1 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/18(土) 21:05:53.85 ID:qJtv+QXjo

――王子様はお姫様と幸せに暮らしましたとさ。

多くの童話はこのように締め括られる。

例えば、シンデレラ。最底辺から頂点へと至った奇跡の物語。
ただの灰かぶりが、母や姉のいじめに耐え、魔法使いの手を借り、最後には王子様と結ばれる。

シンデレラは思う。

私は幸せですと、魔法使いさんに伝えられたら。
魔法使いさんも、幸せでいてくれたら。



SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1595073953




2 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/18(土) 21:25:25.13 ID:qJtv+QXjo
・シンデレラガールズSSです
・いろいろ越境
・346? なにそれおいしいの?
・地の文
・たぶん長いよ

まったりお付き合いください




3 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/18(土) 21:28:08.29 ID:qJtv+QXjo



・・・・・・・・・・・・


その年の冬は寒かった。

ヒートアイランドだの温暖化だのと騒ぎ立てた夏場が幻かと思えるほど、例年になく凍える年の暮れ。

街頭ビジョンひしめくスクランブル交差点の人いきれは、冷たい風に耐えるよう身体を丸めながら、みな、手許の携帯端末で配信を見ていた。

今日は大晦日、あと1時間もしないうちに年が変わる。

交差点を行き交う数千人の手許では、日本放送機構―NHK―の紅白歌合戦が映し出され、紅組が歌声を届けている。



4 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/18(土) 21:29:19.23 ID:qJtv+QXjo
いま舞台に立っているのは、すらりとしたやや長身の女性だ。

婉美な群青のドレスと、黒く美しい長髪をまとい、ステージの眩いライトを、艶かしく反射させている。

緩急鋭いダンスと、その激しい動きをものともしないほど芯が強くはっきりと耳に届いてくる歌唱。

楽曲の盛り上がりとシンクロしてカメラが顔をズームアップすると、瑞々しく光る碧い瞳が、燃えるような視線を寄越す。

その眼差しは、レンズの存在など微塵も感じさせることなく、視聴者の網膜を直接射抜いた。

この年最も好調なレコードセールスを記録したオーラが、そこに漂っている。



5 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/18(土) 21:30:10.40 ID:qJtv+QXjo

渋谷凛。

芸能事務所、CGプロダクションに所属する歌姫――正確に表わすなら、アイドル。

時には歌で。時には踊りで。時には話術で。時には容姿で。時には身体の造形で。

全身で、生まれ持った肉体そのもので、エンターテインメントを表現する存在。

紅白にはここ3年間連続で出場し、今年はついにトリひとつ前を任された、22歳の花盛り。

現在の日本の芸能シーンでその名を知らない国民はいない、まごうことなき“トップアイドル”である。



6 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/18(土) 21:31:02.49 ID:qJtv+QXjo

その彼女のステージは、曲がフィナーレを迎え、ライトが光量を落としたところ。

カメラが切り替わり、NHKホール客席の熱狂振りを全国へと届けている。

無数の青いサイリウムが、凛の出番の終わりを名残惜しむように激しく揺れる。

このあと大トリが始まれば、じきに除夜の鐘中継へと移り、そして年明けだ。

打ち上げ会場で挨拶をこなして、少しだけ眠ったら、すぐに正月の特番行脚が始まることだろう。

トップアイドルは、息つく暇もない。



7 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/18(土) 21:32:12.00 ID:qJtv+QXjo

・・・・・・

凛が両腕を拡げて客席の歓声に応えるさまを、ホールの舞台袖から見守る姿があった。

CGプロで彼女を担当するプロデューサー、P。

その者は、暗がりの中で目頭を押さえていた。

紅白のトリはいわば『名誉職』に近い。つまり最後から2番目に位置するのが、実質的な主役と云える。

ようやく、担当アイドルが、その地位を獲得するまでに至った。その感慨によって、不意にもこれまでの軌跡が走馬灯のように脳裏を掠めたのだ。



8 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/18(土) 21:32:51.49 ID:qJtv+QXjo
彼女のデビューは、およそ6年前。
下積みまで含めれば、アイドルへの一歩を踏み出して7年弱になる。

最初は碌な営業すらままならなかったところから、2年目で芽が出て、3年目には頭角を現し、以後CGプロの屋台骨を支え続けている彼女。

事務所の設立と共に活動を開始した古株・渋谷凛は、CDリリースを足掛かりとして徐々に徐々に人気を獲得していった。

しかし当時を知る者は意外にも少数に留まる。
それも仕方のないことなのかも知れない。

CGプロ設立当初は、彼女の同期である十時愛梨や神崎蘭子といった面々の方が、その特色ある武器から、知名度を獲得するのが圧倒的に早かったからだ。

凛は、スタートダッシュの神様には選ばれなかった。



9 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/18(土) 21:33:30.61 ID:qJtv+QXjo
「……どうしたの?」

Pの懐古は、ステージから引き揚げてきたその担当アイドル自身の声によって終了を告げた。彼女は怪訝な表情で覗き込んでいる。

「あー、この日のために連日書類と格闘してたからな。目がとても疲れたんだよ。視力が一気に落ちたかもしれん」

Pの弁解に凛は少しだけ心配そうな顔をしたが、そこは長年連れ添った間柄である、すぐに強がりを見破った。

それでも口に出さないのは彼女なりの思いやり。

「そっか。蒸しタオルでも用意しないとね」と相好を崩して踵を返す。

汗に湿り気を帯びた髪と、刺繍のあしらわれた妖艶な裾が、ふわりと舞った。



10 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/18(土) 21:34:18.69 ID:qJtv+QXjo

・・・・・・

地下1階の大部屋へと入ると、むせ返るような濃密な女の匂いが充満していた。

歌合戦の出場者は総計すればかなりの数になる。
楽屋の少ないNHKホールでは、紅白のときは大部屋に間仕切りをして、大御所以外の楽屋としている。

演歌歌手からポップス、ダンサー、アイドルまで幅広い女性芸能人のそろい踏みはとても印象的な光景だ。

個室の楽屋を使えるアイドルは過去殆ど存在しない。
別格たる松田聖子や日高舞くらいなもので、如何にトップアイドルと云えど、凛には女性用の大部屋が割り当てられるのだ。

その大部屋の自らのブースへと歩み、タオルを取ろうとすると、凛に声を掛ける姿があった。

「闇に飲まれよ!(おつかれさまです!)」



11 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/18(土) 21:35:05.33 ID:qJtv+QXjo
特徴的な挨拶は話者の名札代わりと云ってもよい。

大部屋の奥側から労う一言を掛けたのは、凛より1年早く覇者となった蘭子だった。

凛が顔を上げると、既に出番は終わっているのに豪奢な黒いドレスを纏ったスタイルで立っている。

「あ、蘭子。おつかれさま。まだ着替えてない……わけじゃないよね」

「フフフ……魔王の宴は収束し真なるアニマは眠りに就いた。今は飛翔―はばたき―易き仮初の器で欺くが如し」

蘭子は左手を顔に当てながら眼を閉じて笑った。

ステージ衣装かと思いきや、これが私服なのだ。



12 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/18(土) 21:35:44.57 ID:qJtv+QXjo
ゴシックスタイルは、彼女の代名詞だった。

アイドルに最も重要なのは、わかりやすい外見上の特色。

愛梨なら豊満な肉体が、蘭子ならゴシックを土台とした独特の世界観が、衆目を得る大きな力だった。

世間へ浸透する為には、知名度が欠かせない。

蘭子が出世街道を登るのはあっという間だった。



13 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/18(土) 21:36:58.32 ID:qJtv+QXjo
対して、普通の女の子に過ぎなかった凛は、ただひたすらにストイックな鍛錬と、地道なメディア露出によって開拓していくしかなかったわけだ。

一見無愛想な、感情があまり表に出ることなく読みづらいところも、取っ付きにくさがあったに違いない。

それらが、スロースターターになってしまった要因だろう。

中身がいくら良かったところで、それに気付いてもらうための取っ掛かりがないならば、中身が存在しないことと同義なのだから。

だから、例え今現在トップアイドルを謳歌しているとしても、キャリアがものをいう大部屋内の序列は愛梨や蘭子の方が上。

凛自身、そのことに不満はない。仮にあったとしたら顰蹙を買うどころでは済まないだろう。

200人に迫るアイドルたちが彼女の後塵を拝しているのだし、魑魅魍魎の跋扈する魔窟、芸能界に於いてここまで来ることができたのは奇蹟と云ってもよいのだ。



14 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/18(土) 21:37:45.97 ID:qJtv+QXjo
多数の個性豊かなアイドルが所属しているCGプロの中で、特徴乏しい凛が常に人気の上位を維持するのは体力的にも精神的にも並大抵のことではない。

そのはずなのに、彼女は弱音も吐かず、Pの、そして世間の期待に応え続ける。

華奢な女の子の、一体どこにそんなパワーが蓄えられているのだろう。

“私って幸運だったよね、良い人たちに育ててもらえてさ。初めて会った時は、私のためにここまでしてくれるなんて思ってなかった”

――かつて凛が、担当プロデューサーであるPに対して述べた言葉である。



15 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/18(土) 21:38:30.48 ID:qJtv+QXjo
「ム? 世界の光を集めし石に紅蓮の色彩……如何したか?」

蘭子が凛の目元を見上げて問うた。凛の瞳が、充血していた。

彼女もP同様、この7年の記憶が目の奥をよぎり、感慨が胸に湧き出たのだが――トップアイドルは、嘘と演技が巧かった。

「あー、最近あまり寝られてなかったからね。お正月が明けるまでの辛抱、かな」

小首を傾げた蘭子に、凛は苦笑を交えた表情で、心配しないでと答える。

どう誤摩化そうか思案を巡らせる中、タイミングよく蘭子の担当プロデューサーが迎えに来た。

帰途に就く蘭子と手を振って別れ、独り言つ。

「……蒸しタオル、二つ必要かなぁ」



16 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/18(土) 21:39:17.86 ID:qJtv+QXjo

===

「おつかれさまでーす」

支度を終えた凛が、打ち上げ会場となっているNHKの食堂へと入る。

後ろからは、Pも一緒だ。

中では、年が明けたというのに、人々がひっきりなしに行き交い、挨拶に次ぐ挨拶。まるでゆっくりする暇―いとま―もない。

出番が後半だった凛が打ち上げへ顔を出す頃には、序盤に出ていた歌手は既に撤収が済んでいるような入れ替わりの激しさだった。

関係者まで含めれば総勢1000人を超えるのだ。このバタバタぶりは紅白打ち上げの恒例と云える。



17 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/18(土) 21:40:11.59 ID:qJtv+QXjo
そんな中でも主役級というものは挨拶すべき人も多く、この日、白組の終盤を彩った男性アーティストたちは多くの人々と握手を重ねていた。

「あっ、渋谷凛さん、おつかれさまでした!」

大きな声でそう云ってこちらに歩み寄るは、凛の直前に白組で出場したトップアイドルバンド『SATURN』の面々。

961プロに次ぐ業界の巨人、ジョニーズに所属する男性アイドルで、いま最も勢いのあるグループだ。それはベテランアイドルユニット『TOCIO』をして唸らせる実力を持つ。

サイケデリックを標榜し、大宇宙にフィーチャーしたぶっ飛んだパフォーマンスや曲調からはイメージできないほど、挨拶は爽やかで正反対の常識人ぶりだった。

生み出されたモノと、それを生み出す者の性格は、必ずしも一致するものではないのだなとPは妙に感心する。



18 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/18(土) 21:41:18.82 ID:qJtv+QXjo
凛は面食らった様子で、

「あっ、おつかれさまでした。あの、すごかったです。……埴輪のかぶり物でのパフォーマンスとか、リアルろくろ回しとか……」

やや腰が引けながらおずおずと手を差し出すと、リーダー格のギタリスト、TITANが優しく、それでいて力強く握手を返す。

「やりすぎてNHKの人に怒られるかと思っていましたが、僕らのあとに渋谷凛さんの圧倒的な歌声が上書きしてくれたので助かりました」

「エレクトログルーヴさんやDJ KAZMAさんから『やりやがったな!』ってLINE来てたけどね」

横からメンバー最年少のキーボーディストMIMASが茶々を出すが、

「オマージュだよオマージュ」

無邪気に笑う彼らにつられ、凛もはにかんで、お互いの健闘を讃え合う。



19 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/18(土) 21:45:07.93 ID:qJtv+QXjo
凛が全員と握手を済ませたのち、Pが挨拶をすると、

「おおっ、お噂はかねがね。数多人気アイドルの仕掛け人とお会いできて光栄です」

TITANがPの手を両手で握りしめて礼をした。

「こちらこそ、SATURNのみなさんのお話はよく伺っています。ただ、こう言っては失礼かも知れませんが――みなさんとても好青年ばかりで少々驚きました」

「ははは、パフォーマンスがパフォーマンスですからね、普段はこうしていないと後ろ指を差されますので」

TITANが眉の尻を下げる。



20 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/18(土) 21:45:48.65 ID:qJtv+QXjo
「SATURNさんのステージを間近で拝見して、そのレベルの高さに改めて感銘しましたよ。我が社の上田もファンを公言しております」

「うわぁ、上田しゃんにそう云って頂けるなんて光栄だなぁ!」

Pの言葉にMIMASは顔を綻ばせた。上田鈴帆は、幅広い人材が集うCGプロの中でもひときわ異彩を放つ着ぐるみアイドルである。

「演奏も極めて高度で精緻ですし、是非今後は音楽性の方面でもお付き合いできれば。ガールズバンドの構想も社内で挙がっておりますので」

メンバーの少し後ろに立つ、田嶋と名乗る彼らのマネージャに、懐から名刺を差し出して交換する。

打ち上げ会場は、すなわち営業会場でもあった。

周りを見渡せば、至る所で名刺のやりとりが交わされている。



21 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/18(土) 21:46:42.69 ID:qJtv+QXjo

「失礼、CGプロの渋谷凛さんとお見受けします」

大人たちの『儀式』を見ていた凛が背後から声をかけられた。

Pと共に振り返ると、大層華やかな女の子たちを率いた、見るからに敏腕な男。

凛へ真っ直ぐな視線を向け、会釈をする。

「初めまして。姜坤赫―カン・シンヒョク―です。日本のトップアイドルにお目見得できて嬉しく思います」

後ろに並んだ面々も同じく一礼をする。



22 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/18(土) 21:47:47.83 ID:qJtv+QXjo
彼女たちは海を越えて日本進出を果たした825―パリオ―エンターテインメントのアイドルグループ。

その極めてハイレベルな歌唱やダンスは、上陸するや否や日本の芸能シーンを瞬く間に射抜き、当年で紅白をつかみ取った、まさに黒船と云えた。

「お初にお目に掛かります、渋谷凛です。皆さんのことは弊社のイム・ユジンやリュ・ヘナたちからよく伺っております」

国際色豊かなCGプロは海外出身のアイドルも多数所属している。彼女らとの歓談で、出身国の芸能事情が話題に上る機会は少なくない。

「韓国トップアイドルRED QUEENを手掛けた姜プロデューサー肝煎りのプロジェクト――R.G.Pと直接お会いできて身が引き締まります」

凛は背筋を正して深くお辞儀をした。凛の両肩には日本アイドルシーンの全責が載っていると云ってよい。その自覚により半ば脊髄反射的に出た返礼の所作だった。



23 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/18(土) 21:48:43.89 ID:qJtv+QXjo
「いえ、我々は日本ではまだまだ新参の挑戦者に過ぎません」

姜の隣に立つ825エンタの社長、沈民哲―シム・ミンチョル―が、抱きかかえた猫を撫でながら柔和に微笑んだ。

その年齢を重ねつつも少年のようなあどけない笑みは、決して流暢とは言い難い朝鮮訛りの日本語と相まって、より愛嬌を感じさせる。

沈の謙遜に姜も頷いた。

「その通りです。ここにいる一同、“蒼の歌姫”さんを目標にして進んでいければと思っているのです」

――凛の二つ名。彼女にとって勲章とも云えるこの呼ばれ方が、国外の実力者にも届いているのは嬉しい発見だった。

「では、またいづれ」

お互いに会釈し、再び相見えることを誓って、その場を後にする。



24 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/18(土) 21:54:17.28 ID:qJtv+QXjo

「――やっぱり空気が違ったな」

渡り廊下を歩いていると、行き交う人の流れが途切れたタイミングで、Pが切り出した。

凛も視線を前に向けたまま、厳しい目つきで首肯する。

「……そうだね。日本を“獲りに”来てるってオーラを隠し切れてなかったよ」

「これは厳しい鎬―しのぎ―の削り合いになるな。825のプロデューサーは明らかに腕が立つ」

駐車場へ先導するPが肩を竦めて「頭痛の種が増えた」と独り言ち、社用車のドアを開けた。



25 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/18(土) 21:58:46.86 ID:qJtv+QXjo
凛がするりと後部座席へ乗り、シートベルトを締める前に運転席へ身を乗り出す。

「辣腕なだけじゃなくて、すごくイケメンだったよね」

「ああ、やばいよな、男の俺からしても惚れそうだった」

Pの云うことは尤もだった。本人がアイドルとしてやっていけるのではないかと思えるほどに美男子だったのである。

名刺を差し出す時によっぽど「CGプロのアイドルになりませんか」と云おうか云うまいか迷ったほどだ。実に節操がない。

「私、あんなカッコいい人に誘われたら断れなさそう。825への移籍を考えちゃうかもね」

Pの、エンジンをかける手がぴくりと止る。



26 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/18(土) 22:05:39.05 ID:qJtv+QXjo
姜をスカウトしようかと逡巡していた自らを棚に上げて、勘弁してくれ、と振り向くと、凛は意地の悪い笑みを浮かべていた。

「ふふっ冗談だよ。私と一緒に走ってくれるのは、プロデューサーだけ。そうでしょ?」

「わかってる。こんだけ長く一緒にやってきてんだ、お前の心だって少しくらいは読めるさ」

わざとらしい咳払いを添えると、凛は珍しく声を上げて笑った。

ひとしきり肩を揺すったのち、大きく息を吐く。

「……今年で出会ってから8年目に入るんだもんね。また1年、よろしくね」

「そうだな。こっちこそ、今年もよろしくな」

Pは静かに頷いた。二人の視線が、少しの間、交ざり合う。

「じゃあ、出すぞ。会社で少しだけ休もう。さあ、シートベルトつけて」

「ん」

凛が背もたれに体重を預け、Pは改めてエンジンを回す。



27 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/18(土) 22:15:10.55 ID:qJtv+QXjo
後ろで留め具がカチッと鳴るのを待ってから、静かに、車は深夜の街へ滑り出した。

明治神宮への参拝客でこの時間からごった返す原宿駅前。

その人海を尻目に、表参道、南青山と抜けてゆく中、凛は特に何を話すでもなく窓の外を見やった。

2年半後の五輪を名目にスクラップ&ビルドが繰り返される街は、数日のスパンでも目まぐるしく表情を変えてゆく。

それは、無能な都知事によって開発が停滞してしまった1年の空白期間を少しでも取り戻すかの如き意思を持っているように感じられる。



28 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/18(土) 22:15:57.65 ID:qJtv+QXjo
足場で覆われた工事現場。数週間前はあそこに何があっただろうか?

欠片も覚えていないのは、多忙ゆえか、あるいは他人に無関心すぎるのか。

それでもなお記憶の引き出しを漁ろうとしたところで、トンネルへ入ってしまった。

白色燈で規則正しく照らされるパワーウィンドウに、印象的な碧い瞳と整った顔、そして烏羽色の美しく長い髪が映った。

「ふぅ」と微かに息をつき、眼を閉じる。



29 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/18(土) 22:17:13.00 ID:qJtv+QXjo
凛の記憶にあるのは、この7年弱、Pと二人三脚でがむしゃらに駆け抜けてきたことだけ。

さきほど姜坤赫と邂逅したことで、そしてPと軽口を投げ合ったことで、青春時代の自らの思い出が少しだけリフレインした。

これほど長く一緒にいれば、いまハンドルを握っている男に対して、思慕の念を覚えたことだって、なくはない。

感受性豊かな思春期に、常に最も近くで見守ってくれる異性がいたのだ。意識しない方がおかしいと云うもの。

しかし――アイドルとプロデューサー、その二者の間に在る壁は果てしなく高い。

刹那的な慕情の欲求に抗えなくなりそうになった時、いつだって決まって先回りして軟着陸へ誘導された。

ついに17歳のとき、バレンタインに乗じて出番後の楽屋で想いを漏らしてしまった時は、こっぴどく叱られもした。



30 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/18(土) 22:17:45.79 ID:qJtv+QXjo
「お前が大事だからこそ俺はこうやって怒ってるんだ」

「私が大事なら、どうしてそうやって怒るの? ただ好きになっちゃったってだけだし、多少は喜んでくれたっていいのに」

「プロデューサー相手にそれを云うってどんだけ不味いことか判ってるのか。お前はアイドルなんだぞ?! 全国民の彼女でいなきゃならないんだ」

「そんなの判ってるよ! 別に付き合ってとか云ってるわけじゃないでしょ。想いを胸に秘めてるくらい別にいいじゃない!」

「駄目だ。一番近い男だからって俺に恋愛感情を抱くな。どんなに隠そうとしても普段の行動に無意識に出る。とにかく、その感情だけは絶対許さん。絶対にだ!」

――当時は分からず屋と反発もしたけれど、今なら自分のためだったのだとよく理解できる。

あの頃は青かった。



31 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/18(土) 22:18:23.88 ID:qJtv+QXjo
そのうち、アイドルであることに矜持を抱いてゆくのと比例して、自らの淡い気持ちもいつしか乗り越えた。

今の二人を表わすのに最適な言葉はたったの二文字で済む。

――戦友。

お互いが、お互いをリスペクトすること。これが、長く安定した関係を築く秘訣なのだと思う。

Pは、裏方で汗水を垂らす。凛は、表舞台で彼の世界観を余すところなく体現する。

後ろを心配する必要など全くない、背中を預け合えるコンビとして、芸能界を走ってきたのだ――

ここ数年の軌跡に思いを馳せながら、いつしか彼女は、ステージをこなした疲れと、信号待ちで停まる車の心地よい振動によって、静かな寝息を立てていた。

その口元は、心なしか綻んでいるように見えた。



36 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/19(日) 22:51:50.37 ID:bStRNLTRo



・・・・・・・・・・・・


六本木と麻布十番を結ぶ裏道には、桜並木がある。

麻布十番に所在するCGプロのアイドル達にとって、一つ隣の駅で降りて徒歩で向かえば通れる、身近な散歩道だ。

またすぐ近隣にテレビ旭が在るため、収録後にわざわざ歩いてここを経由し社屋へ戻る者もいると聞く。

3月の下旬に差し掛かったこの日、六本木ヒルズの裏手から伸びるその“さくら坂”は、白桃色のトンネルになっていた。

通る人々はきっと、桜の開花が例年よりかなり早い、とワイドショーで度々話題になったことを実感していることだろう。



37 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/19(日) 22:52:30.22 ID:bStRNLTRo
「この分じゃ、入学式には間に合わなそうだね……」

誰に宛てたものでもない呟きが、凛の血色の良い唇から洩れた。

帽子に大きな眼鏡、地味な服装でカモフラージュしたトップアイドルが、並木の路地を一人で歩いている。

仕事に追われようとも、季節の花を楽しみたいと思う気持ちは常に抱いているつもりだ。花屋の娘、血は争えない。

その想いとは裏腹に、ここしばらくそんな時間など確保できない日々が続いていたが――

分単位のスケジュールが組まれている彼女にも、この日だけは朝の一瞬にチャンスがあった。

多忙な身に、一駅分歩くだけで済むこの道はありがたい存在だった。
豊かな感情を与えられる側に立つのは久しく味わっていなかったと、自らを翻ってみて気付く。

並木を抜ければ、社屋が面している道路にそのまま出る。

背後にある高校のグラウンドから聞こえてくる朝練のかけ声をBGMにしていれば、事務所はもうすぐだ。



38 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/19(日) 22:54:05.44 ID:bStRNLTRo

「おはようございます」

建物3階、制作部のガラス扉をセキュリティカードで解錠して凛が入る。

CGプロはその規模ゆえ、社内は制作部、興行部、総務部などに分かれている。アイドルの面倒を看るのは制作部だ。

更には200人弱と云う所属アイドルの多さから、制作部は第一課―クール―から第二課―キュート―そして第三課―パッション―までに枝分かれしていた。

凛は第一課のアイドル第一号。

早朝にも拘わらず第一課のフロア内には人の気配がすでに多く、Pも出社を済ませているようだった。

「おうおはよう。――花見は楽しめたか?」

隅にあるコピー機と向き合っているPが顔だけこちらに向けると、凛の帽子や肩に舞い落ちた花弁を見て、今朝の出勤ルートを特定した。



39 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/19(日) 22:55:05.60 ID:bStRNLTRo
彼の視線から自らにくっついている桜の残滓に気付いても、凛はそれを払おうとはしない。

「おかげさまで。綺麗だったよ」

笑いながらウォーターサーバーの冷水を一口呷って、近くのソファへ身体を預けようとパーティションを越える。

するとそこには先客がいた。

「あれ? ジュニ、ヘナ、ユジン。おはよう、早いね。それから遠藤さんも」

韓国でスカウトされ来日した3人。3年余りが経って、今や立派な日本のアイドルになっている彼女らが、凛の姿を認めて会釈した。

今でこそ海外出身のアイドルはCGプロにとって珍しくない。
しかし同じ方面の出でクールからキュート、パッションにまたがるのはこの韓国勢3人だけだ。



40 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/19(日) 22:55:50.42 ID:bStRNLTRo
その隣、一人分の間を空けて、遠藤と呼ばれた壮年の男が坐っている。興行部のプロデューサーをしている人間だ。

このパターンは新企画だね、と思っていると、印刷を終えたPが紙束を持ってやってきた。

「ミーティングスペースも一応取ってあったんだけど、もう遠藤さんもここにいるしちょうどいいよな。このままやっちゃおう」

遠藤たちの対面のソファに腰を下ろして、なんの前置きもなしに話を進めだす。

凛は慣れたもので、「どれどれ、ちょうだい」と資料の催促をするだけだったが、ジュニたち3人はいきなり話を切り出されて多少まごついている。

そのさまを見て、凛は昔の自らの面影を重ねた。今でこそツーカーなれど、初期の頃はこうやってPによく振り回されたものだ。



41 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/19(日) 22:56:53.36 ID:bStRNLTRo
受け取った書類の表紙には『メディア芸術祭親善交流について』とある。

題名だけならこれまで何度も見てきた企画書と大差ない。

重要なのは、一回り小さな文字で書かれた2行目だった。

『於:韓国坡州―パジュ―市』

数瞬考えてから、凛が顔を挙げて問う。

「これはつまり海外公演ってことだよね?」

「ご明察。坡州市はソウル近郊の街でな」

芸術や文化関係の施設が多く、今回はその中のヘイリ芸術村で文化交流があると云う。



42 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/19(日) 22:57:50.17 ID:bStRNLTRo
「そうなんだ、日本じゃあまり見られないタイプの街だね。面白そう」

凛がわくわくした様子で頷くと、ソウル出身のユジンがあっけらかんに笑う。

「私としては坡州って板門店―パンムンジョム―とアウトレットモールの印象だけどね~♪」

その言葉から軍事の街と文化の街という韓国特有の複雑な二面性が垣間見えた。

兎も角、その文化交流の中の一幕に、アイドルステージが設けられるということらしい。



43 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/19(日) 22:58:29.69 ID:bStRNLTRo
「まあ、主旨はわかったよ。それで、いつ?」

凛がこぢんまりしたガラステーブルに置かれている卓上カレンダーを見遣りながら問うた。

「来月の半ば。4月15日だ」

「はぁっ?」

書類へ目を落としたまま答えるPに、凛は素っ頓狂な声を上げた。

無理もない。あまりにも唐突すぎるスケジュールだったからだ。



44 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/19(日) 23:00:37.79 ID:bStRNLTRo
通常、海外での公演となれば半年以上、場合によっては1年ほど前から準備が始まるものだ。

なのに、今回の話はわずか3週間しかない。

もちろん、アイドルのスケジュールはPたちが調整するとは云え――

実際に現地でパフォーマンスをする本人にとっては、準備が不十分なまま放り出されたらたまったものではない。

しかもその1週間前、4月7日と8日には、なんと台北―タイペイ―でCGプロ初の海外公演が開催されるのだ。

2週間連続で週末は海外生活ということになる。



45 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/19(日) 23:01:21.32 ID:bStRNLTRo
「だからだよ。どちらも隣国だし、どうせ海外へ飛ぶなら或る程度まとめてやってしまった方がやりやすい」

Pは悪びれる風でもなく笑った。

「坡州公演の規模はそこまで大きくない。台北でのステージの内容から一部を抜粋してアレンジを加えれば充分いけるだろ?」

それに、と付け加えて、書類をテーブルに置いてから対面の男を視た。

「俺も、そして遠藤さんも、この話を振られたのは昨日だ」

急に槍玉に挙がった当人は、その場のアイドル全員を見回して苦笑しながら肩を竦めた。

「なんでも、社長が先日呑みに行った席で韓国のイベントマネジメントを手掛けている方と意気投合したそうです。825エンタの沈社長ともお知り合いとのことで」

半ば思いつきの指示だったが、うまく調整すれば具合よくプランをまとめあげられる目算がついたと云う。



46 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/19(日) 23:01:58.93 ID:bStRNLTRo
凛はやれやれと一息吐いた。

「んもう、わかったよ。これも私の役目ってことだね」

CGプロの切り込み隊長はいつだって凛だった。
何かしら初経験のことをする際には、必ず彼女に白羽の矢が立つのだ。

今回の凛のミッション――現地文化に造詣のあるユジンたち3人をサポートに据えて、韓国アイドルシーンへの斥候隊を組むこと。

「ジュニ、ヘナ、ユジン。やるからには全力だよ。私も頑張るから、よろしくね」

凛から力強い視線を浴びた3人は、緊張の面持ちで喉を鳴らして頷いた。

慌ただしい年度末・年度始めが、更に怱忙を極めそうだ。



47 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/19(日) 23:03:58.56 ID:bStRNLTRo

・・・・・・

4月14日。この日の韓国は霧雨に濡れていた。

気流も不安定だったのか、厚い雲を突き破って着陸態勢へ臨む羽田発ソウル行きJAL91便の機内は、3次元全方向への振れ方がいつもよりだいぶ大きかった。

カクテルシェイカーの中の氷はこんな気分なのかもしれない。

午前11時前に金浦―キンポ―国際空港へ降り立った凛たちは、ベージュ寄りのアイボリーを基調とした配色の到着ロビーで大きく伸びをしている。

わずか2時間半足らずのフライトとはいえ、じっと席に坐っていては身体が固まってしまうというもの。

解し終えて一息吐きながら天を仰ぐと、照明の明るさに目が細まる。



48 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/19(日) 23:04:57.28 ID:bStRNLTRo
1階であるせいかフロアは天井高が抑えられ、密に配置された蛍光灯が機械的な感触を与えている。

思ったよりも人がまばらであることも、その印象に拍車をかけた。

ソウル市内に位置する金浦国際空港は、名称に反して韓国国内線が大半を占める。今や国際線の主力は隣県の仁川―インチョン―国際空港が担っている。

その構図は羽田と成田、或いは伊丹と関空の関係にほぼ等しい。金浦に乗り入れる国際便は羽田、関西、北京、上海、台北の五都市だけ。

ゆえに金浦の国際線ターミナルはこぢんまりしていて、混雑度も高くないのだ。

多忙な身にとって、入国審査なり荷物受取なり、あまり待たされないのはありがたい。



49 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/19(日) 23:06:05.28 ID:bStRNLTRo
「いやーソウルって近いもんだな」

声に振り向くと、ターンテーブルから遠征者全員の荷物を回収したPが、カートを押してやってきた。

「そうだね。先週の台湾よりだいぶ早かった気がするよ」

凛の実感は尤もなことだった。羽田からソウルは、国内線である沖縄便よりも距離が短い。

もっと云えば、東京から新大阪までの新幹線に乗っている時間とほぼ同じ。

あまりの気軽さに、ここが国外であることを忘れてしまいそうになるが、それでも読み慣れない文字の連なる案内板や広告が、韓国へ到着したのだと教えてくれている。

「台湾はさ、文字が意外と普通に読めるし意思疎通も何となくできたからよかったけど……韓国語はホント読めないね」

同じ漢字文化圏として台湾の繁体字はさほど理解に難くない。日本の旧字体の知識を持っていれば尚良し。



50 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/19(日) 23:06:35.54 ID:bStRNLTRo
しかしハングルはそうはいかない。専門教育を受けていなければ、ただの記号の集合体だと脳は認識してしまう。

万が一にでも迷子になったら、自力で解決するのはかなり難しそうだ。

歩きながらやや不安そうにきょろきょろと方々を見回す凛に、ユジンが笑いかける。

「アハハ、離れないようにいつも一緒にいよ!」

「3人が頼もしいよ、本当に」

凛は安堵の息と共に偽らざる本音を述べた。

セキュリティエリアを抜けたところで現地コーディネーターとの合流はつつがなく進み、ターミナル前に迎えに来ていた黒いワゴン車へ乗り込む。

濡れた地面の水音を響かせて走り出すと、日本とは違う右側通行の道路は、とても違和感が大きかった。



51 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/19(日) 23:07:58.91 ID:bStRNLTRo
===

漢江―ハンガン―に沿って30分も北上すれば、周囲はだいぶ郊外の様相を呈してくる。

自由路―チャユロ―と呼ばれる国道77号は片側4車線から5車線に亘る快走路で、心地よいほどに世界が後ろへと流れてゆく。

日本よりも国土が狭いはずの韓国でこれだけ潤沢な道路用地を確保できることに感心してしまう。

いや、確保せざるを得ないほどに車社会なのだと云うべきかもしれない。



52 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/19(日) 23:09:09.15 ID:bStRNLTRo
同じ方面へ抜きつ抜かれつランデブーする車群を眺めていると、いつしか案内標識に『坡州』の文字が載るようになってきた。

隣に併記されている『平壌―ピョンヤン―』や『開城―ケソン―』という名が、ひどく遠いようで近いような、複雑な印象を与える。

この自由路は、名目上は北朝鮮へと繋がっている道路なのだ。

「もうそろそろ坡州に入るな。だいぶスムーズに来られたからどこかで時間調整をしようか」

景色をぼんやり眺めていた凛は、助手席に座るPの言葉で現実に戻された。

本日のゲネプロは夕方から。或る程度前もって現地入りしておくとしても、今はまだ早すぎた。

今頃は設営スタッフなどが慌ただしく行き交っているはずだから、早着して邪魔になるのは好ましくない。



53 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/19(日) 23:10:13.73 ID:bStRNLTRo
車は自由路に別れを告げ、近代的かつ個性的な建築が並ぶ街へと滑り込んだ。

ここは坡州市の南西端、出版都市―ブックシティ―と云われる新市街。

出版社、印刷会社、流通企業などを集積し、出版事業の効率化を目指すために作られたエリアだ。

出来たばかりの計画都市なだけあって、街並は綺麗に整っている。
建物一つ一つがモダンなデザインをしているため、ともすればコピー&ペーストに近い雰囲気になりがちな新街区ならではの画一さは微塵も感じられない。

決してコンクリートジャングルというわけではなく、溢れる緑と調和した近代建築は、散歩をするだけでもその美しさに好奇心が満たされそうだ。



54 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/19(日) 23:12:00.78 ID:bStRNLTRo
芸能業界同様、出版もまた流行の最先端に近い。

そんな業界が集積する街と云うものは、すなわちハイセンスなものに敏感。

至る所に本を読みながらくつろげるカフェがあり、低く垂れ込める雲を吹き飛ばすほどの明るさや熱量を持っているように思えた。

「へぇ、きれいなところだね。面白そう」

凛は読書に特段の造詣があるわけではないが、この場所のポテンシャルは理解できる。

神保町とはまた違うベクトルの専門都市に、ワクワクとした気持ちが湧いてきた。

「ね、プロデューサー、ユジンたちも、お散歩してみない?」

「いいね~賛成♪ この隣にアウトレットモールもあるよ!」

ユジンが元気に頷いて、遠くを指差しながら破顔した。



55 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/19(日) 23:13:03.15 ID:bStRNLTRo
さすがにモールへ寄っていたら時間調整どころかゲネプロへの遅刻が確定的だね、とつられて笑いながら練り歩く。

バス停のあるメインの通りから眺める街は淡い色やガラス張りの建物が多く、とてもソリッド。

濃色のものだって重い印象は受けないし、壁面が無装飾でも決して無機質一辺倒ではない。

一本路地に入ればそれらの密度は更に増し、それでいて緑の緩衝が適度にあるので、まるで街そのものが美術館か箱庭のように思えてくる。

なるほど、『人間性を回復するための都市』とのテーマは確かなようだ。

やっぱり散歩は小道に入ってこそだね、とおしゃべりをしながら歩いていると、こぢんまりとしたコンクリート打ちっぱなしの建物から出てくる人影があった。



56 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/19(日) 23:14:33.13 ID:bStRNLTRo
「あら、イケメン!」

ヘナが小声に抑えつつ口元を綻ばす。

視線を追うと、細身にぴっちりした黒いスーツを纏い、横へ柔らかく流した茶髪の目立つ男が颯爽としている。

「えっ?」

思わず凛が大きな驚嘆の息を漏らした。まさかこんな場所でこんな大物と邂逅するとは露にも思っていなかったのだ。

誰あろう姜だった。

建物に反射してよく響く凛の声に気付いた姜もまた、一行の姿を認めて目を大きくする。



57 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/19(日) 23:15:45.49 ID:bStRNLTRo
やや遅れてビルのガラス扉がもう一度開くと、R.G.Pメンバーのうち3人――
リーダー格のキム・ソリ、センターを務めるイ・スジ、ムードメーカーのユキカが黄色い声と共に出現した。

「えー! なんでこんなところに渋谷凛さんが!?」

日本在住経験のあるソリが、飛び上がりながら流暢な日本語で問うた。

「まさか姜プロデューサーがスカウトしてきたわけじゃ……ないか」

とユキカも笑う。



58 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/19(日) 23:16:39.59 ID:bStRNLTRo
「実は明日、ヘイリ芸術村での親善交流に参加することとなりまして――」

偶然立ち寄ったのだと凛が説明すると、

「ああ、日本からいらっしゃるシークレットゲストとは貴女たちのことだったのですね」

合点のいったように姜が頷いた。

唯一日本語を理解できないスジは、ソリやユキカの通訳を経て、ワンテンポ遅れてともに頷く。

口ぶりから、凛はR.G.Pも出演―で―ることを察した。



59 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/19(日) 23:17:31.10 ID:bStRNLTRo
なのに、こんなところで油を売っているとはどういうことなのだろうか。自らの散歩を棚に上げた疑問を持つ。

「ここは825の事務所兼スタジオなのですよ」

姜が背後を指差して相好を崩した。よく見れば、入口の上に控えめな「825」のロゴが掲げられている。

事務所が郊外に設けられているとは意外だったが、よくよく考えれば、出版と云う行為は芸能とも縁が深い。

ソウル市外とはいえここは首都圏内だし、坡州ブックシティに置くのも選択肢として充分にアリだ。

環境の良い街でレッスンできればモチベーションにもつながる。



60 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/19(日) 23:18:51.84 ID:bStRNLTRo
「羨ましいかも」と凛がつぶやくと、姜は「我が社はいつでも貴女をお待ちしています」と名刺を取り出して云う。

Pの目の前での堂々たるスカウトに皆が笑った。PもPで、

「CGプロも、いつでもお迎えのご用意ができています。R.G.Pだけでなく姜プロデューサー、あなたも我が社でアイドルになりませんか?
理由―わけ―あってプロデューサーからアイドルへ――大ヒット間違いなしですよ」

と誘うのだから、笑い声が更に大きくなる。

ひとしきりの会話の後、明日の健闘をお互い祈り合った。



62 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/20(月) 22:45:47.38 ID:3rfsHktno

思いがけない出会いは芸術村に入ってからも重なった。

特設会場の横につけた車から降りて見回していると、聞き慣れた音がステージから届いてきたのだ。

サイケデリックとロック、そしてアイドルソングの融合――これはSATURNのお家芸のはず。

皆で音の出処に向けて歩くと、やや光量を抑えたステージの上でまさにSATURNの音響テストが進行しているところだった。

「あっ!」

中央でギターの配線をチェックしていたTITANが、その視界にPたちを捉えて驚き、その後破顔した。



63 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/20(月) 22:46:40.29 ID:3rfsHktno
凛が頭上で大きく手を振って近づく。

「おつかれさまです。SATURNのみなさんも親善交流に参加されるんですね」

「はい、渋谷さんも?」

「ええ、うちの韓国組といっしょに」

斜め後ろについてきた3人を指差すと、ジュニたちはトップアイドルを目の前にして萎縮してしまったかのように頭を下げた。

「この親善交流、知らなかったけど日本側はだいぶ豪勢に取り揃えたんだね」

更にその後ろにいるPへ、事前情報なしで放り込まれたことを言外にちくりと刺しつつ問うと、

「ホントに豪勢だなこりゃ。まあ出演メンバーの全体像は向こうさんしかわからないから」

Pにとっても、SATURNがここにいるのは今初めて知ったらしい。



64 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/20(月) 22:47:58.36 ID:3rfsHktno
国が違えば、入ってくるアイドルの情報はトップクラスのものだけになってしまいがち。

だから、韓国側の運営が参加の打診を寄越してくる際、必然的に有名どころに比率が傾いてしまうのは仕方がなかったのかもしれない。

「渋谷さんも参加となると俄然華やかさが増しますね。なにより日本語が通じる仲間がいるのが嬉しいですよ」

TITANが水を得た魚のように大きく笑った。

海外での心細さはよくわかる。言葉が通じず文字にも馴染みのない国ならなおさらだ。

凛が、今回の遠征が海外公演のハシゴであることに触れて、台湾と比してこの地での心細さを共感として伝えた。

「ああよかった、俺だけじゃなかったんですね」

やや安堵の息をつきながら、そうだ、と手を叩いて、

「渋谷さん、もしLINEやってたら交換してくれませんか。明日もほぼ同じ行程でしょうし、このアウェイの中では連絡取れた方が心強いですので」

と提案した。凛にとっては意外な誘いで、スマートフォンを取り出そうとしつつ、Pに目線で訊く。



65 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/20(月) 22:48:59.55 ID:3rfsHktno
凛はきちんと自らの裁量範囲をわきまえているのだ。それを超える部分を報連相するのは身に染み付いた所作だった。

「そうだな、うん、OK。凛のことだからきちんと管理もできるだろう」

さして考える時間を取らない――それでいて無思考の即答でもない受け応えは、基本的に担当アイドルを信用しているというのが伝わってくる早さだった。

指で輪っかを作ったPに凛は「ありがと」と頷き、スマホの操作を続ける。

「SATURNさんはこういうの事務所から禁止されていないんですか? ジョニーズさんは特に厳しそうな印象ですし。
CGプロ―うち―はまぁ……この通り、プロデューサーがいいと云えば大丈夫なんですけど」

連絡先を交換しながら尤もな質問を投げると、TITANは「CGプロさんなら大丈夫ですよ」と云った。



66 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/20(月) 22:49:46.46 ID:3rfsHktno
「CGプロさんは規模も大きくしっかりしていますし、功績も多いですから」

交換を終えてポケットに仕舞いつつ相好を崩す。

5年ほど前までは、得体の知れない大所帯……と云う専らの評価だった事務所が、いまや他人に認められるプロダクションに成長していることを実感して、凛もPも感慨深く思った。



67 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/20(月) 22:51:39.76 ID:3rfsHktno
「おい、栗栖―くりす―」

ステージの後ろからベース担当のENCELADUS―エンケラドス―が顔を出した。

手には、ジュピターベースが握られている。凛のベースと同じハンドクラフトメーカーATLANSIAの名器だ。

サターン―土星―のベーシストがジュピター―木星―を弾く……というのは彼らの遊び心だろうか。

「調整終わったぞ。今回は屋外だから硬めのセッティングにした」

体躯はがっしりしていながらも色白の寡黙な男で、凛たちに気づいてゆっくりと会釈を寄越してくる。



68 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/20(月) 22:52:24.93 ID:3rfsHktno
デビューシングルのジャケット撮影に使用した縁でベースを触り始め、歴がもう5年以上になる凛は、このベーシストに一目置いていた。

決して派手に目立たないながらもしっかりと堅固に音の土台―ベース―を組み上げるという、ベースの本質を表現していたからだ。

もちろん、自らの愛用するものと同じ工房の楽器を使っているという点も大いにある。

「ENCELADUSさん、しっかりご挨拶できないまま今まできてしまってすみません」

小走りで近寄って、リスペクトを込めて深めのお辞儀をしながら云った。

「以前から存じてはいたんですが、お声がけするのは恐れ入るというか。私、勝手に親近感を持っていて」



69 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/20(月) 22:53:11.13 ID:3rfsHktno
「ああ……それはまあ、自分もなんで。お互い様……ですかね」

感情の読めない言葉で凛に答える。決して不機嫌というわけではないのだろうが、本当に訥弁な男だった。

そんなENCELADUSに慣れているTITANが横から顔を出して、

「アイドルでありつつベースも達者な渋谷さんに不躾ながら仲間意識を持っています」

と翻訳した。もちろん俺も尊敬してますよ、と付け加えてから、

「コイツ奥手な朴念仁なんで。渋谷さんを前にして固まってるんですよ」

くつくつと肩を揺らす。変わり者ばかりのベーシスト界にあって、凛のような華やかな存在は稀有なのだ、と。



70 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/20(月) 22:54:08.21 ID:3rfsHktno
「煩―うるせ―えぞ、栗栖」

苦虫を噛み潰したような顔で抗議するさまを見て、凛は小首を傾げた。

「さっきも仰ってましたけど、栗栖、っていうのは……?」

「あ、自分のことです。俺、知多―ちた―栗栖って云うんで」

あまり素性を表に出さないSATURNが、あまりにもあっけらかんと告白した。

「えっ? あっ、もしかしてTITANって……」

「はい、苗字の知多をもじったんですよ。自分だけじゃなくてMIMASは三益―みます―だし、ENCELADUSは遠家―えんけ―です」

会話が聞こえたのか、三益伊里亜―いりあ―が鍵盤の感触を確かめながら、ウィキペディアやSNSには書かないでね、と口を大きく開けて笑った。



71 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/20(月) 22:54:33.47 ID:3rfsHktno
謎に包まれたトップアイドルの、国民の誰も知らない機密を知ってしまった凛はたじろいだ。
一歩、取り返しのつかない線を踏み越えてしまったのではないかとの感覚を受けた。

「ええと……それ、私が聞いちゃっていいことなんですか……?」

アイドル仲間として信用してくれているのであろうということは素直に嬉しく思うのだが。

「はは、まあ渋谷さんなら大丈夫でしょうって」

どこから来たのか不明な根拠のない自信を持って栗栖が道破する。

「なんか、大変なことになっちゃったかもね……」

凛は笑顔でいつつも、こめかみに冷汗が一筋流れるのを禁じ得なかった。



72 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/20(月) 22:56:12.73 ID:3rfsHktno

・・・・・・

遠家純―じゅん―が床に臥したと云う報せが入ったのはその日午後9時を回った頃だった。

シャワーで1日の汗と汚れを流して、ソファで一息ついたちょうどのタイミングだったのは幸か不幸か。

交換したばかりのLINEに着信があったことで迅速に情報共有がなされたのは良いとしても、最初くらいはもっと明るい話題が好ましかったと口惜しさが募る。

栗栖が云うには、夕食を済ませた直後から全身に不調をきたし、現在は高熱が続いているそうだ。

食べ物に原因があるのかも知れないし、あるいはまた別の何かがあるのかも知れない。

はっきりとした理由が不明なので、よもや凛たちにも万が一のことがないかと連絡を寄越してくれたそうだ。



73 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/20(月) 22:56:48.99 ID:3rfsHktno
凛は栗栖の心遣いに感謝しながら、プライベートな居室にも拘わらず、困惑に揺れる声を少しひそめる。

「もし遠家さんがこのまま回復しなければ、SATURNのステージは――」

「……取り止めるしかありませんね」

FMラジオのようなノイズの向こう、考えに耽るわずかな溜息の後、栗栖は決断したようにゆっくりと云った。

まだ今のところは慣れない外国の救急に駆け込むほどではないそうだが、帰国までに無理をしてこじらせては不幸な結果を招きかねない。

もはやキャンセルは不可避と云えた。



74 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/20(月) 22:58:00.58 ID:3rfsHktno
耳に当てた受話器から重苦しい空気が伝わってくる。

親善のためわざわざ遠征してきたのに、土壇場での無念は察するに余りある。

努力が水泡に帰してしまうことのやるせなさは、凛もこれまでの芸能生活で厭と云うほど何度も経験してきた。

彼女とて“同志”の晴れ舞台を見られないのはとても惜しいことだった。

考えるよりも先に口が動く。

「私が代わりに弾きましょうか」

「……えっ?」

「もちろん同じレベルのステージパフォーマンスをするのはさすがに無理でしょうけど、後ろで演奏するだけならば或いは」



75 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/20(月) 22:58:49.21 ID:3rfsHktno
思いがけない凛の申し出に、電話口の向こうは、深く息を呑んでしばらく考え込んでいた。

きっと様々な想いが頭の中で交錯していただろう。永い間のあと、ぴんと張った声が返ってきた。

「お願い、できますか」

「――もちろん」

今から深夜まで数時間ほど音合わせをすべく、一言二言交わしてから終話ボタンを押す。

凛たちに用意されたホテル新羅―シルラ―からSATURNの泊まるヒルトンまでは、ものの15分しか要さない距離にある。

さあ急いで出かける準備をしなければ。そう腰を上げたとき、ドアをノックする音がした。



76 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/20(月) 22:59:32.18 ID:3rfsHktno
「凛、いるか? 俺だ」

ドア穴から確認するまでもなかった。Pだ。しかも扉を開けてみれば、凛のベースをもう肩に掛けている。

「行くんだろ?」

どこへ、と云う言葉は不要だった。

凛は少しだけ目を大きく丸くして笑う。

「よくわかったね。しかも私のベース―コンコード―までもう持ってるし」

「わからいでか。ハイヤーも手配してある」

曰く、田嶋からPにも報せが入ったらしい。その時点で担当アイドルの次の行動はお見通しだったわけだ。

先回りしてくれた頼もしさもあり、行動を見透かされた若干の悔しさもあり、それらを綯い交ぜにして凛は廊下を急いだ。



77 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/20(月) 23:00:20.30 ID:3rfsHktno
ロビーを出ると、エントランスにはライトアップされたアーチ型の噴水が出迎える。

その前に停まっている黒塗りのセダンが、今夜の彼女の馬車だった。

白い革張りのシートに座ってからタブレット端末を少しいじっていたPが凛にそれを寄越す。

「ほら。演るのはこれだな」

画面にはSATURNがゲネプロで演奏していた曲の譜面がすでに表示されていた。

ヒルトンまでの移動時間なら、細かい部分はさておき全体のコード進行は頭に入れておくことができる。

極端な話、それさえ掴んでおけばあとは流れやアドリブで何とかなるものだ。



78 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/20(月) 23:01:54.93 ID:3rfsHktno
さっそく凛が食い入るように読んでいる横では、PはPで、彼女のベースの調絃をしている。

この楽器は元々Pが所持していたものだった。凛がデビューシングルでベース弾きの真似事をしたのがきっかけとなり譲った名器。

だから調整するのはお茶の子さいさいだ。耳で聞いただけで大体のことは終わらせられる。

片やタブレットに没入し、片やいきなりベースを取り出す――

利用者の事情に首を突っ込まないのがハイヤーの基本ながら、「一体この不思議な二人は何者なのだろう」と訝しむ運転手が、それでもなおプロとしての腕前で最短経路を流してゆく。

ミレニアムソウルヒルトンの焦茶色でシックな車寄せに、アウディが唸りながら滑り込むのを、出迎えた栗栖はとても頼もしく感じながら目線で追った。



79 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/20(月) 23:03:14.19 ID:3rfsHktno

・・・・・・

芸術村のステージに歓声が響きわたる。

ヘナたちが、韓国語で群衆に安心感を与えつつ新鮮な日本のアイドル像を届ける難しい役どころをこなした後に、満を持して乗り込んだ凛のステージは上々だった。

クールアイドルと韓国芸能シーンの相性はすこぶる良い。

かっこよさ、手の届かない非日常感を求める客層が大半を占めるこの地では、最も力を発揮できるのが第一課の筆頭たる彼女なのだ。

何曲かを披露し、時にはパフォーマンスで、時には歌唱で、日本アイドルの底力を見せつける。

凛々しさと、日本特有の―KAWAII―エッセンスが込められた衣装は物珍しさからも視線を釘付けにした。



80 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/20(月) 23:06:05.01 ID:3rfsHktno
オーディエンスの反応を舞台袖から窺うPは、825とは逆の、CGプロ韓国進出もアリだなと手応えを感じている。

CGプロは幅広い人材が集まるところで、中でも格好良さ―クール―を標榜する第一課は、その年最も輝いたアイドル――
即ちシンデレラガールの輩出経験において歴代の過半数を占める成績を持つ。

進出の勝算は充分にありそうだ。

凛の代名詞である黒いゴシックドレスに目を遣りながら、斥候部隊は誰にしようかと考えを巡らすと、立候補するかのように、胸の膨らみを支える彼女のコルセットが、艶かしく鈍い光を反射した。



81 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/20(月) 23:07:37.55 ID:3rfsHktno
その絹を思わせる光彩が徐々に潜んでゆく。ステージが終わりを迎え、ライトが落とされてゆくのだ。

照らすものが完全になくなると、黒を基調とした凛の身体は完全に闇へ溶け込んだ。次のステージを準備をするのに好都合だ。

凛同様、黒いスーツに身を包んだPが、コンコードを持ってステージ上の凛へ駆け寄る。

「ナイスなステージだった。観客の興奮がわかったか?」

ベースを差し出して、凛の肩を叩いて労いながら、耳元で健闘を称えた。

「もちろん。国が違っても最高だね、この感じ」

凛はコンコードのストラップを肩に掛けてウインクした。

最も早く準備を終えた伊里亜が、観客の興奮を冷まさないよう、シンセサイザーのアルペジオを流す。

彼自身の操作するフィルタによって有機的に変化してゆくサウンドを聴きながら、客席は次の展開をワクワクして待っている。

Pが親指を掲げて袖に急いで戻るのと、ステージの準備が完了するのは同時だった。



82 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/20(月) 23:09:59.25 ID:3rfsHktno
ライトが復活すると、次はSATURNの出番だ。
観客が黄色い声を上げ、特に男性アイドルのマニアとみられる女性は今にも失神しそうな恍惚とした表情で天に身体を仰け反らす。

ふと、先ほどまで踊っていた凛がそのままの姿でベースを抱えていることに気付く人が出始めた。

ENCELADUSを差し置いて何事だ、というざわめき。
特に日本からわざわざ遠征してきたであろう女性の観客から負の感情が見え始めたとき、栗栖が英語とたどたどしい韓国語を交えて説明した。

凛がマイクを受け取って、一礼。

「さっきまでここの主役だった私は、今から黒子の裏方。足を引っ張らないように頑張ります」

昨夜ユジンに手伝ってもらってようやく憶えた韓国語の挨拶もそこそこに、1曲目の開始をリードするベースラインのスラップを繰り出した。



83 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/20(月) 23:10:36.94 ID:3rfsHktno
音階楽器と打楽器の両側面を持つベースにおいて、コンコードの魅力は、なによりもその出音の安定した芯の強さだ。

リズムを担当するドラマーに与える安心感はそこはかとなく大きく、ひいてはギタリスト、キーボーディスト、ステージ全体のまとまりに直結する。

栗栖と伊里亜は、凛の予想以上の出来映えに口角を上げた。

「こりゃあ渋谷さん、昨夜の音合わせの後もほとんど寝ないで練習したな、きっと」

「だろうね。負けてられないよ」

不適に笑ったSATURNは、韓国群衆を虜にすると云う本来の目的の為に全ての力を割くことができた。



84 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/20(月) 23:11:31.65 ID:3rfsHktno
凛の隣には純のジュピターが飾られている。

コンコードとジュピターは同じ出自ゆえ音の雰囲気も似ているし、彼への尊敬を包含した凛の演奏に感じるものもあったのだろう。
観客席でENCELADUSの団扇を掲げた彼のファンが滂沱の泪を流してステージに応援の歓声を投げる。

舞台上の凛もその姿を認め、一時的なサポートとは云え自らの責任の大きさを改めて感じた。

失望などさせまいと、両手の指に強い意思を乗せて、コンコードが叫ぶ。

栗栖のギターが、凛のベースの上で踊る。
ただの空気の振動であるはずの音――目に見えないもののはずなのに、その場の全員が、その光景を視た。

のちの評価によれば、純のエッセンスに凛のそれが独自配合されたこの日のパフォーマンスは、SATURN史上でも指折りの味わいがあったと云う。

日本の男女トップアイドル同士がタッグを組んだ演目は、異国の地を熱し、強く焦がした。



85 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/20(月) 23:24:34.24 ID:3rfsHktno

「すごい熱気! このビジターに負けてられないね!」

90度の直角で接するように設けられた隣のステージが一気に投射された。

まばゆさに目を細めると、その光の洪水の奥からは、R.G.Pのお出ましだ。

決して広くは設けられていない野外ステージの舞台にメンバー10人も勢揃いしようものなら、その圧は相当なもの。

トリコロールなスーツ様の衣装で統一された見栄えは、凛たちが日頃触れるものとは違う、韓国アイドル文化ならではの強烈な非日常感を演出している。

この雰囲気は、CGプロで云えば高峯のあを有機的にすれば近いだろうか。
のあ一人だけなら兎も角、第一課全体でここまでのフィクショナルさは中々出せるものではない。



86 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/20(月) 23:25:21.79 ID:3rfsHktno




ACACIA
https://www.youtube.com/watch?v=W9CzxgcgFmw







87 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/20(月) 23:26:03.94 ID:3rfsHktno
クリーンギターの甘いサウンドが流れる。すぐさま歓声が挙がった。

この入りはかつて姜が手掛けたRED QUEENの代表曲ACACIAだ。

蝶のように柔らかな旋律も束の間、ものの15秒ほどで甘美なイントロはビートの効いた電子音の奔流に変化した。

展開に連動して、黄色い歓声は怒濤の狂喜の雄叫びへと変わる。

ACARACA ACARACIA ACACIA……
ACARACA ACARACIA 君の所為よ(ニタシャ)――



88 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/20(月) 23:26:55.40 ID:3rfsHktno
そのトランシーなシンセサイザーサウンドに聴覚は酔いしれ、彼女らを彩る目立つ三色は、動作の細部までつぶさに焼き付けむと視覚へ流れ込む。

網膜に訴えかけるダンスパフォーマンスは実に圧巻で、ただ騒々しく激しい動きで誤摩化すのではなく、剛健さと柔らかな艶やかさを見事に両立させている。

それでいて、踊りの緩急の差が激しいにも拘わらず、10人もいるというのに一糸乱れぬ正確さを以て各々が自らの役割を完璧にこなしていた。

円形や線形、また矩形とシームレスに陣形をつなぎ、四肢の最先端に至るまで鋭く緻密に制御された振り付けは、まさにシンクロナイズドスイミングを彷彿とさせた。



89 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/20(月) 23:31:33.44 ID:3rfsHktno
「うわ、これはまた強烈だね」

控室に下がった凛とPは、トラスの陰から会場の様子を窺う。

「いやーまったくだな。ホームフィールドアドバンテージがあると云ってもそれ以上の出来栄えと盛り上がりだ。日本市場じゃ絶対セーブしてるだろあれ」

Pは嘆息を漏らした。第一課の所属アイドルから10人を選抜してもここまでのパフォーマンスは難しい。

無論、ダンスに秀でたアイドルは先述した高峯のあ以外にも、結城晴や神谷奈緒、そして水木聖來など何人もいる。

しかし個々人の技量はなんら負けてはいないとしても、それを機械の如く精密に同期させるとなると話は別だ。

統率が取れず、ただ大人数でバタバタしている印象を与えてしまうきらいがある。

日本よりもダンスが重視される韓国市場の事情は当然あると云えど、この力量差は、今後CGプロを成長させるため要改善項目の一つに挙げて間違いはないだろう。



90 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/20(月) 23:32:44.42 ID:3rfsHktno
「ホント頭が下がりますよね、あれは」

“敵情視察”している凛たちに、自らの機材の片付けを終えた栗栖が話し掛けた。

他国産アイドルグループ、EXOやBTS―防弾少年団―が海を越え上陸してから数年経ついま、男性アイドルシーンも外圧に曝されていた。

どちらもダンスに定評あるグループ。

SATURNとて日本のトップアイドルグループとして迎え撃つ立場だ。少なからずPたちと想いを共有していると云ってよい。

「ぼくらはダンスだけを前面に押し出しているわけではないので正面衝突はしていないですけど。EXOさんとか振りコピするのも骨が折れるくらいですよ」

ステージでは、そのEXO代表曲のひとつ『Growl』を、偶さかにR.G.Pが披露しているところだった。



91 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/20(月) 23:35:55.57 ID:3rfsHktno




Growl
https://www.youtube.com/watch?v=wRRiGPRN6yk







92 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/20(月) 23:37:01.14 ID:3rfsHktno
曲自体のテンポは90とゆったりしたラップ主体のヒップホップ調ながら、ダンスは倍取りで実質テンポ180として構成されている。

それでいて、まるで機械仕掛けなのか、あるいはVFXを使用しているのかと錯覚するほどのメリハリを持たせた、人力スローモーションや人力早送りとでも形容すべき演出。

生身の人間では実現できないような、慣性の法則を無視したパフォーマンスが繰り広げられている。

「――ね?」

肩を竦める栗栖。

「これまで以上の戦国時代になるね」

頷く凛が鋭い目線を会場へ向けて、自らへ言い聞かせるように呟いた。

この親善交流での好評価な手応えを手土産としつつ、その結果に甘んじることのない精進を目指す必要があった。

凛の中に、完璧主義精神が首をもたげる。それはデビューしたての時期に常日頃抱いていた、劣等感に近い情動。

頂点を極めてから数年が経って、久方振りに復活した負けず嫌いだった。



95 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/21(火) 22:49:44.75 ID:TaO7oU2Go



・・・・・・・・・・・・


平地と思われがちな東京は、実は意外と起伏が多い街だ。

日露戦争の英雄であり、また明治天皇の忠君であった陸軍大将乃木希典を祀る神社の前も、緩やかな傾斜になっている。

その名をとって乃木坂と呼ばれる一帯は、正式には港区赤坂。

歴史の匂いを纏う勾配に沿って建てられたビルに、Pの運転する車が吸い込まれていった。

ここは国内最大手のレコード会社のひとつ、ツニーミュージック擁する建物だ。

ただしそれは表向きの話であって、実態はジョニーズの本社が入っている。



96 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/21(火) 22:51:30.24 ID:TaO7oU2Go
この年の2月にジョニーズがツニーから取得したばかりの、正式な報道発表がまだリリースされていないと云う幻の本社ビル。

公知を目前に控えた大型連休終盤のこの日、田嶋からの極秘のアポイントメントが滑り込みで設定された。

田嶋が急いだ理由は凡そPにも察せられた。
つまり――ジョニーズとCGプロの接触を悟られずに密談をするもってこいの場所、その賞味期限が迫っているのだ。

「本当に急な話で申し訳ありません」

2階で出迎えた田嶋が開口一番に頭を下げる。実はPが電話を受けたのはわずか20分前のことだった。

「いえいえ、弊社もすぐそこですし、お気になさらず」

クイックレスポンスという言葉すら似合わないほどの早さで到着できたのは、ひとえに近所だからという理由である。

ここ乃木坂はCGプロの社屋から2キロと離れていないのだ。



97 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/21(火) 22:53:19.84 ID:TaO7oU2Go
Pの言葉に「助かります」と恐縮しきりに云い、会議室の卓で正対した彼の目元には社内調整に疲れた色が出ていた。

ジョニーズの規模ともなれば施設の確保にも方々への確認を取らなければならないはずだし、この急ぎ方ではきっと埋まっているところに無理矢理ねじ込んでもらったのだろう。

「――先日の韓国では大変お世話になりました」

秘書課の見目麗しい女性が運んできたコーヒーに一旦口をつけてから、田嶋が改めて頭を下げた。

Pはドアの向こうへ消えていった彼女をスカウトしたい気持ちに駆られながらも、なんとかそれを抑えて会談に専念しようと努める。

「いえ、こちらこそ。急なこととはいえ、弊社の人間がSATURNさんのステージにお邪魔することになりお手数をおかけいたしました」

お互いに頭を垂れる。会議冒頭の様式美とも云えようが、このときは共に相手への感謝と敬意の念を持つきちんとした礼だった。



98 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/21(火) 22:54:50.49 ID:TaO7oU2Go
「だいぶ一か八かの賭けではありましたが、蓋を開けてみれば概ね好意的に受け容れられていて僥倖でした」

「はい、弊社の渋谷もその部分を結構案じていまして」

アイドルは異性沙汰には神経質なアンテナを張らなければならない。

臨時とはいえ男と女を組ませることに批判が出ることも予見されたが、幸いにも今回の事例は「トップアイドル同士のバンドタッグ」という受け取られ方で、むしろ新境地を切り拓くかの如き評価を受けていた。

それは普段からベースギターを操る凛が演奏者として出たからこそだろう。
単純に他の普通のアイドルを安易に組ませただけだったらこうはゆくまい。



99 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/21(火) 22:56:53.72 ID:TaO7oU2Go
「渋谷さんがいてくださらなかったら成功裡に終わらせることは不可能でした」

そこで――ともう一口コーヒーを傾けて田嶋が続けた。

「今回の評価を鑑みて、各セクションの第一人者を集め、事務所を横断したアイドルバンドプロジェクトを展開できないかと思っているのです」

紅白後にPも少しだけ漏らしていた構想。
どのように実現しようかずっと思い悩んでいたことが、まさかジョニーズ側から発せられるとは驚きを禁じ得なかった。

ジョニーズは元来、独立独歩志向が極めて強い事務所で、他社と組むことはこれまで一切なかったのだ。

先日の敵情視察と緊急的コラボレーションを経験したことで現状に危機感を大きく持ったのであろうが、それでもオールジャパン体制の構築に協力的な一面を見せたのは意外だった。



100 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/21(火) 22:58:05.82 ID:TaO7oU2Go
「正直なところ、外来組と同じことをやっても仕方ありません。消耗戦になるだけでなく、地力は向こうの方がありますから、すぐに追いつき追い越すのは至難です」

国内最大手クラスの事務所だからこそ、ジョニーズは国内の現状に冷酷ながら正確な判断を下していた。

このドライさがジョニーズをこれまで巨人たらしめていると云えよう。

Pは大きく首肯を添えた。

「はい。例えば御社のSATURNさんをはじめ先日招待された面々のように、一部には互角以上に戦えるポテンシャルがあると思います。
でも絶対数はそこまで多くないし、その中のほとんどはベテラン勢で占められているでしょう。業界全体として俯瞰すれば我が国の芸能は後れを取っていると認識せねばなりません。
もちろん育成は重要ですが、残念ながらそんな悠長なことを云っていられる状態でもない」

前線でインバウンド攻勢を受け流しつつ、その後ろでは、正面から激突し押し戻せる実力を積むべく育成を長期目線で進める必要があった。



101 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/21(火) 23:01:12.69 ID:TaO7oU2Go
二人、静かに大きく頷き合う。

「アイドルとアーティストを融合させた魅せ方で勝負する……このプロジェクトには多くの方のお力添えが必要です。そこで、ベースは御社の渋谷さんにお声掛けしたい」

CGプロの切り込み隊長をずっと担ってきた凛。彼女を国内芸能シーンを維持するための戦いでも最前線に据える提案。
もはや彼女はそのような星の下に生まれたのだと云うほかないなと、Pは心の中で思った。

「ギターには765プロのジュリアさんや弊社から知多、キーボードに同じく桜守歌織さんと961プロの伊集院北斗さん、弊社三益を考えていまして、ほか、315プロの神楽麗さんなどは如何かと考えております」

ジュリアは765の中でも――いや、国内女性アイドルの中でも指折りのギター奏者で、ライブでは単独での弾き語りも披露するほどの腕前だ。

また桜守歌織も音楽教室の先生からの転身というだいぶユニークな出自で、伊集院北斗と神楽麗に至っては音楽一家のサラブレッドなピアニストおよびバイオリニスト。



102 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/21(火) 23:02:04.16 ID:TaO7oU2Go
黒船への対抗手段として申し分ない錚々たる顔ぶれと、また業界最大手の961をも巻き込む構想に触れ、Pは興奮に満ち溢れた。

正面から斬り合うのではなく、日本側の得意分野を活かした魅せ方を模索し、新しいアイドル時代の幕開けを予感させる企画に、どうして胸をときめかさずにおけようか。

「それは実に素晴らしい布陣だと思います。聞いているだけでもうわくわくしてきます」

リップサービスではないのを裏付けるように、頬の血気をよくしてPは云った。

「ただ……そんな壮大なプロジェクトに、数年の経験があるとはいえベーシストとしてはまだまだ半人前の渋谷をご指定頂くとは、よろしいのでしょうか」

アイドル兼ベーシストとして最も適任なのは純だ。凛はベースを弾けるとは云え、それが本業とまでは到達していない。



103 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/21(火) 23:04:49.92 ID:TaO7oU2Go
田嶋は目を瞑って、小刻みに2回、首を振った。

「そのご懸念は問題ありません。このオファーは、知多だけでなく、遠家の推薦もあるのです」

そう述べる口角の上がり方には、凛が最適だと強く確信していることが顕れていたが、すぐ真顔に戻り「実は」とやや声音を低くする。

「――大変お恥ずかしい話ですが、弊社TOCIOの八馬口―やまぐち―が先日不祥事を起こしまして」

Pはもちろん知っていた。未成年者への淫行という、大スキャンダル。ここしばらくの芸能関連ニュースはこの話題で持ち切りだ。

田嶋は、ここだけのお話です、と前置きをして、顔を近づける。

「弊社は本日この後、本人から提出された辞表を受理する旨、発表いたします」

TOCIOのベース担当であった八馬口が正式に抜ける。その穴をサポートする必要があり、純が動員されると云う。



104 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/21(火) 23:06:04.31 ID:TaO7oU2Go
一種の災害対応とも表わせる難しい事情がありつつ、また女性側トップアイドルと云う“顔”が欲しいこともあって、凛に白羽の矢が立ったわけだ。

であれば、遠慮する理由はない。

「なるほど、承知いたしました。それならうちの渋谷には思いっきり暴れてもらいましょう」

この場に凛がいたらテーブルの下で絶対に足をつねられるであろう言い方でPが笑うと、田嶋もつられて肩を揺らした。

「ときに、ドラム担当はまだお決まりではないようで? 弊社のライラなど如何でしょう。アラブ出身なだけあって、リズム関係には滅法強いですよ」

機会を逃さむとばかりに営業攻勢をかける。

ほかにも艶やかな雰囲気を醸成できるアコースティックギター担当として有浦柑奈や、サックス担当として東郷あいを推薦したり、
目立つ飛び道具を装備すべく765の白石紬に三味線への起用を依頼できないかと云った案をお互いに出し合い、どんどん構想が膨らんでゆく。

この小さな会議室から全世界をあっと言わせるアイドルの種が芽吹こうとしている――その使命感に、田嶋もPも熱く語り合った。



109 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/23(木) 23:26:56.54 ID:XcEIO4yAo

・・・・・・

早朝より昼前までのレギュラー番組収録を終え、自室で2時間ばかり仮眠していた凛は、Pからのメール連絡で目が覚めた。

目を擦りながら件名を一瞥し、意識の靄を取り去らむとコーヒーメーカーのスイッチを入れる。

平日のコーヒーは凛の日課だった。じきにコポコポと音を立てて、香ばしく芳醇な薫りが漂う。

淹れたてをマグカップに注ぎ、一口。
インドネシア・カロシ産を深煎りにした豆は、豊かな甘さを包含する心地よい苦味が特長で、起き抜けや気分転換に最適の一杯だ。



110 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/23(木) 23:27:58.69 ID:XcEIO4yAo
これもかつてPから教えられた嗜好だった。

付記すれば曰く、コーヒーは淹れる直前に豆を自ら臼ミルで挽いてこそ至高だ、とのことなのだが――
残念ながら世を統べる歌姫にそのような時間は持ち合わせておらず、専ら全自動の機械任せにせざるを得ない。

それでも当初は乳と砂糖を入れなければ飲めなかったものが、今ではストレートで味わえるようになった。
昨今はむしろ「砂糖はコーヒー本来の甘さを掻き消す」と云って、使わなくなった角砂糖を事務所の給湯室に寄贈――と表現する処分――したほどだ。

一杯をやや急ぎ気味に楽しんでから、仮眠していたアイボリーの革張りソファに置かれているアイフォーンを拾い、浴室へと消えていった。



111 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/23(木) 23:29:50.33 ID:XcEIO4yAo

メールで指示された時刻の3分前に社屋へたどり着くと、ちょうど受付にいた事務の千川ちひろが凛を視認し、手招きをした。

「おはよう、ちひろさん。どうしたの?」

朝夕の別なく稼働する芸能業界にあっては、いついかなる時も挨拶は「おはよう」だ。

帽子や伊達眼鏡を取り外しながら近づく凛に、ちひろは可愛らしい笑顔を――しかし一部のプロデューサー陣には恐怖を想起させると云う能面の笑みを湛えて、人差し指を上に向けた。

「凛ちゃんおつかれさまです。Pさんから聞いているわ。今日は第一課じゃなくて、このまま8階の第五会議室へ向かってください」

「えっ第五? プロデューサーからは出社時間しか聞いていなかったけど、そんな珍しいところ使うんだ?」

第五会議室は社内では中規模の部屋で、どちらかといえば管理部や興行部など事務方の使用頻度が高いところだった。

プロデューサーやユニットメンバーとの打合せなら小さな部屋で事足りるし、第一課全体集会などでは大会議室を利用するので、中くらいの収容サイズの場所は意外と馴染みが薄い。



112 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/23(木) 23:30:48.05 ID:XcEIO4yAo
不思議に思いながらカードキーでエレベーターを呼ぶと、3基のうち左側が地下1階から上がってくるところだった。

チャイムが鳴り、すっとドアが開いて乗ろうとした瞬間に凛は驚いた。

中には961プロの社長、黒井崇男がいた。

飛び上がらなかったのは、スマートであらむとする意地からきた半ば無意識的な抑制の結果だ。内心は1メートルほど後退っている。

「あ、凛ちゃん。チャオ☆」

黒井社長の後ろには所属アイドル伊集院北斗の姿もあった。

凛より三四半年ほど先行してデビューした五つ上の27歳、その兄貴分に近い立ち位置からか、凛のことをちゃん付けで呼ぶ二枚目だ。

彼らはきっと地下にある駐車場からエレベーターに乗ったのだろう。



113 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/23(木) 23:31:43.68 ID:XcEIO4yAo
真っ黒い不思議な態―なり―をした、業界随一とも云われる敏腕社長が、こちらを一瞥した。

「……フン、渋谷凛か」

「失礼します」

来訪客と乗り合わせることになった凛は、下座である操作盤前に乗り込んだ。

すでにボタンは凛の行先と同様8階が押されていて、つまり彼らも同じ目的地に向かうことが理解できた。



114 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/23(木) 23:32:28.05 ID:XcEIO4yAo
「黒井社長が弊社にお越しとは驚きました。第五会議室に御用ですか?」

「ウィ。わざわざ十番くんだりまで呼びつけるとは面白いことをしてくれるな、貴様のところのPと云う奴は」

上方への加速を感じさせる箱の中で凛が訊くと、黒井は大仰に腕を広げ、まるで悪役のようなイケメンボイスで褒めているのか貶しているのかよくわからない台詞を宣った。

「黒井社長はこう云ってるけど、実は電話口で話を聞いたとき楽しそうにしてたんだよ。素直じゃないよね」

北斗が盛大なネタバラシをする。

「五月蝿い、黙っていろ」

狭い空間でいちゃつく二人に、凛はどうリアクションしたものか悩んで、結局平静を装ってスルーを決め込んだ。



115 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/23(木) 23:33:52.55 ID:XcEIO4yAo

「おはようございます……うわ」

第五会議室に入ると、エレベーターで黒井と鉢合わせしたとき以上に凛は驚いた。

長大な会議用テーブルは折り畳まれて隅へ除けられ、代わりにメモテーブルつきのミーティングチェアが円を描くように並べられているところに、他事務所の錚々たるアイドルが一堂に会している。

ジョニーズ、765プロに315プロ――ここへ凛と共にやってきた961が加われば、昨今の芸能シーンを牽引しているオールスターと云ってよい面々だ。



116 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/23(木) 23:34:29.29 ID:XcEIO4yAo
ホワイトボードには「オールジャパンアイドルプロジェクト」と走り書きされていて、設営に割ける時間のなさを物語っていた。

そしてここに呼ばれた意味を凛が悟るのに充分だった。

「お、凛。おはよう。黒井社長をエスコートしてくれたんだな。ありがとう」

「おはよ、プロデューサー。どうしたのこれ?」

「まあまあ、すぐに始まるから座って」

Pが碌な説明もしないまま横の椅子を指し示すので、凛は小首を傾げながら座った。



117 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/23(木) 23:35:31.77 ID:XcEIO4yAo
会場を見渡して、全員がいることを確認すると、Pは「本日はご足労頂きましてまことにありがとうございます」と簡便な前置きを済ませてから単刀直入に本題へと入った。

韓国遠征の視察成果や出展結果が報告され、外患に憂慮する現状の指摘がそれに続く。

特典商法とも揶揄され実態とかけ離れた売上の数字のみを追う行為が蔓延する国内の体質、
「親しみやすさ」と云うお題目を笠に着たスター性の低下、
アマチュアのお遊戯会にも劣るパフォーマンスでプロを名乗る不届き者――
などなど、国内の課題には枚挙に暇がない。

「――然るに、我が国の芸能をより高みへと昇華させむと、各分野の第一人者を集め、事務所の垣根を越えて本件オールジャパンプロジェクトを献策するものであります」



118 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/23(木) 23:36:18.52 ID:XcEIO4yAo
概要の説明を終えたところで、765の高木社長が「ちょっとよろしいかな」と控えめに手を挙げた。

「仰りたいことは理解できた。
しかし一例として、我が社のジュリアくんと、例えば――そこにお座りの315の神楽さんでは、特に大きな接点は見受けられないように思えるのだが……。
もちろん、お声掛け頂いたことは大変光栄なんだがね」

「それについては私からご説明いたしましょう」

田嶋が手刀を切って立ち上がった。



119 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/23(木) 23:37:35.17 ID:XcEIO4yAo
「外国資本勢との競争に於いて、正面から激突して跳ね返せるだけの体力は残念ながら国内芸能シーンには残されていません。がっぷり四つに組むことは避けたい。
昨今のトレンドも鑑みつつ、剣戟を受け流すことで後退を食い止める方向での対処が必要です」

「そう、この最前線プロジェクトで防御を兼ねつつ、その裏で正統的な体力育成を図る。中長期目線を要する企画なのです」

田嶋の言を引き継いで、Pが説明しながらホワイトボードにマーカーを走らせた。

「その対処に最も有効なのが、オールジャパンの、最高峰のオトナアイドルバンドプロジェクトです。
オトナアイドル――それは、子供世代からは憧れの対象として。同年代からはいつしか諦めた自らの夢を重ねる依代として。上の世代からはフレッシュなエネルギーを与えてくれる存在として。
全世代からの支持と熱狂を集めるのに最適な階層です」



120 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/23(木) 23:38:33.89 ID:XcEIO4yAo
Pが会議室全体を見回す。

ジョニーズの栗栖と伊里亜。

961プロの北斗。

765プロのジュリアと歌織、紬。

315プロの麗。

そしてCGプロから凛、あい、ライラ、柑奈。

「もうお判りですね、この場にいる皆さんは全て、洋の東西を問わず音楽に精通している魅力的なアイドル達――これが共通点です」



121 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/23(木) 23:40:39.89 ID:XcEIO4yAo
全員が、全員と見つめ合った。事務所が違えば接する機会もほとんどない。
越境することで、共通点を持つ人間がこれだけ集められたのか、と不思議な感覚がアイドルたちに押し寄せている。

「クックックッ……面白いじゃないか」

みなが息を呑んで静まる中、黒井が肩を揺らした。

「いいだろう、我々としては国内産業を協力して盛り上げることに異論はない」

「えっ」

最も懐柔に難儀すると予想していた人物が、最も早く賛成へと回ったことに、Pは失礼ながらも驚きを隠せなかった。



122 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/23(木) 23:41:43.15 ID:XcEIO4yAo
大きく目を見開くさまを見て、黒井はだいぶ心外そうに天を仰ぐ。

「……なんだその目は。私のことを誤解しているようだな。
私はそこの耄碌高木と違い、高品位なアイドルを届ける宿命について常日頃から思い馳せているのだぞ」

「あっ……失礼しました。黒井社長がラスボスだと想定していたもので……」

Pがしどろもどろに答えると、二人を見ていた凛は耐えられず「ふふっ」と息を漏らした。

「黒井社長の云う通り、面白そうだね。アイドルとしてもベーシストとしても成長できるし、周囲の情勢とか抜きに、やってみたいな。
他社さんはもちろん、CGメンバーだけで見てもこの組み合わせは初めてだからね」



123 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/23(木) 23:42:42.92 ID:XcEIO4yAo
凛の言葉に、ライラたちが頷いた。
凛と課が異なる柑奈はともかく、同じ第一課であるアイドル同士さえ、所属人数の多さのあまりに接点のない者がいるのだ。

「同意見だ。これまでサックスを前面に押し出した魅せ方はしてこなかったから、新境地を試せそうだよ」

足を組み替えて、あいは爽やかに笑った。
三十路になり艶やかさに磨きがかかっている彼女と、可搬性の高いサックスを用いたステージパフォーマンスは、煌めきに満ちることが容易に予想できる。

この場にいるのは、アイドルの中でも指折りの楽器経験者ばかり。

アイドルとしての振る舞い、楽器奏者としての経験、それらを融合させ高みへ昇らせむと各アイドルが思い思いに語りだす。



124 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/23(木) 23:43:17.37 ID:XcEIO4yAo
「ライラさんも楽しみでございますですねー。ジョジョ・メイヤーの教則を復習しますです」

「私も、エレクトリック・フォレスト・フェスティバルが来月に開催されるからミシガンまで最新のインプットをしに往ってきますよ!」

来日して5年が経つにも拘らず、ライラは相変わらず特徴的な怪しい日本語を話す。一種のアイデンティティなのか、あえて直そうとはしない。

またライラと同期の柑奈は、ネオヒッピーの野外フェスティバルで最新のラブ&ピースコミューンを吸収するなどと云いだした。

他にも歌織と北斗など、同じ楽器をやっている者同士では特に会話が弾んでいるようだった。

「また、一緒にできますね」

盛り上がる会議室を横目に、栗栖と伊里亜が、手を差し伸べながら凛の許へと歩み寄った。

「はい、このアイドル業界トップタッグのプロジェクトで何を作り出せるのか。今からワクワクしています」

凛は期待に胸を膨らませて、力強い目線と握手を返した。



125 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/23(木) 23:44:35.89 ID:XcEIO4yAo

・・・・・・

TOCIOのスキャンダルが茶の間を賑わせて間もない5月半ば。

事務所の垣根を超えた国内最高峰のアイドルグループ“プロジェクト:ツクヨミ”が電撃発表されたことで、世間の関心は一気にそちらへと移行した。

会議の招集から異例ともいえるこの早さで発表できたのは、最終的には、ジョニーズの北川社長による「YOUたちヤっちゃいなよ」と云う一言で、契約関係などが物凄いスピードで処理されていった為だ。

もちろん実際のところは、不祥事を覆い隠したいジョニーズの意向も多分にあるのだろう。



126 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/23(木) 23:46:02.04 ID:XcEIO4yAo
ともかく、国内アイドルシーンを盛り返させたい関係者の努力は、一旦は第一のハードルを無事越えたことになる。

ツクヨミに期待する街中のインタビューなどを流すワイドショーが、どの局にチャンネルを合わせても映し出される。

「どうして名前をツクヨミにしたの? アマテラスじゃなくて」

第一課のソファでテレビの反応を見ていた凛が、後方へ位置するPの自席に向けて背もたれ越しに問うた。

普通の感覚なら、最高峰を標榜するには総氏神である天照大御神をネーミングに据えそうなものだ。
しかし実際はそれに次ぐ三貴子―みはしらのうずのみこ―の次男坊とも云うべき月読命が採用されている。



127 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/23(木) 23:46:45.10 ID:XcEIO4yAo
「ツクヨミは夜を統べる神だからな。
現在の、外患に押されているアイドルシーンを夜に見立てて、牽引役になってほしいと云う点。それから、いづれは今回のプロジェクトを超える逸材が飛び越えていってくれることを祈るゲン担ぎもあるのさ」

「ああ……そう云うこと。ずっと走り続けるために、わざと2番目にしたんだね」

このプロジェクトが到達地点じゃないもんね、と凛は口角を上げた。

あくまでトップアイドルとしての目標は更に先にある。

ツクヨミが霞んで見えるほどのSランクアイドルに――アマテラスになるべく不断の努力を続けなければならない。

カタカタと軽快なキーボードの打鍵音が途切れた。「そういうことだ」とPも凛の方を振り向き、目を細めて笑う。
その目元には色濃いクマが生じている。



128 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/23(木) 23:49:13.72 ID:XcEIO4yAo
「あーあ、目の周りが酷いよプロデューサー。昔からそうだったけど、最近とみに悪化してる」

「もう俺は若くないからな。それでいて仕事量は減らないどころか増える一方だし」

4年ほど前にCGプロ所属アイドルの増加は一段落を迎えたが、結局プロデューサー職の人間は合計で40人しかいない点は変わらず、増える気配は微塵もない。

単純計算で一人あたり5人のアイドルの面倒を看なければならないことになる。
アイドルランクや仕事量の多寡によって担当アイドル数の差こそあれ、最低でも二人以上の掛け持ちをしており、1対1で看ている者は存在しない。

しかも環境の変化に伴ってアイドルは小さな分身―ぷちデレラ―を持つに至り、プロデューサーがやるべき育成タスクは増え続ける一方だ。



129 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/23(木) 23:51:28.49 ID:XcEIO4yAo
更にPについて云えば、ツクヨミの宣伝戦略やロードマップのすり合わせなど、複数事務所を亘る窓口業務が重く伸し掛かる。
ここしばらく、他プロデューサーとは比にならない激務が続いていた。

Pがやれやれ、と肩をほぐしていると、間隙を狙いすましたかのように内線が鳴る。

「あ、テクニカルレッスン終わった? じゃあ次は河川敷を7時間走らせてきてくれ」

不穏な指示を出して即座に切った。受話や終話の際の挨拶をしている時間や手間すら惜しいのだ。

事務のちひろに人手不足の改善を再三申し入れても「s5規模のプロダクションになったおかげで入社待ちは多いんですけど、あいにく社員枠が満杯なんですよ」と意味不明な制限で却下されるのが常態化していた。



130 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/23(木) 23:53:36.46 ID:XcEIO4yAo
オーバーキャパシティのあまり、Pの睡眠時間にしわ寄せが生じている。
こんな仕事、本当にアイドルが好きでなければこなせられないだろう。クマが酷くなるのは必然と云えた。

「特に凛は売れっ子も売れっ子だからな、担当する俺のやるべきことも比例して増える。本当は凛のプロデュースに専念したいんだがどうにも人が足らん」

「うん、私のことで業務量がすごいことになってるのはわかってるし感謝してる。それでも、あまり無理しないでよ?」

プロデュース活動に活き活きするPのことを見ているのは嬉しい反面、激務が心配なのもまた事実だった。アイドル当人は複雑な心情を持っている。

「そうだな。まあ、ジュニとかつかさとか、自発的に動いてくれる皆のおかげで何とか兼任の綱渡りができているから有難いよ」

桐生つかさは最も遅くCGプロに入ってきたアイドルだ。凛が組んでいるデュオユニット、BEKILY―ベキリ―の片割れ。つまりPは両極端にもCGプロ最古参と最新参の人間を担当していることになる。



131 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/23(木) 23:54:56.74 ID:XcEIO4yAo
つかさは凛と同様に、生来恵まれた容姿を持っていながら、当初はやや不躾な第一印象の殻で覆われていて色眼鏡で見られがちだった。

だが、内面を覗けば熱い意思や努力家の顔を見せる魅力的な女の子だ。その辺り、ベクトルは異なりつつも凛と似たタイプである。

所属当初の彼女は“JK社長”と云う肩書きを持っていたこともあり注目度は高く、社長業の経験から、自ら思考判断できる能力を備えていてあまり手が掛からないのはPにとって僥倖だった。

凛自身も、一つ歳下という年代の近さや、担当プロデューサーが同じゆえ会話する機会は多かった。

「うん。ただ最近つかさがちょっと詰まって打開策に悩んでるって云ってたよ」

「えっマジかよ俺の前では全然そんな様子見せてなかったのに?! 凛もそうだけど演技派女優すぎだろ俺の担当アイドルたちは」

椅子の背もたれに預けていた体重を跳ね飛ばしてPは前のめりになった。



132 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/23(木) 23:55:56.19 ID:XcEIO4yAo
「あの子ヘンに周りの状況をトータルで俯瞰しちゃうからね。手間かけさせたくない、ってぽろっと溢してた」

「うわーまじか、気づいてやれなかったなんてクソヘマぶっこいたな……」

アイツの自主性におんぶにだっこで甘えてた俺の責任だ、と呻きながら、右手で額を押さえて再び背もたれに倒れ込む。
椅子が過酷な扱いへ抗議するかのようにスプリングをギィと鳴らせた。

「近いうちにレッスンをチェックしてあげなよ」

「……善処はしたい」

凛の助言にPは難しそうな思案顔。

この綱渡りは、数年もしないうちに無理が来ることは自明だ。対策を考えておかなければならない。



133 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/23(木) 23:56:26.91 ID:XcEIO4yAo
こめかみを掻きながらパソコンに向き直り、少々黙考してから再びキーボードを叩き始める。

しばらく無言の時間が過ぎ、いくつかの優先度の高いメールを送信してから身支度を整えて云う。

「……じゃあ、すまん。凛を合同レッスンに送っていこうと思っていたんだが……やっぱり今日はこれからつかさの様子を看てくるよ」

「うん、それがいいと思う。私の方は一人で大丈夫だから。荷物それほど多くないし、行きしなに六本木でライラたちと合流してから向かうよ」

凛は頷いて立ち上がり、コンコードを肩にかける。

第一課の廊下まで二人一緒に出て、軽く手を振り別れた。

髪をさらりと払い、伊達眼鏡をかけ、硬質明瞭な靴音と共に小さくなってゆく背中を、Pは頼もしそうに眺めた。



136 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/25(土) 23:38:57.95 ID:4F4hgJ7vo

六本木――つまりテレビ旭で合流を済ませた凛たち4人は、渋谷にあるジョニーズ自社ビルへと到着した。

CGプロと同様に全面ガラス張りのその建物は、青白磁色をベースとするCGプロとは対照的に、赤みを帯びた茶色のシックかつモダンな雰囲気を纏っている。

全フロアにジョニーズの関連会社がまとめられており、所属アイドルのレッスンするスタジオもこの中に設けられている。

構造としてはCGプロと似た、トータルケアが可能な総合拠点なのだが、乃木坂のツニービルを購入したことで今後の動向に注目が集まっている。

そのためビル前には、芸能関係者の一挙手一投足を逃さむと、パパラッチが常に目を光らせ構えていた。



137 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/25(土) 23:39:47.55 ID:4F4hgJ7vo
「うわ、いるいる」

歩道から正面玄関に続くわずかな階段を上がりつつ、道路を挟んだ対面に待機しているカメラ群を横目で見て凛が呟いた。

女性アイドルの筆頭が男性アイドルの総本山へとやってくる――
本来ならあり得ない光景ながら、しかしすでにプロジェクト:ツクヨミが公知されたことで、変に憚ることなく大手を振って他社事務所へと入ってゆけるのは精神的にだいぶ楽だった。

もし発表前にこのような行動をしたら、週刊誌の格好の餌食とされていたに違いない。



138 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/25(土) 23:40:21.85 ID:4F4hgJ7vo
上層階へ運んでくれたエレベータを降りると、外光を積極的に取り込む構造のフロア内は非常に明るく、若い芽が羽化せむと励む声が、閉められた扉の向こうから聞こえてくる。

「おはようございまーす……」

レッスン音が漏れてくるところとは別の、指定された静かなスタジオへそろそろと顔を覗き込ませ、控えめな挨拶を投げる。

「あっ、来た来た! おはようございます!」

中には栗栖と伊里亜がいるだけだった。手を大きく挙げて挨拶を返してくる。ホームグラウンドたる彼ら二人は当然として、どうやら凛たちが一番乗りらしい。



139 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/25(土) 23:41:06.38 ID:4F4hgJ7vo
本日はプロジェクトメンバーによる初の合同レッスン。
企画が走り始めたばかりで新曲はまだ手配中のため、ひとまずは既存曲の流用をして、各メンバーの同期をとるのが目的だ。

お題曲はカシオペア至高の名曲『Looking Up』。メンバーの楽器構成に近いことから選定されたらしい。

先日譜面を渡され、手の空いたタイミングに事務所の休憩室でベースを手繰っていると、第二課の安部菜々が寄ってきて「いいですねぇーカシオペア。国技館ライブが懐かしいです」と感慨深げに頷いていたのが妙に印象に残っている。

――そのライブは昭和60年に開催されたはずではなかっただろうか?

菜々の周辺では時空の歪みなど日常茶飯事なので、凛は一切気にしないことにした。



140 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/25(土) 23:42:29.16 ID:4F4hgJ7vo


Looking Up
https://www.youtube.com/watch?v=lMTf5jDpdlc


安部菜々…さんが懐かしがっていた国技館ライブ
https://www.youtube.com/watch?v=S0Xm1PWb07o





141 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/25(土) 23:43:07.25 ID:4F4hgJ7vo
さておき、Looking Upと云う曲はベースラインを大黒柱としつつ、それを様々な楽器が追い、包んでゆくのが特色だ。

ベースにはリズムキープだけでなく、各楽器パートとの噛み合わせや硬軟入れ混ぜた音のメリハリが要求される。

特にギターやキーボードとは息を合わせないと、途端にまとまりがなくなってしまう難しい曲。

その分、歯車が完全にフィットした時のこの曲はとてつもない色香を放つ。

問題は、その難曲を巧く奏でるのみならず、ステージパフォーマンスも交えて実現することを要求される点だ。

演奏だけなら完璧にできて当たり前、ダンスも然り。と云うレベルに到達しておかなければ、目標を満たすことはできない。



142 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/25(土) 23:43:37.40 ID:4F4hgJ7vo
「一発目の課題がこれって結構鬼畜ですよね」

栗栖が、ベースの準備を終え試奏する凛に寄ってきて苦笑する。

「この選曲は多分うちのプロデューサーの趣味だと思います……ホントすみません」

「ああいや、それでもきっと、クリアできない課題は出さないはずですから、これは自分らが期待されていることの裏返しですよ」

凛の恐縮ぶりが予想以上だったのか、気負わせないようにと栗栖は努めて明るく相好を崩すものの、身内から裏切りの友軍砲火が襲う。

「えぇ~~僕のパート、譜面がワケわかんなすぎて弾けるかどうか到底怪しいんだけど……これ本当に人間ができるの?」

伊里亜がげっそりした表情でスコアをパラパラとめくる。



143 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/25(土) 23:44:16.16 ID:4F4hgJ7vo
彼の懸念は凛も理解できた。ただでさえ複雑な構成のうえ、五線譜としての役割をおよそ放棄した部分があるのだ。

つまり、要所々々に『ここはアドリブをテキトーにイイ感じで』とだけ書かれている。

現代音楽家ジョン・ケージの楽譜よりは断然マシだろうが、他のパートの構成音からコードを判読し適切に奏でるべしと云うことなのだろう。

アドリブ部分は特にそのパートを担当する楽器とベースの協調が必要となる。このレッスンで詰めてゆくのだ。

凛は「よろしくお願いします」と、伊里亜と栗栖に手を差し出す。

「こちらこそ」

がっしりと握り合う掌から、栗栖たちの熱い意気込みが伝わってくるような錯覚を得た。



144 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/25(土) 23:45:47.78 ID:4F4hgJ7vo

――

「ワヒド―1―・イスナン―2―・サラサ―3―・アルバァ―4―!」

プロジェクトメンバーが全員揃い、準備を手早く終える。
用意が整ったことを確認したライラが、慣れたアラビア語でカウントを取って、クラッシュシンバルとスネアドラムを組み合わせたフィルインで先陣を切った。

ギターとシンセサイザーがシンクロして昇り調子なイントロのメロディを紡ぎ、ベースとドラムがそれらの音の合間を埋めるように装飾を施す。

イントロが胸の内の熱狂を呼び起こすのに、時間はものの10秒ほどあれば充分だ。

導入のテンションが最大へと振り切ったところで、ライラがシンバルやタムでの装飾から一転、シンプルで軽快な8ビートをスタートさせた。



145 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/25(土) 23:46:55.28 ID:4F4hgJ7vo
その彼女のリズムはプレーンであるからこそ、機械かと目を見張るほど一定したグルーヴと、整った音の粒で繰り出されるスネアやハイハットが際立つ。

凛はライラの右足が踏むバスドラムと協調して、拍頭をあえて休ませるスラップを繰り出す。八分音符でメロディアスに、まるで大河の流れのようだ。

曲の土台となる二人の演奏はメトロノームのように正確だった。

過剰な速弾きや手数の多さは必ずしも腕利きの指標ではない。ベースとドラムに要求され、出来を左右する真の巧さとはただ一つ、高い安定性を実現できるかどうかに尽きる。

『Looking Up』のイントロは、一見地味な役どころのベースとドラムが最も輝きを放つ場所だった。



146 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/25(土) 23:47:30.98 ID:4F4hgJ7vo
じきに歌織の弾くピアノがメインメロディとなる。メロディと云っても単音ではなく、複雑なコードを連続して押さえることで結果的に出現する音の流れ。

あいのサックスや伊里亜のシンセサイザーとユニゾンすることでメインとしての存在感を高め合っている。

Aメロの歌織から引き継いで、A'メロでは北斗のピアノが同じラインをなぞった。

弾き方やタイミングを変えることで北斗ならではの味が出されており、更にあいと交代した麗とのデュエットとなって一粒のメロディパートで二度美味しい。



147 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/25(土) 23:48:12.76 ID:4F4hgJ7vo
セッションを開始してすぐ、凛は違和感を覚えた。

決して悪い意味ではない。

むしろ、初めて合わせるはずの演奏が滞りなく進むという、良い方向での誤算だ。

てっきりもっとコンフリクトを起こして足止めされるだろうと予測していた。アイドル界の第一人者が召集されていると云うのは伊達ではなかったのだ。

間もなく絃楽器のソロパートだ。後ろからサポートする柑奈のアコギが、アンニュイでありつつ切れ味の鋭いカッティングで栗栖とジュリアを嗾けた。



148 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/25(土) 23:49:54.15 ID:4F4hgJ7vo
二人が、凛のベースと柑奈の伴奏に乗りながらピンポンを打ち返し合う。

ボールがそれぞれの場所にあるとき、常に凛は奏者のそばへ寄り、目で、口で、絃を爪弾く指先で、リズムを刻む下半身で――全身でコミュニケーションを取った。それは楽器を介した会話と云ってよい。

栗栖はベースの周りを蝶のように舞うアドリブをこなしつつ、凛とのセッションを心から楽しんでいるようで、眩しい笑顔が途切れることはない。

更には、エレキギターの対決に紬の三味線が割って入った。絵面は鮮烈だが、実は三味線とエレキと云う組み合わせは意外なほど相性がよい。

三味線にはバチを強く当てる打楽器的奏法もあるため、スラップベースとも親和性が高い。

ジュリアたちのソロに引けを取らない和風アドリブを披露したプロジェクト最年少メンバーが笑って大きくジャンプ。爽やかな汗が舞い飛ぶ。



149 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/25(土) 23:51:25.98 ID:4F4hgJ7vo
曲のアウトロは全パートがユニゾンで音高を下げてゆき、ライラのスネアとタムの乱打から溜めを介してシャットダウン。

一瞬で過ぎた4分30秒だった。

結局あれだけ弱音を零していた伊里亜も、いざ合奏となればとてつもない集中力とアドリブセンスを発揮していたし、凛はギターやサックスなどの運指を逐次読み取ることで無事に曲全体を制御下に置けた。

通常のオーケストラのコンサートマスターに相当するのが凛のベースの役割なのだ。

通しプレイのほぼ全てを各パートとの意思疎通に費やした甲斐あってか、特に韓国でのセッション経験がある栗栖とは良好なシンクロを保つことができたのは大きな自信へとつながった。



150 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/25(土) 23:51:53.40 ID:4F4hgJ7vo
「渋谷さん、すごく演りやすかったですよ、予想以上です!」

栗栖が腕を振り上げたガッツポーズで喜びを表現した。『予想以上』と云う言葉に、この場の全員が首肯した。

「いやはや、まさか一発で通せるとは驚いた。みなさん、実は相当練習して備えてきたんじゃないのかい?」

あいがサックスを肩から下ろして微笑むと、近くにいるアイドル同士が見つめ合う。

目だけで「あなたも? 実はわたしも」と語り、顔を緩やかに綻ばせた。



151 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/25(土) 23:52:28.72 ID:4F4hgJ7vo
「ライラのリズムキープがすごかったよね。私そのおかげでとても弾きやすかったよ」

凛がドラムセット内にちょこんと座って身動きのとりづらい彼女に代わってペットボトルの水を渡しながら云った。

「これまでの積み重ねでございますですねー。ごまだれ石を穿つってやつでございます」

「うん、雨垂れだね」

凛は訂正をせずにはいられない。

「それにしてもライラちゃんがここまで叩けるなんて意外でした! 普段あまりそういう姿を見ないから」

柑奈が感嘆の息を吐いた。CGプロのメンバーは一様に頷く。ライラにドラムの経験があること自体は知っているが、実際に演奏するのはレアケースだった。



152 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/25(土) 23:53:30.11 ID:4F4hgJ7vo
「ドラムを始めたきっかけは昔のチャレンジ企画ですねー。なつかしいです」

4年前に開催された、多田李衣菜、涼宮星花、冴島清美との『目指せロックスター』アイドルチャレンジ企画。
当時ド素人だったライラが立派にドラムを務め上げたライブはファンの間で語り種だ。

「あのとき練習するのに公園で叩いてたら、ダンディなおじさんと知り合いましたです。ドラムが上手で、あれ以来たまに見てもらってたのでございますよー」

「アイチャレでのレッスン以外にも自主練してたんだね。……というかドラムが上手なおじさん?」

「はい。今もたまにアイス買ってもらってますねー。こないだも一緒に表参道へ食べにいったのでございますです」

凛の問いに頷いたライラは、スマートフォンを取り出して自撮りのツーショットを見せてきた。

白髪交じりの口髭、丸眼鏡をかけて、つば付きの帽子を装着している出で立ち。中年と老年の間のような風貌の紳士だ。



153 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/25(土) 23:54:12.87 ID:4F4hgJ7vo
その画面を見た瞬間に、伊里亜が口に含んでいた水を噴き出した。

「ちょっと待ってそのひとレジェンドじゃん?! 神じゃん!???!」

写っていたのはレッドマジックオーケストラでドラムを担当する高梁幸宏だった。驚異的な正確さでビートを刻む、元祖人間メトロノーム。

こんな大御所に直接の教えを請える者などそうそういまい。にも拘わらずライラは「この方はアッラーの化身なのでございますですか?」と暢気に首を傾げ、その重大性を自覚していないようだった。

どうしてCGプロは謎人脈が多いんだ、と頭を抱える他プロの面々に、彼女はきょとんとしている。

「……まあこれで曲の土台は心配なさそうだね」

北斗が困ったような嬉しいような、複雑な頬笑をこらえながら云って、つられたアイドル皆がかすかに笑い声を漏らして頷く。



154 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/26(日) 00:01:04.98 ID:bNfTWuHio

そのあとは楽器を置いて、録音しておいた今の演奏に合わせてダンスのステップの確認。こちらも特段のつまづきは見受けられなかった。

強いて云うなら、楽器の演奏時には手が塞がるため、必然的にパフォーマンスは両脚のステップで魅せるなど下半身が主体となることを意識する必要があることくらいだった。

或る程度人数がいるため休奏するところも多く、その際は普通のステージと同じように全身を活かして踊ればよい。

なんだ余裕じゃないか。



155 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/26(日) 00:02:18.33 ID:bNfTWuHio
――とはそうは問屋が卸さないのがPのいつもの選曲だった。

演奏、ダンス、それぞれ単体なら最初から或る程度のまとまりを以て実現できたメンバーだが、全てを同時に実行しようとすると途端にギアが噛み合わなくなってしまった。

重い楽器を持ちながら動き回ることで、個々人の運動能力に左右されステップがばらついた。

ステップを正確に踏もうとすれば、意識が逸れたり重心が移動することによって演奏が不安定化してしまう。

リズムを一致させられないどころか、音程さえまともにトレースできないのだ。惨憺たる出来栄えだった。

「うっわー……」

通しの演奏後、がっくりと膝に両手をついて凛はうなだれた。



156 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/26(日) 00:03:08.47 ID:bNfTWuHio
演奏を単体でどれだけうまくできようが、パフォーマンスを単体でどれだけ魅せられようが、併せたときに同等の質を実現できなければまるで意味がないのだ。

今回の合同レッスンはこれが目的か。凛のみならず、アイドル全員がプロデューサー陣の意図を理解した。

凛が周りに頭を下げる。

「課題を出した人間の――うちのプロデューサーの気質を最も理解しているべき私が、先回りして手を打たなかったのは失態でした。申し訳ありません」

「いやいや、渋谷さんのせいではないでしょう。不甲斐ないのは自分もです」

慌てて栗栖が云った。他のアイドルも口々に相槌を打つが、今やるべきは傷の舐め合いではなく、どうすれば改善できるかを考えることだ。



157 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/26(日) 00:04:12.73 ID:bNfTWuHio
凛は顎に手を添えて少し考え込んだ。どこか身近にヒントはないか。演奏しながらダンスをする類のパフォーマンスは。

「あ」

ふと頭の中に、バトントワリングをする第一課の佐々木千枝の姿が浮かんだ。

「改善策に心当たりがあります。次回までに取りまとめて、皆さんへ情報共有します」

凛がやおら顔を挙げて力強く云うと、栗栖が期待の眼差しを向けてくる。

「心当たり?」

「はい、弊社のL.M.B.Gなんですが――」

凛が頷いて答えると、あいが「そうか、なるほどね」と髪をかき上げた。



158 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/26(日) 00:04:55.36 ID:bNfTWuHio
CGプロには、千枝を皮切りに、マーチングを行なうユニットが存在する。

L.M.B.G――リトルマーチングバンドガールズと呼ばれる大所帯だ。

年少組ゆえ実ライブではほぼ演奏せずダンスパフォーマンスが主となるが、楽器と運動の両立と云う、凛たちが今求めている要件にはマーチングこそが合致する。

L.M.B.Gメンバーの一人、第三課の龍崎薫とあいは年の差を越えて仲が良い。あいが凛の言葉ですぐに気づいた所以だ。

凛が是正案の手配をする事とし、ひとまずこの日は演奏とダンスを別個でそれぞれ練り上げることになった。

全員が集まれる機会はそうそう設けられない。休憩を挟みつつ、夜の帳が下りてもなおステップを踏む靴の音がフロアに響いた。



163 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/26(日) 22:35:59.56 ID:bNfTWuHio

・・・・・・

レッスンが解散し、CGプロ事務所に凛が帰着したのは21時を回った頃だった。

本来は4人全員が直帰のスケジュールだったが、ライラたちとは途中で別れ、マーチングに関する情報収集のために単独で麻布十番へと戻ってきたのだ。

「ふう、ただいま」

第一課の扉を開けて帰還の挨拶をするものの、どこからも反応が返ってこない。

明かりは煌々と点いているのだから、誰も彼も退社済みというわけではないはずだが。



164 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/26(日) 22:37:03.72 ID:bNfTWuHio
レッスンスタジオに籠りっきりなのだろうかとPの執務エリアを覗き込むと、果たしてそこには机に突っ伏して寝ている姿があった。

「あぁ、なるほど」

合点のいった凛は、しかし直帰せずわざわざ事務所に寄った理由の対象が機能していない事実に対面し、どうしたものかと思案した。

ここへ来るまで結構大きな物音を立てていたはずなのに全く起きる様子がない。これはだいぶ深い意識不明の重体になっていそうだ。

「猛烈な勢いで爆睡してるプロデューサーを叩き起こすなんて、そんな鬼畜な所業はできないよね」

身体を冷やさないよう何か羽織るものでもかけようかと思って近寄ったものの、いざ近辺には適当な布がない。



165 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/26(日) 22:38:08.01 ID:bNfTWuHio
周りを見回すうち、Pの机にはツクヨミ関係の書類やら参考資料やらが山積されているのが目に入った。

「ああ……今にも崩れそう」

少しだけでも片付けようかと更に近づくと、Pの黒い頭にぽつぽつと白髪が混じっているのが見えた。

分布は偏在的で、とりわけ右後頭部に多く生えているようだった。

白髪が出てくるには些か早過ぎる年齢のはずだが、これだけ激務を続けていればメラニン細胞の劣化が加速度的に進むのは避けられないのだろう。

いづれにせよ、かつてベンタブラックを自称していたPの頭髪に、年波が忍び寄っているのは確実だった。

改めて、凛たち最前線に臨む“兵士”だけでなく、それを支える事務方も相当な奮戦をしていることが窺える。

立つ場所が違うだけで、全員が戦友なのだ。



166 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/26(日) 22:39:26.45 ID:bNfTWuHio
机から溢れそうな紙の束を、落ちない位置まで幾らか整理すると、陰から見たことのない写真が顔を出した。

初めてステージに立った日の、ゴシック調を基としたシックな黒いドレスを身に纏っている凛と、新しめのスーツを着たPが控室で並んで写っているものだ。

正確に云えば、凛にとっては何度となく見慣れた写真なのだが、それは自室に飾ってあるからという理由であって、Pが持っているところは見たことがなかった。

「あれ、プロデューサーもこれ持ってたんだ……」

写真の中のFランクアイドルは、表情こそ勝気に微笑んでいるとはいえ、デビューしたて特有のどこか自信を持ち足りない匂いが漂う。緊張で身を固くしていることも隠せていない。

被写体としては散々な状態ではあるけれど、デビューの際に撮影したものだからこそ、記念と云う意味でも戒めと云う意味でも、凛は常に目の届くところに飾っているのだ。



167 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/26(日) 22:40:25.86 ID:bNfTWuHio
書類の海に沈まないよう分けておこうと何の気なしにサルベージすると、『このアイドルのために俺がいる 目指せシンデレラガール』と隅っこに書かれていた。

印画紙のややヨレた手触りから察するに、額へ入れて飾っているというわけではないらしい。

むしろこのくたびれ加減は手帳などに挟んでことあるごとに取り出しているような印象がある。

「なんだ、キザったらしいこと書いてるね。ふふっ……」

4年前に第3代シンデレラガールと云う頂点を獲ったことで、書かれている決意は実現できてしまっている。それでもこの写真をずっと持ち続けていてくれたことに凛は胸が暖かくなった。

――やっぱり今日はそっとしておこう。

凛は相好を崩して頷いた。

机に積まれた本の山へ写真を立てかけ、また傍にはちひろの席から持ってきた差し入れのスタミナドリンクを置いてから、ゆっくりと踵を返した。



168 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/26(日) 22:42:06.64 ID:bNfTWuHio

「あ、いるいる」

上階のレッスンスタジオへ顔を出すと、この時間でもつかさが鏡と正対して踊っていた。

練習用のジャージを着用こそすれ、白いTシャツの裾を結んだり、ズボンもチャックをふくらはぎ辺りまで上げたりと、ファッショナブルな着こなしをしていて自社ブランドを持つ社長としての意地が垣間見える。

凛が「あの着方いいな、参考にしよう」と本筋から逸れたところで感心すると、つかさが来訪者に気づいて動きを止めた。

首にかけたタオルで汗を拭ってから歩み寄る。

「練習着でもない凛がここへ来るなんて珍しいね、こんな時間に一人か?」

「うん、今日は別の場所でレッスンしてた。プロデューサーに用事があったんだけど、寝ちゃってて」

「あーアイツ、昼間っからだいぶ疲れてそうだったからな」

凛の説明に、つかさは然もありなむ、と目を瞑って何度か首を縦に振る。



169 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/26(日) 22:43:07.61 ID:bNfTWuHio
「数時間前までそこでアタシのレッスンを見てたよ。……凛がアイツに執り持ってくれたんだって? 悪かったね」

「いいっていいって。アドバイス、もらえた?」

「おかげさまで。詰まってた小石が取れたから、これで次のライブの演出がコミットできる」

「それは何より。――ところでちょっと訊きたいんだけどさ」

凛はつかさにマーチングに関することを尋ねようと思っていた。

ベキリのほか、第二課の佐久間まゆと共に『ガールズネットワーク』と云うユニットも結成している彼女は、自身のコネクションの広さに加え、まゆの情念深さをひしひしと感じる特定の深い知見も入手できる位置にいる。

第一課の諜報アイドル八神マキノと並び、CGプロ随一の情報網を持っているのだ。



170 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/26(日) 22:43:56.06 ID:bNfTWuHio
「……マーチング? そりゃまた随分と異分野だなー」

つかさがきょとんとした表情でスポーツドリンクのストローに口をつけた。

「ツクヨミ関係でさ。楽器を操りながらステップも踏まないといけないから、マーチングが参考になるかなって。
本当はL.M.B.Gの資料を貰いにきたんだけど、プロデューサーと話せなかったから、先に情報通のつかさに訊こうかなと思ったんだ」

「あーそう云うこと。でもL.M.B.Gは子供用に大分リダクション―簡単に―してあるから単純なリファレンスにはならないんじゃねぇ?」

ボトルを壁面鏡の近くに置いてから、つかさは腕を組んで考え込んだ。



171 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/26(日) 22:44:52.00 ID:bNfTWuHio
「……必ずしも社内にこだわる必要ないんだったら、京都アリス高校吹奏楽部って知ってる? オレンジのユニフォームが特徴のマーチングバンドなんだけど」

「え、高校の部活?」

凛の声音にやや軽んじる匂いを感じたつかさは、チチッと人差し指を横に揺らした。

「いや、高校生と侮っちゃなんねぇよ? 由緒ある米国ローズパレードから複数回のオファーを受けてるプロ顔負けの強豪校だからな。
“橙の悪魔”って呼ばれるくらいだし、心肺機能と体幹スキルはそんじょそこらのアイドル程度じゃ到底勝負にもならねー。L.M.B.Gにも協力してもらってるはずだ」

自らのタブレット端末を取り出して、動画共有サイトを開く。



172 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/26(日) 22:45:45.13 ID:bNfTWuHio
何回かタップしてから「ほら、これ見てみ」と凛へ寄越すと、そこには我が目を見張る光景が広がっていた。

カリフォルニア・アナハイムのディズニーランドで催されたパレードを撮影した映像の中で、金管や木管、果ては打鍵楽器まで背負って縦横無尽に飛び回っているのだ。

しかも驚異的なことに、破格の運動量を誇りつつマーチングの本分である演奏も疎かにしていない。

大人数ゆえ先頭から最後尾までかなりの距離があるにも拘わらず、音のタイミングがぴたりと一致している。

それでいて特に重いチューバなどを担ぎながら軽やかに豪快なステップを踏む様は、およそ高校生とは思えない技量であった。

「なにこれ……」

凛は二の句が継げなかった。



173 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/26(日) 22:46:42.88 ID:bNfTWuHio
プロ集団というわけでもない、同好会というわけでもない、一年ごとに強制的な新陳代謝が発生する高校生なのに、スキルフルかつ高度な統制を実現しているとは。

一体どうやればこんなことができるようになるのか。

「アタシらの面目が潰れちゃうよなー」

つかさの苦笑に、何も言葉を返せなかった。ただただゆっくり頷くのみ。

「ま、彼女たちは私立校だし志望者も多いし? 確かに選び抜かれた子たちなワケだけどさ、アタシらだって天下のCGプロでアイドル張ってんだ、できないはずねぇっしょ」

謙虚にレクチャーを請うのも、プロとしての矜持じゃねぇ? とつかさは大きく口を開けて笑った。



174 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/26(日) 22:48:45.06 ID:bNfTWuHio
凛は映像を最後までしっかり目に焼き付けてからタブレットを返す。

「よく知ってたね、つかさ。……それとも、私が疎すぎるのかな」

「あーいや、実は種明かしすると、L.M.B.Gのメンバーを増やすときに千枝のプロデューサーから相談受けたことがあるんだよ。京都アリス高校は、アタシの地元福井の政財界とコネがあるから」

「なるほど。どうりでこんなに詳しいわけだね」

「お粗末様。会社のファイルサーバに橙の悪魔直伝のレクチャー映像があったはずだから、見てみるか」

つかさはそう云って、タブレットをテレビに接続した。

フレッシュな高校生が、だいぶ緊張した面持ちでビデオカメラに向かって喋るさまが映し出される。



175 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/26(日) 22:49:20.70 ID:bNfTWuHio
講義の内容自体は、年少組たるL.M.B.G向けに平易な言葉が並んでいる。なのに、たどたどしい話し方のためか頭に中々入ってこない。

微笑ましいほどの初心さだが、高校生の時分で現役アイドルへの教鞭を執ると云う経験などそうそうあるまいし、不慣れで当然でもある。

凛が映像を見ながら、着ている上着を脱いだ。

「おいおい今やんのか?」

つかさが少し呆れた面持ちで腰に手を当てた。

「善は急げって云うでしょ?」

「確かに違いねーな。どれ、アタシもやってみっか」



176 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/26(日) 22:50:15.04 ID:bNfTWuHio
好奇心が勝ったつかさが、ラフな姿になった凛の隣に並んで、レクチャー映像に倣って動き出す。

すぐにつかさの表情が困惑に変わった。

「……お、相当しんどいぞ、これ」

画面の中では、高校生が平然とした顔で、何ら造作もないように動いているのだが、ついていこうとすると途端に牙を剥くのだ。

「うん。瞬発力も持久力もフル動員するね」

凛が視線をテレビに向けたまま鋭くして頷いた。
相反する動作要素をそれぞれ高いレベルで要求されるマーチングの鍛錬は、一筋縄ではいかなそうだ。



177 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/26(日) 22:50:49.30 ID:bNfTWuHio
人間の筋肉には、瞬発力を生み出す速筋と持久力を生み出す遅筋の二種類がある。

アイドルである以上、細身のプロポーションを維持するためには無闇矢鱈に筋肉を増やせばよいわけでもない。

過度な増強を避けつつ最大の効果を得るには、速遅筋の最適な比率を考える必要があるだろう。

「これ意外と難題かも……」

2時間ほどかけて、ツクヨミでこなすべき練習メニューをリストアップしたところで、画一的なトレーニング法を組めない難しさを凛は実感した。
筋肉の得手不得手は、人によって千差万別であるためだ。

それでも、手掛かりを掴むことはできた。この収穫は大きい。

五里霧中を進むのよりも、コンパスひとつでもあれば取れる選択肢は増える。



178 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/26(日) 22:51:20.75 ID:bNfTWuHio
「つかさ、ごめんね。付き合わせちゃって」

ノートを閉じた凛は、髪を掻き上げて、隣のつかさを見た。

「いいって。気分転換になったし、自分の中にナレッジを積むのも楽しいもんだ」

つかさは水分を摂りながらニヤリと笑った。この知識欲が、情報通である遠因でもあるのだろう。

「ならよかった」と大きく一息を吐いて、凛は隅に脱ぎ捨てた上着を拾う。

ちょうどよいタイミングだから自らも切り上げるとつかさが云うので、二人で一緒に第一女子寮のある笹塚へ帰ることにした。



179 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/26(日) 22:52:49.03 ID:bNfTWuHio

つかさの準備を待って、帰りしなに第一課フロアへ顔を出すと、Pが妙に元気な状態で仕事を再開していた。

眼窩は窪み頬は痩けているのに何故か爽快な笑みを浮かべ、「俺は全知全能の神になった」などと云い溌溂としながら猛烈に書類と格闘している。

「やっぱりコカインとか出所不明の薬物でも入ってるんじゃないの、あの飲み物……」

凛がぼそりと独り言を洩らした。Pが人影に気づいて振り返る。

「おお二人か、おつかれ」

「おつかれさま。起きたんだ?」

「ああ。あのスタドリ、凛がくれたんだな? ありがとう、おかげで調子が上がってきたよ」

「嘘。ゾンビみたいな顔してるよ。まあ、差し入れした自分が云うのもなんだけどさ」

左腕で力こぶを作るPに、凛は渋い表情をした。



180 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/26(日) 22:54:41.70 ID:bNfTWuHio
「そうか? まあ今は休んでもいられない追い込み時だしな。でもスタドリのおかげで元気になる! 疲労がポンですわ!」

絶対に非合法薬物が入っているとみて間違いない。今度ちひろに中身は一体どうなっているのか訊かなければ、と凛は決意を新たにした。

「それパンドラの箱を開けそうじゃね? アタシはパス」

つかさが凛に耳打ちするのを、Pは不思議そうに見る。

「ん? どうかしたか?」

「ううん、なんでもない。私たちはもう上がろうと思って。スタジオフロアには誰もいないから施錠しといたよ」

「おーそりゃサンキュ。二人ともこんな遅くまで練習してたのか」

Pが時計に顔を向けて、まもなく日付が変わろうかと云う現在時刻をようやく認識した。



181 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/26(日) 22:55:41.06 ID:bNfTWuHio
「寮まで送ろう。車を回してくるから、地下で待っといて」

「ううん、いいよ。電車で帰るから大丈夫。プロデューサーはとにかく早く仕事を終わらせなきゃ。何が一番重要なのか、プロデューサーならわかるでしょ」

凛が手を左右に振った。

「そう。お前の隠れた努力、アタシはちゃんとわかってるし。お前の“担当アイドル”たちなんだから、やるべきことの邪魔はしねーよ」

二人微笑んで労い、Pの申し出を固辞して鉄道で退勤すべく社屋を出た。

麻布十番から笹塚まで車で移動するとなるとだいぶ長丁場となる。

それに時間を割くくらいだったら、その分早く書類をやっつけて休んでほしいと思うのは、凛とつかさ二人共通の認識だった。



182 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/26(日) 22:57:48.67 ID:bNfTWuHio
『プロデューサー、相当キツそうだね、あの様子じゃ』

『だな。今度まゆにでも訊いて、アイツの好きなコーヒーの銘柄とかアロマとかリサーチしてくるわ』

終電を間近に控えたこの時間帯の都営地下鉄は人が多い。

お喋りをして周りに存在がバレないよう、目の前にいる者同士でビジネスチャット―Slack―を使ったコミュニケーションが繰り広げられる。

かつてギャル社長と呼ばれたつかさの文字入力はとてつもなく速かった。



185 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/27(月) 23:22:32.71 ID:HtKC5RO4o

・・・・・・

満員のドームに、黄色い歓声と野太いそれが混ざり合ってこだましている。

驚異的な早さでライブツアーの告知がなされたのは、ツクヨミの発表から2ヶ月あまり。

それから更に1ヶ月かけて怒濤のアルバムリリースで機運を盛り上げた結果、レコード売り上げの上位には軒並みツクヨミが顔を出していた。

R.G.Pが唯一の例外として立ちはだかっているものの、ランキングから外患をほぼ駆逐すると云う、防波堤の役割をしっかり演じられている。

破竹の勢いと活動密度は、この間に迎えた凛の23歳の誕生日を覆い、霞ませるほど。



186 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/27(月) 23:23:41.94 ID:HtKC5RO4o
そして今、東名阪ツアーが、ここ大阪ドームを皮切りに開催されむとしていた。

小規模な会場からのステップアップではなく、初っ端から三大ドームツアー。業界が一丸となった肝煎りゆえに可能なことだ。

更には最大手広告代理店である伝通やゲームカルチャーの雄である磐梯南無粉、マスメディアからはフジツボテレビなどとのタッグもあり、三大ドームの全日程全席を瞬殺する売り上げを見せた。

一部には、ここまでお膳立てが整っているプロジェクトへ冷ややかな声もあったが、料亭での高級懐石やレストランでのフルコースディナーを嫌いな人間はそうそういないものだ。

たとえ大きなバックアップがあろうとて、観客の期待以上のパフォーマンスをしっかり魅せればよいだけの話であって、今日、それができれば、プロジェクトの第一段階は完了する。



187 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/27(月) 23:24:35.28 ID:HtKC5RO4o
アイドルたちは、スモークの焚かれたステージの下で、客以上に今か今かと出番を待ちきれない様子だ。

「壮大な計画の第一歩目、やっぱり掴みは大事だよね。みんなの度肝を抜いてあげよう。私たちならできるよ」

円状に集合したメンバーが右手を伸ばし、共同リーダーの一、凛が勝気な笑みを浮かべて云った。

いつしか凛は、錚々たるメンバーにも物怖じしない振る舞いができるようになっていた。

「あぁ。アイドルと云う言葉は今日、新たな次元へと昇華することになる」

もう片方の共同リーダー、北斗がキザな言い種をしつつ、スタッフからの開演指示を受けて喝を入れる。

「よし、いくぞ!」

「応!」



188 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/27(月) 23:26:12.39 ID:HtKC5RO4o
全員が、伸ばした右手を同時に上へ振り上げた。隣同士でハイタッチをして、衣装の左胸にあしらわれた印へ拳を添える。

横長の長方形を対角線で分割し、上から時計回りに黄、青、赤、黒で塗られた意匠はZ旗と呼ばれるものだ。

Z――つまり“後がない”と云うところから日露戦争の際に「皇國ノ興廃此ノ一戰ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」の意味が付与された旗。

期待を一身に背負って今まさに“出陣”する彼女らを鼓舞するに最も相応しい。

開場後から鳴っていたBGMの音量と照明の光量が絞られてゆき、それと反比例してオーディエンスの歓声は大きくなる。



189 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/27(月) 23:28:31.02 ID:HtKC5RO4o
静かなイントロがBGMとクロスフェードして、ついにステージの開始だ。

ベルのようなシンセサイザーや、落ち着いたクリーンギターの澄んだ音色に噛まされたフィルターが開いてゆく。

連動してアイドルたちが奈落からステージへと迫り上がり、暗闇に慣れた眼がメンバーを捉えた瞬間、まるで怒号のような喝采が響き渡る。観客の叫び声も、曲を構成する要素となる。

じっくりとイントロで慣らしてから、一転、煌々と灯り鋭く激しい攻撃的な音が場を支配した。ブロステップと呼ばれるジャンルの曲だ。

見目麗しいアイドルから発せられるドリルの如き鋭利な音波が、ドーム内にいる全員の鼓膜そして脳味噌を侵す。

耳から摂取するハードドラッグとも形容できるそれは、耐性のない大勢の観客をキメさせ、或る者は脳汁を垂れ流し、また或る者は立ちながらにしてオルガスムスを迎えていた。

――アイドルに殺される。

ステージに釘付けの皆が、開演してからわずかな時間しか経っていないながらも本能で察知した。



190 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/27(月) 23:29:31.40 ID:HtKC5RO4o
ブロステップからアイドルソングで胸をときめかせ、アシッドジャズやフュージョンでクールなオトナの時間を味わい、ハードロックで再びブチ上げる。

幅広いラインナップを取り揃えたプレイリストに、アリーナもスタンドも全てが酔いしれる。

激しい動きと、それでもぶれない演奏技術。

四肢の指先まで魂の宿った艶美なダンス。

華やかな衣装に包まれて、誰もが夢見るアイドルの輝きを全身から放つ。

更には、ジャパニーズアイドルシーンの威信をかけたツクヨミなればこそ、各社から異例のバックアップを受け、曲ごとに各事務所の所属アイドルがサポートメンバーとして入れ替わり立ち替わりバックダンスを華やかに彩った。



191 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/27(月) 23:31:44.54 ID:HtKC5RO4o
視界の端には、関係者席に招待した京都アリスの生徒たちが映る。

結局、ツクヨミのメンバー全員で京都まで特訓合宿に赴いた。その成果が、本日のこのステージだ。

教えを請うた人々に、プロフェッショナルの意地と髄を見せつける。

「恩返しができたかな、“先生”たち」

凛が不敵に笑んで、独り言つ。

その表情をカメラが射抜き、スクリーンへと大きく映し出されることで、会場の全員が改めてトップアイドルと恋に落ちてゆく。

これはまさに洗脳だ。

最前線の彼女は、大阪ドームを埋め尽くすペンライトの向こうに、未来を視た気がした。



192 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/27(月) 23:33:26.51 ID:HtKC5RO4o

・・・・・・

「おつかれさまでーす!」

夜の心斎橋に、歓喜の乾杯音が響く。

喧騒の賑わう道頓堀は戎橋、そこからほど近いにも拘わらず、この地にはひっそりと佇むお洒落なレストランが数多い。

大阪公演の成功を祝して、貸し切りでの打ち上げが催されていた。



193 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/27(月) 23:35:37.11 ID:HtKC5RO4o
ドームライブの盛況ぶりはインターネットメディアの速報ですでに全国へ伝えられており、このあと日付が変わる頃には地上波での芸能ニュースにも流れることだろう。

防衛戦略の初手が無事に成功したことは、ツクヨミへ出資しているレーベルや国内マスメディアに安心感を与えた。

テレビ局や放送各社、ツニーミュージックや日本最古のレコード会社ジヤパン哥倫―コロム―、果ては個々のアイドルと協賛契約をしている各企業などのトップが直々にメンバーへ慰労の電話を寄越してきたのがその証左だ。

「今夜はそっちに送ってあるものと同じワインで、取締役の面々と祝杯を挙げるよ」

とは凛のスポンサー四菱財閥会長の言である。

中央のテーブルには、わざわざ赤い菱形が刻印された大仰なケースに1990年のロマネコンティが1ダース鎮座していて、合計価格は優に5000万を凌ぐはずだった。



194 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/27(月) 23:37:16.33 ID:HtKC5RO4o
これにはさすがの凛も当惑を禁じ得なかった。

印税だの契約金だので億と云う額も身近になっていた彼女でさえ、一夜の宴会のために4桁もの人数の福澤諭吉をポンと出す金銭感覚ではない。

日本最大のコングロマリットの威力をまざまざと見せつけられつつ、それでも飲まねば損とばかりに関係者全員が群がっている。

凛もグラスになみなみと注がれた深紅のそれを受け取って一口、二口と呷った。

高級赤ワインのイメージにありがちなフルボディの濃厚かつ重い味を想定していたのに、意外にもすっきりと喉を通ってゆき、特徴的な残り香が鼻腔をくすぐる。

美味しいけど生搾りのサワーの方がいいな……

と折角の贈り物に対して多少失礼な感想を思い浮かべていると、隣に「おつかれです」と栗栖が腰を下ろした。



195 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/27(月) 23:38:11.90 ID:HtKC5RO4o
「渋谷さん、ロマネコンティ進んでないね」

「うん、まあ……」

視線を赤い水面に落として言葉を濁す。

「――なんか気負いの方が先に来ちゃって」

「だよねえ、ビールとかチューハイの方がいいよね」

味わうことなくソッコーで飲み干して終わりにしてしまった、と栗栖が云うので二人肩を揺らす。

「ほんと。ま、こう云うのは年寄り組やプロデューサーたちに任せちゃおうかな」

そう云って凛はPを手招き、半分ほどのワインと極微かに口紅の跡が残ったグラスを押し付けてから、カクテルの入ったシャンパングラスを手に取った。



196 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/27(月) 23:39:31.06 ID:HtKC5RO4o
ミモザと呼ばれる、シャンパーニュとオレンジジュースをステアしたそのカクテルはとても飲みやすく、これはこれでペースを誤ると大変なことになりそうだ。

「ふう、おいしい。成人してそんなに経ってない私なんかにはこれくらいが丁度いいよ。普段からそんなに飲まないし」

お酒は嫌いじゃないんだけどね、と凛は苦笑した。

「あーわかる。日々の詰まったスケジュールを考えるとおいそれと飲めないから」

栗栖が腕を組んでうんうんと頷く。

その向こうからは、凛の“残飯処理”含め大量のアルコールが入り気分の大きくなったPが、熱くアイドルの将来展望について語っている声が聞こえてくる。だいぶ酔っている様子だ。

疲労の溜まっている身体にいきなりワインを浴びるほど注ぎ込んでは然もありなむ。

人前に出ることが仕事の凛たちには、あのような飲み方はできなかった。



197 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/27(月) 23:42:25.95 ID:HtKC5RO4o
「渋谷さんさえよければ今度予定が合ったら飲みましょ。美味しいサイドカーを出してくれる行きつけがあるんで。俺の古い友人の店なんだけど」

「……うわ、サイテー」

凛は誘いの言葉を穿った見方で受け取って、しばし考えてから答えた。

サイドカーと云うブランデーベースのカクテルは、度数が高いわりにとても飲みやすく、レディキラー――つまり女を酔い潰して持ち帰る――の異名を持つ。

無論、普遍的な美味さのカクテルゆえの風評被害でもあるのだが。

「バレたか。って違う違うそういう意味じゃないですって」

栗栖は律儀にノッてから大きく手を振って否定した。もしかしたら彼は関西出身なのか、あるいは親族に関西の人間がいるのかもしれない。

サイドカーは非常にシンプルなレシピのため、バーテンダーの腕や特色がよく顕れる。

初めてのバーへ行ったらまずサイドカーを頼めと云う格言も存在する。このカクテルが美味い店は他のメニューもレベルが高い。



198 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/27(月) 23:43:06.17 ID:HtKC5RO4o
「お酒、好きなんだね」

「いやー俺もまだ酒が飲めるようになってから長いわけじゃないし、まだまだ暗中模索してる感じで」

と、ウーロン茶の入ったグラスへ腕を伸ばす。

「でも俺はこの後また少し練習するから控えておかないと」

「えっ、これから?」

凛は驚きに目を大きくした。



199 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/27(月) 23:44:01.20 ID:HtKC5RO4o
「うん。渋谷さんだから判ってると思うけど、俺一回ミスタッチしちゃったんで。
自分とのセッションのとき、渋谷さんは譜面から外してこっちに合わせてくれましたよね」

「あ、わかっちゃった?」

「そりゃあね。面目次第もない」

栗栖は肩を少しだけ竦めて、こめかみを掻いた。

「でも渋谷さんがこっちに添ってくれてすぐ復帰できた。感謝してます。ぶっちゃけ純より演りやすいよ、渋谷さんの方が」

TOCIOのサポートで忙しい純に代わってSATURNへ加入してくれと冗談を飛ばす。

地獄耳に聞きつけたPが血相を変えて止めに入るのを見て、凛はお腹を抱えて笑った。

女所帯のCGプロだけでは味わうことができなかったであろう雰囲気の宴も酣―たけなわ―、お偉いさんたちの相手はPや酒好きのメンバーにでも任せて、練習に付き合うべく一足早く切り上げることにした。

美味しいアルコールの入った器よりも、コンコードを触っている方が彼女の性には合っていた。



203 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/28(火) 23:22:22.56 ID:4h7q9LhCo



・・・・・・・・・・・・


渋谷駅西口ターミナルは、相も変わらぬ人混みと、乗合バスやタクシー、更に周囲から浮いた警戒色の建設機械が入り交じっている。

大幅な再開発が進行する当駅周辺は、1日たりとて同じ表情を維持することはなく、常に雑然と慌ただしい。

日本語ではない声量の大きな会話。おそらく大陸からの観光客だろう。

必要性が疑問に思えるほど過剰な構内案内アナウンス。狭い空間に反響して聞きにくく、むしろ逆効果だ。

屋外広告が誰へ宛てるでもなく垂れ流す宣伝。シャカシャカと軽薄な音質で、行き交う人々に存在を認識されていない。

メルセデスの吹かすマフラー音とグリップに耐え切れず鳴くタイヤ。しかし超過密都市の中、速く走ることはきっと叶わない。

それら環境ノイズの洪水に加えて、何よりも土木現場の生み出す極めて騒々しい雑音が鼓膜をこれでもかと叩く。



204 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/28(火) 23:23:31.20 ID:4h7q9LhCo
京王マークシティから歩み出た瞬間に、凛はその端整な相貌を少しだけ歪めた。

ヒートアイランド現象のみならず、人海の体温と大型重機の吐き出す排気ガスなどが混ざり合って、都市の臭いを包含した熱風が淀み、タールの如く身体に纏わりついてくるのだ。

振り返れば、頭上には銀座線の黄色い車輛が高架をゆったり通り抜けている。

決して勾配を上ってきたわけではない“地下鉄”であるはずのそれが空中を回遊し、或いはどこを見ても急坂だらけの地理条件が、
ここが渋谷と云う字面通りの谷底にあることを――焼かれた空気の逃げ道がないことを意識させる。

暦の上では秋だと云っても世間はまだ「夏休み」だし、そんな言葉遊び以前に、ガスバーナーで炙られるように突き刺さる日射は真夏のそれでしかなかった。

ロータリーに面した銀行の入口から冷気が一瞬だけ漂ってきて、暑さで麻痺した肌に生を実感させる。

たぶん焦がしプリンはこんな気分なのかも知れない、と思った。



205 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/28(火) 23:24:55.15 ID:4h7q9LhCo
国道246号玉川通りを歩道橋で越え、山手線の長いガードをくぐると、右手に竣工間近のビルが空へ高く伸びている。

5年前に地下化された東横線渋谷駅の跡地を利用したものだと云うが、往時の姿がどんなものだったのか、早くも記憶の砂時計の下へ埋もれてしまった。

ツクヨミの快進撃に伴い、やらなければならないことが格段に増えたので、些末な記憶に脳の容積を一々割いておく余裕が、もはやないのだ。

つい先日迎えた自身の23度目の誕生日でさえ、忙しさのあまり大して祝うこともなく過ぎ去った。

ただ23歳ともなれば、未成年の頃とは違って、誕生日は目出度さよりも年齢の数字が増える恐怖感の方が勝ってくる。

目の回るほどの多忙さが、凛本人としては却って好ましい状況ではあった。



206 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/28(火) 23:25:50.69 ID:4h7q9LhCo
閑散とした、しかしそれでいて工事車両がひっきりなしに行き交う裏道を線路沿いにしばらく進むと、いきなり人の密度が上がる。

埼京線の新南口が置かれているここは、明治18年開業初代の渋谷駅があった場所だと云う。

自らの苗字と同じ地ゆえ、街の由緒を色々と調べたことがある。

歴史の足跡の面白さと云うものが、歳を重ねてわかるようになってきた。

最近では、NHKの、タモリが何気ない土地をブラブラと歩いて過去に思い馳せる番組を観るのが密かな愉しみだった。

さながらアンドロイド製造工場の如く出口から吐き出され続ける人波を縫って突破すれば、目的地は間もなく姿を現すはずだ。



207 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/28(火) 23:26:57.27 ID:4h7q9LhCo
「おっ、おはよう」

群衆の中から、明らかに自分へ宛てたとみられる声がした。

ラッシュの流れの中で、栗栖が手を軽く挙げている。

「おつかれさま。電車通勤なんだ?」

てっきり車での送迎だと思ってた、と凛が足早に寄ると、栗栖は首を振って「俺ら若手なんていつも電車だよ」と笑った。



208 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/28(火) 23:28:16.77 ID:4h7q9LhCo
そう、トップアイドルとて、よっぽど直行手段がない場合を除き、専ら鉄道が移動方法なのだ。

年功序列の側面もあるし、定時性が高いのも理由の一つ。

その二言三言のやりとりだけで、もうビルの玄関が視程内に入る。

見上げてから「ふう、遠かった」とため息を漏らす。

「朝から随分疲れてないか?」

栗栖は首を傾げるが、

「京王から来たからね」

「あぁ……」

凛の端的な説明にぎらつく空を見上げて、そりゃ大移動だ、と同情の声を上げる。



209 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/28(火) 23:32:24.68 ID:4h7q9LhCo
京王渋谷駅マークシティは、凛がいま仰いでいるジョニーズビルから、街道や線路を挟んでほぼ点対称の位置にあって、およそ15分かけての徒歩移動を要した。

笹塚からならば、こんな面倒くさいアクセスなどせず、新宿を経由して埼京線に乗ってくれば済むのだが――

痴漢が頻発する不名誉な路線は、混む時間帯には利用しないようPから懇願されている。

「新宿なら通り道だし、朝イチでジョニーズに来るときは俺がエスコートしようか?」

「それは魅力的な提案だね。……でも流石に朝二人で満員電車に揺られているとあらぬ噂を立てられそう、かな。ラッシュ時は人の目が多いから」

「あーそれもそうか……ボツだな。ま、俺に協力できることがあったら何でも云ってよ」

妙案が浮かばないことを誤魔化すように栗栖がこめかみを掻いた。

無論それは彼のせいではなく、トップアイドルと云う立場同士の哀しさゆえであることが判っている凛は「うん、ありがと」と軽く頷いて、二人一緒にビルのスタジオへと入っていった。

今日はメンバーの都合から、栗栖、麗、凛だけのレッスンだった。



210 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/28(火) 23:33:53.45 ID:4h7q9LhCo

「――って云うやり取りがあってさ」

早朝のセッション練習からラジオ収録、雑誌撮影などの仕事をこなして、太陽がすっかり店仕舞いした時分に、第一課のソファへ凛が身を預ける。

革が摩擦で鳴って、腿や臀部をひんやり包み込む感覚が気持ちよい。ミドルヒールのレースアップパンプスを脱いで足を揺らした。

「さすがに今の時期、京王から新南口まで歩くのは酷だと思わない? 肌もダメージ受けちゃうよ、いくら日焼け止め塗ったって」

凛の柔らかな抗議にPは腕を組んで「うーん、云わんとすることはわかるんだがなあ」と考え込んだ。

椅子を回し、パソコンから凛の方へ向き直って息を吐く。

「やっぱ凛くらい美人になるとさ、万が一にでも痴漢被害を受けやしないかと気を揉んで仕方ないんだよ」



211 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/28(火) 23:36:03.75 ID:4h7q9LhCo
曰く、奴等が重視するのは身体偏差値、つまり姿形のバランスなのだそうだ。

頭頂から頭髪を経て上半身そして下半身へと至る色香、顔は見えないけど振り向いたらきっと美人に違いない、そう思わせる造形美こそが神聖な触れるべき対象に選定されるのだと云う。

確かに凛は、いつどこで誰にどのような手段で見られても恥ずかしくないようにプロポーションを維持してきた――いや、思春期の頃から理想のカラダを目指して鍛え上げてきた自負があった。

その上さらに帽子や伊達眼鏡でも隠し切れない顔面偏差値の高さを一瞬でもちらりと視界に入れれば、狩猟対象としてロックオンだ。

Pが人差し指で凛を3回指して「インカミン・ミッソー」とぼやく。



212 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/28(火) 23:37:17.48 ID:4h7q9LhCo
たまにづけづけと「可愛い」だの「美人」だの正面切って云ってくるのは本当に人誑しだと、凛は思った。

そうでもなければプロデューサーは果たして務まらないのだろう。

「だがまあ毎日そのルートを使うわけじゃないし、例えば湘南新宿のグリーン車を使うとかなら或いは……」

視線を上下左右に動かして、グリーンだと人が少ないから凛が乗ってるって気付かれやすいか、などと自己問答している。

「うーむ、もしかしたら乃木坂の新社屋の方へレッスン場も移転する可能性があるし、そうじゃなくてもCGプロ―ウチ―を基幹スタジオにできないか今度訊いてみる」

「わかった。ありがと」

最善ではないが現状で出せる最適解をPから聞いて、凛は靴を再度履いた。これから日付が変わる頃までつかさとのレッスンだ。



213 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/28(火) 23:38:03.86 ID:4h7q9LhCo
ツクヨミに割く時間が多いとは云え、普段のアイドル活動も並行してきちんとある。ベキリが次回リリースする新曲の習得を進めなければならない。

立ち上がり「行ってくるね」と鞄を手に取る。

第一課スペースを出ていこうとする凛の背中にPが労う。

「おう。今日は午前もレッスンがあったのに大変だと思うが頑張ってくれ。あと――」

振り返った瞳を見て、一瞬置いた。

「……ベーシストとギタリスト、ツクヨミの中では絡む機会が一番多いだろうけど、相手はジョニーズだから。くれぐれもスキャンダルには気をつけろよ」

「わかってる。だからこそエスコートの申し出を辞退したわけだし、向こうだって充分認識してると思うよ」

眼を閉じ、口許に笑みを浮かべてから、艶やかな靴音を遺していった。



214 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/28(火) 23:40:14.70 ID:4h7q9LhCo

・・・・・・

乃木坂の袂―たもと―には、鉛白の如く明るい輝きを放つ鳥居が鎮座していて、それをくぐると右手に乃木神社境内への石畳が続き、左手にはこぢんまりとした公園がある。

坂や陸橋に囲まれ3次元方向へ広がる周辺地理の影響で、2階建てのような構造となっているこの乃木公園。

中心には見事な桜の大木が植わっていて、蓋の役割を果たすことで、特に下層側の広場は全方向から包まれた印象を受ける。

夜にもなれば、ここが外苑東通り沿いだとは思えない静かさ。天然のゆりかごと形容するに不足ないこの場所を、凛は気に入っていた。



215 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/28(火) 23:40:57.27 ID:4h7q9LhCo
ツクヨミのメインレッスン場が乃木坂へと移されたのはあれからすぐのことだ。

直行直帰もCGプロへのアクセスも楽になったし、ビル地下にあるツニーミュージックスタジオと連携がとりやすくなると云う副効果もあった。

日付を越えてもなお人でごった返す渋谷と違って、陽が沈めばここ一帯は落ち着くので、遅くまで乃木坂スタジオに用事がある日など、凛はよく乃木公園で息抜きをするようになった。

気温はまだまだ高止まりなものの、秋の陽はつるべ落としとよく云う通りに、7時前には没する。

「今度、散歩に連れてきたいな」

実家の愛犬に思い馳せ、ベンチから薄暮の空を見上げて呟いた。



216 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/28(火) 23:41:38.23 ID:4h7q9LhCo
ここしばらく多忙を極め、休日はおろか正月さえもなく、生花店を営む実家へは顔を出せていない。

人間の年齢に換算すればそろそろ還暦の頃合だから、アイドル稼業の慌ただしさにかまけて後悔することのないようにしたいものだ。

目を瞑れば、この誰にも邪魔されないオアシスで戯れる様子がはっきりと浮かぶ。

その辺の草花をくんくんと嗅いだり、上層側との連絡階段をぴょんぴょんと跳ねたり。

「あー……ハナコと遊びたい……」

ホームシックならぬドッグシックに陥り、長い嘆息の混じった願望を吐き出す。



217 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/28(火) 23:43:22.21 ID:4h7q9LhCo
「――誰それ?」

つと、自らの独言へ反応する言葉が投げ掛けられた。

凛は不意のことに無防備で、驚きのあまり瞠目し木製の椅子の上で身体が跳ねた。

挙動不審者よろしく辺りを見渡すと、公園入口から3メートルほどのところに栗栖がいて、驚かせちゃったみたいで御免、と右手を軽く挙げている。



218 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/28(火) 23:44:06.08 ID:4h7q9LhCo
「……はしたないところを見せちゃった」

凛は俯いて、いそいそと居住まいを正す。

顔の内側から湧き出る熱がはっきりと実感でき、自ら火傷をしてしまいそうな錯覚を持った。

「よく私がここにいるって判ったね」

「や、実は渋谷さんを追ってきたって云う訳ではなくてね。ここは俺のお気に入りなんだ。居心地がいいからたまに来る」

栗栖は音もなく寄り、「隣、いいかい?」と訊く。

凛の首肯を得てから、羽根が舞い落ちるかのようにふわりと腰掛けた。洗練された所作だった。



219 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/28(火) 23:45:29.97 ID:4h7q9LhCo
「まるで忍者みたい」

意地の悪い登場をしたことへの当て付けに、凛は自らの隙を棚に上げてツンと顔を背けた。

「剣道やってたからね、ドタバタ歩かないのさ」

栗栖がくつくつ肩を揺らすので、「初耳だね」と云いながら肘で小突く。

「だからって、びっくりさせてくれなくてもいいのに」

「ごめんごめん。ガキの頃から音を出さないのが身に染み付いているんだよ。親父は弓道でお袋は茶道だし、静かに動くのが普通だった」



220 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/28(火) 23:46:43.49 ID:4h7q9LhCo
アイドルをやっている割に――と云うと明らかな偏見になるが、意外と栗栖はいいとこの出らしい。

凛は、彼に抱いていた微かな違和感の出処が判った気がした。同年代なのに、妙に落ち着いた物腰だと感じていたのだ。

それこそ、昨年「三十路に突入してしまった」と鬱になっていたPと口調も雰囲気も似ていて、随分と話しやすい。その理由のひとつがこれなのだろう。

良くも悪くも放任な凛の両親と違って厳格そうな家なのに、よく芸能界なんて魔窟入りすることを赦してくれたものだと思う。

「――で、ハナコがどうしたって?」

栗栖の屈託なく笑う表情を見て牙を抜かれた凛はそれ以上抗議できず、口惜しさを紛らわすように話題を無理矢理戻して問うた。



221 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/28(火) 23:47:22.07 ID:4h7q9LhCo
「あ、そうそう、それ。花子って誰? 妹さんとか?」

栗栖は気づいたように手を打って、やや見当違いな質問を寄越した。

しかし決して莫迦にした物云いではなく、クールなトップアイドルが「遊びたい」と洩らした相手のことが純粋に気になっている様子だ。

凛は、世間から――業界内でさえ――一種の孤高さを以て見られる傾向があったし、それを売りにするのも悪くはないと思っている。

なので、自らの人となりについて訊かれる機会はそう多くない。

栗栖のピュアな好奇心は、新鮮に感じられた。



222 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/28(火) 23:49:02.78 ID:4h7q9LhCo
「ううん、妹じゃなくって、犬だよ。実家で飼ってるの」

さすがに花子は人名としては古風すぎるでしょ、と笑うと、栗栖も「違いない」と苦笑する。

「ミニチュアダックスフントとヨークシャーテリアのミックスでさ、花屋だからハナコってね」

「……え、マジで。その組み合わせもう絶対可愛いのが決まりきってるじゃないか」

「うん、世界で一番可愛いよ。お利口さんだしね」

栗栖が目を輝かせて食いついたので凛はやや意外に思った。どちらかと云えばレトリバーなどの大型犬の方が好きそうな印象があったからだ。

自らの腕の中で尻尾を振るさまを思い出し、目を軽く閉じて微笑む。



223 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/28(火) 23:49:59.55 ID:4h7q9LhCo
それにしても――と一息置いて、

「そんなにアグレッシブな反応があるとは思わなかった。犬、好きなの?」

「そうだなあ。小さいころから飼いたかったんだけど許可が出なくてね。犬のいる生活にだいぶ憧れがある」

肩を竦めて、今は多忙で命を預かれる状態ではないし、と短い息を吐く。

ちらりと、家の事情が垣間見えた。猶のことアイドルになった経緯が気に掛かるが、無論センシティブな詮索は憚られるのでやめた。



224 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/28(火) 23:51:35.30 ID:4h7q9LhCo
いづれにせよ、犬好きに悪い人間はいない。

「今度機会があれば散歩連れてってみる? ハナコ、誰にでもすぐ懐くからさ」

「うわー最高。マジでいいの? 田嶋さんに頼んでスケ絶対調整するわ」

場所柄あまり大きな声は出せない代わり、喜びの大きさを表わすように、胸の前で両腕に力を入れて、すっくと立ち上がる。

「こりゃ俺も何か気合入れたお礼しないと釣り合わないな……」

栗栖がこめかみを掻きながら真剣な思案顔をするので、凛は「別にそんなのいいよ」と笑った。

「もし気が済まないんだったら、お母さんに色紙の1枚くらい書いてくれれば嬉しいかな。
昔からジョニーズ好きだし、ここ最近はSATURNにお熱だからさ」

年甲斐もなく――と形容するのは不適切だ。今やジョニーズのメイン購買層はマダム世代が担っている。



225 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/28(火) 23:53:01.50 ID:4h7q9LhCo
「お廉―やす―い御用だ、何だったら色々なパターンで書くよ。チェキも撮ろうか?」

「いや……流石にそこまではしなくてもいいかな……」

栗栖の豪勢な提案には凛も苦笑を禁じ得ない。

腕時計を一瞥すると、束の間の息抜きもそろそろ魔法の切れる時間だった。

荷物を持って、栗栖の所作に引けを取らぬよう品良く立ち上がる。

「そろそろ行かなきゃ。私も最近実家に帰れてなかったし、この機会にちょっと時間作るよ」

淡青の伊達眼鏡と白いキャスケット帽を深く被り直してから、また連絡すると云って公園を後にした。



226 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/28(火) 23:53:47.15 ID:4h7q9LhCo
頭の中に入っているカレンダーをめくりつつPとも連絡を取り合って、半休の算段を練る。

ハナコに会いたい旨を伝えた瞬間に「よっしゃ任せとけ!」と勢いよく電話が切れた。

結局ちひろの助力もあって、調整が終わるまでに四半刻も要さなかった。

これで久しぶりにハナコの散歩へ行ける、そう思うと顔が綻ぶのを抑えられない。

「ふふっ、楽しみだな」

その夜、母親にチェキの件をインスタントメッセンジャーで訊いてみたところ、「撮りたい!」と怒濤の返信がきた。



228 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/30(木) 23:45:23.94 ID:ZxKlcvjDo

・・・・・・

視界の端で、青みがかった灰色のC-130J―スーパーハーキュリーズ―が腹に響くプロペラの音を四方へ撒きつつ上昇してゆく。

さながら荷物を背負った行商人みたく、ゆっくりとした足取りでやがて空へ溶け込んだ。

鈍重な輸送機とは対照的に、目の前ではハナコが歩道をちょこちょこと軽快な歩きで動き回るのだが、その国道沿いに並んでいるのは、異色の雰囲気を醸し出す商店ばかりだった。

色使いも建築様式も、果ては書かれている文字まで日本のものではない。

迷彩服やバックパックのほか大きな極彩色カトラリーが売られている横には星条旗がはためく。



229 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/30(木) 23:47:09.22 ID:ZxKlcvjDo
他方では古いハリウッド映画を思い起こさせるネオン燈が存在感を主張したアイスクリームショップ、終戦後の息遣いを今に伝える日本初のアメリカンピザハウス。

そのどれもがドルでの支払いに対応し、道端には『REDUCE SPEED AHEAD―減速せよ―』と英語だけの標識が多数見える。

――極東指折りの米軍基地が置かれているこの街は、日本にいながらにして国外の空気を味わえる不思議なエリアである。

「ハナコ、そっちじゃないよ、こっち」

散歩に夢中でも決してはしゃぎ過ぎることはなく、凛が行き先を指し示すとしっかりその方向へ復帰できるほどハナコにとっては慣れた道だ。

でも、いつもと明確に違う点がひとつ。リードを持っているのが凛ではなかった。

「うお……ちっこい割に意外とパワフルだな」

しっかり保持してないと持ってかれる、と笑いながら翻弄されるのは誰あろう栗栖だ。



230 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/30(木) 23:47:55.10 ID:ZxKlcvjDo
乃木公園でハナコが話題に上ってから10日ほど経った。

この日の昼前から夕方までが凛の予定をやりくりして空けられるタイミングで、栗栖も無理矢理半休をねじ込んだそうだ。

凛は栗栖のスケジュールに混乱を生じさせてはいないかと心配したが、曰く、レッスンの日取りを変えるだけで済んだから仕事に影響はないとのことで胸を撫で下ろした。

「お母さんのはしゃぎっぷりったらなかったね」

ハナコを目で追いながら、凛は小一時間ほど前の母親の様子を思い出して息を吐いた。



231 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/30(木) 23:48:44.71 ID:ZxKlcvjDo
普段、娘のアイドル活動に対しては特段の反応を寄越さないのに、栗栖が顔を出すや否や、店を臨時休業にする勢いで舞い上がっていたのだ。

女としては気持ちが判らなくもないものの、同じアイドルとしては悔しさがある。

「一応こっちだってトップアイドルで、久しぶりの帰省なんだけどな」と云う小さな抗議にも「はいはいそうね、流石私の娘よね~~」とほぼ耳を貸さない。

これには狂喜乱舞の対象たる栗栖自身も苦笑いを禁じ得なかった。

「まあ、あれだけ喜んでくれたなら冥利に尽きるってもんさ」

ハナコに並び歩きつつ、先刻と同じ苦笑を伴って栗栖は云った。

「自分の母親ながら参ったよ」

頭を軽く押さえて呻く。



232 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/30(木) 23:49:20.05 ID:ZxKlcvjDo
あろうことかチェキを額へ入れ家宝にすると云うので、飾るなら誰の目にも触れない場所へ、と釘を刺しておいた。

だが、それはきっと杞憂だろう。

凛は、大切なものは箪笥の奥へしっかり仕舞っておく性質だ。

4年前、アイドルの頂上―シンデレラガール―を掴み取った際にPから貰ったガラスの靴は、厳重に保管してある。

棚などに設えれば映えるのだろうが、「いいんだ」と静かに笑って首を横に振るのだ。

遺伝子の引継ぎ元である母親だってそのパターンで行動するに違いない。



233 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/30(木) 23:50:12.69 ID:ZxKlcvjDo
「へえ。俺は何でも飾り立てちゃうから逆だな」

だから自室はモノが溢れ返ってるんだけど、と栗栖は肩を揺らした。

「私みたいに仕舞い込むんじゃなくて、大切なものが常に目に入るようにしとくのもいいとは思うよ。結構悩ましいんだよね」

「そうだなあ。ずっと飾ってたお気に入りのポスターが、飾っていたからこそ日に焼けちゃったりしてて。
曝さずに保管しておけばよかったと思うこともあるし、かといって箱から出さないと手に入れた意味がないし」

ギターならビンテージとか使い込むほどに熟成されていくんだけど――そう云って笑い、「ほら、あれみたいに」と路に面したガラスウィンドウを指差す。

そこは中古の楽器屋だった。

エレキギターの意匠に『ファイブシスターズ』と書かれた看板が掛かっていて、その隣の窓からはたくさんのギターやベースが所狭しと並んでいるのが見える。

そして、栗栖の視線が店から動かない。



234 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/30(木) 23:50:48.57 ID:ZxKlcvjDo
「……気になる?」

しばらく様子を見ていた凛が笑いながら訊いた。

凝視は無意識だったのだろう、栗栖はハッと気付いて抜け出ていた魂を手繰り寄せた。

「正直、すんげぇ気になる」

「ふふっ、根っからのギタリストだね。いいよ、時間あるし寄っていこう」

そう云って凛はハナコを抱き上げ、ガラス戸を押して「おばちゃーん、こんにちは、お久しぶりです」と入ってゆく。



235 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/30(木) 23:51:46.57 ID:ZxKlcvjDo
中ではやや老齢な女性の店主がゆったりと腰かけていた。

「あら凛ちゃん、ご無沙汰ね。元気してますか」

「お陰様で大分忙しく駆け回ってます。ちょっと今日は時間を作れたから知り合いを連れてきたんだ。ギタリストなの」

凛が後ろからついてきた人間を指で示すので、栗栖は「ど、どうも」と頭を下げた。

「――なに、顔馴染みなの?」

声のトーンを落として質問を寄越すので、凛は当然だと云うかのように頷いた。

「そりゃね、この辺は私の庭だし。ベースを弾くようになってからもう7年お世話になってるよ」

「なるほど、それもそうか」

腑に落ちたように手を叩いてから、雑多に陳列された一面のギターを見て「うわぁ……」と少年の顔をして息を吐く。



236 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/30(木) 23:52:59.79 ID:ZxKlcvjDo
きょろきょろと見回すうちに、凛の肩越しに気になるものがあったようで「おっ」と独り言つ声が漏れる。

おばちゃんが聞き逃さなかった。

「あなた、これ気になりますか。よくわかりましたね、一本目にこれを見定めるなんて」

柔和に笑って、「どれでも好きに弾いていいですよ」と云うので、近くにいた凛が代わりに取った。

「あ、Eシリアルだこれ」

「マジかよ!?」

ネックの製造番号を見て呟くと、即座に栗栖が叫んだ。



237 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/30(木) 23:54:02.80 ID:ZxKlcvjDo
「そう、フェンダージャパン、86年のフジゲン製です」

音の鳴りや本体の品質が高く、またコストパフォーマンスが優れていることから、中古市場で常に人気の高いシリーズだ。

試奏すると艶やかで伸びのある気持ちの良い音がした。それでいて破格に安い。

「あちらにはマツモクのもありますよ。そのEシリアルよりは少し高価ですけど、出音もいいです。
とはいえこの年代の日本製は本当によく出来ているので、どちらを選んでも幸せになれるわね」

フジゲンもマツモクも共に松本近郊のギター製造メーカーだ。正確に云えば、マツモクは今はもうない。



238 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/30(木) 23:55:10.82 ID:ZxKlcvjDo
栗栖が2本目にマツモク製を試し弾きしながら頷く。「やべえわ、イイ音鳴るし何より弾きやすい」と感嘆の息を吐く。

「そうでしょう。その時代のものはネックが特に素晴らしくて。中でもマツモクのは最高級と云われていたものよ。いい木が使われています」

栗栖から「鳴らしてみる?」と渡されたので、凛は専門外ながらも絃を弾いてみた。

調律方法はギターもベースも同じだから、全く音を出せないわけではない。

「うわ。なんかすごく馴染む気がする。新しい楽器を持った時の違和感が全然ない」

凛は驚いた。自らのコンコードを演奏した時とほぼ変わらないフィーリングで指を運ぶことが可能だったのだ。



239 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/30(木) 23:55:49.94 ID:ZxKlcvjDo
「それはきっと凛ちゃんの使っているアトランシアと源流が同じだからでしょうね。
あそこはマツモクの職人が独立して作った工房ですから。あのベースは本当にいいものですよ」

歴戦の猛者でさえも絶賛する楽器を、当時の何もわからない小娘だった自分に譲ったPの行動が、改めて型破りであることを凛は感じた。

これで凛がコンコードを活用する生活になっていなかったらどうしたのだろうか。

それともそんな可能性を微塵も考えず、ベーシストとして大成すると確信していたのだろうか。

「あなたは幸せ者ね、限界まで末永く使い倒しなさいな」とおばちゃんが優しい目をして商売っ気なく笑った。



240 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/30(木) 23:56:49.53 ID:ZxKlcvjDo

「――勢いって怖いなぁ」

30分ほどのち、凛と栗栖は近くの公園のブランコにそれぞれ座っていた。

住宅街の裏道にひっそり佇む、典型的な地元の遊び場。

すぐ隣には線路が走っているが、間に木々が茂っているので列車の通過はあまり気にならない。

栗栖の右肩には、例のマツモクのギターが背負われ、「やあ」と語り掛けてくるかのようだった。

結局、試奏結果に惚れ込んだ栗栖が、その場で購入を決断し現金一括で自らのものとしたのだ。



241 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/30(木) 23:57:44.68 ID:ZxKlcvjDo
「いいんじゃない? 清水の舞台から飛び降りるのって大事だと思うよ」

「だよな。これ、次のレコーディングから早速使おう」

とんでもない掘り出し物をゲットできた、と栗栖は顔を綻ばせた。まるで少年のようだった。

「ギターってさ、演奏家にとっての相棒じゃん? 共に歩む存在と云うかさ。
奏者である俺が上手く弾けなければいい音は出ないし、ギター自身の調子が悪くてもそう。
人馬一体にならなければ最高の結果をファンに届けられない」

値段の多寡ではなく、造りの真贋とそれによる相性の最大化こそが、特に動き回りながら演奏するアイドルバンドには欠かせないと云う。

「コイツをさっき弾いた刻、電気が走った。ギターを始めてから初めての感覚だったよ」

俺もまだまだだな、と栗栖は天を仰いだ。



242 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/30(木) 23:58:26.53 ID:ZxKlcvjDo
凛には理解がやや難しかった。既に現在のコンコードが身体の一部みたいになっており、そう云う経験がないからだ。

返す返すも恵まれていたと凛は思った。

デビューシングルのジャケットデザインが楽器をフィーチャーするものでなかったなら、Pからベースを貰わなかったなら、そのベースが身体に合わなかったなら、今の自分はここにいない。

「ギターを始めたきっかけって何かあるの? こないだ、剣道をやってた、って云ってたでしょ。運動部の人ってあまりバンド活動する時間がなさそうなイメージがあるけど」

凛が問うと、栗栖はしばらく何も答えず、足のつま先だけでブランコを前後させた。錆びた鉄鎖が、動き始めに毎度キィキィと鳴る。



243 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/30(木) 23:59:35.98 ID:ZxKlcvjDo
凛は先日の犬の話題の時のやり取りを思い出して、訊き方をしくじったと思った。

「御免、云いにくいならいいんだ」

「いや、どう説明したもんかと考えてただけさ」

謝罪の言葉に栗栖はすぐ反応して、フォローの言葉を入れる。

もうしばらくその状態が続いて、やおら大きく漕ぎ始めた。ブランコ全体が軋んだ。

「きっかけだけで云えば、最初は単なる反抗に過ぎなかったんだと思う。稽古サボってね」



244 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 00:01:20.88 ID:/6nApN/no
何でもかんでも反権力が格好良いと錯覚する餓鬼な年頃さ――天を仰ぎながら、重力に任せ揺られ続けて云った。

「でも、いざ触ってみるとこれが面白いんだよな。それまで見てきた世界とは何もかもが違ったんだ」

和武道、和芸道が身近だったからこそ、西洋楽器のもたらす衝撃が大きかった。

「親父やお袋から口煩く云われていたのが厭になって、閉塞的な将来像しか描けない武道芸道じゃなくて、ギターに未来を視たわけだ。
ギターに出会うまでは、俺はただの空っぽの人形だったのさ」

「空っぽの人形……」

凛は、まるで自分のことのようだと思った。



245 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 00:02:57.49 ID:/6nApN/no
好きなこともやりたいこともない、空虚だった中学時代。

高校に入って何かが変わるかと期待したのに、結局いつまでも似たような延長線上に時間が流れ続ける人生。

粋がってピアスを空けたところで、圧倒的なパワーで時間は何事もなく押し流してゆく。凛はあまりにも無力だった。

栗栖が言いなりの人形、凛が無味乾燥な人形と云う僅かな差異があるにせよ、どちらも心が空っぽなのは同じだ。

そんな諦めを抱いていた折、凛はスカウトされて、アイドルと云う熱い世界を知ってしまった。

栗栖はギターのおかげで仲間ができ、アイドルバンドとして民衆に夢を与える存在になれた。



246 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 00:03:40.22 ID:/6nApN/no
漕いでいたブランコを足でザッと止めて、栗栖が凛へ顔を向ける。その双眸は輝いていた。

「ギターが、俺に新しいフロンティアを見せてくれたんだ」

トップアイドルと云う頂点で邂逅した二人は、ともにシンデレラだった。

「……私たち、境遇は違っても、根っこは同じだね」

凛は、膝の上に座るハナコを撫でながら、自らのスカウトの経緯を掻い摘んだ。

世の中を諦め、空っぽの人形だった15歳の凛が、アイドルの世界を知って、駆け上がってここにいることを。



247 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 00:04:42.46 ID:/6nApN/no
栗栖は、凛は選ばれしアイドルだと思っていたらしく驚きを以て迎えた。

「そんなに苦労人だったのか……てっきりトップアイドルになるべくしてなったんだとばかり」

「とんでもない。そう云うのは蘭子とかのことを指すんだよ。私は、ただの灰被りが魔法使いに助けてもらってきただけ」

凛は妙に可笑しくなって、肩を揺らした。

凛の微かな笑い声に混じって、傍の生活道路から、下校途中であろう小学校低学年のはしゃぎ声が流れてきた。

間もなく時間切れ、公園を本来の主の手に戻す時が来たようだ。

栗栖が一息吐いてから、すっと腰を上げた。

ブランコから発せられた金属の擦れる音が、このジプシーとの別れを寂しがっているように聞こえた。

「名残惜しいけど、そろそろ行こうか。また渋谷さんの苦労話を聞かせて欲しいな」



248 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 00:05:14.99 ID:/6nApN/no
「――凛」

「え?」

「周りの目を考えなくていい刻は、凛って呼んで。苗字にさん付けで呼ばれるの、落ち着かないから」

ハナコを膝から地面に降ろして、リードを手に立ち上がり、澄ました笑みで云った。

栗栖が2度頷くのを見てから、「さ、ハナコ、行こう」と促して帰路に就く。

あと1時間もすれば、元の慌ただしいスケジュールに戻る。

この魔法が解けなければいいのに、と凛は郷愁を覚えた。



249 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 00:06:41.98 ID:/6nApN/no

・・・・・・

夜の乃木公園でのおしゃべりは、乃木坂スタジオでの合同レッスンの開催有無に関わらずされるようになった。

CGプロから2キロ弱、テレビ旭やブーブーエスからなら1キロほどしか距離がなく、収録後など何かの用事のついでにすぐ立ち寄れるのだ。

無論、栗栖もトップアイドルとして多忙だから、双方のタイミングが合うことは中々ないのだが、だからこそ逆に、タイミングが合えば積極的に集い合った。

とは云え長居もおいそれとできないし、話すことと云ったら世間話くらいなもので、やれギターが早速馴染んできただの、美味しいお店を発掘しただの、それこそ高校生の下校時の語らいのような内容だった。



250 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 00:07:42.09 ID:/6nApN/no
それでも凛にとってはとても新鮮な感覚だった。

思春期に差し掛かって以降、お喋りの相手は事務所の同性ばかり。

このように歳の近い異性との談笑は、夜でありながらカシオペアの『ASAYAKE』がBGMに合致するような初めての経験だった。

強いて挙げればPは比較的歳の近い異性でこそあれ、感覚的には戦友だから甘酸っぱくはない。

凛は、アイドルの渋谷凛としてではなく、初めて、ただの女として異性に接したと云えよう。

凛には、一般的な青春の記憶が存在しない。

彼女自身、アイドルをしてきたことに誇りを持っているし、一般人を羨むと云うわけではないが、喪われた青春を追体験しているのだと思った。



251 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 00:08:54.76 ID:/6nApN/no

「そうだ、これ、凛に」

ハナコとの散歩から2週間ほどが経った夜、栗栖がギターのソフトケースのポケットから小さな茶色の紙袋を寄越した。

「こないだハナコの散歩を体験させてくれたお礼」

「え、そんないいのに。お礼されるほどじゃないよ」

「いいから。それだけの経験をさせて貰ったんだ。受け取ってくれ。じゃないと俺の気が済まなくてさ」

家の環境から犬を飼うことへの憧れを叶えられなかった栗栖にとって、ハナコとのひと時は値千金だったのだと、恐縮する凛の手を取り袋を握らせた。

「……ありがと。開けても?」

「もちろん」と栗栖は両手で促す。



252 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 00:10:08.36 ID:/6nApN/no
乾いた紙の音を引き連れて、月長石―ムーンストーン―をあしらったアクセサリが掌へ姿を現した。

ゴールドの細いチェーンが巻かれていて、長さ的にブレスレットのようだった。

人差し指にぶら下げると、石の内部から青白色の仄かな光沢が放出されているような印象を受けた。

「うわ、綺麗。これは……ムーンストーンかな」

凛は左手首に早速据えて掲げる。大きさはぴったりだった。

「ご名答。ツクヨミと掛けてみたんだ」

「ふふっ、洒落っ気あるね、栗栖は」

表や裏からぐるりと360度眺めて、美しさに嘆息する。

普段自分では買わないようなデザインのアクセサリだったので、表現の幅が拡がったのも嬉しい効果だった。

凛はそのまま、しばらくじっと石の柔らかな光を眺め続ける。



253 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 00:11:22.73 ID:/6nApN/no
会話なく、どれほどの時間が経っただろうか。「ねえ」と石から目を離さずに栗栖へ問い掛ける。

そしてゆっくり振り向いて、静かに息を吸った。

「――これを選んだの、ツクヨミと掛けたことだけが理由なの?」

「……それを面と向かって訊くかなあ」

栗栖の、頬を掻きながらの返答は、凛の持つ思考が肯定されたことを意味していた。



254 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 00:12:14.72 ID:/6nApN/no
月長石の石言葉、その代弁内容は『恋の予感』或いは『純粋な恋』。

別名を恋の石と呼称されるこの宝石を贈ると云う行為の真意はそこに在る。

凛は、胸の奥が暖かいような擽―くすぐ―ったいような甘さを覚えた。

ああ、たった一人に求めて貰うことってこんなに気持ちいいんだ。

この快美な感覚は、生まれて初めて知る味だった。



255 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 00:13:00.60 ID:/6nApN/no
いっそ誘―いざな―いに身を任せて揺蕩―たゆた―いたい衝動に駆られたが、すんでの所で押し止め、安堵の一息を吐いた。

「……だけど、栗栖も私もアイドルだからね、どうしようか」

恋愛など御法度である。云うまでもない。

それでも、この胸の高鳴りは無理矢理圧し潰して閉じ込めておくのは到底難しいのも事実だった。

「もちろん、答えは今すぐ出す必要はないと思う。俺は、今夜のところはこの意思表示ができただけで充分さ」

晴れ晴れとした栗栖の言葉に、凛は何も云わずに微笑んで、ゆっくりと頷いた。


===




256 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 00:13:31.08 ID:/6nApN/no




Hey You
https://www.youtube.com/watch?v=2MOvuBFF4_Q







257 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 00:14:00.81 ID:/6nApN/no
――懐かしのスキャットマン特集、続いては95年12月リリースのナンバー、『Hey You』これは特に国外に於いて人気の高い曲で、スキャットマン・ジョンが過去の彼自身に向けて歌ったものとされ……

珍しく第一課の執務フロアにFMラジオが流れている。

パソコン内ジュークボックスに気分と合うアルバムが見当たらない時の、Pの代替手段だった。

凛はスピーカーが歌う楽曲に合わせて即興でベースを沿わせた。

楽譜を見るだけでは血肉にできないアドリブ力を鍛えるのに効果的なトレーニング法だ。

自らの音楽プレーヤーに入っている曲では、脳味噌が憶えてしまっているので効果がさほど期待できない。

どんなトラックがオンエアされるかわからないFM番組は、この練習手法にうってつけだった。



258 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 00:15:37.84 ID:/6nApN/no
「やるじゃん。巧いもんだね」

つかさがニヤリと口角を上げて凛の演奏を見つめた。隣ではジュニがダンサブルなビートに合わせて身体が小さく揺れている。

Pチームのアイドルが第一課スペースに寄り集まっていた。
とは云え全員に招集が掛けられたわけではなく、たまたまレッスン前の谷間の時間が重なったのである。

意外にもテクノやダンスミュージックはスラップベースと相性が良い。

左手と右手が各々有機的に舞い、その複合が紡ぎ出す太い音のリズムが、つかさとジュニの――そして何より凛自身の聴覚神経を興奮させていた。



259 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 00:17:17.07 ID:/6nApN/no
――メイク・アバウト・フェイス メイク・ア・ターナラウンド メイク・ア・ユータンナウ
――パララ ピッパッパロッピッパッパッパロッ ピッパッパロッピッパッパッパロッ……

サビを越えて、特徴的なスキャットがオーバーラップする。意味のない言葉の羅列なのに、すっと耳に入ってくるのはまるで魔法のようだった。

「つかさの云う通りだな、凛は随分と上達したもんだ――」

曲の前半が一段落したタイミングで、Pが自らの机から移動して、よっこいせと凛の向かいに腰を下ろす。

「プロのベーシストからも一目置かれる存在にまでなったもんな、そのコンコードも喜んでるよ」

凛は手許の指板を見ながら弾いていた視線をPに向けて、「プロデューサー、作業に詰まってサボり?」と笑った。

「小休憩だよ小休憩。稟議書地獄は精神が疲れて仕方ない」

凛の即興リサイタルで回復をするのだとPはソファに手足を放り投げた。



260 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 00:22:06.13 ID:/6nApN/no
今『Hey You』は最も盛り上がる長い間奏の特別スキャットシーンに差し掛かっている。

凛はノリを上げて、ハイポジションで速弾きを繰り出した。

わざとキメ顔もするものだから、つかさが手を叩いて笑う。

「おーおーこりゃブラーバっしょ」

イタリア語の発音で称賛を投げ掛けると、ふと高速で左へ右へと反復する左手首に、青白色の石をあしらった見慣れないブレスレットが巻かれていることに気付いた。

「お、いいね。それ、ムーンストーンか」



261 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 00:22:46.75 ID:/6nApN/no
「うん、綺麗で可愛いでしょ? お守りを兼ねてね」

「普段の凛からはちょっと違ったイメージの意匠だな。新開拓、グッドだね。一流は常にフロンティアスピリッツを持たねーとな」

つかさが腕を組んで「うんうん」と頷く。そのまま腕時計を見て、ゆっくり席を立った。

「よし、そろそろアタシらは行くわ。ダンスレッスンだし、早めに準備しとかないとな。行こう、ジュニ」

「わかった。凛、またね」

今日の課題は何だったっけ? ジャイブだよ、足技多いから楽しみ。うわーマジか、あれ絶対ヒールで靴擦れ起こすんだよな……。

ドアの向こうへ二人の会話が消えてゆく。



262 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 00:23:45.41 ID:/6nApN/no
『Hey You』も間もなく曲が終わろうとしていた。

フェードアウトしてゆくアウトロは、スマトラ産のコーヒーの余韻を思わせる、ほろ苦さと清涼な喉越しだった。
それはまるで砂漠に降る小雨のようでもあった。

――Make about face, make a turn around, make a U-Turn now.

――ピッパッパロッピッパッパッパロッ ピッパッパロッピッパッパッパロッ……
――ヒア・イティズ…… ヒア・イッティズ…… ヘイ ヘイユー……



263 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 00:24:26.14 ID:/6nApN/no
この後の凛はボイストレーニングだ。

凛はベースをケースに仕舞って、ちらりと目に入るブレスレットを撫でた。

「じゃ、私も行ってくる」

そう声を掛けると、Pは相変わらず手足を脱力させながら「おう、行っといで」とコクリと顎を引いた。

短いリサイタル休憩では回復しきれなかったのか、僅かに寂寥たる表情で「俺も稟議書やっつけるかぁ」と独り言つ。

この日のレッスンでは、最も歳が近いトレーナーの青木慶からも、新しいブレスレットを褒められた。



264 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 00:27:05.25 ID:/6nApN/no

Pは手帖に挟んだ写真を眺めていた。

100平方センチあまりのカンバスの中で、人が二人、微笑んでいる。

手に持つそれは丁寧に扱われており、経年の割には綺麗な状態を維持してはいるものの、全体がくたびれたり縁に皺が生じてしまうのは避けられない。

それでもなお、額に飾るのではなく、いつでも胸ポケットに入れておきたかった。

見るからに着慣れていないと判るスーツ姿の自分の横に立っているのは、長身痩躯で、碧い眼と腰上まで伸びる黒い髪、感情は読みにくいが整った面立ちを持つ、今より僅かに幼さを感じる少女。

初めて出会い、初めて担当し、初めてデビューさせ、初めてCDを出した、Pにとっても会社にとっても初めてづくしのアイドルだった。



265 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 00:27:54.23 ID:/6nApN/no
その少女が、これまたCGプロのアイドルとして初めて、心の底に眠っていた“オンナ”を認識し始めている。

あのブレスレットは凛が自分で買ったものではないと、Pは察していた。

凛はああ見えてだいぶ趣味が保守的だから、自分から進んで買うタイプのアクセサリには見えなかった。

何より、手首へちらちらと視線を送る所作や、撫でた際の無意識下の表情が、満更でもない相手からの贈り物であることを雄弁に物語っている。

さて、どうしたものか。

無論、アイドルとして色恋沙汰は回避して欲しいものだが――

しかし人として当然持ち得るその感情を没収してよいのだろうか。



266 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 00:28:46.13 ID:/6nApN/no
ただでさえ一生に一度しかない10代の多感な年頃をアイドル活動で埋め尽くし、人並みの青春を謳歌する機会を奪い取ったと云うのに。

彼女は、芸能界の仕事は好きだと云っていたし、その生き様に誇りを持っているとも云っていた。

それでも、だからといって世の中を充分に知らぬ年端の少女の人生を代償とし、アイドルの輝きへと引き換えた負い目は消えないのだ。

プロデューサーと云う人間に刻まれた業。死んだらきっと地獄へ墜ちるのだろうと思う。

凛の希望は叶えてやりたい。

それこそが、渋谷凛担当プロデューサーとしてのけじめのつけ方だとPは考えていた。



270 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 22:08:39.07 ID:/6nApN/no

・・・・・・

例年になく多い台風は、災害の中心地に選ばれると云う不運に見舞われさえしなければ、空をモップ掛けして去ってゆく掃除機なのだろう。

台風一過の東京は雲一つない快晴で、嵐の運んできた南風で気温は高いものの、湿度は低く過ごしやすい。

東日本に襲来した24号は各地の気象記録を塗り替えて、俊足で駆け抜けていった。

東京への到達は深夜で生活時間帯からは外れたが、昨夜は早いうちから公共交通の計画運休が実施され、泊りがけのロケが中止に追い込まれてしまった。

ゆえに丸一日たっぷりと棚から牡丹餅の休日である。

それでいて天気が良いのだから、ご機嫌麗しきこと甚だしいのは当然。

電車のドアが開けば、金属に遮られていた視界の拡がりと共に世界が輝いて見えるのだ。



271 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 22:10:35.84 ID:/6nApN/no


「――え? 日帰りでツーリング?」

『そう、今日明日の収録がバラシになっちゃってさ、もし凛の時間があるならどうかなと思って。この分なら今夜中に天気回復しそうだし』

栗栖の声は、電波状態がやや悪いのか、少しくぐもって聞こえた。会話の向こう側から、風に揺らされた電線の鳴く音がしばしば聞こえてくる。

曰く、栗栖の方は東海方面での地方ロケがあったそうで、移動日程などを考慮すると根幹のリスケとなったらしい。

テレビをちらり見遣ると今まさに台風は愛知と岐阜にかけて我が物顔で闊歩している最中のようで、名古屋発の中継では大規模停電の情報などが洪水の如く流れてくる。



272 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 22:11:16.74 ID:/6nApN/no
リスケは賢明の――と云うよりは当然の判断だ。

幸いか、夜が明けるまでには東北太平洋側へ抜け去る予測で、中継から天気予報へと画面が切り替わると、明日の天気は晴れマークがずらりと並んでいる。

「ちょうど私も泊りのロケがなくなったんだ。明日は久しぶりに何も予定の入らない日だよ」

凛の返答に『俺とほとんど同じ状況だな』と栗栖の声音が弾んだ。

「でも私、バイクなんて乗ったことないよ、もちろん免許だって。さっぱりわからないことだらけなんだけど……」



273 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 22:11:56.04 ID:/6nApN/no
『そこは心配ないさ、タンデムだから凛は自転車と同じ感覚で大丈夫。丈夫な生地のロングパンツと、ヒールじゃなくてスニーカー系の靴を履いておいてくれればそれだけでいい』

何より、と軽く咳払いをする。

『ライダーの格好をしていれば二人で出歩いてもよもやアイドルと思われないし、走ってる最中なんて凝視されることもない。お忍びには最適なのさ』

「あぁ、なるほど。そうだね、ヘルメットも被るしね」

凛は自らがバイクに乗っているところを空想して頷いた。

二人で遊園地だとか温泉地などでは万一気付かれたときに到底言い訳できないだろう? と栗栖が茶化して云うので、凛は「たしかに」と相槌の苦笑をした。

どうやら、二人そろってのオフにできそうだ。

「うん、うん……わかった、じゃあ10時に――」



274 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 22:13:22.32 ID:/6nApN/no


昨夜の会話を反芻すると、何故だか顔が綻んでしまう。

誤魔化しがてら、やや高くなった空を見上げて、集合場所に指定した駅舎前へ出る。

しんと停まっていた都営バスが、セルモーターの始動するソプラノに続いて重いエンジン音を歌いだした。

横目に歩く凛の背中にわずかな衝撃があり、何事かと振り向こうとすれば「失礼」と会釈を寄越しつつ閉まりかけた折り戸へサラリーマンが駆け込み、箱の中に消えていった。



275 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 22:14:10.08 ID:/6nApN/no
エンジンの中で大きなビー玉でも転げ回っているのかと思えるほどゴロゴロ唸らせて走り去るそれを見遣り、ぶつかった相手がまさかアイドルだなんて想像だにしていないんだろうな、と柱に軽く寄り掛かる。

芸能人をやっていると認識が薄くなるきらいがあるが、世間の人は、自分が思っているほど他人など気に掛けていないのだ。

たとえそれが有名人であろうとも、変装をしていればただの有象無象と同じ。

その事実に、若干悔しい負けん気の思いもありつつ、どこか少しほっと安堵する気持ちもあって、凛は少しずれた白いハンチング帽の位置を手慰みにいじった。



276 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 22:14:58.95 ID:/6nApN/no
ふと、駅前ロータリーに赤く鮮やかな二輪車が滑り込んでくるのが見えた。

サーキットで見かけるような、先端から中心部にかけて外殻で覆った造りの、シャープなシルエット。

凛の方を向いて片手を挙げるので、間違いなく待ち合わせの相手だ。

小走りで近寄ると、サイドスタンドを出して停め、ゆっくりと降りてくる。

体重から解放された車体が揺れ、VFRと書かれた銀色のエンブレムが太陽を反射して綺麗に光った。



277 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 22:15:57.20 ID:/6nApN/no
栗栖がフルフェイスヘルメットの目元のシールドを上へ開ける。

「おはよう。ごめん、待ったか?」

「ううん、私も今ちょうど来たところだから」

使い古された定型句のやり取り。爆発すればいい。

凛は栗栖の足先から頭までまじまじと眺めた。

ライディングブーツやグローブ、ジャケット、そして何よりヘルメットという全身装備のせいで、栗栖だとは一見して判別できない。



278 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 22:17:15.65 ID:/6nApN/no
「なんか、バイク乗る人ってみんな似た特殊な恰好だよね」

「車と違って生身を外に曝すわけだからね。
丈夫な長袖長ズボンは基本だし、身を守る装備をきちんと着ける真面目なライダーはどうしても見た目が似通ってくるもんさ」

「私……昨夜云われたパンツと靴以外は全然その辺を考えない服で来てるんだけど」

「それは問題ない。凛用の装備は俺が持ってきた。糠に漬けても抜かりないのが知多栗栖ってことよ」

ベキリの相棒の名口癖だよな――と云いながらバッグをごそごそ漁り、「はいこれ」とジャケットやグローブ、ヘルメットなどを寄越してくる。

肘当てに膝当て、髪の毛を纏めるヘアゴムまで用意がある。



279 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 22:18:03.81 ID:/6nApN/no
伊達眼鏡や帽子を外し、代わりに頭部をすっぽり覆うヘルメットをかぶれば、中にはインカムがあって無線でスムーズに会話できる状態になっていた。

「準備良すぎなんだけど……これ、絶対に色々な女をバイクの後ろに乗せ慣れてるでしょ」

「云い掛かりだ! 凛を乗せたいなと思って準備したに決まってるだろう」

栗栖の必死の弁解に凛はジト目で応える。どう説明したものかあたふたするのをしばらく見て、「ふふっ、冗談だよ」と肩を揺らした。

説明の真偽のほどは果たして本人のみぞ知るところだが、仮にたとえ方便であったとしても、自らのために準備したと伝えられれば嬉しくなるのが女心と云うものだ。

ああ、この人は自分の時間を私のために使ってくれたんだ、と。



280 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 22:19:01.05 ID:/6nApN/no
バイクのバックミラーを覗き込むと、そこにはすっかりライダー装備となった凛が映り込む。

栗栖と並べば、中身はまるで誰だかわからない、ただのペアツアラーだった。

「ホントこれ、お忍びには持ってこいだね。私が渋谷凛だなんて誰も思わないよ」

腕を組んで満足そうに頷く。

「ところで、今日はどこへ行くの? なんかとても速そうなバイクだけど」

赤い車体を撫でながら凛が問うた。



281 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 22:19:57.40 ID:/6nApN/no
「今日は山も海も堪能できるところへ行こうかと思ってる。
コイツは見た目レーシーだけど実は二人で乗りやすいツアラーなんだ。サーキットだけじゃなくて色々なところへ行ける」

白バイにもよく使われてるから街中で見かける機会も多いと思う、と栗栖は付け加えた。

「ふぅん、山も海もなんて贅沢な欲張りコースだね。詳しい内容は聞かないでおくよ、楽しみにしてる」

任せとけ、と云って栗栖がVFRに跨った。

続いて凛が片側のタンデムステップに足を掛け、栗栖にレクチャーを受けつつするりと後席へ滑り乗る。

後ろに座る心得のいろはを教わってから、「よし、じゃあ行こうか」と云う栗栖に頷く。

頭の重心が高くなっているせいで、凛のヘルメットが勢い余って栗栖の背中を殴りつけた。

エンジンイグニッションの咆哮と二人の大きな笑いが混じり合い、それらを取り残すようなスムーズさでロータリーをするする抜け出てゆく。



282 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 22:21:26.17 ID:/6nApN/no
そこには新しい世界が拡がっていた。

眼、耳、鼻、肌――凛の感覚器すべてにダイレクトな信号が送られてくる。

路の真ん中を一人で自在に飛んでいるような視点は、まるで自分が世界の支配者になったかの如き自由さを覚え――

身体を擦るほどの圧力を持つ風には、普段意識しない空気の威力と、排気ガスと云う人類の匂いを実感する。

車速に応じて変化するエンジンの音と振動は、じきに風切り音へとオーバーラップしてゆく。

太古より馬に乗って移動してきた我々人類の遺伝子に刻まれた歓喜の脳内麻薬が、ドバドバと凛の全身を沸騰させている。



283 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 22:22:01.37 ID:/6nApN/no
しばらく交通量の多い街道を走ると、VFRは「第三京浜」と書かれたインターチェンジへの進入路へ機体を振った。

一気に幅員の拡大した道路と、それまでの比ではない速さで瞬く間に後方へ過ぎ去ってゆく景色は、これまでの人生で全く未知の経験だった。

緑色の標識に書かれた地名が、順々に馴染みのないものへと変化してゆく。

これまで自動車から何度となく見ているはずのそれらが、箱の中から外に出ただけでこれほどまでに別物へと変わるのか。

「栗栖……すごいね、これ」

凛はため息を吐きながら、惚れ惚れとした声音で呟いた。



284 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 22:23:39.56 ID:/6nApN/no
「バイクは単なる移動手段なだけじゃなくて、乗ることそのものが楽しみだし、目的なんだよな」

インカムのややノイジーな無線越しの会話も車では味わえない。

凛を包むすべての環境が楽しみを演出していた。

やがてインターチェンジを降りると山中を抜ける坂の多い道となる。

田舎の懐かしい空気を感じる風景を軽快に流す頃には、凛はすっかり後席での体重移動を身に着けていた。

「やっぱアイドルやってるとバランス感覚が磨かれてるんだな」

栗栖が妙に感心して云う。

二人とも身体が資本ゆえ、万一のことを考えると無茶な走り方はできないが、それでも軽快なスロットルワークは操る者も同乗する者も楽しさを最大限に示す。



285 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 22:29:11.16 ID:/6nApN/no
じきに目先の道路が上りから下り勾配へ切り替わるクレストに差し掛かった。

進むに従い、路面のアスファルトの向こうから、波面が顔を出す。

「あ、海!」

凛が風切り音に負けない強さで叫んだ。

つい先ほどまでトンネルとか斜面とか、緑に包まれた山の中を走っている光景だったのに、目の前に遙かなる大洋が見えるのだ。

「山も海も、って云ってたのはこれだったんだね」

「ご名答。ここからは海沿いを流すよ」

後席の反応に栗栖は満足気だ。スロットルを吹かして、改めてエンジンが艶めかしく啼く。



286 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 22:30:21.86 ID:/6nApN/no
「Hey Siri, LMFAOのパーティロックアンセムをかけて」

凛は微かな潮の香りを鼻腔に感じながら、寄せては返す波を横目に見ながら、スマートフォンの音声コントロールを起動させた。

操縦する栗栖の代わりに、高揚するツーリングに相応しいBGMを見繕う臨時DJだ。

「おいおいおい俺をスピード違反させる気だな?」

パーティロックアンセムはEDMの代表的ナンバーと云える、鋭いビートの効いた縦ノリで楽しく昂れるトラックだ。

凛の選曲に栗栖が突っ込むので、「捕まっちゃダメだからね」と笑って云った。

ドリルの如く刺激的な電子音の激流が二人を包み込む。



287 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 22:30:56.87 ID:/6nApN/no




Party Rock Anthem
https://www.youtube.com/watch?v=KQ6zr6kCPj8







288 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 22:34:35.84 ID:/6nApN/no

――今夜パーティやっちゃうぜ Party rock is in the house tonight
――みんなでトベるぜ Everybody just have a good time
――お前らをキメさせてやるからよ And we gon' make you lose your mind
――みんなでイケるぜ Everybody just have a good time
――待ってるからよ、さあいくぜ! We just wanna see ya... Shake that!




289 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 22:35:09.78 ID:/6nApN/no
リズムに沿ってバイクが左右にスラロームする。

「ちょっと、振りすぎでしょ、落ちたらどうするの」

そう抗議しつつ、凛の声もはしゃいでいた。

「そうだな、じゃあノるのは横じゃなくて縦にしよう」と首を縦にシェイクする。

一定周期でバイクのフロントフォークが伸び縮みして、凛も追従すると変化量が増大した。

もし機械が話せるなら、凛の代わりにサスペンションから不服申立の声が挙がるだろう。

もちろん性能の良さには折り紙つきだから、乗っている本人たちにしてみれば揺れまくっていることはあまりわからないはずだ。



290 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 22:37:20.56 ID:/6nApN/no
VFRは、急峻な地形が海に没していく僅かな隙間を縫って敷設された道を進む。

三浦半島は海底が隆起して出来上がった陸地ゆえ、平坦な場所はあまりない。

海岸を走っていても、少し内陸へ入れば山中の様相を呈する。目まぐるしく景色が変わるツーリングルートだ。

しばらく続いた浜辺の景色はいつの間にか鳴りを潜め、斜面が険しさを増すのと比例して市街の空気からのどかな田舎へと変わりつつある。

そうこうしているうちに、エレクトロファンクとハウスを融合させた、重厚なリズムを纏った曲に切り替わった。



291 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 22:38:06.03 ID:/6nApN/no




Lay Me Down
https://www.youtube.com/watch?v=ISiGtxsN5d0







292 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 22:39:14.45 ID:/6nApN/no
「お次のナンバーは早世してしまったご存知アヴィーチーのレイ・ミー・ダウン。
これは彼が躍進するきっかけとなったウェイク・ミー・アップと対になるフレーズでありながら、両曲ともに苦悩を描き歌ったものとして――」

凛がラジオで鍛えたMCテクでDJを気取る。

どこか懐かしくも新しく、どこか硬質でありながら柔らかさも兼ね備え、どこか物悲しくもテンションを上げずにはいられない、EDMの真骨頂が海沿いの景色と実にマッチする。

――暗闇に寝そべって Lay me down in darkness 君の見ているものを教えてくれよ Tell me what you see
――愛は心の拠り所なんだ Love is where the heart is
――あなたしか要らないって囁いてくれ Show me I'm the one, tell me I'm the one that you need

耳を撫でる曲を聴きながら大きな橋を渡れば、渡り鳥が羽休めをする場所はもうすぐだ。



293 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 22:44:45.01 ID:/6nApN/no

===

目の前を、打ち寄せる波が白く解けて飛散し、鼻先を撫でる。

三浦半島の最先端、海が地層を浸食して出来上がった巨大な横穴の前に二人はいた。

近傍の駐車場から15分ほど歩く道のりは、潮風の影響で高く伸びられない植生の木々をくぐったり、或いは急に視界が開けて大海原が辺り一面を占めたりと、退屈しないハイキングだった。

穴の側には「馬の背洞門」と書かれた立て札が掲げられている。台風直後の平日だからか、周囲に他の人影はない。

「不思議だね、削ると云うより……くり抜くように開いてる」

内壁をぐるりと見回して凛が云った。「まったくだ」と栗栖も頷く。



294 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 22:45:38.28 ID:/6nApN/no
「大正の頃までは、ここを船で通れたらしいな。関東大震災で地面が持ち上がったんだってさ」

これ絶対に当時は大人気のクルーズコースだったよなあ、と今では実現できないことへの若干の羨望を込めて笑う。

「栗栖はよくこんな場所知ってたね」

地方ロケなどでそれなりに全国行脚してきた凛は、それでも尚まだまだ知らない場所がたくさんあるのだと改めて実感する。

「まあツーリングスポットとしてバイク乗りの間では結構メジャーだからね、俺も受け売りばかりだよ」

自らの手柄とせず、素直に認める姿勢に凛は好感を持った。



295 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 22:46:22.90 ID:/6nApN/no
「私は、そう云ったメジャースポットすらよく知らない状態だからね。これからも色々と教えてくれる? 連れてってくれれば尚良しだね」

「もちろんさ。これからも二人で色んなところに行きたいと思ってる」

凛はリアクションをせず、高く砕ける遠くの波を静かに見遣った。

栗栖も同じ方向を眺め、しばしゆったりと無言の時間が過ぎる。

強弱と緩急をつける潮騒、海鳥の鳴き声、南風が梢を揺らす音。

そう云えば最近意識することが少なかったかもしれない。世界はこんなにも音に満ち溢れていたことを。



296 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 22:47:43.28 ID:/6nApN/no
「――もし凛がOKなら、の話だけど」

無言の時間を終わらせてしまうのが少し勿体ないと思うような声音で、栗栖が遠慮がちに口を開く。

「波が長い時間をかけてこの自然を作り出したように、俺も凛の心を少しずつでも開けようとしていいかな」

「ふふっ、その許可を乞う必要はないんじゃない?」

2回肩を揺らしてから、凛は風に揺れる髪を右手で掻き上げて栗栖の方を向いた。

「栗栖はもう、私にたくさんの新しい世界を教えてくれてる。私も、もっと知りたいと思うようになってしまってる」



297 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 22:48:17.28 ID:/6nApN/no
視線を交わらせながら、慎重に一語一語を選んで続ける。

「正直ね、私はこの感情の正体を薄々解ってはいるんだ。
でも認めちゃダメだって、一度認めたらきっと歯止めが利かなくなるって、そう思って敢えて有耶無耶にしてる」

思春期に芸能界へ飛び込んでから、P以外に初めて身近な、そして馬の合う異性が現れた。

恋愛らしい恋愛をしてこなかった彼女にとって、この心地よい暖かさは、あたかもヘロインの如き誘惑に等しいはずだ。

トップアイドルとしてのプロ意識が辛うじて制止しているだけだから、一度そのタガを外してしまったら、決壊するのは自明。

「どうしよう、栗栖。私、どうしたらいい?」

「凛……」



298 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 22:48:56.89 ID:/6nApN/no
感情の処し方がわからず困惑した表情を浮かべる凛の頬に、栗栖は手を添えた。

顔と顔がゆっくり距離を縮める。

たっぷり10秒ほど時間をかけて、もう、いいかな……と云う脳の白旗に抗えず、凛は瞼を閉じた。

互いの息遣いがはっきりわかるほどに近づく。

凛は、背徳のあまり地球の重力がぐちゃぐちゃになったような、空きっ腹にブランデーを流し込んだような酩酊感を覚え、受け容れる準備を整えた。



299 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 22:50:41.75 ID:/6nApN/no
その瞬間、栗栖の胸ポケットから大きな着信音が響く。

鼓膜を突き刺すそれに、たまらず二人とも目を見開いて仰け反った。

お互いを見てから、こほん、と栗栖が咳払いをして電話を取り、「はいはいはい、なんか用すか、田嶋さんじゃなかったら電波切るとこでしたよ」と律儀に苦情を申し立てた。

凛は自らの胸に手を当てて、大きく一息を吐く。

「危なかった……」

鼓動の早さのせいですぐ酸素が足りなくなるので、深い呼吸が続く。

田嶋の発話ボタンを押すのがあと2秒遅かったら、きっと口づけを交わしていた。

キスなんてしてはならないと判っているのに、内心どこかでそれを望んでいる――一体どうしたのだ、私の心は。

着信音さまさまだ、とほっと安堵して胸を撫で下ろす。



300 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 22:51:55.67 ID:/6nApN/no
ところどころ漏れ聞こえてくる会話から、急遽仕事の呼び出しが掛かったようだ。

自分の心の状態も鑑みれば、今日のところはお開きにするのがよいだろう。

全身から力が抜けてしまった上に、冷や汗を強い潮風が拭うので堪らず「くしゅん!」とくしゃみをした。

会話している栗栖の様子を窺うと、だいぶ急いで戻る必要がありそうな印象を受ける。すぐ動けるように、凛は先行して身支度を整えた。

「……ごめん、田嶋さんからの連絡で、急にアポが入っちまったみたいだ。心惜しいけど、今日はもう帰ろうか」

「うん、様子を見てるとそんな感じがしてた。
もしなんだったら、私は三崎口の駅から電車で帰るよ。その方が栗栖も早く戻れるでしょ。私のことは気にしなくていいから」

凛の提案に栗栖は「すまない、恩に着る」と手を合わせ、また埋め合わせをする約束をして、二人は海に別れを告げた。



301 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 22:52:50.65 ID:/6nApN/no

・・・・・・

三崎口を出た快特列車が、モーターとインバーターの唸りを伴って爆走している。路地裏の超特急と云う異名に違わぬ飛ばし方だ。

先ほど駅で化粧直しをしてからホームに停まっている車輛へ乗り込んでみたら、路線の末端地帯にも拘わらずほぼ席が埋まっている混雑度だった。

ここから都内まで比較的長く乗ることを考えて、銀座や日本橋辺りに用事がありそうな、淑やかな老婦人の隣へと静かに腰を下ろしてある。

横を窺うと、その人は走行の振動に誘われ、眠りの国へと旅立っていた。



302 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 22:53:55.88 ID:/6nApN/no
ちらりと外を眺めても、車窓は住宅街の中をぐねぐねと抜ける一般的な都市近郊のもので、バイクからの景色とはまるで違う。

しかも快特と云う割には末端地帯は各駅に停車するので、その度に多くの乗客が乗り込んでくる。

凛はそれまでの夢心地から一気に現実世界へと引き戻されたように思えた。

寝てしまおうかとも思ったが、電車が思い切りスピードを出し急加減速をするせいでとてつもない爆音と揺れに見舞われ続けていて、到底眠れる状態ではない。

隣のご婦人は物凄い胆力をしているものだと凛は舌を巻いた。



303 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 22:54:47.23 ID:/6nApN/no
ものの15分もすれば立ち客がだいぶ溢れ、すぐそばにはサラリーマンやママ友であろう人たちが立ってスマホをいじったりおしゃべりに興じたりしている。

気づかれないようにと帽子を目深に被り、隣人と同様に身体を小さくして目を瞑った。

視界の情報がシャットアウトされ、途端に先ほど触れられた頬の感触が甦る。

バイクで走っている間はずっと風が当たっていたはずなのに、栗栖の手は熱かった。男の人はみな体温が高いのだろうか。

手足の先の冷えと日々格闘している自分には羨ましい限りだと、心の中で嘆息する。



304 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 22:55:41.00 ID:/6nApN/no
あの暖かさが頬から流し込まれた時、身体が動かなくなった。

離されないよう包帯でぐるぐる巻きにしていたいほど心地よくて、何も考えられなくなった。

今にしてみれば、あの温もりは悪魔的だったとさえ思える。

電話での中断がなければ、もう戻ってこられないところまで拉致されていたに違いない。

けれど……悪魔でもいい。蕩けさせてほしい。あの電話が怨めしい。

いやいや、自分はアイドルで、向こうもアイドルだ。色恋沙汰なんて赦される身ではない。もう一人の凛が脳内で諫める。

そんなことは判っているのだ。だからこそ未遂で終わってほっとしたのだ。

見くびらないで、と凛は頭の中で自分に吐き捨てた。



305 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 22:56:12.83 ID:/6nApN/no
ただ――もし次回同じことが起きれば、アイドルの矜持だけで我慢できるかどうかは……正直に云って自信がない。

「ううん、違う……」

自信がないどころの話ではない。まず以て抗えないだろう。

甘い毒が全身に染み渡っていくのを、快感と共に享受することしか、きっと。

どうすればよいのだろう。

乃木公園で同様の自問をした際とは明らかに悩みの度合いが深くなっている。

いつしか電車は地下鉄に直通し、目を瞑らなくても周りは黒の世界と化していた。



306 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 22:58:08.22 ID:/6nApN/no

大門駅で乗り換えて、麻布十番に戻ってきたのは15時を過ぎた頃だった。

三浦半島にいた時よりも明らかに汚れて重い空気を掻き分け、凛は喘ぐようにCGプロのエントランスを抜ける。

「あれっ? 凛。どうしたん、今日はオフじゃねえの」

やや遠くで聞き慣れた声がしたので振り返ると、つかさが凛を認めて寄ってきた。

「アタシは旭から帰ってきたところでさ」と笑うが、どうにも様子の芳しくない相棒の様子に気づく。

「……ひとまず第一課戻るか!」

ニヤリとした笑みを維持しつつ凛の肩を寄せて歩き出す。

しかし手の力は表情とはちぐはぐにとても柔らかかった。



307 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 22:59:22.57 ID:/6nApN/no
「――で? 何か悩みか?」

エレベーターの扉が閉まるまで待ってから、操作盤の方を向いたままつかさが問うた。

笑みを剥がしたシリアスな顔が、鏡面のように磨かれたパネルへと映る。

「うん、まぁ……そこまで大層なものじゃないけどね」

「嘘が下手。もうちょっと捻れよ、見るからに重大インシデントの顔してる」

「えー……本当に?」

「マジもマジ、大マジよ」

凛はそれ以上答えられず、エレベーターを降りると廊下には二人の足音だけが響く。

ユニットの相棒には伝えた方がよいのか、ユニットの相棒だからこそ不確実な相談事はしない方が好ましいのか。



308 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 23:00:40.76 ID:/6nApN/no
延々と答えを出せずに進んでいると、先を歩くつかさが「これからアイツとミーティングの予定だったけど」と前置きをして、第一課のドアの前で振り向いた。

「この時間、譲るよ。アイツにはドキュメントをSlackで送るようにだけ言伝を頼むわ」

「え?」

「相談、しに来たんだろ?」

Pのデスクの方向を指差してウインクを投げてくる。

「もし気分転換になるなら、アタシはこれからダンスの自主トレすっから、終わったら来ていいよ?」

「うん、ありがと。そうだね、もしかしたら後で顔を出すかも」

互いに軽く手を挙げて別れる。凛は、意を決してドアを開けた。



309 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 23:01:51.83 ID:/6nApN/no
タイミングよく人が出払っている静けさの中で、OAフロアの上を歩く微かな足音が、凛自身の耳には奇妙なほど大きく聞こえる気がした。

「あれっ? 凛。どうした、今日は久しぶりの完全オフだったのに」

Pが凛に気づいて、つかさと同じように疑問を寄越してきた。

担当プロデューサーとアイドル同士、長く一緒にいると似てくるのかもしれない。

「うん。ちょっと相談したいことがあって」

「天下の凛がそんなこと云ってくるなんて珍しいな」

相好を崩すPにつかさから託された伝言をこなしつつ、周りを見て、改めて誰もいないことを確認する。

何気ない行動でも、人払いが必要な内容であることをPは察知した。

おそらく、CGプロ始まって以来の、極めて難しい舵取りが必要になる未来を凛は予告するのだろう、と。



310 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 23:02:37.35 ID:/6nApN/no
凛は隣のデスクから事務椅子をごろごろと転がしてPの前に据え、「どんな風に云えばいいのか難しいんだけどさ」と腰を下ろした。

一旦眼を瞑って、息を吐く。

「ちょっと自分の手に余ることがあって」

瞼を上げると、Pの視線が強くしっかりと凛の虹彩を射抜いていた。

静かに次の言葉を待っている。変に二の句を促したり、或いは不要な相槌を打ったりしないところが、凛は好きだった。



311 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 23:04:14.84 ID:/6nApN/no
「……知多栗栖さんのこと」

ようやく一言を絞り出して、再度逡巡する。

「本気で……好きになり始めちゃってる。自惚れでなければ――多分、向こうも」

一句ずつ、ゆっくりと、打ち明けた。

双方無言の刻が過ぎてゆくがPの視線は変わらない。

きっと怒られるのだろう。

そう思って凛は眼を少し伏せた。



312 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 23:05:20.43 ID:/6nApN/no
「……知ってるよ」

何か云わなければ、と凛が紡ごうとしたところで、先に口を開いたのはPだった。

「え?」

「知ってるよ」

まさかの返答だった。驚きに目を見開いて視線を上げると、寂しそうな笑顔でもう一度「知ってる」と静かに云う。

色々と事情を聴取するでもないただの一言。

凛は、Pが全てを知っていたのだと、最初から最後までお見通しだったのだと悟った。



313 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 23:06:16.78 ID:/6nApN/no
――プロデューサーは全部知っていて、その上で私を放っておいたんだ。

ただ箱庭の中で生かされているだけだった。

以前、私が目の前のこの異性に淡い思いを抱いた時分には、アイドルが大事だ、全国民の彼女でいろって激怒しながら阻止したくせに。

なるほど、つまり当事者でさえなければ、プロデューサーから見た私はその程度の存在なのか。



314 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 23:06:53.42 ID:/6nApN/no
凛は、自らの心にピシッと小さく、しかし鋭い音で割れ目が入った音を自覚した。

無性に哀しくなって、そして腹が立ってきた。

「……やっぱり何でもない。御免、忘れて」

凛は目を閉じてやおら強く云い放ち、会話を打ち切って席を立った。



315 : ◆SHIBURINzgLf 2020/07/31(金) 23:07:40.44 ID:/6nApN/no
会社を出て、身を炙る憤りに任せながらスマートフォンの画面を叩くように文字を打ち込む。

――終わったら連絡して。

相手は、自らを必要としてくれる彼。

いつもと様子の違うメッセージに、栗栖は何かを感じ取ったのだろう。休憩の合間にすぐ折り返しを掛けてきた。

『もしもし、凛? どうした?』

やや心配そうに訊ねてくる声に、凛はすっと息を大きく吸う。

「栗栖。全部、私の全部をあげる。だから私を満たして」









元スレ
SS速報VIP:渋谷凛「愛は夢の中に」