1: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 05:42:36.73 ID:QbZMQD9WO


紬「お世話になりました」

 今更ながら、あの看護婦はやっぱり唯ちゃんを特別な目で見ていたなあ、

 なんてことを思いながら、私は深々と頭を下げた。

  「これからが大変だと思いますが、ご家族とご友人の皆さんでどうか支えてあげてくださいね」

 私たちに向けて言いながら、目は明らかに唯ちゃんを見ている。

 感じる百合の波動は、しかし痛々しい切なさがあった。

紬「唯ちゃん」

 私はこそっと耳元で促した。

唯「うん」

 頷いた唯ちゃんは、一人の看護婦さんを見つめて微笑んだ。

唯「ありがとう! ……えーっと、鈴木さん!」

  「……い、いえ、どういたしまして!」

 ……佐々木さんは、嬉しそうに顔を赤くした。




2: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 05:45:11.85 ID:QbZMQD9WO


澪「そろそろ、行こっか」

 見ていられなかったのか、澪ちゃんが言った。

律「うん……先生もありがとうございました」

紬「行こう、唯ちゃん」

 私は車椅子のグリップを押して、くるりとターンさせた。

唯「ねぇねぇ、りっちゃん」

律「ん?」

 病院の外に出ようとすると、唯ちゃんが急にりっちゃんを呼んだ。

唯「あれ、違ったか。じゃあ、あずにゃん?」

律「……梓は今日来てない」

唯「ごめん……ええっと」

澪「急な話か?」

 澪ちゃんが車椅子の唯ちゃんに顔をよせる。

 ちょっとうらやましい。



3: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 05:48:05.01 ID:QbZMQD9WO


唯「……やっぱり、なんでもない」

澪「それなら、あとで話そう。ムギの家の車が迎えにきてくれてるから、まずは唯の家に帰ろう」

唯「……? うん」

 ゆっくり頷いた唯ちゃんをみて、満足げに澪ちゃんは立ち上がった。

 でも気付いてないんだろうな、今の唯ちゃんはきっと、「ムギ」が誰なのか、わかっていない。

――――

唯「澪ちゃんだよね」

澪「そう、秋山澪だ。ベース担当のな」

唯「ベースって、楽器なんだよね」

澪「……ああ」

唯「で、こっちがつむぎちゃん」

紬「うん、合ってるよ唯ちゃん」



4: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 05:51:05.12 ID:QbZMQD9WO


律「私はわかるか?」

唯「りっちゃんだよね」

律「そうそう、田井中律」

 車中、唯ちゃんはみんなの顔と名前を指差しして一致させ直した。

 忘れないのは憂ちゃんと和ちゃん、それに両親くらいのもので、

 私たちの顔や名前はこうして、たまーに忘れてしまうのが現状だった。

 お医者さまの話では、唯ちゃんの記憶が戻り始めるのと一緒に、この記憶障害も治るはずだという。

 それでも記憶なんてトンカチで叩けば取り戻せるものでもなく、

 唯ちゃんは18年の記憶を失っただけじゃなく、これからの記憶力も微かなまま、退院をすることになった。

唯「これからお家に帰るんだよね?」

律「ああ。それでみんなで、退院のお祝いだな」

唯「憂もくる? 和ちゃんは?」

澪「もちろん。唯の知ってる人、全員来るぞ。あ、看護婦さんとかは忙しくて来れないけどさ」



5: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 05:54:04.86 ID:QbZMQD9WO


 私は澪ちゃんの隣で笑って、あまりしゃべれずにいながら、また唯ちゃんに忘れられることだけが怖かった。

 唯ちゃんが笑っていても、その記憶の中に私がいないのは、あまりに寂しい。

唯「つむぎちゃん」

紬「! なあに、唯ちゃん?」

 まるで心を読んだみたいに、唯ちゃんのほうから話しかけてきた。

唯「変なこと聞くけど……紬ちゃんの家って、すごくお金持ち?」

 りっちゃんが「あー」と口を開けて頷く。

 そういえば話し損ねていた、と思う。

 いきなり大きな車に乗せられて、唯ちゃんも戸惑っていたかもしれないと反省する。

律「私から説明するよ」

律「まぁ、ムギは見てわかる通りのお嬢様だ。父親の会社が手広くて、楽器店なんかもそのうちにあるんだが」

律「そこんとこのコネ使って、唯の使ってたギターも値引いてもらったりしたんだ」

唯「へえ……紬ちゃんちってすごいんだね」



6: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 05:57:07.04 ID:QbZMQD9WO


紬「……そうね」

 記憶はないけど、この子は確かに唯ちゃんだと思う。

 私じゃなくて、私の家を褒める。

 誰よりも本当のことを見抜いている視線は、私がひそかに憧れていたものだ。

澪「あ、そろそろ唯の家だな」

律「なんとなーく、懐かしい気になったりしない?」

唯「うーん……全然」

律「でしゅよね」

唯「でも、いままでみんなに見せてもらった写真でしか、家とか学校とか……昔の自分のこと知らなかったから」

唯「やっと自分の目で見られるっていうのは、うれしいよ」

 唯ちゃんが笑うと、見覚えのある白い家が、フロントガラスのむこうに見えた。



7: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 05:59:07.64 ID:QbZMQD9WO


唯「ねぇ澪ちゃん」

 車が止まると、唯ちゃんは澪ちゃんの肩を叩いた。

澪「ん、どうしたんだ?」

唯「家までちょっと、一人で歩いてみてもいいかな?」

 澪ちゃんはえーっとと唸ってりっちゃんと顔を見合わせた。

 唯ちゃんが車椅子に乗っているのは、実はそこまで大した理由ではない。

 足に大きなケガがあるわけでもなく、ふつうに立って歩くこともできる。

 ただ走ったり、長時間歩いたりすると体に負担がかかってしまうために、車椅子にのっているのだ。

律「そのくらいならいいんじゃないか?」

澪「そうだよな」

 りっちゃんから澪ちゃんを通って唯ちゃんまで、頷きが伝わっていった。

律「でも一応、私が横につくから」

 大袈裟だよ、と唯ちゃんは笑う。

 みんなはその笑顔を鏡のように無機質に返すばかりだった。



8: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 06:05:05.04 ID:QbZMQD9WO


唯「よっと……」

澪「大丈夫か?」

唯「だいじょぶ、だいじょぶ」

 前から澪ちゃんに引かれ、後ろから私に支えられて、唯ちゃんが車を降りた。

 その間にりっちゃんが車椅子を降ろしておいてくれた。

唯「ふう」

澪「一人で立てる?」

唯「それはだいじょうぶだけどー」

 唯ちゃんはいじましい目で振り返って、車の中の私を見おろした。

唯「紬ちゃんにお尻さわられた」

澪「えっ」

律「えっ」



9: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 06:10:06.14 ID:QbZMQD9WO


 だって可愛かったんだもん。

澪「私が唯みてるから、律はその痴女を捕まえといて」

律「しょうがないな」

唯「紬ちゃん、もう悪いことしちゃだめだからね」

 りっちゃんに捕まったまま、私は唯ちゃんが家の玄関まで歩いていくのを見届ける。

 鍵は唯ちゃんがちゃんと持っている。

律「なあムギ、唯のどうだった?」

紬「すごくあったかかった」

律「いいな……私も触らせてもらおう」

紬「だめよ、唯ちゃん怯えてたわ」

律「第一人者が何を言うっ」

紬「あいたーっ」



10: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 06:15:06.13 ID:QbZMQD9WO


 お庭で久々の漫才を繰り広げてから、唯ちゃんに招かれてお家に上がらせてもらった。

唯「ここが私のお家……?」

澪「ああ。ゆっくりくつろいでいいからな」

唯「……」

 唯ちゃんは不安そうにきょろきょろして、おずおずとこたつの横に座った。

唯「……ちょっと落ち着かないような、気がする」

 何度か息をすって吐いて、唯ちゃんは申し訳なさそうに言った。

律「……床に転がってみたら?」

唯「えっ、床?」

 ちょっと流れ込んだ澱みを押しのけるようにりっちゃんが提案した。

 なるほど、唯ちゃんのお家での過ごし方はそれくらいリラックスしてるんだっけ。



13: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 06:20:05.52 ID:QbZMQD9WO


紬「そう、唯ちゃんゴロゴロしてみて!」

唯「うーん……」

 遠慮がちに唯ちゃんは床に伸びていった。

唯「……あ、いいかも」

 まだまだ伸びる。

唯「う、これ良い……うはぁ」

唯「くふ……すぅ」

 寝た。

澪「……とりあえず、体は自分の家を覚えてるみたいだな」

律「だな。まあ元々、憂ちゃんや和のことは1回教えたら忘れないくらいだし」

律「記憶を失ったっていっても、体に染み着いてることはたくさんあるみたいだ」

 ひとまず安心した顔でりっちゃんは寝転がっている唯ちゃんに近づくと、

 スカートをめくってお尻を鷲掴みにした。



15: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 06:25:13.66 ID:QbZMQD9WO


――――

澪「唯、後ろは私が守るからな」

唯「うん、ありがとう澪ちゃん」

 ほっぺたについた赤い手形を押さえるりっちゃんの後ろについて、

 私たちは唯ちゃんの部屋まで上がることにした。

 ちなみにりっちゃんを叩いたのは澪ちゃんで、唯ちゃんはあたふたしてた。

紬「階段つらくない、唯ちゃん?」

唯「大丈夫だよ。でもちょっと暑い……」

澪「あとでアイスでも買いにいこうか。あ、唯は休んでていいからな」

 3階右奥の部屋の扉を開けて、唯ちゃんはまたきょろきょろ見回した。

唯「……私の部屋」

律「うん、平沢唯の部屋だぞ」



16: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 06:30:05.55 ID:QbZMQD9WO


唯「……私は平沢唯なのかなあ?」

 唯ちゃんは本棚を触りながら言った。

澪「実感わかないかもしれないけど、それは私たちみんなが証明する」

澪「だからそこは、何も考えずに信じてくれないか」

唯「うん……ちょっと休むね。これ、私のベッドだよね」

 唯ちゃんはふらふらとベッドに近寄ると、ぎっと鳴らして腰かけた。

律「……あー、じゃあ私ら、コンビニまでアイス買ってくるよ。唯が好きなやつ、買ってくる」

唯「ありがとう……あ、でも一人じゃつまんないから、紬ちゃん残ってよ」

紬「私?」

 突然の指名で驚いたけど、唯ちゃんに選ばれたことが単純に嬉しい。

 ましてや私はさっきお尻さわったのに。

紬「わかった、一緒にお留守番しよう」



17: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 06:35:04.69 ID:QbZMQD9WO


 私は座布団に腰を落ち着けて、唯ちゃんを見上げた。

 事故の前と比べてほっそりして見えるのは、病院ぐらしで食べたいものが食べられなかったせいだろう。

紬「……唯ちゃん、帰ってきてみて、何か思い出したこととかある?」

唯「うーん……」

 唸りながら唯ちゃんはベッドの上に横たわる。

 すりすりと衣擦れをささやきながら伸びていく、黒タイツに包まれた両脚を目が無意識に追った。

唯「前から言われてたけど、確かにって思ったのは、私はごろごろするのがすごく好きだってこと」

紬「……あ、うん。他にはどう?」

唯「なんだろ。えっと……私って、お尻さわられる役回りとかだったの?」

紬「くすっ」

 唯ちゃんは、やっぱり天然。

唯「し、真剣な話! どう反応していいか、わかんなくて……」



19: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 06:40:04.62 ID:QbZMQD9WO


紬「もし唯ちゃんがお尻さわられるキャラだったとしたら、どうするの?」

唯「んー……我慢してさわられるしか」

紬「うんとね、それはあまり良くないと思うわ」

 枕元に寄って、眠たそうな唯ちゃんの頭を撫でた。

紬「唯ちゃんは唯ちゃんだから。平沢唯を演じようとしなくても、唯ちゃんは変わってないの」

紬「だから、感じたままに反応していいよ? そうされても、私たちが戸惑うことはないはずだもん」

唯「……そっか。私は私なんだもんね」

紬「たぶん、今、何も覚えてない唯ちゃんが、唯ちゃんらしく振る舞おうとしても失敗するだけだと思うから」

紬「安心して、いつも通りに過ごしてたらいいの」

唯「うん……」

 唯ちゃんは私を瞳に映したまま、まぶたをそっと閉じた。

紬「……」



20: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 06:45:04.81 ID:QbZMQD9WO


紬「……寝ちゃった、みたいね」

 私は唯ちゃんの部屋を見回した。

 唯ちゃんが大学に通い出し、寮住まいになったため、

 部屋は高校生のころ訪ねたときと、いくらかの違いがあった。

 それでも、退院にそなえて憂ちゃんが掃除したために埃はないし、

 唯ちゃんのギターもひとまず一時帰宅というわけで、壁際にたたずんでいる。

 だが本棚には寮に持っていききれなかった漫画が倒され、机にあったライトスタンドはそっくり消えている。

 少しばかり、寂しい印象だ。

唯「……っは、ぁん」

紬「! ……」

 どうしよう。

唯「ふう……ぅん」

 りっちゃん、澪ちゃん、はやく帰ってきて。

 唯ちゃんが誘惑してくる。



22: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 06:50:04.46 ID:QbZMQD9WO


紬「……」

唯「つむぎちゃん」

紬「あっ、起きてた?」

唯「顔近いよ?」

紬「暑そうだったから。えっと、苦しかったら部屋着に着替えたりしたらどうかな」

唯「そうだね」

 重たそうに体を起こして、唯ちゃんはベッドから立ちあがった。

紬「平気?」

唯「うん、えーと……ここかな?」

 唯ちゃんが取っ手を引っ張ると、壁の中に収納スペースが現れた。

 それからタンスの引き出しをひとつひとつ開けて、部屋着の入っているボックスを探す。

 躊躇のなさは、唯ちゃんだなあと感じさせる。



24: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 06:55:05.53 ID:QbZMQD9WO


唯「あ、これかな」

 4つめの引き出しから、桜色のTシャツが取り出される。

 丁寧に畳まれた服をぱさっと広げると、胸のところに「ハネムーン」と書いてあった。

唯「……ハネムーン?」

 唯ちゃんが何か感じたらしい。

紬「……懐かしいわね、それ」

唯「やっぱり、私の記憶に何か関係あることなの?」

紬「ちょっとした思い出ね。あれは私たちが高校2年の真冬のこと……」

唯「……」

紬「唯ちゃんは、妹の憂ちゃんと内緒の旅行に出掛けたの。誰にも知らせずにね」

紬「ちょうど憂ちゃんの誕生日、2月22日のことだったわ」



25: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 07:00:29.00 ID:QbZMQD9WO


紬「……学校にもこない、連絡もつかない」

紬「唯ちゃんと憂ちゃんが失踪したって、みんなで必死で探したの」

唯「私が……そんなことを」

紬「数日後に、唯ちゃん達は帰ってきたわ」

紬「そしてその旅行のわけを、私だけに教えてくれた」

紬「それが、ハネムーン。唯ちゃんは実の妹と、新婚旅行にいったの。16歳になったからってね」

唯「……」

紬「私はそのこと自体はとがめなかったわ。でも今度からはちゃんと教えてねって」

紬「私たちには知らせるってこと忘れないようにってことで、私からハネムーンTシャツを贈ったの」

唯「……紬ちゃん」

紬「なに?」

唯「ネタだよね?」

紬「もちろん、全部作り話よ」

唯「ぶつよ」

紬「お願いします」



28: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 07:05:10.94 ID:QbZMQD9WO


 唯ちゃんから両頬に平手打ちをもらって、

 じんじんする感覚にかすかな気持ちよささえ覚える。

紬「というわけで、その部屋着には特に思い出とか何もないの」

唯「うん……よく見たら他のにも色々書いてあるしね」

 ため息をついて、唯ちゃんはぺろりと服を捲り上げ、白いおなかを見せた。

 目をそらすのがあと一瞬遅かったら大変だった。

 なにが大変かって、それはもう言葉にできないようなもの。

唯「よいしょっ、ハーネムーン」

唯「別に見ても気にしないよ。紬ちゃん女の子でしょ?」

紬「……一応、気にするかと思って」

 記憶をなくす前の唯ちゃんはもうちょっと恥じらいがあったような気がするのだけど。



29: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 07:10:04.74 ID:QbZMQD9WO


唯「さてとっ」

 ベッドに座りこむと、唯ちゃんはぴんと足を伸ばした。

唯「でも、あれなんだね」

紬「え?」

唯「私って、恋人とかいなかったんだよね?」

紬「唯ちゃんからそういう話を聞いたことはないわね」

 唯ちゃんに限らず、恋人ができたという話はりっちゃんに疑惑があったきりで一度も持ち上がっていない。

 みんなと休日に会ったり、放課後遊んだりする頻度が変わることはなかったし、

 誰かと付き合っているのを隠せるほどみんな器用でも秘密主義でもないはず。

紬「恋人がいたほうがよかった?」

唯「ううん……目覚めて、何も分かんなくて、その上知らない誰かが恋人だなんてまずムリだよ」

紬「そうよね。今でさえ整理がつかないでごちゃごちゃなのに」

唯「紬ちゃんが余計にややこしくしてる感はあるけどね」

 恨まれてる。



30: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 07:15:07.53 ID:QbZMQD9WO


紬「えへへ」

 といったところで、りっちゃんと澪ちゃんがアイスを買って帰ってきた。

律「おっ、唯Tだ」

澪「久しぶりな感じだな。病院だとずっとパジャマだったし」

唯「ゆいてぃーって?」

紬「唯ちゃんの着てる、ハネムーンとかアイスとかのTシャツのことね」

唯「……わりと私の象徴みたいな感じだね」

 唯ちゃんは不思議そうに腕を広げて、ハネムーンの文字をまじまじと眺めた。

律「それより、買ってきたアイス。どれがいい?」

 りっちゃんはビニール袋から、それぞれ個性の違うアイスを4つ並べてみせた。

 スーパーカップ、モナカ、アイスキャンディに、パピコの4つ。

 りっちゃんが買う前に言っていた「唯ちゃんの好きなの」とはパピコのことだけど、

 それは唯ちゃんには黙っておいて、選ばせるつもりみたい。



31: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 07:20:12.25 ID:QbZMQD9WO


唯「私から選んでいいの?」

律「おう」

 りっちゃんはよく、こうして唯ちゃんが本当に唯ちゃんなのか、試そうとする。

 間違いなく唯ちゃんは変わってないけれど、やっぱり不安になるときもあるのかもしれない。

唯「じゃ、モナカ~」

 ……そして、りっちゃんが出す試験は大抵、余計な不安材料を生む。

澪「……私は、スーパーカップにしようかな」

律「じゃあ私、ガツンとみかん!」

 結局、あまった私が唯ちゃんのパピコをとることになった。

 胸にのしかかる重たさに任せて袋を破くと、唯ちゃんがそばに寄ってくる。

唯「つむぎちゃん、それ何?」

紬「それって……このアイスのこと?」

 二人がこちらを見ないふりをしながら、私たちを注視しだした。



32: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 07:25:05.80 ID:QbZMQD9WO


唯「そうそう、なんで紬ちゃんのだけ2つ入ってるの?」

 なんでと言われるとちょっと困る。

紬「うーん、これは2人で食べるアイスだからかなあ?」

 とりあえず私は唯ちゃんの前で、パピコを半分に割ってみせた。

唯「おぉ」

紬「こうやって友達と半分こにして食べるの。……そうだ、唯ちゃんにあげる!」

唯「えっ? そんな、悪いよ」

紬「いいの、唯ちゃんと食べたいから」

 私は押しつけるようにパピコの片割れを唯ちゃんの手に握らせる。

唯「……」

紬「……あっ、えっと、じゃあ」

 とたんに唯ちゃんがものすごい顔をしたので、私は慌てて唯ちゃんのモナカの袋を開けた。



34: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 07:30:04.51 ID:QbZMQD9WO


 モナカを真ん中で割って、半分を唯ちゃんのあいた手に渡す。

紬「ね? これであいこだから」

唯「ほんとだ、すごいね!」

 唯ちゃんも納得してくれたみたいで何より。

 私はパピコの蓋を取って、溶けかけたアイスを吸った。

唯「紬ちゃんは何でも知ってるんだね」

 モナカをかじりながら唯ちゃんが言う。

紬「そんなことないよ。唯ちゃんがちゃんと思い出したら、私なんて世間知らずって笑われちゃうんだから」

唯「そーなのかなあ……」

 みんなでアイスを食べてからは、唯ちゃんの部屋に格納されていたアルバムや、

 卒業アルバムを見てずっと談笑していた。

 唯ちゃんは卒業アルバムの自分の写真に大笑いして、そして結局なにか思い出すことはなかった。



35: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 07:35:05.67 ID:QbZMQD9WO


 しばらくして、憂ちゃんがまず帰ってきた。

憂「おねえええちゃあああん!!」

 怒濤の勢いで階段を駆け上がって唯ちゃんの部屋までやってきて、

 唯ちゃんを見るやいなや水平に飛んで唯ちゃんの首元に抱きすがって押し倒す。

澪「わあああああああ!?」

 メールで間もなく帰ってくるという予告がなければ、今度は澪ちゃんが記憶を失う番だったかもしれない。

唯「う、ういっ、ちょっと待っ」

憂「よかった、よかったよぉ! んっ、んっむ」

唯「ほえー!」

 病院で唯ちゃんが目を覚ましたときは唇にキスしたところが観測できたけど、今回はほっぺた止まり。

 落ち着いた憂ちゃんが離れて、あちこち赤い痕をつけた唯ちゃんもちょっと物足りなそうに見えた。

 私はそこそこ満足した。



36: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 07:40:11.21 ID:QbZMQD9WO


憂「あらためて、退院おめでとう!」

唯「……うん」

 憂ちゃんにきつく抱きしめられて、唯ちゃんは苦笑いしていた。

唯「ありがとう、憂」

憂「今日はお姉ちゃんのためにいっぱいおいしいごちそう作るから! だから……ね!」

 言い淀むと、憂ちゃんは唯ちゃんの頭を撫でて立ち上がった。

 ようやく私たちを見てくれたようだ。

憂「えっと、和さんはまだですか?」

 憂ちゃんと梓ちゃんは学校に行っていて、唯ちゃんの退院の出迎えには来れなかった。

 私たちも学校があったのは同じだけれど、みんな1日ぶんの講義をすっぽかして唯ちゃんの出迎えに来た。

 大学はこういう融通がきくのがいいところだと私は思う。

 ただ和ちゃんも、同じように大学生になったのだけれど、今日の退院の出迎えには来なかった。



37: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 07:45:05.39 ID:QbZMQD9WO


 和ちゃんいわく。

和「死に目に会いに行くわけじゃないし、律たちに任せるわ」

 ということだった。

 きっと本音は、自分との思い出を全て忘れてしまった唯ちゃんとあまり会いたくないだけかもしれない。

 それでもこの後の、唯ちゃんの退院祝いには駆けつけてくれる約束だ。

律「あ、あぁ、和はまだだよ。そろそろ授業終わるんじゃないかと思うけどな」

憂「そうですか……わかりました! それじゃあ私、お料理の支度してきますから、みなさんゆっくりしててください」

憂「お姉ちゃん、またね!」

唯「う、うん、ありがとう……」

 嵐のように去っていった妹にぼーっと手を振り、唯ちゃんはふと「イテテ」とほっぺたを指で撫でた。

紬「明日は外出できないわね」

唯「うん、これじゃちょっと……憂にも仕返ししようかな」

紬「そうしてあげたほうがいいわ」

澪「いや、止めろよ……」



38: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 07:50:05.59 ID:QbZMQD9WO


 程なくして、梓ちゃんが訪ねてきた。

 唯ちゃんに頼まれて下まで玄関を開けに行き、部屋まで連れてくる。

 梓ちゃんは不安そうな顔をしながらも、肩をこわばらせて気丈そうにみせていた。

紬「梓ちゃん、先に上がって?」

梓「え、あ、はい」

 なので2階で梓ちゃんを先に階段に上がらせて、即座に後ろにつけた。

梓「ひゃああっ!?」

 当然お尻を触るためである。

 唯ちゃんのよりよく手におさまった。

梓「むむむムギ先輩ー!?」

紬「さあさあ、唯ちゃんが待ってるわよ!」

梓「ちょっ、ちょっ……まずはお尻から手を離してください!」

 台所で憂ちゃんが吹き出すのが聞こえた。



39: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 07:55:10.31 ID:QbZMQD9WO


唯「いらっしゃーい、あずにゃん!」

 ドアを開けさせると、唯ちゃんが両手を振って歓迎した。

梓「唯先輩……」

 お尻が私の手から離れ、唯ちゃんのもとにとことこ歩いていった。

 梓ちゃんは唯ちゃんのそばにおずおずと座ると、軽く会釈をするように頭を下げた。

梓「このたびは、ええと、よくぞご無事で」

律「武士か」

澪「茶化すな」

 りっちゃんと澪ちゃんも、そちらはそちらで二人だけの世界である。

唯「うん、な、なんとかね」

 唯ちゃんはキスマークの指摘だと思って首筋やほっぺたを忙しく撫でる。

 恥ずかしそうに赤く照れているのが可愛い。



41: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 08:00:05.75 ID:QbZMQD9WO


梓「その、記憶喪失……のことですけど」

唯「……うん」

 梓ちゃんはけんめいに言葉を反芻しているらしく、何度かくちびるをモゴモゴ動かした。

梓「前にも言いましたが、あんまり気に病まないでくださいね」

梓「思い出せないことは、私たちがぜんぶ教えますし、これからもたくさん思い出は作れますから!」

唯「……あずにゃん」

 唯ちゃんがため息まじりに言った。

唯「抱きしめていい!?」

梓「は、はい……って違っ!」

 呼び掛けに答えただけの梓ちゃんの声は、

 唯ちゃんがあまりにも間髪をいれなかったせいで肯定になってしまった。

 あっという間に梓ちゃんは唯ちゃんの手に抱きしめられて、逃げることも許されなくなった。



44: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 08:05:25.71 ID:QbZMQD9WO


梓「あのっ、私の話きいてました?!」

唯「うん、いややっぱりあずにゃん抱きしめてるとしっくりくるんだよ!」

 記憶を失っても梓ちゃんの抱き心地は変わらないらしい。

 そりゃそうか。

澪「なんかほっとするなー」

律「唯、梓を抱きしめてたらなんか思い出すような気しない?」

唯「あっ、するよー! あずにゃんもうちょっとだけ協力して!」

梓「なっ……それ言われたら!」

唯「うへへーすりんすり~ん……」

梓「唯へんぱい、やめへくださいよー……」

唯「あーあと10%で思い出せるー……」

梓「なんの指数ですかあ……」

 私はなかなか満足した。



45: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 08:10:05.87 ID:QbZMQD9WO


 結局梓ちゃんが解放されるまで10分ほどかかり、

 ふらふらになった梓ちゃんは唯ちゃんのベッドに頭から飛び込んだ。

律「やれやれ、お前らよく寝るな」

紬「私たちも今日は遅くまで起きてるだろうから、少し休んでおく?」

唯「さんせい。私つかれちゃった」

澪「……それじゃあ、ちょっと休もうか。唯、この座卓動かしていい?」

唯「どうぞどうぞ」

 渋る唯ちゃんをベッドに上げ、私たちは座布団を枕に少し眠ることにした。

唯「すー、すー……んんっうぅ、やぁ……」

紬「……」

澪「りつ……寝た?」

律「くー……」

澪「ムギ?」

紬「……起きてる」



47: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 08:15:04.44 ID:QbZMQD9WO


澪「よかった。少しだけ、話してもいいか」

紬「なあに?」

唯「ん、んっ……」

澪「……唯の記憶のことで、ちょっと疑問がさ」

紬「疑問?」

澪「唯って、意識を取り戻してから、ずっと寝てるときはああいう風にうなされてるじゃないか」

紬「そうね……」

澪「あれは、私たちの知らない唯の記憶……起きてるときは唯も忘れている、ふかい記憶が夢を見させてるんじゃないかと思うんだ」

紬「……どういうこと?」

澪「唯は、きっと……なにかあって、記憶を封じ込めているんじゃないかって」

紬「何かって?」

澪「それは、何かだ」



48: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 08:20:12.25 ID:QbZMQD9WO


紬「……唯ちゃんが記憶を失った原因は、高熱よね」

澪「その高熱が、記憶を消すための処理で起こったオーバーヒートだとしたら……」

紬「……だけど、根拠がないように思うの」

澪「うん、そうなんだけど……唯の記憶を取り戻すことが、必ずしも唯のためにならないかもって……」

澪「私、そう思ったら怖くって……」

 澪ちゃんは体をちぢこめた。

澪「唯、ひどい目にあったんじゃなきゃいいけど……」

唯「うぅ……はーっ」

紬「……たしか、憂ちゃんが言うには唯ちゃんは夜遅く帰ってきて」

紬「でもいつも通りにお風呂入って、憂ちゃんのご飯を食べて寝て……翌朝、高熱を発したのよね」

 これ自体は、唯ちゃんがゴールデンウィークに帰省したときの出来事だ。

紬「記憶を消しちゃうほどの事件……があったとして、澪ちゃんならそんなふうに振る舞える?」



49: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 08:25:12.38 ID:QbZMQD9WO


 澪ちゃんは少し悩むと、静かに言った。

澪「憂ちゃんが嘘をついてるって可能性も……なくはない」

紬「なんのために?」

 平静を保てずに、つい声が震えた。

澪「わからないけど……」

 澪ちゃんは濁したけれど、私には澪ちゃんが言おうとしたことがわかる。

 澪ちゃんは、憂ちゃんが唯ちゃんに何かしたと疑っている。

紬「……しっかりして、澪ちゃん。憂ちゃんは嘘をつくような子じゃないわよ」

澪「そう、だよな……ごめん、やな気持ちにさせちゃった」

紬「いいよ。でも……」

澪「でも……?」

紬「唯ちゃんの記憶は、必ず取り戻すから」

 澪ちゃんは頷くかのように首をひねり、「うん」か「ううん」のどちらかの「ん」を呟いて、目を閉じた。



52: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 08:30:05.17 ID:QbZMQD9WO


――――

 目を覚ますと、横で和ちゃんが眠っていた。

 真鍋和の貴重な裸眼シーンを拝んでから時計を見ると、6時になったばかりだった。

唯「紬ちゃん?」

 声をかけられて振り向くと、唯ちゃんが寝転がったまま目を開けていた。

紬「あ、おはよう唯ちゃん」

唯「いま何時?」

紬「6時よ。もう起きる?」

唯「まだこのまま、ぐでーっとしてます……」

紬「そう……」

 マットの上といっても床で寝たせいか、体がすこし痛む。

 これ以上寝るのはちょっと辛い。



55: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 08:35:20.57 ID:QbZMQD9WO


紬「……ねぇ唯ちゃん、聞いていい?」

唯「うん?」

 疑うわけではない。

 だけど、もし澪ちゃんの言う通り、記憶を取り戻すことで唯ちゃんが苦しむとしたら。

紬「最近、夢はみてる?」

唯「夢かあ。この間はね、みんなで船に乗ってたよ」

紬「みんなって?」

唯「私と憂と和ちゃんと、紬ちゃんと、……あずにゃんに、りっちゃんに澪ちゃん……みんなだね」

紬「へえー。どんな船に乗ってたの?」

唯「白くてでっかいクルーザーだった。……何をしてた夢なのかは、よく思い出せないや」

紬「そっかあ……」

 これは唯ちゃんの記憶喪失とは関係ないと思う。

 私ではつながりが見出だせそうにない。



56: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 08:40:04.66 ID:QbZMQD9WO


紬「いまは、夢見てなかった?」

唯「いまは……えっと」

 唯ちゃんがいきなり顔を真っ赤にした。

紬「どうしたの?」

唯「その……誰にも言わない?」

 聞かなければいけない。

 そう、これは真実をさぐるためなの。

紬「言わないから、教えて?」

 そっと立ち上がり、唯ちゃんの口元に耳を寄せる。

唯「あのね……まずあずにゃんをぎゅーってしてて、そしたら憂が来て、私にキスしたの」

紬「……くちびるに?」

唯「……くちびるに」



57: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 08:44:05.00 ID:QbZMQD9WO


唯「またかーって思いながら、あずにゃんをまだ抱きしめたままだったの」

唯「そしたら今度は……あの、紬ちゃんが来て……ちゅうを」

紬「そ、それで?」

唯「次は、紬ちゃんと憂に……両方のほっぺにキス……されてね、幸せだなーって思ってたら」

 幸せだったんだ。

唯「あずにゃんがぴょこんって出てきて、くちびるに……」

紬「……唯ちゃん、うらやましいわ」

唯「ゆ、夢だよ」

紬「でもうらやましいっ」

唯「し、しーっ。でね、それで終わりじゃなくて」

唯「あずにゃんも腕の中から抜けちゃって、みんなぐるぐる回りながらほっぺとか口にちゅーするんだ」

唯「いつの間にか和ちゃんもりっちゃんも澪ちゃんも来てて、どんどんちゅーしようとしてくるんだけど……」



58: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 08:48:04.79 ID:QbZMQD9WO


唯「こう、ね……? ちゅーする場所がないでしょ? だから、だんだん……体の方に」

紬「うん、うん……」

 どうしよう、体が熱いよ。

 顔だけじゃなくって全身がかーっと熱くなってる。

唯「そこからはもう……私の口からはいえないっていうか、凄すぎて説明できないっていうか……」

紬「え、えー……」

 唯ちゃん、生殺しなんてひどいわ。

唯「つ、紬ちゃんだから話したんだよ。他の人に言っちゃだめだからね」

紬「うん。それはわかってるけど……ええと。聞いてもいいかな」

唯「……うん」

 唯ちゃんは私の質問することがなんとなく予想できているみたいだった。

紬「唯ちゃんって……ビアンなの?」

唯「そうみたい……」

 ため息まじりに唯ちゃんは答えた。



60: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 08:53:05.39 ID:QbZMQD9WO


唯「記憶喪失の前はちがかったの?」

紬「えっと……き、聞いたことないわ」

唯「そっか……でも、あずにゃん抱きしめたりしてたあたり、ぶっちゃけ怪しいよね」

紬「……うん、怪しいって思ってた」

唯「紬ちゃんは、私がこういう人でも抵抗なさそうだよね……だから話したんだけど」

唯「……ええっと、私、あずにゃんが好きだったのかな?」

紬「わかんない。憂ちゃんが好きなのかなって思うときもあったし」

紬「同じくらい、梓ちゃんやりっちゃんや澪ちゃんや和ちゃんにも……」

唯「……うん」

 唯ちゃんは複雑そうに天井を仰いだ。

唯「なるほど……私は私、変わってないね」

紬「そうだね」

 私はちょっと笑って、唯ちゃんの横顔にもう少しと近付いた。



61: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 08:59:04.70 ID:QbZMQD9WO


唯「記憶喪失……加えて記憶障害、さらに同性愛者ときたかぁ」

 ぼそぼそと、隣で寝ている梓ちゃんにさえ聞こえないように唯ちゃんは呟いた。

紬「同性愛は無理だけど……記憶喪失と記憶障害は治るって、お医者様言ってたわ」

唯「そうだよね。まず、この忘れっぽい頭をどうにかしないと」

 唯ちゃんは指で頭をとんとんと叩いた。

紬「私たちもみんな協力する」

 私はその手を握り、両手で包み込む。

 あたたかい手首の脈がトクトク鳴っているのがわかった。

唯「ありがとう、紬ちゃん」

 唯ちゃんはにこりと笑う。

 たとえ辛いことがあったとしても、唯ちゃんは記憶を取り戻したがっている。

紬「唯ちゃんの18年間、なかったことにはさせないから」

 私は背中についた目で、澪ちゃんを強く睨んだ。



62: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 09:04:23.80 ID:QbZMQD9WO


 そのうち皆の目が覚めて、いつの間にか混ざっていた和ちゃんへの驚きをひとしきり述べたあと、

 憂ちゃんが用意がととのったと言って私たちを呼びに来た。

 これは申し訳のない話なんだけれど、唯ちゃんたちのお父様お母様は私たちに気を遣って、

 今日のパーティーには参加せず別日に唯ちゃんの退院を祝うことにしたらしい。

 なので今日は、唯ちゃんたちのご両親に会うことはないのであしからず。

 ともあれ私たちは階下におり、憂ちゃんが腕をふるったディナーをごちそうになることになった。

 みんなのグラスにジュースが入ると、りっちゃんが乾杯の音頭をとる。

律「えー、この度は我が戦友平沢唯の快気の祝いにお集まり頂き感謝申し上げます」

梓「80代か」

律「茶化すな」

律「えっと、まあ、唯のこれからの末永い健康を願って、乾杯!」

みんな「かんぱーい!」



63: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 09:08:14.51 ID:QbZMQD9WO


――――

澪「ふえぇ……食べすぎちゃったよぅ……」

 あれだけあった料理は1時間ほどでなくなり、

 デザートのいちごプリンを食べながらみんなでこれから何するか、と話し合う。

和「ねぇ、軽音部のライブのDVDは見せてあげた?」

律「見せたよ。見たの覚えてるか、唯?」

 りっちゃんがニヤッと悪く笑ったのが見えた。

唯「ん……あっ、覚えてない!」

 元気よく答える唯ちゃん。

 私も澪ちゃんのパンツが見たいので黙っておく。

梓「じゃあもう一度見ましょうか」

澪「……いいけど、あとで私、ちょっとトイレ借りるから」

唯「え、じゃあ覚えてる……」

澪「じゃあって何だ!」



64: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 09:13:17.19 ID:QbZMQD9WO


 結局DVDは見ることになった。

 澪ちゃんは私とりっちゃんで逃げられないようにロック。

 梓ちゃんに再生してもらった。

和「まずは、1年の学祭ね」

梓「はい。私も映像でしか見たことないですが……」

唯「たしか、私が声をからしちゃってたんだよね」

律「そう、だから澪がボーカル」

 りっちゃんが澪ちゃんの腕をぎゅっと抱いた。

 澪ちゃんは恥ずかしがるけれど、あれから澪ちゃんは人前で歌ったり演奏することにも、

 恥ずかしさだけじゃなくて楽しさがあると気付いたと思う。

梓「始まりますよ」

 画面の中で幕が上がり、さわ子先生の衣装を着た私たちがステージに立っていた。

憂「お姉ちゃんかっこいいね」

和「ええ、ほんとね」



65: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 09:18:31.53 ID:QbZMQD9WO


 MCもなく、りっちゃんのカウント、唯ちゃんのギターから「ふわふわ時間」が始まる。

 これが私たち軽音部の最初の曲、最初の演奏。

 四小節手拍子を送り、私たちのパートが混ざる。

『君をみてると、いつもハートドキドキ……』

唯「……」

『い゛~つもがんっばーる』

唯「ぷっ」

『ひいぃみのよ゛こっがーお』

唯「ふっ、くく……」

 唯ちゃんが自分の声で笑ってる。

 つかまえて頬擦りしたい。

唯「一生懸命やってるなぁ……」



67: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 09:23:41.14 ID:QbZMQD9WO


 演奏は大きなミスもなく成功に終わった。

『みんな……ありがとぉーっ!』

澪「あぁ……ああ……」

 澪ちゃんがぷるぷると震え出す。

 りっちゃんがさらに澪ちゃんにぐっと寄り添って、強く押さえつけた。

『澪ちゃん!?』

唯「しましま……」

澪「……こっ、高1のころなんだから別にいいだろっ」

唯「しましまパンツの澪ちゃん」

澪「やめろっ変な覚えかたしないで!」

紬「今はしましま穿いてないの?」

律「いや、ほとんどしましまとか水玉柄だぞ」

澪「もう許してくれませんか」



68: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 09:29:09.06 ID:QbZMQD9WO


梓「じゃあ次は、最初の新歓ですね」

律「梓が唯にホレたライブだったな」

 ようやく解放された澪ちゃんは涙目でトイレに駆けていった。

梓「いえ、あの時はまだ……って何言ってんですか。え、何言ってるんですか!」

律「お、落ち着けよ梓」

唯「あずにゃん、早く再生してよー」

梓「はっ、はい」

 最初の新歓ライブでは、「私の恋はホッチキス」で唯ちゃんが歌い出しを忘れたのを覚えている。

 すかさずフォローしてみせた澪ちゃんがかっこよかったなぁ、という思い出だ。
唯「……このシーンを見るたび、私のどこが憧れるような先輩なのかと思うよ」

梓「……でも、ギター弾きながら歌うのって難しいですから」

唯「わたし、どうやってできるようになったんだろう……」

律「……それは、だな」

 りっちゃんが私に目配せする。

 一回話したはずだよな、という確認だと思い、私は頷いた。



69: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 09:34:29.05 ID:QbZMQD9WO


律「さわちゃんは覚えてるか」

唯「あっ、先生だよね。顧問の」

律「唯はさわちゃんの家で弾き語りの特訓をしたんだ。それで声がかれて、ああなってたんだけどさ」

唯「じゃあ私がバンドに復帰するには、また声をからさないと……」

律「そうかもなあ」

唯「ううっ、憂ー……」

憂「ゆっくりでいいからね、お姉ちゃん」

唯「憂……!」

 りっちゃんは私の横にお尻を浮かせてくると、私だけにささやきかけた。

律「今、本能的に憂ちゃんに甘えに行ったな」

紬「そうね。やっぱりわかってるみたい」

律「……あぁ」

 りっちゃんはさらに声をしぼった。

律「憂ちゃんは嘘をついてないと私は思う」



70: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 09:39:10.69 ID:QbZMQD9WO


紬「……起きてたのね」

 驚いたけれど、慌てる気にはならなかった。

 私はいたずらをたしなめるように、りっちゃんに微笑んだ。

律「……さあて、ほら唯、ちゃんとライブ見なさい」

唯「はーい。……でも見るの5回目くらいじゃん」

 ほんとうは5回目どころではない。

 入院している間も、何度もDVDプレーヤーを持ってきてライブの映像を見せたし、

 ライブの前後であったことを話して聞かせた。

 そうすれば唯ちゃんの記憶がきっと戻ると信じて。

 だけど実際は、くりかえし刷り込んだことで、唯ちゃんがライブの内容をあらかた覚えただけだった。

 しましまパンツのくだりで澪ちゃんをいじるのは楽しいみたいだけど、それ以外にはあまり興味を示さない。

 もはやライブの映像は、唯ちゃんの記憶を刺激するものではなくなっている。



71: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 09:44:25.49 ID:QbZMQD9WO


和「確かに、せっかく唯の退院パーティーなのに唯が退屈なものを見ててもしょうがないわね」

梓「……そうですね」

 梓ちゃんがリモコンを操作してDVDを止めた。

澪「また見たくなったら言うんだぞ、唯」

唯「うん、ありがとう澪ちゃん」

憂「そうだ、それなら、うちのビデオ見ませんか?」

律「憂ちゃん家のビデオ?」

和「ホームビデオね」

 憂ちゃんは頷いた。

憂「見せようと思って、家に残ってるテープをまとめておいたんです」

憂「……お姉ちゃん、見たい?」

唯「うーん、ちょっと前のことも思い出せないのに、子供の頃のことなんて思い出せるかなあ」

憂「思い出さなくてもいいよ。ただ、昔の私たちのこと見てほしいなって」

唯「そう? じゃあ見ようかな」



72: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 09:49:15.39 ID:QbZMQD9WO


憂「わかった、じゃあ持ってくるね」

 2階に上がっていった憂ちゃんとほとんど入れ替わりで、澪ちゃんが戻ってきた。

澪「あれ、ライブはもう終わりか?」

律「唯ちゃんが飽きちゃったんですの」

唯「代わりに、子供のときの私を見るんだってさ。ホームビデオ」

澪「そっか。確かにそのあたりも、大事な思い出だしな……」

 澪ちゃんはトイレに行ったその手で「ごめんな」と唯ちゃんを撫でた。

憂「みなさん、ビデオ持ってきましたよ」

 戻ってきた憂ちゃんは、5本の小さなビデオテープを持っていた。

梓「それ、どうやって見るの? 普通のビデオデッキには入らないんじゃ」

律「やれやれ……これだからゆとりは困るな」

梓「オッサンが何を言うんですか」

澪「まあまあ。で律、どうやって見るんだ?」

律「それは憂ちゃんにきいてよ」



73: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 09:54:18.60 ID:QbZMQD9WO


 りっちゃんがふっ飛んだ。

唯「だ、大丈夫……?」

律「今のは、き、きいた……」

 頭に拳骨を落とされて、りっちゃんがうずくまっている間に梓ちゃんが訊いた。

梓「えっと、それでどうするの?」

憂「古いビデオカメラに入れて、テレビに出力してもいいんだけど、これを使うの」

 憂ちゃんはテレビ台の下を探って、四角のくぼみがついたVHSテープ形の物体を取り出した。

 そしてそのくぼみに、「唯6歳憂4歳 クリスマス」と書かれたテープを嵌め込む。

憂「ここに、こう……テープを入れると、ビデオデッキで普通に見れますよ」

紬「手馴れてるのね」

憂「それはまあ、よく見てますので。再生するよ、お姉ちゃん」

唯「あ、うん」



76: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 09:59:08.67 ID:QbZMQD9WO


 どたどたと鳴る足音がして、赤いちゃんちゃんこを着た唯ちゃんがカメラに映り込んだ。

 物陰から二人に隠れて撮影しているのか、枠が暗いように見える。

唯『うい、ういー!』

憂『おねえちゃん、どうだった?』

 唯ちゃんを追って動いていたカメラが止まり、

 床に赤ちゃん座りをしていた憂ちゃんにしがみついた。

憂『わっ!?』

唯『うわあぁぁんっ、ういーっ』

 カメラが少しズームすると、唯ちゃんの横顔が涙と鼻水に濡れているのが見えた。

唯『サンタさんっ、きてなかったあ!』

憂『ええっ!』



78: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 10:04:08.66 ID:QbZMQD9WO


律「ちゃんとサンタ信じてたんだな……」

唯「そのようだねー」

唯『わたし、いい子にしなかったもんね……』

唯『けさもいっぱいおこられちゃったし』

憂『でもっ、あれは、ホワイトクリスマスって、おねえちゃんがプレゼントしてくれたんだよ』

唯『ううっ……いけないことだったのかなあ……ひっ、ぐすっ』

憂『おねえちゃん、なかないで!』

唯『ういい……』

憂『そうだ、おねえちゃん。目とじて!』

唯『んー……? こう?』

紬「あ……」

唯「ワオー」

憂『ん……むちゅー』



79: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 10:09:27.80 ID:QbZMQD9WO


 画面の中の幼い憂ちゃんが姉におこなったのは、マウス・トゥ・マウスだった。

 カメラがぐっとズームして、画面いっぱいに唯ちゃんと憂ちゃんのキスが映し出される。

 どうしよう、みなまで言わせないで。

唯『ん……』

律「な、長い!」

 その間およそ20秒。

憂『ふ……ぷはっ、はぁー』

 ちゅー、というよりもはや接吻が終わって、カメラが引くと憂ちゃんは唯ちゃんに倒れ込むように抱きついた。

唯『うい……』

憂『えへへ、サンタさんはこなかったけど……わたしからのプレゼントだよ』

唯『ういっ、ありがとう!』

 唯ちゃんが憂ちゃんをぎゅっと抱きしめて、ふと何か思い付いたように顔をあげた。

唯『ねーうい、ういも目とじて!』



81: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 10:14:05.93 ID:QbZMQD9WO


憂『うん』

唯『んー、ちゅっ、むちゅー』

憂『んむー』

 今度はカメラは寄らず、居間で固く抱き合ってキスをする姉妹の全体像をひたすら切り抜いていた。

 くすぐったそうに動く、靴下に包まれた小さな足がえっち。

紬「……」

 うん、これエッチなビデオだよ。

 唯ちゃんも顔赤くしてる。私だけじゃない。

唯『ん……あぁっ、カメラとってる!』

 突然唯ちゃんがこっちを振り向いて、指差して糾弾した。

  『気にしないで』

憂『やだよー、とらないで!』

唯『めっ! とめて!』

 そこでビデオは終わった。



83: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 10:19:31.43 ID:QbZMQD9WO


紬「ふぅ……」

 思わぬ百合分補給になった。

澪「ちっちゃい唯と憂ちゃん、かわいかったな」

梓「唯先輩にもあんなにちっちゃい子供のときがあったんですね」

律「憂ちゃんは子供のときからしっかりしてたなー」

 この面々はあのビデオで和んだらしい。

 私がおかしいのだろうか。いや、絶対この人たちがおかしい。

 あるいは気付いてないふりをしてるだけだよね。

 友達のホームビデオでエッチな気持ちになったなんて言えないもんね。

和「唯……昔の自分みて、どう?」

唯「うん、まぁ、なんか……」

憂「和ちゃん、そんな話は今日もういいよ。それより次の見ようよ、ビニールプールで遊んだときのやつだよ」

 次回は水着回らしい。



85: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 10:24:08.40 ID:QbZMQD9WO


――――

憂『ぁっ、んーっ、おねえちゃんっ』

唯『ふっ、ん、はむっ……ちゅううっ』

 結論からいうと、いや結論しか言わないけど、エッチなビデオだった。

 AVだと言わないのは自分の中の最後の砦を守ろうとしているわけではなく、

 唯ちゃんと憂ちゃんがあくまでじゃれあっている様子だから。

 でもカメラワークだけ見たらAVだった。

 憂ちゃんがこのはしたない映像を天然で見せているのか狙って見せているのかわからない。

 ただ後者だとしたらトイレに立ったら負けを認めたということになる。

 それだけは……別にどうでもいい。

 とにかくまだまだ百合分は補給できそうなので、あわてずせかさず次のビデオの再生を待とう。

唯「……うーん」

紬「唯ちゃん?」



88: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 10:29:28.86 ID:QbZMQD9WO


唯「眠たくなってきちゃった……」

 言われて時計を見ると、夜の10時。

 そう遅い時間ではないけれど、唯ちゃんが入院していた病院では消灯時間になる。

紬「今日は退院とかでばたばたしてたもんね」

 頭の形にそうように撫でてあげると、唯ちゃんは私にもたれたそうに傾いてきた。

憂「それじゃあお姉ちゃん、もう寝よっか」

唯「うんー」

 唯ちゃんは呼び掛けられて憂ちゃんに両手を伸ばした。

 憂ちゃんがその手をとって立たせると、大事そうに後ろから抱えるようにその体を支えた。

澪「おやすみ、唯」

紬「おやすみなさい、唯ちゃん」

梓「唯先輩おやすみなさい」

 唯ちゃんは私たちにぴらぴら手を振って、階段を上っていった。



92: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 10:34:01.59 ID:QbZMQD9WO


律「さてと」

 りっちゃんは腰を上げてのびをした。

律「とりあえず食器まとめとくか」

和「そうね、このまま帰るわけにはいかないし」

 食器を大きいものから重ねて、運びやすいようにする。

 グラスはまだそのままにするようりっちゃんに言われ、スプーンやフォークだけまとめた。

律「唯ん家って台所2階なんだよな……めんど」

澪「正直すぎるだろ」

梓「憂はこれ全部ひとりで2階から運んできたんですから、文句言わないでください」

律「わかってる。まあ、みんなで運ぶか」

 私たちは少しずつ食器を持って2階の台所に運ばせてもらった。

 洗い物の手伝いもするべきね、と後ろから和ちゃんが言った。



99: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 10:38:03.95 ID:QbZMQD9WO


 食器を運びきってから、りっちゃんと澪ちゃんが一山片付けることになった。

 そのあと交代で私と梓ちゃん、憂ちゃんと和ちゃんという分担だ。

 とりきめたところで、唯ちゃんを寝かしつけた憂ちゃんが降りてきた。

 私たちは1階に降りて、とりあえずニュース番組を眺めていた。

  『では、次のニュースです』

紬「……あっ」

 垂れ流しになっていたテレビ画面にみんなが振り向き、釘付けになった。

  『きょう京都府で、自分のことが何もわからないという20代から30代とみられる男性が保護されました』

 テロップには「記憶喪失」とはっきり書いてあった。

 アナウンサーは身元不明の男性の特徴を伝え、心当たりのある人のための連絡先を二度繰り返した。

 そして白髪頭のコメンテーターが口を挟む。

  『こういう記憶喪失なんですがね、物語では必ずといっていいほど記憶が戻るものですが』

  『実際の治癒率は、あぁ記憶が戻る割合、これは全体の1割にも満たないんだそうです』



102: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 10:42:06.98 ID:QbZMQD9WO


 えぇ、とアナウンサーの相槌。

  『ですから、せめて身元が分からないとこのさき生きていけないんです。どうか身内が見つかればいいんですが』

憂「……」

 ありがとうございます、とアナウンサーの声で、ニュースは次のことにうつろっていった。

 私たちは、軽く考えすぎていたのだろうか。

和「……はぁっ」

 真鍋和の貴重な裸眼シーンは目をこする袖で隠されてほとんど見えなかった。

紬「の、和ちゃん、憂ちゃん、そんな……大丈夫よ! きっと思い出せるわよ」

梓「そうですよ、ほら、あんなおじいちゃんだし、何か別の数字と勘違いしてるんです」

 まともに考えもしてこなかった、唯ちゃんが一生私たちを思い出さない可能性。

 それでも今は、傷が浅い方の私たちは気を遣うほうに回らなければならなかった。



104: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 10:46:19.57 ID:QbZMQD9WO


 もし唯ちゃんの記憶が一生戻らなかったら。

 私たちは、これから新しい曲を作っていける。

 また放課後ティータイムを始めて、唯ちゃんとの思い出を作っていける。

 3年間の記憶はもはや仕方ない、と許してしまうことも、もしかしたら、できるような気がする。

 でも憂ちゃんは、和ちゃんは。

 もうあんなふうに甘えてキスすることはできない。

 泥んこになって遊んで笑って、手を繋いで帰ることはできない。

 唯ちゃんと仲良しになったことをもう繰り返せないし、思い出してもらえない。

 唯ちゃんにとっていつまでも、知らないうちに妹だった、幼馴染だった人であって、

 友達にはなれても、それらの取り戻せない関係には決してたどり着けない。

和「……取り戻すわ」

憂「和ちゃん……」

和「1割でも1%でも、それ以下の確率でも、唯の記憶を取り返すだけよ」



107: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 10:52:10.12 ID:QbZMQD9WO


 歯噛みして和ちゃんは呟く。

紬「……うん、絶対だね」

 ほんとうは、無理をしないでと言いたかった。

 とても怖い顔をした和ちゃんには、きっと唯ちゃんも怯えるような気がした。

 でも、言えた義理がない。

 二人の傷ついた思い出を慰められる言葉なんて私には出せない。

 思い出を修復するのは、思い出しかないんだ。

梓「憂も、あきらめないで」

憂「……あきらめるわけないよ。忘れたままだなんて、さびしいもん」

 憂ちゃんは頬に涙を伝わせたまま、まっすぐな言葉を発した。

 その涙を梓ちゃんが拭ったところで、りっちゃんと澪ちゃんが降りてきた。

律「交代だぞーい……何かあった?」

紬「少しね。梓ちゃん、いこっ」



109: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 10:56:05.63 ID:QbZMQD9WO


 梓ちゃんと一緒に洗い物を始める。

 りっちゃんたちが頑張ったのか、食器は半分ほどまで減ったように見える。

紬「私が洗っちゃうから、梓ちゃんはタオルで拭いてそこに置いてね」

梓「はい、わかりました」

 いっそ、このまま私たちで終わらせてもいい気がする。

 食器棚にしまうのだけ、この家にくわしい憂ちゃんと和ちゃんに任せておけばいい。

 というかまともに分担するならそういう配分になるんじゃないだろうか。

紬「梓ちゃん、このまま終わらせちゃいましょ」

梓「あ、はいっ、そうですね」

 洗ったお皿がきゅっきゅっと音を立てるのを聞きながら、どんどん洗い物を進めていく。

梓「……あの、ムギ先輩、訊いてもいいでしょうか」

 手を止めないまま、梓ちゃんが言う。

紬「何かしら?」



110: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 10:59:34.66 ID:QbZMQD9WO


梓「ムギ先輩は……唯先輩が記憶を取り戻せなかったら……どうするんです」

紬「どうするって……」

 そんな漠然とした聞き方されても困っちゃうわ。

梓「ですから、その。今まで通り唯先輩を好きでいられるかってことです」

 かといってそんなストレートに来られても。

紬「うーん……新しい好きじゃ、だめなのかな?」

梓「……今まで通りの好きじゃなきゃいやなんです。理由は言えないんですけど」

梓「どうですか? ムギ先輩は、今まで通りに唯先輩のこと好きでいられそうですか?」

紬「……どうかな。今はまだ、唯ちゃんのこと前のとおりに好きよ」

紬「唯ちゃんは変わってない。記憶はないけど、幹のところがね。だから記憶もきっと戻るって思ってるけど」

梓「わたしは……分からないです」

紬「唯ちゃんのこと好きになれない?」

梓「むずかしいんですが……」



112: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 11:03:06.90 ID:QbZMQD9WO


梓「あずにゃん、って私のこと言うじゃないですか」

紬「そうね。私たちが、唯ちゃんは梓ちゃんのこと、あずにゃんって呼んでたって教えたから」

梓「そのあたりなんですよね」

紬「どういうこと?」

梓「わたしは中野梓ですけど、唯先輩はあずにゃんってあだ名をつけてくれました」

 梓ちゃんは遠い目をした。

梓「私がネコミミ似合って、猫みたいだって、それでつけてくれたんですが」

梓「今の唯先輩は……そのあずにゃんってあだ名を使っているだけのように感じてしまうんです」

梓「あずにゃんって名前をつけてくれた思い出が、今の唯先輩が言う「あずにゃん」には伴っていないんです」

梓「平沢唯は中野梓をあずにゃんと呼ばなければいけない、と重荷を背負わせているような気がしたり」

梓「たまに、知らない人に呼ばれたような気がして、すごく怖くて、申し訳ない気持ちになるんです」

梓「……ごめんなさい、私が変ですよね」

紬「ううん、変じゃない。……でも、唯ちゃんは悪くないわよ」

梓「わかってます。だから……はやく記憶を戻したいです」



113: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 11:07:04.64 ID:QbZMQD9WO


 それから数分して、洗い物は完了した。

 あの後の会話は「はい」「お願い」「ちゃんと持った?」だけで、唯ちゃんのことには触れていない。

 ただ梓ちゃんの話で、私は洗い物のあいだずっと考えさせられることになった。

 なんで唯ちゃんは、私のことを「つむぎちゃん」って呼ぶんだろう。

 正直新鮮でイイし、言いにくそうに「ちゅむぎちゃん」と噛むさまはたいへん可愛いけれど、

 私もずっと、唯ちゃんからはムギちゃんと呼ばれていたと説明したはずだ。

 目をさましてからの唯ちゃんは、あずにゃんという呼称をいたく気に入っていると見える。

 それと同じで、ムギちゃんという呼称に何か気にくわないものでもあるのだろうか。

 たとえば、唯ちゃんはビールを飲まされて急性アルコール中毒になり記憶を失ったとか。

 それゆえムギという名前を嫌う。

 ビールの原料は麦だもの。

 うん、ありえない。

 まずそれなら病院に運ばれた時点でアルコール中毒だってわかるし。



116: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 11:12:14.66 ID:QbZMQD9WO


 1階に降りて憂ちゃんたちに引き継ごうとすると、りっちゃんたちがいなかった。

憂「これからお姉ちゃんのことで作戦会議するそうなので、お茶を買いにいったんです」

 ということらしい。

 憂ちゃんと和ちゃんにあとは片付けだけだと伝え、梓ちゃんと二人きりになった。

紬「さっきの話だけど、唯ちゃんの前でその気持ち、しぐさに出しちゃだめよ」

梓「はい。……きっと唯先輩、ショック受けちゃうでしょうし」

紬「唯ちゃんが記憶を戻したいっていう気持ちをなくしちゃうかもしれないわ」

紬「あずにゃんに嫌われてた記憶なんか思い出したくない、って」

梓「別に嫌っては……」

紬「唯ちゃんにとっては同じなの。唯ちゃんは超能力者じゃないんだから」

梓「……はい」

 ちょっと言い過ぎたかも。

 反動でなでなでしてあげていると、りっちゃん澪ちゃんが戻ってきて、

 みんなで梓ちゃんをなでなですることになった。



117: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 11:15:23.15 ID:QbZMQD9WO


 すぐに片付けを終わらせて降りてきた憂ちゃんと和ちゃんは梓ちゃんなでなでには参加せず、

 ちょっと厳しい声で「始めましょう」と言った。

律「よし」

 お茶をついでから、みんなでテーブルを囲む。

律「まぁ、これからの唯のこと。記憶を取り戻すっていうのは当然だけど、……どうするかだ」

澪「今まで、ライブのDVDとか私たちの曲とか聴かせてきたけど、あんまり効果いまひとつだしな」

律「ってことで、何か新しいことをひらめいてみよう、今夜は」

紬「新しいことねぇ……」

 この中にもちろん記憶喪失治療の専門家なんていないので、とにかく考えてみるしかない。

 何が正解かはともかく、記憶を刺激すればいい、とはよく言われている。

梓「はい」

 梓ちゃんが提案した。

梓「ギターを教えてあげるのはどうでしょう」



118: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 11:19:30.24 ID:QbZMQD9WO


和「ギターね……」

澪「確かに、近々HTTに復帰してもらうわけだし、いつまでもなまった腕のままじゃな」

 ちなみに放課後ティータイムに復帰することについて唯ちゃんはやぶさかではない。

 私たちが押し付けたり決めつけたりしてはいないということは、ちゃんと言っておきたい。

紬「それなら、澪ちゃんに、さわ子先生に、梓ちゃんに教えてもらうのがいいわね」

 記憶再生に重要なのは、状況の再現。

 唯ちゃんにギターの基礎を教えたのは澪ちゃんで、弾き語りの特訓をしたのはさわ子先生。

 そして普段練習につきあっていたのは梓ちゃんだから、その順番で指導をしてみるといいかもしれない。

和「記憶を刺激するって話なら、軽音部の部室でやるのがいいわね」

律「いいのか?」

和「OGが来るぐらい、何の問題もないわよ」

澪「じゃあ、部室でギター教えてみるか」

 みんな頷いた。



119: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 11:23:15.97 ID:QbZMQD9WO


憂「あと、それなら」

 憂ちゃんが手を挙げて付け加える。

憂「お姉ちゃんの思い出になっている場所を、たくさん巡ってみるべきだと思います」

憂「ただでさえお姉ちゃん、入院生活で息詰まってるみたいなことをよく言ってましたから」

澪「なるほど、いいな」

紬「確かに唯ちゃん、アルバムの写真で見たところに行きたいって言ってたわ」

 さすが憂ちゃんは気がきく。

律「じゃあ、平沢唯ゆかりの地めぐりも追加で、あとどうかな」

澪「他のクラスメイトとも会ってみたらどうかな。教室で制服で同窓会とか」

梓「いいと思いますけど、制服捨てちゃったり、譲っちゃった人が多いと思います」

和「事実、私は捨てちゃったしね」

律「……それに、和に会って思い出さないものを、他のクラスメイトに会ったところで思い出すか?」

憂「厳しいと思います。教室だと基本的に和ちゃんにべったりでしたし」



121: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 11:27:02.75 ID:QbZMQD9WO


澪「うーん、ダメか……」

律「なにかこう、もっと、唯のなくした記憶全体をガーッて揺さぶるようなものはないのか?」

梓「……唯先輩の半生を象徴するようなものって、何かある、憂?」

憂「……か、可愛さ」

律「抽象じゃん」

憂「だって! 可愛い人生なんです!」

和「唯って基本ぼーっとしてたから……そういうものはないかもしれないわ」

憂「しいて言うならヘアピンとか」

梓「今日もつけてたし……」

澪「ギターも見せても持たせても弾かせても無反応だったな……」

律「……好きな人とか」

和「断言するけどいないわ」

律「だよな。訊いたら基本訊いてきた人のこと好きって言うもん」

憂「でもお世辞とか知らないですし、ほんとにみなさんのこと愛してるんですよ」



122: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 11:31:17.44 ID:QbZMQD9WO


律「……とりあえず、まずは唯に関係あるところあちこちまわっていこう。何度かな」

和「それはいいんだけど……誰がつきそうの?」

律「えっ?」

澪「私たちが学生の身分である以上、学校さぼってうろつく訳には……いかない?」

憂「いきませんが……でも、お姉ちゃんを助けたい」

梓「私も、唯先輩の力になりたいです」

澪「私だってそうだ」

和「私もよ」

紬「唯ちゃんに付き添ってあげたいのはみんな一緒だよね。……でも全員ってわけにはいかないわよ」

 唯ちゃんの奪い合いで火花が散ってるこの百合空間。

 とりあえず梓ちゃんと憂ちゃんあたりは唯ちゃんと一緒にいたいだけと思われる。

 あと私も。



124: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 11:35:17.62 ID:QbZMQD9WO


律「……あー、わかった。こうなったら唯に決めてもらおう」

澪「ん……そうだな」

律「それから、高校生組はだめだ。いくらなんでも学校があるだろ」

憂「でもっ……」

律「学校のほう行くときは任せてやるから、な」

憂「……はい」

梓「わかりました……」

律「唯を起こすわけにもいかないし、今日はそろそろ帰るか?」

澪「うーん、だけど寮まで帰るとなると門限に間に合うか微妙だぞ。急に家帰っても、ベッドほこりかぶってるだろうし」

憂「あの、布団用意しましょうか?」

律「ほんとに、憂ちゃん?」

憂「もちろんです。梓ちゃん、和ちゃんもついでにどう?」



126: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 11:39:02.26 ID:QbZMQD9WO


梓「せっかくだから、一緒に泊まろうかな」

和「ついで……まぁ帰れないしお願いするわ」

 こうして急遽お泊まり会が開催された。

 言い忘れたけど明日は土曜日で学校はない。

 さてお風呂に入った人から唯ちゃんTシャツを配られて、

 「むらさきいも」とか「レモネード」とか「しろみざかな」とかの烙印を捺されることになった。

 私は「くつした」と書いてあったのでとりあえず嗅いだ。

 それから唯ちゃんがお風呂に入っていないことを思い出し、夜這いして足を嗅ごうと決意した。

 あと衣食住お世話になってしまった憂ちゃんを抱きしめようとも。

 だけど床でお昼寝したせいで逆に疲れていたのか、2階のリビングに敷かれた布団に潜った瞬間に朝だった。

 もちろん自分がそんなに疲れていたことにもびっくりだけど、もっと驚いたのは唯ちゃんが同じ布団で寝ていたこと。

 混乱した私は唯ちゃんを抱きしめて匂いを嗅いだ。

 いい匂いがしたけどシャンプーの匂いに他ならなかった。

 さて、他のみんなはまだ寝ているらしい。



129: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 11:43:10.51 ID:QbZMQD9WO


唯「……」

 カーテン向こうの外はまだ薄暗い気さえする。

 腕の中で唯ちゃんがもぞもぞ動く。

唯「ぅ、んっ……」

 唯ちゃん、ごめんね。

 もし起きちゃっても、ちょっとしたいたずらか、寝ぼけているんだと思って見逃してね。

唯「んむっ、ん……」

 さあ、寝ぼけたふり、寝ぼけたふり。

 なのに離れ際にくちびるを吸っちゃって、こんなに近くで聞いたちゅって音がえっちすぎて、

 私はまた唯ちゃんの口をくちびるで塞いだ。

 唯ちゃんの頭をかぶり寄せて、下くちびるをはむような形で動きを止めた。

 深い繋がりを感じる。

 一生、このままでいたいと思う。



131: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 11:47:16.73 ID:QbZMQD9WO


唯「はぅ……ふぅ」

 唯ちゃんが息を漏らすたびに全身がぞくぞく震えるみたい。

 あたたかい呼吸の動きとくちびるの感触が、こんな甘い状況でさえ自己嫌悪を感じさせるほど気持ちいい。

 キスが20秒を越えて、勝った、とか思い始める。

 あとは、あとは舌さえ入れたら、私がいちばん。

 もう唯ちゃんが私のものになった気すらしてくる。

 というか、唯ちゃんはもう起きていて私の口づけを享受しているんじゃないだろうか。

 半目をあけて確認するも唯ちゃんは目を閉じているようだ。近すぎてよくわからない。

 だけど、今ここで唯ちゃんが起きたとしても何の問題もないのは確か。

 むしろ唯ちゃんがここで目を覚ましたとすればすぐさま私のくちびるを吸って愛の言葉をささやくだろう。

 そうしたら私は唯ちゃんを受けとめてもっとぎゅっと抱きしめるだけでいい。

 そうだ、いっそ唯ちゃんが起きちゃえばいいのに。

 それで全部、うまくいく。

律「キャベツうめぇー!」



132: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 11:51:49.28 ID:QbZMQD9WO


律「……ぐぅ」

 ……心臓が破裂するかと思った。

 くちびるは離れた。

 もう二度とキスをする勇気は出ない。

 よくもあんな大胆で、いや単に傲慢な考えに身を浸したものだと思う。

 好きな人とキスをすると、あんなに思考力がにぶるのか。

 私は唯ちゃんを背中向けに転がして、抱き枕にしてまた眠りについた。

 朝8時、みんなが起き出した音で私も目を覚ます。

 腕の中にいたはずの唯ちゃんはおらず、シャワーを浴びているとのことだった。

紬「……」

 私も体がいやな汗でべたべたしていて、後でシャワーを借りたいと思った。

 憂ちゃんが用意してくれた朝食を食べてから、シャワーをあびて、昨日の服に着替えた。



134: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 11:55:28.70 ID:QbZMQD9WO


 お風呂場から出るとお布団はもう片付いていて、りっちゃんを除き、みんながいなくなっていた。

 1階から話し声が聞こえるから、下に集合しているんだと思う。

 立っていたりっちゃんが、出てきた私にちょいちょいと手招きをする。

 朝方のこと、ばれていたんだろうか。

律「今から唯に、昨日の……選んでもらうんだけどさ」

紬「唯ちゃんゆかりの地めぐりに付き添う人ね?」

律「そう。……それなんだけど、できればムギに頼みたいんだ」

 りっちゃんは真顔で言った。

紬「意味がわからないです……」

律「だから、腕引っ張ってでも唯にムギを選ばせてほしいんだよ」

紬「唯ちゃんに選ばすように言ったのはりっちゃんじゃない!」

律「あれは場をおさめたかっただけだ」

紬「……とにかく、唯ちゃんの選択を曲げるようなことはしないわ。りっちゃんが何を考えてるのか知らないけど」



136: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 11:59:18.58 ID:QbZMQD9WO


律「まあ、大丈夫だと思うけどさ。記憶をなくしてからの唯って、ムギに一番なついてるっぽいし」

 その発言は、記憶をなくす前の一番は私じゃなかったようにも取れる。

 実際それは私も認めるところだけれど。

 私は、うらやましい人の顔を見つめかえした。

律「今朝なんか、抱き合って寝てたしな。いつの間に」

 そう言うとりっちゃんは目をそらし、小さく口を動かす。

律「つきあってるのかと思った」

 聞こえないようにぼやいたのか分からないけど、確かにそう聞こえた。

紬「……えっ、抱き合ってたって、私と唯ちゃんが?」

 とりあえず、件のことに関わるものは知らないふりをしておかないと。

 私が起きたときには、唯ちゃんはいなかった。

律「無意識で抱き枕にしてたのかよ。まあ、だからって言うのもあるんだ」

紬「何が?」

律「唯の付き添い。唯のこと、前と変わらない目で見れてるのはムギだけだから」



137: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 12:03:32.31 ID:QbZMQD9WO


紬「……」

 それはどういう意味、とは訊けなかった。

律「澪は明らかに変わった。憂ちゃんと和は言うまでもないだろ。梓もなんか違う。……私もな」

律「そういうわけだから、頼みたい。……下、おりるぞ」

紬「……わかった」

 りっちゃんの後について1階に降りる。

 唯ちゃんが、梓ちゃんと憂ちゃんの間で戸惑っていた。

唯「ね、ねぇ紬ちゃん、いったい何が始まるの?」

紬「説明してないの?」

和「だって……緊張して」

 幼馴染相手に緊張してどうするの、という指摘はしないほうがいいだろう。

律「唯、ちょっとだけ意見をきかせてほしい」

 案の定りっちゃんが進み出た。



139: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 12:07:40.99 ID:QbZMQD9WO


唯「意見?」

律「そうそう、実は唯には、これから記憶を取り戻すための旅に出てもらう」

唯「旅!? そんな、私無理だよ、体力ないし」

律「……ちゃんと毎日家には帰れるから安心しろ」

律「唯が記憶を取り戻すたすけになればと思って、唯の思い出の地をめぐるツアーを企画したんだ」

 相変わらずそれらしく曲げて伝えるのがうまいりっちゃん。

 まだどこに行くかとかも決まってないのに、まるで前から考えていたみたい。

唯「へぇー……」

律「で、一人で行っても迷子になるだけだから、ガイドがいるだろ」

唯「うん、もちろんそうだね」

律「そこで聞きたいんだが、唯はここにいる誰が、ガイドに適役だと思う?」

唯「紬ちゃんだね」

律「うん、空気読めよ」



140: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 12:11:20.03 ID:QbZMQD9WO


 唯ちゃんが即答しすぎたので、りっちゃんはもう少し粘った。

律「別にムギならムギでぜんぜんいいんだが、もう一度全員を見渡してやれ」

唯「えー……」

 りっちゃんの尋ねかたはどこか私に誘導しようとしている節があったし、

 そうしないと後々不満が出ると思ったのだろう。

唯「憂とあずにゃんは、受験生だからだめじゃん?」

 唯ちゃんがまともなこと言った。

唯「澪ちゃんはすぐ「ぶつ」からやだ」

澪「うっ……」

律「あっはは、自分の身にかえってきたな!」

唯「和ちゃんは……私のことを見てないよね」

和「……」

唯「りっちゃんは、お尻掴まれた時痛かったから大嫌い」

律「だいっきら!?」



142: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 12:15:05.06 ID:QbZMQD9WO


 りっちゃんが卒倒しかけて、あわてて支えた。

唯「じょ、冗談だよ! でも私、紬ちゃんのほうが好きだから」

律「あ、う、うん……そっか」

唯「紬ちゃんは色んなこと知ってるし、記憶がない私のこと理解してくれるし、あったかくて優しいから」

唯「どこに行くのでも、紬ちゃんと一緒がいい」

紬「……ありがとう」

 唯ちゃん、これはもう告白と受け取ってもいいのかしら。

 うれしくて私が卒倒しちゃいそう。

 でも、唯ちゃんが思ってるほど私はいい人じゃないのにね。

律「というわけで、納得したかお前ら」

澪「……まあ、仕方ないな」

和「ええ……」



144: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 12:19:07.20 ID:QbZMQD9WO


 そんなわけで私と唯ちゃんは、平沢唯ゆかりの地ツアーに行くことが決まった。

唯「それで、いつ行くの?」

律「いや、ムギの時間が空いてるときにでも、ちょくちょくと」

澪「唯は半期休学になっちゃったからな。2週間くらい意識が戻らなかったし、仕方ないけど」

紬「わたしも、2週間休んで唯ちゃんにつきっきりになろうかな?」

 ちょっと大胆に言ってみる。

唯「そんな、ムギちゃんに休ませるわけにはいかないよ」

紬「冗談、冗談」

 唯ちゃんが「うん、休んで!」と言うわけがないのは分かっていたので、笑って手を振る。

 もしそう言われたら、一緒に休学するぐらいの心の用意はあったけれど。

梓「何日かは唯先輩の家もバタバタするでしょうから、それが落ち着いてからですね」

和「じゃあ、1週間後くらいまでに、どこを回るかある程度決めておきましょう」

憂「私たちも、思いつく限りの場所を挙げておきますから」



148: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 12:23:21.23 ID:QbZMQD9WO


 私たちも1週間のうちに、唯ちゃんとの思い出の場所をリストアップすることになった。

 そこまで決めて、私たちは唯ちゃんを家に残して寮に戻った。

 澪ちゃんの部屋で、お菓子を食べながら作戦会議をする。

律「唯の思い出の場所かあ……」

澪「学校に、楽器屋さんに、あとはアイス屋さん……」

紬「ライブハウスとか、合宿の別荘も」

律「うん、夏フェスの会場とか……今は何もないだろうけど」

澪「……ロンドンとか」

律「無茶言うな」

紬「でも、唯ちゃんがそれで思い出してくれるなら……」

律「……遠いところは最終手段だな。近場から挙げていこう」

 それからみんなで30分ほど思案して、ひとまず思いついた場所を並べることにした。



151: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 12:27:43.68 ID:QbZMQD9WO


律「まず学校と、私と澪んち」

律「楽器屋と帰りに寄るアイス屋、1ぺん行ったライブハウスと貸しスタジオ、ホームセンターもだな」

律「んー、でっ……と」

 りっちゃんが読み上げずになにか一行書いた。

澪「待て律、いま何て書いた」

律「いいじゃん」

澪「唯のことなんだから隠すなよ!」

 紙の上に押さえた腕を澪ちゃんが無理矢理ひっぺがすと、「BBC」とあった。

紬「BBC?」

澪「なんだこれ、律」

律「……」

澪「言え」

律「らぶほてる……です」



154: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 12:31:10.62 ID:QbZMQD9WO


 りっちゃんは言われる前に自ら正座をした。

律「いや、唯が行きたい行きたいって……で私もちょい興味があって……1回だけ」

 ちらちらと澪ちゃんを窺うりっちゃん。

 ゲンコツを恐れているのだろうけど、まだ左手が動く様子はない。

 澪ちゃんは澪ちゃんで黙りどおしなので、私が尋問することにした。

紬「それで、しちゃったの?」

律「ばっ、ばああっ!? んなわけないっ、入っただけだ!」

紬「入ったって、何が?」

律「入れてない! 触ってもない! 神に誓うぞ、同性愛とかダメ系の宗教の神に誓う!」

澪「なんって奴だ……」

律「ごもっともです……いやほんと、これは唯の記憶からも消しといたほうがいいや」

 そう言うと、りっちゃんはBBCをリストから消した。

紬「まあどの道、唯ちゃんが記憶を取り戻したらその事も思い出すけどね」

律「もういっそ封印しとく? 唯の記憶」



157: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 12:35:05.00 ID:QbZMQD9WO


 そんなことを言うりっちゃんには同性愛の神様の鉄槌を食らわせた。

紬「次は、合宿でいった別荘ね」

澪「ムギ、お前も何か隠したりしてないよな」

紬「隠せるようなことがあったらよかったのに」

澪「おい」

紬「冗談よ」

律「いてて……はっ、思い出した!」

澪「どうした記憶喪失」

律「唯と遊園地行ったことある、二人で!」

澪「……お前らな。付き合ってたのか?」

律「んなわけあるかい! だいたい1年のときだし」

紬「それで、どこの遊園地?」

律「ほれ、あそこあそこ」

紬「ああ、あそこね」



159: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 12:39:21.71 ID:QbZMQD9WO


紬「あとでその時のデートコースを聞かせてもらうわよ、りっちゃん」

律「だからデートじゃないっつうの」

澪「なんなら、その時だけ律がおともしたらいいんじゃないか?」

律「うーん……たぶん、あの時と同じように回れるかっていうと、無理なような」

律「それより、初めての二人で行くほうがきっといいよ」

紬「……うん、楽しみにしてる」

 朝、お風呂から上がったときに聞かされた話は、澪ちゃんの前では内緒にしたほうがいいだろう。

紬「えーっと別荘と、夏フェスの会場と……次は、京都かな?」

律「ずいぶん飛ぶな……もし京都とか行くことになったら、さすがに私らも旅費出さないとな」

澪「うん、もちろんだけど……それまでは、ムギたち持ちでいいかな。お昼はおごるから」

紬「そんなに気を遣わなくても平気よ、唯ちゃんのためなら溜めたおこづかい、全部つかっちゃう」

律「唯がすっごく太りそう」



160: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 12:43:12.55 ID:QbZMQD9WO


 かくして、学校からロンドンまでの唯ちゃん思い出の地のリストができた。

澪「少ないな」

律「私らの思い出、こんなもんか?」

紬「じゃあ、BBCを加えて……」

律「よせっ、よせ!」

 りっちゃんにペンを奪われる。

 まぁラブホテルがリストに入るということは、私と唯ちゃんがラブホテルに入るということで。

 そんなの大変だから、ないほうがいい。

律「あーあとほら、梓からの分もあるし。加えて憂ちゃんと和のぶんもあれば、回りきれないくらいだろ」

澪「ムギごめんな、なんだか任せちゃって」

紬「ううん。私、すごく楽しみだよ」

澪「そっか」

律「それじゃあとは、各自思い付いたら私に報告くれな」

 みんな頷いて、解散となった。



163: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 12:47:07.86 ID:QbZMQD9WO


――――

 1週間後まで何もないのも寂しいので、週中頃、私は唯ちゃんにメールを送った。

紬『やっほー』

唯『やっほー! どうかしたの?』

紬『会えないけど、元気かなって』

唯『そうそう、聞いて! 今なんか、きてるの!』

紬『何かあったの? 思い出したりした!?』

唯『わかんないんだけど、リコピンってあるじゃん、ニンジンの』

紬『リコピンはトマトで、ニンジンはカロテンだと思うわ』

唯『あ、トマトのリコピン。でリコピンがね、頭の中ぐーるぐーるして、笑いが止まんないの!』

唯『トマトのリコピンって! つむぎちゃん、わたし死んじゃうよー』

紬『生きて! 笑顔で死ねることはとっても幸せだけど生きて!』

唯『うん、大丈夫』

紬『あ、スベっちゃった……』



164: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 12:51:08.07 ID:QbZMQD9WO


唯『また紬ちゃんに助けてもらっちゃった』

紬『複雑です』

唯『あ、それで結局リコピンって?』

紬『リコピンッ』

唯『はなみず出ちゃった』

紬『とっても綺麗よ、宝石みたい。これほどの輝きは私でも見たことのない、まさに世界が憧れる美宝石……』

唯『紬ちゃんはネタに走ると寒いからやめようね』

紬『ありがとうございます。リコピンはね、りっちゃんの持ちギャグなの』

唯『持ちギャグですか……』

紬『今度会ったときにふってみるといいわ』

紬「……りっちゃんりっちゃん、ちょっと」

律「わっ、なんだムギこんな時間に……」

紬「実は唯ちゃんが……」

律「なにっ」



166: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 12:55:26.28 ID:QbZMQD9WO


唯『あ、なんかりっちゃんからメールきた』

紬『何かあったのかな?』

紬『唯ちゃん?』

紬『あ、あれ? 怒っちゃった?』

唯『おこってない』

唯『だめ しぬ』

紬『……おやすみ』

唯『見捨てないで』

紬『……リコピン』

 数時間後、唯ちゃんは「腹筋が6つに割れた」といってお腹の写真を撮って送ってきたので大変だった。

 唯ちゃんはわかっててやってる。

 そうだ、私を誘惑しているんだ。

 わたしのことが好きなのよね、ねぇ唯ちゃん。



169: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 12:59:13.06 ID:QbZMQD9WO


 金曜日、私たちはまた唯ちゃんの家に集合した。

唯「やっほう、みんな」

 唯ちゃんは元気そうにゴロゴロしていて、私たちの名前をひとりずつ呼んでいった。

律「なんか、ふつうに調子よくなってきたじゃん、記憶力」

唯「でしょ。放課後ティータイムの曲、ぜんぶ歌えるよ」

律「よしっ、じゃあ一曲!」

紬「りっちゃん。先にみんなが気付いた思い出の場所を合わせようよ」

 唯ちゃんの歌いたい気持ちも、りっちゃんが聴きたい気持ちもわかるけれど、

 これで歌えなかったら、唯ちゃんがどんなに申し訳ない気持ちになるかも考えてほしい。

紬「和ちゃん、憂ちゃん」

澪「梓も、ちゃんと持ってきてるか?」

梓「もちろんです」



170: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 13:03:35.92 ID:QbZMQD9WO


 みんなでリストを出し、テーブルの上に並べる。

 ざっと見た感じ、100箇所くらいだろうか。

 近所のスーパーや駄菓子屋さん、公園といった今すぐ行って帰ってこれるところから、

 電車に乗らないと行けないテーマパーク、日帰りともいかない温泉旅館やスキー場。

 海外も当然のようにあった。

 私たちがあとから加えたファストフード店や交通量調査のバイトをした交差点や、

 こっそり二人で行ったというデートスポットもたくさん追加され、

 梓ちゃんがいつの間にか唯ちゃんと行っていた映画館や水族館やプラネタリウムなどのベタにムーディな場所など、

 回りきるのに2週間なんて当然足りず、2ヶ月でも怪しいところだった。

澪「……ふつう、歴史人物でもここまでゆかりの地はないぞ」

唯「うーん、なんとなく壮観だね」

憂「お姉ちゃんの歴史だね!」

梓「ロンドンだのメルボルンだの、本当に行くつもりですか?」



174: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 13:07:06.08 ID:QbZMQD9WO


律「そりゃあ、必要とあらばな。ていうか梓、お前は唯とデート行き過ぎ」

紬「つきあってたとか?」

梓「ち、ちがいます……よ?」

 半分くらいは付き合ってる気分だったかも、という顔の梓ちゃん。

 正直、りっちゃんや澪ちゃんから聞かされたデートの様子を思うと、

 唯ちゃんはみんなと半分くらいは付き合っているつもりだったと言っても妄言にはならないと思う。

 唯ちゃんに、好きな人は、と訊くとそう訊いてきた人の名前をだいたい答えたというけれど、

 もしかしたら本当に、「好きな人は?」だなんて訊いてくる人たちほぼみんなを、

 そういう意味で好きだった可能性もある。

律「うん、まあ、違うから安心しろ」

 りっちゃんがばっさりいって、唯ちゃんの顔をちらっと見た。

唯「む?」

律「……にしても、これだけあると回りきるのに何日かかるかな。特に遊園地だ水族館だは、学校終わってからじゃ無理だし」



177: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 13:11:32.71 ID:QbZMQD9WO


 確かに、それは気になるところだ。

 みんなや唯ちゃんの都合もそうだけれど、あまり時間をかけるのは良くないと思う。

 こうして暮らしているうちにも、「記憶を失った平沢唯の記憶」はどんどん作られている。

 そしてだんだん不自由がなくなって、唯ちゃんが過去の記憶に興味をもたなくなったら、

 きっともう記憶は戻らない。ような気がする。

紬「……わたし」

唯「ん? 紬ちゃん、どうしたの?」

紬「わたし、休学するわ」

 そうするのが、私にとって一番いいことだ。

憂「紬さん……」

 後悔をしたくない。

 それだけの理由でいうなら、私は今すぐ、そうしなければならなかった。



182: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 13:15:10.16 ID:QbZMQD9WO


唯「つ、紬ちゃん? そんなことしなくて大丈夫だよ、私ぜんぜん待つから」

紬「ううん、急がないとだめ。それに、これは唯ちゃんのためっていうより私のためだから」

紬「唯ちゃんは気にしなくていいの」

 頬を包んで、親指で撫でる。

唯「よくわかんないよ……」

紬「大丈夫」

 私はみんなを見回す。

律「え、あ、ムギ。なにもそこまでしなくてもいいんじゃないか。夏休みまで待てば、時間はたっぷりあるし」

紬「それで間に合わなかったら、一生後悔するもん」

梓「ムギ先輩? 間に合うとか間に合わないとか、何の話ですか?」

紬「遅くなったら、唯ちゃんの記憶が戻らないかもしれないって思うの」

 私は、さっき考えたことをみんなに伝えた。



185: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 13:18:13.22 ID:QbZMQD9WO


澪「唯の自分の記憶に対する興味か……」

和「唯は移り気だし、戻らないかもって思ったらすぐ諦めそうな気はするわね」

唯「そ、そんなことないよ……」

 唯ちゃんはまだ私に遠慮を続けた。

唯「紬ちゃん、私は私なんだよね? なのに記憶、そんなに焦って取り戻さないといけないの?」

紬「ごめんね。急がないと、唯ちゃんが本当に今までのこと忘れちゃいそうで、不安なの」

憂「……お姉ちゃん、甘えたほうがいいよ」

 最初に賛同したのは憂ちゃんだった。

憂「紬さんはもう決めちゃったんだよ。お姉ちゃんがだめって言ってもきかないんだもん」

憂「お姉ちゃんはもうきっと、紬さんに協力してあげる側にさえ立たされちゃってると思うんだ」

 私は唯ちゃんに見せるように頷いた。

 今の私は、唯ちゃんのためというよりは、私の気持ちを本位に動いている。

 それは、唯ちゃんがガイドとして和ちゃんを選ばなかった理由によく似ているように思った。



192: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 13:21:06.28 ID:QbZMQD9WO


和「私も、ムギにちゃんとした覚悟があるなら、唯が止めても無駄だと思うわ」

梓「……はい」

 和ちゃんと梓ちゃんが続く。

 多数決で決めるとすれば、私の休学はもう決定だ。

澪「……」

紬「唯ちゃん。いいって言って?」

 私はひざまずいて唯ちゃんの手をとる。

 唯ちゃんはためらいがちに視線を返した。

唯「……もし、私の記憶が戻らなくても、嫌いにならない?」

紬「なるわけない。みんな同じよ」

紬「唯ちゃんが大好き」

 唯ちゃんはソファから滑り降りて、私と同じ目線の高さになった。

唯「じゃあ信じる。紬ちゃんに、迷惑かけちゃう」



198: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 13:24:10.74 ID:QbZMQD9WO


紬「……ありがとう」

 私は唯ちゃんをぎゅっと抱きしめた。

澪「唯が悪いんじゃないからな。プレッシャー感じないで、楽しんでいいぞ」

唯「澪ちゃん。うん、わかった」

 その後、私はいったん一人で1階に降り、メイドに電話をかけた。

菫『お待たせいたしました、斎藤菫です』

紬「こんにちは、菫。わたし大学を半期休学することにしたから、お父様にそう伝えてくれる?」

菫『はい、わか……えっちょっと!?』

紬「よろしくね?」

菫『えっと……その、がんばりますが……』

紬「ありがとう」

菫『おじょ』

 これでよし。

 明日から、唯ちゃんの思い出の場所を巡る日々が始まる。



201: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 13:27:04.80 ID:QbZMQD9WO


紬「ただいま、みんな」

律「おう、何の用事だったんだ?」

紬「ないしょ。それより、これからの相談をもうちょっとしましょ?」

 全ての場所をまわるのは当然としても、優先的にまわるべき場所、

 つまり思い出深いだろう場所をみんなに教えてもらわないと。

律「そうそう、思ってたんだけど、拠点はどっちにするんだ?」

澪「拠点?」

律「私たちの寮と唯の家って結構離れてるだろ。ムギが毎日迎えに行くとなると、交通費がけっこう……」

紬「別にかまわないわよ?」

梓「そういうわけにもいきませんって。ムギ先輩は背負いこみすぎです」

和「とにかく、唯がこの家に住むのか、寮に住むのか話し合おうということね」

律「そういうこと。さすがにムギがこっちに居候するわけにもいかないだろ?」



203: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 13:30:09.95 ID:QbZMQD9WO


唯「私はいいけど……」

憂「だめだよ。お迎えするお部屋がないし」

 もうちょっとで唯ちゃんと同棲できそうだったけど、さすがに止められた。

梓「行く場所にもよりますよ。寮のほうが近いなら、当然寮から向かったほうがいいですし」

律「じゃあ基本は唯の家で、寮から近いところに行くなら、前日泊まってもらうか」

和「そうすると、まわっていく場所を家から近い場所、寮から近い場所に分けておくべきね」

澪「うん、ちゃんと分ければ唯の移動は1回で済むな」

唯「これはもはや引っ越しですな」

憂「……またお引っ越しかあ」

梓「今回はしょうがないね」

 梓ちゃんが憂ちゃんを撫でている珍しい光景が見れた。

和「それじゃあ、その分類にあたってこのリストのマップ化が必要ね」



205: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 13:33:01.12 ID:QbZMQD9WO


律「そうだな……京都やロンドンはともかく、他は位置関係がよくわからない」

梓「え、律先輩メルボルンわからないんですか」

律「南米だろ?」

澪「とりあえず、地図を作るならパソコンが必要だな。唯の家にはなかったんだよな」

憂「はい、うちには……」

律「じゃあ、澪ん家の……って、寮に持ってったんだったな」

梓「私の家にありますが……」

紬「大学の情報室で、みんなで分担したほうがいいわ。これだけあったら大変だもの」

唯「私も手伝う!」

澪「唯って休学中だけど、大学のパソコンにログインできるのかな」

律「知らん。……まぁ、唯はじっとしてろ。土日でちゃちゃっとやっちゃうし」

唯「えーん……」

梓「それなら、唯先輩は私の家でやりませんか?」



208: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 13:36:18.62 ID:QbZMQD9WO


 それからしばらく話し合い、私たちは月曜日までに地図を作ることにした。

 リストは3部コピーして梓ちゃんと憂ちゃんと和ちゃんに渡した。

 その場所のエピソードをメモしてもらうためだけど、梓ちゃんに渡したのは別の理由がある。

 私たち3人が地図を作る間、唯ちゃんは梓ちゃんの家を訪ねることになった。

 そこで梓ちゃんが持っているリストから気になる場所があればチェックして、自分でも調べてみてほしいと伝えたのだ。

 特に意味があるわけではない、厄介払いに近い行為だけれど、唯ちゃんは喜んでいた。

 かわいかった。

 さて、今度はお泊まり会には発展せずに、電車で寮に帰ることになった。

律「おっぷす」

 澪ちゃん、りっちゃん、私と改札を通ろうとすると、りっちゃんの前で改札が閉まった。

律「残高不足か。ムギ、ついてきて」

 そしてなぜか私まで、券売機に連れていかれた。



210: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 13:39:33.19 ID:QbZMQD9WO


紬「りっちゃん、お金ないの?」

律「いいや。ちょっと澪に隠れて聞きたいことがある」

 りっちゃんはポケットから出したスイカを財布に戻しながら言った。

律「ちょっと、耳貸せ」

紬「う、うん」

 少し膝を曲げて、言われるままにりっちゃんの口元に耳を寄せた。

律「唯って、レズなのか」

 早口に、変に切羽詰まったようにりっちゃんはそう訊いた。

紬「……どうしてそんなこと訊くの?」

律「いいから、どう思う? はやく答えてくれ、澪に怪しまれる」

 私のほうこそ無駄な問いかけをしたなと思う。

 りっちゃんが何を根拠に疑ったかなんて、簡単に想像がつく。

紬「ちがうと思うわ」



212: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 13:42:37.34 ID:QbZMQD9WO


紬「って……そう言われたら、りっちゃんはどうなっちゃうのかな?」

律「な、なんだよ」

紬「なんで唯ちゃんが、りっちゃんの思ったような人でなきゃいけないの?」

 でも、その理由がわからない。

 りっちゃんは、どうしてそんなことをわざわざ疑いたいんだろう。

律「べ、別にいいだろ、それより真面目に答えろって。大事な話だぞ」

紬「大事な話? どこが?」

 友達の恋愛のことだからとても大事な話なんだけれど、私はとぼけておいた。

律「っ……すまん、もういい。行こう」

紬「……むぅ」

 逃げられてしまった。

 りっちゃんにとっては、唯ちゃんが同性愛者なのかどうかは、すごく大事な話らしい。

 その理由には、なにか限りない可能性があるような気がするのだけど。



214: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 13:45:15.76 ID:QbZMQD9WO


律「ムギー! はやく来い!」

紬「あっ、ごめんね、今行く!」

 とにかく、今はそれより唯ちゃんの記憶。

 目先の百合にとらわれては、いずれ大きな百合を逃すに違いない。

紬「……」

 いや、きっと、それは百合というよりも。

澪「まったく、500円そこらもないとか恥ずかしいな」

律「やー、ごめんムギ。帰ったらちゃんと返すな」

紬「う、うん。わかった。……」

 帰りの電車内、唯ちゃんがいないだけなのに、私はずっと寂しいような気持ちだった。

 この気持ちはいいのだろうか。

 そして本当なのだろうか。

 私は、許されない恋愛に手を染めていて、まもなく、その熱い海に飛び込もうとしていた。



217: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 13:48:14.90 ID:QbZMQD9WO


――――

 日曜日の夕方、唯ちゃん思い出の場所を網羅した地図が出来上がった。

 全20枚で、両面印刷して地図帳みたいに作り上げた。

 終わりのほうのページに置いた思い出の地リストは家から近い順に並べられ、

 唯ちゃんの寮への引っ越しを表す実線にはなんだか存在感があった。

律「明日ムギは、それを持って唯んちに行くんだよな」

 私の脚をマッサージしてくれながら、りっちゃんが確認をとる。

紬「うん、それで商店街のお店をまわるつもり。あんまり期待できないけど」

律「可能性があるなら、いくしかない。憂ちゃんが挙げたところもあるしな」

紬「すぐには何もないかも知れないけど、思い出の場所をまわり続けたら、変化があるかもしれないし」

律「そうだな、何日も通して記憶を揺さぶり続けるってのも、今までやってなかったことだ」

紬「……唯ちゃんの記憶、戻るかな?」

律「戻るさ、きっと」

 りっちゃんは私のお尻を揉みながら、フフッと笑った。



218: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 13:51:16.47 ID:QbZMQD9WO


 翌日は早起きしておしゃれして、朝から唯ちゃんの家を訪ねた。

憂「早いですね、紬さん」

紬「楽しみで楽しみで。私の知らない、唯ちゃんの思い出の場所にも行けるから」

憂「そうそう、これ、各場所のエピソードです」

 受け取ったメモには、商店街の各店舗で唯ちゃんが好きな商品などについて書かれていた。

憂「今回は手書きですけど、今日学校に行ったら、梓ちゃんのほうからパソコンで送ってもらうので」

憂「明日にでも、全部のメモが律さんから受け取れるはずです。だから、お昼に来ても大丈夫ですよ」

 憂ちゃんは気を遣ったんだろうけど、私はそうもいかない。

紬「ううん憂ちゃん。私はこれが学校のかわりみたいなものだから、昼からなんて悠長にしてられないわ」

憂「それも……そうですね」

紬「唯ちゃんはまだ寝てるの?」

憂「はい。あ、起こしてきてくれます?」



220: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 13:54:08.01 ID:QbZMQD9WO


紬「わかったわ。おはようのキスは必要?」

憂「いえ、前はしてましたが……何言わせるんですか」

紬「今はしなくなっちゃったの?」

憂「は、はやく起こしにいってください!」

紬「はいはーい」

 憂ちゃんを照れさせることに成功して、唯ちゃんの部屋に向かう。

紬「ん、こほん……お姉ちゃーん、朝だよー……」

 すごく似てなかったので普通に起こすことに。

紬「唯ちゃーん、朝よー」

 ドアを開けると、退院の日に入ったときよりずっと強い「生活の匂い」を感じた。

唯「ん……ぁっ! んふ」

 相変わらずの寝言と寝相。

 もしかしたら体力がないんじゃなく、寝ているときにこうだから体力が回復しないだけなのかも。



222: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 13:57:26.16 ID:QbZMQD9WO


 ベッドのそばに寄り、唯ちゃんの頭を撫でた。

紬「起きてー、唯ちゃん」

唯「すぅ、くか……」

紬「ゆーいーちゃん。ちゅーしちゃうよ?」

 冗談めかして言ってみても、胸の奥がじわっと期待をにじませた。

紬「……」

 でも、遅くなればきっと憂ちゃんが怪しんで様子を見にくる。

 それにもう朝なんだから、いくら唯ちゃんでもキスしたら起きちゃうだろう。

紬「……ほーら、起きて」

唯「んー……」

 諦めて、体を揺さぶって起こすことに徹する。

唯「はふ、うい……紬ちゃん!?」

 薄目が開いた瞬間、一気に目をさました。



223: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 14:00:06.00 ID:QbZMQD9WO


紬「おどろいた?」

唯「驚くよ……はぁー。と、とりあえずシャワー浴びるから、下降りてて?」

紬「うん、二度寝しないでね?」

唯「できないよ!」

 驚かせすぎたみたい。

 友達とはいっても、自分のベッドで朝起きて頭を撫でられてたら、あれだけびっくりもするよね。

紬「……うん、成功ね」

 とりあえず満足してみた。

 唯ちゃんを起こすことはできたわけだし、まずはミッションコンプリート。

 憂ちゃんにすすめられたソファで待っていると、

 シャワーを浴びた唯ちゃんと憂ちゃんが朝ごはんを食べ始めた。

 私は途中で食べてきたため見ているだけだけど、

 おいしそうにジャムトーストをかじる唯ちゃんを見ているとなんだかお腹がすいてきた。



224: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 14:03:14.46 ID:QbZMQD9WO


 その後、学校に行く憂ちゃんを見送って、唯ちゃんの着替えを待つ。

 商店街のお店はたいてい10時ぐらいから営業開始と遅くなっていて、急ぐ意味はあまりない。

 だけどじっとしていられなくて、私は着替えのうちに憂ちゃんに渡されたメモに目を通すことにした。

 今日まわる場所は8箇所で、唯ちゃんの体力や門限も考えて夕方にはお家に帰す予定だ。

 商店街だけでなく、少し離れた公園にも行くことになっているから、

 時間的に余裕がありすぎるということもない。

紬「……ん?」

 メモをよく見ると、子供のころからよく買い物に利用しているというスーパーに、奇妙な記述があった。

紬「初恋の相手、鮮魚のサトコさん……?」

 よく分からない。

 よく分からないけど、このスーパーに寄るのはやめにした。

唯「紬ちゃん、お待たせ」

紬「あ、唯ちゃん……まだ出発には早いわよ?」



225: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 14:07:21.58 ID:QbZMQD9WO


 着替えて降りてきた唯ちゃん。

 服装は普段通り、おしゃれでかわいい感じだ。

唯「え、そうなの?」

紬「商店街のお店がだいたい開くのは10時くらいからだから、今いってもまだ閉まってるよ」

唯「なーんだ。紬ちゃんが早くから来てたから、急がないといけないのかと思った」

紬「唯ちゃんに会いたかったから早く来ただけよ」

唯「その台詞、きざだね」

 笑いながら唯ちゃんは私のそばに腰かけた。

唯「私の昔のことについて、聞きたいことがあるんだけどさ」

紬「うん、何でもきいて?」

唯「私って、あずにゃんと付き合ってた可能性があると思わない?」

紬「……それは無いと思うわよ」

唯「だって、二人デートに行った回数はあずにゃんとが一番多かったみたいだし……」



226: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 14:11:10.53 ID:QbZMQD9WO


紬「気になるなら、梓ちゃんに聞いたらちゃんとわかるかもしれないよ?」

 唯ちゃんは驚いて目を丸くした。

唯「だめだよ! 記憶を失う前の話っていっても、私は私なんだから!」

唯「……もしそうだったら、なんか責任とらなきゃいけない気がする」

紬「えっと」

 私はちょっと勇気を出した。

紬「梓ちゃんは、唯ちゃんの恋愛対象に入ってないの?」

唯「それは……すごく微妙」

 唯ちゃんはため息をつく。

唯「遊びにいっていろいろ話を聞かせてもらったんだ。記憶喪失の前のこと」

唯「私からも遊びに誘って、あずにゃんからも遊びに誘ってたらしいよ。気兼ねなく」

唯「今、私がそういう風にしても、あずにゃんは心を開いてくれそうにないし、なんか私も萎えちゃう」



227: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 14:15:06.12 ID:QbZMQD9WO


紬「そうなの……」

 以前の唯ちゃんはそんな梓ちゃん相手でも、強引に心を開いたものだけれど。

 あるいは梓ちゃんが、唯ちゃんでも開けられないほど強く心を閉ざしてしまったか。

紬「梓ちゃんとは確かにデートの頻度が多かったみたいだけど、やっぱり絶対につきあってないわ」

唯「どうして?」

紬「梓ちゃんは、そんなに大事な人から逃げるような子じゃないもの」

唯「……私、やっぱあずにゃんに避けられてるのかぁ」

紬「避けてるっていうのとはまた別だと思うよ? ただ、この状況で付き合ってたことを隠してるのはおかしいわ」

唯「でもさ、正直わたしからアプローチかけてたのは確かだよね」

紬「……あれがアプローチだとするなら、唯ちゃんはほとんどの人にアプローチかけてたよ」

唯「あの、私ってもしかして、最低な……」

紬「誰とも付き合ってなかったんだから、ぜんぜんセーフよ!」

唯「そう言ってもらえると助かるけど……」



229: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 14:19:03.04 ID:QbZMQD9WO


 またため息をもらした。

唯「話をきく限り、色んな子に勘違いさせてそうで……」

 私は、りっちゃんが唯ちゃんとラブホテルに行った話を思い出した。

 そのあとりっちゃんは、真剣な目で、唯ちゃんがビアンなのか尋ねてきた。

 唯ちゃんの行動で勘違いしたとするなら、もっと前にその質問をされているはずだ。

紬「大丈夫よ。そんなにビアンの子で溢れかえってるわけないもの」

唯「うーん……それなら安心かなあ」

 というか、友達が友達に恋愛感情を向け始めたときの違和感はとてつもないものがある。

 特に注視している私が、そういう気持ちの変化に気付かないわけはない。

紬「仮に勘違いさせてても、唯ちゃんが責任とる必要なんてないよ。覚えてないんだし」

紬「思い出してから言い寄られるようなことがあったら、ちゃんと謝ればいいんだから」

唯「え、言い寄られたらおっけーしちゃうかも」

紬「……そこはまあ、一人に絞るなら」

 私にも可能性があるってことでいいの、唯ちゃん。



230: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 14:24:11.10 ID:QbZMQD9WO


 10時近くになったので、私は唯ちゃんを車椅子に押し倒して出発した。

 唯ちゃんが退院してからけっこう経って、体力なんかも元通りだと本人は言うけれど、

 私からすれば唯ちゃんはまだまだヘナヘナで危なっかしい。

 簡単に押し倒せちゃうくらいだし。

唯「日がでてきてるねー」

紬「暑くなるかもね」

 そっと段差をくだって、唯ちゃんに借りた鍵で戸締まりをする。

唯「今年の夏の帽子、買ってないや。まず服屋さんいこうよ」

紬「いいね! これからたくさん出かけるし」

唯「あとは、鍵屋さん」

紬「えっ、鍵屋さん?」

唯「紬ちゃん、うちの合い鍵があったほうがいいでしょ。だから作っちゃおう」

紬「う、嬉しいけど、鍵屋さんあったかな……」

 初デートで合い鍵をもらえるとは思わなかったので、裏のテンションがやたら上がってしまった。



233: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 14:29:28.28 ID:QbZMQD9WO


唯「でね、憂がね……」

紬「へぇ、こっちはりっちゃんが……」

 きりきりと車輪が回る音にかぶせて、唯ちゃんはずっと喋っていた。

 聞き覚えのある話し声がまったくしない、ある種ふたりきりな空の下。

 私、唯ちゃんとデートしてるんだ。

 唯ちゃんが乗った車椅子を私が押して、これはもう手を繋いでるのと同じことだよね。

 こんなに幸せだと、みんなに悪い気までしてくる。

唯「紬ちゃん紬ちゃん、服屋さんだよ」

 商店街につくと、一番端にあった服屋さんを唯ちゃんは指差した。

紬「あれは去年できたお店だから、今日は寄らないの」

唯「私たちで一度も行ったことないの?」

紬「うん、一度も。行ってみたいとは言ってたんだけどね」

唯「そっか。でも他の服屋さんに寄るんだよね?」

紬「そうよ。唯ちゃんのTシャツとかが売ってるところ」



234: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 14:33:07.83 ID:QbZMQD9WO


 商店街の中程まで歩いて、目的のお店「ONODA」に到着する。

唯「ここ?」

 私が車椅子を止めると、唯ちゃんが見上げてきた。

紬「うん、子供のときは、ほとんどがここの服だったんだって」

唯「ふうん……とりあえず入ってみようか」

 車椅子をたたんで脇に持ち、唯ちゃんに続いて小さな店内に入った。

  「いらっしゃーい。アラ、唯ちゃーん!」

 所狭しと並べられた服の奥から、青のアイラインが鮮烈なおじさんが駆け出して、

 大袈裟に唯ちゃんに抱きついた。

唯「……」

紬「……唯ちゃん、伏せて」

 私は車椅子を振り上げ、おばさんなのかおじさんなのかわからない人に斬りかかった。

  「あら、お友達? え、もしかしてカノ……じょっ!?」

 皮一枚で避けられた。



236: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 14:37:29.15 ID:QbZMQD9WO


 ひとまず唯ちゃんから引き離すことには成功した。

 でも私はこの人を殺さなきゃならない。

 唯ちゃんを汚して、唯ちゃんの心を傷つけたこいつを。

唯「紬ちゃん、ストップ」

紬「……えっ」

唯「この人、悪い人じゃない」

紬「……うん」

 とりあえず車椅子が歪んでしまうのもなんだし、一度おろしておくことにした。

  「ゆ、唯ちゃん? なんだか訳がわからないわよ?」

唯「ごめんなさい。でも、紬ちゃんを怒らないでください。ほんとはすごくいい人ですから」

  「そりゃあ、唯ちゃんの彼女さんなんだからいい人でしょうけどぉ……って、なんか他人行儀ね唯ちゃん」

唯「……はい」

紬「えっと、先ほどはすみません。実は……」

 私は唯ちゃんの記憶喪失について、おじさんに説明を試みた。



237: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 14:41:10.42 ID:QbZMQD9WO


  「ふーむ。高熱で記憶喪失ねぇ」

唯「はい、だからおじさんのことも……」

  「おじさん言うな。お姉様でしょ」

唯「……覚えてないんです」

 唯ちゃん、華麗にスルー。

  「まあいいわよ。なんだあ、最近来ないと思ったら入院してたの」

  「うちのTシャツに飽きちゃったのかと思ってたわ。よかったよかった」

 おじさんの手が唯ちゃんの頭に伸びたので、手刀で叩き落とした。

  「嫉妬深い彼女さんね」

唯「琴吹紬っていいます。あと、彼女ではないです」

紬「……ぁ、その、初めまして。遅ればせながら」

  「フン、よろしく。なんだ彼女じゃないのね」

 おかまおじさんは鼻を鳴らした。

  「私がここに女の子を連れてきたときは、その子が彼女だよって言ってたのに」



238: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 14:45:05.08 ID:QbZMQD9WO


唯「覚えてないもので……」

  「いいのいいの! それより唯ちゃんなんかカタイわよ、アタシの前ではもっとくつろいでいいのよ?」

  「あ、申し遅れました店主のホモ田です。って違うわよ、小野田よ、小野田! ウッフフフ!」

 この人、店を出す場所を間違えてる。

紬「ホモ田さん、唯ちゃんとは昔からの顔見知りなんですよね?」

ホモ「……なんかあんた可愛くないわね。ていうか、なんでウチ来たのよ」

紬「実は今、唯ちゃんの記憶を取り戻すために、唯ちゃんの思い出の場所を巡っている所なんです」

唯「ここが一ヶ所目だよ、ホモおじちゃん」

ホモ「あらそう……? なんか素直に嬉しいんだけど、その呼び方は違うからやめろバカ」

ホモ「まあいいわ、つきあったげる。適当に思い出話でもしようかしらね」

 ホモ田さんはくねくねして体をほぐすと、奥の倉庫の前に椅子を2つ置いた。

ホモ「掛けなさい。店番がてら話してあげる」

 私たちは頷くと、カウンターの中に入り、並んで椅子に座った。



240: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 14:50:55.84 ID:QbZMQD9WO


ホモ「そうねぇ……唯ちゃんと初めて話したのは幼稚園のときね。私はまだ30だったわ」

ホモ「もともと唯ちゃんのお父さまお母さまがわりとよく来てて、唯ちゃんと、憂ちゃんも一緒に来てたわね」

ホモ「二人が服を選んでる間に、唯ちゃんたちが私に話しかけてきたの……」

 ホモ田さんが語るのを聞く限りでは、およそ知り合った経緯は、

 普通に学校のクラスメートと仲良くなることに等しかった。

 ホモ田さんがおかまだからでも、憧れじみた感情があったわけでもない。

 まぁ、あってたまるかというものだ。

ホモ「そうそう、唯ちゃんがレズになったのは、私のせいじゃないわよ。……ってか、そのこと二人知ってる?」

紬「ビ、ビアンって言ってください、せめて」

ホモ「……で、どうなの? もう言っちゃったから遅いけど」

唯「私がレズだっていうのは、目をさましてしばらくしたときにはもう気付いてたよ」

 唯ちゃんまで。

紬「……私は、退院のあとに、唯ちゃんからこっそり聞かされました」



241: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 14:54:22.45 ID:QbZMQD9WO


ホモ「知ってたんならよかったわ。で、そう、唯ちゃんはアタシと話す前からレズだったのよ」

ホモ「ていうか、最初はアタシ、おかまだとは言ってなかったし。影響を与えようがないのよ」

紬「……」

 言われなくても雰囲気でわかると教えたほうがいいのだろうか。

ホモ「まぁ最初は、幼馴染みの、誰だっけあの子」

唯「和ちゃん?」

ホモ「そうそう和ちゃん、その子を好きだって相談されたの。小学校あがったくらいかな?」

ホモ「その時は子供だからと思ったけど、何年経ってもクラスの女の子がかわいい、店員の女の人を好きになった」

ホモ「まぁー男の話なんかひとつもしないの」

 私は、この話を横で聞いていていいのだろうか。

ホモ「4年の時かしら? 憂ちゃんが好きだって言われたときは、あぁ、この子本物だわって思ったわねぇ」

唯「……結局わたし、誰が好きだったの?」

 唯ちゃんが核心にせまる質問をした。



242: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 14:59:08.81 ID:QbZMQD9WO


ホモ「そりゃあ――」

 私は、とっさに耳をふさいだ。

ホモ「……でしょ」

唯「やっぱり、そうなんだ」

 唯ちゃんはなんだか諦めたような顔をしていた。

ホモ「あれ、むぎっこ、何してんの?」

紬「え、いやっ、何でもないですっ」

唯「へ? 紬ちゃん、どうかしたの?」

紬「いいの、いいの気にしないで!」

 ホモはにやにや笑っている。

 唯ちゃんはともかく、この人には間違いなくバレた。

 わたしは、なんて軽率な行動をしてしまったのか。

ホモ「ウフフッ、まあいいじゃない唯ちゃん、人には秘密があるものよ」

唯「うーん?」



243: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 15:04:27.23 ID:QbZMQD9WO


ホモ「それより唯ちゃん、これからは誰狙ってくの?」

唯「いや、まずは記憶を……」

ホモ「過去の恋愛にこだわるのね」

唯「それもそうだけど、もっと大事なことがあるって思うよ。私の記憶には」

唯「なんか最近、気持ちがすかすかするんだ。思い出したいって感じるよ」

 唯ちゃんはホモ田さんの前で、今まで言わなかった気持ちを語った。

ホモ「まあ、それならそれで頑張りなさい。私の話が役に立つといいけど」

 ホモ田さんはふっと笑うと、席を立った。

ホモ「ついでだから、唯ちゃんTシャツ見ていかない? 新作があるのよ」

唯「ほんとに? どんな?」

 唯ちゃんも立ち上がって、店頭に出ていく。

ホモ「これ、ミソスープ」

唯「うわぁ、味噌汁みたいな黄色に本物のワカメで文字がつけてある! いらない!」



244: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 15:09:08.79 ID:QbZMQD9WO


ホモ「うそん、気に入ると思ったのに」

唯「こんなところにワカメがあったら食べちゃうよ」

ホモ「うーん、まぁこれは唯ちゃんにあげるわ」

唯「え、いらないよぉ……」

ホモ「まぁまぁ」

唯「うわあぁぁ……」

 カウンターから出て待っていると、ホモ田さんが唯ちゃんを連れて戻ってきた。

ホモ「あんたは何か欲しいもんないの?」

紬「あ、夏だから帽子が……」

ホモ「帽子ね、商店街の端にできた店が良いもの揃ってるわよ」

紬「……は、はい。ありがとうございます」

ホモ「あっ、そうだそうだ。どっかにクーポンがあったはずよ。あげるから、ちょっと来なさい」

紬「えっ?」

 ホモ田さんは唯ちゃんをそのままに、私を倉庫に連れ込んだ。



245: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 15:14:12.34 ID:QbZMQD9WO


 奥まで来て、ホモ田さんは私を睨むような目で見た。

ホモ「あんたね、しょうもないこと気にしてんじゃないわよ」

紬「えっ、えっと?」

ホモ「唯ちゃんが前に誰を好きだろうが、つきあってようがいいじゃない。そのことよ」

紬「だけど、わたしは……」

 顔が熱くなる。

ホモ「私の話で……っていうか、あんたも唯ちゃんの友達なら分かってると思うけど、とにかくタラシなのよ」

 それは分かる。傍から見ていただけでも、唯ちゃんは色んな子が好きだった。

紬「はい、だから……」

ホモ「だからって退いてどうすんのよ、バカッ。はっきり言うけどね、記憶を失った今がチャンスよ」

ホモ「終わった恋なんて所詮思い出なの。唯ちゃんの記憶を取り戻すーなんて言ってるよりあんた、やるべきことがあるわよ」

ホモ「いい加減、唯ちゃんも落ち着くべき。そう思わない、“ムギちゃん”?」

紬「! で、でも私じゃ……」



246: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 15:19:30.39 ID:QbZMQD9WO


 そうか、小野田さんは唯ちゃんが自分の恋を赤裸々に話せる人だった。

 全てを知っていて当然なのだ。

ホモ「ムギちゃんが唯ちゃんのこと好きなら……ムギちゃん以上に、唯ちゃんに愛されてほしい人はいないわ」

ホモ「……つらかったでしょう」

紬「っ、私は、だって……」

 ホモ田さんの手が私の頭に乗る。

ホモ「あなたには、きっと今しかないわ」

ホモ「唯ちゃんか、唯ちゃんの記憶か、ヘタレてないで決めなさい」

紬「はい……はいっ」

ホモ「……さ、デートの続き、いってらっしゃい。涙拭いてからね」

 背中を押された。

 初めてのことだった。

紬「私……頑張りますっ!」

 私は走って、唯ちゃんのところに戻った。



248: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 15:24:15.87 ID:QbZMQD9WO


唯「あ、おかえりー紬ちゃん」

紬「お待たせ、唯ちゃん。クーポンなかったって」

唯「あれ、そうなの? まあしょうがないか」

 唯ちゃんと一緒に店を後にし、車椅子を開いて座らせる。

紬「先に、帽子買いにいく?」

唯「なんか今日はアーケードあるし、いいかなあって思うけど」

紬「3時くらいに公園にいく予定があるから、その時に寄っていこうか」

唯「うん、そうだね」

 人通りの少ない商店街を、車椅子をおして歩いていく。

唯「次はどこ?」

紬「楽器屋さんだよ。唯ちゃんのギターを買ったところ」

唯「楽器屋さんかあ。何か思い出せるといいなあー」

 車椅子が、なんだか重くなったような気がした。



252: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 15:29:06.72 ID:QbZMQD9WO


――――

唯「なんか帽子かぶって車椅子にのってると、すごく病人の雰囲気が漂うね」

紬「でも、とってもかわいいよ」

唯「エヘン」

 ふんぞり返った唯ちゃんを公園まで運ぶ。

 結局、商店街のいろんな店に行き、いろんな人と話したけれど、

 唯ちゃんの記憶はいまいち刺激されていないようだった。

紬「これから、唯ちゃんが昔よく遊んでた公園にいくからね」

 メモを見ながら歩いていくと、子供のはしゃぎ声が耳に届く。

紬「好きだったのはシーソーで、憂ちゃんと二人がかりで和ちゃんを高く上げっぱなしにして遊んでたって」

唯「うわ、イジメだよそれ」

憂「おかげで未だに、和さんは高いところが苦手なんですよ」

 ほんとにびっくりした。

 ほんとにびっくりした。



255: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 15:33:12.78 ID:QbZMQD9WO


紬「う、憂ちゃん……」

憂「そろそろかと思って、寄ってみました。道中で会えるとは思いませんでしたけど」

唯「憂、おかえりー」

憂「ただいまお姉ちゃん」

 心臓がドキドキする。

 悪いことをしていたわけじゃないし、しようとしていたわけでもないのに、罪悪感に苛まれる気分だった。

唯「憂も公園、一緒に行く?」

憂「うん、いいですよね紬さん? ちゃんと勉強もしますから」

 私が言う前にさっと単語帳を取り出す憂ちゃん。

唯「いいよね?」

 昼下がりの公園で唯ちゃんといい雰囲気になろうと思ったのに、これじゃ何もできない。

紬「……い、いいわよ、もちろん」

 ちょっと表情がこわばった気がする。

 私はなんてひどい友達だろうか。



256: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 15:37:08.14 ID:QbZMQD9WO


 公園にくると、ブランコやすべり台で遊んでいる子供たちから離れて、

 あつらえ向きにシーソーが時を止めたようにじっと動かず佇んでいた。

憂「やりましょう、紬さん」

紬「……本気?」

 シーソーに乗るのは初めてだけど、落っこちたりしないだろうか。

 服が汚れても怪我をしてもいいけど、唯ちゃんに心配をかけたくない。

憂「お姉ちゃんのためです」

紬「……うん」

 だけどそれを言われたら、頷かないわけにはいかない。

唯「憂、ほんとにやるの?」

憂「半分は、このつもりで来たからね。お姉ちゃんもやるんだよ」

唯「うーん、まあ……」



257: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 15:41:29.35 ID:QbZMQD9WO


 シーソーにまたがり、かすがいみたいな持ち手をつかむ。

 反対側に唯ちゃんと憂ちゃんが来て、足がつくぐらいに浮かされる。

憂「いきますよ、紬さん」

唯「しっかり捕まってね!」

紬「わ、わかったわ!」

 言うなり、体ががくんと落ちる。

紬「ひゃっ……」

唯「とぉ!」

 次の瞬間、すごい力にお尻から押されて、体が宙に浮く。

紬「ひっ、やだっ、こわいこわい!」

憂「なかなかいいですよ、紬さん!」

紬「なにがっ……」

 泣きそうになるのをこらえつつ、がくんがくんと揺らされる。

 いっそのこと唯ちゃんが全部思い出してしまえば、この責め苦は終わるのだろうか。



258: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 15:45:12.38 ID:QbZMQD9WO


唯「はぁ、はぁ……どうだ、紬ちゃん!」

 足がつかないままで止められる。

紬「……」

 怖がったらだめなんだ。

 ここで怖がりな顔を見せたら、唯ちゃんに、和ちゃんの顔を思い起こさせてしまう。

紬「まだまだっ!」

 私は、把手を握りしめた両手に力をこめた。

憂「な、なにっ!?」

紬「うぅーんん……!」

 全力でシーソーを地面に向かって押し込んでいく。

 足さえつけば、あとはこっちのもの。

紬「えーい!」

唯「ふおお!」

憂「ひいぃっ!?」



259: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 15:49:16.51 ID:QbZMQD9WO


 琴吹紬、大勝利。

 私たちは、唯ちゃんを挟む並びでベンチに腰かけた。

唯「紬ちゃんには勝てないねー……」

憂「参りました、紬さん」

紬「とんでもない、怖かったわ」

憂「はい……本当にごめんなさい」

 そんなに真剣に謝られても困ってしまう。

 実際のところそこまで怖くなかったし。

 というか全然怖くなかったし。

唯「ふわ……あー。なんか運動したし、ちょっと涼しくなってきたから……」

 唯ちゃんがゆらゆら揺れた。

 シーソーのように、どちらが重いのかはかるように何度か左右に揺れたあと、

 憂ちゃんの太ももに顔をうずめた。



262: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 15:54:29.42 ID:QbZMQD9WO


憂「お姉ちゃん、お昼寝する?」

唯「うむ……おやすみ」

 あっというまに唯ちゃんは寝息を立て始める。

紬「……そんな体勢じゃ寝にくいよ」

 私は唯ちゃんの脚を持って、私の膝に乗せてあげた。

唯「ぐぅぐぅ」

憂「ごめんなさい紬さん、付き合ってもらっちゃって」

 憂ちゃんは唯ちゃんの頭を撫でながら、私を見る。

紬「何言ってるの。憂ちゃんたちだけの問題じゃないんだから、当たり前じゃない」

 そう答えると、憂ちゃんはじっと私の目を、穿るような視線で見つめてきた。

紬「……何?」

憂「本当に、嫌な顔ひとつしませんね」



264: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 15:59:06.34 ID:QbZMQD9WO


紬「……」

 憂ちゃんが何と答えてほしいのかわからなかった。

憂「今日、わざわざ寄ったのはシーソーが半分で」

憂「紬さん。あなたと話をしたかったのが、もう半分です」

紬「私と……」

 きっと話題は唯ちゃんのことだろう。

 それは予想がつくけれど、いったい何についての話だろうか。

憂「単刀直入に訊いてしまいます。紬さんは、お姉ちゃんが好きですよね?」

紬「……好きよ? もちろん」

 私は唯ちゃんの脚に手を置いて、とぼけた。

憂「寝込みを襲って、キスするぐらいにですか?」

紬「あ……う、憂ちゃん、何の話だか、さっぱりわからないわよ?」

 退院の晩のあの行為、見られていたのだろうか。

憂「忘れたとは言わせませんよ。私は、あの時の感触をまだ覚えています」



265: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 16:03:13.34 ID:QbZMQD9WO


紬「は……ぅぁ」

 しばらく、憂ちゃんの言った意味が本気でわからなかった。

 私は唯ちゃんを襲ったはずだ。

 だけど、考えてみればみるほどおかしい。

 あの夜、唯ちゃんを抱きしめたらお風呂に入りたての石鹸のにおいがした。

 それなのに朝、唯ちゃんはシャワーを浴びていた。

紬「ち、違うの……あれは寝ぼけていただけで……」

憂「寝ぼけて唇を吸って、キスしたまま寝ようとしますか?」

 憂ちゃんの顔だけが笑っている。

憂「認めないと、お姉ちゃんを起こしちゃいますよ? 私が膝を揺すればすぐです」

紬「……っ」

 憂ちゃんはきっと、女同士とかに生理的嫌悪はないのだろう。

 だけど、言っていいのだろうか。

 今も、唯ちゃんが最も近しい憂ちゃんに伝えて、本当に大丈夫なのだろうか。



267: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 16:07:46.71 ID:QbZMQD9WO


紬「……そんなことを聞いて、何がしたいの」

憂「まあ、コイバナといいますか」

紬「……私と?」

憂「はい。私だけ話すのでは、不公平ですし」

 会話が続けば続くほど、疑問が次々浮かび上がる。

 けれど、この憂ちゃんの口ぶりからすると、ひとつ確かなことがある。

紬「……ここまでして、憂ちゃんは私に恋の相談をしたいのね?」

憂「はい。……でも相談というからには、一方的ではありませんよ」

 どうするのが正解なんだろうか。

 私が弱味を握られているのは間違いない。

 だけどきっと、憂ちゃんの恋愛相談に対して真剣に受け答えできるほど、私は優しくもない。

紬「……そうよ。唯ちゃんが好き」

 すこし悩んで、唯ちゃんの寝顔を確かめてから、私は言った。

紬「キスしたいくらいに」



268: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 16:11:57.14 ID:QbZMQD9WO


 憂ちゃんは満足げに頷いた、ように見えた。

憂「やっぱり、そうなんですね。安心しました」

紬「安心?」

憂「はい。……もし紬さんが純粋な友情だけで動いてるんだったら、かなわないなって思ってました」

 恐らく、休学や金銭的負担のことを言っているのだろう。

 唯ちゃんと友達を通り越した関係にはなれない、と分かっていたら、私は今回の決断をしただろうか。

 私には判断をつけられなさそうだ。

憂「だからちゃんと、下心があるみたいで安心したんです」

紬「……それで、憂ちゃんのお話は?」

憂「そう焦らないでくださいよ」

 憂ちゃんはくすくす笑った。

憂「紬さんも、あのビデオ見ましたよね」

紬「あの、キスしてるビデオ?」

 憂ちゃんは楽しげに頷く。



269: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 16:15:15.90 ID:QbZMQD9WO


憂「紬さんは、あれをどう受けとりましたか?」

紬「どうって、その……」

 えっちなビデオだと思った、とは素直に言えない。

紬「や、やりすぎかな? って思ったかも」

憂「確かに、さすがに今はあんな風にキスをすることはないですね」

憂「高校に入るすこし前から、お姉ちゃんはキスをねだっても断るようになりました」

紬「そんなに最近までキスをしてたの?」

 私は驚いて訊ねた。

 中学生ともなれば、えっちな話がそこかしこから聞こえてくるものだ。

 そんな中で3年近く、純粋な姉妹のスキンシップとしてキスをしていたとは考えにくい。

憂「……もしかして、私が何もわからずにお姉ちゃんとキスをしていたと思ってますか?」

 私は即座に首を振った。

 なるほど、憂ちゃんの恋愛相談とは、私にはちょっと荷が重いかもしれない。

紬「憂ちゃんは、おねえちゃんが好きなのね」



271: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 16:19:31.34 ID:QbZMQD9WO


 ジャングルジムの子供が騒いだ。

憂「……好きでした」

憂「ううん、今も好きです。お姉ちゃんが……大好き」

 誰も乗っていないシーソーが、風に吹かれて傾く。

紬「……憂ちゃんも、記憶喪失から唯ちゃんが変わってしまったと思うの?」

憂「いいえ。お姉ちゃんは変わっていません。……でも」

 私は、とつぜん震えた声にびくりとして憂ちゃんの顔を見つめた。

 憂ちゃんは肩を縮めて、目からぼろぼろ涙を溢れさせていた。

憂「私なんかが……お姉ちゃんを好きでいい資格なんかないんですっ! 私は、私は……っ!」

唯「……憂!?」

 涙が唯ちゃんの頬に落ちて、唯ちゃんが目を覚ます。

唯「紬ちゃん、憂に何言ったの!」

紬「な、なにも言ってないわ……たぶん」

 私だって何があったのか、わけがわからない。



272: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 16:23:09.67 ID:QbZMQD9WO


憂「ごめ、んねっ、お姉ちゃん、紬さんはなんにも……」

 起き上がった唯ちゃんは、何も言わずに憂ちゃんを抱きしめる。

憂「お姉ちゃんっ……ごめんね、ごめんなさい……」

唯「よしよし。大丈夫だよ」

紬「……」

 私はふと、澪ちゃんが憂ちゃんを疑っていたことを思い出した。

 唯ちゃんが記憶を失った何らかの原因を、憂ちゃんは隠している可能性がある、という疑いだ。

 また、その原因自体を作ったのも憂ちゃんではないか、と思っているようにも見えた。

紬「……憂ちゃん、後で連絡するわ」

 どちらにしろ、今は話を続行するのは不可能だ。

 私はベンチから立ち上がる。

憂「はいっ……」

唯「紬ちゃん、今日は帰るの?」



274: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 16:27:14.42 ID:QbZMQD9WO


紬「うん、お邪魔みたいだし」

 どちらかといえば、早くこの場を離れたいだけだった。

 唯ちゃんが私よりも憂ちゃんを愛して、私を一瞬でも睨み付けたこの場所を。

唯「また明日ね」

 唯ちゃんは小さく頷くと、また固く憂ちゃんを抱きしめた。

憂「も、もう平気だよ、お姉ちゃん……」

唯「……」

 私はランプの炎が消えるように、そっと思い出の公園を去った。

 電車に揺られながら、私は考える。

 もし仮に憂ちゃんが、私の想像しているようなことをして、それが原因で唯ちゃんの記憶が失われたとする。

 それなら、唯ちゃんを愛していい資格がないのは、私も同じのはずだ。

 くちびるを指で触る。

 このくちびるは、憂ちゃんの、唯ちゃんのキスを無抵抗のままに奪ったのだ。



276: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 16:31:10.32 ID:QbZMQD9WO


――――

 寮に帰って、りっちゃんにあらましを報告してから、ベッドに倒れ込んだ。

 引きずられるように食堂に連れていかれご飯を食べ、またベッドにしがみついてぐったり。

紬「……唯ちゃんじゃなかったんだ」

 今更になって、そんなことが苦しいような気がする。

 ちょうど、部屋のドアがノックされた。

 りっちゃんが部屋に入ってきて、明日の行程を書いた紙を渡した。

律「なあ、ムギ……すごい疲れてるけど、なんかあったのか?」

紬「……シーソー」

 心配してくれるのは嬉しいけれど、ありのまま話すわけにはいかなかった。

律「え、シーソー?」

紬「それだけだから、心配しないで」

律「え、ちょっと、意味が」



277: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 16:35:10.53 ID:QbZMQD9WO


 りっちゃんを部屋から追い出すと、私は憂ちゃんに話の続きをしなければと思った。

 憂ちゃんはもしかしたら、本当に澪ちゃんの想像通りのことをしていたのかもしれない。

 あるいは、その疑いが、完全に潔白だとわかるかもしれない。

 ともかく憂ちゃんとの約束は守らないといけない。

 私は携帯から、憂ちゃんの番号をプッシュした。

憂『……こんばんは、紬さん』

紬「こんばんは。もう落ち着いたかしら?」

憂『はい。お姉ちゃんのおかげです』

紬「よかった。……それで、話がききたいんだけど、大丈夫かしら?」

憂『……ええ、どうぞ』

紬「唯ちゃんを好きでいる資格が憂ちゃんにない……って言ったわよね」

紬「どういう意味なのか、教えてほしいの」

憂『……私は、お姉ちゃんが好きでした』

 憂ちゃんは繰り返し言った。



279: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 16:39:16.11 ID:QbZMQD9WO


憂『子供のときから……キスしてもらうたび、お姉ちゃんを好きな気持ちが強くなって』

憂『お姉ちゃんも私を好きなんだって思ってたんですが……事実子供のころはそうだったのかもしれません』

紬「うん……」

 ホモ田さんの話では、唯ちゃんは確かに憂ちゃんが好きだった時期がある。

 それがどれほど長く、どれほど本気だったかは聞けなかったけれど。

憂『でも、お姉ちゃんは違った……私の片想いだった』

憂『高校生になって、キスは禁止ってはっきり拒絶されて、ようやく気付いたんですよ……恥ずかしながら』

紬「勘違いしないほうがおかしいと思うわ。憂ちゃんはおかしくないよ」

憂『……ありがとうございます』

 憂ちゃんはちょっと鼻をすすった。

憂『記憶喪失のけっこう前に、私はお姉ちゃんから、寮住まいになるって話を聞いていました』

憂『お姉ちゃんが離れていっちゃうって、私から逃げようとしてるって、思ったんです』

憂『だから、私は……』

 憂ちゃんは息をつまらせた。



281: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 16:43:13.57 ID:QbZMQD9WO


憂『お姉ちゃんが帰ってきた日、お姉ちゃんに、ひどいことを……っ。最低なことをしちゃったんです』

憂『お姉ちゃん、すごく悲しそうに泣いてました……』

紬「……憂ちゃんは、唯ちゃんを襲ったの?」

憂『はいっ……』

 つまり、澪ちゃんの想像した通りだったということだ。

紬「そのショックで、唯ちゃんは記憶をなくした……って考えてる?」

憂『それ以外に……間違いないと思います』

 憂ちゃんの鼻声や、声の震えから察するに、また憂ちゃんは泣いていた。

 憂ちゃんはとても反省している。

 私だって責めていい立場じゃない。むしろ私のほうが、よほど汚れていた。

 私は今、こんなことを考えている。

 憂ちゃんのおかげで、0%だった可能性がぐんと上がったのだ、と。

紬「……たぶん、こんなことを言ってほしいんじゃないと思うけど」

紬「憂ちゃんのこと、私は責めないし、許すわ」



282: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 16:47:12.62 ID:QbZMQD9WO


憂『……ちょっとは気が楽になります』

紬「きっと、唯ちゃんに許してもらわないと気持ちは晴れないわね」

憂『許してもらえなくてもいいんです。私がしたことも忘れてしまったお姉ちゃんに』

憂『なんでもないような顔をして接している自分が、すごく嫌で……』

 憂ちゃんは、だんだん声が大きくなってきたのを自覚してか、ぼふんとベッドに倒れ込む音を立てた。

憂『それなのに、お姉ちゃんを好きな気持ちはぜんぜん変わらなくて、抑えたいし消したいのに、膨れるばかりで!』

憂『教えてください紬さん……どうしたら、元の姉妹に戻れますか』

紬「……」

 憂ちゃんの相談はすなわち、恋を成就させたい悩みではなく、恋を諦めたいタイプの悩みだった。

憂『変われないまま、お姉ちゃんが私のしたことを思い出せば……二度と近寄れなくなります』

憂『どうか、それだけは避けたいんです』



284: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 16:51:17.19 ID:QbZMQD9WO


 私は目を閉じて、策を考えた。

紬「唯ちゃんはきっと、そのままでも許すと思うわ」

憂『……え?』

紬「唯ちゃんが記憶を取り戻して、憂ちゃんのしたことを思い出しても、唯ちゃんは憂ちゃんのことを許すはずよ」

憂『それは……』

紬「うん、ちょっとくすぐったい話……」

紬「唯ちゃんがなくした17年の憂ちゃんとの思い出に、それだけの価値があるってこと」

憂『つむぎ、さん……』

紬「大丈夫だよ憂ちゃん。唯ちゃんの思い出は、ちゃんと全部取り返すから」

紬「心配しないで、おねえちゃんにちょっとだけ怒られる日を、待っててね」

憂『ひっ……ぐし、つむぎさぁ、ん……ありがとう、ござっ……うぅ』

紬「……ううん、私のおかげじゃないよ」

紬「そんなことより、この前キスしちゃってごめんなさい。気持ち悪かったよね」



285: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 16:55:17.46 ID:QbZMQD9WO


憂『い、いいんです、そんなことぉ……んぐっ、う……』

紬「……今日はおねえちゃんと一緒に寝たら?」

憂『は、はいっ、そうします……』

 また唯ちゃんに妹を泣かせたと怒られるかもしれない。

憂『それじゃあ……もう失礼します、おやすみなさい』

紬「うん、がんばって。おやすみなさい」

 明日のデートコースに、さりげなくアイス屋さんかクレープ屋さんを混ぜておくことを決めて、

 私は憂ちゃんとの電話を切ると、お風呂場へと向かった。

 明日も唯ちゃんを起こすために、早起きしたい。

 私は10時には部屋を暗くして、布団に入った。

紬「唯ちゃんか、唯ちゃんの記憶か……ね」

 目を閉じる前に、ホモ田さんの話が胸をよぎった。




286: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 16:59:13.62 ID:QbZMQD9WO


 私が選ぶのは、もちろん唯ちゃんだ。

 だけど、それは唯ちゃんを騙していることになる。

 同時に、みんなを永遠に傷つけることにもなる。

 もしうまくいって、唯ちゃんと付き合えても、

 私は他の、澪ちゃんたちからの信用をなくして、放課後ティータイムに綻びをつくることになるかもしれない。

 琴吹紬にその覚悟はあるのか。

紬「……」

 唯ちゃんと付き合えたら、そのことを内緒にし続けるのだろうか。

 そんなことは不可能だし、何より不安で仕方ない。

 憂ちゃんが、唯ちゃんがあんなに可愛がっている妹が、唯ちゃんのことを好きだった。

 他の誰かにも、その可能性を疑ったほうがいい。



288: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 17:03:08.41 ID:QbZMQD9WO


 たとえば、唯ちゃんがビアンなのか、真剣な目で訊ねてきたりっちゃん。

 性格がらそんなこと考えもしないだろうに、ナチュラルに姉妹間の近親姦を疑った澪ちゃん。

 自分からも頻繁に唯ちゃんをデートに誘っていた梓ちゃん。

 誰かが唯ちゃんを好きで、唯ちゃんに告白したら、なんて断らせたらいいのか。

 それから、この3人に先んじられることだって。

紬「どうしよう……」

 唯ちゃんか、唯ちゃんの記憶だけなら、私は迷わず唯ちゃんを選ぶ。

 だけど唯ちゃんの記憶には、私にもまつわるたくさんの絆が絡み、

 また、唯ちゃんの視線を他の女の子に向けさせてもいた。

紬「……」

 全てを犠牲にする覚悟さえあれば、すぐにだって行動したい。

 だけど唯ちゃんにとって、それは歓迎できる事態じゃない。

 あからさまに八方塞がりなこの状況に、

 私はやっぱり、自分の恋は許されたものではないのだと感じさせられた。



289: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 17:07:18.98 ID:QbZMQD9WO


――――

唯『ハロー、ツムギ。ハワーユー?』

唯『ごめんね。やっぱり怒ってるね。私あわてちゃって、紬ちゃんにひどいこと言ってごめん』

唯『本当にごめんなさい。紬ちゃんは本当に優しいし、大好きに思ってるよ』

唯『怒っちゃやだ。好きだよ』

唯『紬ちゃんはね、あったかいし笑顔がかわいいし、一緒にいてとっても楽しいんだ』

唯『他のみんなに悪いかもしれないけど、みんなの中で、段違いに大好きなの』

唯『わたし、紬ちゃんがいないと生きてけない。ずっとそばにいてほしい』

唯『信じるっていったばかりだけど、紬ちゃんになら裏切られたっていいよ。それでも信じるから』

唯『もしかして寝てる?』

唯『起きてて怒ってるだけなら、お返事をお願いいたします』

唯『ちょっとさっきまでのほんとになし』

唯『おはよう! 昨日の夜送ったメール、全部誤送信だから見ないで消してね!』



291: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 17:11:08.10 ID:QbZMQD9WO


――――

 かわいい。

 朝から鼻血が出た。

 もちろん全部保護をかけた。

 メールを待ち受けにすることってできないのかな。

 唯ちゃんの家に行くまでの電車でもずっとニヤニヤして何度も眺めてた。

 こんなに好き好き言われたら勘違いしちゃうよ、唯ちゃん。

 まして私は、唯ちゃんがビアンだって教えてもらってるのに。

 でも、本当にそういう相手なら、いくら唯ちゃんでも面と向かって好きだって言えないよね。

 もしかして私、また対象外なんだろうか。

 優しくするのって唯ちゃんのタイプじゃなかったりするのかな。

 だけど今さら豹変もできないし、唯ちゃんに意地悪なんてもっとできないしで、

 私は今日も憂ちゃんに頼まれて唯ちゃんを起こしに行った。



293: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 17:15:21.11 ID:QbZMQD9WO


紬「唯ちゃーん、おはよー」

唯「ん、んっ」

 相変わらずの寝相。

 ぽんぽんと肩を叩くと目を覚ましたようだった。

唯「あ、紬ちゃん……おはよ」

紬「昨日はよく眠れた?」

唯「憂のおかげでなんとか……あ、なんか憂の相談に乗ってくれたんだってね。ありがとう」

紬「いいのいいの。さあ起きて」

唯「ほいー」

 昨日より少し早く家を出て、唯ちゃんとのデートに出発する。

 今日は、唯ちゃんが親御さんとよく行ったというデパートと、

 中学の帰りに頻繁に寄った喫茶店と公園のラインナップだ。



295: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 17:19:40.14 ID:QbZMQD9WO


紬「そういえば唯ちゃん、あのメールだけど」

 今日は歩きの時間が少し長い。

 目的地に行くまでの道で、私はまずその話を振った。

唯「見たのっ!?」

紬「うん、見ちゃった」

 唯ちゃんは帽子を深くかぶって、ひーっと呻いた。

唯「……その、とにかく昨日はごめんね! それだけだよ!」

紬「私こそごめんね。さっそく唯ちゃんの信頼を裏切っちゃった」

唯「もうっ、せめて見なかったことにしてよぉ!」

紬「えへへ」

唯「紬ちゃんなんか嫌い」

 唯ちゃんはすねて「寝てやる」と言うと、本当に数分後、寝息を立て始めてしまった。

 その分、今日は唯ちゃんとあんまり話せなかったなと感じた。



297: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 17:23:25.55 ID:QbZMQD9WO


 唯ちゃんを送ってから寮に帰ると、りっちゃんと澪ちゃんが私を待ち構えていた。

律「ムギ、おかえり」

澪「唯はどうだった?」

紬「うーん、ご機嫌だったけど、まだ何かを思い出す気配はないわ」

 私は思った通りに伝える。

 これまでのところ、唯ちゃんが見聞きした何かに鋭い反応をみせたことはない。

律「そうか……それで、明日なんだけどさ」

 りっちゃんも1日2日で結果が出るとは思っていないだろう。

 明日の連絡に話は動いた。

律「学校には何回か行ってもらおうと思ってるんだけど、とりあえず1回目を明日にしようと思うんだ」

紬「学校ね……」

 桜が丘女子高等学校。

 唯ちゃんにとって、私たちにとって、何よりも強い記憶の場所だ。



298: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 17:27:09.60 ID:QbZMQD9WO


澪「それで、唯の制服は寮の部屋に置きっぱなしになってるだろ?」

紬「うん、クローゼットに入れてあるはず」

 私たちは、放課後ティータイムで演奏するときのために、桜が丘高校の制服をとっておいてある。

 いわばおそろいの衣装としてだ。

澪「せっかく学校に行くわけだし、制服を着せていくべきだと思うから、朝ムギに届けてほしいんだ」

紬「制服かぁ……もちろんいいよ!」

 唯ちゃんの制服。

 毎日見ることができなくなって、もう半年近い。

 明日は久しぶりに、唯ちゃんの制服を一日中堪能できるのだ。

 季節柄、夏服になってしまうのが少し残念だけど。

律「ムギも明日は制服だぞ」

紬「うん……えっ?」

律「え、じゃなくて」



300: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 17:31:19.91 ID:QbZMQD9WO


 まともに考えれば、唯ちゃんだけに制服を着せるなんて、それはもうデートじゃなくてプレイだ。

律「唯の頭の中にあるのは、部室で私服でいる私たちじゃないだろ」

紬「確かに……そっか、じゃあ明日は制服を持っていかないとね」

 なんだか明日は、私も懐かしい気持ちになれそうだ。

澪「着ていってもいいんじゃないか?」

律「それは厳しいだろ……」

澪「でも私は、制服着て行くつもりだけど」

紬「へっ? 澪ちゃんも来るって言ってたっけ?」

 澪ちゃんがあまりにしれっと言ったので、私も記憶喪失になったかと思った。

澪「いや、今初めて言ったけど……授業終わったら、ギターとか簡単に教えてあげようと思って」

紬「そうなんだ。じゃありっちゃんも?」

 久しぶりに部室でみんな集まってティータイムができるかも、と私は胸が高鳴るのを感じた。

律「残念ながら、私はバイト。次は都合あわせるよ」



302: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 17:35:08.71 ID:QbZMQD9WO


紬「……そっか」

 残念だけど仕方がない。

澪「それと、私が来ることは唯には内緒にしといて」

紬「あら、どうして?」

澪「まあ、少し考えがあってさ」

 澪ちゃんは自信ありげな顔をみせた。

紬「……わかったけど……」

 なにか、うまく記憶を刺激する算段でもあるのだろうか。

 それなら、私は唯ちゃんにこのことを伝え、口止めしておくべきだろう。

 唯ちゃんに記憶を取り戻されては、私が困る。

律「あんまり唯をびっくりさせるなよ?」

澪「驚かすつもりじゃないから。律と一緒にするな」

律「じゃあ、どういうおつもりで?」

 ポッキーを食べながら、意外なことにりっちゃんが噛みついた。



304: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 17:38:17.36 ID:QbZMQD9WO


澪「別に大したことじゃ……」

律「なら話してくれたっていいじゃん?」

 一瞬、澪ちゃんが恐ろしい目付きでりっちゃんを睨んだ。

律「なんだよ」

紬「りっちゃん、ここは澪ちゃんに任せようよ」

 なんだってりっちゃんと澪ちゃんがこんなことでケンカになりかけているのか分からないけれど、

 とにかく割って入ることにした。

紬「きっと何か、りっちゃんにも教えられない理由があるんだから……ね?」

澪「……うん。律にはわかってほしい」

律「……すまん」

 りっちゃんは俯くと、小さく言ってふらふらと部屋を出ていった。

紬「澪ちゃん、りっちゃんと何かあったの?」

澪「……ムギは気にしないでいい」

 澪ちゃんも、後味悪そうに床の木目に視線を滑らせていた。



305: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 17:41:25.58 ID:QbZMQD9WO


 何か隠されている。

 部屋に戻ってから、私は腕組みをした。

 りっちゃんと澪ちゃんには、私に話していない秘密があるように見える。

 それは何なのか。

 実は付き合ってる、とかだったらいいのに。

紬「……」

 私は携帯を取り、唯ちゃん宛のメールを作り、そこで迷った。

 明日は学校に行くから、少し早起きをするというのはもちろん連絡事項として伝える。

 ただ、澪ちゃんがサプライズでやって来るというのは言うべきか、言わないべきか。

 もしかしたら澪ちゃんがやろうとすることに、二人の秘密が見え隠れするかもしれない、と思った。

 そうしたら、なるべく澪ちゃんの思う通りにさせてみたほうが、考察の材料は得やすいだろう。

 それに、唯ちゃんにこれを伝えてしまうのは、澪ちゃんに対する裏切りだ。

 記憶についての話だとすれば、それこそ身の回り全員を裏切ることになる。



308: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 17:44:16.35 ID:QbZMQD9WO


――――

紬『唯ちゃん……実は大事な話があるの』

唯『言ってみて?』

紬『明日はなんと唯ちゃんの学校に行っちゃいます! パンパカパーン』

唯『?? え?』

紬『ほら、唯ちゃんゆかりの地めぐり』

唯『あ、そういうことね……っていうか大事な話って切り出してそれ?』

紬『学校に行くってことは、憂ちゃんと一緒に家を出なきゃならないってことよ』

紬『そのためには早起きをしないといけないから、大事な話よ』

唯『いや、ついに告白かと思ったから』

紬『私に告白されたら唯ちゃんどうする?』

唯『そういうずるい質問する人の告白はお断りだなあー』

紬『冗談だってば。そうそう、明日は唯ちゃんの制服持ってそっちに行くからね』



311: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 17:47:14.56 ID:QbZMQD9WO


唯『あ、制服そっちにあるんだっけ』

紬『明日はこれ着て学校行くのよ?』

唯『なんですと……っていうか私の部屋入れたの?』

紬『寮監さんも唯ちゃんと私たちのこと知ってるからね。というより、たまに掃除してるし、合鍵持ってる……』

唯『乙女の部屋を漁っちゃいやーん!』

紬『わたしは唯ちゃんの恥ずかしい秘密をたくさん知ってるのよ!』

唯『例えばどんな?』

紬『そういえば唯ちゃん、まだ寮に来たことないから自分の部屋がどんななのか知らないのよねぇ……』

唯『え、なんか怖い』

紬『まあ言いにくいんだけど……ううん、唯ちゃんにあんな趣味があっても、私は変な目で見たりしないからね』

唯『紬ちゃんの目がいま嘘ついてる目してるの、わかるよ』

紬『うん、まあ、唯ちゃんの部屋はかなり普通だと思うわ』

唯『だよね』

紬『壁じゅうに貼られた1000枚の憂ちゃんの写真以外は』



314: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 17:50:15.79 ID:QbZMQD9WO


唯『紬ちゃん、いくらなんでも怒るよ』

紬『おふざけが過ぎました』

唯『そっちに行くことがあったら、紬ちゃんの部屋調べさせてもらうから』

紬『それまでに片付けちゃうもん』

唯『へぇ、やましいものがあるんだぁ』

紬『……ありません』

唯『いいよいいよ、紬ちゃんもお年頃だもんね!』

紬『違います、おばさんです』

唯『欲求不満の紬おばさん』

紬『あ、それいい、もっと言って』

唯『おやすみなさい』

紬『ああん、唯ちゃんのいけずぅ~』

唯『おやすみなさい、おやすみなさい』

紬『おやすみ。夢の中で会おうね』



317: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 17:53:08.62 ID:QbZMQD9WO


――――

 私と唯ちゃんは、学校から少し離れた喫茶店に来ていた。

 桜が丘から電車に乗ってふた駅の、人気の少ない喫茶店だ。

唯「ミルクティー2つー、あとティラミスとミルクレープを」

 唯ちゃんは「いつもの」とは言わずにちゃんと注文する。

 顔を覚えられている気はするから、言ってみてもわかりそうなものだけれど。

 言ってみるの、夢なんだけどな。

紬「私のケーキはいいのに」

 店員さんが去ってから、私は言った。

唯「まあまあ気にせず」

紬「太っちゃうし……」

唯「ムギちゃんはそんなの気にしなくていいの」

紬「……まあ、そうだけど」

 唯ちゃんの言葉は、ちょっと意地悪だった。



318: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 17:56:10.46 ID:QbZMQD9WO


紬「……今週はなんだったっけ?」

 私は早いうちに切り出しておいた。

唯「まー、ホテルウィズりっちゃんをお忘れですこと? あの一大イベントを!」

紬「静かに。覚えてるけど……言い出し方っていうのがあるから」

唯「うんうん、そうだよね」

 紅茶とケーキが運ばれてくる。

 冷凍庫から出されて間もないティラミスは凍って固かった。

唯「とりあえず、結果の報告だけどね」

紬「失敗したでしょ?」

唯「うぐ……何故わかる」

紬「唯ちゃんの様子みたら分かるよ……大失敗だよね」

唯「……さすがはムギちゃんでごぜえます。やらかしました」

紬「詳しく聞かせて?」

 私は瞳を輝かせた。



319: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 17:59:05.32 ID:QbZMQD9WO


唯「ラブホに連れ込むところまでは、」

紬「ホテルって言って」

 唯ちゃんはついうっかり、とクリームのついた舌を出した。

唯「……ホテルに連れ込むところまでは、全然余裕だったんだよね。りっちゃんもノリノリだった」

紬「うんうん」

唯「シャワー浴びさせるまではうまくいったんだけど、上がってきたらすごい警戒してた」

唯「バスローブとかあるよーってあれだけ言ったのに、制服で出てきたし」

紬「まあ、女同士で仮にもとはいえ、そういう場所だものね……」

唯「とりあえずスタンスは崩さないで、はしゃぎながらちゃちゃっとシャワー浴びて出てくるでしょ」

唯「で、ベッドに入って、せっかくだから一緒に寝ようって」

紬「作戦通り、いったわけね」

 うん、と唯ちゃんは頷く。



321: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 18:02:19.30 ID:QbZMQD9WO


唯「りっちゃんはいや、いい、って」

唯「まあ、おカラダで誘おうものなら余計に……っていうか大自爆だしね、そこは泣き落としで」

紬「入ってくれたの?」

唯「ほんとに寝るだけだからなー、って」

紬「フラグだね」

唯「フラグだよね」

 声をひそめて笑いあうと、ティラミスにフォークが通るようになっていた。

紬「それで、次は?」

唯「すり寄って、ニオイ嗅いだよ。あ、わざとらしくじゃなくね」

紬「で、抱きしめて「いい匂い~」って?」

唯「うん、よくわかるね……」

 唯ちゃんがどうするかぐらい分かるよ。

紬「唯ちゃんの誘いかたってワンパターンすぎるのよ」



323: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 18:05:14.01 ID:QbZMQD9WO


唯「げっ……でも子供のときからこれでなんとかなってきたし」

紬「たまには、押しを覚えたらどうかな?」

唯「だめだめ、私がっつきすぎてるもん。引かれちゃうよ」

紬「引かない。みんな唯ちゃんとならそうなったっていいって言うと思うよ」

唯「もー、ムギちゃんが私びいきなのは分かってるけど、その辺は真面目に考えてよ」

紬「……ごめんなさい」

唯「ううん、いいのいいの! でぇー、どこまで話したっけ」

紬「抱きついたとこまでだね」

唯「そうそう、そこそこ。あー、ここからがまずかったと思うんだ」

唯「今になって思えば、ただヤケになってただけだと思うけど、りっちゃんもなんかね」

唯「私たち、女同士だぞ……いいのか? とか言われてね」

紬「りっちゃん不安定ね。……それ、私も騙されちゃうかも」



324: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 18:08:14.37 ID:QbZMQD9WO


 ティラミスを食べると、生虫のように苦かった。

唯「でしょ。キャラ守るなら、「いいって、何が?」といくべきところだったんだけどさ」

唯「騙されたねぇ……りっちゃんなら良いよとか言って、キスしちゃった」

紬「……」

 墨汁をたらしたように濁ったミルクティーで口をふさいだ。

 切れ味の悪い包丁で潰して切ったような断面をつくり、

 目の前の唯ちゃん以外の世界が削られていく。

 世界の外は、ただ真っ黒だ。

唯「舌を入れようとしたところで、急に突き飛ばされてさ、バカじゃないのかって怒鳴られて逃げられたよ」

唯「駅で追いついたけど、1本あとの電車に乗れって言われたし。完全に焦っちゃった……」

唯「……あれ、ムギちゃん? どこいったの?」



326: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 18:11:10.78 ID:QbZMQD9WO


――――

紬「……」

律「……おはよう、ムギ」

 私は、その額を中指で弾き飛ばしたいのをぐっと堪えた。

紬「……いい夢をみてたところなの。邪魔をしないで」

律「あんなに呻いて、いい夢なわけがあるか」

 りっちゃんはベッドの隅に腰かける。

律「廊下まで聞こえてたぞ。……こないだの、あの声とはちがってたし」

紬「放っておいて。私にとってはいい夢だったの」

律「……なんでムギって、一人で無理しようとするんだよ」

 薄い布団の上から、りっちゃんは私の膝を包んだ。

紬「一人じゃない……一人なんかじゃない」

律「ああ、私たちがいるよ……でも、どう見たってお前、一人で抱え込みすぎだよ」



327: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 18:14:43.01 ID:QbZMQD9WO


紬「……りっちゃんこそ、同じじゃない」

律「私は……いいんだよ、一人で抱える悩みなんだから」

紬「じゃあ私のも同じよ。触らないで」

律「ムギ……」

紬「出ていって。授業もアルバイトもあるんでしょう」

律「授業中に寝るからいいさ。今日はここにいたい」

紬「……」

律「……なあ、ムギ。ちょっと、すごい変なこと言うけど、笑うなよ」

律「もし、ムギが唯のこと好きだったら……唯とつきあってほしい」

律「私にはどうにもできないからさ……ムギ、たのむよ」

 私はのそりと体を起こした。

 目を開けると、窓からちょうど、人を呪えそうな月光がさしていてまぶしかった。

紬「……それは、りっちゃんが唯ちゃんを嫌いだから?」



328: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 18:17:29.95 ID:QbZMQD9WO


律「わけは言えない」

紬「言わなくてもわかるわよ。唯ちゃんが怖いんでしょ」

律「……ムギ、何言ってんだ?」

紬「高校2年生の9月16日、土曜日、唯ちゃんに襲われたでしょ。だから嫌ってるのよね?」

律「……ん、え、お前なんちゅう話してんだ」

紬「なに笑ってるのよ……」

律「お前の言う襲うって、そういう意味だよな……えっと、真面目に答えると、そういう事実はないぞ」

紬「……」

 嘘を言っている様子ではなかった。

 りっちゃんの嘘は、もっと大袈裟だ。

律「……あー、そのくらいだと唯にラブホテルに行かされた日か? まさかほんとにやったと思ってたのかよ」

紬「けど……キスくらいはしたでしょ?」

律「なあムギ、お前リアルの友達で百合妄想するのはやめてくれよ……」



331: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 18:20:08.49 ID:QbZMQD9WO


 唯ちゃんは確かに、あの後も何度か繰り返して、

 りっちゃんとキスをし、大人のキスの手前で逃げられたと言っていた。

 あれほど心が抉られた話を、間違って覚えているはずがない。

 まさか、唯ちゃんは。

紬「……あの見栄っ張り……!」

律「ど、どうした震えて。寒いか?」

 もし唯ちゃんが記憶を戻したら、この件で頬をひっ叩かなければならない。

 今のところは怒りをぶつける相手がいないのが心苦しい。

紬「……ありがとうりっちゃん、ずっと胸につかえていたものが取れたわ」

律「お、おう。どういたしまして」

 さて、私は急いで枕に顔を伏せ、寝たふりをした。

律「……あれっ。私ムギにあの事件の日付なんか教えたか?」

紬「くー、くー」



332: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 18:24:08.79 ID:QbZMQD9WO


律「……まぁ、色々あるってわけか。文字通り、な」

紬「……」

律「唯の件、頼むぞ」

 りっちゃんは私の髪に触れると、立ち上がった。

 その後もりっちゃんは暗い部屋の中で、勝手に冷蔵庫のジュースをあけたりして悠々と過ごしていた。

 長年の胸の痛みはおりた。

 だけど、それだけでは何の解決にもならない。

 唯ちゃんの件を頼まれても、それは最終的に唯ちゃんが決めること。

 そして、みんなが望むのは、唯ちゃんが記憶を取り戻すこと。

 記憶を取り戻した唯ちゃんが決めるのは私じゃない。

 もし、今、私が唯ちゃんに選ばれても、記憶が戻ったらきっと違う。

 私が唯ちゃんを手に入れるなら、唯ちゃんの記憶を封じるしかない。

 これは、何度も考えていること。

 だけど、こんなことをしたら唯ちゃんの思い出が悲しむだろうと、つまらない想像をしてしまう。



334: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 18:28:14.24 ID:QbZMQD9WO


 朝になって、私は制服を2つカバンに詰め、電車に乗った。

 唯ちゃんのことは、大好きだ。

 あの笑顔が見れるなら、友達でも、見ている側でもいいと思った。

 そのうちに独占欲がわいて、私の唯ちゃんへの気持ちは恋へと汚れていった。

 唯ちゃんからみて私が恋愛対象でないことを知っても、気持ちはおさまらなかった。

 私が好きなのは、なにも私を愛してくれる唯ちゃんだけではない。

 あの喫茶店で、唯ちゃんの恋愛相談をうけていても、唯ちゃんと内緒で二人きりなことが嬉しかった。

 だけど、私だけを愛してくれる唯ちゃんが、いちばん好き。

 唯ちゃんを私のものにしたい、というのも紛れもない気持ちだ。

 私はどうしたらいいのだろう。

 いっそ、憂ちゃんがしたように唯ちゃんの信頼をずたずたに引き裂けば、諦めもつくだろうか。

 ……などと、そんな考えが胸に寄り付くようになっていた。



336: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 18:32:04.53 ID:QbZMQD9WO


 インターフォンを鳴らすと、唯ちゃんが迎えにきた。

唯「どう、早起きしたよ!」

紬「えらいえらい」

 自慢げに胸をはる唯ちゃんの頭を撫でて、あがらせてもらう。

唯「紬ちゃんは制服じゃないの?」

紬「ううん、持ってきてるよ。さすがに電車に乗るのは恥ずかしいから……」

唯「紬ちゃん、電車通学だったじゃん……」

紬「それでも無理なものは無理なのっ。私、さきに着替えてるから、ゆっくりご飯食べててね」

唯「覗いていい?」

紬「1回20万円よ」

唯「むむっ……た、高いや。とりあえずギターを売ってお小遣い前借りして……」

紬「唯ちゃん、そこに手を出したら人間終わりだと思うわ」

唯「てへへー」

 てへへーじゃない。



338: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 18:35:16.29 ID:QbZMQD9WO


 久しぶりの制服を着ると、タイを結ぶのに少し手間取った。

 あとで唯ちゃんがやるのを手伝おうと思いながら、2階に戻る。

唯「おー、紬ちゃんかわいいー!」

紬「え、そう……」

 まったく予想もしてみなかったけれど、考えてみれば唯ちゃんはこういうキャラである。

 唯ちゃんを1日観察した人は、だいたい唯ちゃんをこう見る。

 「かわいい女の子に抱きついてばかりいる女の子」と。

 今まで私が対象じゃなかっただけで、唯ちゃんは抱きつきキャラなのだ。

紬「かしらっ!?」

 唯ちゃんが胸に飛び込んで、私の胴体をがっちり腕でホールドした。

唯「これをっ、これを忘れてたなんて、罪深いよぉ私っ!」

紬「ゆ、唯ちゃん! 急にどうしたの!?」



339: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 18:38:09.11 ID:QbZMQD9WO


 とにもかくにも、早く離れてもらわないと大変なことになる。

 ここには憂ちゃんもいるのだ。

 とかいう問題じゃない。

 まだシャワーを浴びてないのか、首から汗の匂いが香る。

 あぶない、鼻血が出る、というかもう出てるような気がする。

憂「お姉ちゃん、紬さん困ってるよ」

 もっと強くたしなめてよ憂ちゃん。

 お姉ちゃんのこと好きなんじゃないの。

 嫉妬にかられたりしないの。

唯「困ってないよ、ねぇ紬ちゃん?」

紬「こ、こぉ……」

 その笑顔で見つめられたら、離してなんて言えない。

紬「こまっちゃう……わ」

 言えた。



340: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 18:41:02.59 ID:QbZMQD9WO


唯「もう、紬ちゃんのほうがいけずだよ」

紬「ふふ、ごめんなさい」

 唯ちゃんが離れてすぐ鼻の下を触ってみても、指に赤い血はつかなかった。

紬「……ふぅ」

 まさか唯ちゃんに突然抱きつかれる日がくるとは思わなかった。

 梓ちゃんは毎日これをされていたと思うとうらやましい。

紬「唯ちゃんの制服はお部屋に置いてくるわね」

唯「うん、じゃあシャワー浴びたら着替えるね」

紬「わかった。……覗かないからね」

唯「へ? うん、そりゃあアレ、信じてるというか」

紬「……」

 ボケ殺しの唯ちゃんの制服を部屋に置いて、私はギターをソフトケースに包むことにした。

 どうやら時々触っているらしく、ところどころ、普通触れないようなところにも指紋がついていた。



341: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 18:45:10.73 ID:QbZMQD9WO


紬「……ちゅ」

 その指紋にくちびるを触れてみる。

 憂ちゃんのくちびるより硬かった。

 しっかりジッパーを締め、リュックのように背負ってみた。

 キーボードほどじゃないけれど、なかなか重たい。

 唯ちゃんに持たせることはまだできないだろうと判断した。

 また2階に降りると、唯ちゃんはシャワー中らしく不在だった。

憂「あっ、紬さん」

 ふと、台所から憂ちゃんが声をかけてきた。

憂「ごめんなさい、今お弁当づくりで手が離せないんで、お姉ちゃんの着替え持っていってあげてください!」

紬「えっ……」

憂「下着だけでいいので!」

 この子、お姉ちゃんのこと好きじゃなかったっけ。



342: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 18:49:09.83 ID:QbZMQD9WO


 きっと憂ちゃんは私のことを試しているんだ。

 私が唯ちゃんを奪い合うライバルとしてふさわしい女かどうか。

 ギターを置いて階段を上がり、そう思うことにする。

 クローゼットを開け、ちょっと身構えてから引き出しを開ける。

 唯ちゃんの下着が、幾重にも重なる遠波のように並んでいた。

 大丈夫。

 これはただの布きれ。

 唯ちゃんが何度も穿いてなんかいない。

 大事な大事な部分に一日中密着してなんかいない。

 可愛くないしおいしくないしいい匂いなんてしない。

 あ、いい匂いはちょっとする。

 味はわからない。

 ただすごく可愛い。



345: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 18:53:04.97 ID:QbZMQD9WO


 大丈夫、大丈夫。

 冷静になるのよ私。

 これは憂ちゃんの試練。

 エッチなホームビデオを見せたり髪をほどいて布団に入ってくるのと同じで、私を試している。

 ここで負けたらいけない。

 誘惑に負けずに、ただ可愛いのを選び取るだけ。

 だいたい私はパンツよりもタイツのほうが欲しい。

 もっと言えば唯ちゃんが欲しい。

 こんなパンツ程度で、人生を棒に振るほどバカじゃない。

 タイツだったらわからないけど、パンツは大丈夫。

 いちばんいい匂いがするのを一組取って、引き出しを押し込んだ。

紬「やった……!」

 琴吹紬、二度目の大勝利。

 私はまたしても平沢姉妹に勝利した。



346: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 18:56:15.94 ID:QbZMQD9WO


 その時、足音がしたかと思うと、突然部屋の扉が開いた。

唯「紬ちゃん、遅いよぉ……私もう上がっちゃったよ」

紬「……」

 腰に手を当てて、恍惚から抜け出せない私を唯ちゃんは見下ろす。

 そしてやっぱりというか。

 唯ちゃんの巻いていたタオルが、わかっているさ、こうすればいいんだろうと言いたげに、ずるりと落ちた。

唯「あ、きゃっ……やだっ、だめだよちゅむぎちゃん!」

 その反応もふくめていただいた私は、

 10分ほど唯ちゃんのパンツを握りしめたまま硬直していたという。

 気がつくと、唯ちゃんが制服に着替えていた。

紬「……あっ、ただいま」

唯「おかえり、眉毛さん」

紬「……ねぇ、唯ちゃんって意外とア」

唯「黙って」



348: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 18:59:26.14 ID:QbZMQD9WO


 そんなわけで、3人で学校へ向けて出発した。

 憂ちゃんの頼みで、今日は車椅子なしで歩くことになった。

唯「卒業したあとなのに、勝手に入っていいの?」

憂「和ちゃんがアポイントとってくれてあるから、大丈夫だよ」

 私はさすがに、お尻も見ないようにしながら、二人の後ろをずっと歩いていた。

憂「着いたら職員室に行ってだって。山中先生、1限は暇だから案内してくれるって」

唯「わかった。……聞いてた、紬ちゃん」

紬「はい」

 可愛いからいいのだけど、どうして私が怒られてるんだろう。

 ちょっと理不尽だと思ったので、唯ちゃんの脚からお尻にかけてをなめ回すように見つめながら登校した。



349: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 19:02:06.84 ID:QbZMQD9WO


憂「それじゃあお姉ちゃん、お昼にお弁当持っていくからね」

唯「うん、授業頑張ってね憂!」

 憂ちゃんと別れた唯ちゃんが、私を振り返る。

唯「……職員室わかんないから」

紬「あっ、うん! すぐ案内する!」

唯「ねぇ、今わたしのお尻見てたでしょ」

紬「唯ちゃん」

 私は唯ちゃんの手をとって、じっと見つめた。

紬「信じて。唯ちゃんは私が守るから」

唯「う、うん。……ごめん、もう怒ってない」

紬「ありがとう。さてと、職員室に行かないとね」

 まあお尻は見てたんだけど。

 唯ちゃんの手を引いて、職員室へと先導する。



351: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 19:05:06.60 ID:QbZMQD9WO


紬「失礼します、山中先生は……」

さわ子「あら琴吹さん、久しぶり」

 さわ子先生はずっと待っていたのか、私が呼ぶ前にこちらに歩いてきた。

紬「お久しぶりです。お元気でしたか」

さわ子「まあまあね。それで、唯ちゃん……」

唯「この人が山中先生?」

紬「そうよ。……先生、聞いてると思いますけど」

さわ子「わかってるわ。……唯ちゃん」

 さわ子先生は、そっと唯ちゃんを抱きしめた。

さわ子「一度はとても悲しかったけど……よかったわ」

紬「さわ子先生……」

さわ子「また唯ちゃんの制服姿が見れて幸せだわ!」

紬「さわ子先生……」



352: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 19:08:09.94 ID:QbZMQD9WO


 唯ちゃんからさわ子先生を引き剥がして、立ちふさがる。

さわ子「冗談よ、もう。はいこれ、入校許可証」

 さわ子先生はストラップのついた2枚のカードを私たちに手渡した。

さわ子「これさえあれば、いくら校内を練り歩いても怪しまれないわ」

さわ子「首からさげるのが規則だけど、今日は事情が事情だもの。ポッケにでもしまってていいわ」

唯「ありがとうございます、先生!」

さわ子「はぁ……入学当初のような素直な唯ちゃん……どこで道を間違えたのかしら」

紬「ところで、なんだか案内してくれるとかいう話を聞きましたけど」

さわ子「あぁー……和ちゃんの手前かっこつけたけど、別にいらないわよね?」

紬「卒業して3ヶ月しか経っていませんしね」

さわ子「音楽室と準備室の鍵なら貸しておくから、好きに見回りなさい」

 さわ子先生が使っている鍵を受け取り、私は唯ちゃんの手を取る。

紬「……ということだから、行こっか唯ちゃん」



355: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 19:11:37.25 ID:QbZMQD9WO


 まずは教室を見ることにした。

 授業はもう始まっていたので、先生の声がするのみだ。

唯「こんな感じで授業受けてたのかあ……」

 廊下から中を眺めていると、唯ちゃんがしみじみ言った。

紬「唯ちゃんは、割りと寝てたけどね」

唯「あの子みたいに?」

紬「もっと無防備だった。腕枕で寝顔隠したりしないし」

唯「ねぇ、私ほんとに大学受かってるよね……記憶喪失だからって騙してないよね」

紬「大丈夫。学生証みせたでしょ?」

唯「はっ、そうか……よかったよかった」

 唯ちゃんは安心すると、別の教室を見ようと言った。

唯「……あ、なんかすごく、わかるなあって気がする」

 あちこち見回しながら、唯ちゃんは自分の感覚をそう表現した。



356: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 19:14:37.40 ID:QbZMQD9WO


唯「こうやってガラスばりで、廊下や窓の外なんか誰もいないのに、ぼーっと見てた気がするよ」

唯「トイレがあっちとあっちにあって、階段がここにあるのとかを見ると、こうだったなあって思うんだ」

 さすがは唯ちゃんの人生でもっとも濃い場所だ。

 唯ちゃんも自分の記憶の断片を、ひしひしと感じるらしい。

唯「音楽室は……この上だね?」

紬「正解。どうしてわかるの?」

 私はいよいよ唯ちゃんの記憶が戻ってしまう気がして恐ろしかった。

唯「それはね……1階も2階ももう全部見たからだよ」

 まだ大丈夫そうだ。

 私は唯ちゃんとともに階段を上がり、音楽室の鍵を開けた。

唯「おぉ、広い……」

紬「吹奏楽部がけっこう大きいからかな。授業のときも、みんなが手を広げて歌えるぐらいスペースがあるし」



357: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 19:17:09.74 ID:QbZMQD9WO


唯「みて、でっかいピアノ!」

紬「グランドピアノだね。めっきり弾かなくなっちゃったなあ……」

唯「紬ちゃんって、むかしピアノのコンクールで賞とったことあるんだよね? ね、弾いてみせて!」

紬「えっ?」

唯「いいから、いいから!」

 唯ちゃんに押されて、背負ったギターを置かされ、ピアノの前に座らされる。

 気にはなったけれど、ひとまず唯ちゃんのリクエストをきくことにした。

紬「えーっと、これは昔の作曲家さんが、記憶喪失になってしまった好きな人のために書いた曲だそうよ」

唯「へぇー、なんていう曲?」

紬「……ん、蜂蜜色の午後、だったかしら」

唯「ほほう。じゃあ、ここで聴いてるね」

 唯ちゃんは私の隣に座ると、にこにこして私を見つめた。

紬「そ、そんなに近くで見られたら緊張しちゃうわ」

唯「いいじゃん、特等席で聴かせてよ!」



358: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 19:20:19.38 ID:QbZMQD9WO


 特等席はこっちのせりふよ。

 だなんて言えずに、私は顔が赤くなるのをこらえようとしながら、鍵盤を開いた。

紬「じゃあ、聴いててね」

唯「うんっ」

 指を軽くストレッチしてから、そっと息を吸う。

 昔の私が、唯ちゃんを想って書いたメロディ。

 軽音部で使うことはなかったけど、また唯ちゃんに聴かせられる。

 この旋律に、愛してるの気持ちは入れていない。

 だけど、じっと見つめあってお互いの名前を呼ぶような気恥ずかしさがある。

 私はそんな曲を、いっしょうけんめい、いっしょうけんめい弾いた。

唯「……ほー」

 残響が消えると、唯ちゃんはおそるおそる手を叩いた。

唯「すごくよかったよ、紬ちゃん……」

紬「ありがとう。……ふふ、なんだか照れちゃう」



360: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 19:24:24.14 ID:QbZMQD9WO


唯「えへへ……ねぇ紬ちゃん、もう一曲」

紬「……ごめん唯ちゃん、その前にひとついい?」

 これ以上、先延ばしにはできない。

 私は唯ちゃんの言葉を遮って、目をじっと見た。

唯「うん、いいよ?」

紬「さっき、私がコンクールで賞をとった、って言ったよね」

唯「言ったよ。だって、とったんだよね? 小学生のとき」

紬「うん、そうなんだけど……そうじゃなくてね」

 唯ちゃんはまだ気付いていないらしく、首をかしげた。

紬「私、コンクールで賞をとったこと、記憶喪失になってから唯ちゃんに言ってないはずなの」

 唯ちゃんは目をまんまるにして驚いた。

唯「……じゃあ、私、思い出したの?」

紬「そうよ! 他の誰かに聞いてないよね?」

唯「うん、たぶん……わぁ、私、思い出したんだ!」



363: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 19:28:27.70 ID:QbZMQD9WO


 唯ちゃんが飛びついてきて、私は床に押し倒された。

 頬になにか熱いものが触れる。

唯「やったー! 思い出したよ、紬ちゃんありがとう! んふっ、んむーっ」

紬「ひゃっ! ちょ、ちょっとっ……」

 わたし、今、唯ちゃんに襲われてる。

 みんなが勉強してる最中の学校で、唯ちゃんにキスの嵐をもらってる。

紬「っ……」

 琴吹軍、理性隊、壊滅!

 紬将軍、もはや欲望隊を投入するほかありません!

 どうかご決断を!

唯「紬ちゃーんっ、ほんとうにありがとう!」

紬「……う、うん」

唯「私、みんな思い出したよ! えっと、えーっとぉ」

唯「……」



365: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 19:32:00.58 ID:QbZMQD9WO


 私の興奮は急速に落ち着いていった。

 結局ほっぺたどまりだったし。

紬「思い出したのは、あれだけ?」

唯「……みたいです」

 唯ちゃんはがっくりうなだれて、私の上から降りてしまった。

唯「ごめんね、紬ちゃん……キスとかしちゃって」

紬「そんなに落ち込まないで。ひとつ思い出せたのは確かじゃない」

 唯ちゃんがコンクールの話を持ち出したときの喜びが、また胸の敏感なところを通りすぎた。

紬「わたし……唯ちゃんが思い出してくれて、すごく嬉しかった」

唯「えへへ、わたしも……」

紬「……あと、キスもすごく嬉しかった」

 唯ちゃんは肩をすくめて、ぷいっとそっぽを向いた。

紬「もっとしていいよ?」

唯「調子に乗らないで、紬ちゃん」



367: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 19:36:12.15 ID:QbZMQD9WO


 しばらくしてから起き上がり、準備室の鍵を開けた。

唯「ここがー……いつも言ってた、部室?」

紬「そうよ。軽音部が活動してた場所」

唯「なんかほこりっぽいね……」

紬「窓開けよっか」

 窓をみんな開けると、熱を冷ますような風が吹き抜けた。

唯「よいせっと。ここで何時間も過ごすのー?」

 唯ちゃんはさりげなくいつもの席に座ってみせると、机に顎を乗せてため息をついた。

紬「いつもそうしてたからねー。たまに、楽器とか弾きながら」

唯「だらだらかー」

 私はギターをようやくきちんと置けてから、りっちゃんの定位置に座ってみた。

紬「ふふ、だらだらだよー」

唯「だらーん……」



369: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 19:40:07.70 ID:QbZMQD9WO


紬「……」

 私の隣に唯ちゃんがいる。

 車の音がいちばんよく聞こえるくらい静かな校舎の、静かな一室で二人きり。

唯「紬ちゃん」

紬「なあに、唯ちゃん」

唯「暇だよう」

紬「ふふ、そうだね」

唯「……むふふ」

 唯ちゃんといると癒される。

 前は二人でいたら、いつも恋の話をしなければならなかった。

 笑った時間なんてほんのちょっぴりだったし、

 傷つくことのほうが多かったけれど、それでも幸せだった。

 その頃からしたら、今この空間は、小さな天国に思えた。



370: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 19:44:05.97 ID:QbZMQD9WO


紬「……唯ちゃあん」

唯「……」

紬「ゆーいーちゃあん」

唯「……」

紬「どうしたの?」

唯「いいから、もっと呼んで」

紬「応えてくれなきゃやだよ……」

唯「……つむぎちゃーん」

紬「えへっ、ゆーいちゃん」

唯「つむぎちゃんっ」

紬「ゆいちゃんっ」

 私は椅子を動かして、唯ちゃんにぴったりくっついた。

 このくらい、いいだろう。



374: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 19:47:07.66 ID:QbZMQD9WO


唯「つむぎちゃん、いい匂いする……」

紬「……恥ずかしいよ」

唯「抱きついていいかな……?」

紬「……うん、おいで」

唯「ふふっ」

紬「……」

唯「……」

紬「……すぴ」

唯「んぐぅ」

 数時間後、憂ちゃんと梓ちゃんが起こしに来た。

梓「別に起こしに来たわけではないんですが……」

紬「おはよー、梓ちゃん」

憂「お姉ちゃん、一緒にご飯食べよ!」

唯「わーい、おべんとだー」



375: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 19:50:11.51 ID:QbZMQD9WO


梓「それより、窓が開けっ放しで……ちょっと閉めてもいいですか」

唯「うん、いいよー」

梓「けっこう部屋冷えてますよ。風邪引いてませんか」

 梓ちゃんは窓をみんな閉めてしまいながら言った。

紬「大丈夫。唯ちゃんとくっついてたから」

唯「紬ちゃんとくっついてたから大丈夫だよ!」

梓「そうですか……」

憂「お姉ちゃんあったかいですからね」

梓「憂もそうですけど、よく唯先輩に抱きつかれたまま寝れましたね。私だったら無理です」

憂「梓ちゃんは、猛烈に愛でられてるからね」

梓「私にももっと優しくしてくださいよ、先輩」

唯「できたらね!」

 私はちょっと優越感を感じた。



376: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 19:53:11.94 ID:QbZMQD9WO


 憂ちゃんに渡されたお弁当箱を開けると、きらめきさえ見えるおかずが現れた。

唯「では!」

みんな「いただきます!」

 昼休みも限られていたので、私たちはご飯を食べ始めた。

梓「そういえば、今朝は何か思い出したりしました?」

紬「あっ、唯ちゃん。言ってあげて」

唯「ちょっとだけだけどね、思い出したんだ」

憂「本当に!?」

梓「どんなことですか!?」

唯「紬ちゃんはね、小学校の時ピアノのコンクールで賞をもらってたんだよ。そのこと」

梓「だけ、ですか……?」

唯「だけです!」

 二人とも、そんなに露骨にがっかりした顔をしないで。



377: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 19:56:09.09 ID:QbZMQD9WO


梓「ま、まあ……ひとつ思い出しただけでも大きな一歩ですよ!」

憂「そうだよ! お姉ちゃんスゴイ!」

唯「えへへー、どうもどうも……」

 てれくさそうに唯ちゃんは頭を掻いた。

 それからは受験勉強の相談や、憂ちゃんののろけ話をして、昼休みは終わってしまった。

梓「それじゃあまた、放課後きますね」

憂「お姉ちゃん、今晩食べたいもの、メールしといてね!」

唯「おっけー、またねぇ!」

紬「憂ちゃんお弁当ありがとう!」

 少しして授業が始まったのか、学校がまた静まり返った。

紬「また暇になっちゃったね」

唯「そだねー……なにか思い出話してよ」

紬「うーん……じゃあ、唯ちゃんが目をさました日の話」

唯「えぇっ」



378: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 19:59:21.02 ID:QbZMQD9WO


紬「あれ、だめだった?」

唯「昔話をするかと思ってた」

紬「そればっかりじゃ、唯ちゃんが聞くだけになっちゃうし」

唯「んー……たしかに」

紬「私は唯ちゃんとおしゃべりがしたいから。それじゃだめ?」

唯「ううん。私もしゃべりたいな」

紬「じゃあ、病院で唯ちゃんが目を覚ます前から話すね」

 私は、さめざめしい病院の白を思い出していた。

紬「前に話したと思うけど、唯ちゃんは高熱になって2週間くらい意識がなかったの」

紬「13日めだったかな……ようやく意識が戻って、唯ちゃんが寝言をいうようになったから」

紬「みんなで24時間、かわりばんこに見張って、目を覚ますのを待ってたの」

紬「2日して、りっちゃんが見ているときに、やっと目をさましたわ」



380: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 20:02:12.02 ID:QbZMQD9WO


唯「寝言って、どんなこと言ってた?」

紬「どんなって、言葉にならないような感じ……すすり泣きみたいだった」

唯「なんか怖いなあ……」

紬「それで、病院に泊まってた私と和ちゃんが起こされて、みんなにもすぐ電話して呼んだの」

唯「ん、なんかすごくバタバタしてたの覚えてるよ」

紬「うん、大慌てだった。でもすごく嬉しかったのよ」

紬「……だけど、唯ちゃんは私たちのこと忘れちゃってた」

唯「みんなが泣きながら唯、唯って呼んでくれるんだけど、なんのことだかわからなくて」

唯「目にうつる人みんな知らない人だし、ハグとかキスとかされるし、あの時はなんだか怖かったな」

紬「なんだか怖かった、くらいで済んだの?」

唯「うん、まあ意外と……騒がしかったし、かわいい女の子に囲まれてたからかな」

 ガチレズってすごい。

唯「自分が記憶喪失なんだってわかったときも、そんなに……ああそうなんだ、って思ったくらいで」

唯「なにも思い出せないから、何か思い出そうとするとき完全にからっぽで、その時はちょっと怖かったかも」



381: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 20:05:15.14 ID:QbZMQD9WO


紬「こっちは大ショックだったのに……」

唯「たとえば、宝くじに当たってるのを知らないでくじ券を捨てちゃったのと一緒だね」

唯「価値があるって知らないものをなくしたって言われても、ぴんとこないよ」

紬「うーん……でも、自分のことがわからないっていうのはさすがに」

唯「もしかしたら、自堕落で死にたいって思ってた人が迎えた転機かもしれない!」

紬「そんなこと考えてたの?」

唯「ううん。でも、最初は記憶なんかどうでもよかったのが本当」

唯「ここにいる人たちが守ってくれるなって思ったし、実際紬ちゃんはそう言ってくれたし」

 唯ちゃんは私にちょっと顔を近付けた。

唯「憂や澪ちゃんやあずにゃんが駆けつけて、記憶がないにしろしばらくお祭り騒ぎだったね」

紬「唯ちゃん、キスマークだらけだったね」

唯「くちびるにしてくれたのは憂だけだったし、和ちゃんに至っては手を握るだけだったんだけどね」

唯「せっかく生還したんだから、もっと全力で祝えってものだよ」

紬「なにもお祝いのつもりでキスしてたわけじゃないし……」



382: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 20:08:17.08 ID:QbZMQD9WO


唯「紬ちゃんはどんな感じだった? 私が記憶喪失ってきいて」

紬「うーん……死んだ感じだった。心が、とかじゃなくて、命が」

唯「うっぷ……ごめん、笑っちゃった」

紬「大袈裟じゃないのよ? 一週間はまともに寝れなかったし」

唯「そんなに辛かった?」

紬「辛かった。ふらっと、死んじゃおうって思うことも何度かあったよ」

紬「それくらい、唯ちゃんと過ごした3年間って大事なものだったの」

唯「今は……どうなの?」

紬「……言ってもいい?」

唯「言ってほしいから訊いてるのに」

紬「……あのね、唯ちゃんが記憶喪失になって、いいこともあったって思っちゃう」

紬「今、こうして二人きり……こんな気持ちでいられることとか」



384: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 20:11:04.84 ID:QbZMQD9WO


唯「……」

紬「だから、今は少し怖いな……唯ちゃんが記憶を取り戻すこと」

 言っちゃった。

 こんなこと言っても唯ちゃんを困らせるだけなのに。

唯「……私、紬ちゃんと一緒にいられるんだったら、記憶なんかいらないよ?」

紬「だめ。こんなこと言ってるけど、私は唯ちゃんに思い出してほしいし」

紬「唯ちゃんだって、私たちのこと思い出したいでしょ?」

唯「……ううん」

紬「嘘つき」

唯「嘘じゃない! ……みんながみんな、どうでもいいってわけじゃないけど」

紬「だったら、その人たちについての思い出だけでも、取り戻そうよ」

 きっと私は、唯ちゃんの「どうでもよくない人たち」の中に入っているだろう。

 唯ちゃんはそんなに積極的におべっかを使えるような器用な子じゃない。



388: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 20:14:07.81 ID:QbZMQD9WO


唯「……紬ちゃん」

紬「うん?」

唯「あの言葉、絶対信じてるよ」

紬「……大丈夫。ずっとずっと、唯ちゃんのこと大好きだよ」

 かたむいていた唯ちゃんを抱き寄せる。

唯「ん……」

 私は大丈夫。

 どんなふうに思われても、想われてなくても、唯ちゃんが大好きだった。

 約束したいのは、信じたいのは、私のほう。

 唯ちゃんの記憶が戻っても、今のように私に甘えて。と言いたい。

 だけど、それはきっと、私だけを恋愛対象におかなかった唯ちゃんにはありえない。

 私はいずれ相談役に成り下がって、ムギちゃんと呼ばれ、永遠の片想いがまた始まるだけ。

唯「だいすき……紬ちゃん」

 唯ちゃんがそっと抱き返してくると、ブラウスに少しだけ、冷たいものがしみた。



389: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 20:17:10.06 ID:QbZMQD9WO


 このまま、元に戻ってしまうくらいなら。

唯「……ん? 紬ちゃん、なに?」

 今だけでも、唯ちゃんと恋がしたくなった。

紬「唯ちゃん」

唯「う、うん?」

 好きと言うだけでいい。

 愛してるという気持ちは、言の葉の力を超えて、きっと伝わる。

澪「……なんか近いぞ? お前たち」

 飛び出しかけた心臓はどうにか飲み込まれた。

紬「っいたの!?」

 どうしてこう、肝心な時ばかり邪魔が入るのか。

 いや、もしかしたら助け船かもしれないけれど。



393: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 20:20:31.76 ID:QbZMQD9WO


唯「……」

紬「い、いるならいるって言ってよ!」

澪「いや、言ったんだけど……ごめん」

 あぶなく告白を澪ちゃんに聞かれるところだった。

 りっちゃんなら恐らくは黙って見ていてくれた可能性があるけれど、

 澪ちゃんに関しては未知数な部分が多いのだ。

紬「ちょっと……すこしだけ、唯ちゃんをお願い」

 いくらなんでも恥ずかしすぎる。

 顔が熱すぎて涙が出てきそう。

澪「え、大丈夫かムギ……」

紬「トイレに行くだけだから!」

 少しどこかで熱をさまさないと、唯ちゃんを見ることさえできない。

 4つの瞳が疑惑をはらんだ視線を送っているのがわかる。



395: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 20:23:22.93 ID:QbZMQD9WO


紬「すぐっ、すぐ戻るから!」

 パニックになりながら、私は部室をあとにする。

 階段を駆け降りてトイレにつくと、個室に飛び込んだ。

『ひっ、誰か入ってきたよ……』

『大丈夫。声を出さなきゃ気づかないって』

『ちょ、そんな……だめっ、ばれちゃう……!』

紬「……」

 おさかんなところの隣に入ってしまった。

『ぁ、っく……ばかっ、激しっ……』

『んー? 動かす早さは変えてないよ?』

『うそだっ……』

『隣に人がいるから敏感になってるんでしょ? えっちだよねぇ、ほんと』

『ち、ちがうってば!』



398: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 20:26:09.08 ID:QbZMQD9WO


『うるさいなあ……そんなに隣に人に聞かれたいんだ? それなら……』

『あっ、はっ……やめ、やめっ……は、は、ぁっ……んんーっ!!』

『っ……ふふ、かわいい……んっ、すちゅ』

紬「……」

 トイレットペーパーで拭いたり流したりなどの後処理の音がした。

『ほら、早く出るよ』

『ちょっと待って……こ、こしが』

『おぶさって、早く! ほんとにバレたらどーすんの!』

『わ、わかってるならあんなことしなきゃいいのに……』

『いいから、ちゃんと掴まって。とりあえず保健室に逃げるよ』

『うんっ……』

紬「……ふぅ」

 うらやましい。

 保健室までついてってやろうか。



399: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 20:29:13.14 ID:QbZMQD9WO


 でも、今日は唯ちゃんを待たせているところだ。

 澪ちゃんがついているとはいえ、早く戻ってあげないといけない。

紬「幸せにね……二人とも」

 私の心臓も落ち着いてくれた。

 階段を上がって音楽準備室へと戻る。

紬「んっ?」

 鍵をかけられているのか、音楽準備室は開かなかった。

 さわ子先生に借りた鍵を出し、開錠する。

 私はなんだか嫌な予感がしていた。

 唯ちゃんはいたずらっこなところはあるけれど、

 何の理由もなく私を締め出すとは考えられない。

 恐らく、澪ちゃんが悪いことをしているのだ。

 学校に来ると言ったときから、澪ちゃんはヘンだった。



400: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 20:32:07.44 ID:QbZMQD9WO


 澪ちゃんだけじゃない。

 りっちゃんも、ただ内緒で訪ねたいという澪ちゃんに、妙に攻撃的にくってかかった。

 りっちゃんは、澪ちゃんが何を狙っているのかわかっていたんじゃないのだろうか。

 澪ちゃんの狙いとは、一体。

紬「……唯ちゃんっ!」

 体中を走り回った悪寒をこらえ、蹴りつけるようにドアを開けた。

唯「紬ちゃん、助けてぇ!」

 奥の死角になっているところから、唯ちゃんの声がした。

 余計なことを考える隙はなかった。

 前のめりに駆け込んで、立ちふさがるように腕を広げる。

 できれば、そこにいる人が澪ちゃんでなければよかった。

 あるいは澪ちゃんがコスプレ衣装でも掲げて悪い笑顔を浮かべていればよかった。

澪「ムギ……」

 けれど、現実はティータイムほど甘くない。



403: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 20:35:06.40 ID:QbZMQD9WO


 澪ちゃんは、唯ちゃんを壁に追い詰めていた。

紬「唯ちゃんから離れて」

澪「嫌だって言ったら」

紬「離れてって言ってるのよ!」

 澪ちゃんはつまらなそうに身を引いた。

唯「紬ちゃあん!」

紬「唯ちゃん……」

 猫のように身をかがめて走ってきた唯ちゃんを保護して、

 なおも澪ちゃんを睨みつける。

澪「違うよ、ムギは誤解してるんだ」

紬「何がよ……」

 誤解だろうがなんだろうが、唯ちゃんは本当に恐かったのだ。

 苦しいほど抱きしめてくる腕が物語っている。



404: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 20:38:10.36 ID:QbZMQD9WO


澪「私は、唯に思い出させようとしてただけだよ」

紬「どうやってよ」

澪「……どうやって、じゃない。何を、だよ」

紬「……」

 澪ちゃんに気圧されているように感じる。

紬「……何を思い出させようとしてたの」

澪「言わなきゃ……だめか?」

紬「当然でしょう」

 目の前にいるのが澪ちゃんには思えなかった。

 澪ちゃんの格好をして、澪ちゃんの口調をして、私を嘲笑っている悪魔にしか見えない。

唯「紬ちゃん、澪ちゃんさ、私と付き合ってたって言ってた……」

紬「……澪ちゃん、どういうつもり」

澪「どうって……だから思い出させようとしてたんだ」



406: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 20:41:12.63 ID:QbZMQD9WO


 唯ちゃんが澪ちゃんと付き合っていたとするなら、私が知らないはずがない。

 そういうことに関して、私は唯ちゃんのことで知らないことはないのだ。

澪「内緒にしてたけどさ。女同士じゃなかなか付き合ってるって言えないし」

紬「……」

 澪ちゃんは一体何を言っているのか。

 とたんに全てが滑稽に見え始めた。

紬「今日来るってことを内緒にさせたのはどうして?」

 唯ちゃんがぴくりと動いた。

 内緒にしていてごめん、と小さくささやく。

澪「……それはちょっと秘密だな」

紬「澪ちゃんが今日来ることを唯ちゃんが知っていたらまずかったのよね」

紬「もしかして、前から唯ちゃんに何か吹き込んでたとか?」

澪「……ムギ、私が唯と付き合ってたっていうの、疑ってるのか?」

 疑うというよりは、まったく信じていない。



407: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 20:44:07.24 ID:QbZMQD9WO


紬「悪いけど信じられないわ。こんなの、元恋人の態度じゃないわよ」

澪「べつに、別れてないんだけどな」

紬「……まあ、そうね」

 いいかげん、茶番に付き合うのも飽きてきた。

 これ以上は澪ちゃんが哀れだ。

紬「それで、唯ちゃんは思い出してくれたのかしら?」

澪「いや、それは」

紬「思い出すはずないわよね。存在しない記憶なんだもの」

澪「……おい、ムギ」

 唯ちゃんが私を見つめている。

 私は、もっと頑張れる。

紬「澪ちゃんはねぇ、きっと悪魔の証明だと思ってるかもしれないけど」

紬「唯ちゃんは誰が好きだったか、本人からきいて確実に知ってる人がいるのよねぇ」



409: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 20:47:11.85 ID:QbZMQD9WO


 私はすっごく悪い顔をしているに違いなかった。

 澪ちゃんの面をつけた卑怯者を出し抜いてからかっていることに、快感すら感じる。

澪「……だ、誰だよ」

紬「唯ちゃんと付き合ったなら、その人には必ず会わせてもらってるはずなんだけどなぁ」

澪「憂ちゃん……か?」

紬「あんな人を憂ちゃんと間違えたら失礼よ……ふふ、会ってないのかしら?」

澪「……会って、ないけど……」

 澪ちゃんはだんだん傷ついた顔になってきた。

 もしかしたら、本気で唯ちゃんと付き合っていると思っていたのだろうか。

唯「つ、紬ちゃん、もういいよ」

紬「唯ちゃん……」

唯「きっと記憶を失う前の私が、勘違いをさせちゃうようなことを言っちゃったんだよ」

唯「澪ちゃんが悪いわけじゃないよ。私たちの友達なんでしょ?」



411: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 20:50:10.54 ID:QbZMQD9WO


 澪ちゃんを見ると、耳を塞ぎつつ頭を守っていた。

 見えない聞こえないのポーズだ。

紬「……でも、澪ちゃんは唯ちゃんに」

唯「恐かったけど、私のせいでもあるよ、きっと」

唯「それより、紬ちゃんのそんな顔みたくないよ」

紬「ご、ごめんね」

 あわててほっぺたをマッサージする。

 さっきまで自分の中でうごめいていた感情に、背筋が寒くなった。

唯「澪ちゃんも、もう大丈夫だよ」

唯「顔をあげようよ。ね」

澪「……」

 澪ちゃんはゆらりと首を振った。

澪「わたし、帰る……」

唯「そ、そう……」



415: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 20:53:06.09 ID:QbZMQD9WO


 澪ちゃんがもし本気で付き合っていたと思い込んでいたなら、

 さっきの話はきっとショックだっただろう。

澪「ムギ、帰ったら私の部屋に来てくれ。ちゃんと説明がしたいんだ……」

紬「……うん、わかった」

 私も澪ちゃんとぎくしゃくしているままでいたくない。

 唯ちゃんを脅かしたことは許さないけれど、

 せっかく唯ちゃんが放課後ティータイムの絆をとりもってくれたのだ。

 そして、はっきりしておかなければいけない。

 澪ちゃんは、裏切ってしまってもいいような人間なのか、

 それとも本当に単なる勘違いだったのか。

澪「じゃあ、また……唯もまたな」

唯「うん。またね」

 唯ちゃんは笑顔で手を振った。



418: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 20:56:06.96 ID:QbZMQD9WO


紬「……唯ちゃん、澪ちゃんに何されたの?」

唯「紬ちゃん、そんなの聞いちゃだめだよ」

 あはは、と唯ちゃんは笑ってみせる。

唯「あ、平気だよ? 澪ちゃんだって女の子だしさ」

紬「……」

 いったい何をされたのだろう。

 私だって実際は憂ちゃんだったとはいえ、ひどいことをした。

 あれも唯ちゃんは、私が女の子だからと許してくれるだろうか。

唯「……」

紬「あ、えっと、憂ちゃんにメールしたらどう? 今晩のご飯……」

唯「う、うん。そうしよっかな」

 憂ちゃんに頼るなんて情けない。

 私が唯ちゃんを慰めてあげなきゃいけないのに。



420: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 20:59:27.42 ID:QbZMQD9WO


唯「うーん、晩ご飯か……どうしよっかな」

 私は落ち着かずに辺りを見回した。

 冷静になってみて、とんでもないことに気がついた。

 唯ちゃんが澪ちゃんと付き合っていた可能性はゼロに等しい。

 けれど、澪ちゃんが唯ちゃんを好きの確率は100%だ。

紬「……どうしよう」

唯「え、紬ちゃんがそんな真剣に悩んでくれなくても」

 今回澪ちゃんは間違えたけれど、

 これからどんどん唯ちゃんにアタックを仕掛けてくる可能性は高い。

 唯ちゃんの反応からして澪ちゃんが好きというわけではないだろうけれど、

 今後、そういうことが続けば、唯ちゃんは澪ちゃんにとられてしまうかもしれない。

 以前の私だったらそれを諦めて、受け入れていた。

 だけど今は、唯ちゃんを手に入れたい思いでいっぱいだ。



421: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 21:02:23.52 ID:QbZMQD9WO


 他の誰にも渡さない。

 憂ちゃんや澪ちゃんといったライバルがいるけれど、

 私にはホモ田さんやりっちゃんという、なぜか背中を押してくれる人がいる。

唯「紬ちゃん……?」

紬「あっ、ごめん、何?」

唯「いや、ぼうっとしてるから。暑いし、おそうめんにしてもらったよ」

紬「そうなの。私もたまには食べたいなぁ……食堂のメニューにはないのよね」

唯「じゃあ、食べにくる?」

紬「……ありがたいけどダメだわ。今日は帰らなきゃ」

 今日は澪ちゃんとの話をつけなければいけない。

唯「あっ、じゃあ朝に残してもらおうか?」

紬「いちおう麺類だし、ゆでたてじゃないと……土曜日なら行っちゃおうかな」

唯「じゃあ私が早起きしてゆでちゃうよ!」



423: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 21:05:04.35 ID:QbZMQD9WO


紬「あ、ありがたいけど……」

 朝はちょっと寒いかもしれない。

 わがままばかり言うのもなんなので、濁しておく。

唯「紬ちゃんのためなら早起きぐらいへのかっぱですよ」

紬「うーん、えっと……」

 そんなにそうめんがゆでたいのだろうか。

 私のためだと思うとすごく嬉しいけれど、私には唯ちゃんの記憶を取り戻す義務が。

 ……あるのだろうか。

紬「……唯ちゃん」

唯「なーに?」

紬「朝はまだ寒いし、お腹冷えちゃうから、お昼にそうめんだと嬉しいな」

唯「おおっ、なるほど! でも、お昼だと一回家に帰らないとだよね? いいの?」

紬「……ばれなきゃいいのよ、ばれなきゃ」

 私は唯ちゃんの耳に唇を近付けて、ささやいた。



424: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 21:08:06.15 ID:QbZMQD9WO


 しばらく後に、梓ちゃんが部室にやって来た。

 ギターの練習が始まると、見ていることしかできなかったけど、

 真剣に指を動かす唯ちゃんはかっこよくって、ほれぼれする。

 唯ちゃんがちゃんと好きだって言えば、落ちない女の子なんていないだろうに。

 唯ちゃんはずっと、回りくどく迫っていって、相手の告白を待つスタンスだった。

 私がアドバイスしても、無理だというばかりで変えなかったやり方だ。

 だから、私から言わないと何も始まらない。

唯「えーと、これがC……」

梓「で、こうやって……あ、中指そこじゃなくですね」

唯「こう……あぐ、指つらっ……」

梓「い、いったんやめます?」

唯「うん、ちょっとタイム。うはー、こんなのしながら歌えるかな」

紬「きっとすぐできるよ。唯ちゃん、上達は早かったもの」



425: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 21:11:46.03 ID:QbZMQD9WO


唯「またみんなで歌えるといいね」

 唯ちゃんは左手をワキワキ動かしながら言った。

梓「はいっ」

紬「私たち待ってるから、ゆっくり頑張ろうね」

唯「じゃあ今日はもう練習終了ってことで!」

紬「こんなこと言ってるけど」

梓「……まあ、久しぶりですし、主要なコードも教えましたし」

 梓ちゃんがすっごく甘い。

梓「教本とか唯先輩の家にあるはずですから、時間あるときに練習してコードくらいはマスターしてください」

唯「おっけ! さああずにゃん、おいで!」

梓「へ? はい」

 梓ちゃんは無警戒に唯ちゃんに近寄り、がぶりと抱きつかれてふらふらになっていた。



427: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 21:14:08.30 ID:QbZMQD9WO


――――

 唯ちゃんをお家に送ってから、寮への帰りがけ、私は銀行に寄った。

 ひとまずは10万円あれば、問題なく足りるはず。

 使いきれないおこづかいを貯めていた口座からいっぺんに引き出して、

 大切にお財布にしまって寮に戻る。

 楽な格好に着替えてから、澪ちゃんの部屋のドアを軽くノックした。

澪『ムギか?』

紬「うん、私」

澪『入っていいよ、開いてるから』

 緊張しながらドアを開けて、澪ちゃんの部屋にあがると、

澪「ムギ、今日は本当にごめん!」

 開幕土下座をもらって、私は早速何も言えなくなってしまった。



429: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 21:17:05.48 ID:QbZMQD9WO


澪「私、焦っちゃって……」

紬「え、えっと澪ちゃん、とにかく顔を上げて?」

澪「いやだ! 全部話し終わってムギが許すまではこうしてる」

紬「え、えぇー……」

 土下座させているのをずっと見るのは辛いので、私も土下座して対等になることにした。

澪「私が唯と付き合ってたのは本当なんだ」

 澪ちゃんはまずそう切り出した。

澪「ただ、私と唯が付き合いだした次の日に……唯が、高熱を出したんだ」

澪「唯はそのまま記憶喪失になって……だから、その唯の恋愛事情を知ってる人だって、私たちのことは知らないはずだよ」

紬「……そこのところはどうでもいいの」

 確かにそれなら、二人が付き合っていた可能性も無しではない。

 でも唯ちゃんは記憶を失ったのだから、過去の交際なんて今さら意味がない。



431: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 21:20:24.97 ID:QbZMQD9WO


紬「唯ちゃんに何をしたのか……何をするつもりだったのか、教えて」

澪「思い出してほしかっただけなんだよ」

 澪ちゃんは繰り返し言った。

澪「けど、唯……私が誰なのか、しばらく分からなかったみたいで」

紬「それで苛立ってあんなふうに迫ったの?」

澪「違う……怖くなって、思い出させなきゃって、焦っちゃって」

澪「私たち、何度もライブのビデオを見せただろ。あれと同じで、教え込んだら思い出してくれるような気がしてた」

澪「……どうかしてた。あんなに唯を怯えさせて、ほんとに恋人失格だよ」

紬「唯ちゃんに、何かした?」

 澪ちゃんはびくっと肩を震わせた。

澪「……キス……したんだ」

紬「……そう」



432: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 21:24:05.41 ID:QbZMQD9WO


 それだけなら、私にはもう何も言えない。

 あとを許すのは、唯ちゃんだけだ。

澪「あ、あんなふうにするつもりじゃなくて……」

 私はすっと座り直して、澪ちゃんの肩を撫でた。

紬「もういいわ、澪ちゃん」

澪「きいてくれっ、ムギ!」

紬「もう怒ってないの。顔を上げてくれる約束よね?」

澪「……え?」

 澪ちゃんはきょとんとして顔を上げた。

澪「ま、待て待て、私むりやり唯にキスしたんだぞ?」

紬「それで怒るのは唯ちゃんでしょ?」

澪「……はぁ」

 澪ちゃんは大きめのわだかまりを吐いた。

澪「やっぱり、私の早とちりだったのか……」



434: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 21:28:04.65 ID:QbZMQD9WO


紬「どういうこと?」

澪「えっと、実は」

 申し訳なさそうに澪ちゃんは目を伏せる。

澪「ムギは、唯のことが好きなんだろうと思ってたんだ。でなきゃ休学なんてできないだろうから」

紬「……憂ちゃんにも同じことを言われたわ」

澪「そうだよな……でも、ムギはちゃんと友達の立場で唯を応援してたんだな。……なんか私、すごい情けない」

 勘違いしているようだし、ここは静かにしとおいたほうがいい。

澪「この場に唯がいないから言うけど、内緒にするように言ったのも、それを疑ってたからなんだ」

澪「私が何をするか分からないだろうし、ムギが唯を好きなら、事前に「私に気を付けろ」とか言うかもって」

紬「そんなこと言わないわよ。約束だもの」

澪「うん……実際、唯は何も聞いてないみたいだったし」

澪「けど、それならそれで、安心してムギに任せられるよ。とられる心配がないからさ」



436: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 21:32:06.69 ID:QbZMQD9WO


紬「まだ、唯ちゃんにアタック仕掛けるの?」

澪「うんまあ、当然。「襲ってきたしましまパンツの人」のままでいたくもないしさ」

紬「それはそうね……がんばって、澪ちゃん」

澪「ありがとう、ムギ。……そろそろお腹すいたし、ご飯にする?」

 まるで澪ちゃんの言葉を待ちかねていたかのように、りっちゃんのノックの音がした。

律『おぅーい、澪。ご飯食べにいこうぜー』

澪「ああ、今いく! ……ムギも行こう」

紬「ごめん澪ちゃん、私すこしだけパソコン借りてもいいかな?」

澪「かまわないけど、ご飯のあとでもいいんじゃないか?」

紬「すぐ済むから!」

律『みーおー? ムギもいるのか?』

澪「……わかった、先行ってる。鍵ここに置いとくから」

紬「ありがとう、澪ちゃん」



437: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 21:36:07.93 ID:QbZMQD9WO


 澪ちゃんたちが食堂に向かうなり、私はパソコンを起動した。

 目的はちょっとしたものだ。

 インターネットに繋げ、検索エンジンで「栃木県 ゆの宿あかり」と検索する。

 唯ちゃんたち家族が子供のころ行った温泉宿だ。

 ホームページがヒットして、開いてすぐページの一番下まで行く。

紬「あったあった……」

 お問い合わせ、ご予約はこちら、と書かれている温泉宿の電話番号を携帯電話にメモする。

 ついでにアクセスと案内地図も目を通しておいた。

 すぐにページを閉じ、検索と閲覧の履歴を削除する。

 次に「花園会館」で検索して、ホームページを開いた。

 修学旅行でみんなで宿泊したホテルだ。これなら、きっとすぐに履歴を見られても怪しまれない。

 そのままインターネットブラウザごと閉じ、電源を落とすと、部屋に鍵をかけて食堂に走った。



440: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 21:40:03.70 ID:QbZMQD9WO


紬「ごめんね、お待たせ」

律「おームギ。ムギのぶんも頼んどいたぜ」

紬「ありがとう、何頼んでくれたの?」

律「夏だからってそうめん始めたっていうから、3人前頼んだんだ」

紬「そ、そうめん……」

 夏に始まるのは冷やし中華だけだと思っていた。

 それよりも、そうめんを食べたなんて唯ちゃんにばれたら機嫌を悪くされそうだ。

 あ、でも今晩は今ごろ唯ちゃんたちもそうめんを食べているころだろう。

 唯ちゃんのこと思い出して、一緒に食べたくなっちゃったのー。

 無理か。

 ばれないようにしないと。

律「それより、梓から聞いたぞ。やったな、ムギ!」

紬「えっ、なにが?」

まだ唯ちゃんとは付き合っていない。



441: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 21:44:06.25 ID:QbZMQD9WO


律「なにがって……唯、記憶を取り戻したんだろ? ああ、ちょっとだけど」

澪「あ、コンクールのやつか……」

 澪ちゃんがすごい顔をしたので、りっちゃんは慌てて訂正した。

紬「そのことね。とりあえず一歩前進だよね」

律「しかしまあ、最初に思い出したのがムギのこととは、なんか妬けちゃうなあ」

澪「いちおう、唯が最初に思い出したのってリコピンだけどな」

律「……」

紬「……」

澪「フフッ。……笑わすな」

律「お、そうめんきたぞー」

澪「やめろ、私おかしい奴みたいじゃないか」

紬「わたしそうめん食べるの久しぶりー」

澪「いや、だからリコピン……だめっプフフッ……」



442: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 21:48:10.27 ID:QbZMQD9WO


――――

 食事とお風呂のあと、部屋に戻って鍵をかけると、私はすぐに温泉宿に電話をかけた。

 空室状況を尋ねたところ、今晩と明日、明後日は十分な空室があるという。

 私はその中でいちばん高い部屋を明日と明後日のぶん予約しておいた。

 あとは、唯ちゃんを連れていくだけだ。

 卒業旅行で使ったスーツケースにある程度の着替えを詰めてから、

 預かっている鍵を使い、唯ちゃんの部屋に入らせてもらった。

 もう何ヵ月も唯ちゃんは出入りしてないのにいい匂いがするのは、私の気のせいだろうか。

 私は中から鍵をかけてから、唯ちゃんの着替えを用意する。

 誰の目もなかったので、さすがに嗅いでしまった。

 いい匂いだと思っていたのは防虫剤の匂いだった。

 2日ぶんの着替えを用意して、廊下に人がいないのを窺ってからすばやく部屋に戻った。

 部屋に唯ちゃんの服を置いて、誰かにばったり会っても平気なようにしてから、唯ちゃんの部屋の戸締まりをした。



443: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 21:52:04.78 ID:QbZMQD9WO


 スーツケースに唯ちゃんの着替えを入れても、まだまだ余りがあった。

 歯ブラシからドライヤーまで、トラベルセットも入れてみる。

 唯ちゃんが使うぶんも一緒に詰めていけそうだ。

 お菓子は旅先で買えばいいし、今日できる準備は整ったはずだ。

紬「……うんっ」

 あとは明日の早朝、見つからないように急いで出掛けること。

 6時ぐらいなら、1限がある子でも出歩いていることはないだろう。

 早起きは大変だけれど、毎朝唯ちゃんを迎えに行っているおかげで慣れつつある。

 もちろん、夜更かしはできないけれど。

 誰にも見つからずに寮を出るために、今晩はもう眠っておくことにした。

 唯ちゃんがメールをくれたら悪いので、先におやすみを言っておこうと、私は携帯を開く。

 その矢先、携帯が1通のメールを受信した。

 差出人の名前を見た瞬間、うれしくなる。



444: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 21:56:05.98 ID:QbZMQD9WO


――――

唯『つむぎちゃーん』

紬『ゆいちゅーん』

唯『私に言わなきゃいけないことあるよね』

紬『……どうしてばれたの』

唯『りっちゃんが楽しそうに教えてくれました』

紬『だけど、そうめんを頼んだのは私じゃないの』

唯『そうめん? 紬ちゃん、そうめん食べたの?』

紬『た、たべてな……食べました』

唯『わたくしのゆでたそうめんはいらないと?』

紬『違うの、りっちゃんが勝手に頼んじゃったの。今日からメニューに増えてるからって』

唯『まあいいや。私のごちそうするやつのほうがおいしいって言わせてやるもんね』

唯『それはさておき、私の部屋で1時間強なにやってたのかなあ』

唯『出るときもずいぶんコソコソしてたそうじゃないですか』



446: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 21:59:09.37 ID:QbZMQD9WO


紬『……唯ちゃん、これはりっちゃんにも憂ちゃんにも、他のだーれにも内緒よ』

唯『ん、ん。誰にも言わないよ』

紬『実はね……唯ちゃんの部屋の床下には、埋蔵金が眠っているといわれているの』

唯『紬ちゃんってどうしてそう作り話が下手なの?』

紬『素直なのよ』

唯『問いただされて作り話を語りだす人を大学では素直って呼ぶの?』

紬『うん』

唯『怒るよ』

紬『ごめんなさい。勝手に部屋に入ってごめんね、少し掃除しようと思って』

唯『出るときにコソコソしてたらしいけど?』

紬『うーん……正直に言ったら怒らない?』



449: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 22:02:07.54 ID:QbZMQD9WO


唯『まあ、よっぽどひどいことしてたら分からないけど』

紬『実は……唯ちゃんのお洋服、2日ぶんくらい借りちゃったの』

唯『え? どうしてそんなことしたの?』

紬『たんすを見てたら、すごく可愛いお洋服を見つけちゃって』

紬『唯ちゃんが着てるところ見たくって、明日持っていこうと思ってたの』

唯『……ほんとに?』

紬『嘘はついてないわ』

唯『なら、じゃあ、それでもいいかな』

紬『そういえば、私が部屋に入ったらイヤ? それだったらやめるけど』

唯『ううん、むしろ嬉しいよ』

紬『わかった。これからも綺麗にしておくね。明日も早いから、そろそろおやすみ』

唯『おっけー。じゃあね』

唯『むしろ嬉しいって意味わかんないね、なんていうか、ありがとうだよ、ほんと』



452: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 22:05:05.73 ID:QbZMQD9WO


――――

 翌朝5時に起き出して、私はシャワーを浴び、

 慎重に服を選ぶとスーツケースを持ち上げて静かに運び出した。

 コンビニで飲み物とおにぎりとコンドームを買っていき、コンドームはいらなかったので捨てる。

 おにぎりを食べてから電車に乗り、唯ちゃんの家の最寄り駅で、コインロッカーにスーツケースを置いた。

 憂ちゃんにこの大きなスーツケースを見られたら、言い訳に困る。

 結局ゆっくり歩いていたら、唯ちゃんのお家についたのは、いつも通りの7時を過ぎた時間帯だった。

憂「おはようございます、紬さん」

唯「いらっしゃーい」

 唯ちゃんは既に起きていて、私を出迎えてくれた。

紬「おはよう。今日もお邪魔しちゃうね」



454: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 22:08:08.09 ID:QbZMQD9WO


 いつものようにソファに座らせてもらい、朝のニュースを見ながら平沢家朝の風景を眺める。

憂「紬さん、お弁当につくったおかず、すこし余っちゃったので、よければどうですか?」

 唯ちゃんが着替えを持ち、シャワーを浴びにいったところで憂ちゃんが私を呼んだ。

紬「うーん、あとで唯ちゃんと食べようかな。今朝も食べてきちゃって」

憂「そうですか。……あの、少しお聞きしてもいいですか?」

紬「唯ちゃんのこと?」

憂「はい」

 私は立ち上がって、台所に入らせてもらった。

憂「紬さんは本当に、お姉ちゃんのこと好きなんですよね?」

紬「疑われても困るわ。こういうこと初めてだし」

 お箸を借りて、玉子焼きの端切れを食べる。

 ふわふわしていておいしい。

紬「でも、とても特別な気持ちだっていうのは分かる。唯ちゃん以外には感じたことがないわ」



457: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 22:11:06.34 ID:QbZMQD9WO


憂「そうですか……」

紬「愛のあり方に迷った、とかそんな相談は、されても私じゃ答えられないわよ」

憂「わかってます。ただ気になって」

紬「何かしら?」

 憂ちゃんは湯気を出すお弁当箱に、そのまま蓋をはめた。

憂「紬さんは、お姉ちゃんに告白するつもりはありますか?」

紬「それは、おねえちゃんをとらないで、と」

憂「ちがいます。むしろ、お姉ちゃんは紬さんにあげます」

 私はちょっと身構えたくなった。

 焼き目のついたウインナーを口に入れる。

紬「……告白はするつもりよ」

憂「それはいつ、ですか?」

紬「唯ちゃんへの気持ちが、とまらなくなったとき」



459: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 22:14:39.20 ID:QbZMQD9WO


憂「……お姉ちゃんに記憶がなくてもですか」

紬「唯ちゃんの記憶のあるなしは、私が唯ちゃんを好きな部分に関係のないことだもの」

紬「私は唯ちゃんと過ごした日々じゃなくて、唯ちゃんを愛してるから」

憂「……」

 巾着袋をぎゅっと締めて、憂ちゃんは頷いた。

憂「きっと、それが違いなんでしょう」

憂「私は……お姉ちゃんとの思い出が、多すぎました」

紬「……憂ちゃん?」

 熱いままのフライパンが、こぼれ落ちた憂ちゃんの涙を激しく溶かした。

 憂ちゃんはお弁当をつかみ、駆け出すようにして台所の入り口で振り返る。

憂「もしお姉ちゃんの記憶が戻っていたら、きっと……違ってましたから!」

 潤んだ瞳が私のどこを見つめているのかわからなかった。

憂「ひとつだけ言いますけど、私はその告白のタイミングで失敗したんですからね、紬さん!」

紬「あ……う、うん!」



460: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 22:17:49.43 ID:QbZMQD9WO


 憂ちゃんは私を睨むように見ると、私に背を向けた。

 憂「もう学校行きますから。……お姉ちゃんに、伝えてください」

紬「……いってらっしゃい」

 胸にすかすかしたものが残る。

紬「……」

唯「ふー、さっぱしー。あれ、紬ちゃん? 憂ー?」

唯「あっ、紬ちゃん。憂は?」

 お風呂から上がってきた唯ちゃんが、台所に顔を出した。

紬「もう学校行っちゃうって」

唯「ふーん……ところでその箸は何をつまみ食いしてたのかな」

紬「心……かな」

唯「紬ちゃん、それっぽく言えばなんでも決まると思わないで」

紬「ごめんなさい」

唯「謝れば済むと思ってる」



461: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 22:20:14.61 ID:QbZMQD9WO


 唯ちゃんにしばらくお小言をいわれた。

 お箸とお皿を洗ってカゴにかけたあと、唯ちゃんは退屈そうにリビングを歩き回りながら訊いてきた。

唯「ねぇ紬ちゃん、昨日言ってた可愛い服ってどこに置いた? 着てみたいんだけど」

紬「駅」

唯「駅か……駅!?」

 紬ちゃんどうしちゃったの、と言いたげな目だ。

唯「なんでまた駅に……」

紬「持ってきたことが憂ちゃんにばれたらいけなかったから」

唯「どういうこと、紬ちゃん?」

 警戒が発された様子はない。

 私は本題に入ることにした。

紬「唯ちゃんの部屋から持ち出した可愛いお洋服は、これから出掛ける2泊3日の旅行で使う着替えなの」

紬「唯ちゃん。今日は記憶なんか忘れて、旅行を楽しむわよ」



463: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 22:23:11.71 ID:QbZMQD9WO


 唯ちゃんは10秒くらい、ぽかーんとしていた。

唯「えっ……と。旅行?」

紬「うん、温泉旅行。二人きりでさぼっちゃうの」

唯「ちょ、ちょとちょと、待って。いきなりどうしたの?」

紬「……昨日、あんなことがあったから、唯ちゃんにはリラックスしてほしくて」

紬「毎日毎日、覚えてもないことを聞かされるのも辛いだろうし……何よりも」

 私は唯ちゃんを抱き寄せるようにして耳打ちした。

紬「唯ちゃんと、記憶がどうこうじゃなく二人っきりで過ごしたいの。……だめ?」

唯「……逆に、いいの?」

紬「ばれなきゃいいのよ、ばれなきゃ」

唯「……むっふっふ、いいご身分ですなあ。うん、行こう! 私も紬ちゃんと二人きりで行きたい!」

紬「うん! ……でも、出発は午後ね」

唯「そうなの? まあ準備とかあるもんね」

紬「じゃあ、支度しよっか」



466: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 22:26:41.35 ID:QbZMQD9WO


 とは言っても、着替えは私が用意したので準備するものは日用品だけにとどまった。

 できあがった唯ちゃんのトラベルパックは出発のときにスーツケースに詰めることにして、

 ひとまず唯ちゃんを着替えに行かせることにした。

 ことに不安なのは、私の好みで選んだ服を唯ちゃんが気に入ってくれるかである。

 私の服も唯ちゃんはかわいいと言ってくれるけど、私が選んだ唯ちゃんの服はわからない。

 完全に私が唯ちゃんに着てほしいだけのコーディネートになったから、不満を言われたら辛いものがある。

唯「紬ちゃーん」

 着替えを2階で待ちながら、携帯で電車の乗り換えを調べていると、唯ちゃんからお呼びがかかった。

紬「なーに?」

 階段をとんとん上がって駆けつけると、着替え終わった唯ちゃんが困り顔で立っていた。

唯「私って、枕がかわっても寝れる?」

紬「すごくよく眠れるタイプの人だよ」

唯「ありがとー」

 どうやら用はそれだけのようである。



468: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 22:29:06.65 ID:QbZMQD9WO


 時計を見ると、11時を少し過ぎたくらいだった。

紬「少し早いけど、お昼ご飯を食べて出発する?」

唯「そうだね。紬ちゃん、ちょっと先に下おりててくれない?」

紬「わかった、いいよ」

 お昼はもちろん唯ちゃんがゆでるそうめんだ。

 今日も日差しは暑いくらいになってきた。

 きっとおいしいだろう。

唯「ふー、お待たせ。さあさあ、お客様は座っててくだせえ!」

紬「やけどしないでね? ちゃんとできる?」

唯「言われるだろうと思って、昨日憂が作ってるのをよく観察したんだよ! まかせて!」

紬「それじゃあ、安心して待ってられるね」

唯「へい! 10分でちゃちゃっと用意しちゃうからね!」



471: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 22:32:29.59 ID:QbZMQD9WO


 本当に10分かからず、ざるにあがったそうめん、刻んだ薬味とつけ汁が出てきた。

 包丁を使ってる音はしなかったから、みょうがや大葉は憂ちゃんが切ったのだろうけど。

紬「すごい唯ちゃん、あっという間ね!」

唯「まあこんなものですよ! さあさ、いただきましょ」

 唯ちゃんは隣に座ると、箸を持って手を合わせた。

紬唯「いただきます!」

 おろし生姜とみょうがと大葉を入れ、箸でひとつまみそうめんを取ると、汁にひたしてつるっとすする。

紬「……ん」

 気持ちよく喉を滑る清涼な麺。

 薬味とつゆの風味が、風鈴の音の幻想を誘う。

唯「どう、紬ちゃん!」

紬「とってもおいしい!」

 まあ、おいしく作れないわけないよね。

 そうめんやっぱり揖保の糸。

唯「やったあ!」



476: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 22:35:06.25 ID:QbZMQD9WO


 唯ちゃんと二人でたっぷりのそうめんをつるつるし終わった後、

 私たちはいよいよ温泉宿に出発することにした。

紬「唯ちゃん、私たちがどこにいるかは内緒だけど、心配させないために電話は必ずとってね」

唯「そうだね、捜索願とか出されたら大変だよ」

紬「あと、土曜日には必ず帰るっていうこともね」

唯「了解。紬ちゃんも気を付けようね」

紬「それじゃ、行こっか」

 唯ちゃんの手を握り、家を出る。

 鍵をかけてもらうと、駅に向かって歩き出した。

紬「なにか食べたいものとかない? 喉は渇いてない?」

唯「飲み物はあったほうがいいね。駅で買ってこう」

紬「ついでに、少しお菓子も買おうか」

唯「うんっ。ふふー、温泉かあ。楽しみだなあ……」



479: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 22:38:04.32 ID:QbZMQD9WO


 駅のコンビニでビスケットチョコなどのお菓子や飲み物を買い、

 コインロッカーから出したスーツケースに唯ちゃんの日用品をしまってから、下りの電車に乗り込む。

 都会から外れていく電車は空いていて、唯ちゃんと並んで座ることができた。

唯「うー、冷房さむいなあ……」

紬「大丈夫?」

 唯ちゃんの肩を抱き寄せて胸の前にかかえるようにする。

唯「おほ、ちょっとよくなった……ずっとこうしてて」

紬「4駅で乗り換えだから、それまでだよ」

唯「うん、うん」

 寒いという割に、くっついた唯ちゃんの体は暖かかった。

 冷房のおかげで7分ほど唯ちゃんと寄り添っていられた。

 役得、役得。



481: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 22:41:05.21 ID:QbZMQD9WO


 乗り換えたさきの路線は、県外の山あいまで続いていく田舎の路線で、

 旅行向けのボックス席が車両の大半を埋めていた。

 唯ちゃんと二人だけで座れるところを探して、窓際を唯ちゃんに譲った上で、

 スーツケースを扉のように立てて、唯ちゃんの隣に座った。

唯「窓際いいの?」

紬「窓の外より、唯ちゃんのほうが綺麗だもん」

唯「あらいやですわ、お世辞が上手ですのね」

 お世辞じゃないので、ずっと唯ちゃんを見つめていることにした。

 電車がごとんごとん揺れながら、走り始める。

唯「目が怖いよ、紬ちゃん……」

紬「唯ちゃんのほうがきれい」

唯「わかった、わかったからせめて前を見よう」

 しかし唯ちゃんは本当にきれいだった。

 可愛いだけじゃなくて、肌のきめや首筋の輪郭、全身の肢体のたおやかさがほれぼれするほど綺麗。



484: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 22:44:10.98 ID:QbZMQD9WO


 見つめていると、唯ちゃんの肌がだんだんピンク色になり始めた。

唯「つ、紬ちゃん……」

 私までドキドキしてくる。

 唯ちゃんの美しさに目がいった時点で、とっくにドキドキしていた。

唯「……い、いいのかな、なんか。私たち、こんなとこにいて」

唯「みんなに、こう、怒られたりしないかな」

 唯ちゃんは恥ずかしそうにどもりながら、不安げな顔をする。

紬「唯ちゃんが一刻も早く記憶を取り戻したいっていうなら、今から引き返してもいいわよ」

紬「でも、違うならこのまま行くわ。唯ちゃんの記憶を取り戻すかどうかは、唯ちゃんが選択することだもの」

唯「……そうだよね」

 唯ちゃんは首筋をさわると、照れ笑いをして窓を開けた。

 涼やかな風が吹き付けて、唯ちゃんの汗と香りが飛ばされる。

唯「今は、思い出なんてどうでもいい」

 唯ちゃんは流れる景色に相談者がいるかのように、もっと近くで風を受けるようにしながら呟いた。



487: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 22:47:04.77 ID:QbZMQD9WO


 見渡す風景が、だんだんと田舎景色になってきた。

 車内もさっきの駅で一気に人が減り、三人掛けのシートを一人で独占してても誰も怒りそうにない。

唯「そういえば、今日行くところって温泉以外にもなにかあるの?」

紬「調べてないからわからないけど……きっとなにかあるよ」

唯「えっ、これって行き当たりばったりなの?」

紬「宿の予約はしたけど……ほら、リラックスしてほしかったから、予定入れないでのんびりしようと」

 だいぶ嘘をついた。

 リラックスはしてほしいけど、予定を入れなかった理由はそれじゃない。

 唯ちゃんと二人きりでお風呂に入れるということしか頭になくて、本当に気が回らなかっただけなのだ。

 時間がなかったのも原因ではあるけれど。

唯「うーん……まあ代わりに紬ちゃんにはとことん楽しませてもらうからいいや」

紬「う、うん! まかせて、今夜は眠らせないわ!」

唯「おお、古いセリフ」



490: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 22:50:06.45 ID:QbZMQD9WO


 外からの風が冷たくなってきて、唯ちゃんは窓を閉めた。

唯「でも紬ちゃん、すごいよね」

紬「え、何が?」

 温泉旅行に招待したことなら、気負わないでほしかった。

唯「だってさー……うお、貸し切りだ」

 唯ちゃんは立ち上がって車両内をキョロキョロ見回すと、安心した顔でまた席についた。

唯「忘れてない? 私、レズビアンなんだよ? 二人きりで温泉なんて危ないと思わないの?」

紬「あら。唯ちゃんはそんなことしないわ」

 私はするけど。

唯「じゃあ仮に、私が男で二人きりで温泉宿に泊まろう、なんて言われたらついてきた?」

紬「唯ちゃんなら信じるわ」

 唯ちゃんは大袈裟にため息をついた。

唯「だめだね、危機意識が足りないよ」



491: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 22:53:06.67 ID:QbZMQD9WO


 危機もなにも、唯ちゃんに押し倒されるなら土下座してでもお願いしたい。

 さすがにそんなことは口が裂けても言えないが。

唯「紬ちゃん可愛いんだから、気を付けないといけないよ」

紬「唯ちゃんのほうが可愛いわ」

唯「うん、じーっと見つめるのはやめてね。……とにかく紬ちゃんは、私に対してもっと警戒しなきゃ」

唯「私とこんなふうに、友達でいたいんでしょ?」

 違う。

 私は友達どまりではいたくない。

 もっと特別な関係になりたくて、私はこの立場を、唯ちゃんの記憶を利用するのだ。

紬「……別に、私は唯ちゃんになら何されたってかまわないわよ?」

 聴覚が唯ちゃんに集中し、電車の足音が遠く小さくなった。

 私たちの呼吸だけが、車両の中で音を立てていた。



494: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 22:56:19.44 ID:QbZMQD9WO


唯「それは、私が女の子だからかな? 間違いがあっても、ノーカンにするっていうこと?」

紬「そんなじゃない」

 喉が渇き、目の前が重いもので殴られたみたいに揺らぐ。

紬「そうじゃないの……」

 私も同じことをしたいって思ってるから、襲われたってかまわない、怒らない。

 唯ちゃんが大好きだから、同じことを考えてたんだって、それだけで嬉しくなれる。

 だけどこんな言葉、友達にどうやって言い出したらいいというんだろう。

 友達としての好きなら簡単に言える。

 片想いじゃないってわかるから。

唯「……それじゃあ、どうして?」

 唯ちゃんが、誘う。

 だけど、こんな場合もある。

 唯ちゃんは私をうたがっている。

 それゆえに私の気持ちをはっきりさせて、好きだというなら早いうちに断りたいだけだと。



496: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 22:59:08.21 ID:QbZMQD9WO


紬「っ……そ、れは」

 唯ちゃんがそんな意地悪なことをする可能性は高くない。

 きっと勘づいたら、自分からちゃんと断ると思う。

 だけど、私だって実際に唯ちゃんがどうするか、知っているわけじゃないのだ。

唯「うん、それは?」

 唯ちゃんは私の肩に頭を乗せ、膝の上の手に両手を重ねてきた。

 体がかあーっと熱くなる。

 欲求が激しく回り、よじれ、すさまじい熱を帯びたのがわかった。

唯「……教えて、紬ちゃん?」

 唯ちゃんが、甘えた瞳で私を見ていた。

紬「唯ちゃん……」

 私は、風で紙がめくれるように、くるり、ぱさり、と軽く、唯ちゃんに覆い被さった。



497: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 23:02:05.89 ID:QbZMQD9WO


唯「……」

紬「はあっ……」

 熱い雫が頬を流れていく。

 唯ちゃんは身を引くことなく、かつてなく近くて水浸しの、私の瞳を見つめている。

唯「いったんキスする?」

 私の涙を親指で拭うと、唯ちゃんはそう提案した。

唯「私はキスぐらい良いし、紬ちゃんも私ならいいんだよね」

唯「キスしたら、ひとまず紬ちゃんも落ち着けると思うんだ」

 優しく唯ちゃんは微笑む。

紬「だけど……」

 唯ちゃんの顔を両手で挟みこんで固定しながら、私はためらった。

唯「友達を安心させてあげるだけだよ。お互い恋人がいるわけでもないし、いいじゃん」

唯「公共の場だってことを除けば、悪いことなんてひとつもないよ。それとも、えっちしないと落ち着かない?」



499: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 23:05:03.60 ID:QbZMQD9WO


 私はその、ちょっと調子に乗っている口をふさいだ。

 もちろん、私の口で。

唯「……」

唯「……ん」

 あたたかい。

 くちびるだけなのに、唯ちゃんと全身密着している感じがした。

紬「……」

 電車が揺れても離れないくらいには、深く合わせた友達同士のくちびる。

 不思議なことに、鼻呼吸は徐々に落ち着いてきた。

 ずっとキスしたかった唯ちゃんのくちびるなのに。

 舌を入れてみたらもっと燃え上がるだろうか。

 だけど友達としてのキスで、欲望に任せるわけにはいかない。



501: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 23:08:03.57 ID:QbZMQD9WO


 私はそっとくちびるを離した。

 少し濡れた唯ちゃんのくちびるが、もうちょっとだけとせがむようだった。

紬「……ありがとう」

唯「落ち着いた?」

 私はそのままあとずさり、唯ちゃんの向かいに座った。

紬「うん。……さっきの質問、答えるのは後にしていいかしら。……ここじゃいやなの」

唯「いいよ。ふふ、紬ちゃん……舌入れてもよかったんだよー?」

紬「そういうわけにはいかないわ」

 私は小さく笑った。

唯「えへへ、ジョークジョーク。レズビアンジョークですよぉ」

紬「唯ちゃん……そのノリ、あのおかまの人に似てるわよ」

唯「げっ、確かに! うーん、感染したか……あるいは感染してたのかも」

 私を救ってくれたところも、あの人によく似ていた。

 背中を押してくれた、あのだみ声が、胸の中から聞こえた。



503: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 23:11:04.70 ID:QbZMQD9WO


 お菓子を食べおわったころ、電車が目的の駅に到着した。

唯「ついたー!」

紬「まだよ」

 そこからバスに乗り10分ほど行って、ようやく温泉地にたどり着く。

唯「やっとかー」

紬「あと20分くらい歩くのよ」

唯「……はい」

 温泉郷を歩いていくと、土産物屋さんや小さなテーマパークなど、興味のわくところがたくさんあった。

 平日でもたくさんの人でにぎわっていて、これなら明日の昼も退屈しないで済みそうだ。

唯「紬ちゃん、紬ちゃん」

紬「うん?」

唯「手つなご。はぐれちゃいそう」

紬「あっ、うん。気付かなくてごめんね」



506: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 23:14:05.13 ID:QbZMQD9WO


 危ないところだった。

 温泉地に女の子二人なんて、ナンパの格好の標的だ。

 特に唯ちゃんは可愛いし、私のように護身術もないだろうし、無理矢理連れ去られていてもおかしくなかった。

 急いで唯ちゃんの手を握り、恋人繋ぎに絡める。

紬「このほうが、声かけにくいと思うから」

唯「……紬さん、策士ですな」

 私たちはくっついて歩きながら、宿に向かう前にお店を見ていくことにした。

唯「なんだろあれ、温泉まんじゅうって?」

 唯ちゃんが興味を示したので、お店に寄ってみることにした。



510: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 23:17:04.51 ID:QbZMQD9WO


紬「こんにちはー」

  「いらっしゃい。どうぞ見ていってね」

 人の良さそうなおばちゃんが相手をしてくれた。

唯「この温泉まんじゅうってなんですかー?」

  「これかい? こんなのどこにでもある……ゲフン、これは温泉の湯気で蒸してあるのさ。うちの特産品だよ」

唯「へぇー、温泉の湯気で」

  「よかったら、出来たて食べてみるかい? ほかほかでおいしいよ~」

唯「いいんですか?」

  「もちろん、ちょっと待っててね」

 おばちゃんは奥にさがると、2つに切った温泉まんじゅうを持ってきてくれた。

 ほかほかと湯気があがっていておいしそうだ。

  「はい、どうぞ」

紬「わざわざすいません、ありがとうございます」

  「まあ商売だからね」



513: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 23:20:09.64 ID:QbZMQD9WO


紬「……い、いただきます」

 トレーごとおまんじゅうを受け取ったはいいものの、唯ちゃんが繋いだ手を離してくれない。

 唯ちゃんはそのまま左手でおまんじゅうの片割れを手にすると、

唯「紬ちゃん、あーん」

 と公衆の面前で堂々とイチャイチャに及んだ。

紬「あ……あーむっ」

 おばちゃんの視線を気にしないようにしておまんじゅうを食べると、

 温かくてふわふわな生地の触感と、舌触りのいいあんこの甘みが口に広がった。

紬「おいしい!」

唯「私も、いただきまーす」

 唯ちゃんの口におまんじゅうが入ると、すぐさまその口が喜悦にほころんだ。

  「ふふっ、お嬢ちゃんたち仲いいんだね」

 おばちゃんも少し嬉しそうだった。

  「付き合ってるのかい?」



514: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 23:23:05.57 ID:QbZMQD9WO


紬「……えーっと」

 私は少し面食らいつつ答える。

紬「まだ、そういう関係ではないです」

  「じゃあ、これから宿に泊まって、温泉おしくらまんじゅうするんだね?」

紬「このまま何も買わずに通りすぎてもいいんですよ」

  「何も言わないから何か買っていきなさい」

紬「……じゃあこの、温泉まんじゅう12個入りを」

  「はいよっ! 880円ね!」

 なんだか口止め料を払っている気分だけど、唯ちゃんがご機嫌なのでよしとする。

 スーツケースがあるので唯ちゃんにおまんじゅうを持ってもらい、店をあとにした。

唯「みてー、すごーい。川から湯気が出てるよ」

紬「桜が丘じゃ絶対に見られない景色ね」

 地獄みたい、という比喩が浮かんだけれど言わないでおく。



516: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 23:26:04.53 ID:QbZMQD9WO


唯「……なんかこの景色、見たことあるような」

 唯ちゃんが立ち止まり、ぽつりと言った。

紬「唯ちゃん?」

唯「ねぇ紬ちゃん、私ってここに来たことある?」

 並外れた光景は、唯ちゃんの記憶に強く刻み込まれていたらしい。

 唯ちゃんが僅かながら、記憶を取り戻した。

紬「うん、ある……」

 ごまかしの言葉も思い付かないので、正直に答える。

 だけど、なぜだか後ろめたい。

紬「いつごろ、どうして訪ねたか、言ったほうがいい?」

唯「……きっと、紬ちゃんとは来てないよね」

 私は黙って頷く。

唯「じゃあ、聞きたくないや」



519: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 23:29:52.09 ID:QbZMQD9WO


紬「……そろそろ宿に行く?」

唯「うん。もう4時過ぎだしね」

 あと1時間もすれば、心配した憂ちゃんから連絡が来るだろう。

 どちらに電話が来るかはわからないが、唯ちゃんを連れ去った意味については隠し通さないといけない。

 しばらく歩き、宿に到着して部屋に通されるともう5時近かった。

 唯ちゃんと恋人繋ぎだからといってランランしすぎた。

 唯ちゃんも疲れ果てたのか、畳にだらりと伸びている。

 ひとまず、テーブルにおまんじゅうを置いておき、飲み物を口にする。

 電話口で聞いただけだったけれど、さすがに高い部屋だけあって広々として充実している。

 なにしろ、大浴場よりはもちろん小さくなるけれど、お部屋に温泉の露天風呂までついているのだ。

 最初は泊まれればどの部屋でもよかったけれど、それを聞いて考えは変わった。

 せっかく温泉に来たのだから、唯ちゃんと二人きりでお風呂に入りたい。

 合宿でも夏フェスでもできなかった夢がここに実現するのだ。



522: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 23:32:24.82 ID:QbZMQD9WO


 唯ちゃんと同じように畳に寝転んで、手を繋いだ。

唯「えへへっ」

紬「えへへー」

 川の流れる音がするだけの、静かでとても居心地のいい部屋。

 唯ちゃんと二人きりで手を繋いで笑いあう。

 来てよかった、と思う。

 ……不意に、唯ちゃんの携帯電話が鳴る。

唯「憂からだ」

 唯ちゃんは私をちらりと見ると起き上がり、電話をとった。

唯「もしもし? うん。えーと、栃木県」

 電話の向こうから「栃木ぃ!?」と叫ぶ声が聞こえた。

唯「うん、栃木。……いや、迷子じゃなくて。紬ちゃんに連れてきてもらったの」

唯「こらこら、物騒なこと言わない」

 何を言ったんだろう。



525: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 23:35:05.80 ID:QbZMQD9WO


唯「……ううん、かわれない。憂はまず私の話を聞いて」

唯「……うん、うん。わかってる。安心して、2日後には帰るから」

唯「大丈夫。電話くれてありがとね、憂」

唯「……えへへ。それと、後で私のベッドを見てね。それは私が置いたやつだから」

唯「うんっ、じゃあね。お土産買って帰るよ。ばいばーい」

 結局わたしに代わることなく、電話は切られた。

紬「さすがお姉ちゃんだね」

唯「憂の気持ちならわかるよ。……姉妹だもん」

 もし電話が私に来ていたら、あんなに上手く憂ちゃんをなだめるのは無理だった。

紬「かっこよかったわよ」

唯「へへー」

 唯ちゃんは仰向けに倒れ、幸せそうにのびをした。



532: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 23:38:10.66 ID:QbZMQD9WO


唯「もうお風呂入る?」

紬「んー、まだ。私のほうにも、りっちゃんとかから連絡が来るだろうし」

唯「ふーん。じゃあちょっと、部屋みてまわってるね」

 唯ちゃんはのそのそ立ち上がると、奥の間に消えていった。

 普段の帰りは6時前後で、りっちゃんたちが心配を始めるなら、7時くらいまで待たないといけない。

 温泉に入れるのは食後になるだろう、と思っていた。

紬「わっ」

 予想もしなかったタイミングで携帯が震えて、着信を告げる。

 相手は都合いいというべきか、りっちゃんだった。

 りっちゃんはしきりに唯ちゃんと引き合わせようとしてくれる、私の味方だ。

 私は体を起こし、電話に出た。

紬「……もしもし」

律『よう、ムギ。そろそろ上手くいったか?』



534: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 23:41:04.35 ID:QbZMQD9WO


 その唐突さに、おまんじゅう売りのおばちゃんの顔が脳裏をよぎった。

紬「どうして知ってるの? ……私と唯ちゃんが二人きりで内緒の旅行に来てるなんて」

 ひとまず、わざと墓穴を掘っておく。

律『昨日、唯の部屋入ってこそこそしてたから、ムギの部屋開けさせてもらったんだよ』

紬「乙女の部屋を覗いちゃいやーん……」

律『悪い悪い。そしたらバカでかいスーツケースにムギの服が入ってたから、こりゃああるなって思ってたんだ』

紬「……怒らないの?」

律『このまま駆け落ちして、私らの前から消えるって言うならブチ切れる』

紬「土曜日には帰るわ。唯ちゃんもきちんと家に送る」

律『だったらいいんだ。それで、どうだ。うまくいったか?』

紬「これからだから……どうしてりっちゃんは、そんなに気を揉んでくれるの?」

律『まったくの個人的な事情だよ。さてムギ、私に協力できること、あるだろ?』

 この理由を尋ねるならば、協力はしないということだろうか。



535: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 23:44:03.48 ID:QbZMQD9WO


紬「……澪ちゃんを足止めできるように、工作をしてあるわ」

律『ほう』

紬「パソコンの昨日の履歴を調べれば、京都、修学旅行で私たちが泊まったホテルのホームページが出るはず」

紬「澪ちゃんがそれを見つけたら、一緒に騙されてくれるだけでいいわ」

律『京都かよ……もっとあっただろ、近場が』

紬「……もし私たちを追いかけるって話になったら、交通費くらいは後で出すわ」

律『うむ、わかった。がんばれよ』

紬「私、この後は電源を切るから。唯ちゃんの携帯も同じくね。……よろしく、りっちゃん」

律『いや、こっちこそありがとう。……けど、日に一回はメールがほしい』

紬「わかったわ、ちゃんと送る……じゃ」

 電話を切ると、奥から唯ちゃんが顔を出した。

唯「今のりっちゃんだよね?」

紬「うん。……唯ちゃんの電話も、電源切るからね」

唯「それはいいんだけど……」



538: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 23:47:04.20 ID:QbZMQD9WO


 携帯の電源を落とす画面って、なんとなく見慣れない。

唯「なんか会話の内容が気になったというか、こう……内通してたよね?」

紬「……うん。よくわからないけど、私たちに協力してくれるみたい。この場所は教えてないわ」

 今となっては、りっちゃんが私を唯ちゃんとくっつけようとする理由も、想像がつかないわけではない。

 恐らくは、澪ちゃんを唯ちゃんにとられたくないのだ。

 りっちゃんは、澪ちゃんを愛している。

 そしてこれまでの態度をみると、澪ちゃんもりっちゃんの気持ちを知っているような気がする。

 百合修羅場の、高まる予感がした。

唯「変なりっちゃん。記憶を取り戻した私に興味ないっていうなら気楽でいいけど、どうも引っ掛かるね」

紬「まあ詮索はあとにしましょ。どちらにしろ、裏切りようがないわ」

 そんなことよりも、心配事はもうなくなったのだ。

唯「そだね。それより温泉だよ、温泉!」

紬「ええ!」



540: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 23:50:04.13 ID:QbZMQD9WO


 スーツケースからお風呂の用具を出して、

 唯ちゃんが部屋で見つけた浴衣とバスタオルを脱衣場に持っていく。

唯「うひひー、紬ちゃんのハダカを見るのは初めてですねぇ……」

紬「私は唯ちゃんのハダカを見るの、6度目よ。合宿3回に修学旅行と、昨日の朝と今ね」

唯「……記憶取り戻したい」

紬「うん、頑張って」

唯「ちぇ。いいよ、今しっかり覚えるから」

紬「み、見つめないで」

 そんなこんなで露天風呂に出る。

 夏だから、裸でもそんなに寒くない。

 浴場は小さめとはいっても、狭苦しさを感じるほどではなかった。

唯「紬ちゃんは先にからだ洗う?」

紬「うん、唯ちゃんは?」

唯「私も洗う~」



542: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 23:53:08.38 ID:QbZMQD9WO


 2つあるシャワーの前にそれぞれ座り、体を洗うことにする。

唯「紬ちゃんって髪長いよねー。一人で洗えるの、それ?」

紬「前はよく、メイドに手伝ってもらうこともあったけど。今は毎日自分でやってるわ」

唯「め、メイド……あそうだ、今日は私が髪洗ってあげるよ」

紬「本当? それならあとで唯ちゃんの髪も洗ってあげるね」

唯「はいはいー、ではでは」

 唯ちゃんはシャンプーを持って、てこてこ歩いてきた。

 私の髪を洗うのって大変だけど、

 唯ちゃんは長い髪を洗う経験がないからなのか、ちょっとわくわくしているみたい。

紬「じゃあ、よろしくね」

唯「おまかせください!」

 シャワーを出して、唯ちゃんに渡した。



547: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 23:56:19.39 ID:QbZMQD9WO


唯「うっわ、髪の毛やわらかいね」

 髪にお湯を通しながら、唯ちゃんは嘆息した。

紬「それを言うなら唯ちゃんでしょ? 頭撫でるだけですっごく癒されるよ」

唯「自分のは触ってもね……でも紬ちゃんとかに撫でられると安心するのはわかるなあ」

 唯ちゃんはシャワーを髪にあてて「ストレート紬ちゃん」などと一通り遊んだあと、

 シャンプーをとって毛先のほうから泡立て始めた。

紬「そこからなの?」

唯「あ、頭からがいい?」

紬「唯ちゃんのやりたいほうでいいよ」

唯「ではこのままで……」

 少し強い風に、木々が枝葉を揺らした。

唯「紬ちゃん、肌も綺麗だねー」

紬「それだって、唯ちゃんのほうが……」



549: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/16(水) 23:59:06.69 ID:QbZMQD9WO


唯「えー。紬ちゃん真っ白だし、すべすべでやわらかいし……」

 唯ちゃんは興味深そうに、私の肩を撫でた。

唯「さすがにそれは、紬ちゃんが自分を知らなさすぎだね」

紬「そうかなあ……」

唯「だから、紬ちゃんは危機意識が足りないんだって」

 唯ちゃんの指が髪を通り、首筋を撫でた。

紬「あっ、くすぐったいわ」

唯「んふふ……紬ちゃん、目閉じて」

紬「えっ?」

 唯ちゃんは急に私の額に手を伸ばすと、前髪を泡だらけの手で掻く。

唯「シャンプー足すね……」

 頭が泡でモコモコにされる。

 頭皮に感じる唯ちゃんの力が心地いい。



550: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/17(木) 00:02:06.44 ID:T+tX1GiyO


唯「紬ちゃん、体はメイドさんに洗ってもらってる?」

紬「そこまでは、してもらったことないわ」

唯「なら、私が初めてだね」

 泡が垂れてきていて、目を開けることができなかった。

唯「わしゃわしゃ……」

 少しして、ボディソープを泡立てた手が首を触ってくる。

唯「あご上げて」

 首筋を這い回るように唯ちゃんの手が撫でる。

 一瞬、官能的な気分が起きそうになった。

唯「しっかり全身、綺麗にしてあげるね」

紬「ありがとう、唯ちゃん……」

 できるなら頭の泡を流してほしいのだけど。

 たぶん唯ちゃんは、わかっていて体を洗い始めているのだ。

 唯ちゃんの手が、鎖骨を滑り、胸におりてくる。



555: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/17(木) 00:05:04.59 ID:T+tX1GiyO


唯「紬ちゃんはおっきいよねぇ」

紬「……まあ」

唯「唯ちゃんのほうがおっきいよ、って言わないんだ」

紬「……でも、唯ちゃんのほうが可愛いわ」

唯「あんまり褒められた気分はしない……」

 おっぱいを触られるのは変な感覚だった。

唯「どう紬ちゃん、私のテクは」

紬「気持ちいいわよ」

唯「そうですかい」

 お腹とわき腹をこすった後、唯ちゃんは私の腕をもった。

唯「ほっ。ほっ」

紬「……」

 かくして全身を洗ってもらい、泡を流したあと唯ちゃんと交代した。



559: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/17(木) 00:08:29.79 ID:T+tX1GiyO


紬「唯ちゃんってヘアピンとると雰囲気変わるよね」

唯「前髪が目にかかるんだよね。憂も言ってたけど」

紬「こうやって髪が濡れると……すごく色っぽい表情になる」

唯「惚れちゃった? 友達に惚れちゃった?」

紬「欲情しちゃったかな」

 惚れてるのはずっと昔からだし。

唯「うひょあ、襲われるー」

 結局唯ちゃんは体を洗わせてくれず、背中だけ手伝って、一緒に温泉に入ることにした。

 シャワーのお湯がさめて冷えていた体を、熱い温泉の湯が包む。

紬「はぁ……良いわぁ」

唯「あったまるねぇ」

 ここのところ酷使している足をお湯の中で伸ばす。



560: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/17(木) 00:11:19.70 ID:T+tX1GiyO


唯「いいとこだね、ここ。静かだし、紬ちゃんと二人きりでいられるし」

紬「うん。ずっとこうして二人でいれたらいいのに……」

唯「いられるよ。私と紬ちゃんなら」

紬「……きっとそうね。私と唯ちゃんだもん」

 私たちは顔を見合わせて微笑んだ。

 出し抜けに、唯ちゃんがざばっと波だてて立ち上がり、私の膝に両手をおいて前かがみになる。

唯「……ん」

 そのまま唯ちゃんは、何も言わずに私にくちづけた。

唯「……愛してる、紬ちゃん」

紬「私も……んっ」

 言葉をつむぎきる前に、唯ちゃんがまたキスをする。

 唇を糊付けするように、濡れた舌でちょっと舐められ、息をふさがれる。

 私は唯ちゃんの頭を撫でて応じた。



561: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/17(木) 00:14:06.44 ID:T+tX1GiyO


唯「……また、しちゃったね」

紬「そうね……なんだかのぼせちゃいそう」

 唯ちゃんは再び私の横で、肩まで湯につかった。

 すなわち、再度サイドに座ったのだ。

 ……はい。

唯「紬ちゃんって、のぼせたことある?」

紬「あ、そういえばないわね。唯ちゃんは?」

唯「覚えてないけど、たぶんないよ」

紬「そんなに長風呂ってしないものね」

唯「じゃあ今日はこのままのぼせてみる?」

紬「露天風呂じゃのぼせられないと思うけど……ほら、風が通るから頭がさめちゃうでしょ?」

唯「おー……そうかぁ。じゃあ仕方ないね」

紬「そもそものぼせるなんて危ないから、わざとなんて考えちゃダメよ」

唯「ですね」



563: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/17(木) 00:17:05.13 ID:T+tX1GiyO


 1時間近く温泉でゆっくりして、全身ほぐされてツヤツヤになってから、ようやく脱衣場に戻る。

 下着をつけずに浴衣をまとい、髪を乾かしてから部屋へ戻って少しすると、夕食が運ばれてきた。

 量が多いように見えて、だいたいは器だった。

 でもおいしかったし、唯ちゃんも満足げなのでまったく構わない。

 夕食が下げられたあと、電気ポットにお湯を沸かす。

 ひとまず布団も敷いておき、枕元にテーブルを動かした。

唯「紬ちゃーん、ウノやろうよウノー」

紬「修学旅行じゃないのよ」

 急須にお茶を淹れて、湯呑みに注ぐ。

紬「それより、食後のティータイムにしない?」

唯「あっ、いいね。おまんじゅう食べよう!」



566: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/17(木) 00:20:04.74 ID:T+tX1GiyO


 甘い餡のおまんじゅうは、緑茶によく合った。

 1つ食べ終えてから、私は語り出す。

紬「実はね、唯ちゃん。今日のこの旅行には、目的があるの」

唯「私の記憶めぐりじゃないほう?」

紬「それは元よりどうでもいいわ。……全然関係がないって訳じゃないけど」

 唯ちゃんと来るならば、他の誰かとの思い出の場所がよかったのだ。

 そうすれば、ここは唯ちゃんにとって、何よりもまず私との思い出の場所になる。

唯「リラックスしてほしいとか、記憶関係なく私といたかった、とかじゃなく?」

紬「それも嘘じゃないわ。だけど一番の目的は、別にあるの」

唯「……それって、何かな?」

 唯ちゃんはおまんじゅうをかじり、私の目を期待をこめた瞳で見つめた。

紬「唯ちゃんに、この気持ちを告白すること」



572: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/17(木) 00:23:04.85 ID:T+tX1GiyO


唯「紬ちゃんの……気持ちって?」

 私は間を置くためにお茶を一口飲んだ。

紬「……唯ちゃんのことが好き」

紬「友達として以上に、これから人生を一緒に歩いていきたい人として」

紬「私は、唯ちゃんを愛してるの」

唯「……うん」

 唯ちゃんは顔を赤くして頷いた。

紬「驚いた?」

唯「ううん、知ってた。……けど、紬ちゃんにこうしてはっきり伝えられると、嬉しいなって」

紬「……え、知ってた?」

唯「あ。……うん、実は昨日の夜、憂から告白されて」

紬「そ、それで?」

唯「私は紬ちゃんが好きだから、って断った。そしたら憂が教えてくれたんだ」

 憂ちゃんが朝見せた涙は、そんな理由があったらしい。



573: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/17(木) 00:26:05.50 ID:T+tX1GiyO


紬「……って、え?」

唯「だから、紬ちゃんが好きだから断ったの。でなきゃその場で憂を押し倒してたよ」

唯「さっきの言葉、結婚しようってことでいいよね。紬ちゃんとなら私、迷いなしにオッケーだよ」

 唯ちゃんは温泉まんじゅうを剥き、私の口元に近付けた。

唯「大好きだよ、紬ちゃん。私でよかったら、どうか一生愛してください」

 わかってはいた。きっと相思相愛だって信じていた。

 それでも、唯ちゃんの言葉に目頭が熱くなる。

 まだ唯ちゃんにお願いしたいことはある。

 だけど今は、愛し合えているというだけで心がはねあがる。

 私は口を開け、唯ちゃんが差し出した温泉まんじゅうを入れてもらった。

紬「ゆい、ちゃぁんっ」

 あんこの甘みを感じた瞬間に、私は唯ちゃんに飛びついていた。

唯「……ずっとこうなりたかったよ。ありがとう、紬ちゃん……」

紬「ゆいちゃん、ゆいちゃんっ、ああぁっ……」



576: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/17(木) 00:29:07.55 ID:T+tX1GiyO


 唯ちゃんは裸の上に着た浴衣をはだけ、泣きじゃくる私を抱きしめる。

紬「ぐすっ……」

 私がみっともない泣き顔をあげると、唯ちゃんは小さく笑った。

唯「ふふっ、キスしたら泣きやむかな?」

紬「っん……」

 しゃくりあげた瞬間に、唯ちゃんはキスしてきた。

唯「んっ、だいすき……紬ちゃん、んっ、んむ」

紬「唯ちゃ……んぁっ」

 名前を呼んだとたんに舌が入り込んできた。

 唯ちゃんのほうから、大人のキスをしてくれた。

唯「……ん、甘いや」

 舌は、私の口の中に残った餡をちょっぴり食べていき、引っ込められた。

紬「……ちゃんとできたね」

 私が頭を撫でると、唯ちゃんは不思議そうな顔をした。



580: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/17(木) 00:32:14.59 ID:T+tX1GiyO


紬「……唯ちゃん、約束してくれる?」

唯「紬ちゃんのお願いなら、どんなことだって」

 私は唯ちゃんの目をじっと見る。

紬「これからも……記憶が戻って、昔のことを思い出しても、私を一番に好きでいてほしいの」

唯「……わかった、約束する。昔の私が誰を好きでも、紬ちゃんが大好きなのは変わらない」

唯「でも、そんな心配はいらないよ。私は絶対、前から紬ちゃんが好きだったと思うもん」

紬「……ふふ。思い出したら、また唯ちゃんと語りたいわね」

唯「語る? どんなことを?」

紬「二人きりの、恋の内緒話をね。ミルクティーを飲みながら」

 私は強く唯ちゃんを抱きしめる。

 あのころと違って、唯ちゃんは私だけのもの。

唯「ミルクティー……かぁ」

 抱き合ったまま、唯ちゃんは私ごと布団に倒れ込む。



582: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/17(木) 00:35:05.18 ID:T+tX1GiyO


唯「わからないけど、紬ちゃんと一緒なら、きっと楽しい時間だったんだろうな」

紬「うん、とっても楽しかった」

 その当時は、あれでも唯ちゃんと二人でいられることが嬉しかった。

 傷つけられても、二人がよかった。

紬「けど、今度あのころみたいな話をしたら、ただじゃおかないからね?」

唯「……紬ちゃんがいやなことなんて、絶対にしない」

 唯ちゃんは肩を撫でるようにして、私の浴衣をはだけさせた。

唯「……どうする?」

紬「はじめから、このつもりで連れてきたのよ?」

唯「そっか。じゃあ、紬ちゃんからする?」

紬「……ほんとうのこと言うと、唯ちゃんにしてほしい」

 さて。

 ちなみに、これから先にあった感覚と愛の言葉の授受について、私は一切口外するつもりはない。



587: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/17(木) 00:38:15.15 ID:T+tX1GiyO


――――

 ミルクレープを食べ終え、クリームを舐めたフォークを振りながら、唯ちゃんが言う。

唯「例えばさぁ、私がムギちゃんと付き合ったら、ムギちゃんのことを紬って呼ぶとするよね」

紬「うーん、そうね」

 私は甘いミルクティーを飲み、全身にその温度を行き渡らせた。

唯「それと同じで、あずにゃんと付き合ったら梓って呼んだり」

唯「りっちゃんと付き合ったら律って呼んだり、するのかな?」

紬「むむー……そういうのは、付き合ってから相談してみないとねぇ」

唯「けど、付き合ったら呼び方変わるのっていいよね。恋人になった! って感じがする」

紬「うん、積極的に変えてみるといいわね」

唯「もしさあ、ムギちゃんなら呼び捨てかちゃん付けか、今まで通りかなら、なんて呼んでほしい?」

紬「ん、どちらでもなくて……紬ちゃん、かな?」

唯「へぇー、紬ちゃん……なんかいいっ」



589: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/17(木) 00:41:11.91 ID:T+tX1GiyO


紬「そ、そうかな?」

唯「これから紬ちゃんって呼んであげよっか?」

紬「いやいや、だめよ。付き合ってるんじゃないのよ?」

唯「だ、ね。まあそれなら、あずにゃんは梓ちゃんとか、澪ちゃんは……そのままだ」

紬「あははっ」

唯「もし澪ちゃんと付き合うとしたら、なんて呼んだらいいだろう……」

紬「やっぱり呼び捨てかな?」

唯「いや、統一したい……まあ澪ちゃんは、澪ちゃんでいいや」

紬「私が言うのなんて、気にしなくてもいいのに」

唯「いーえ、貴重な参考意見なんですから! 紬ちゃん!」

紬「だ、だからそれはだめっ!」

唯「紬ちゃん、そう照れないでよぉ」

紬「照れてないもん!」



594: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/17(木) 00:44:16.71 ID:T+tX1GiyO


――――

 なるほど。

紬「……ん」

唯「おぉ、おはよう、紬ちゃん」

紬「あ……おはよ」

 結局どれくらい盛っていたのか。

 体を起こそうとするだけでフラフラだ。

唯「よしよし、まだ動かなくていいから」

 まさか、体力がないとあなどっていた唯ちゃんが、あそこまでできるとは。

紬「め、めんぼくないです」

 というより、この程度でくたくたな自分が情けないのか。

 浴衣の残骸を腰につけている唯ちゃんがお茶を汲んでくれたので、

 おまんじゅうとともに朝食がわりにする。



597: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/17(木) 00:47:30.28 ID:T+tX1GiyO


紬「今何時くらいかな……」

 障子があってわかりにくいが、外の明るさは少なくとも早朝のものではない。

 昼まで眠ってしまったのだろうか。

 唯ちゃんが上手すぎて、大寝坊だ。

 携帯の電源をつけてみる。

紬「うわー……」

 とたんに大量の着信通知とメールがなだれこむ。

 このさき澪ちゃんとうまくやっていけるだろうかと、怒り心頭なメール文を見て思う。

 とりあえず時間は12時前だと確認できたので、

 いそいでりっちゃんに無事のメールを送り、電話がくるまえに電源を切った。

唯「このあとどうするー?」

紬「んー、わたし動けない……」

唯「けど、せめてお昼食べないとエッチもできないよ」

紬「……そ、そうね」



598: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/17(木) 00:50:04.68 ID:T+tX1GiyO


 まず、汗やら唾液やらラブジュースやらでベタベタになった体を洗うことにした。

 そのままでは着替えすらできそうにない。

唯「お昼食べたらどうするー?」

 温泉につかりながら、唯ちゃんはぎゅうっと抱きしめてくる。

紬「……えっち、したい?」

唯「紬ちゃんがしたいことを聞いてるのっ」

 唯ちゃんは顔を赤らめて怒る。

 体を押し付けて、誘っているのは唯ちゃんのほうのくせに。

 それはそれとして、これからも平沢唯ゆかりの地めぐりは続けていく建前上、

 なかなか二人でエッチできる機会は来ないように思われる。

 と、なればやっぱり。

紬「えっと……唯ちゃんさえいいなら……」

 その日はお昼ご飯と晩ご飯が美味しかったとだけ。



600: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/17(木) 00:53:04.83 ID:T+tX1GiyO


 翌朝、最後に温泉を楽しんでから旅館をあとにした。

 財布がいっきに薄くなる。

 寮につく頃には、りっちゃんに渡すかもしれない交通費も残らなそうだ。

 帰りがけに、おまんじゅうのおばちゃんの店にまた寄った。

  「おや、こないだの。もうお帰り?」

紬「はい、目的も果たしましたし」

唯「どもども、こちらのお嬢さんとお付き合いさせていただいております」

紬「わたしは、こちらのカワイコちゃんと」

  「そう、うまくいってよかったね。私のおかげかしら?」

紬「それはないです。あ、おみやげに温泉まんじゅう12個、2つください」

  「はいっ、1760円ね」

紬「温泉まんじゅうは役に立ちましたよ」

  「こんなん、どこの温泉地でも売ってるけどね」



603: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/17(木) 00:56:19.57 ID:T+tX1GiyO


 帰りの電車で、唯ちゃんは静かに眠り始めた。

 車内にはそれなりに人がいたけれど、唯ちゃんが窓際なので、通路からは死角。

 ばれないと思って、何度かキスをしてしまった。

唯「……襲われたいの」

 あわてて首を振る。

 唯ちゃんの安眠は妨害してはいけない。

 当たり前のことを、何をいまさら。

 携帯の電源を入れて、怖いけれど澪ちゃんにメールを送ることにした。

紬『これから寮に帰ります。唯ちゃんは私と付き合うことになりました』

紬『私の恋人に手出しをしたり、唯ちゃんの決めたことに文句を言うなら、澪ちゃんでも許しはしません』

紬『心配してくれたなら、ありがとう。ごめんなさい。二人とも、何事もなく済みました』

 携帯を閉じると、壁に寄りかかっている唯ちゃんを抱きよせて、私のほうに傾けさせた。



606: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/17(木) 00:59:03.76 ID:T+tX1GiyO


紬「……」

 しばらく待っても、メールは返ってこなかった。

 本当に縁を切られてしまったのだろうか。

紬「……あれっ?」

 最悪の想像に向かっていると、携帯が震える。

 メールをくれたのは、りっちゃんだった。

律『私たちも、今日そっちに帰る。澪は寝てるだけだから、返事ないけど心配すんな』

律『まあ、かなり拗ねちゃいるけど。怒るのは筋違いだって、澪も落ち着いてわかったんだとさ』

紬『それなら、よかった』

律『あと、あの文面はまた澪がキレかねないから消したぞ』

紬『……ありがとう、心配になってたの』

律『お安いご用。それより、唯と付き合えたんだな』



608: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/17(木) 01:02:04.65 ID:T+tX1GiyO


紬『うん、両想いだった』

律『だろうと思ってた。ムギ、ほんとありがとう』

紬『りっちゃんは澪ちゃんが好きなのよね?』

 私は出し抜けに訊いてみた。

律『まあ、隠す理由もないよな。ムギにはもう予想ついてるだろうし』

 思ったより返信は早かった。

律『私は高2の一時期、澪と付き合ってたんだ。部屋にいて、おかしくなって、そうなった』

律『でも、割とすぐ別れることになったよ。澪が本当は唯が好きだって言い出してさ』

律『両想いじゃなかった。ってな。まあ私は未練たらたらで、澪を唯にとられたくなかったって訳』

紬『だけど、私が唯ちゃんと付き合ったところで、澪ちゃんの気持ちはきっと……』

律『かもな。でも絶対無理ってなりゃ、そのうち諦めるだろ。そんときに私が隣にいたらいい』

律『なんだかんだで、襲いかかった私に澪は、好きだって言ってくれたこともあったんだし』

律『何より私は、ずっと澪のこと、好きでいられるから』



609: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/17(木) 01:05:05.59 ID:T+tX1GiyO


紬『もう一度、告白っていうのは?』

律『今は傷心の澪を慰めてやるだけさ。下心はバレバレだけどな』

紬『とにかく、今度のときはちゃんと告白しようね』

律『わかってますとも』

紬『それじゃあ、また寮で』

律『うむ。澪が起き次第、こっちもここを出るからな。それじゃあ気をつけて』

紬『りっちゃんもね!』

律『おう、サンキュ』

 そこでやりとりを終わらせた。

 どうやら澪ちゃんには許してもらえたらしい。

 気になるのは、梓ちゃんに和ちゃんだ。

 りっちゃんがうまく情報を遮断したのか、着信さえきていない。

 だけど唯ちゃんを連れ出したことが伝わっているのだとしたら、これは大激怒とみるべきで。

 さすがに、頭が痛くなる。



613: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/17(木) 01:08:05.61 ID:T+tX1GiyO


 唯ちゃんを起こし、乗り換えをして、見慣れた風景に戻ってくる。

紬「……ねぇ、唯ちゃん。すこし寄りたいところがあるんだけど」

唯「いいよ、まだ帰るにはもったいないもん」

紬「それじゃあ、次の駅で降りよっか」

 私たちは、高校のころ何度も下車した駅で、同じように、ただ手を繋いで電車をおりた。

 スーツケースはコインロッカーに預けて、駅から数分歩いて喫茶店に到着した。

唯「ここは?」

紬「まえ、唯ちゃんと私が内緒の話をしてたところ」

唯「ああ、言ってた……紬ちゃんとの思い出の場所だね」

紬「一応そうなるかな」

 店内に入ると、いつも座っていたテーブルに向かい合ってかける。

紬「ミルクティー2つと、ミルクレープとティラミスをください」

 唯ちゃんが言っていた台詞を今日は私が言った。



617: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/17(木) 01:11:10.61 ID:T+tX1GiyO


 ほどなくして、注文したケーキとミルクティーが運ばれた。

 唯ちゃんはミルクレープをひとくち食べる。

唯「……あ、あっ」

紬「どうしたの?」

唯「いや、ここ来たことあるなあって」

紬「本当?」

 来たときは毎回ミルクレープを食べていたせいか、唯ちゃんはそんなふうに思い出した。

唯「……ここでしてたのって、恋の話だっけ」

紬「うん、唯ちゃんは……あのね」

 少し喉がつまるけれど、言い出すことにした。

紬「色んな女の子のことが好きで。でも私だけは恋愛対象じゃなくて」

紬「私は毎週、唯ちゃんのそんな相談をきいていたの。気もないふりをしながら」

 目をそらしながら、私は過去の唯ちゃんのことを教えた。

唯「えっ。それは変だよ、紬ちゃん」



618: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/17(木) 01:14:07.47 ID:T+tX1GiyO


紬「でも、実際に……」

唯「私、落とす気もない女の子と、そんなに二人きりで会ったりしないよ。内緒でなら、なおさら」

唯「……はっきり覚えてるわけじゃないけどさ」

 唯ちゃんはくちびるを曲げると、ミルクティーの水面を息で撫でた。

唯「たぶん色んな女の子が好きだったってのは間違いないにしても、本命は紬ちゃんだったと思うね」

唯「もしかして、そういう相談するふりして、紬ちゃんを嫉妬させるようなことばっかり言ってなかった?」

紬「どうだろう、そんな可能性、考えもしなかったから……」

 もしそうだったら、もっと前から唯ちゃんと付き合えたのだろうか。

 唯ちゃんの本心がわからなかった自分がにくい。

紬「でも……いつもすごく、嫉妬してた。ほんとは好きなのって叫びたくなってた」

唯「もったいないなあ。ま、そんな作戦で落とせると思ってた私もたいがいだね」

 唯ちゃんは席を立つと、私の隣に移動してきた。



621: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/17(木) 01:17:06.09 ID:T+tX1GiyO


唯「ごめんね、紬ちゃん」

紬「いいの。唯ちゃんが私だけに笑顔を向けてくれるだけで、幸せだったから」

唯「……私は紬ちゃんだけのものだよ」

 唯ちゃんは甘いキスをした。

唯「もっともっと、幸せになっていいよ」

紬「うん。幸せになる……んっ」

 ミルクティーとケーキがなくなるまでお話をして、私たちはまた駅に戻り、電車に乗った。

 唯ちゃんの家に着いて、私は深呼吸をする。

 憂ちゃんはきっと、私を恨んでいるだろう。

 大好きな、愛している姉を勝手に3日間も奪ってしまったのだから。

 インターフォンを鳴らそうとした瞬間、鍵の開く音がした。

唯「ここはもう、紬ちゃんの家だよ」

 そう言って唯ちゃんはドアを開けて、ただいまと元気よく言った。



623: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/17(木) 01:20:04.94 ID:T+tX1GiyO


憂「お姉ちゃんっ、おかえりいぃっ!」

 憂ちゃんは、いつかのように唯ちゃんの胸元へと水平に飛んできた。

憂「んんっ……!」

 飛びつく憂ちゃんを受け止めて、しっかと抱きしめると、

 唯ちゃんは先手をとって憂ちゃんにキスをした。

 玄関先での出来事である。

唯「ごめんね、寂しい思いさせて。これはお姉ちゃんからのちゅーだよ」

憂「……えへ、おかえり、お姉ちゃん」

 何も言うつもりはない。

 唯ちゃんも憂ちゃんも、そのあたりと区別はついているはずだ。

憂「紬さんも、おかえりなさい」

紬「ただいま、憂ちゃん」

 私は微笑んでみせた。



625: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/17(木) 01:23:04.52 ID:T+tX1GiyO


 家にあがり、スーツケースを開いて唯ちゃんの服と日用品を取り出していると、

 さも当たり前のような顔で和ちゃんが降りてきたので、私は面食らった。

和「おかえり、二人とも」

 和ちゃんはまずは優しく微笑んだ。

唯「ただいま!」

紬「た、ただいまー」

和「うん。疲れてない、唯?」

唯「帰りの電車で寝たから平気。それで、あのね、和ちゃん」

和「……付き合うことになったんでしょ? 唯とムギ」

 和ちゃんは唯ちゃんが言うのをさえぎった。

 どうして和ちゃんが知っているのだろう。

憂「自分で報告したかったかもしれないけど、ごめんねお姉ちゃん。あれ、教えちゃった」

 和ちゃんは体の後ろから、「ハネムーン」Tシャツを出して広げた。



627: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/17(木) 01:26:04.99 ID:T+tX1GiyO


紬「……唯ちゃん、これどういうこと?」

唯「あー、行く前に仕掛けといたの。ハネムーンにいってきますって。紬ちゃんの作り話みたいにね」

 私は唯ちゃんが、憂ちゃんとの電話で言っていたことを思い出す。

紬「そういえば、ベッドの上になにか置いたって……」

唯「あれのこと。えへへ、仮に紬ちゃんがヘタレても、私が襲うつもりだったよ」

 なんとまあ、唯ちゃん。

 なんてまた、そんな被害者感情を逆撫でするようなことを。

紬「……えっと、あの」

和「ムギ、私は厳しく言うつもりはないわ」

紬「あぅ」

 和ちゃんに先手を打たれる。

和「唯の記憶、無事に戻りだしてるらしいわね。それだったら、いくら唯を……幸せにしても構わないわ」

和「でも、あまり憂を泣かせるようなことはしないで」

紬「……はい、もういたしません」



630: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/17(木) 01:29:17.42 ID:T+tX1GiyO


和「憂にも謝って」

憂「い、いいよ和ちゃ」

紬「ごめんなさい!」

 問答無用で私は手をついた。

 だんだん土下座が板についてきたと思う。

憂「お、怒ってないですよ? それにおとといは梓ちゃんとか、昨日は和さんが泊まってくれましたし」

 言われてはっとする。

紬「あ、梓ちゃんに事情は……」

憂「話しましたけど、どっちかというと呆れてる感じでした。やっぱりかって」

紬「そ……そう、ありがとう」

 私は顔を上げた。

 一応こういうことなのだから、付き合ったことはあまり広めるつもりはなかった。

 しかしこれで、周囲の人間のほとんどに伝わってしまったようなものだ。



632: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/17(木) 01:32:10.84 ID:T+tX1GiyO


 恐らく、唯ちゃんの両親にも知られているだろう。

 まあ、ばれちゃしょうがない。

紬「……あの、えっと、そういうわけなので、よろしくお願いいたします」

 私はもう一度土下座をした。

――――

 帰りの道すがら、私はメイドに電話をかけた。

菫『お待たせいたしました、斎藤菫です』

紬「こんにちは。私、唯ちゃんと付き合うことになったから、お父様に伝えておいてちょうだい」

菫『えっ、唯さんと! おめでとうござ……えっ、ちょ』

紬「よろしくね?」

菫『まぁ……えぇー、お伝えしますが……』

紬「それじゃあ、またね」

菫『あっ、あっ待ってください、切らないで!』



634: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/17(木) 01:35:06.13 ID:T+tX1GiyO


紬「あら、なあに? 菫も唯ちゃんが好きだった?」

菫『いや、面識ないですよ。それより、休学の件ですが』

菫『1留までは認める、2留以上は学費を出すことはしない、しばらくやりたいことに打ち込みなさい』

菫『の、三本です』

紬「そう、わかったわ」

菫『乗ってください』

紬「え、何が?」

菫『来週もまた見てくださいねー!』

紬「……え?」

菫『じゃん、けん、ぽん!』

紬「ち、ちょき!」

菫『ウフフフフ』

 電話は切れた。

 あの子はちょっと働きすぎかもしれない。



636: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/17(木) 01:38:04.67 ID:T+tX1GiyO


――――

 これは数日後、また制服で学校を訪ねたときのこと。

唯「ふー……えぇお茶や」

 久しぶりに、放課後の部室に5人が集まれたので、私はティーセットを持ってきた。

澪「唯、ちゃんとギターの練習してるみたいだな」

唯「ばっちりだよ! なんか体が弾き方を思い出してきて、楽しいよ!」

梓「ですよね。普通に練習してるだけなら、ここまで上手くならないと思います」

律「そろそろ弾き語り、できるんじゃないか? やってみようぜ!」

唯「あ、ごめん。最初にやる弾き語りは、紬ちゃんだけに聴かせようって思ってるから」

律「うぁっ、なんだよもう、ラブラブ羨ましいなぁ!」

紬「えへへ、それほどでもないわ」

澪「これでそれほどでもないなら、真のラブラブはどうなるんだ……」

 澪ちゃんは深く嘆息した。



641: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/17(木) 01:41:06.90 ID:T+tX1GiyO


梓「そういえば、今だから言うんですけどね」

唯「なーに、あずにゃん?」

梓「わたし、唯先輩のこと好きだったんです」

 りっちゃんがお茶を噴いた。

律「おっ、お前までかあ!?」

唯「私モテモテだねぇ」

紬「だからいつも言ってたじゃない。唯ちゃんが真剣に好きって言えば、落ちない子はいないって」

唯「そのようだねぇ……あ、あずにゃんごめんね。わたし紬ちゃんと永遠の愛で結ばれてるから」

律「なんか唯からそんな乙女な言い回しが出てくると鳥肌立つんだが……」

澪「うん、かわいいよな」

律「そうじゃねぇ」

紬「梓ちゃん、唯ちゃんは渡さないからね」

梓「わかってますよ。今はもう好きじゃないです」



643: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/17(木) 01:44:07.09 ID:T+tX1GiyO


唯「うっ、な……」

紬「梓ちゃん!」

梓「どう答えればいいんですか! いや、先輩としては尊敬します。だけです」

 梓ちゃんは猫のティーカップで紅茶を飲んだ。

 りっちゃんの唾が入ってると思う。

梓「ムギ先輩に不平を言ったわけじゃないんですけど、ちょっともやもやしてたので」

梓「すいません、こんなこと言って」

紬「唯ちゃんはもう、私のだからいいけど……」

 梓ちゃんは記憶を失う前の唯ちゃんが好きだったのだろう。

 前に好きで、今は違う、というのは唯ちゃんに関しては自動でそういう意味合いを持つようになる。

 もし梓ちゃんがちょっと前に勇気を出していたら、私は相談役のままだったかもしれない。



646: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/17(木) 01:47:06.91 ID:T+tX1GiyO


 あらためて、唯ちゃんが記憶喪失になってよかった、と思った。

 その思いは、紅茶に溶かして飲み込む。

 唯ちゃんも一緒にカップを傾ける。

紬「……うん、おいしい」

唯「……うん、いいお茶だまったく」

律「ベタ褒めだな……」

唯「なにせ私の恋人が淹れてくれたお茶ですからねー」

律「そうだなぁ、それだけで美味くなるよなあ」

 りっちゃんは澪ちゃんのほうに視線を送った。

澪「……なんか、ほほえましいな」

 わざとらしく、その視線には気付かないふりをして、澪ちゃんは唯ちゃんの笑顔を見て呟く。


  終



元スレ
唯紬「おもいでぽろぽろ」