から思っていたことだし、そんなに大きく変わってはいない。
564: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 14:08:04.51 ID:GzIRVoN90
けど『キス』は流石に今までしたことがない、特別に踏み込んだ行為だ。
だから私はびっくりして怯んでしまった。
こころちゃんのことはもちろん前から好きだし、お付き合いをするようになってからはもっと大好きになったし、こんな私でもこころちゃんよりはお姉さんなんだから、こころちゃんを支えられるように、こころちゃんが喜んでくれるように、こころちゃんがいつまでも純真な笑顔を浮かべていられるように、こころちゃんがもっともっと私を好きだって思ってくれるように、しっかりしなくちゃいけないな……と、私なりの決意は抱いていたのに。
やっぱり私はダメだな、と思いかけて、いや、とすぐに首を振る。ここでダメだって思って落ち込むだけじゃ、本当にダメになっちゃう。
565: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 14:09:04.49 ID:GzIRVoN90
きゅっと胸の前で両手を握って、私は自分を奮い立たせる。そして意識を現実のこころちゃんに戻して、いつもの天使のように可愛い顔と真正面に向かい合って、言葉を投げる。
「……わ、分かった……キス、しよう、こころちゃん……!」
「ええ!」
こころちゃんは私の言葉を聞いて、平常時の三割増しくらい笑顔を輝かせる。その眩しさに網膜を焼かれて脳裏にこころちゃんという存在をいつも以上に強く刻み込まれたような感覚がして少し幸せになったけど、今からこれじゃあ先が思いやられるから、私は一度深呼吸をした。
「えと、それじゃあ私からするから……」
「分かったわ!」
こころちゃんはコクンと頷いて、大人しく気を付けして私を待ち構える。その姿に一歩近づいて、両肩に手を置いた。
「…………」
「…………」
顔を近づけると、やっぱりキラキラした笑顔が私を射抜いてくる。今日のキラキラ笑顔は「これから起こることが楽しみなワクワク系」に分類されるもの。やっぱり可愛いなぁ、と思いつつ、私はこころちゃんにひとつお願いをする。
566: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 14:10:16.22 ID:GzIRVoN90
「あの……目は閉じてて欲しいな……」
「どうして?」
「え、えっと……キスってそういうものだから、かな……?」
「そうなのね! 分かったわ!」
こころちゃんは素直に頷く。
前からもそうだったけど、お付き合いをするようになってからますます私の言葉を疑うことがなくなったように思える。すぐにバレる嘘を吐いてもこころちゃんは「花音が言うならそうに違いないわ!」と信じちゃうだろうし、そしてそれが弦巻財閥で叶えられる嘘だと全部まことにされてしまうから、自分の言動には気をつけないといけない。
そんなことを考えているうちに、こころちゃんがスッと瞼を落とす。無防備な顔を私だけに見せてくれる。
笑顔が天使のように可愛いというのはもちろんだけど、こうして大人しい表情を間近で見つめると、睫毛の長さや整った鼻筋にちょっとドキドキする。いけない、私の方がお姉さんなんだからちゃんとこころちゃんをリードしなきゃ……と自分に喝を入れた。
567: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 14:10:42.51 ID:GzIRVoN90
それからこころちゃんの唇を見つめて、私は顔を近づけていく。
鼻と鼻が触れ合いそうな距離で、私も目を瞑る。唇の場所は目に焼き付けたからきっと間違えないはずだ、大丈夫、大丈夫……。
そう思いながら、息を止めて、そーっとそーっと顔を近づけていって――
ちゅっ。
――と、唇に柔らかい感触が伝わった。
568: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 14:11:28.96 ID:GzIRVoN90
軽く触れ合っただけのオママゴトみたいなキスだったと思う。
けれどどうしたことだろう、私の心臓はバクバクと16拍子を刻み始める。いけない、これじゃあツインペダルじゃないとバスドラムが間に合わない、間に合わないよぉ……と情けない思考が頭にもたげる。
内から胸を叩き続ける怒涛のビートに急かされるように、私はパッとこころちゃんの唇から離れる。顔が熱い。身体全体が熱い。ただ唇を合わせるだけの行為がどうしてこんなにも身体を震わせるのだろうか。
両肩に手を置いたままこころちゃんの顔を見つめていたら、すぅっと瞼が持ち上がる。天使のような顔に装飾されたふたつの黄金の宝石は、いつもの爛々とした光を引っ込めて、穏やかな水面に注ぐ木漏れ日のような光を湛えていた。私は少し心配になってしまう。
569: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 14:12:13.47 ID:GzIRVoN90
「……こころちゃん? ちょっとボーっとしてるけど、大丈夫……?」
「……大丈夫よ、花音……」
その水面はやっぱり凪いだままで、まるで海月がたゆたうような頼りのない響きが返ってきたから、もっと心配になってしまった。
どうしよう、何か間違えちゃったかな……そう思っていると、静かな湖面に果実が緩やかに投げ入れられるように、こころちゃんからぽつりと言葉が紡ぎだされる。
「でも……なんだかふわふわしてて、ぽわぽわーってしてて、でもぎゅーんっていう感じがあって……落ち着かないの……」
「…………」
出会った時からの記憶を掘り起こしても、絶対に見たことがないいじらしい表情。それを俯かせて、私の胸の辺りを見て放たれた、こちらも今まで聞いたことがないたどたどしい口調の言葉。
570: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 14:12:52.39 ID:GzIRVoN90
驚天動地って、きっとこういうことを言うんだろうな。こんなにしおらしいこころちゃんを見たのは初めてで、とても、とってもびっくりしちゃって……
「こころちゃん」
「……なに、花音?」
「もう一回してみよっか」
……私は、自分の中で何かのスイッチが入ったことを強く自覚した。
「もう一回?」
「そう、もう一回……ううん、もう一回じゃなくて、もう何回も。そうすればきっとこころちゃんの気持ちももっとちゃんと分かると思うから」
顔を近づける。こころちゃんはちょっとだけびっくりしたように、目をキュッと瞑った。その様子を間近で見て、私は胸がキュンとした。
571: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 14:13:37.82 ID:GzIRVoN90
天真爛漫なこころちゃん。
いつだって明るくて自信満々で、まっすぐ前を見て進み続けるこころちゃん。
この世に遣わされた天使のように可愛くて愛しくてずっと笑ってて欲しいなと心の底から思っているこころちゃん。
そのこころちゃんが、未知の感覚に対してちょっとしおらしくなっている。
それが……こう言っちゃうととっても危ない人に聞こえるけど……堪らなく、可愛い。どうしようもないくらいいじらしく思えて、今すぐにこころちゃんの身体をぎゅっと抱きしめて、何度も唇を奪ってしまいたい。そんな衝動に駆られる。でもそれは流石にダメかな……?
(……ううん、ダメじゃない、よね)
自問自答。そんな思考を否定して、その衝動を肯定した。
572: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 14:14:22.22 ID:GzIRVoN90
そう、ダメじゃない。だって私はお姉さんなんだから、しっかりこころちゃんをリードする立場にいて当たり前なんだ。こころちゃんがよく分からない感情に苛まれて落ち着かないなら、それが分かるようになるまで何回も何回もキスをして助けてあげなくちゃ。不安にならないように優しく、何度も唇を重ね合わさなくちゃ。
「ん……」
「……っ」
出来るだけ優しく、もう一度唇を重ね合わせる。こころちゃんの肩がぴくりと跳ねる。大丈夫だよ、怖くないよ……と、私は両肩に置いた手をこころちゃんの背中に回して、そっと抱きしめた。
この胸を焦がす衝動の名前はなんだろうな。ちょっと考えたけど、あんまりよく分からなかったから母性本能だと思うことにした。
母性による本能的な行動なら全然悪いことじゃないよね? 普通に良いことだよね?
「こころちゃん……大好きだよ」
「ん、うん……」
だから私は、しおらしく頷くこころちゃんに愛を囁きながら、何度も繰り返しキスをするのだった。
573: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 14:16:08.93 ID:GzIRVoN90
さよつぐの場合
愛されるより愛したい、というのは男性アイドルデュオの昔の歌だ。
子供のころにお父さんが口ずさんでいるのを聞いたり、テレビで流れているのを聞いたりするたびに、私はいつも疑問だった。
愛だ恋だっていうのは幼い私には分からなかったけど――いや、高校生になった今でも十全に理解が及んでいるとは言えないけれど――、与えるよりも与えられる方が嬉しいんじゃないだろうかというのは昔からずっと思っていた。
だって愛することは簡単だ。好きだと口にすればいいだけだから。相手がどうとかじゃなくて、自分がそう思うだけで完結するじゃないか。
逆に愛されることは難しい。自分だけのことではないから、誰かとの間にある気持ちだから、自分がどれだけ頑張ったって報われないことがあるだろう。
私はずっと思っていた。愛されるより愛したい。そんなのはただの言葉遊びだし、聞こえのいい戯言だろうと。
その気持ちが変わることはなかった。ギターを始めて音楽に深く没頭していくようになってからも私は人に認められたいという気持ちの方が大きかったし、耳にする音楽だって愛されたいと歌うものが多かった。
だから思っていたのだ。
世の中には様々な人がいるから、もちろん私と違う思想の人がいて当たり前であるし、それにとやかく言うつもりもなければ私の気持ちにどうこう言われる筋合いもない。こんな取るに足らない屁理屈じみた気持ちは私の中だけで処理すればいいものだ……と。
確かに私はそう思っていたのだ。
574: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 14:16:56.41 ID:GzIRVoN90
つぐみさんの部屋の壁時計は、午後五時前を指していた。
窓から斜陽の濃い色をした光が差し込む。それに半身を照らされながらソファーに座って、私は彼女の部屋でひとり、ぼんやりと佇んでいた。つぐみさんのバイトが終わるまでここで待ってて欲しいと言われたからだ。
なんとはなしに室内を見回すと、私が持ち込んだお気に入りのクッションや緊急時の着替えとか、自分の私物がちらほらと目に映る。この部屋に入るようになった当初は全然落ち着かなかったけれど、半分自分の部屋のようになっている今となっては、ともすれば我が家よりも落ち着く空間だ。
本棚の上に置かれた、寄り添い合いながら座るクマとキツネのぬいぐるみに視線を定めつつ、愛するとはこういうことなんだろうな、と思う。
575: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 14:17:51.94 ID:GzIRVoN90
自分の部屋というのは、きっと世界中のどこよりもプライベートな空間だ。そのスペースに『踏み入ってもいいですよ』、『ここまで入ってきてもいいんですよ』と受け入れられている。私を置く場所を作ってくれている。それだけ心を許されているんだ……と、こうして実感すると私は満たされた気持ちになる。
当たり前だけど、私が招かれるように、私の部屋につぐみさんを招くこともある。そこにもつぐみさんの私物がいくつも置いてあるし、どこか殺風景だった自分の部屋だってそのおかげでどこか華やいだように感じられる。
それに、彼女には内緒にしているけれど、ひどく寂しい気持ちになった夜なんかは、つぐみさんが置いていったちょっと大きな犬のぬいぐるみを抱きしめたりもしている。絵面的にどうかと思う行動だけど、そうすると心が温まるというか、どこか安心するのだから仕方ない。
576: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 14:19:02.77 ID:GzIRVoN90
ともあれ、愛するというのはそういうことなんだろう。
こうやってプライベートな空間を共有できて、心を委ねてもいいと思える人間がいる。それはかくも幸せなことだ。
もしかしたらの話だけど、これは一種の承認欲求なのかもしれない。
人を愛するということ。私が彼女を愛するということ。
そうやって私は私という存在の中につぐみさんの場所を作って、それを拠り所にして自分自身の輪郭を明確に保っているのかもしれない。
だとするならばこの気持ちも自分本位のもので、世間一般では独善的な愛と呼ばれるのだろう。
そう後ろ指さされるのであれば、私はもっともっと彼女を愛そうと思う。世間体だとか、承認欲求だとか、独り善がりだとか……そんな面倒なものを考える隙間がなくなるまで、彼女のことを想い、愛そうと強く思う。
577: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 14:19:58.97 ID:GzIRVoN90
最初からハッピーエンドの映画なんて三分あれば終わる、というのも子供のころに聞いたラブソング。
その歌の通りだろう。高校生の私が『愛』というものを真に理解するのは難しいけれど、それはなんとなく感覚で理解できる。
誰もに理解されて祝福されるように、何の障害もすれ違いもないように、初めからそこに完全な形であるのなら、悩むことなんてない。不安に震えることも、ひどく寂しい夜をひとりで乗り越えることもない。
だけど、そんな風に愛が当たり前に完全な形であったのなら、こんなにも胸が高鳴ることも温かくなることもきっとないのだから。
578: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 14:20:31.00 ID:GzIRVoN90
そう思ったところで、部屋のドアが開く。視線をそちらへやれば、「ごめんなさい、お待たせしました」と少し息を切らせたつぐみさんの姿があった。
「いいえ」私はフッと軽く息を吐き出して応える。「つぐみさんを待つ時間はいつもとても楽しいので、気にしないでください」
それを聞くと、彼女は照れたようにはにかんだ。胸が温かくなって、私も笑顔を浮かべた。そして今まで考えていたことがどこか遠くに霞んで消えていく。
小難しく考えていた愛がどうだとかなんだとか、そんな面倒なこと。それがつぐみさんの顔を見るだけでこんなにあっさりと霧散するのだから滑稽だ。
それでも私はまた何度も見えない不安に襲われて、何度も同じことを考えるのだろう。だけど、目に見えない不確かな愛の形を確かめる方法を、私はもう知っている。
579: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 14:21:21.71 ID:GzIRVoN90
ソファーの隣につぐみさんが腰かける。ふわりと珈琲の匂いが薫って、少し幸せな気持ちになった。
「つぐみさん」
その気持ちのまま、私は囁くように彼女に呼びかける。つぐみさんは私に顔をめぐらせて、少し首を傾げた。その瞳をじっと見つめると、すぐに彼女は私の望みを分かってくれる。
「いいですよ」
頬を赤らめながら、つぐみさんは頷く。そしてその瞳がすっと閉じられる。
私は隣り合って向かい合う彼女の肩に手を回して優しく抱き寄せる。それから、世界で一番大切な人の唇へ、自分の唇を重ね合わせた。
愛だ恋だなんていう、形の見えない面倒で難しいものたち。きっとその実態は、言葉をああだこうだとこねくり回しても掴めないのだろう。
けれど、こうやって触れ合って、口づけ合えば、簡単にここにあることが分かる。その形を確かめることが出来る。
キスがこんなにも心地いいのは、きっとそのせいだ。
580: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 14:22:09.75 ID:GzIRVoN90
「……はぁ」
唇を離して軽く息を吐き出す。私の心はこれ以上ないくらいに満たされて、つぐみさんはどうだろうか、と彼女の様子を窺えば、彼女も熱に浮かされたように蕩けた顔をしているからもっと満たされた気持ちになる。
心の栄養補給とはこのことだろう。唇を重ねるだけで、寂しさも悲しみもなくなって、嬉しさと幸せとを倍にしてくれる。キスは便利な心のファストフードだ。
けれど、そう表現するとどこか健康に悪い気がする。食べるに越したことはないけれど、食べ過ぎては却って身体に悪いというか、なんというか。
「紗夜さん……」
「ええ」
そんな思考も、つぐみさんの熱を帯びた声を聞けばすぐに霧散する。
……大丈夫、私はその辺りの線引きはしっかり出来ているつもりだし、ファストフードも大好きであるし、つぐみさんのことも愛して愛してやまない。
「んっ……」
だから、彼女からの「おかわり」を拒む理由なんて何ひとつとして私の中には存在していないのだ。甘えるように瞳を閉じるつぐみさんの唇に、もう一度自分の唇を重ね合わせた。
581: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 14:22:40.04 ID:GzIRVoN90
つぐみさんが求めてくれるなら、その全てを叶えたい。そして彼女に幸せになってもらいたい。そう思って幸福を感じるのは、私が彼女を愛しているから。
愛されるより愛したい。
ただの言葉遊びかもしれないけれど、聞こえのいい戯言かもしれないけれど、今の私はその言葉に心の底から共感できる。
582: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 14:23:32.05 ID:GzIRVoN90
リサゆきの場合
選択肢を間違えたなぁ、というのは、最近のアタシの悩みの種だった。
583: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 14:24:07.36 ID:GzIRVoN90
アタシには誰よりも大切な幼馴染の友希那がいて、友希那も友希那でアタシを大切だって思ってくれていて、それで幼馴染っていう関係が冬の終わりに恋人っていうこそばゆい響きの関係に変わって……と、そこまではいい。アタシは昔から友希那が大好きだし、友希那もアタシのことを好きだって言ってくれるなら、まったくこれっぽっちも問題はない。
じゃあ何の選択肢を間違えてしまったのかっていうと、それは付き合い始めてからのこと。
綺麗な星座の下で……なんていうほどロマンチックでもないけれど、とにかく澄んだ夜空に星がそれなりにキラキラしていた日に、アタシは友希那とキスをした。それはいわゆるファーストキスというやつで、甘酸っぱいだとかそんな風な味だって言われるもので、友希那に唇を奪われたアタシは「これが友希那のキスの味……」とかちょっと危ないことを考えていたような気がするけど、それもひとまず問題ではない。
584: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 14:25:23.26 ID:GzIRVoN90
問題はその後のこと。
アタシたちも気付けば高校三年生で、受験戦争という荒波が唸る海に航路をとらなくちゃいけない時期になっていた。
だけど友希那は相変わらずだった。
「勉強……そうね、勉強は大切よね」
アタシが大学受験のことをそれとなく話題に出すと、そんなことを言って明後日の方向や猫のいる方へ視線を逸らす。まともに話を聞く気がない時特有の行動だった。
そんな友希那のことが心配になるのは当たり前で、『将来音楽で食べていくつもりなのは知っているけど、それでも大学はしっかり通って卒業してほしい』と、友希那のお義母さんが言っていたこともあるし、アタシはどうにか友希那をやる気にさせようと必死に考えた。
その結果、そっぽを向く友希那に対して、アタシの口からはこんな言葉が出た。
「分かった、それじゃあ友希那が勉強を頑張る度に、その、き、キス……するよ」
未だにキスという単語を口にするのが照れくさいのは置いておいて、友希那はその言葉に反応した。興味を示した。
「……本気なの、リサ?」
「ほ、本気っ、本気だよ!」
「そう……そこまで本気なら、分かったわ。私も本気を見せてあげる」
友希那はどうしてか得意気に頷いてくれて、よかった、これで少しは勉強にも向き合ってくれそうだな、なんて呑気に思っていた。
585: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 14:26:17.27 ID:GzIRVoN90
それが春先のことで、アタシが間違えたと思った選択肢のこと。
本気を見せる、と言った友希那は……すごかった。
友希那の成績は学年の平均よりやや下。それは元々音楽に全身全霊を打ち込んでいて、勉強に労力を割いていなかったせいだとは知っていた。だからやる気を出せば平均を上回ることくらいは簡単だろう、と思っていた。
その推測はいい意味で甘かった。アタシは友希那の集中力を舐めていたのだ。
「本気を見せてあげる」と言われた日から、メッセージを送ったり電話をかけても、なかなか応答がないことが多くなった。
そしてニ、三時間後にやっときた返事には決まって「ごめんなさい、ちょっと勉強をしていたわ」という枕言葉。それに続いて「今日は4時間頑張ったから、キス権一回分ね」という返詞。「うん、分かったよー」と、内心ドキドキしながらのアタシの返信。
そんなことが何十回か重なった。
586: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 14:27:18.90 ID:GzIRVoN90
そうしてるうちに一学期の中間試験が終わり、返ってきた友希那の答案用紙を見せてもらうと、そこに書き込まれていた点数はどれもこれもが80を下らなかった。
あっという間にアタシの成績を追い抜いていった……というのは別によくて、一番問題なのはそのあとのこと。
「思ったより出来なかったわね。やっぱりもっと集中しないといけないわ」
「え」
「それと、今日まででキス権が三十八回あるから、それも消化するわね。使わないと溜まっていく一方だもの」
「え」
「とりあえず一回いいかしら。……いえ、聞くのはおかしいわね。リサが私にくれたキス権だもの。キスするわよ、リサ」
「え!?」
そう言って、誰もいない放課後の教室で、友希那は有無を言わさずアタシの唇を奪うのだった。
587: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 14:28:28.33 ID:GzIRVoN90
これが間違えた選択肢の上に乗っかってる問題であり悩みの種だ。それから何度となく、アタシは友希那にキスをされることになる。
別にキスされるのが嫌な訳じゃない。ちょっと強引にされるのもそれはそれで好きだし、友希那のことは大好きだし。
ただ、それでも場所は選んで欲しいと思うのはワガママじゃないはず。
アタシの部屋とか友希那の部屋なら、本当、いつだってウェルカムだけど、放課後の教室とか練習前のスタジオとか、果てには人気の少ない通学路とかは本当に――いや、それはそれでドキドキしちゃうアタシがいるのも事実ではあるけど――やめてほしい。
「これはリサから言い出したことよ?」
それとなく友希那にそう伝えたら『何を言ってるの?』という顔をされた。確かにそうだなぁ、と思ってしまうあたり、アタシは押しに弱いのかもしれない。
けど、友希那のお義父さんとお義母さんには「リサちゃんのおかげで友希那も真面目に勉強するようになったよ。ありがとう」と感謝された。湊家とアタシの関係が変わらず良好なのは、いずれ嫁ぐ身としては願ったり叶ったりだからそれはそれで嬉しかった。
588: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 14:29:15.36 ID:GzIRVoN90
それはそれとして、友希那が勉強にも頑張ってくれるようになってくれたのは当初の目論見通りだったけど、流石にこれほどまでキスを求められるとは思っていなかったから、アタシは色々と困ってしまうのだ。
「はぁ~……」
「どうしたの、リサ? そんなに大きなため息を吐いて」
だというのに、アタシがため息を吐けば、友希那はそんな風に首を傾げて聞いてくるのだからちょっと参ってしまう。こんなにアタシをドギマギさせてるくせに無自覚だなんて……本当にもう、しょうがない友希那だ。
589: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 14:29:57.00 ID:GzIRVoN90
「なんでもないよ」
「そう? 困ったことがあるなら何でも相談して頂戴ね。リサにはいつも助けられてばかりなんだから、たまには私にもあなたのことを助けさせて」
「……うん」
そしてさらに無自覚でそんな言葉を投げてくるんだから友希那はしょうがない。本当にしょうがない。そんなにアタシをキュンキュンさせて嬉しくさせて、本当にどうしたいのだろうか。
「それはそれとして、キス権使うわね。……んっ」
「んん……」
さらに『今日は優しくしてほしいなぁ』とか思ってると本当に優しくしてくれるから……友希那はしょうがなさすぎでしょうがないと心の底から思う。式は教会にするか神前にするか、そろそろ考えておかないと。
590: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 14:31:39.59 ID:GzIRVoN90
間違えた選択の上に乗っかる日々も、気付けば過ぎているもの。
ところ構わず友希那とキスを繰り返しているうちに、いつの間にかキス権がなくなってきたらしい。梅雨を超えて初夏の風が吹き抜けるあたりには、友希那がキス権を使う頻度が減っていった。
それは間違いなくいいことではあると思うのだけど、ほぼ毎日キスを繰り返していたらそれに慣れてしまったというのもまた実情で、言葉にはしないけど、なんだか唇がさびしいと感じることが多かった。
そんなある七月の日のこと。
591: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 14:32:44.61 ID:GzIRVoN90
「そういえば八月にフェスがあるの。ロゼリアでそのフェスのオーディションに挑戦しようと思うけど、リサはどう思う?」
いつも通りアタシの部屋でベッドに座って作曲に勤しんでいた友希那が、ふと思い出したように、隣でベースを弄っていたアタシに尋ねてくる。
「どう思う、って言われてもなぁ。アタシは賛成だけど、まずはみんなの予定から聞かないと。紗夜と燐子も夏は受験勉強とかで忙しいかもだし」
「なるほど、分かったわ。リサは賛成ね。ふふふ……賛成なのね」
やたらと引っかかる言い方だったから、アタシは首を傾げながら友希那の顔を見る。
愛しい恋人の顔。いつも張り付いているクールな表情が崩れ、そこには薄っすらと微笑みが浮かんでいた。見ようによっては良い表情だと思うけど、アタシには分かる。これは何か良くないことを考えている時の顔だ。
592: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 14:33:40.81 ID:GzIRVoN90
「そうしたら、今作っているこの曲も早く完成させなくちゃいけないわね」
「……そう、だね」
何を企んでいるのかな、と思いながら、慎重に言葉を返す。友希那はそんなアタシを見て、やっぱり変わらない微笑みを浮かべている。
「この曲、ベースが主体の曲なのよね。結構フレーズもリズムも激しくて、ソロもあるんだけど……リサ、大丈夫?」
「うーん、聞いてみないとなんとも言えないけど……」
「もし頑張ってくれるなら……ご褒美にキス権をあげるけど、どうかしら?」
「…………」
ああ、そういうことか。
友希那の企みを理解して、まず一番に思ったのは『キス権に理由をつける友希那かわいい』で、次に思ったのは『ご褒美にキスしたいのは友希那じゃないの?』で、最後に思ったのは『いや、ご褒美にキスって響きは確かに素敵だけど』ということ。
それにしても、ご褒美にキス権……かぁ。アタシがベース頑張って、それで……
593: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 14:34:21.67 ID:GzIRVoN90
友希那、アタシこんなに頑張ったんだよ。ほら見てみて、難しいソロパートも完璧に弾けるようになったよ。
リサは頑張り屋さんね。そんなに頑張ってくれたなら……ご褒美をあげないといけないわね。
い、いやいや、アタシは別にキスがしたくて頑張ったわけじゃないって。ロゼリアのためだし、友希那が頑張って作ってくれた曲をちゃんと表げ、ん――
――んっ、ふふ。ごめんなさい、私のためにって言ってくれるリサがとても可愛くて、つい。
…………。
まだ……足りないのね? 仕方のないリサ。こっちへいらっしゃい……
594: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 14:35:58.78 ID:GzIRVoN90
「うん、アタシがんばる」
脳裏に一瞬のうちに描かれた『ご褒美のキス』というシチュエーションが、気付けばアタシの口を動かしていた。
「それでこそリサね。……そうだ、ただキス権っていうだけだと私のと同じだし……そうね、キス権が二十個たまったら、何でも言うことをひとつ聞くわ」
「オッケー、超がんばる」
自分の内側で、かつてないほど炎が猛々しく燃え盛っているのを強く実感する。些細なことはその炎の嵐に全て飲み込まれていく。選択肢を間違えたなぁという悩みの種もその火焔の中に放り込まれてあっという間に燃え尽きた。
それと同時に、「ああ、友希那もアタシに言われた時、こんな気持ちだったんだなぁ」と、最愛の恋人のことをまたひとつ理解出来てアタシは幸せだった。
(何でも言うことを聞く……何でも……えへへ)
そして何でも言うことを聞いてくれる友希那の姿を想像してもっと幸せになるのだった。
おわり
595: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/30(火) 14:37:17.33 ID:GzIRVoN90
キスが主題の話たちでした。
タイトル通り手軽にさくっと読める話になってたら嬉しいです。
まったく別件ですが、一昨日スマホを床に落として液晶がバグって操作不能になりました。あえなく交換です。
贔屓のプロ野球チームも昨日まで10連敗していましたし、平成の最後は踏んだり蹴ったりだなぁと思いました。
597: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/05/26(日) 20:52:04.96 ID:h6AWmXvL0
山吹沙綾「誕生日、ペペロンチーノにやさしくされた」
598: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/05/26(日) 20:52:31.26 ID:h6AWmXvL0
山吹沙綾(高校を卒業してから、気付けば二年が経っていた)
沙綾(花粉の季節もゴールデンウィークも気付けば過ぎていて、今年も今年でもう五月が半分以上が終わったある日)
沙綾(勤めているいる某パン会社から一人暮らしの小平駅近くのアパートへ帰る道すがら)
沙綾(春の風、というには少し温い夜風を浴びながら、ふと気づく)
沙綾(そうだ、今日は私の誕生日だった)
沙綾(そう思って手にしたスマートフォンには、一時間前くらいにみんなからのお祝いのメッセージが届いていた。それに逐一返事を返す)
沙綾(「おめでとう!」「ありがとう」「またみんなで集まりたいね!」「休みの予定はこんな感じだよ」……なんて)
沙綾(高校の友は一生の友、とはよく聞く言葉で、その例に漏れず私が花咲川女子学園で得た親友たちとは今でも深いつながりがある)
沙綾(みんなは大学生で、私は社会人という立場だけど、それでも青春を共にしたという事実が変わるわけでもなくなるわけでもない)
沙綾(みんなとこうして繋がっているんだ、と思うと、社会の荒波に揉まれ、知らず知らずに強張っていた肩からすっと力が抜けるような感覚をおぼえる)
沙綾(私は少しだけ軽くなった足取りで家路を辿った)
599: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/05/26(日) 20:53:18.30 ID:h6AWmXvL0
――沙綾のアパート――
沙綾(……そして、玄関のドアを開けて、ダイニングキッチンに足を踏み入れて、私は硬直することになる)
沙綾(キッチンとくっついたダイニング。そこに置かれた小さなテーブル)
沙綾(その上に、明らかに出来立てほやほやのペペロンチーノが置かれていたからだ)
沙綾「…………」
沙綾(なにこれ、空き巣? 空き巣の新しい形なの?)
「こんばんは、沙綾さん」
沙綾「えっ!?」
沙綾(不意に名前を呼ばれる。びっくりしてきょろきょろ室内を見回すけど、誰の姿も見えない)
600: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/05/26(日) 20:54:13.16 ID:h6AWmXvL0
沙綾「だ、誰? 誰かいるの……?」
「私です」
沙綾「私って……まさか……?」チラ
「そうです。あなたの目の前にいるペペロンチーノです」
沙綾「……えぇ」
沙綾(唖然として言葉を失う私を意に介さず、目の前のペペロンチーノは続ける)
「私の名前はチーノ。ペペロンチーノのチーノです。気軽にチーノちゃんとでも呼んでください」
沙綾「え、あ、はぁ……」
チーノ「今日……お誕生日ですよね? 待っていましたよ、あなたが帰ってくるのを」
沙綾「…………」
沙綾(まずいと思った)
沙綾(どうやら私は、気付かないうちに相当疲れをため込んでいたようだ)
沙綾(もう二十歳を超えて、高校生の頃みたいに無理は効かない身体になったんだ)
沙綾(きっとそうだ、そうに違いない。ああ、こういう日は早くお風呂に入って寝よう……)フラフラ
601: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/05/26(日) 20:55:12.89 ID:h6AWmXvL0
チーノ「あ、お風呂ですか? 沸かしてあるのでゆっくり温まってきてくださいね」
沙綾「え」
チーノ「大丈夫です、ちゃんと浴槽も綺麗に洗っておきましたから」
沙綾「あ、はい……え、いやどうやって……?」
チーノ「お部屋の片付けも簡単にしておきましたよ。捨てようと思ったものは部屋の隅にまとめてあります。曜日ごとに分別してあるので、忘れずに捨ててくださいね」
沙綾「いや……どうやって……」
チーノ「さぁさぁ、何も心配せずに早くお風呂に入ってきてください。今日の入浴剤はヤングビーナスβですよ」
沙綾「買ったおぼえのない入浴剤が勝手に使われてるし……」
沙綾(ダメだ、考えれば考えるほど分からない。このペペロンチーノがどうやってお風呂と部屋を掃除したのか、勝手に知らない入浴剤を使っているのかとか……)
沙綾(……いや、真面目に考えちゃダメだ。きっとこれは夢だ)
沙綾(そうだよ、夢に違いないよ。やだなぁホント、夢の中でこんなマジになっちゃって……さっさとお風呂に入って寝よ……)フラフラ
チーノ「ごゆっくりどうぞ」
……………………
602: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/05/26(日) 20:55:52.12 ID:h6AWmXvL0
チーノ「ヤングビーナスβは別府温泉の湯の花エキスを配合した入浴剤で、温泉由来の成分が温浴効果を高め血行を促進し、新陳代謝を促します。弱アルカリ性のまろやかな湯質で、敏感肌の方、乾燥肌の方にもおすすめです」
沙綾「…………」
沙綾(湯船に浸かってぼんやりとしてから再びダイニングキッチンに足を運ぶと、やっぱりペペロンチーノはほかほかと湯気を上げながらテーブルに鎮座していた。そして聞いてもいない入浴剤の説明を饒舌にしてきた)
チーノ「βの特徴としましては、無香料・微着色という点が挙げられます。入浴剤と言えば香りで気分をゆったりさせるものですけども、このヤングビーナスβはあえて香料を用いず、温浴効果を際立たせることを重要視しています」
沙綾(そっかー……夢じゃないのかー……)
チーノ「微着色というのは、ビタミン色素によってほんのりとお湯の色が変わるということです。これなら浴槽の洗浄も比較的楽ですし、淡い山吹色のお湯に浸かることは精神的にも――」
沙綾「ねぇ、えぇと、チーノちゃん……?」
603: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/05/26(日) 20:56:26.28 ID:h6AWmXvL0
チーノ「はい、なんでしょうか」
沙綾「君はペペロンチーノ……なんだよね?」
チーノ「イエス、ペペロンチーノ」
沙綾「えーっと、その、どうして喋れるの?」
チーノ「むしろどうしてペペロンチーノが喋れないのかと。そういう常識を疑うべきです」
沙綾「えぇ……」
沙綾(当たり前みたいな風に言い切られた……)
チーノ「ふんふんふーん♪」
沙綾(鼻歌まで歌ってる……いや、もうこの際それはあんまりよくないけどいいや)
604: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/05/26(日) 20:57:23.73 ID:h6AWmXvL0
沙綾「それで、どうして君はここにいるの?」
チーノ「よくぞ聞いてくれましたっ」
沙綾(うわぁ、待ってましたと言わんばかりの嬉々とした声……)
チーノ「私がここにいる理由。それは沙綾さんの助けになりたかったからです」
沙綾「助けに?」
チーノ「はい。私は沙綾さんにご購入いただいてから、ずっと戸棚の中であなたのことを見ていました」
沙綾「購入……?」
チーノ「覚えてませんか? 一週間前、スーパーの割引コーナーにいた私のことを」
沙綾「……あー」
沙綾(そういえば先週の日曜日にペペロンチーノのパスタソースが安かったから買ったような気がする)
605: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/05/26(日) 20:58:15.14 ID:h6AWmXvL0
チーノ「あの日のことは今でも鮮明に思い出せます」
沙綾「はぁ」
チーノ「あの割引コーナーは食材の墓場です。打ち立てられた【大特価!】の赤札は、さながら現代の飽食を象徴した墓標です」
沙綾「…………」
チーノ「その地獄から私を救い出してくれたのがあなたです、沙綾さん」
沙綾「ああ、うん……」
チーノ「あなたは毎日忙しそうにしていました。朝早くに家を出て、夜遅くに帰ってきて……休みの日は家事に追われて……」
沙綾「いや、そんな言うほどでもないけどなぁ」
チーノ「だから私は決めたんです。大変そうな沙綾さんを癒してあげよう! と。そう強く思っているうちに、こうなっていました」
沙綾「因果関係がこれっぽっちも分からないよ」
チーノ「アレです、付喪神みたいなものです」
沙綾「……そっか」
沙綾(付喪神がつくほど売れ残ってたのかな……賞味期限の偽装とかされてないよね……)
沙綾(いや、ていうかそんなことよりもペペロンチーノが喋ったりする方がよっぽどおかしいか……)
606: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/05/26(日) 20:59:07.74 ID:h6AWmXvL0
チーノ「なので沙綾さん。存分に癒されてくださいね」
沙綾「……気持ちは嬉しけど、もうこれ以上は平気だよ」
チーノ「何を言ってるんですか、メインはこれからですよ」
沙綾「え」
チーノ「さぁ、食べてください」
沙綾「食べてって……君を?」
チーノ「はい。食べ物ですから」
沙綾「…………」
沙綾(いや、こんな喋ったりする得体のしれないものなんか食べたくないんだけど……)
607: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/05/26(日) 20:59:57.81 ID:h6AWmXvL0
チーノ「沙綾さん? どうかしましたか?」
沙綾「えっと、気持ちだけでお腹いっぱい……かな」
チーノ「何を言ってるんですか。沙綾さんはペペロンチーノが大好物じゃないですか」
沙綾「好きは好きだけど、流石にちょっと……」
チーノ「じれったいですね……そっちがその気なら……」フワリ
沙綾「え……えっ?」
沙綾(パスタ麺が宙に浮いた……?)
チーノ「私が食べさせてあげますから、沙綾さん。お口を開けてください」
沙綾「ちょ……!」
沙綾(ひゅん、とどこからともなくフォークが飛んできて、ペペロンチーノに刺さる。そしてくるくる巻かれる。それからそれが私の口元へ迫ってくる)
沙綾(なにこれ……?)
608: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/05/26(日) 21:00:33.46 ID:h6AWmXvL0
チーノ「食べ物は食べられてこその食べ物なんです。それが私たちのレゾンテートルなんです。知り合いのところてんさんも言っていました。『売れ残るとスーパーで肩身が狭い』って」
沙綾「そ、そう言われても……」
チーノ「ペペロンチーノ、好きって言ったじゃないですか」
沙綾「好きは好きだよ? でも、流石に君は食べ辛いっていうか――」
チーノ「好きなら問題ありませんよね。はい、あーん」
沙綾「いや、しないよ……?」
チーノ「どうしてですか」
沙綾「……正直に言うと、得体の知れないペペロンチーノは食べたくない……かな」
チーノ「…………」
沙綾「…………」
沙綾(ちょっと言い過ぎちゃったかな……)
609: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/05/26(日) 21:01:08.61 ID:h6AWmXvL0
チーノ「……仕方ありませんね」
沙綾「あ、よかった。大人しく引き下がって――」
チーノ「無理矢理食べさせましょう」
沙綾「くれてない!」
チーノ「はぁっ!」
沙綾「きゃっ!? ……え、あれ……か、身体が動かせない……!?」
チーノ「見えない麺で拘束させて頂きました。付喪神ですから、この程度造作もありません」
沙綾「なにそれ!?」
チーノ「ついでに肩と背中をマッサージしてあげます」モミモミ
610: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/05/26(日) 21:02:02.00 ID:h6AWmXvL0
沙綾「チ、チーノちゃん! そんなワケ分かんない力でマッサージしないで!」
チーノ「うるさいですね……」モミモミ
沙綾「あ、あぁ~……肩こりと背中の張りが楽になってく……」
チーノ「はい、今日のお仕事は終わりですよ。お疲れさまでした」モミモミモミモミ
沙綾「うぅ……」
チーノ「こんなにがっちがちに肩がこるまで一生懸命頑張ってしまう沙綾さんを見過ごせません。やはり私が癒してあげないと……」
沙綾「いや、もう十分に癒されたから……」
チーノ「ダメです。まだ足りてません。さぁ、お風呂で温まって、凝り固まった肩と背中をほぐしたら、次は美味しいご飯の時間ですよ」サッ
沙綾「だからペペロンチーノは……好きだけど、それは……」
611: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/05/26(日) 21:03:03.86 ID:h6AWmXvL0
チーノ「上手にブレーキを踏めない沙綾さんのために、私があなたの中にいます。胃の中でしっかりもたれてあげますから」
沙綾「いやそれは本当にゴメンなんだけど」
チーノ「私のベーコンを噛まないで飲んでください」
沙綾「いやいや、そのベーコンの厚さはヤバすぎでしょ? ベーコンステーキって呼ばれるやつだよねそれ?」
チーノ「ニンニクとオリーブオイルに絡めて、風味もばっちりです。美味しいですよ」
沙綾「美味しそうは美味しそうだけど……ちょ、近い、そんなグイグイしないで!」
チーノ「あーんしてください。あーん」グググ
沙綾(あ……これ食べないと多分ダメなやつだ……ペペロンチーノに窒息させられるやつだ……)
612: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/05/26(日) 21:04:48.96 ID:h6AWmXvL0
沙綾「うぅ……あんまり食べたくないけど……あ、あーん」
チーノ「それでこそ沙綾さんですね。それっ」
沙綾「あむ、むぐ……あ、美味しい」
チーノ「でしょう?」
沙綾「う、うん……」
チーノ「ふふ……お誕生日おめでとうございます、沙綾さん」
沙綾「えーっと、ありがと」
チーノ「さぁ、さめる前に食べきってくださいね」グイグイ
沙綾「わ、分かったからそんなにフォークを押しつけてこないでってば」
沙綾(けど……本当に美味しいは美味しいし……まぁいいのかな……)
チーノ「ああ、沙綾さんの中に私が入ってます……ひとつになってます……」
沙綾「……いややっぱ食べづらいよ……」
――――――――――
―――――――
――――
……
613: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/05/26(日) 21:05:20.59 ID:h6AWmXvL0
――山吹家 沙綾の部屋――
――ピピピピピ...
沙綾「……はっ」
――ピピピピピ...
沙綾「…………」ムクッ、カチャ
沙綾「…………」
沙綾「ああ、やっぱり夢だった……」
沙綾「ここ私の部屋だし……自分の家だし……今は高校二年生だし……」
614: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/05/26(日) 21:06:42.39 ID:h6AWmXvL0
沙綾「なんであんな変な夢見たんだろ。誕生日は先週だったのに――あ」
沙綾(枕元のスマートフォンに目をやって、昨日の夜にモカから送られてきた動画を思い出す)
青葉モカ『沙綾にぴったりの歌見つけたから、弾き語りした動画送るね~』
沙綾(とか、そんな感じのこと言って、おかしな歌詞の歌をやたらと切ない調子の弾き語りで披露してくれた)
沙綾「絶対あれのせいだ……なんか本当に胃もたれしてる感じがする……」
沙綾(恨みがましくスマートフォンを見つめる)
沙綾(誕生日をまた祝ってくれたのは嬉しいけど……もう少し、何かこう、他になかったのかな……)
沙綾(胸のあたりには、夢の中で厚切りベーコンステーキを本当に噛まないで飲み込まされた感触が残っているような気がした)
沙綾(もうしばらく……ペペロンチーノは食べたくない……)
おわり
615: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/05/26(日) 21:07:29.92 ID:h6AWmXvL0
参考にしました
家の裏でマンボウが死んでるP 『誕生日、ペペロンチーノにやさしくされる』
https://nico.ms/sm14794929
言い訳だけします。
お誕生日というのは特別なものだし妙齢の女性とかでもなければ何度祝われても嬉しいものは嬉しいだろうと思いました。当日はメットライフドームで端から見たら気持ち悪いくらい心を込めてバースデーソングを沙綾ちゃんに歌ったしこれくらいはまぁいいんじゃないかと思いました。
そんなアレでした。
ハッピーバースデー沙綾ちゃん。そしてごめんなさい。
【バンドリ】短編【後編】に続く
元スレ
SS速報VIP:【バンドリ】短編