SS速報VIP:澪「律、お弁当つくってきたぞ」
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1328992520/1: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 05:35:21.86 ID:JL05U58SO
律「え? ……ありがと」
澪が私にお弁当を作ってきてくれた。
今までにもあったことだ。
それ自体は別に珍しいことじゃないし、私だって澪にお弁当を作ってきたことも何度かある。
だけど、今日はお弁当関連で過去に例のない違和感があった。
律「でも私、今日ふつうにお弁当あるんだけど」
澪「知ってるよ」
穏やかな笑顔で私のカバンに弁当の包みを押し込む澪。
知ってるか。なら私が少食ということも知っているはずだ。
だというのに、なんだろうこの澪は。
律「作っちゃったものはしょうがないから、食べるけど……」
澪「うん」
私の気も知らずに、なんでちょっと嬉しそうなんだ、この澪は。
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2: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 05:36:49.00 ID:JL05U58SO
律「……今度からは作ってくれるときは、前の日に言っておいてくれよ」
これまでだって、そうしていただろう。
どうして今日、いきなりこんな奇行をはたらいたんだ。
澪「いや、その必要はないよ」
律「……」
何も言わずにお弁当を作ってきたのは、まだいい。
うっかり伝え忘れたか、衝動というものもある。
だけど、全く悪びれた様子のない澪のこの態度は、まさに奇行と言っていい。
こんな我が幼馴染みは初めてだ。
素直で可愛いやつ……とは言いすぎだけど、悪いことをしたときはすぐさま謝ってくる。
けんか嫌いの性分というか、大人に好かれる良い子なんだ。
まあ、こっちに非があるときはいくらでも暴言と暴力を飛ばしてくるわけだが。
とにかく。その素直な澪が、なんてざまだろうか。
律「あのな……」
そもそも必要を求めているのは私のほうだ。
前夜までに言ってくれなければ、私は母さんの作ってくれる分と澪の作ってくれる分、
ほぼ倍のお弁当を食べ、過剰な満腹感とカロリー摂取に苦しむことになるのだ。
それに対し、言う必要などない、とは何たる無礼か。幼馴染みといえど許せん。
いいだろう、ひさびさにケンカといくか。
律「そもそも、」
澪「なぜなら」
律「ぇ」
……気圧された。
澪「律は今日から毎日、私の作ったお弁当を受け取るのだから」
律「……毎日?」
澪「そう、毎日」
OK、わかった。みなまで言わずとも大丈夫。
そういうことだったのか。
律「そうか……一流の料理人を目指してるって言ってたもんな。ついに本格的に修行を始めるのか」
澪「そうじゃない」
律「ぁぃ……」
冗談だからそんなに睨まないで。
と、内心が通じたのか、澪は目をそらした。
澪「……間違ってもいないな」
律「え、マジで料理人になるの?」
そんな目標、聞いたことがない。
それに、音楽の道は。
澪「もしかしたら律は将来の私を……夢を叶えた私を、誰かに紹介するとき、料理人って言うかもしれない」
律「……ようわからんぞ」
不可解な澪だ。
料理人は料理人だろう。
なんだってそんな面倒な言い回しをする必要がある。
ゆうべ、詩でも考えてたのだろうか。
ていうか、そうだ。
澪は作詞担当。料理ならばむしろ、というか、むろん……。
律「料理だったら、憂ちゃんのほうが上手じゃんか。澪は、いい歌詞を書いてくれよ。軽音部のためにさ」
澪は表情を変えないで、蒼い瞳で私を見ていたままだったから、
私はしばらく、自分が失言をしたのに気付かなかった。
澪「……じゃあ律は、梓のほうがギター上手いから、唯にギターやめて歌だけ歌え、だなんて言うか?」
指先に力が込もった。
律「それは……言わないけど……思ってもないし」
澪「おかしいよな。今の」
律「悪かった」
澪は私の肩を掴んで、腰を屈めると、正面から顔を覗きこんできた。
近い。突然ですがキスされるかと思った。
澪「……明日、律のお弁当も作るから。あさっても、しあさっても。学校のある日は毎日だ」
律「……」
澪「いいな?」
律「……ああ」
この流れでそこを丸め込むか、と思うが、断れる空気でもない。
いや、断る理由もないのだけれど。
澪のお弁当はあまりにも可愛いことを除けば普通においしい。
我が家の家計も助かる。
うちは4人家族、秋山家は3人なんだから、私の平日の昼ご飯くらい負担してくれるのが当然だ。
……冗談ですとも。
律「ありがと、澪」
澪「頼んでるのは私だよ。……それより、お弁当の味については、率直に言ってほしいんだ」
律「……ああ、そうする」
本気で料理人を目指すつもりなのか。
別段止める気もないが、何が澪の闘志を燃やしたのか、全くわからない。
趣味といえばベースと物書き。それだけだった澪に……好きな男でもできたのか。
律「……」
寂しくはなかった。
ただ、誰かも知らない奴のために私の舌を利用されるかと思うと、少し胸糞が悪い。
澪「そういえば、この前みせた詞だけど……」
律「ああ、あれなら良かったよ。でも少しだけ……」
通学路を歩きながら、唯が後ろから飛びついてくるのを期待したが、
唯にもムギにも梓にも会うことはなく、学校に到着した。
澪は2年1組であるがゆえに、1年生と同じ1階の教室で授業を受ける。
私とクラスが別になるのは今回が初めてじゃないし、特に心配はしていない。
どっちかというと今朝の澪のほうが心配だ。
階段で別れて、教室に向かう。
ドアを開けると、教室内が騒がしいのに気付いた。
唯の席のあたりに人だかりができている。
鞄を机の横に掛けて、私はそちらに向かってみた。
集団の中に、ムギの金髪も見える。
主にかしましさの原因は、カワイーという黄色い声である。
唯が仔犬でも拾ってきたかと思ったが、違った。
唯「ぎゅーっ♪」
憂「お、お姉ちゃん……恥ずかしいよぉ」
唯が膝の上で憂ちゃんを抱きかかえていた。
抽象的にいえばイチャイチャしていた。
律「……おはよう」
私はムギの横に並んで見物に加わった。
紬「あら、りっちゃん。おはよう」
唯「むちゅ~っ」
憂「待っ……おねえちゃんっ。ちょっと、だめだよぉ」
憂ちゃんの頬を引き寄せて、突き出すようにした唇を近づける唯。
憂ちゃんは顔を真っ赤にして慌てているが、唯および見物人たちはその反応を楽しんでいるだけのようだ。
律「ムギ、これは一体なんのショーなんだい?」
紬「私が来たときから始まってたから、よくわからないけれど……」
唯「んーっ……」
憂「あ、あっ」
紬「最初は憂ちゃんが教室にきてイチャイチャしてたんだけど、次第にギャラリーが集まったみたいね」
ムギは早口で言い終え、また唯たちに目を戻した。
律「なるほど……」
唯は恐らく、見せ物と化していることに気づいていないのだろう。
姉妹の仲を存分に見せつけるチャンスだと考えているのではなかろうか。
唯は、憂ちゃんとの仲の良さについて触れるとすごく嬉しそうな顔をする。
そのあたりに姉として、誇りか矜持かがあるのだろう。
「どうするのー憂ちゃん! ちゅーされちゃうよー!」
憂「そ、そんなこと言われましても……」
それはさておき、憂ちゃんのほうはいい気分ではないのではなかろうか。
なぜならば……憂ちゃんは控えめな性格だからだ。
唯との仲を見せびらかしたいなどとは思うまい。
しかしながら、ノリノリの唯の手前、逃げ出せずにいるとしたら。
憂ちゃんのほっぺたまで、唯のくちびるが約2センチといったところ。
私は唐突に振り向き、集団の端まで聞こえるよう大声を出した。
律「うわッ、堀込先生!?」
この状況で厳しい生活指導が現れれば、怒られずに済むはずがない。
総員が身構えて振り向いた音に紛れて、私は聞いた。
私だけが聞いた。
憂「……ちゅっ」
ナイスアシスト、私。
「ちょっと律、びびらせないでよー」
律「あれぇ? 見間違いだったか」
とぼけてデコを掻く。
紬「大事なところだったのにぃ!」
律「……ところで、そろそろHR始まると思うんだけど」
憂「あっ……わ、私もう行きますから! お姉ちゃん、またね!」
唯「えへへ……またね、憂!」
憂ちゃんは赤い顔をしたまま、皆が引き止めるのも聞かずに教室から駆け出でた。
ういやつじゃのう。憂ちゃんだけに。
その後ほどなくして先生が来て、ホームルームが行われた。
1限までの短い休み時間のうちに、憂ちゃんからお礼のメールが届いてほっこりした。
私は、あの後の音も含め、なにも知らないふりをしておいた。
しかし、この件については唯にも少しヤキを入れたほうがいいのではないだろうか。
こうして礼を言われたということは、憂ちゃんはあの状況を少なからず嫌がっていたことになる。
でなければ私の行動は、単に見間違いをして勝手にビビったアホにしか見えないはずだ。
そういうわけだから唯は、憂ちゃんの気持ちに気付かないで、
ただ仲良しと見られたいがために憂ちゃんにキスを迫った、ちょっとひどい姉なのだ。
別にそのくらいで憂ちゃんは唯に失望しないだろうし、私が割って入る必要なんてないとは思う。
しかし、唯にも知っておいてほしい。
憂ちゃんは本当に恥ずかしい思いをしていたのだから、あまりああいうことは繰り返すべきでない。
だからといって急ぐような話でもないし、夜にでも唯にメールで言えばいいだろう。
1限に向け、私は腰をぐっと伸ばし、ほぼ落書き帳なノートと教科書を出した。
――――
それからは何事もなく授業が進行された。
そもそも朝のアレ自体、事件というにも物足りないが。
朝のアレといえば、むしろ澪のことが事件性がある。
唐突にお弁当を突きつけたかと思えば、料理人を目指すなどと言い、毎日私にお弁当を寄越すと宣言する。
どうして急に、あんなことを言い出したのか。
やはり、好きな男でもできたのか。
しかし冷静に考えてみて、それで料理の修行を始めるというのは不自然だ。
男に手料理を振る舞う機会なんて、そうそう訪れるものではないだろう。
交際していないならなおさらだ。
もし好きな人が出来たら、ふつうは外面から磨こうとするものだ。
澪にはそんな努力をする必要はない、ということを考慮してもそうだ。
なぜ、一番に料理なのか。
考えたくない話だが、澪にはすでに付き合っている相手がいるのだろう。
そして料理を振る舞ったところ、あまりご満足いただけなかった。
……私に言ってくれたらぶん殴ってやるのに。
で、料理の腕を上げるために、私にお弁当を作っているというわけか。
普通ならそんなところだろう。
しかし、澪にそういう相手ができるというのも、彼氏ができて私に内緒にしているというのも考えにくい話だ。
というわけで、その線はない。
では澪はどうして料理に目覚めたのか。
朝の会話を思い出すと、ひとつ妙な点があった。
私の、憂ちゃんのほうが料理が上手いという発言に対する澪の反応は、いつもらしくなかった。
澪は怒ったときにあまり感情を隠さない。
あんな風に静かに怒り、諭してくるのはいつもの澪ではなかなか見られない。
自分より年下なのに、圧倒的にいい料理を作る憂ちゃんが現れて、焦るようになったのだろうか。
ゆえに憂ちゃんと比較されて、はらわたの煮えくり返るような怒りを感じてしまった。
そういえば最近、憂ちゃんについて澪と話した覚えがある。
あれが澪に焦燥をうんだのかもしれない。
そうだとすれば、「憂ちゃんってすごいよなー」と褒め称えて満足した私というやつは。
私も澪に毎日お弁当を作ったほうがいいのだろうか。
無理だ、めんどくさい。
そうだ、これで澪が憂ちゃんのように家事万能になり、その上で私に尽くしてくれる存在になればいいのだ。
私はうまく澪をけしかけてやったというわけだ。
始めからこれが狙いだったのだ。
澪に一生パラサイトしてくらすぞー。
なんて言ったら間違いなくぶたれるな。
それに、澪だっていつかは結婚するんだろう。
――――
突然ですがお昼の時間だ。
考えごとをすれば授業は時空の歪みに飲み込まれる。
律「さてと……」
2つのお弁当を持って、いつものように唯の席へ。
1年のとき、唯は別のクラスだった。
和がいるからか、唯が私たちの教室に来ることは無かった。
かわりに、ときどき私たちが唯の教室に行って昼食にしていた。
それが2年になってもなんとなく続いているような形だと思う。
なに、唯が特別というわけではない、という話だ。
澪も和を連れて食べに来ることがときどきあるわけだが、今日はどうか。
澪の作ったおかずを食べているところを澪に間近で見られるのは少し照れくさくて困る。
律「ムギ、いこーぜ」
紬「ちょっと待っててね」
ムギに声をかけて、一緒に唯の席へ。
ムギが椅子を持って、唯の机の横につけた。
紬「よいしょっと」
律「なあ唯」
唯「あ、ごめん、二人とも」
机にお弁当を置き、他愛ない話を振ろうとしたとたん、唯に遮られる。
唯「今日は憂と一緒に食べる約束してるんだ。部室使うね?」
律「あ、おぉ」
申し訳なさそうに手を合わせるが、顔が満面の笑みなせいで許しを乞われている気がしない。
唯「いってきまーす」
ともかく、唯はお弁当を持って、曰く部室へと駆けていった。
律「まったく……シスコンめ」
紬「良いことじゃない。……あれ? 唯ちゃんお弁当忘れてる」
ムギがお弁当を机に置き、3つ並んだ包みを見て目を丸くした。
律「あ、違う、それ私の」
紬「じゃあこっちが唯ちゃんの?」
律「でなくて……」
私は今朝あったことを、かいつまんで早口で説明した。
紬「愛妻弁当ね」
律「言うと思った。……そうだ、ムギも食べるの手伝ってくれ」
紬「いいけど、澪ちゃんが作ったぶんは全部りっちゃんが食べるのよ」
律「わかってるとも」
感想を求められているわけだし、そのくらいわきまえている。
私はお弁当の包みをといた。
律「しかしなぁ……なんでまた急にお弁当なんて。それも毎日」
紬「だから澪ちゃんはりっちゃんに、おいしいって言ってもらいたいのよ」
律「感想は正直に言ってほしいって話だぞ」
紬「だからこそじゃない! 澪ちゃんはりっちゃんに嘘なんてついてほしくないの」
律「そりゃあ、見え見えのお世辞なんて言われたくないだろうが……」
ムギと喋りながら、私のと澪が作ったのと、続けざまにお弁当の蓋を開ける。
律「ほう」
なかなかの出来映えだ。
前より腕を上げたか。食べてみなければわからないが。
律「いただきます、と」
紬「いただきまーす」
美食家は卵焼きさえ食べれば、その料理人の腕前がわかるという。
そんなわけで私も卵焼きから手をつけてみた。
律「うん……」
なんというか……。
律「……」
これは……。
律「澪……なにがあった……」
紬「どうしたの?」
律「……なまらうんめぇ」
紬「なまらうめぇっすか」
律「ああ……わ、私の舌も肥えたのかな?」
1年以上、ほぼ毎日ムギが持ってくる紅茶やお菓子を食べ続けてれば、違いのわかる女にもなるというものか。
だからと言って、前から澪の料理がここまでおいしかったというわけでもないだろう。
ムギだって時々、澪がつくったお弁当とおかずを交換していたことがあるのだ。
澪は、いつからなのか明確にはわからないが、格段に料理が上達している。
まぐれかもしれないと思って他のおかずにも手をつけるが、
私がはじめに感じた水準を下回るものは、この弁当箱の中にはなかった。
ムギの舌でも確かめて欲しいのだけど、
紬「りっちゃんが同じことされたら嬉しくないでしょ?」
とて、かたくなに断られる。
自分の作った料理を、おいしいからみんなも食べて、って言われたら私なら嬉しいと思うけども。
しかし澪ならこう言いそうだ、というのも分かる。
澪「律にあげたんだから律だけが食べてくれ!」
……その昔、澪の家で遊んでいたときに、机の角に引っ掛けて服を大きく破いてしまったことがあった。
夏場だったために上に着るものもなく、そのままでは帰れなかった。
そこで澪が、いくぶんかサイズの小さい、着古した服を奥から取ってきてくれた。
澪が1年前に着ていて、もう着れなくなった服らしく、サイズは当時の私にぴったりだった。
お言葉に甘え、私は遠慮なくその服をもらうことにした。
なにせ、澪は私の憧れるものをたくさん持っていた。
それからしばらくは、その澪のお下がりを1日おきに着ては洗濯し、
美人になった気分をぞんぶんに楽しんでいた。
しかし子供は体ばかりすぐ成長する。
いやらしい意味じゃねえよ。
コホン。たいそうなお気に入りだったが、1年もすれば小さくなって着れなくなってしまい、
澪のお下がりは両親の手によって弟、聡の手へと渡された。
その後のある日、澪が私の家に来て、聡が例の服を着ているのを見つけたとき、
澪は人が変わったように激怒した。
振り回されるようにして服を脱がされた聡はいまだにその事件がトラウマだし、
私だってあの時の澪の表情を思い出すのは怖い。
なんでも澪は、お下がりの服を私が大切にしてくれていると思っていただけに、
弟に渡されたのがひどくショックだったのだという。
私がいかに澪の服を気に入っていたかを再度説きなおし、
親が勝手にお下がりにしてしまったのだと説明して、どうにかその場で仲直りができた。
長くなったが、ようするに澪は精神的にも成長した今でも、
お弁当を誰かにやったら不機嫌にはなるだろうということだ。
とにかく、私はやたら美味い澪のお弁当を食べ、ムギとともに母のお弁当を片付けた。
律「やー、腹いっぱい」
紬「太っちゃうかもね」
律「ははは……1日くらい大丈夫だろ」
何点か、気がかりなことはある。
だけど普通なら私が首を突っ込んだり、殴り込んだりすることではない。
私はただ、上達した澪の腕前をほめたらいいのだ。
部室で会ったら一番にその話だ、と決めおいた。
しばらくムギやクラスメートと談笑していると、唯が戻ってきて、程なく午後の授業が始まった。
――――
律「ほうかーご!」
唯「イエスほうかーご!」
授業が終わった。
鞄を肩に、部室を目指して教室を出る。
唯「ちょっと憂のとこ寄るから、りっちゃんムギちゃんは先いってて」
律「またか、シスコン」
唯「すまんね、ラブラブなもんでして」
グフフ、と唯は気持ち悪く笑って階段を降りていった。
律「行くか、ムギ」
私も上り階段に足をかけたが、ムギは唯の去ったほうを見つめていた。
律「ムギ?」
紬「……今朝といい、昼といい、ちょっとね」
律「what?」
ムギの碧眼が私を見る。
紬「りっちゃん、おトイレ行きたい」
律「ひとりで……」
紬「ねっ?」
両手で私の手をとり、ニコッと微笑むムギ。
唾をのんだ私を、誰が最低とそしれようか。
そのしぐさにその笑顔はずるいぞムギ。
などと思う間に、トイレの個室まで連れ込まれた。
律「な、なんだ……?」
紬「あまり大きな声は出さないでね? 外に聞こえたら、ことだから」
あれ、もしかしてこれ私、やばいのでは。
いや、違うよな。さっき切れ切れに聞こえたことをちゃんと話してくれるんだろう。
分かってはいても、きっと私の顔は赤い。
律「その、ムギ、私は……」
紬「りっちゃん。これはあくまで私の考えなんだけどね」
律「ひゃい……」
近い、近い近い。
トイレなのに良い匂いする。おかしい。
真面目に話を聞け、田井中律。
紬「唯ちゃんと憂ちゃんは付き合ってると思うの」
律「えっ」
なんだそのどうでもいい話は。
ムギいい匂い。
紬「いくら仲良しだって、冗談でキスを見せつけたりするかしら。それに、憂ちゃんは乗り気じゃなかった」
律「あー」
紬「りっちゃんがみんなの気をそらさなかったら、唯ちゃんはあれにどうオチをつけるつもりだったのかしらね」
律「さぁ……」
紬「お昼のときも、わざわざ部室を借りて二人きりになりたがった……どうして?」
律「私たちを二人きりにさせようとしたんじゃないか」
紬「……えっ? りっちゃん?」
律「あ、いや、冗談……」
紬「……み、みんなと一緒でもよかったじゃない。お昼くらい、二人きりにならないでも」
律「そのくらいで付き合ってると決めつけられるかあ?」
ムギの体を押し返す。
まだ少し暑い。
紬「だから、私の想像でしかないけど……」
律「……確かめるなんて真似はよせよ?」
紬「……ううん、確かめるわ」
ムギは首を振った。
律「……」
まずい。うってかわって居心地が悪くなってきた。
律「……なんで、そこまでこだわるんだよ」
紬「それは、」
ムギの弁明を聞くつもりはなかった。
そんなことより教えてほしいのは、なんで私がこんなに苛立っているかだ。
律「誰が誰と付き合ってようが勝手だろ……どうだっていいだろ!」
紬「り、りっちゃん静かに……!」
律「……やめろよ、そうやって面白がるの。趣味じゃ済まねーよ」
紬「お、面白がってなんかないわ! 私は唯ちゃんと憂ちゃんの力になりたいだけ!」
律「なにが力になるだよ、バカにすんな!」
……そうだった。
澪関連でトラウマは、お下がり事件と同時期に、もうひとつある。
律「唯と憂ちゃんは付き合ってるんだろ!? だったらそれでいいじゃんか、ムギが力になる必要がどこにある!」
律「私がいなきゃダメってか? 唯だって憂ちゃんだって、自分らで幸せになる方法くらい探せるんだよ!」
紬「……」
ムギは首筋から青ざめていった。
律「ムギは同性愛を差別してる。……もう一度言う。邪魔をするな」
捨て台詞を吐き、私は肩を怒らせて個室を出た。
早足で部室に向かう。
もう澪も梓も来ているだろう。
律「色々……マズったな」
取り返しのつかないことをしてしまった。
私の言ったことが聞こえた生徒もたくさんいるだろう。
唯と憂ちゃんは関係ないのに。ムギだって何も悪くないのに。
私の昔話に勝手に関連づけて、逆ギレして、唯と憂ちゃんを同じ目に遭わすのか。
今から火消しに走れ。暴論を撤回してムギに謝れ。自分に決着をつけろ。
律「おっまたせー!」
部室には梓がいた。
梓「あぁ、律先輩。……どうしました?」
律「どうしたってお前……私は部員のみならず部長だぞ? 軽音部の」
ひどい後輩だ。
梓「いや、そうではなく……」
律「なまいきなやっちゃのー! このぉ!」
ヘッドロックかけちゃる。
梓「えっと、あの……?」
律「なに?」
梓「ですから、何かあったんですか?」
律「……なにも」
梓「律先輩って分かりやすい人ですね……」
律「……」
梓「……言い出せないことなら、あえて訊きませんが」
ヘッドロックを下へ、下へ、梓を抱きしめる。
律「……あずさぁ」
梓「はい」
律「梓ってさ、……女の子に恋したことってある?」
梓「まあ、あります」
……。
律「どんな子?」
梓「中学のときにいた、親友です。わけあって、友達じゃなくなっちゃったんですけど」
律「そっか。……私も好きな女の子がいたんだ」
梓「……そうなんですか」
律「小学校からの……あれ、幼稚園からだっけ。まあ、大親友だったんだが……」
梓「それって、み……むぐっ」
だまらっしゃい。
律「ただ、その子に振られちゃってからは、その子のことはおろか」
律「女の子を恋愛対象にすることもできなくなっちゃったわけ。いわゆるノンケになったんだ」
梓「ぶぁ。……そんなに好きだったんですか。それなのに、想いが通じなかったんですか?」
……。
律「……通じ合ってたはずだと思うんだが」
梓「たいそうな自信で」
律「……」
梓「……ごめんなさい、聞いてみたいです」
律「……小5のころのことだ」
梓「早い思春期ですね」
律「その3年は前から好きだった」
梓「はい……」
――――
その子……まあ、仮にM子としよう。
M子と私は、毎日どっちかがどっちかの家に行くぐらい仲がよかった。
学校でもずーっと一緒にいたから、まあ、お察しの通り、私たちの仲の良さをからかうやつがでてくる。
M子は学校のマドンナだったし、私はオトコ女とか呼ばれてたから、嫉妬されてたんだろうな。
でも、そんなことは全然気にならなかった。
M子だって大して気にも留めてなかった。
誰にそしられたって、好きって気持ちは揺るがないと思ってた。
……あいつが現れるまでは、な。
あいつってのは、M子にふられる半年くらい前に転校してきたメガネの男だ。
名前を仮に……そうだな、G太としよう。
いつも遠巻きに私たちのこと見てて、そいつもM子に一目惚れしたんだろうな、と思ってた。
ある日のことだ。
毎度のごとく、M子と話してた私に男子が突っかかってきた。
私は応戦しなきゃならないから、席を立ったんだ。
さっきM子は気にしてないって言ったけど、私との時間がとられるのは嫌みたいで、むっとしてたな。
だから、G太にもわかったのかもしれないが。
私が怒鳴り付けようとしたところで、G太がいきなり立ち上がって、声を張り上げたんだ。
「M子ちゃんと律ちゃんは、たぶんレズっていうので、付き合ってるんだと思う。だから、邪魔をしちゃだめだ」
震える声でさ、そんなことをわざわざ言いやがった。
いや、言いたかったことはわかるさ。
面白がってたんじゃなく、正義心で私たちを助けたかったんだというのもわかる。
でも悲しいかな、偽善だった。
休み時間だったんだが、教室にいた奴らみんな「レズってなんだ?」と興味をもってザワザワしだした。
私たちも、「レズってなんだろう」「わかんない……」って言い合ってたんだけどな。
おい、笑うな梓。
まあ、そんな状況になればG太も、レズの意味を説明する。
「レズっていうのは、女の子なのに女の子のことが好きなんだ。だから、邪魔しちゃダメなんだ」
私は真っ赤になったよ。
お互い好きとも言ってないし、付き合ってなんていなかったけど、
M子のことが好きだっていうのははっきり自覚してたからさ。
私は真っ先にG太をぶとうと思ったんだけど、体が動かなかった。
「女の子なのに女の子が好き」ってフレーズが引っかかってさ。
といってもバカだったから、差別を受けたって思ったんじゃないぞ。
私がレズというやつなら、
「男子なのに女の子が好き」なやつや、「女の子なのに男子が好き」なやつは、何て言うのか気になってな。
私はG太に訊こうとしたんだが、ちと遅かった。
その途端に、私たちをからかってる奴らから一斉に、レズ、レズと野次が飛び出して、声が通らなくなった。
普段は積極的に参加してこない奴らまで野次りだして、地鳴りみたいにレズの声で教室が震えてさ。
M子は泣いちゃうし、最終的には私らが親を呼ばれたよ。
親と先生が話して、先生が誤解を解かせるように指導するって言ってたな。
そんときゃ、気にしなかったけど。
帰ってから私はお母さんに、G太に訊きたかったことを代わりにたずねた。
律「女の子が好きな女の子はレズっていうらしいけど、男子が好きな女の子は何て言うの?」
お母さんはこう答えた。
母「そういうのには、名前がないのよ」
もう少しだけ頭が足りなければ、「名前なしに対して私はレズ! 私って特別!」っていけたんだがな。
私みたいな小学生が、シンショーって言葉は知ってて、健常者って言葉がないと思ってるのと一緒でさ、
貼りやすいレッテルが存在するってことは、それは蔑まれてる存在ってことになるんだよな。
かくして、M子ちゃんを好きなりっちゃんは、ようやく自分が異常な人間であることを知ったのでした。
それから何度か、パソコンの授業の合間にこっそりと、
レズについて調べようとしたんだが、エロサイトしか出てこなかった。
……梓、ここは笑うところ。
まあ、異常だってわかってたから誰にも相談できなかったし、
レズビアンって言葉を知ったのさえ、かなり後になる。
で、それからどうなったかって言うと、意外と早く話は動くんだ。
数ヵ月後にバレンタインデーがあってさ。
澪のやつ、学校じゃチョコよこさないで、放課後うちにでかいチョコケーキ持ってきたんだよ。
あ、M子な。
そんでチョコケーキを食べてるときに、澪はこう言ったんだ。
澪「あの……私、G太くんが言ってたレズだと思う。だって、りっちゃんのことが好きだもん」
と、まあ……告白だな。
でも私、ガキでバカでね。
いや、それは言い訳か。
律「……澪ちゃん、レズっておかしいことなんだよ?」
付き合ったら、ほんとにシンショー扱いだと思ったから。私はビビったんだよ。
律「澪ちゃんは、頭がおかしいって皆からいじめられても、私のこと好きって言える?」
……澪は泣きながら首を横に振った。
私はふられたのさ。
手作りらしくて、にっげぇチョコケーキを一人で食べながら、
もうこれからは、ちゃんと男を好きになろうって決めたんだ。
――――
律「……っていうわけさ」
梓「えー……まあ、色々言いたいことはあるんですけど、特にひとつ、いいですか」
律「ん、なんだ?」
梓「その話と、律先輩が今日やたらしょげてるのと、なんの関係が……」
律「えっ?」
言われてみれば、梓は何も知らないのだ。
私がムギに逆ギレしたことと、その内容。および、唯と憂ちゃんに関する疑惑を喧伝したこと。
それらを知らなければ、ただのセンチメンタルな昔話だ。
律「……」
梓「りつ……先輩?」
律「……こんなことしてる場合じゃない!」
梓「うひゃあ!」
梓を放り出して、私はムギと入ったトイレに駆け戻った。
終業からそれなりに時間も経つのに部室に来ない澪と唯も気になるが、とにかく今の最優先はムギだ。
人の少なくなった廊下を走る。
気休めにもならないが、走りながら耳をそばだてた限り、唯や憂ちゃんの話はでていない。
トイレに駆け込み、私はさきの個室の前に立った。
律「む……ムギ?」
鍵のマークが赤くなっていることから、中に誰かいるのは確かだ。
律「いるなら……返事してくれ」
中で息を殺しているのかもしれないが、走ってきたために私の息が荒くて聴こえない。
律「……おい?」
紬「……りっちゃん?」
ちょっと怖くなったが、ようやく返事があった。
律「うん。……さっきはごめん。ほんとに酷いこと言った」
紬「ううん……りっちゃんの言ったことは、正しいわ」
律「あんなの屁理屈だよ。ちょっと古傷に障って、腹立っちゃって……応援したいって思うのは、素敵だぞ」
紬「ありがとう……」
がちゃん、とドアの閂が外れる音がした。
目の下を泣き腫らしたムギが、肩をすくめて立っていた。
紬「申し訳ないけど、今日は部活休んでもいいかしら……戸棚の一番下に、クッキーがあるから」
律「……クッキーは明日までもたないのか?」
紬「そうね……早く食べちゃったほうがいいわ」
律「わかった。また明日な」
階段までムギを送り、私は少し迷ったがまた部室に行くことにした。
部室に入ると、まだ梓が一人だった。
梓「先輩たち遅いですね」
律「掃除当番にしたって遅すぎるな……」
梓「唯先輩は、憂とじゃれに行くって言ってましたが」
律「ああ、すれ違ったのか? それは聞いてるんだけど……澪は? まだ来てないよな」
梓「さすがに想い人のことは気にしますね」
精神的に甘えていたとはいえ、梓に話したのは失敗だったようだ。
律「……私はもうノンケなんだよ、このガチレズ」
梓「じゃあムギ先輩のことも気にしてくださいよ」
律「え、ああ……ムギは今日帰るってさっき聞いたんだ。ええと、クッキー食うか?」
梓「カントリーマアムなら欲しいです」
律「庶民的だな……たぶんそんな安いものじゃないぞ」
聞いた通りに戸棚を開けると、カントリーマアムファミリーパックが鎮座していた。
まず間違いなく明日までもつだろう。
律「……」
戸棚を閉めた。
梓「くっきっきは……」
律「贅沢言うな」
梓「はい」
律「……おっせーな、あいつら」
梓「そろそろ30分たちますね……あ、澪先輩」
律「ん? ……誰も来てないじゃん」
梓「あれ、もっと飛び起きて抱きつきにいくかと思ったんですが」
律「私は唯かよ。それに、もうノンケだっていってるだろ」
梓「そんなの自分に言い聞かせたところで、本性は変わりませんよ」
律「どうしても私をレズにしたいのか、お前……」
梓「じゃあ律先輩はなんでそんなにノンケになりたいんですか」
律「そうしたら澪は安全だからだよ」
梓「はぁー……」
梓はため息をついて、私をじろじろ眺めた。
律「なんだよ」
梓「律先輩、子供のときから何も成長してないんですね」
律「うぐっ……!」
後輩のくせに何て重たい一言を。
ていうか、生意気だとは思っていたがここまで歯に衣着せないやつだったとは。
梓「逆に律先輩、男性とだったらそんな態度でもうまくやってけると思ってるんですか?」
律「……知らんけど」
梓「まず無理ですよ。律先輩みたいな甘えた姿勢で、まともな結婚とか100パーできないです」
律「うるせえよ」
梓「恋愛ナメないでください。人に好意を向ける責任から逃げてる人なんて、異性からも愛されませんよ」
律「……」
なんなのコイツ。
ちょっとレズだからって知ったような気になりやがって。
梓「……お子ちゃまのりっちゃんには、恋愛は100年早いんじゃないですかね」
律「ちょ、調子に乗るなっ! 誰がお子ちゃまだ!」
梓「律先輩がです」
律「むっ……かー! なんなのマジで!?」
梓「なんなのはこっちが言いたいですよ! そういう理由で異性に逃げる人が私は一番ムカつくんです!」
律「っ……ぐうっ!」
言い返したいのはやまやまだが、こうもボディブローばかり叩き込まれると言葉がでない。
律「け、けどな……私自身、もう澪のことは親友として見てるんだ。恋愛対象にはなってない」
梓「そんなことは追求してません。……やっぱり気になるんじゃないですか?」
律「なって……ねーよ! もう5年も、そんな目で見ちゃいない!」
梓「その感覚を覚えてるだけで十分あやしいですね! はっきり言います、律先輩は澪先輩のことが好きです!」
律「っんな、こと……」
その時、歴史が動いた。
まあ歴史じゃなくて部室のドアなんだけど。
さらに言えば、「その時、部室のドアはすでに動いていた」が正しい。
原型をとどめて、ない……。
唯「……ご、ごめぇーん、遅れちゃったー」
憂「あ、の……えっと、おじゃまします……」
澪「……」
今までどこで何してたやら知らないが、なんでよりによってこのタイミングで来るのか。
私、今朝から誰かに呪われてないか。
律「……お、おまえらおそいぞー。って、あれー。憂ちゃんじゃーん」
憂ちゃんが来ていることには多少驚いているんだけど、何故か全部棒読みになった。
梓「……こうなった以上、はっきりさせたほうがウグゥッ!」
律「まあみんな座れよ! 遅刻のわけを問いただしてやる!」
席を少し変え、私の隣に澪、向かいに唯と憂ちゃん、そしていつもの場所に梓が座る。
澪は口数が少なく、しかし私のほうを時折のぞき見ている。
梓の挙動には常に注意しなければなるまい。
律「……で、澪はどうしたんだ。なんでこんなに遅れたんだ?」
澪「……ごめん、わかんないんだ」
えー、なにそれ……。
律「ちゃんと答えろよ」
澪「ごめん……今は何も考えられなくて」
律「梓が言ってたこと気にしてるなら、安心しろよ。私はそういうのじゃないからさ」
澪「……無理だ」
だめだこいつ。
律「……唯は? それに、憂ちゃんはなんで……」
唯「へっ? 私は憂のとこ行くって言ったじゃん」
律「ちょっと寄るだけって言っただろに! おせーよ!」
唯「まあ、そういうわけだから」
律「え、えぇー……」
こんなたるんでて良いのか、軽音部。
いいわけないだろう。
律「……どうもお前らには処罰がいるようだな」
澪「えっ……」
唯「なんですと!」
憂「だっ、だめです律さん!」
憂ちゃんが初めて聞くような声で抗議した。
律「い、いや処罰っていっても……」
憂「とにかくだめです!」
話が通じない。
律「……そ、そういえば憂ちゃんは何でここに」
私、甘い部長だな……。
憂「……私は、律さんに今朝のお礼をしようと思いまして」
律「今朝? ……ああ」
思い出すのに時間がかかった。
HR前の教室で困っていた憂ちゃんを助けたのだった。
憂「はい。よければ今晩にでも、なにかごちそうしようかと……」
律「なんだって!?」
憂ちゃんのごちそうだなんて。
重複表現だろ。
それに、あんな程度のことに対して大きすぎる見返りだ。
まさに海老で鯛を釣るというもの。
律「ぜひ行かしてもらおう!」
憂「本当ですか? それなら、早めに準備がしたいので失礼します」
唯「部活終わったら一緒に帰ろーね、りっちゃん」
律「ああ。じゃ憂ちゃん、また」
梓「憂、また明日」
憂「バイバイ梓ちゃん」
憂ちゃんは頭を下げ、部室をあとにした。
律「……ふふ」
今日という日は波乱万丈だったが、最後は良き日に終わりそうだ。
律「っしゃ、練習するか!」
唯「おぉ、りっちゃんがやる気!」
梓「それじゃ、唯先輩もやりましょう」
唯「……よぅし! ほら、澪ちゃんも」
澪「わ、わかった。やろう」
2時間ほど練習したが、ムギがいないためか演奏はいまいちまとまらなかった。
特に澪が私のスピードについてこれなかった印象が強い。
それどころか私に走りすぎだと注意してくる始末だ。
いつも本当にごめんなさい。
とはいえ、澪が調子悪そうに見えたのも確かだった。
部室を出る前に、私は澪にこっそり話しかけた。
律「梓が言ったの、まだ気にしてるのか……?」
澪「うん、少し……」
律「勘違いに決まってるじゃないか。澪は大事な友達だって思ってる」
澪「……心配してくれてありがとう。私なら、もう平気」
律「そか」
ともあれ学校を出て、いつもより早く澪と別れ、私はそのまま唯の家へと向かった。
私の頭の中には憂ちゃんが作るごちそうのことしかなかった。
こんなに食い意地張ってたら、いずれ澪より太りかねないが、憂ちゃんの手料理なら仕方ない。
唯「りっちゃん、そんなに楽しみ?」
梓と別れた後、浮き足だっているのをさとられて、唯に言われる。
律「もちろんさ。憂ちゃんのごちそうだぜ? 唯は日頃からもっと感謝すべきだね」
唯は足を止め、私をじろりと睨み付けた。
律「……どうした?」
唯「……私だって、憂にはすごく感謝してる」
律「あ、ああ……そっか、そうだな。すまん」
謝ったが、唯は肩を震わせて拳を握りしめた。
唯「私のやってることで、憂に感謝が伝わってるかはわかんないけど……ほんとに愛してるんだよ」
律「あいしてる……か」
なぜか、トイレでムギに聞かされた話がフラッシュバックした。
唯「りっちゃんは本当に知らないの?」
律「……何がだ」
風が一陣、吹き抜けた。
唯「……なるほど、ここじゃ言えないね」
律「何だって」
唯「りっちゃんは余計なこと言わす天才だねぇ、まったく……はやく帰ろうよ」
不可解な唯だ……。
唯「あ、ちょっとここで待ってて」
唯の家に到着すると、門の前で唯は言った。
律「ああ、いいぞ」
私が頷くと、唯は熊にでも出会ったように肩をすくませ、
私から目を離さずに後ろ歩きをして、玄関に背中を張りつけた。
唯「……ツッコミは」
律「その程度のボケに私のツッコミはもったいないな」
唯「……へっ」
律「もうそっち行っていいのか?」
唯「あ、まだダメ。いいって言うまで待って」
律「じゃあ早くっ」
唯「あいあいっ」
唯は身をひるがえすと同時にドアを開け、家のなかに入った。
唯「ただいまーっ」
憂「おかえりー、お姉ちゃん」
律「……」
それにしても、どうして待たされたのだろうか。
なにかサプライズでも用意してるのだろうか。
部室に来る前、その相談をしていて遅くなった……とか。
だけど、私がやったのは本当に朝の一件だけで、そこまで感謝されるようなことでもない。
憂「律さんは?」
唯「門の外で待ってもらってる。だから……」
憂「……えへへ、よかった。今日はできないかと思っちゃった」
唯「ほら、早く。おいで」
考えてもみれば、澪も梓もいる状況で、私一人だけが食事に招待されることだけでも十分に不自然なんだ。
まさか……まさかな。
憂「……」
唯「んー……」
まさか、憂ちゃんって私のこと好きなんじゃないか……とかな。
律「……ははっ」
憂ちゃんに限って、それはあるまいが。
唯「りっちゃん、お待たせ。あがっていいよ」
律「ん、おー」
バカなことを考えていると、用意ができたらしく唯がドアを開けてくれた。
律「制服でおじゃまー」
憂「ようこそ、律さん。もう準備できてますので、2階のリビングに来てください」
笑顔の憂ちゃんが出迎えてくれる。
あったかい家だ、と思う。
私も将来、こんな素敵な家に住めるだろうか。
唯「えへへー、ごちそう~♪」
憂「お姉ちゃんは先に着替えてきてね」
唯「らじゃ!」
唯についていき2階にあがると、クリスマス会を思い出すようなごちそうがテーブルに並べられていた。
律「おおぉっ、すご!」
唯「じゃ、着替えてくるね。のぞかないでよ?」
憂「えー、どうしよっかな?」
唯「もうっ、憂はいいの。りっちゃんに言ってるんだよ」
律「唯よりこの料理のほうが100倍はうまそうだから安心しろ」
憂「むっ……」
唯「ふふん、でしょ? なんたって私の妹だからね!」
律「早く着替えてこないと先に平らげちまうぞ」
唯「い、いそぐ!」
バタバタつっかえながら唯は自分の部屋へ上がっていった。
憂「律さんは奥の椅子にどうぞ。カバンは隣の椅子に置いちゃっていいですから」
律「そうか、じゃあ」
お言葉に甘えてカバンを置かせてもらい、先に座らせてもらった。
憂ちゃんといると、どうもお言葉に甘えまくってしまう。
憂「……あの」
律「えっ、何?」
そんな矢先、憂ちゃんが一歩だけ近づいて、声をひそめた。
その頬に朱がさしていて、目はぱっちり開いてなくて少し潤んでいるようにも見えた。
やばい、ときめく。
律「う、憂ちゃん……」
憂「律さんは、このあと……すぐに家に帰らなきゃだめですか?」
……どういう意味だろう。
それだけの言葉にいちいち裏を勘繰る私は……何者なんだ。
律「いや別に……急ぐことはないけど」
憂「……よかった」
答えると、憂ちゃんの表情がふわっと華やいだ。
律「……」
憂「食事のあとで、お話ししたいことがあるんです」
律「……今じゃ、まずいのか?」
憂「できれば後がいいんです。律さんに任せますけど」
私はテーブルに並ぶ料理を見渡す。
律「話は、後にしようか」
憂「はいっ。それじゃあ、お姉ちゃんを待ちましょう」
律「ああ……」
大丈夫だ。憂ちゃんが、そんなはずはない。
私は何も考えなくていい。
だけど、こんなごちそうを用意してまで私を連れ込んだのは、一体どういうわけなんだ。
律「……」
無い、有りえ無い。
唯「ういーっ、着替えてきたよー!」
少しして、唯がドタドタ駆け降りてきて憂ちゃんに抱きついた。
憂「わあっ、可愛いねお姉ちゃん」
そして抱きしめ返す憂ちゃん。
私なら好きな人の前でこんなことはしないだろう。
やっぱり思い違いだ。
憂ちゃんの感謝の情を下手に勘繰ったことが恥ずかしい。
唯「えへへっ……んふー」
憂「ちょ、ちょっとお姉ちゃん、めっ!」
唯「いいにおーい」
憂「は、はずかしいってば……ほら、律さん待ってるし!」
律「唯、ごはん冷めちゃうぞー」
唯「んー、もうちょっとぉん」
律「そっか、じゃあ唯のぶん全部もらうな」
唯「どうぞどうぞー、憂さえいればいーもん……ふへへ」
憂「お、お姉ちゃん……」
なんで妹の匂いで酩酊してるんだ、唯は……。
憂「り、律さんは先に食べて構いませんよ、もう」
律「いや、だけど……」
さすがに客人として、家の人間より先にご飯にありつくのはどうなんだ。
憂「ぅ……もう、お姉ちゃんあとで!」
いくらなんでも恥ずかしかったらしく、憂ちゃんが唯を押しのける。
ただ、それも人目があったからで、普段は延々とこんなことが続いているのだろう。
実際、「あとで」と憂ちゃんも言っているわけだし。
四六時中こんな調子なら、この二人の娘には生まれたくないな……。
唯「もうっ、ういは照れ屋さんなんだから」
憂「ご、ごめんね……んっ」
からかうように唯は笑い、憂ちゃんのくちびるに指先を当てた。
唯「いいの、そんな憂も可愛いよ」
憂「お姉ちゃん……」
律「……」
なんだこの空間。
へんなの。
唯「さてと……ご飯にするんだよね?」
憂「うん、そうだよ」
二人はようやく椅子に座ってくれた。ああ長かった……。
唯「さあ、おててをあわせて」
憂「おててをあわせて!」
律「あわせまして……」
唯憂律「いただきます!」
――――
律「おぅふ……」
食べすぎた。
こうなるだろうとは予想してたんだが、いかんせんどうしても憂ちゃんの料理がおいしかった。
憂「律さん、片付けが済んだらお話がありますので」
律「あ、ああ……わかった」
気を遣わせてしまっただろうか。
憂ちゃんは食べ終わった食器を台所に運び、洗い物を始めた。
そもそも唯も憂ちゃんも同じくらい食べたのに、なぜフツーに満足そうな顔をしてるのか。
唯「食べすぎたって顔してるね」
律「おう。悪いな、人んちで……」
唯「いえいえー、憂のゴハンがおいしいのがいけないんですわ」
律「あははっ、そうですわね。ほんと、お嫁にほしいくらいですわ」
ほんの冗談のつもりだし、そう聞こえるように言ったつもりだった。
唯「やめてよ! 憂は私のなんだってば!」
いきなり大声を出されて、胃の内容物が飛び出しかけた。
律「な……」
唯「私がどんな思いで、どれだけ悩んで憂をものにしたか、りっちゃんにはわかんないよ!」
なに言ってんだ……こいつ。
唯「そんなの軽く言わないで! ……もう我慢できないよ。私と憂はね、付き合ってるの! 愛し合ってるの!」
違うだろ。
お前たちは仲良しの姉妹だろ。
いつもそう言ってたじゃないか。
憂「お姉ちゃん!」
台所から憂ちゃんが赤い顔で飛び出してきた。
今朝見た困り顔に似ていたが、少し違う。
うまく言えないが、憂ちゃんが唯の言葉を否定してくれるのは期待できそうになかった。
憂「お姉ちゃん……律さんは知ってたの?」
律「知ってるとか知らないとか、いったい何のことだよ……」
憂「……私とお姉ちゃんが付き合っていることです。知らなかったんですね」
律「知ってるわけないだろ、そんなの……」
何の冗談なんだ、これは。
朝の一件に、ムギの唐突な発言、そしてこれ……私は嵌められてるのだろうか。
だけど、ムギの涙はうそ泣きなんかじゃなかったし、言い争いになった時点でドッキリは中断になるはずだ。
いや、しかし……ムギのことだから、それでも無理に続けようとするかもしれない。
唯「……まだ信じられない?」
信じられるわけがない。当たり前だ。
律「お前たちは……姉妹じゃんか。血が繋がってるじゃないか。付き合ってるなんて……」
唯「だよねぇ。でも、惹かれあうものなんだよねー」
唯は意地悪に笑みを浮かべると、憂ちゃんの体を引き寄せた。
憂「ちょ……んっ!」
そして、私に睨み付けるような視線を送りながら、憂ちゃんのくちびるを奪った。
律「ぅ……ぁ」
それだけではない。
話には聞いていたが、目にするのは初めてのキス。
したこともない、濃厚な……大人のキスを見せつけた。
だ液と舌の絡み合う、下品な音が、私の肩を震わせる。
憂ちゃんが唯の体を必死につかまえた。
スリッパを履いた足が震えているのが見てとれる。
唯「……ふぁ」
甘い吐息をつき、唯は互いの口を透明な糸でつないだ。
少し赤い顔で私を見ると、その糸は断たれて口元に垂れた。
唯「私たちはね。付き合ってるの」
友人姉妹の衝撃的な光景とともに記憶に刻み付けるように、唯はにやりと笑った。
律「……」
唯「りっちゃんが信じる、信じないじゃない。私たちが姉妹か、他人かじゃない。私たちは、愛し合ってる」
律「だったら、なんで私なんかに言うんだよ……」
私はそんなにレズっぽく見えるというのか。
私は同性愛なんてちっとも理解してないのに。
唯「憂が、りっちゃんは大丈夫そう。って言ったんだけどねぇ」
律「憂ちゃんが……」
唯「そう、私の恋人の、憂が」
いまだ肩にしがみついている憂ちゃんの頭を唯は撫でた。
唯「……私たち、いま、味方を増やしてるんだ。朝の教室でやってたのも、その一環」
唯「いずれ学校中に……私たちが付き合ってるってことを教えてあげたいんだ」
唯「そのときに私たちが傷つけられることがないように、私たちの関係を気にしないでくれる仲間を増やしてるの」
律「それで、私を仲間に引き込もうとしたんだな」
唯「半分は、そんな感じ」
律「……もう半分は」
唯「いろいろ。確かめたいこととかもあってね……ん?」
憂ちゃんがもぞもぞ動きだし、唯の腕の中から抜けて椅子にかけた。
律「……さっき言ってた、お前らが付き合ってるのを知ってるか……とかか」
唯「そうだね。もしそうなら、言いふらされる前に口止めしとかないと」
律「だけど、私は知らなかったぞ、そんなの」
唯「だから、りっちゃんは余計なこと言わす天才なんだってば」
律「人のせいにすんなし……」
唯「あはっは。天才ゆえの悩みだねー」
……バカにしてんのか、こいつ。
律「……しかし、遅かったな」
唯「へ?」
言い出さないよりは、マシだよな。
そう自分を騙しながら、無理矢理に口を開いた。
律「今日の放課後な、友達と話してたんだよ。唯と憂ちゃんのこと。その、うたがい」
さすがに、二人の顔色が変わった。
律「けっこう大声で話してたし、明日からお前たちの噂で持ちきりかもな」
憂「な、なんで……」
唯「憂。なにも言わなくていいよ」
口元に手を当てながら、唯は素早く制した。
憂「うん……」
唯「……どういうつもりかは訊かないけど、安心していいよりっちゃん」
律「……安心? 私が?」
唯「そう。そんな噂が振りまかれたところで、私たちが1ヶ月おとなしくしてたら、そんなのすぐ静まるから」
唯「別に怒るつもりはないよ。だからそんな拗ねた物言いしないでくれる?」
あやうく涙があふれそうになる。
なんだ、この感覚は。
律「……け、けど」
唯「大丈夫だって。りっちゃんはよく分かってるはずだよ」
律「わかって……何が?」
唯「この世に同性愛者はいる。近くに同性愛者はいる。だけど、同性愛者のカップルなんて、いるわけない」
唯「ほとんどのノーマルが、そう信じて疑わない。まして私たち、血が繋がってるもん」
律「……それでも、心配なんだけど」
唯「なら、りっちゃんも火消しにまわって。和ちゃんと、澪ちゃんと一緒に」
突然現れた名前を拒むように、耳の奥がキュッと痛んだ。
律「澪がっ、知ってるのか!?」
唯「うん。……だからって、澪ちゃんと大声で話さないでね」
律「あ、ああ……」
ふと、ある一説が私の頭に去来した。
律「もしかして、今日部活に遅れたのは……澪を仲間に引き入れてたからなのか?」
唯「そんなところかな。話しかけてきたのは澪ちゃんのほうだけどね」
律「ふーん……」
ムギもそうだが、澪も疑ってたってことなのだろうか。
あれだけ目の当たりにして、気付けなかった私って……。
律「けど、それなら部室に来てみんなに話してくれたらよかったじゃないか」
唯「言ったでしょ、味方を増やさなきゃ。多勢に無勢じゃ、そもそも信じる人さえいないんだよ」
律「……そう、それもそうか」
唯「気にならないの?」
律「えっ、何が?」
唯「あー……ううん、なんでもない」
しばらくして、憂ちゃんは落ち着いたらしく、洗い物を再開するといって台所に向かった。
唯「んー、しかしなんだね」
律「うん?」
唯「やっぱりりっちゃんは引かないね。会ったときから思ってたけど」
律「引かないって……ああ、でもいきなりキスしたのは結構引いたぞ……」
会ったときからとはどういう意味だ。
唯「あはは、まあまあそれはそれ。りっちゃん、レズだと思うんだけどなー。頭は明らかにノーマルなんだよね」
律「レズじゃないって、私は。純然たるヘテロセクシャル」
言いながら胸の内で、何が純然たるだ、と突っ込んだ。
唯「あれ、詳しいね……まあ、なんだかんだで私たちの味方ってことでいいよね?」
律「そりゃあ友達としてな、応援するよ」
そういえば、ムギにもこのことは知らせたほうがいいのだろうか。
あからさまに疑っていたし、
私をトイレに連れ込んだように、誰かにあることないこと言いふらしかねない。
唯「えへへ、よかった」
律「……そうそう、味方として忠告するけど、ムギは早いうちに引き入れたほうがいいぞ」
唯「バレかけてる?」
律「ありゃもう、確信してたな」
唯「あー……じゃあ、明日の部室で話そうかな。これでもう、味方のほうが多勢だもんね」
律「ああ、そうしとけ」
梓もレズっ気があるようだし、部内は問題ないだろう。
……姉妹ってところに食ってかかられるかもしれないが。
唯「ところで……りっちゃん」
律「なんだよ、レズじゃないぞ」
唯「いや、それはまだ疑ってるけどそうじゃなくて……もう9時だよ、帰らないの?」
律「ああ、うん、帰る」
いつの間にそんな長居をしていたとは。
慌てて立ち上がった。
憂「律さん、帰るんですか?」
憂ちゃんがわざわざ出てきてくれた。
レズじゃないが……ほんとにふと、お嫁さんにしたいと思ってしまう。
律「うん、今日はごちそうさま」
憂「へっ……? あ、ああ、いえ、おそまつさまでした!」
唯「ういー、何のことだと思ったの?」
憂「えっ……そ、それはぁ」
予感がした。
これはまずい、始まる。
律「わ、私が帰ったらいくらでもいちゃついていいから! あと10秒我慢しろ!」
私はなるたけ急いで、階段を降りる。
唯「あっ、外まで送るよ。ていうかカバン忘れてるし!」
律「あー、とってくれ!」
人んちだから当然かもしれないが、私のペースなんてあったものじゃないな。
玄関でカバンを受け取り、肩にかけながら靴を履く。
律「じゃ、明日な」
唯「りっちゃん」
唯も靴をひっかけて、外までついてくる。
律「ん、なんだよ?」
ブラウンの瞳が、私の目をまっすぐに見つめた。
唯「……わたし、恋人をとられたときは、きっと怖いことするからね。本気だよ」
律「……」
唯「憂は絶対に渡さないから」
律「……あのな、私は別に」
ただの冗談で言ったんだから、そこまで引きずらなくても……。
唯「りっちゃんには冗談でも、私は本気で怖いし許せないの」
唯は静かに言いつける。
唯「私の全てより大好きだから、絶対にとられたくないの。1秒だって! 想像もさせられたくないよ!」
律「わ、わかったって……もう言わない」
まともに恋愛したことのない私が、口を挟める問題ではなさそうだ。
唯「……じゃ、おやすみ。また明日ね」
律「おう、じゃあな」
駆け出すようにして歩き始める。
律「ふー……しかし、ムギの言ってたことがマジだったとは」
ムギの妄想もたまには当たるということか。
普段は部室でひけらかすように妄想を語るし、
わざわざトイレに連れ込んだのはかなりの確証があったからかもしれない。
……つまり、もしかしたら、誰かがムギにトイレに連れ込まれた数だけ、
この学校にレズビアンのカップルが存在するということではなかろうか。
その前にムギにレズの噂が立ちそうだが。
……まあ、それはどうでもいいとして。
レズの噂ならば、私が振り撒いた唯と憂ちゃんのことのほうが心配だ。
大丈夫だとは言われたが、確実に耳にした奴はいる。
それに火消しをしてくれと言われても、どうすればいいのだろう。
「律って唯と仲いいよね、唯とあの妹さんが付き合ってるってマジ?」
……どんな対応をするのが正解なのか。
それはまだマシな例だ。
「昨日トイレでさ、唯と妹の子が付き合ってるって言ってたよね。あれマジ?」
どうごまかしたらいいんだ……。
律「……澪にでも相談するか」
一度家に帰って、それから澪の家に押し掛けよう。
私の家で電話をするのでは、万が一弟に聞かれる可能性がある。
制服とカバンを持って泊まるつもりで行けば、遅くなっても問題なかろう。
律「よし、急ごう」
――――
律「げっ……」
シャワーを浴びて、カバンに翌日用の制服を詰めようとして、私はようやく気づいた。
弁当箱の包みが2つ。言わずもがな、片方は澪に渡されたものだ。
どうせ今から向かうのだから、お弁当の空き箱を返していなかったのはまだいい。
お弁当をもらって礼も言わず、その感想もまだ伝えていない。
あれだけ料理の腕を上げるのに、澪がどれだけ努力したかは定かじゃない。
だが、澪に会ったらすぐにでもそれを称賛したいと決めたはずだったのに。
律「くっそ……バカだなもう!」
急いで支度をして、聡の部屋に家の弁当箱を投げ込む。
律「たのんだ!」
聡「おい、これぐらい自分で出せよ姉ちゃん! ……ったく、これだから女はいやなんだよな!」
なんか言ってるが無視して家を飛び出した。
澪の家の前まできて、携帯に電話をかける。
澪「もしもし……?」
10コールくらいかかって、ようやく繋がった。
律「澪、いま玄関にいる」
澪「えっ……どうして?」
律「弁当の感想を伝えに来たのと、あと……」
言い終わる前に受話器の向こうの澪の気配が遠のいた。
秋山邸がにわかにドタバタと騒がしくなる。
玄関を開けた澪は、なぜか息切れしていた。
澪「ま、またせたな……律」
律「いや、私のほうこそごめんな」
澪「いいよ。その格好、風呂上がりだろ。湯冷めするから上がってけ」
律「ああ、ていうか泊まってくぞ。いいだろ?」
澪「えっ、ああ。大丈夫だけど……いきなりだな」
澪の部屋に上がり、カバンを開ける。
律「ハイこれ」
お弁当の空き箱を渡して、ベッドに腰かける。
澪「わざわざありがとう……ちょっと流しに持っていくな」
律「うん」
澪が去って、ベッドに倒れて天井を眺める。
律「……意外と怒ってなかったな」
澪と友達になって何年したか数えてないが、澪の機嫌はいまいち読めない。
ちょっとのことで激怒したかと思えば、なんでもないことですこぶる上機嫌になる。
自分の中に世界があって、その世界で起こっていることに感情が大きく左右されるのだ。
昔、告白してきたときも、そんな決意をしているようには全く見えなかった。
今回は……たぶん、唯と憂ちゃんのことで、頭がいっぱいいっぱいで、
お弁当のことなど忘れていたのではないだろうか。
後が怖いな。
澪「お待たせ」
ぼーっと怯えていると、澪が戻ってきた。
澪「ぜんぶ食べてくれたんだな」
律「そりゃまあな。……しかし」
澪「……なんだ?」
律「澪、おまえすっごい料理うまくなったな!」
澪「ほんとうか?」
澪は半ば駆け足で私の隣に座った。
浮かべた笑顔は見ているだけで心地がいい。
律「ああ、私びっくりしたぞ! いつの間に成長しやがって!」
澪「そうか、じゃあさ、さっき食べた憂ちゃんの料理とどっちがおいしかった?」
律「そっ……う」
なんでこのタイミングでそれを訊くかな。
いつの間にか澪は笑顔じゃなく、真剣な目をしていた。
澪「……どうだ?」
律「比べられるの、いやじゃなかったのか」
澪「どうなのかって訊いてるんだ」
律「澪……そんな目の敵にすることないだろ?」
世の中、努力で越えられる相手と、どうにもならない相手がいるものだ。
それは諦めるしかないことだ。
むしろ諦めるほうが賢い選択だといえよう。
律「どうして憂ちゃんなんだ? 澪の母さんくらい上手かったら、女として問題ないと思うけど」
澪「……だって」
律「うん?」
唐突に澪の目頭から、涙があふれた。
澪「りつは……憂ちゃんが好きなんだろう……?」
律「……」
その泣き顔への変貌には、既視感があった。
私が澪を……傷つくことを拒絶した、5年前のバレンタインデーだ。
澪「わたしは律にかわいいって言ってもらえないし……いい子だなって、頭を撫でてもらえないし」
澪「律のためだけに料理作っても、全員に作った料理に負けて……お嫁さんに欲しいなんて、言ってくれるわけない」
律「みお……」
澪「なにかひとつでも勝たなきゃ……律は、……ぜったい私を振るもん……」
何も変わっていなかった。
私は、何も成長していない。
律「……好きだなんて、そんなわけないじゃんか」
澪「律は気付いてないだけだよ……自分の視線を、意識したことはある?」
生まれて初めて好きになったのが女の子で、その恋を3年ひきずり、
それからも毎日その女の子と過ごしていた女が、やすやすとノンケになれるものか。
律「……澪。人を好きになるなんて、簡単なことじゃないんだぞ」
私はただ、何も変わらないことで逃げ続けただけだ。
律「そう誰や彼や憂や好きになれるほど、私の恋は軽くないんだ。澪が初めてだった、私の恋は」
澪「……え?」
律「私たちが子供で、女同士で、好き同士なのに付き合えなかったこと、覚えてるだろ」
澪「すきって……律、じゃあ……」
律「……あんとき、澪がそれでもいいって言ってくれたら、もしかしたら私も勇気を出してたかもしれない」
澪は俯いた。
律「ごめんな、子供で、びびりで」
澪「……」
せめて私は、その髪を撫でた。
律「私さ……いまだに恋できないんだわ。びびって澪を振っちゃったあの日から」
澪「そうなんだ……」
律「魅力あるやつ見てさ、ときめいたり、性欲が出たりはするんだ。……でも、大事にしたい、されたいって思えない」
律「この人のそばにいて、支え合いたいなって……思えないんだ」
澪「……怖いのか?」
律「……そうだな、怖い。いつかその想いを裏切ったり、裏切られることが怖い」
律「だったら初めから、恋なんかしなきゃいい……って、ガキ論法なんだろうな」
澪「律は、それでいいのか……?」
律「……」
澪「私のこと好きだったのに、周りの目なんか気にして振っちゃったこと……後悔とかしてないのか?」
律「あ、それは悔しいな……。こんなにわたし好みに成長しやがって。料理もうまくなったし」
澪「……律」
澪は前ぶれなく、ベッドに私を押し倒した。
律「……やめとけって、澪」
澪「……りつぅ!」
澪は呼び合うことを求めるように、私の名前を喉からしぼりだした。
私だって悔しい。
切なくて泣きたくなる。
だからってこんなことしたら、澪に対して恋心のかけらもないことが余計に悲しくなるばかりだ。
律「……」
澪「りつ、なぁ、律……」
ぶるぶると震えて、澪は力なく私の上に落ちてきた。
手首が解放されて、自由になった腕で私は澪を抱きしめた。
律「……ごめんな」
澪「……ううん」
あー、柔らかいなあ……。
澪「私さ、律が、律の恋心を信じて……また恋ができるように、ずっと律のこと愛してるよ」
律「ありがとう」
澪「いつもそばにいるから。お弁当も毎日作る。もっと上手くなって、律の料理人になるからな」
律「……ああ」
澪「……ありがと、もう平気だ」
律「ん、そっか」
澪と少しだけ離れて、ベッドに「二」の字に横になる。
律「てゆーかさ、聞いたんだろ? 唯と憂ちゃんのこと」
澪「なんだ……やっぱ律も聞いたんだな」
律「知ってるなら、憂ちゃんのこと好きなのかーとか訊くなっての。唯の前でやってみろ、ぶたれるどころじゃない」
澪「……いや、もう言った」
律「はえっ?」
あくびをしかけていて、変な声が出た。
澪「放課後さ、憂ちゃんに宣戦布告したんだ。律は渡さないぞって」
律「ど、どこで」
澪「梓が部室に行ってから、憂ちゃんの教室で。1階に律たちは来ないだろうし、安心してたんだが」
律「……なるほど」
唯が私のほんの冗談にあれだけ突っかかってきたのも、それなら頷ける。
澪「唯が来たのは知ってるんだな……まあ、口論になってさ。その勢いで唯と憂ちゃんのことも知らされた」
律「……教室で? 唯が言ったの?」
澪「うん……大丈夫なのか、心配だけど」
大丈夫じゃないだろう……。
いや、あの二人は大丈夫なんだろうけど。
律「まあ、いいんじゃないか。しばらくおとなしくしてりゃおさまるって、唯が言ったんだから」
澪「ならいいけど……」
律「私らは、余計なこと言わないように常に唯や和の近くにいれば問題ないだろ。梓には、憂ちゃんがつく」
澪「……そうだな」
澪はしばし目を閉じ、ため息をつくように言った。
澪「そうしよう」
そして、ベッドを鳴らして立ち上がり、電灯から垂れた紐に手を伸ばす。
澪「寝ようか、おやすみ」
律「ああ、おやすみ」
布団をかぶり、私たちは眠りについた。
翌朝は澪の作った朝食を食べて、
いつものようにお弁当を持たされて、二人で歩き始めた。
それが私の日常になった。
おしまい
元スレ
律「……今度からは作ってくれるときは、前の日に言っておいてくれよ」
これまでだって、そうしていただろう。
どうして今日、いきなりこんな奇行をはたらいたんだ。
澪「いや、その必要はないよ」
律「……」
何も言わずにお弁当を作ってきたのは、まだいい。
うっかり伝え忘れたか、衝動というものもある。
だけど、全く悪びれた様子のない澪のこの態度は、まさに奇行と言っていい。
こんな我が幼馴染みは初めてだ。
素直で可愛いやつ……とは言いすぎだけど、悪いことをしたときはすぐさま謝ってくる。
けんか嫌いの性分というか、大人に好かれる良い子なんだ。
まあ、こっちに非があるときはいくらでも暴言と暴力を飛ばしてくるわけだが。
とにかく。その素直な澪が、なんてざまだろうか。
3: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 05:38:23.08 ID:JL05U58SO
律「あのな……」
そもそも必要を求めているのは私のほうだ。
前夜までに言ってくれなければ、私は母さんの作ってくれる分と澪の作ってくれる分、
ほぼ倍のお弁当を食べ、過剰な満腹感とカロリー摂取に苦しむことになるのだ。
それに対し、言う必要などない、とは何たる無礼か。幼馴染みといえど許せん。
いいだろう、ひさびさにケンカといくか。
律「そもそも、」
澪「なぜなら」
律「ぇ」
……気圧された。
澪「律は今日から毎日、私の作ったお弁当を受け取るのだから」
律「……毎日?」
澪「そう、毎日」
4: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 05:39:27.30 ID:JL05U58SO
OK、わかった。みなまで言わずとも大丈夫。
そういうことだったのか。
律「そうか……一流の料理人を目指してるって言ってたもんな。ついに本格的に修行を始めるのか」
澪「そうじゃない」
律「ぁぃ……」
冗談だからそんなに睨まないで。
と、内心が通じたのか、澪は目をそらした。
澪「……間違ってもいないな」
律「え、マジで料理人になるの?」
そんな目標、聞いたことがない。
それに、音楽の道は。
澪「もしかしたら律は将来の私を……夢を叶えた私を、誰かに紹介するとき、料理人って言うかもしれない」
律「……ようわからんぞ」
5: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 05:40:23.62 ID:JL05U58SO
不可解な澪だ。
料理人は料理人だろう。
なんだってそんな面倒な言い回しをする必要がある。
ゆうべ、詩でも考えてたのだろうか。
ていうか、そうだ。
澪は作詞担当。料理ならばむしろ、というか、むろん……。
律「料理だったら、憂ちゃんのほうが上手じゃんか。澪は、いい歌詞を書いてくれよ。軽音部のためにさ」
澪は表情を変えないで、蒼い瞳で私を見ていたままだったから、
私はしばらく、自分が失言をしたのに気付かなかった。
澪「……じゃあ律は、梓のほうがギター上手いから、唯にギターやめて歌だけ歌え、だなんて言うか?」
指先に力が込もった。
律「それは……言わないけど……思ってもないし」
6: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 05:41:22.25 ID:JL05U58SO
澪「おかしいよな。今の」
律「悪かった」
澪は私の肩を掴んで、腰を屈めると、正面から顔を覗きこんできた。
近い。突然ですがキスされるかと思った。
澪「……明日、律のお弁当も作るから。あさっても、しあさっても。学校のある日は毎日だ」
律「……」
澪「いいな?」
律「……ああ」
この流れでそこを丸め込むか、と思うが、断れる空気でもない。
いや、断る理由もないのだけれど。
澪のお弁当はあまりにも可愛いことを除けば普通においしい。
我が家の家計も助かる。
うちは4人家族、秋山家は3人なんだから、私の平日の昼ご飯くらい負担してくれるのが当然だ。
……冗談ですとも。
7: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 05:42:18.84 ID:JL05U58SO
律「ありがと、澪」
澪「頼んでるのは私だよ。……それより、お弁当の味については、率直に言ってほしいんだ」
律「……ああ、そうする」
本気で料理人を目指すつもりなのか。
別段止める気もないが、何が澪の闘志を燃やしたのか、全くわからない。
趣味といえばベースと物書き。それだけだった澪に……好きな男でもできたのか。
律「……」
寂しくはなかった。
ただ、誰かも知らない奴のために私の舌を利用されるかと思うと、少し胸糞が悪い。
澪「そういえば、この前みせた詞だけど……」
律「ああ、あれなら良かったよ。でも少しだけ……」
通学路を歩きながら、唯が後ろから飛びついてくるのを期待したが、
唯にもムギにも梓にも会うことはなく、学校に到着した。
8: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 05:43:44.81 ID:JL05U58SO
澪は2年1組であるがゆえに、1年生と同じ1階の教室で授業を受ける。
私とクラスが別になるのは今回が初めてじゃないし、特に心配はしていない。
どっちかというと今朝の澪のほうが心配だ。
階段で別れて、教室に向かう。
ドアを開けると、教室内が騒がしいのに気付いた。
唯の席のあたりに人だかりができている。
鞄を机の横に掛けて、私はそちらに向かってみた。
集団の中に、ムギの金髪も見える。
主にかしましさの原因は、カワイーという黄色い声である。
唯が仔犬でも拾ってきたかと思ったが、違った。
唯「ぎゅーっ♪」
憂「お、お姉ちゃん……恥ずかしいよぉ」
唯が膝の上で憂ちゃんを抱きかかえていた。
抽象的にいえばイチャイチャしていた。
9: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 05:44:48.12 ID:JL05U58SO
律「……おはよう」
私はムギの横に並んで見物に加わった。
紬「あら、りっちゃん。おはよう」
唯「むちゅ~っ」
憂「待っ……おねえちゃんっ。ちょっと、だめだよぉ」
憂ちゃんの頬を引き寄せて、突き出すようにした唇を近づける唯。
憂ちゃんは顔を真っ赤にして慌てているが、唯および見物人たちはその反応を楽しんでいるだけのようだ。
律「ムギ、これは一体なんのショーなんだい?」
紬「私が来たときから始まってたから、よくわからないけれど……」
唯「んーっ……」
憂「あ、あっ」
紬「最初は憂ちゃんが教室にきてイチャイチャしてたんだけど、次第にギャラリーが集まったみたいね」
ムギは早口で言い終え、また唯たちに目を戻した。
10: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 05:45:52.51 ID:JL05U58SO
律「なるほど……」
唯は恐らく、見せ物と化していることに気づいていないのだろう。
姉妹の仲を存分に見せつけるチャンスだと考えているのではなかろうか。
唯は、憂ちゃんとの仲の良さについて触れるとすごく嬉しそうな顔をする。
そのあたりに姉として、誇りか矜持かがあるのだろう。
「どうするのー憂ちゃん! ちゅーされちゃうよー!」
憂「そ、そんなこと言われましても……」
それはさておき、憂ちゃんのほうはいい気分ではないのではなかろうか。
なぜならば……憂ちゃんは控えめな性格だからだ。
唯との仲を見せびらかしたいなどとは思うまい。
しかしながら、ノリノリの唯の手前、逃げ出せずにいるとしたら。
憂ちゃんのほっぺたまで、唯のくちびるが約2センチといったところ。
私は唐突に振り向き、集団の端まで聞こえるよう大声を出した。
律「うわッ、堀込先生!?」
11: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 05:47:59.22 ID:JL05U58SO
この状況で厳しい生活指導が現れれば、怒られずに済むはずがない。
総員が身構えて振り向いた音に紛れて、私は聞いた。
私だけが聞いた。
憂「……ちゅっ」
ナイスアシスト、私。
「ちょっと律、びびらせないでよー」
律「あれぇ? 見間違いだったか」
とぼけてデコを掻く。
紬「大事なところだったのにぃ!」
律「……ところで、そろそろHR始まると思うんだけど」
憂「あっ……わ、私もう行きますから! お姉ちゃん、またね!」
唯「えへへ……またね、憂!」
憂ちゃんは赤い顔をしたまま、皆が引き止めるのも聞かずに教室から駆け出でた。
ういやつじゃのう。憂ちゃんだけに。
12: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 05:48:55.92 ID:JL05U58SO
その後ほどなくして先生が来て、ホームルームが行われた。
1限までの短い休み時間のうちに、憂ちゃんからお礼のメールが届いてほっこりした。
私は、あの後の音も含め、なにも知らないふりをしておいた。
しかし、この件については唯にも少しヤキを入れたほうがいいのではないだろうか。
こうして礼を言われたということは、憂ちゃんはあの状況を少なからず嫌がっていたことになる。
でなければ私の行動は、単に見間違いをして勝手にビビったアホにしか見えないはずだ。
そういうわけだから唯は、憂ちゃんの気持ちに気付かないで、
ただ仲良しと見られたいがために憂ちゃんにキスを迫った、ちょっとひどい姉なのだ。
別にそのくらいで憂ちゃんは唯に失望しないだろうし、私が割って入る必要なんてないとは思う。
しかし、唯にも知っておいてほしい。
憂ちゃんは本当に恥ずかしい思いをしていたのだから、あまりああいうことは繰り返すべきでない。
だからといって急ぐような話でもないし、夜にでも唯にメールで言えばいいだろう。
1限に向け、私は腰をぐっと伸ばし、ほぼ落書き帳なノートと教科書を出した。
13: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 05:49:53.85 ID:JL05U58SO
――――
それからは何事もなく授業が進行された。
そもそも朝のアレ自体、事件というにも物足りないが。
朝のアレといえば、むしろ澪のことが事件性がある。
唐突にお弁当を突きつけたかと思えば、料理人を目指すなどと言い、毎日私にお弁当を寄越すと宣言する。
どうして急に、あんなことを言い出したのか。
やはり、好きな男でもできたのか。
しかし冷静に考えてみて、それで料理の修行を始めるというのは不自然だ。
男に手料理を振る舞う機会なんて、そうそう訪れるものではないだろう。
交際していないならなおさらだ。
もし好きな人が出来たら、ふつうは外面から磨こうとするものだ。
澪にはそんな努力をする必要はない、ということを考慮してもそうだ。
なぜ、一番に料理なのか。
14: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 05:50:40.60 ID:JL05U58SO
考えたくない話だが、澪にはすでに付き合っている相手がいるのだろう。
そして料理を振る舞ったところ、あまりご満足いただけなかった。
……私に言ってくれたらぶん殴ってやるのに。
で、料理の腕を上げるために、私にお弁当を作っているというわけか。
普通ならそんなところだろう。
しかし、澪にそういう相手ができるというのも、彼氏ができて私に内緒にしているというのも考えにくい話だ。
というわけで、その線はない。
では澪はどうして料理に目覚めたのか。
朝の会話を思い出すと、ひとつ妙な点があった。
私の、憂ちゃんのほうが料理が上手いという発言に対する澪の反応は、いつもらしくなかった。
澪は怒ったときにあまり感情を隠さない。
あんな風に静かに怒り、諭してくるのはいつもの澪ではなかなか見られない。
15: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 05:51:29.16 ID:JL05U58SO
自分より年下なのに、圧倒的にいい料理を作る憂ちゃんが現れて、焦るようになったのだろうか。
ゆえに憂ちゃんと比較されて、はらわたの煮えくり返るような怒りを感じてしまった。
そういえば最近、憂ちゃんについて澪と話した覚えがある。
あれが澪に焦燥をうんだのかもしれない。
そうだとすれば、「憂ちゃんってすごいよなー」と褒め称えて満足した私というやつは。
私も澪に毎日お弁当を作ったほうがいいのだろうか。
無理だ、めんどくさい。
そうだ、これで澪が憂ちゃんのように家事万能になり、その上で私に尽くしてくれる存在になればいいのだ。
私はうまく澪をけしかけてやったというわけだ。
始めからこれが狙いだったのだ。
澪に一生パラサイトしてくらすぞー。
なんて言ったら間違いなくぶたれるな。
それに、澪だっていつかは結婚するんだろう。
16: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 05:52:12.99 ID:JL05U58SO
――――
突然ですがお昼の時間だ。
考えごとをすれば授業は時空の歪みに飲み込まれる。
律「さてと……」
2つのお弁当を持って、いつものように唯の席へ。
1年のとき、唯は別のクラスだった。
和がいるからか、唯が私たちの教室に来ることは無かった。
かわりに、ときどき私たちが唯の教室に行って昼食にしていた。
それが2年になってもなんとなく続いているような形だと思う。
なに、唯が特別というわけではない、という話だ。
澪も和を連れて食べに来ることがときどきあるわけだが、今日はどうか。
澪の作ったおかずを食べているところを澪に間近で見られるのは少し照れくさくて困る。
17: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 05:53:01.53 ID:JL05U58SO
律「ムギ、いこーぜ」
紬「ちょっと待っててね」
ムギに声をかけて、一緒に唯の席へ。
ムギが椅子を持って、唯の机の横につけた。
紬「よいしょっと」
律「なあ唯」
唯「あ、ごめん、二人とも」
机にお弁当を置き、他愛ない話を振ろうとしたとたん、唯に遮られる。
唯「今日は憂と一緒に食べる約束してるんだ。部室使うね?」
律「あ、おぉ」
申し訳なさそうに手を合わせるが、顔が満面の笑みなせいで許しを乞われている気がしない。
唯「いってきまーす」
ともかく、唯はお弁当を持って、曰く部室へと駆けていった。
18: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 05:53:58.27 ID:JL05U58SO
律「まったく……シスコンめ」
紬「良いことじゃない。……あれ? 唯ちゃんお弁当忘れてる」
ムギがお弁当を机に置き、3つ並んだ包みを見て目を丸くした。
律「あ、違う、それ私の」
紬「じゃあこっちが唯ちゃんの?」
律「でなくて……」
私は今朝あったことを、かいつまんで早口で説明した。
紬「愛妻弁当ね」
律「言うと思った。……そうだ、ムギも食べるの手伝ってくれ」
紬「いいけど、澪ちゃんが作ったぶんは全部りっちゃんが食べるのよ」
律「わかってるとも」
感想を求められているわけだし、そのくらいわきまえている。
私はお弁当の包みをといた。
19: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 05:54:55.88 ID:JL05U58SO
律「しかしなぁ……なんでまた急にお弁当なんて。それも毎日」
紬「だから澪ちゃんはりっちゃんに、おいしいって言ってもらいたいのよ」
律「感想は正直に言ってほしいって話だぞ」
紬「だからこそじゃない! 澪ちゃんはりっちゃんに嘘なんてついてほしくないの」
律「そりゃあ、見え見えのお世辞なんて言われたくないだろうが……」
ムギと喋りながら、私のと澪が作ったのと、続けざまにお弁当の蓋を開ける。
律「ほう」
なかなかの出来映えだ。
前より腕を上げたか。食べてみなければわからないが。
律「いただきます、と」
紬「いただきまーす」
美食家は卵焼きさえ食べれば、その料理人の腕前がわかるという。
そんなわけで私も卵焼きから手をつけてみた。
20: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 05:55:48.57 ID:JL05U58SO
律「うん……」
なんというか……。
律「……」
これは……。
律「澪……なにがあった……」
紬「どうしたの?」
律「……なまらうんめぇ」
紬「なまらうめぇっすか」
律「ああ……わ、私の舌も肥えたのかな?」
1年以上、ほぼ毎日ムギが持ってくる紅茶やお菓子を食べ続けてれば、違いのわかる女にもなるというものか。
だからと言って、前から澪の料理がここまでおいしかったというわけでもないだろう。
ムギだって時々、澪がつくったお弁当とおかずを交換していたことがあるのだ。
澪は、いつからなのか明確にはわからないが、格段に料理が上達している。
21: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 05:56:48.51 ID:JL05U58SO
まぐれかもしれないと思って他のおかずにも手をつけるが、
私がはじめに感じた水準を下回るものは、この弁当箱の中にはなかった。
ムギの舌でも確かめて欲しいのだけど、
紬「りっちゃんが同じことされたら嬉しくないでしょ?」
とて、かたくなに断られる。
自分の作った料理を、おいしいからみんなも食べて、って言われたら私なら嬉しいと思うけども。
しかし澪ならこう言いそうだ、というのも分かる。
澪「律にあげたんだから律だけが食べてくれ!」
……その昔、澪の家で遊んでいたときに、机の角に引っ掛けて服を大きく破いてしまったことがあった。
夏場だったために上に着るものもなく、そのままでは帰れなかった。
そこで澪が、いくぶんかサイズの小さい、着古した服を奥から取ってきてくれた。
澪が1年前に着ていて、もう着れなくなった服らしく、サイズは当時の私にぴったりだった。
お言葉に甘え、私は遠慮なくその服をもらうことにした。
22: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 05:57:49.25 ID:JL05U58SO
なにせ、澪は私の憧れるものをたくさん持っていた。
それからしばらくは、その澪のお下がりを1日おきに着ては洗濯し、
美人になった気分をぞんぶんに楽しんでいた。
しかし子供は体ばかりすぐ成長する。
いやらしい意味じゃねえよ。
コホン。たいそうなお気に入りだったが、1年もすれば小さくなって着れなくなってしまい、
澪のお下がりは両親の手によって弟、聡の手へと渡された。
その後のある日、澪が私の家に来て、聡が例の服を着ているのを見つけたとき、
澪は人が変わったように激怒した。
振り回されるようにして服を脱がされた聡はいまだにその事件がトラウマだし、
私だってあの時の澪の表情を思い出すのは怖い。
なんでも澪は、お下がりの服を私が大切にしてくれていると思っていただけに、
弟に渡されたのがひどくショックだったのだという。
23: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 05:58:50.12 ID:JL05U58SO
私がいかに澪の服を気に入っていたかを再度説きなおし、
親が勝手にお下がりにしてしまったのだと説明して、どうにかその場で仲直りができた。
長くなったが、ようするに澪は精神的にも成長した今でも、
お弁当を誰かにやったら不機嫌にはなるだろうということだ。
とにかく、私はやたら美味い澪のお弁当を食べ、ムギとともに母のお弁当を片付けた。
律「やー、腹いっぱい」
紬「太っちゃうかもね」
律「ははは……1日くらい大丈夫だろ」
何点か、気がかりなことはある。
だけど普通なら私が首を突っ込んだり、殴り込んだりすることではない。
私はただ、上達した澪の腕前をほめたらいいのだ。
部室で会ったら一番にその話だ、と決めおいた。
しばらくムギやクラスメートと談笑していると、唯が戻ってきて、程なく午後の授業が始まった。
24: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 05:59:36.40 ID:JL05U58SO
――――
律「ほうかーご!」
唯「イエスほうかーご!」
授業が終わった。
鞄を肩に、部室を目指して教室を出る。
唯「ちょっと憂のとこ寄るから、りっちゃんムギちゃんは先いってて」
律「またか、シスコン」
唯「すまんね、ラブラブなもんでして」
グフフ、と唯は気持ち悪く笑って階段を降りていった。
律「行くか、ムギ」
私も上り階段に足をかけたが、ムギは唯の去ったほうを見つめていた。
律「ムギ?」
紬「……今朝といい、昼といい、ちょっとね」
律「what?」
25: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:00:24.38 ID:JL05U58SO
ムギの碧眼が私を見る。
紬「りっちゃん、おトイレ行きたい」
律「ひとりで……」
紬「ねっ?」
両手で私の手をとり、ニコッと微笑むムギ。
唾をのんだ私を、誰が最低とそしれようか。
そのしぐさにその笑顔はずるいぞムギ。
などと思う間に、トイレの個室まで連れ込まれた。
律「な、なんだ……?」
紬「あまり大きな声は出さないでね? 外に聞こえたら、ことだから」
あれ、もしかしてこれ私、やばいのでは。
いや、違うよな。さっき切れ切れに聞こえたことをちゃんと話してくれるんだろう。
分かってはいても、きっと私の顔は赤い。
26: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:01:05.82 ID:JL05U58SO
律「その、ムギ、私は……」
紬「りっちゃん。これはあくまで私の考えなんだけどね」
律「ひゃい……」
近い、近い近い。
トイレなのに良い匂いする。おかしい。
真面目に話を聞け、田井中律。
紬「唯ちゃんと憂ちゃんは付き合ってると思うの」
律「えっ」
なんだそのどうでもいい話は。
ムギいい匂い。
紬「いくら仲良しだって、冗談でキスを見せつけたりするかしら。それに、憂ちゃんは乗り気じゃなかった」
律「あー」
紬「りっちゃんがみんなの気をそらさなかったら、唯ちゃんはあれにどうオチをつけるつもりだったのかしらね」
律「さぁ……」
27: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:01:49.54 ID:JL05U58SO
紬「お昼のときも、わざわざ部室を借りて二人きりになりたがった……どうして?」
律「私たちを二人きりにさせようとしたんじゃないか」
紬「……えっ? りっちゃん?」
律「あ、いや、冗談……」
紬「……み、みんなと一緒でもよかったじゃない。お昼くらい、二人きりにならないでも」
律「そのくらいで付き合ってると決めつけられるかあ?」
ムギの体を押し返す。
まだ少し暑い。
紬「だから、私の想像でしかないけど……」
律「……確かめるなんて真似はよせよ?」
紬「……ううん、確かめるわ」
ムギは首を振った。
律「……」
まずい。うってかわって居心地が悪くなってきた。
28: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:02:40.86 ID:JL05U58SO
律「……なんで、そこまでこだわるんだよ」
紬「それは、」
ムギの弁明を聞くつもりはなかった。
そんなことより教えてほしいのは、なんで私がこんなに苛立っているかだ。
律「誰が誰と付き合ってようが勝手だろ……どうだっていいだろ!」
紬「り、りっちゃん静かに……!」
律「……やめろよ、そうやって面白がるの。趣味じゃ済まねーよ」
紬「お、面白がってなんかないわ! 私は唯ちゃんと憂ちゃんの力になりたいだけ!」
律「なにが力になるだよ、バカにすんな!」
……そうだった。
澪関連でトラウマは、お下がり事件と同時期に、もうひとつある。
律「唯と憂ちゃんは付き合ってるんだろ!? だったらそれでいいじゃんか、ムギが力になる必要がどこにある!」
律「私がいなきゃダメってか? 唯だって憂ちゃんだって、自分らで幸せになる方法くらい探せるんだよ!」
29: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:03:28.10 ID:JL05U58SO
紬「……」
ムギは首筋から青ざめていった。
律「ムギは同性愛を差別してる。……もう一度言う。邪魔をするな」
捨て台詞を吐き、私は肩を怒らせて個室を出た。
早足で部室に向かう。
もう澪も梓も来ているだろう。
律「色々……マズったな」
取り返しのつかないことをしてしまった。
私の言ったことが聞こえた生徒もたくさんいるだろう。
唯と憂ちゃんは関係ないのに。ムギだって何も悪くないのに。
私の昔話に勝手に関連づけて、逆ギレして、唯と憂ちゃんを同じ目に遭わすのか。
今から火消しに走れ。暴論を撤回してムギに謝れ。自分に決着をつけろ。
律「おっまたせー!」
30: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:04:07.83 ID:JL05U58SO
部室には梓がいた。
梓「あぁ、律先輩。……どうしました?」
律「どうしたってお前……私は部員のみならず部長だぞ? 軽音部の」
ひどい後輩だ。
梓「いや、そうではなく……」
律「なまいきなやっちゃのー! このぉ!」
ヘッドロックかけちゃる。
梓「えっと、あの……?」
律「なに?」
梓「ですから、何かあったんですか?」
律「……なにも」
梓「律先輩って分かりやすい人ですね……」
律「……」
31: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:05:19.90 ID:JL05U58SO
梓「……言い出せないことなら、あえて訊きませんが」
ヘッドロックを下へ、下へ、梓を抱きしめる。
律「……あずさぁ」
梓「はい」
律「梓ってさ、……女の子に恋したことってある?」
梓「まあ、あります」
……。
律「どんな子?」
梓「中学のときにいた、親友です。わけあって、友達じゃなくなっちゃったんですけど」
律「そっか。……私も好きな女の子がいたんだ」
梓「……そうなんですか」
律「小学校からの……あれ、幼稚園からだっけ。まあ、大親友だったんだが……」
梓「それって、み……むぐっ」
だまらっしゃい。
32: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:06:00.86 ID:JL05U58SO
律「ただ、その子に振られちゃってからは、その子のことはおろか」
律「女の子を恋愛対象にすることもできなくなっちゃったわけ。いわゆるノンケになったんだ」
梓「ぶぁ。……そんなに好きだったんですか。それなのに、想いが通じなかったんですか?」
……。
律「……通じ合ってたはずだと思うんだが」
梓「たいそうな自信で」
律「……」
梓「……ごめんなさい、聞いてみたいです」
律「……小5のころのことだ」
梓「早い思春期ですね」
律「その3年は前から好きだった」
梓「はい……」
33: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:06:43.48 ID:JL05U58SO
――――
その子……まあ、仮にM子としよう。
M子と私は、毎日どっちかがどっちかの家に行くぐらい仲がよかった。
学校でもずーっと一緒にいたから、まあ、お察しの通り、私たちの仲の良さをからかうやつがでてくる。
M子は学校のマドンナだったし、私はオトコ女とか呼ばれてたから、嫉妬されてたんだろうな。
でも、そんなことは全然気にならなかった。
M子だって大して気にも留めてなかった。
誰にそしられたって、好きって気持ちは揺るがないと思ってた。
……あいつが現れるまでは、な。
あいつってのは、M子にふられる半年くらい前に転校してきたメガネの男だ。
名前を仮に……そうだな、G太としよう。
いつも遠巻きに私たちのこと見てて、そいつもM子に一目惚れしたんだろうな、と思ってた。
34: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:07:33.67 ID:JL05U58SO
ある日のことだ。
毎度のごとく、M子と話してた私に男子が突っかかってきた。
私は応戦しなきゃならないから、席を立ったんだ。
さっきM子は気にしてないって言ったけど、私との時間がとられるのは嫌みたいで、むっとしてたな。
だから、G太にもわかったのかもしれないが。
私が怒鳴り付けようとしたところで、G太がいきなり立ち上がって、声を張り上げたんだ。
「M子ちゃんと律ちゃんは、たぶんレズっていうので、付き合ってるんだと思う。だから、邪魔をしちゃだめだ」
震える声でさ、そんなことをわざわざ言いやがった。
いや、言いたかったことはわかるさ。
面白がってたんじゃなく、正義心で私たちを助けたかったんだというのもわかる。
でも悲しいかな、偽善だった。
休み時間だったんだが、教室にいた奴らみんな「レズってなんだ?」と興味をもってザワザワしだした。
私たちも、「レズってなんだろう」「わかんない……」って言い合ってたんだけどな。
おい、笑うな梓。
35: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:09:05.20 ID:JL05U58SO
まあ、そんな状況になればG太も、レズの意味を説明する。
「レズっていうのは、女の子なのに女の子のことが好きなんだ。だから、邪魔しちゃダメなんだ」
私は真っ赤になったよ。
お互い好きとも言ってないし、付き合ってなんていなかったけど、
M子のことが好きだっていうのははっきり自覚してたからさ。
私は真っ先にG太をぶとうと思ったんだけど、体が動かなかった。
「女の子なのに女の子が好き」ってフレーズが引っかかってさ。
といってもバカだったから、差別を受けたって思ったんじゃないぞ。
私がレズというやつなら、
「男子なのに女の子が好き」なやつや、「女の子なのに男子が好き」なやつは、何て言うのか気になってな。
私はG太に訊こうとしたんだが、ちと遅かった。
その途端に、私たちをからかってる奴らから一斉に、レズ、レズと野次が飛び出して、声が通らなくなった。
普段は積極的に参加してこない奴らまで野次りだして、地鳴りみたいにレズの声で教室が震えてさ。
M子は泣いちゃうし、最終的には私らが親を呼ばれたよ。
36: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:09:53.30 ID:JL05U58SO
親と先生が話して、先生が誤解を解かせるように指導するって言ってたな。
そんときゃ、気にしなかったけど。
帰ってから私はお母さんに、G太に訊きたかったことを代わりにたずねた。
律「女の子が好きな女の子はレズっていうらしいけど、男子が好きな女の子は何て言うの?」
お母さんはこう答えた。
母「そういうのには、名前がないのよ」
もう少しだけ頭が足りなければ、「名前なしに対して私はレズ! 私って特別!」っていけたんだがな。
私みたいな小学生が、シンショーって言葉は知ってて、健常者って言葉がないと思ってるのと一緒でさ、
貼りやすいレッテルが存在するってことは、それは蔑まれてる存在ってことになるんだよな。
かくして、M子ちゃんを好きなりっちゃんは、ようやく自分が異常な人間であることを知ったのでした。
それから何度か、パソコンの授業の合間にこっそりと、
レズについて調べようとしたんだが、エロサイトしか出てこなかった。
……梓、ここは笑うところ。
37: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:10:37.18 ID:JL05U58SO
まあ、異常だってわかってたから誰にも相談できなかったし、
レズビアンって言葉を知ったのさえ、かなり後になる。
で、それからどうなったかって言うと、意外と早く話は動くんだ。
数ヵ月後にバレンタインデーがあってさ。
澪のやつ、学校じゃチョコよこさないで、放課後うちにでかいチョコケーキ持ってきたんだよ。
あ、M子な。
そんでチョコケーキを食べてるときに、澪はこう言ったんだ。
澪「あの……私、G太くんが言ってたレズだと思う。だって、りっちゃんのことが好きだもん」
と、まあ……告白だな。
でも私、ガキでバカでね。
いや、それは言い訳か。
律「……澪ちゃん、レズっておかしいことなんだよ?」
付き合ったら、ほんとにシンショー扱いだと思ったから。私はビビったんだよ。
38: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:11:21.84 ID:JL05U58SO
律「澪ちゃんは、頭がおかしいって皆からいじめられても、私のこと好きって言える?」
……澪は泣きながら首を横に振った。
私はふられたのさ。
手作りらしくて、にっげぇチョコケーキを一人で食べながら、
もうこれからは、ちゃんと男を好きになろうって決めたんだ。
――――
律「……っていうわけさ」
梓「えー……まあ、色々言いたいことはあるんですけど、特にひとつ、いいですか」
律「ん、なんだ?」
梓「その話と、律先輩が今日やたらしょげてるのと、なんの関係が……」
律「えっ?」
言われてみれば、梓は何も知らないのだ。
私がムギに逆ギレしたことと、その内容。および、唯と憂ちゃんに関する疑惑を喧伝したこと。
それらを知らなければ、ただのセンチメンタルな昔話だ。
39: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:12:02.59 ID:JL05U58SO
律「……」
梓「りつ……先輩?」
律「……こんなことしてる場合じゃない!」
梓「うひゃあ!」
梓を放り出して、私はムギと入ったトイレに駆け戻った。
終業からそれなりに時間も経つのに部室に来ない澪と唯も気になるが、とにかく今の最優先はムギだ。
人の少なくなった廊下を走る。
気休めにもならないが、走りながら耳をそばだてた限り、唯や憂ちゃんの話はでていない。
トイレに駆け込み、私はさきの個室の前に立った。
律「む……ムギ?」
鍵のマークが赤くなっていることから、中に誰かいるのは確かだ。
律「いるなら……返事してくれ」
中で息を殺しているのかもしれないが、走ってきたために私の息が荒くて聴こえない。
40: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:12:47.64 ID:JL05U58SO
律「……おい?」
紬「……りっちゃん?」
ちょっと怖くなったが、ようやく返事があった。
律「うん。……さっきはごめん。ほんとに酷いこと言った」
紬「ううん……りっちゃんの言ったことは、正しいわ」
律「あんなの屁理屈だよ。ちょっと古傷に障って、腹立っちゃって……応援したいって思うのは、素敵だぞ」
紬「ありがとう……」
がちゃん、とドアの閂が外れる音がした。
目の下を泣き腫らしたムギが、肩をすくめて立っていた。
紬「申し訳ないけど、今日は部活休んでもいいかしら……戸棚の一番下に、クッキーがあるから」
律「……クッキーは明日までもたないのか?」
紬「そうね……早く食べちゃったほうがいいわ」
律「わかった。また明日な」
階段までムギを送り、私は少し迷ったがまた部室に行くことにした。
41: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:13:49.04 ID:JL05U58SO
部室に入ると、まだ梓が一人だった。
梓「先輩たち遅いですね」
律「掃除当番にしたって遅すぎるな……」
梓「唯先輩は、憂とじゃれに行くって言ってましたが」
律「ああ、すれ違ったのか? それは聞いてるんだけど……澪は? まだ来てないよな」
梓「さすがに想い人のことは気にしますね」
精神的に甘えていたとはいえ、梓に話したのは失敗だったようだ。
律「……私はもうノンケなんだよ、このガチレズ」
梓「じゃあムギ先輩のことも気にしてくださいよ」
律「え、ああ……ムギは今日帰るってさっき聞いたんだ。ええと、クッキー食うか?」
梓「カントリーマアムなら欲しいです」
律「庶民的だな……たぶんそんな安いものじゃないぞ」
聞いた通りに戸棚を開けると、カントリーマアムファミリーパックが鎮座していた。
まず間違いなく明日までもつだろう。
42: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:15:17.37 ID:JL05U58SO
律「……」
戸棚を閉めた。
梓「くっきっきは……」
律「贅沢言うな」
梓「はい」
律「……おっせーな、あいつら」
梓「そろそろ30分たちますね……あ、澪先輩」
律「ん? ……誰も来てないじゃん」
梓「あれ、もっと飛び起きて抱きつきにいくかと思ったんですが」
律「私は唯かよ。それに、もうノンケだっていってるだろ」
梓「そんなの自分に言い聞かせたところで、本性は変わりませんよ」
律「どうしても私をレズにしたいのか、お前……」
梓「じゃあ律先輩はなんでそんなにノンケになりたいんですか」
律「そうしたら澪は安全だからだよ」
43: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:16:23.78 ID:JL05U58SO
梓「はぁー……」
梓はため息をついて、私をじろじろ眺めた。
律「なんだよ」
梓「律先輩、子供のときから何も成長してないんですね」
律「うぐっ……!」
後輩のくせに何て重たい一言を。
ていうか、生意気だとは思っていたがここまで歯に衣着せないやつだったとは。
梓「逆に律先輩、男性とだったらそんな態度でもうまくやってけると思ってるんですか?」
律「……知らんけど」
梓「まず無理ですよ。律先輩みたいな甘えた姿勢で、まともな結婚とか100パーできないです」
律「うるせえよ」
梓「恋愛ナメないでください。人に好意を向ける責任から逃げてる人なんて、異性からも愛されませんよ」
44: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:17:26.42 ID:JL05U58SO
律「……」
なんなのコイツ。
ちょっとレズだからって知ったような気になりやがって。
梓「……お子ちゃまのりっちゃんには、恋愛は100年早いんじゃないですかね」
律「ちょ、調子に乗るなっ! 誰がお子ちゃまだ!」
梓「律先輩がです」
律「むっ……かー! なんなのマジで!?」
梓「なんなのはこっちが言いたいですよ! そういう理由で異性に逃げる人が私は一番ムカつくんです!」
律「っ……ぐうっ!」
言い返したいのはやまやまだが、こうもボディブローばかり叩き込まれると言葉がでない。
律「け、けどな……私自身、もう澪のことは親友として見てるんだ。恋愛対象にはなってない」
梓「そんなことは追求してません。……やっぱり気になるんじゃないですか?」
律「なって……ねーよ! もう5年も、そんな目で見ちゃいない!」
梓「その感覚を覚えてるだけで十分あやしいですね! はっきり言います、律先輩は澪先輩のことが好きです!」
45: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:18:24.21 ID:JL05U58SO
律「っんな、こと……」
その時、歴史が動いた。
まあ歴史じゃなくて部室のドアなんだけど。
さらに言えば、「その時、部室のドアはすでに動いていた」が正しい。
原型をとどめて、ない……。
唯「……ご、ごめぇーん、遅れちゃったー」
憂「あ、の……えっと、おじゃまします……」
澪「……」
今までどこで何してたやら知らないが、なんでよりによってこのタイミングで来るのか。
私、今朝から誰かに呪われてないか。
律「……お、おまえらおそいぞー。って、あれー。憂ちゃんじゃーん」
憂ちゃんが来ていることには多少驚いているんだけど、何故か全部棒読みになった。
梓「……こうなった以上、はっきりさせたほうがウグゥッ!」
律「まあみんな座れよ! 遅刻のわけを問いただしてやる!」
46: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:19:18.81 ID:JL05U58SO
席を少し変え、私の隣に澪、向かいに唯と憂ちゃん、そしていつもの場所に梓が座る。
澪は口数が少なく、しかし私のほうを時折のぞき見ている。
梓の挙動には常に注意しなければなるまい。
律「……で、澪はどうしたんだ。なんでこんなに遅れたんだ?」
澪「……ごめん、わかんないんだ」
えー、なにそれ……。
律「ちゃんと答えろよ」
澪「ごめん……今は何も考えられなくて」
律「梓が言ってたこと気にしてるなら、安心しろよ。私はそういうのじゃないからさ」
澪「……無理だ」
だめだこいつ。
律「……唯は? それに、憂ちゃんはなんで……」
唯「へっ? 私は憂のとこ行くって言ったじゃん」
律「ちょっと寄るだけって言っただろに! おせーよ!」
47: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:20:20.66 ID:JL05U58SO
唯「まあ、そういうわけだから」
律「え、えぇー……」
こんなたるんでて良いのか、軽音部。
いいわけないだろう。
律「……どうもお前らには処罰がいるようだな」
澪「えっ……」
唯「なんですと!」
憂「だっ、だめです律さん!」
憂ちゃんが初めて聞くような声で抗議した。
律「い、いや処罰っていっても……」
憂「とにかくだめです!」
話が通じない。
律「……そ、そういえば憂ちゃんは何でここに」
私、甘い部長だな……。
48: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:22:34.26 ID:JL05U58SO
憂「……私は、律さんに今朝のお礼をしようと思いまして」
律「今朝? ……ああ」
思い出すのに時間がかかった。
HR前の教室で困っていた憂ちゃんを助けたのだった。
憂「はい。よければ今晩にでも、なにかごちそうしようかと……」
律「なんだって!?」
憂ちゃんのごちそうだなんて。
重複表現だろ。
それに、あんな程度のことに対して大きすぎる見返りだ。
まさに海老で鯛を釣るというもの。
律「ぜひ行かしてもらおう!」
憂「本当ですか? それなら、早めに準備がしたいので失礼します」
唯「部活終わったら一緒に帰ろーね、りっちゃん」
律「ああ。じゃ憂ちゃん、また」
49: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:23:48.87 ID:JL05U58SO
梓「憂、また明日」
憂「バイバイ梓ちゃん」
憂ちゃんは頭を下げ、部室をあとにした。
律「……ふふ」
今日という日は波乱万丈だったが、最後は良き日に終わりそうだ。
律「っしゃ、練習するか!」
唯「おぉ、りっちゃんがやる気!」
梓「それじゃ、唯先輩もやりましょう」
唯「……よぅし! ほら、澪ちゃんも」
澪「わ、わかった。やろう」
2時間ほど練習したが、ムギがいないためか演奏はいまいちまとまらなかった。
特に澪が私のスピードについてこれなかった印象が強い。
それどころか私に走りすぎだと注意してくる始末だ。
いつも本当にごめんなさい。
50: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:24:50.10 ID:JL05U58SO
とはいえ、澪が調子悪そうに見えたのも確かだった。
部室を出る前に、私は澪にこっそり話しかけた。
律「梓が言ったの、まだ気にしてるのか……?」
澪「うん、少し……」
律「勘違いに決まってるじゃないか。澪は大事な友達だって思ってる」
澪「……心配してくれてありがとう。私なら、もう平気」
律「そか」
ともあれ学校を出て、いつもより早く澪と別れ、私はそのまま唯の家へと向かった。
私の頭の中には憂ちゃんが作るごちそうのことしかなかった。
こんなに食い意地張ってたら、いずれ澪より太りかねないが、憂ちゃんの手料理なら仕方ない。
唯「りっちゃん、そんなに楽しみ?」
梓と別れた後、浮き足だっているのをさとられて、唯に言われる。
律「もちろんさ。憂ちゃんのごちそうだぜ? 唯は日頃からもっと感謝すべきだね」
唯は足を止め、私をじろりと睨み付けた。
51: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:25:43.49 ID:JL05U58SO
律「……どうした?」
唯「……私だって、憂にはすごく感謝してる」
律「あ、ああ……そっか、そうだな。すまん」
謝ったが、唯は肩を震わせて拳を握りしめた。
唯「私のやってることで、憂に感謝が伝わってるかはわかんないけど……ほんとに愛してるんだよ」
律「あいしてる……か」
なぜか、トイレでムギに聞かされた話がフラッシュバックした。
唯「りっちゃんは本当に知らないの?」
律「……何がだ」
風が一陣、吹き抜けた。
唯「……なるほど、ここじゃ言えないね」
律「何だって」
唯「りっちゃんは余計なこと言わす天才だねぇ、まったく……はやく帰ろうよ」
不可解な唯だ……。
52: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:26:38.37 ID:JL05U58SO
唯「あ、ちょっとここで待ってて」
唯の家に到着すると、門の前で唯は言った。
律「ああ、いいぞ」
私が頷くと、唯は熊にでも出会ったように肩をすくませ、
私から目を離さずに後ろ歩きをして、玄関に背中を張りつけた。
唯「……ツッコミは」
律「その程度のボケに私のツッコミはもったいないな」
唯「……へっ」
律「もうそっち行っていいのか?」
唯「あ、まだダメ。いいって言うまで待って」
律「じゃあ早くっ」
唯「あいあいっ」
唯は身をひるがえすと同時にドアを開け、家のなかに入った。
53: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:27:27.24 ID:JL05U58SO
唯「ただいまーっ」
憂「おかえりー、お姉ちゃん」
律「……」
それにしても、どうして待たされたのだろうか。
なにかサプライズでも用意してるのだろうか。
部室に来る前、その相談をしていて遅くなった……とか。
だけど、私がやったのは本当に朝の一件だけで、そこまで感謝されるようなことでもない。
憂「律さんは?」
唯「門の外で待ってもらってる。だから……」
憂「……えへへ、よかった。今日はできないかと思っちゃった」
唯「ほら、早く。おいで」
考えてもみれば、澪も梓もいる状況で、私一人だけが食事に招待されることだけでも十分に不自然なんだ。
まさか……まさかな。
54: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:28:16.35 ID:JL05U58SO
憂「……」
唯「んー……」
まさか、憂ちゃんって私のこと好きなんじゃないか……とかな。
律「……ははっ」
憂ちゃんに限って、それはあるまいが。
唯「りっちゃん、お待たせ。あがっていいよ」
律「ん、おー」
バカなことを考えていると、用意ができたらしく唯がドアを開けてくれた。
律「制服でおじゃまー」
憂「ようこそ、律さん。もう準備できてますので、2階のリビングに来てください」
笑顔の憂ちゃんが出迎えてくれる。
あったかい家だ、と思う。
私も将来、こんな素敵な家に住めるだろうか。
55: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:29:11.92 ID:JL05U58SO
唯「えへへー、ごちそう~♪」
憂「お姉ちゃんは先に着替えてきてね」
唯「らじゃ!」
唯についていき2階にあがると、クリスマス会を思い出すようなごちそうがテーブルに並べられていた。
律「おおぉっ、すご!」
唯「じゃ、着替えてくるね。のぞかないでよ?」
憂「えー、どうしよっかな?」
唯「もうっ、憂はいいの。りっちゃんに言ってるんだよ」
律「唯よりこの料理のほうが100倍はうまそうだから安心しろ」
憂「むっ……」
唯「ふふん、でしょ? なんたって私の妹だからね!」
律「早く着替えてこないと先に平らげちまうぞ」
唯「い、いそぐ!」
56: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:30:00.72 ID:JL05U58SO
バタバタつっかえながら唯は自分の部屋へ上がっていった。
憂「律さんは奥の椅子にどうぞ。カバンは隣の椅子に置いちゃっていいですから」
律「そうか、じゃあ」
お言葉に甘えてカバンを置かせてもらい、先に座らせてもらった。
憂ちゃんといると、どうもお言葉に甘えまくってしまう。
憂「……あの」
律「えっ、何?」
そんな矢先、憂ちゃんが一歩だけ近づいて、声をひそめた。
その頬に朱がさしていて、目はぱっちり開いてなくて少し潤んでいるようにも見えた。
やばい、ときめく。
律「う、憂ちゃん……」
憂「律さんは、このあと……すぐに家に帰らなきゃだめですか?」
……どういう意味だろう。
それだけの言葉にいちいち裏を勘繰る私は……何者なんだ。
57: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:31:11.37 ID:JL05U58SO
律「いや別に……急ぐことはないけど」
憂「……よかった」
答えると、憂ちゃんの表情がふわっと華やいだ。
律「……」
憂「食事のあとで、お話ししたいことがあるんです」
律「……今じゃ、まずいのか?」
憂「できれば後がいいんです。律さんに任せますけど」
私はテーブルに並ぶ料理を見渡す。
律「話は、後にしようか」
憂「はいっ。それじゃあ、お姉ちゃんを待ちましょう」
律「ああ……」
大丈夫だ。憂ちゃんが、そんなはずはない。
私は何も考えなくていい。
だけど、こんなごちそうを用意してまで私を連れ込んだのは、一体どういうわけなんだ。
58: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:32:00.39 ID:JL05U58SO
律「……」
無い、有りえ無い。
唯「ういーっ、着替えてきたよー!」
少しして、唯がドタドタ駆け降りてきて憂ちゃんに抱きついた。
憂「わあっ、可愛いねお姉ちゃん」
そして抱きしめ返す憂ちゃん。
私なら好きな人の前でこんなことはしないだろう。
やっぱり思い違いだ。
憂ちゃんの感謝の情を下手に勘繰ったことが恥ずかしい。
唯「えへへっ……んふー」
憂「ちょ、ちょっとお姉ちゃん、めっ!」
唯「いいにおーい」
憂「は、はずかしいってば……ほら、律さん待ってるし!」
59: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:32:54.19 ID:JL05U58SO
律「唯、ごはん冷めちゃうぞー」
唯「んー、もうちょっとぉん」
律「そっか、じゃあ唯のぶん全部もらうな」
唯「どうぞどうぞー、憂さえいればいーもん……ふへへ」
憂「お、お姉ちゃん……」
なんで妹の匂いで酩酊してるんだ、唯は……。
憂「り、律さんは先に食べて構いませんよ、もう」
律「いや、だけど……」
さすがに客人として、家の人間より先にご飯にありつくのはどうなんだ。
憂「ぅ……もう、お姉ちゃんあとで!」
いくらなんでも恥ずかしかったらしく、憂ちゃんが唯を押しのける。
ただ、それも人目があったからで、普段は延々とこんなことが続いているのだろう。
実際、「あとで」と憂ちゃんも言っているわけだし。
四六時中こんな調子なら、この二人の娘には生まれたくないな……。
60: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:33:48.29 ID:JL05U58SO
唯「もうっ、ういは照れ屋さんなんだから」
憂「ご、ごめんね……んっ」
からかうように唯は笑い、憂ちゃんのくちびるに指先を当てた。
唯「いいの、そんな憂も可愛いよ」
憂「お姉ちゃん……」
律「……」
なんだこの空間。
へんなの。
唯「さてと……ご飯にするんだよね?」
憂「うん、そうだよ」
二人はようやく椅子に座ってくれた。ああ長かった……。
唯「さあ、おててをあわせて」
憂「おててをあわせて!」
律「あわせまして……」
唯憂律「いただきます!」
61: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:34:43.39 ID:JL05U58SO
――――
律「おぅふ……」
食べすぎた。
こうなるだろうとは予想してたんだが、いかんせんどうしても憂ちゃんの料理がおいしかった。
憂「律さん、片付けが済んだらお話がありますので」
律「あ、ああ……わかった」
気を遣わせてしまっただろうか。
憂ちゃんは食べ終わった食器を台所に運び、洗い物を始めた。
そもそも唯も憂ちゃんも同じくらい食べたのに、なぜフツーに満足そうな顔をしてるのか。
唯「食べすぎたって顔してるね」
律「おう。悪いな、人んちで……」
唯「いえいえー、憂のゴハンがおいしいのがいけないんですわ」
律「あははっ、そうですわね。ほんと、お嫁にほしいくらいですわ」
ほんの冗談のつもりだし、そう聞こえるように言ったつもりだった。
62: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:35:51.18 ID:JL05U58SO
唯「やめてよ! 憂は私のなんだってば!」
いきなり大声を出されて、胃の内容物が飛び出しかけた。
律「な……」
唯「私がどんな思いで、どれだけ悩んで憂をものにしたか、りっちゃんにはわかんないよ!」
なに言ってんだ……こいつ。
唯「そんなの軽く言わないで! ……もう我慢できないよ。私と憂はね、付き合ってるの! 愛し合ってるの!」
違うだろ。
お前たちは仲良しの姉妹だろ。
いつもそう言ってたじゃないか。
憂「お姉ちゃん!」
台所から憂ちゃんが赤い顔で飛び出してきた。
今朝見た困り顔に似ていたが、少し違う。
うまく言えないが、憂ちゃんが唯の言葉を否定してくれるのは期待できそうになかった。
63: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:36:39.92 ID:JL05U58SO
憂「お姉ちゃん……律さんは知ってたの?」
律「知ってるとか知らないとか、いったい何のことだよ……」
憂「……私とお姉ちゃんが付き合っていることです。知らなかったんですね」
律「知ってるわけないだろ、そんなの……」
何の冗談なんだ、これは。
朝の一件に、ムギの唐突な発言、そしてこれ……私は嵌められてるのだろうか。
だけど、ムギの涙はうそ泣きなんかじゃなかったし、言い争いになった時点でドッキリは中断になるはずだ。
いや、しかし……ムギのことだから、それでも無理に続けようとするかもしれない。
唯「……まだ信じられない?」
信じられるわけがない。当たり前だ。
律「お前たちは……姉妹じゃんか。血が繋がってるじゃないか。付き合ってるなんて……」
唯「だよねぇ。でも、惹かれあうものなんだよねー」
唯は意地悪に笑みを浮かべると、憂ちゃんの体を引き寄せた。
64: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:37:39.76 ID:JL05U58SO
憂「ちょ……んっ!」
そして、私に睨み付けるような視線を送りながら、憂ちゃんのくちびるを奪った。
律「ぅ……ぁ」
それだけではない。
話には聞いていたが、目にするのは初めてのキス。
したこともない、濃厚な……大人のキスを見せつけた。
だ液と舌の絡み合う、下品な音が、私の肩を震わせる。
憂ちゃんが唯の体を必死につかまえた。
スリッパを履いた足が震えているのが見てとれる。
唯「……ふぁ」
甘い吐息をつき、唯は互いの口を透明な糸でつないだ。
少し赤い顔で私を見ると、その糸は断たれて口元に垂れた。
唯「私たちはね。付き合ってるの」
友人姉妹の衝撃的な光景とともに記憶に刻み付けるように、唯はにやりと笑った。
65: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:38:27.92 ID:JL05U58SO
律「……」
唯「りっちゃんが信じる、信じないじゃない。私たちが姉妹か、他人かじゃない。私たちは、愛し合ってる」
律「だったら、なんで私なんかに言うんだよ……」
私はそんなにレズっぽく見えるというのか。
私は同性愛なんてちっとも理解してないのに。
唯「憂が、りっちゃんは大丈夫そう。って言ったんだけどねぇ」
律「憂ちゃんが……」
唯「そう、私の恋人の、憂が」
いまだ肩にしがみついている憂ちゃんの頭を唯は撫でた。
唯「……私たち、いま、味方を増やしてるんだ。朝の教室でやってたのも、その一環」
唯「いずれ学校中に……私たちが付き合ってるってことを教えてあげたいんだ」
唯「そのときに私たちが傷つけられることがないように、私たちの関係を気にしないでくれる仲間を増やしてるの」
律「それで、私を仲間に引き込もうとしたんだな」
66: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:39:10.71 ID:JL05U58SO
唯「半分は、そんな感じ」
律「……もう半分は」
唯「いろいろ。確かめたいこととかもあってね……ん?」
憂ちゃんがもぞもぞ動きだし、唯の腕の中から抜けて椅子にかけた。
律「……さっき言ってた、お前らが付き合ってるのを知ってるか……とかか」
唯「そうだね。もしそうなら、言いふらされる前に口止めしとかないと」
律「だけど、私は知らなかったぞ、そんなの」
唯「だから、りっちゃんは余計なこと言わす天才なんだってば」
律「人のせいにすんなし……」
唯「あはっは。天才ゆえの悩みだねー」
……バカにしてんのか、こいつ。
67: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:39:53.82 ID:JL05U58SO
律「……しかし、遅かったな」
唯「へ?」
言い出さないよりは、マシだよな。
そう自分を騙しながら、無理矢理に口を開いた。
律「今日の放課後な、友達と話してたんだよ。唯と憂ちゃんのこと。その、うたがい」
さすがに、二人の顔色が変わった。
律「けっこう大声で話してたし、明日からお前たちの噂で持ちきりかもな」
憂「な、なんで……」
唯「憂。なにも言わなくていいよ」
口元に手を当てながら、唯は素早く制した。
憂「うん……」
唯「……どういうつもりかは訊かないけど、安心していいよりっちゃん」
律「……安心? 私が?」
68: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:40:49.43 ID:JL05U58SO
唯「そう。そんな噂が振りまかれたところで、私たちが1ヶ月おとなしくしてたら、そんなのすぐ静まるから」
唯「別に怒るつもりはないよ。だからそんな拗ねた物言いしないでくれる?」
あやうく涙があふれそうになる。
なんだ、この感覚は。
律「……け、けど」
唯「大丈夫だって。りっちゃんはよく分かってるはずだよ」
律「わかって……何が?」
唯「この世に同性愛者はいる。近くに同性愛者はいる。だけど、同性愛者のカップルなんて、いるわけない」
唯「ほとんどのノーマルが、そう信じて疑わない。まして私たち、血が繋がってるもん」
律「……それでも、心配なんだけど」
唯「なら、りっちゃんも火消しにまわって。和ちゃんと、澪ちゃんと一緒に」
突然現れた名前を拒むように、耳の奥がキュッと痛んだ。
律「澪がっ、知ってるのか!?」
69: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:41:32.16 ID:JL05U58SO
唯「うん。……だからって、澪ちゃんと大声で話さないでね」
律「あ、ああ……」
ふと、ある一説が私の頭に去来した。
律「もしかして、今日部活に遅れたのは……澪を仲間に引き入れてたからなのか?」
唯「そんなところかな。話しかけてきたのは澪ちゃんのほうだけどね」
律「ふーん……」
ムギもそうだが、澪も疑ってたってことなのだろうか。
あれだけ目の当たりにして、気付けなかった私って……。
律「けど、それなら部室に来てみんなに話してくれたらよかったじゃないか」
唯「言ったでしょ、味方を増やさなきゃ。多勢に無勢じゃ、そもそも信じる人さえいないんだよ」
律「……そう、それもそうか」
唯「気にならないの?」
律「えっ、何が?」
唯「あー……ううん、なんでもない」
70: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:43:19.79 ID:JL05U58SO
しばらくして、憂ちゃんは落ち着いたらしく、洗い物を再開するといって台所に向かった。
唯「んー、しかしなんだね」
律「うん?」
唯「やっぱりりっちゃんは引かないね。会ったときから思ってたけど」
律「引かないって……ああ、でもいきなりキスしたのは結構引いたぞ……」
会ったときからとはどういう意味だ。
唯「あはは、まあまあそれはそれ。りっちゃん、レズだと思うんだけどなー。頭は明らかにノーマルなんだよね」
律「レズじゃないって、私は。純然たるヘテロセクシャル」
言いながら胸の内で、何が純然たるだ、と突っ込んだ。
唯「あれ、詳しいね……まあ、なんだかんだで私たちの味方ってことでいいよね?」
律「そりゃあ友達としてな、応援するよ」
そういえば、ムギにもこのことは知らせたほうがいいのだろうか。
あからさまに疑っていたし、
私をトイレに連れ込んだように、誰かにあることないこと言いふらしかねない。
71: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:44:33.06 ID:JL05U58SO
唯「えへへ、よかった」
律「……そうそう、味方として忠告するけど、ムギは早いうちに引き入れたほうがいいぞ」
唯「バレかけてる?」
律「ありゃもう、確信してたな」
唯「あー……じゃあ、明日の部室で話そうかな。これでもう、味方のほうが多勢だもんね」
律「ああ、そうしとけ」
梓もレズっ気があるようだし、部内は問題ないだろう。
……姉妹ってところに食ってかかられるかもしれないが。
唯「ところで……りっちゃん」
律「なんだよ、レズじゃないぞ」
唯「いや、それはまだ疑ってるけどそうじゃなくて……もう9時だよ、帰らないの?」
律「ああ、うん、帰る」
いつの間にそんな長居をしていたとは。
慌てて立ち上がった。
72: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:45:17.24 ID:JL05U58SO
憂「律さん、帰るんですか?」
憂ちゃんがわざわざ出てきてくれた。
レズじゃないが……ほんとにふと、お嫁さんにしたいと思ってしまう。
律「うん、今日はごちそうさま」
憂「へっ……? あ、ああ、いえ、おそまつさまでした!」
唯「ういー、何のことだと思ったの?」
憂「えっ……そ、それはぁ」
予感がした。
これはまずい、始まる。
律「わ、私が帰ったらいくらでもいちゃついていいから! あと10秒我慢しろ!」
私はなるたけ急いで、階段を降りる。
唯「あっ、外まで送るよ。ていうかカバン忘れてるし!」
律「あー、とってくれ!」
人んちだから当然かもしれないが、私のペースなんてあったものじゃないな。
73: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:45:59.17 ID:JL05U58SO
玄関でカバンを受け取り、肩にかけながら靴を履く。
律「じゃ、明日な」
唯「りっちゃん」
唯も靴をひっかけて、外までついてくる。
律「ん、なんだよ?」
ブラウンの瞳が、私の目をまっすぐに見つめた。
唯「……わたし、恋人をとられたときは、きっと怖いことするからね。本気だよ」
律「……」
唯「憂は絶対に渡さないから」
律「……あのな、私は別に」
ただの冗談で言ったんだから、そこまで引きずらなくても……。
唯「りっちゃんには冗談でも、私は本気で怖いし許せないの」
唯は静かに言いつける。
唯「私の全てより大好きだから、絶対にとられたくないの。1秒だって! 想像もさせられたくないよ!」
74: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:46:39.72 ID:JL05U58SO
律「わ、わかったって……もう言わない」
まともに恋愛したことのない私が、口を挟める問題ではなさそうだ。
唯「……じゃ、おやすみ。また明日ね」
律「おう、じゃあな」
駆け出すようにして歩き始める。
律「ふー……しかし、ムギの言ってたことがマジだったとは」
ムギの妄想もたまには当たるということか。
普段は部室でひけらかすように妄想を語るし、
わざわざトイレに連れ込んだのはかなりの確証があったからかもしれない。
……つまり、もしかしたら、誰かがムギにトイレに連れ込まれた数だけ、
この学校にレズビアンのカップルが存在するということではなかろうか。
その前にムギにレズの噂が立ちそうだが。
75: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:47:30.51 ID:JL05U58SO
……まあ、それはどうでもいいとして。
レズの噂ならば、私が振り撒いた唯と憂ちゃんのことのほうが心配だ。
大丈夫だとは言われたが、確実に耳にした奴はいる。
それに火消しをしてくれと言われても、どうすればいいのだろう。
「律って唯と仲いいよね、唯とあの妹さんが付き合ってるってマジ?」
……どんな対応をするのが正解なのか。
それはまだマシな例だ。
「昨日トイレでさ、唯と妹の子が付き合ってるって言ってたよね。あれマジ?」
どうごまかしたらいいんだ……。
律「……澪にでも相談するか」
一度家に帰って、それから澪の家に押し掛けよう。
私の家で電話をするのでは、万が一弟に聞かれる可能性がある。
制服とカバンを持って泊まるつもりで行けば、遅くなっても問題なかろう。
律「よし、急ごう」
76: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:48:22.43 ID:JL05U58SO
――――
律「げっ……」
シャワーを浴びて、カバンに翌日用の制服を詰めようとして、私はようやく気づいた。
弁当箱の包みが2つ。言わずもがな、片方は澪に渡されたものだ。
どうせ今から向かうのだから、お弁当の空き箱を返していなかったのはまだいい。
お弁当をもらって礼も言わず、その感想もまだ伝えていない。
あれだけ料理の腕を上げるのに、澪がどれだけ努力したかは定かじゃない。
だが、澪に会ったらすぐにでもそれを称賛したいと決めたはずだったのに。
律「くっそ……バカだなもう!」
急いで支度をして、聡の部屋に家の弁当箱を投げ込む。
律「たのんだ!」
聡「おい、これぐらい自分で出せよ姉ちゃん! ……ったく、これだから女はいやなんだよな!」
なんか言ってるが無視して家を飛び出した。
澪の家の前まできて、携帯に電話をかける。
77: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:49:02.53 ID:JL05U58SO
澪「もしもし……?」
10コールくらいかかって、ようやく繋がった。
律「澪、いま玄関にいる」
澪「えっ……どうして?」
律「弁当の感想を伝えに来たのと、あと……」
言い終わる前に受話器の向こうの澪の気配が遠のいた。
秋山邸がにわかにドタバタと騒がしくなる。
玄関を開けた澪は、なぜか息切れしていた。
澪「ま、またせたな……律」
律「いや、私のほうこそごめんな」
澪「いいよ。その格好、風呂上がりだろ。湯冷めするから上がってけ」
律「ああ、ていうか泊まってくぞ。いいだろ?」
澪「えっ、ああ。大丈夫だけど……いきなりだな」
78: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:49:41.08 ID:JL05U58SO
澪の部屋に上がり、カバンを開ける。
律「ハイこれ」
お弁当の空き箱を渡して、ベッドに腰かける。
澪「わざわざありがとう……ちょっと流しに持っていくな」
律「うん」
澪が去って、ベッドに倒れて天井を眺める。
律「……意外と怒ってなかったな」
澪と友達になって何年したか数えてないが、澪の機嫌はいまいち読めない。
ちょっとのことで激怒したかと思えば、なんでもないことですこぶる上機嫌になる。
自分の中に世界があって、その世界で起こっていることに感情が大きく左右されるのだ。
昔、告白してきたときも、そんな決意をしているようには全く見えなかった。
今回は……たぶん、唯と憂ちゃんのことで、頭がいっぱいいっぱいで、
お弁当のことなど忘れていたのではないだろうか。
後が怖いな。
79: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:50:32.75 ID:JL05U58SO
澪「お待たせ」
ぼーっと怯えていると、澪が戻ってきた。
澪「ぜんぶ食べてくれたんだな」
律「そりゃまあな。……しかし」
澪「……なんだ?」
律「澪、おまえすっごい料理うまくなったな!」
澪「ほんとうか?」
澪は半ば駆け足で私の隣に座った。
浮かべた笑顔は見ているだけで心地がいい。
律「ああ、私びっくりしたぞ! いつの間に成長しやがって!」
澪「そうか、じゃあさ、さっき食べた憂ちゃんの料理とどっちがおいしかった?」
律「そっ……う」
なんでこのタイミングでそれを訊くかな。
いつの間にか澪は笑顔じゃなく、真剣な目をしていた。
80: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:51:33.46 ID:JL05U58SO
澪「……どうだ?」
律「比べられるの、いやじゃなかったのか」
澪「どうなのかって訊いてるんだ」
律「澪……そんな目の敵にすることないだろ?」
世の中、努力で越えられる相手と、どうにもならない相手がいるものだ。
それは諦めるしかないことだ。
むしろ諦めるほうが賢い選択だといえよう。
律「どうして憂ちゃんなんだ? 澪の母さんくらい上手かったら、女として問題ないと思うけど」
澪「……だって」
律「うん?」
唐突に澪の目頭から、涙があふれた。
澪「りつは……憂ちゃんが好きなんだろう……?」
81: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:52:20.39 ID:JL05U58SO
律「……」
その泣き顔への変貌には、既視感があった。
私が澪を……傷つくことを拒絶した、5年前のバレンタインデーだ。
澪「わたしは律にかわいいって言ってもらえないし……いい子だなって、頭を撫でてもらえないし」
澪「律のためだけに料理作っても、全員に作った料理に負けて……お嫁さんに欲しいなんて、言ってくれるわけない」
律「みお……」
澪「なにかひとつでも勝たなきゃ……律は、……ぜったい私を振るもん……」
何も変わっていなかった。
私は、何も成長していない。
律「……好きだなんて、そんなわけないじゃんか」
澪「律は気付いてないだけだよ……自分の視線を、意識したことはある?」
生まれて初めて好きになったのが女の子で、その恋を3年ひきずり、
それからも毎日その女の子と過ごしていた女が、やすやすとノンケになれるものか。
82: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:53:04.48 ID:JL05U58SO
律「……澪。人を好きになるなんて、簡単なことじゃないんだぞ」
私はただ、何も変わらないことで逃げ続けただけだ。
律「そう誰や彼や憂や好きになれるほど、私の恋は軽くないんだ。澪が初めてだった、私の恋は」
澪「……え?」
律「私たちが子供で、女同士で、好き同士なのに付き合えなかったこと、覚えてるだろ」
澪「すきって……律、じゃあ……」
律「……あんとき、澪がそれでもいいって言ってくれたら、もしかしたら私も勇気を出してたかもしれない」
澪は俯いた。
律「ごめんな、子供で、びびりで」
澪「……」
せめて私は、その髪を撫でた。
律「私さ……いまだに恋できないんだわ。びびって澪を振っちゃったあの日から」
澪「そうなんだ……」
83: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:54:16.19 ID:JL05U58SO
律「魅力あるやつ見てさ、ときめいたり、性欲が出たりはするんだ。……でも、大事にしたい、されたいって思えない」
律「この人のそばにいて、支え合いたいなって……思えないんだ」
澪「……怖いのか?」
律「……そうだな、怖い。いつかその想いを裏切ったり、裏切られることが怖い」
律「だったら初めから、恋なんかしなきゃいい……って、ガキ論法なんだろうな」
澪「律は、それでいいのか……?」
律「……」
澪「私のこと好きだったのに、周りの目なんか気にして振っちゃったこと……後悔とかしてないのか?」
律「あ、それは悔しいな……。こんなにわたし好みに成長しやがって。料理もうまくなったし」
澪「……律」
澪は前ぶれなく、ベッドに私を押し倒した。
律「……やめとけって、澪」
84: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:54:53.46 ID:JL05U58SO
澪「……りつぅ!」
澪は呼び合うことを求めるように、私の名前を喉からしぼりだした。
私だって悔しい。
切なくて泣きたくなる。
だからってこんなことしたら、澪に対して恋心のかけらもないことが余計に悲しくなるばかりだ。
律「……」
澪「りつ、なぁ、律……」
ぶるぶると震えて、澪は力なく私の上に落ちてきた。
手首が解放されて、自由になった腕で私は澪を抱きしめた。
律「……ごめんな」
澪「……ううん」
あー、柔らかいなあ……。
85: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:55:40.20 ID:JL05U58SO
澪「私さ、律が、律の恋心を信じて……また恋ができるように、ずっと律のこと愛してるよ」
律「ありがとう」
澪「いつもそばにいるから。お弁当も毎日作る。もっと上手くなって、律の料理人になるからな」
律「……ああ」
澪「……ありがと、もう平気だ」
律「ん、そっか」
澪と少しだけ離れて、ベッドに「二」の字に横になる。
律「てゆーかさ、聞いたんだろ? 唯と憂ちゃんのこと」
澪「なんだ……やっぱ律も聞いたんだな」
律「知ってるなら、憂ちゃんのこと好きなのかーとか訊くなっての。唯の前でやってみろ、ぶたれるどころじゃない」
澪「……いや、もう言った」
律「はえっ?」
あくびをしかけていて、変な声が出た。
86: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:56:21.86 ID:JL05U58SO
澪「放課後さ、憂ちゃんに宣戦布告したんだ。律は渡さないぞって」
律「ど、どこで」
澪「梓が部室に行ってから、憂ちゃんの教室で。1階に律たちは来ないだろうし、安心してたんだが」
律「……なるほど」
唯が私のほんの冗談にあれだけ突っかかってきたのも、それなら頷ける。
澪「唯が来たのは知ってるんだな……まあ、口論になってさ。その勢いで唯と憂ちゃんのことも知らされた」
律「……教室で? 唯が言ったの?」
澪「うん……大丈夫なのか、心配だけど」
大丈夫じゃないだろう……。
いや、あの二人は大丈夫なんだろうけど。
律「まあ、いいんじゃないか。しばらくおとなしくしてりゃおさまるって、唯が言ったんだから」
澪「ならいいけど……」
律「私らは、余計なこと言わないように常に唯や和の近くにいれば問題ないだろ。梓には、憂ちゃんがつく」
87: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/02/12(日) 06:57:53.36 ID:JL05U58SO
澪「……そうだな」
澪はしばし目を閉じ、ため息をつくように言った。
澪「そうしよう」
そして、ベッドを鳴らして立ち上がり、電灯から垂れた紐に手を伸ばす。
澪「寝ようか、おやすみ」
律「ああ、おやすみ」
布団をかぶり、私たちは眠りについた。
翌朝は澪の作った朝食を食べて、
いつものようにお弁当を持たされて、二人で歩き始めた。
それが私の日常になった。
おしまい
SS速報VIP:澪「律、お弁当つくってきたぞ」