SS速報VIP:純「純和風図書館!」
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1297069430/1: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/07(月) 18:03:50.73 ID:xFxtMZ4Ao
地の文だらだら、展開もだらだらです。
純和風トリオをメインに据えたいんですが、中々上手くいかない感じでして。
たまにはゆっくり長いのを書いてみようかと思ってSS速報にスレを立てた次第です。
物語の本筋に関わるお話の題は、できればスティーヴン・キングのタイトルパロにしていくつもりですので、
お時間無い方はそれだけでもご覧いただければと思います。
では。
2: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/07(月) 18:05:49.85 ID:xFxtMZ4Ao
純「ゴールデンガール!」
図書館は少し苦手だ。特にこういう昼休みなんかの、ほとんど人がいない学校の図書館。
あんまり静かすぎて、却って落ち着かない。
ページを捲る音だとか、指で拍子を取る音だとかが不自然に大きく聞こえてきて、どことなく不気味な気さえする。
「あーずさ、帰ろうよ」
私は頬杖をついて、雑誌のバックナンバーを読みながら言う。
長いツインテールの友人は熱心に音楽理論の本なんかを読んでいる。
結構なことで。
「帰れば。私はもうちょっといるから」
自分で誘っておいて勝手なものだ。
独りで帰るのも虚しいし寂しい。
私は立ち上がって、ぶらぶらと本棚の間を徘徊し始めた。
参加した紙の匂いがする。
世界の名著、世界の文学、うんぬん。
誰が借りるのかも分からないような分厚い本が並んでいる。
そのくせ、手にとって貸し出しカードを見ると、誰かしら借りた形跡がある。
「ゴーリキー……トルストイ、A.トルストイ」
随分と筋肉質そうな名前だ。
後ろの二人は別人なんだろうか。
「デカルト、ショーペンハウアー、アリストテレス、ウィトゲンシュタイン……青色本?」
指で本棚の本を追っていると、古目の本の中に、明らかに浮いている文庫サイズの本があった。
タイトル通り、真っ青な表紙だ。
ぱらぱらとページを捲り、中を見てみると、言語ゲームだのメタ言語だの意味が分からない。
むう。
小さく唸って、私はその本を元に戻した。
哲学から文学へ、本の内容は少しずつ変わっていく。
たまに手にとって眺める本文も、だんだんと綺麗な、抽象的でふわふわ浮かぶような言葉になっていった。
「畢竟」
見慣れない言葉を見つけてつぶやいた。
変な感じがする。どこかに迷いこんでしまったようだ。
その瞬間、図書館独特の不気味さが私を襲ってきて、私は慌てて本を棚に戻した。
突き当たりまで歩いて行って、となりの本棚に移ると、現代小説が並べてある。
その中に、目の惹かれるタイトルがあった。
「The body……体?」
棚から取り出してみると、表紙には線路伝いに歩く少年たちが載っている。
隣には"ゴールデンボーイ"と言うタイトルの本がある。
作者は同じで、恐怖の四季とか言うシリーズの本らしい。
読んでみると、なかなか面白そうな内容だ。
頭が良くなったような気がして、気分が良くなり、その本を持ったまま、私はまた古臭い紙の匂いがする本棚に戻った。
やはり、時間と空間の座標を間違えてしまったような気分になる。
けれど、その中に明らかに現代のものがあった。
「あら」
長い黒髪をしたその女性は、物珍しそうに私を眺める。
丸い眼鏡が似合っている。知性を溢れ出させていた。
「この本棚、あまり使う人いないんだよね」
その女性は親しげに私に近寄ってきて、私が持っている本を指さした。
「ステイーヴン・キング、好きなの?」
「いえ、別にそういうわけでは」
私はさっと目を背けた。
女性は胸に分厚い本を抱えている。
ドストエフスキイだとか、三島由紀夫だとか、ガルシア・マルケスだとかいう作者の名前が、
分厚い本の高級そうな布製の背表紙に書かれてある。
「そう。読書は好きなの?」
女性は少し残念そうな顔をした。
背表紙が私を睨みつけているような気がする。
「……いえ、そういうわけでも」
私は、そう言えば彼女がまた落胆するだろうとは思ったが、
時間も空間も超えて貯蔵された叡智と芸術の中で、彼女に嘘を付くことは不可能であるように感じた。
結局、曖昧に濁すことも出来ずに、私は言った。
「好きじゃないです。というか、漫画くらいしか読みませんね」
しかし彼女は優しく微笑むだけだった。
「そうなの。ちょっと残念」
そう言って、女性は柔らかい足取りで私から離れていった。
髪の毛が無風の屋内でも揺れている。
私は自分の癖毛を触って、溜息を付いた。
梓のところへ戻ると、怒られた。
「どこ行ってたの。帰るよ」
酷い。
私は少し苛立ったけれど、気を取り直して本をカウンターへ持って行った。
さっきの女性が分厚い本を借りている。
「あら、それ、借りるの?」
「あ、はい。ちょっと読んでみようかと」
へえ、と女性は嬉しそうに笑った。
図書委員が読み込んだバーコードに、高橋風子と書いてあった。
「はい、どうも……じゃあね。図書館、割合楽しいでしょう?」
彼女は分厚い本を抱えて、ひらひらと手を振る。
私はやっぱり、その本の厚みに気圧されて、子供のように実直な言葉で返してしまう。
「どうでしょう」
高橋さんはまた、長い髪をなびかせて帰っていった。
ピッ、と電子音がする。
大人しそうな図書委員の子が、遠慮がちに私に本を差し出している。
「あ、どうも」
私が本を受け取ると、後ろから梓が襟元を引っ張った。
「ほら、帰ろ。次の授業は音楽だよ、おんがく」
とても楽しそうだ。
梓の紙も真っ黒で、長い。
当然彼女の髪もふわふわと揺れているのだけれど、どこか、高橋さんとは違うような気がする。
「はいはい、分かったから引っ張らないで欲しい」
そう言って、梓についていく。
図書室を出ようとしたとき、後ろから声をかけられた。
「あの」
振り向いてみると、図書委員の子だった。
恥ずかしそうに、拳を握りしめて、精一杯笑っている。
「ゴールデンボーイ……同じ作者の。あれも、ちょっと方向性は違うけど、面白い小説ですよ」
この短い会話だけで、彼女が引っ込み思案だと分かる。
なんとなく私も恥ずかしくなって、頭を掻いていった。
「そうですか」
図書委員の子はぱあっと笑った。
「そうです」
なんとなく、ほんのちょっぴりだけれど、図書館も面白いかも知れないと思った。
図書委員の子の髪も、短く結われているけれど真っ直ぐだった。
梓に急かされてとっとと音楽室へ向かう。
梓はすごく楽しそうだ。
私の背中には、梓に言われて部室から持ってきたエレキベースがかかっている。
「梓ちゃん、すごく活き活きしてるねえ」
憂がポニーテールを揺らして歩きながら微笑む。
全くその通り、私がついていけない程のスピードで歩くせいで、長い髪はぶんぶんと揺れている。
「だって、憂も純もなんだかんだで真面目にセッションしてくれるし」
「あんなの、適当に合わせてるだけだよ。あれで真面目って……」
私がそこまで言うと、梓は心底悔しそうな顔をした。
「痛い所突いてくるね、純……」
私は、軽音楽部は普段どんななんだ、という言葉は飲み込んでおいた。
授業が始まると、梓は早速ギターをじゃかじゃか鳴らし始めた。
指のストレッチだの運指練習だのはすっとばして、楽しそうにコードアルペジオをしている。
私は適当にベースを弾いて、窓から図書室のほうを眺めた。
なんとなく、やはりあそこだけは違う時間が流れているような感じがする。
今までは嫌いだったのが、ちょっとうっとりしてしまう。
「……純」
梓が寂しそうな声を上げた。
気がつくと、私は演奏をやめてしまっていた。
「部活で練習しないからさあ……授業中くらい真面目に音楽したいよ」
「ごめんごめん」
私は梓に向き直り、またベースを弾きだした。
憂は相変わらずにこにこと微笑んでキーボードを演奏している。
私は指の動きと、溢れ出る音とに身を埋めて、その授業中過ごした。
ついでに、そのまま放課後の部活も過ごした。
なあ。
猫が鳴いている。梓に、勝手に二号扱いされた可哀想な奴だ。
「私は読書に勤しんでるんでーす」
ごろり、と一つ寝返りを打って、猫を追い払った。
猫は不満げに、も一つ鳴いて、私から離れていった。
読んでいる本は当然、今日図書室で借りたスティーヴン・キングのThe bodyだ。
少年たちがやけにはしゃいでいるので何事かと思ったら、死体を探しに行こう!だなんて言っている。
なんて不謹慎な。
しかし話はすごく面白い。
私もちょっくら外に出て、暫く歩きたくなってくる。
そうこうして大分読み進めたとき、やっとThe bodyの訳が"死体"だということに気がついた。
「趣味悪う……」
私は寝転んだまま本を読んで、呟いた。
私にしては珍しく、夜遅くまで本を読んでしまった。
途中から、小説の中に出てきたように、体中にヒルがくっつく想像をしてしまって、中々寝付けなかった。
全く、悪趣味だ。
少し気を緩めると、睡魔に体を乗っ取られてしまう。
私はお祓いのために、激しく頭を振った。
しかし、授業中に一度負けてしまった
「……鈴木、白河夜船か」
「純ちゃーん」
憂に突っつかれて目を覚ましたときには、授業は終礼を迎えてしまっていた。
そんなわけで、昼休みだ。
梓と憂が机をくっつけて、弁当箱を広げている。
「純も早く」
梓に急かされたが、私は軽く手を振って、
「ごめん。私、しばらく文学少女だから」
などと訳のわからないことを言って、図書室へ向かった。
図書室の空気を吸い込む。
奥のほうからは酸化した紙の匂いが。
近くからはポップのマジックの匂いが流れてくる。
「あら」
昨日と同じような声を上げて、私を眺めてくる人があった。
高橋さんだ。机の上に、分厚い本を置いて読んでいる。
「今日も来たんだ。いつもは来てないよね?」
高橋さんは本を閉じることはしなかったが、私の目をじっと見つめて言った。
私はまた、素直に答えた。
「来てないです。ただ、昨日借りたのが面白かったので、静かなところで読もうかと思って」
「そうなんだ」
高橋さんはすごく嬉しそうだ。
私は吸い込まれるように、彼女の隣に座った。
隣から彼女の本を覗き込んでみると、酸模、というタイトルの小説であった。
「本、読むんじゃないの?」
くすくすと、高橋さんは笑った。
私は、びっしりと旧字体の字が並ぶ小説を眺めたまま、尋ねた。
「誰の小説ですか?」
「これ? 三島由紀夫の酸模」
「すかんぼう」
「そう。綺麗な文章でしょ?」
私は読書家ではない。
けれど、たしかにその文章はきれいで、書いた人の世界と、時代に吸い込まれていきそうだった。
なによりも、それを全部飲み込んだような、高橋さんの瞳が綺麗だった。
「よく分からないですけど、そう思います」
「分からなくても思うことはあるし、感じることもあるもんね」
高橋さんは物知り顔で言った。
私が言っても様にならないだろう台詞だ。
彼女はそれからずっと本を読んでいて、私のほうを見向きもしなかった。
私も彼女に習った。
今までになく、落ち着いた昼休みだった。
そろそろ教室に戻ろうかというときに、図書委員の子が私に声をかけてきた。
「あの、それ、あとどのくらいで読み終わりそうですか?」
「あ、えっと、The body?」
「そうです。よければ、ゴールデンボーイを予約しておきますよ」
昨日と同じ子がカウンターに立っている。
毎日いるのか、大変じゃないのか、と聞くと、その子は笑って答えた。
「どうせ当番じゃなくても図書室には来ますし、それに、割と暇なんですよ」
そう言われてみれば、昼休みの図書室にはあまり人がいない。
寂しいものだが、これがあるべき姿のような気もする。
私は図書室を見渡して、その子に向き合った。
「じゃあ、お願いします。あと一週間位で読めると思います」
「はい。きっとまた来てくださいね」
なんとなく、寂しい台詞だった。
私が図書室を出ると、高橋さんも出てきた。
親しげに私の隣を歩く。
「ねえ、えっと……」
その高橋さんの様子で、互いに自己紹介をしていないことに気がついた。
「私、鈴木です。鈴木、純」
「鈴木さんね。私は高橋 風子。よろしくね」
彼女は笑って、肩にかかった髪の毛を払った。
「あのね、鈴木さん、図書館の雰囲気に合ってると思うよ」
「図書館の雰囲気、ですか」
「そう。ごったまぜになったような、空気。酸化した紙と、劣化しない思想の匂いが溢れてる空気」
何を言っているのか、今ひとつ私には理解しかねたが、褒められているのだろうとは思った。
だから、ちょっと嬉しくなった。
「似合いますか」
「うん、似合う。雑食っぽいもん、鈴木さん」
褒められていないのかも知れない。
「そういえば、高橋さんは昼食はどこで摂ってるんですか?」
ちなみに、私は図書室から帰るときに購買でパンを買っている。
「昼食はねえ、教室に戻って友達と弁当突っついてるよ」
「その人も、お弁当食べるの遅いんですね」
「生徒会に入ってるから。ここんところ、今年度の行事についての話し合いが忙しいみたい」
ふうん、と言って、私はその友人を想像してみる。
多分、その人も高橋さんと同じような歩き方をして、同じように髪を揺らすんだろう。
「パンは」
もしかしたら、私はちょっとした嫉妬を感じていたのかも知れない。
あったばかりの憧れの人、その友人に、小さな嫉妬を。
「パンは、食べないんですか?」
「パン? ああ、そういえば、ゴールデンチョコパンとかいうのがあるんだよね。あれはちょっと食べてみたいかな」
「ゴールデンチョコパン!」
私は声を張り上げて、駆けだした。
購買についたが、見当たらない。
がっくりと落とした肩を叩かれる。
「どうしたの、鈴木さん。急に走りだして」
振り向くと高橋さんが肩で息をしていた。
ざっと購買を見渡して、言う。
「流石にもう無いよ。一日限定三個だったっけ?」
「ですよねえ……」
一日限定三個のゴールデンチョコパン。
これは、戦争だ。
次の日。
私はちょっとした嘘を付いた。
「先生……頭がすごく痛いです」
私の声はとても悲痛そうで、聞いているもの全てに同情の念を起こさせただろう。
「純……」
梓が心配そうに言っている。
先生は板書をやめて、私に向き直った。
「そりゃあ、お前、さっき寝ぼけて頭を机に打ち付けてただろうが」
駄目だった。
心なしか、梓が可哀想な子を見るような目をしている気がする。
私は嘘を付くのをやめた。
「すみません、顔洗ってきて良いですか。眠くてしようがないです」
「ん、行って来い」
私は教室を出て、走った。
こら、と先生がドアから顔を覗かせたが、気にせず走った。
びゅんびゅんと窓が後ろへ流れていく。
その窓の中に、パン配達のトラックが見えた。
角を曲がって階段を駆け下りる。
最後の五、六段ほどは、勢い良く跳んだ。
購買を通り越して、私は外へ出た。
トラックが丁度荷を下ろしている。
そこへ駆け寄って、作業着の男性に声をかけた。
「あの!ゴールデンチョコパンを!」
「ゴールデンチョコパンは……もう購買の方へ運んでるね」
無駄足だった。
しかし気を落としている暇はない、私は直ぐに踵を返し、大きく足を踏み出して走る。
購買が見えた、私は勝った!
「あの、ゴールデンチョコパン!」
「ごめんねえ、今売れちゃったよ」
購買のおばちゃんが苦笑した。
私は呆然とする。意味が分からない。
何故、そんなことが?
ありえない、授業中に抜け出してきたというのに、この仕打……
「あ、あの……ごめん、今日、朝は病院行っててさ。ラッキーと思って買っちゃった」
購買の入り口に、派手な外見の女の人がいる。
茶色く染められた髪、着崩した制服の割に、存外態度は丁寧だ。
思わず私は頭を下げた。
「あ、いえ、こちらこそ。どうぞ味わってください」
「えっと、うん、いや……」
ぽりぽりと頭を掻いて、その女性は手に下げている袋のうち一つを私に差し出した。
もうひとつの袋には、ファッション誌やら漫画雑誌、あと、どうみても不自然な文芸雑誌に外人女性のポスター。
それに、メロンパンなんかが入っている。
私に差し出された袋には、ゴールデンチョコパンが入っていた。
「上げる。途中のコンビニでパンは買ってきてるから」
「え、本当にいいんですか!」
「うん。全然オッケー。ちょっと買い占めてみたかっただけだから」
そんじゃあねえ、と言って、手を振って、その女性は階段を登っていった。
いい人だ。ちょっと髪が傷んでいるんじゃないかと心配だが、しっとりと、彼女の髪は体にあわせて上下していた。
「……いい人だ」
なんとなく、私はそう呟いた。
教室に戻ると先生に怒られた。
パンの入った袋を持って戻ってきたのだから当たり前だ。
けれど、私はそんなことは気にせず、昼休みになると急いで図書室へ向かった。
相変わらずいい匂いだ。
ごたごたしたこと、いろんな悩み事を、もっと乱雑で深遠な文字の海へ叩き落す匂いだ。
その中に、今日は私のパンの匂いが混ざっている。
「随分と早いんですね」
がちゃ、と準備室の扉を開けて、図書委員の娘が出てきた。
今になって気がついたが、リボンの色からして彼女は三年生のようだ。
ちょっと申し訳なさそうな顔をして見せる。
「ごめんなさい、今はゴールデンボーイ、貸し出されてます。来週までには戻ってきますけど」
「あの」
私はどうしても気になることがあって、彼女の話を遮った。
「名前、聞いてないですね」
「ああ、そうですね。宮本 アキヨです。よろしく」
宮本さんは結われた短い髪を軽く触って、控え目に笑った。
なんで敬語なんだろう。
私がそれを訊くと、宮本さんは私を準備室の中へ入れてくれた。
図書室とはまた違った匂がする。
接着剤の匂いだ。
宮本さんは、少し得意げに、顔を赤らめて言った。
「あのね、私、本が好きだから……図書室では敬意を払いたいの、お客さんに」
この人も、いい人だと思った。
私は自分でも気がつかないうちに、ゴールデンチョコパンを一つ差し出していた。
「ここで一緒に食べませんか?」
宮本さんは驚いたように目を見開いて、恥ずかしそうにくすりと笑う。
「うん、喜んで」
宮本さんの髪も、短いながら優雅に揺れる。
そのうち高橋さんが、これまた髪を揺らしながら準備室に入ってきた。
「あ、ゴールデンチョコパン!」
「上げますよ」
「ホント!?」
高橋さんは急いで私たちの隣に座って、チョコパンを食べだした。
頬を押さえて、とろけているような声でいう。
「甘美だあ……流石鈴木さん、授業をほっぽり出して買いに行っただけはあるね」
何故知っているんだろう。
私は弁明しようと、急いでチョコパンを飲み込んだ。
「……サボっちゃったの?」
宮本さんがなにか言いたそうにこちらを見つめてくる。
しかし、何も言わない。
それでいて、高橋さんが
「授業はサボっちゃ駄目だよね。学問をする機会がせっかく平等に与えられてるんだから」
と言ったときには、大きく頷いていた。
やっぱり、宮本さんは引っ込み思案なんだろう。
「サボってないです。走って昼休みに買ってきたんです!」
「嘘だあ。立花さんがボンボンの娘にチョコパンあげたって言ってたもん」
「立花さん?」
「ちょっとヤンキーっぽい娘だよ。購買であったでしょ?」
確かに、会った。
もしかして、高橋さんは、ボンボンから私を連想したんだろうか。
私が頬をふくらませて反論しようとすると、宮本さんがゆっくりと口を開いた。
若干俯き加減だ。
「でも……でも、いい人だよ。ちょっと見た目は派手だけど」
その時に、分かった。
だから私は、今までで多分一番大人っぽく微笑んだ。
「そうでしょうね」
私は今部屋で本を読んでいる。
長い道のりを経て死体にたどり着いた少年たちが、悪ガキたちと対峙している。
死体を前に、何かを感じた少年と、何も感じない悪ガキたちだ。
歩いてここまで来た少年たちと、車で来た悪ガキたちだ。
そばにいてくれ。
いつも強気な少年が、友人に言った。
拳銃を構えて、悪ガキたちを追っ払う……
「……終わっちゃったなあ」
チョコパンを食べて、その日の授業を終えて家に帰ってから、気がつけば夢中になって本を読んでいた。
宮本さんが進めてくれた"ゴールデンボーイ"を借りるまでに一週間間が開くかと思うと、少し憂鬱でさえある。
なあご、と鳴いて、哀れな二号が近づいてくる。
ちょっと撫でて、首もとの跳ねた毛を抑えてやる。
しかし、真っ直ぐにはならない。
「どうしようもないなあ」
なんとなくだけれど、今日思った。
高橋さんも、宮本さんも、もしかしたら立花さんも。
あの落ち着いた居振る舞いと、どことなく不思議な魅力は、歩いてきたから、なのかもしれない。
車に乗らずに、ただ、一生懸命歩いて行く。
そう、読書なんかいい。今、私は文学少女だから。
そうすれば、ひょっとしたら、私も……
次の日の朝、私はちょっと早起きをした。
鏡の前で暫く悪戦苦闘して、なんとか外見だけ取り繕って、家を出る。
通学途中に出会った梓が、お、と声を上げる。
「純、髪の毛下ろしてるんだ」
「うん。変かな?」
「いや、そんなことないよ。なんか大人っぽい」
そっか。
ちょっと嬉しくなる。
そうして数歩スキップをして、やはり私は髪をヘアゴムで縛った。
「ありゃ、結局縛るんだ?」
「今はまだ、これでいいよ」
しばらくは、これでいい。
私がちょっとしたことで浮かれてスキップをしないようになったら。
自分の瞳の中に、人を引きこんでしまうような世界を持てたら。
その時はまたヘアゴムを外そう。
唯「音楽準備室のリタ・ヘイワース」
音楽準備室の壁に穴が開いているのを見つけた。
不思議なことに、その穴は外人女性のポスターで隠されている。
明らかに何らかの器具で穴を広げたと思われる痕跡があって、私はますます首を傾げた。
誰が、どうしてこんなことを?
泥棒だろうか?
だとすると、ちょっと怖い……
「はあ、穴?」
休み時間に相談すると、姫子ちゃんは不思議そうな顔をした。
私だって同じ気持ちだ。
「穴……でも、なんで私に相談するの?」
だって、姫子ちゃん強そうだから。
「これまた微妙な……ま、いいけど。ちょっと観に行こうか。昼休み、まだちょっとあるし」
姫子ちゃんは頼りになる。
和ちゃんとはまた違った方面で。
それに、学校の壁に穴が開いている、なんて、生徒会長の和ちゃんに言う勇気は、私にはない。
姫子ちゃんはさっさと歩いて、音楽準備室の扉を勢い良く開けた。
ざっと見渡して、手を広げる。
「穴なんて無いじゃん」
あるよ、ほらここ。
「あ、本当だ。ていうか、このポスター……」
えっちいね。
「え、うん、なんかごめん。でも、これ泥棒でも何でもないと思うよ」
どうして?
「いやあ、ちょっと言いたくないかな。えっちいとか思われたくないし」
そんなことを言って、姫子ちゃんはじっと穴とポスターを見つめる。
そして、けらけらと笑い出した。
「あはは、結構愉快なことするなあ。うん、ちょっとイメージ変わったかな」
そんなもんかな、やっぱ、なんて言いながら、姫子ちゃんは音楽準備室を後にした。
私はしばらくポスターを眺めて、それを捲り穴を見て、縁を触って、教室へ戻った。
教室では、風子ちゃんと和ちゃんが弁当をつっつき合っていた。
「最近本の返却が遅れてる人が多いみたいだよ。アキヨが困ってた」
「そうなんだ」
「そうなの」
風子ちゃんが訴えかけるような目で和ちゃんを観ている。
和ちゃんは何かに気づいたように、ため息を付いた。
「なんとかしろってのね」
「うん、まあそんなとこ」
和ちゃんがなんとかすることなの?
「そりゃまあ、生徒会の建前としては、健全で規律正しい学園生活を守らなきゃだから」
規律正しいって、例えばなにか壊しちゃったりしたら、和ちゃんに怒られるってこと?
「……なに、唯、あなたなんか壊したの?」
和ちゃんがじとっと睨みつけてきたから、私はすごすごと退散した。
気になる。穴がとても気になる。
珍しく放課後の部活で練習をしていても、気を抜くと準備室のほうを見てしまう。
あの、中指の先から第二関節くらいまでの深さしか無い、小さな穴が、何故ポスターなんかで隠されているんだろう。
その日部活を終えて、私はしばらく音楽室に残った。
やはりどうしても我慢ができなくて、準備室のポスターを捲る。
穴が広がっていた。
掌ほどの大きさしか無かった穴は、今では人間の頭より少し大きいくらいになっている。
そして、中指が全部埋まるくらい深くなっている。
私はぞっとして学校を出た。
校門の傍まで走っていき、肩で息をする。
夕陽が校舎を照らす。
あそこだ。あの、外から見れば何の変化も認められない、あそこの壁。
その内側で、少しずつ穴が広がっている……
「唯ちゃん?」
突然名前を呼ばれて、私は飛び跳ねた。
後ろで、柔らかい金髪の女の子が怪訝そうな顔をしていた。
「なにしてるの?」
なんでもないよ。
「……本当に?」
本当だってば。
「そう」
ムギちゃんは、何をしてるの?
「私はね、図書館に行くの。本返さないといけないから……図書館警察が来ちゃうしね」
ムギちゃんはくすりと、妖しく笑った。
ぞく、と背筋が凍るような思いがする。
私は恐る恐る、図書館警察について尋ねた。
「図書館警察はね、その名のとおり、図書館の警察なの。
期限が切れても本を返さない人がいると、その人の家に行って本を持ってっちゃうのよ」
それだけ……別に怖くないよ?
「本当に? 本当に怖くないの?」
ムギちゃんが目を見開いた。
私はその視線に射られて、動けなくなる。
「そう……唯ちゃんは図書館警察が怖くないの……そうなの……」
くすくすと笑いながら、ムギちゃんは図書室のほうへ歩いて行った。
私は走って家へ帰った。
家に帰って、すぐに部屋にあがり、布団に潜り込む。
そして、視界に入ってしまった。
少し開いたドア、その間には、ただ空間があるばかりだ。
なにかがいるわけでもないが、空間がいる。
時間と一緒に、けたけた笑っている、そんな気がする。
怖い。怖い、怖い、怖い……
図書館警察は怖い。
頭の中は、ちょっと話しに聞いただけの図書館警察でいっぱいだ。
多分、図書館警察は、あの穴から出てくるんだ。
本の返却期限が迫るに連れて、あの穴が大きくなっていくんだ。
どろどろと、まっくろな塊が穴から出てきて、少しずつ不恰好な人の形をなしていくところを想像して、私は口を抑えた。
電話がなった。
「お姉ちゃーん、電話出てくれる?」
夕飯を作っているらしい妹が、大声で私を呼ぶ、
私はそろそろと階段を降りて、電話をとった。
綺麗な女性の声が聞こえてきた。
優しい声だったが、その第一声が……
「こんにちは!図書館警察です。お宅の憂さん、返却期限を守ってくれないんですね?
スティーヴン・キングのゴールデンボーイ。返してくれないんですか、どうしてですか……」
私が唖然として、ただ受話器の声に耳を澄ませていると、その声は突然切れた。
次いで、掠れた声で歌が聴こえる。
「紙を捲って歴史を眺めて思想を食んでは吐き出して……」
私は受話器を急いで置いた。
そして、リビングから顔を覗かせた妹を無視して、再び私は全速力で学校へ向かった。
穴を塞ぐんだ。
穴を塞いじゃえば、きっと大丈夫だ。
そう何度も自分に言い聞かせても、流れる冷や汗を止めることは出来なかった。
汗が流れていく、風景が後ろへ飛んでいく。
そうして、学校についた。
さっきまでの威勢はどこへやら、急に私の足は動かなくなった。
それでも、無理に動かして、一歩ずつゆっくりと音楽準備室へ向かう。
しかし、見つけてしまった。
もう、穴が開いている。
真っ暗な、顔くらいの大きさの穴は、音楽準備室に続いている。
出てくる、きっと出てくる、図書館警察が、私の妹を連れに……
「あ……うああ……憂……」
「やっほー!図書館警察でーす」
ムギちゃんがにこにこと笑って穴から顔を出したときには、私は泣き出していた。
「あの、本当にごめんね……そんなに怖がってるなんて思わなくて」
怖いよ……
「いや、もっと、ドッキリ大成功!みたいなノリになるかと思ったの……」
……穴、ムギちゃんが開けたの?
「うん、このあいだ掃除したときに見つけて、なんとなく面白そうだと思って」
面白い?
「うん。ちょっと、悪いことをしてみたくなってしまいました……姫子ちゃんからポスターを貰って隠したりもしました……」
ムギちゃんがシュンと肩を落とした。
私も大分落ち着いてきて、なんだか面白いと思えるようになってきた。
「広げたはいいけど思ったより使い途がなくてね、こんなふうに使ってしまいました……」
そう。割と面白かったよ?
「ホント!?」
うん、ちょっと怖かったけどね。
「うふふ、唯ちゃんならこういうの怖がると思ったわ……想像力あるもんね?」
その時のムギちゃんの顔は、なんていうか、旧知の友人みたいな、気のおけない姉妹みたいな優しさがあった。
そんなことがあってから、私はたまにモダンホラー小説を読んでいる。
思うに、人を怖がらせるには、喜ばせるのと同じくらい、その人のことを知っていないといけないのだ。
証拠もある。
「ばあ、図書館警察だー!」
「きゃー」
ある日、私が穴から顔をのぞかせると、ムギちゃんは胸に鞄を抱えて、私を見上げて微笑んだ。
「可愛いよ」
そう言われたとき、私はすっごく、嬉しかったんだから。
和「図書館警察」
電子音がなって、私は目を覚ました。
朝日が私の顔を照らして眩しいから、私は布団を顔のあたりまで引っ張ってみたが、如何せん日光は強い。
結局私は朝日を浴びて起きた。
階段を降りて、顔を洗ってから、洗面所の前で跳ねた髪を撫で付ける。
短い髪がいろんな方向に跳ねていて、なんともみっともない。
特に耳の辺りはどうにもならないほど癖が強い。
耳回りは諦めて、他を櫛ってから歯を磨いた。
制服に着替えた後、朝食を摂りながら、今日の予定を確認する。
今年度の行事、さしあたっては体育祭の話し合いが、今日も生徒会室である。
しかも、よりにもよって昼休み。
これのせいで、私はここのところ昼食をとるのが遅れてしまっている。
そういえば、他にも友人に頼まれていたことがあったっけ。
忙しいというのは、即ち充実しているということでもあるけれど、いくらなんでも少し疲れてきた。
「いってきます」
朝から憂鬱な気分で家を出た。
日課として、私は毎朝幼馴染の家に向かうことにしている。
彼女の名前は唯、ついでに妹は憂だ。
彼女はまったくだらしがなく、妹に起こしてもらわなければ、寝坊をしないことのほうが珍しいくらいである。
けれど、その天真爛漫な性格からか、私も彼女の妹も、彼女の世話をするのをそこまで嫌がっていない。
あまりよくないことだとも思いながら、私は彼女の家に着き、インターフォンを鳴らした。
「はーい……あ、和ちゃん」
洒落た洋風建築から、私と同い年くらいの女の子が顔を覗かせる。
応対したのは彼女の妹であった。
姉と正反対にしっかりしたこの娘は、柔らかい髪を縛ってショートポニーにして、エプロンを着けている。
「お姉ちゃんねえ、もう学校行っちゃったよ。珍しいよね」
「あら」
と言って、私は続けるべき言葉を見つけられなかった。
ただ、そうね、とだけ返しておく。
すると彼女は一旦家の中に引っ込んで、しばらくするとお弁当を入れた布鞄を二つと、通学鞄を持って出てきた。
「じゃあ、学校行こうか。お姉ちゃんがいないと遅刻する心配もないね?」
こうは言うけれど、憂は姉の悪口をいうふうでもなく、ただ、今日はちょっとのんびり歩ける、くらいの気持ちのようだ。
小さく伸びをすると、結った髪が揺れた。
「そういえばさ、最近お姉ちゃんが学校の図書館に入り浸ってるの。中々似合わない気がしない?」
唯はあまり本を読むのは好きではなかった記憶がある。
じっと座って本を読むよりは、外を歩き回るような子だ。
精神から外界に出て文字として固着した思想よりは、生きた会話の端々から、何かを掴もうとする子だ。
そんな彼女が図書館でおとなしく座っているというのは、なるほど言われてみれば少しおかしな気がする。
「そうねえ……でも、あの娘移り気だから、そのうち飽きるでしょうよ」
そう言うと、憂も同意して首を縦に振った。
事実唯は飽きっぽい。
唯は軽音楽部に所属しているが、ギターを飽きずに続けられているのが不思議なくらいだ。
とは言え夢中になったときの集中力はなかなか凄まじい物もあるので、短い間でも、彼女は結構な量の知識を書物から得るかも知れない。
ちょっと楽しみだ。
そうこう話しているうちに、学校についた。
「じゃあねー」
手を振って憂と別れる。
階段を登ろうと足を踏み出すと、上から名前を呼ばれた。
「あ、のどか」
そのまま、たた、と階段を駆け下りてきて、名前を呼んだ女の子は、じっと私を見つめた。
顔にかかった長い黒髪を払うと、横に長い楕円形の眼鏡の奥に瞳が見える。
「図書館の件、どうなったの? 無理なら無理で別にいいんだけどさ」
そういえば、そんなことを頼まれていた。
確か、返却期限を過ぎても本を返さない生徒が多いから、なんとかしてくれ、とか。
正直、それを生徒会に言われても困るのだが、仲の良い友人からの頼みを無下にすることも出来なかった。
「ああ、あれ、は……宮本さんと今日の昼休み、詳しく話しあいましょう。
現状の把握もできてないまま勝手に行動するのも不味いし」
私が言うと、彼女は納得したように頷いた。
そのまま並んで、私たちは教室へ向かった。
彼女は高橋風子という。
いわゆる本の虫で、暇さえあれば図書館にいるような気がする。
何度か、一緒にお弁当を突っついているときに、図書館がいかに素晴らしいか語られたのだが、全く理解出来ない。
ついでに、彼女は宮本アキヨというクラスメイトと近頃懇意にしている。
宮本さんは図書委員をしているそうで、この間は風子が図書準備室で一緒にパンを食べたと言っていた。
割と引っ込み思案に見えて、自分で言えばいいものを、わざわざ風子伝いに私に頼んできたのも、その辺りが原因かと思う。
なんか、面倒くさい。
とは言え、今更断るわけにも行かない。
それに、なんというか宮本さんの頼みも風子の頼みもなんとなく断りづらい。
ある程度こちらが断ることを予想しているような感じがあって、断るのが逆に癪だ。
かりかりとペンを走らせていると、昼休みになった。
早速風子が私の席の近くに来る。
その後ろには、髪を短く結った宮本さんが、俯き加減で隠れている。
「じゃあ、図書館いこう」
風子がしれっと言ってきた。
私は毒の一つでも吐いて、とっとと生徒会室へ向かおうと思ったが、
「あ、でも……真鍋さん生徒会があるって、高橋さん言ってたじゃない……」
などと宮本さんが怖ず怖ずと言うので、私は肩を落とした。
「……直ぐに終わらせてくるから、図書館で待っててくれる?」
それだけ言って、私は教室を後にする。
振り返ると、風子と宮本さんがじっとこちらを見つめていた。
引きこまれてしまいそうで、身が引き裂かれてしまいそうだったから、さっと私は目を逸らした。
腹立たしいのは、昼休みに人を呼んでおきながら、生徒会の話し合いが一向に進まないということだ。
「運動会の父兄参観、準備に手間かかる割には見に来る人も少ないですし、いっそ取りやめにしませんか」
と言う人がいれば、
「建前としては学校での集団教育の成果の発表でもあるわけですから」
うんぬん、などと言う人もいる。
困ったことに、こういう風に意見が割れると大抵の場合は会議が進まない。
だから、私はいつも頬杖を突いて、気持ち半分程度に話を聴くことにしている。
なんとかして早く話し合いを気持ちよく解決させたいものだとも思うのだが、どうにもならない。
意見の相違は価値観の相違で、人生の相違だ。
同時に、それは不快感しか催さない。
「はい」
ぱん、と私は手を叩いた。
「今日はこれまで。残りは放課後に。一応、早いところ運動会と学園祭の二つくらいは決めておかないといけません。
双方、現実的な妥協点を模索していきましょう、では」
こんなことを言って話し合いを終わらせる。
そうして生徒会室を出た後、結局一番偉そうにしている生徒会長の私が、会議中だんまりを決め込んでいたことに気がついて、なんだかおかしくなった。
私は独りでくつくつと笑いながら、生徒会室を出たその足で図書館へ向かった。
扉を開ければ、直ぐに分かる。
図書館には不思議な空気が流れている。
貯蔵されている情報の匂いだ。
時代遅れの腐った匂いだ。
十数年前の新書本、などという矛盾したものを大事に保管してあるところ、どうにも私には図書館は合わないと感じる。
きい、と図書準備室の扉を開けると、少し違う匂いが鼻をついた。
接着剤、か。
図書室とは違って、また不思議な感じがする。
「あ、真鍋さん」
椅子に座って本を読んでいた宮本さんが、私を見つけて控え目に微笑んだ。
私も微笑み返す。
「入っていいかしら?」
「どうぞ」
思えば、図書準備室なんぞに入るのは初めてだ。
大きな机の上には何故か定規やシール台紙なんかが置いてある。
「あ、それブックカバーフィルム……司書さんが忙しい時は、私が貼るの」
そういえば、図書館の本には透明のフィルムが貼ってある。
あれは誰かが貼っているんだという当たり前のことに、今更気がついて、ちょっと感心した。
「へえ、これ」
私が口を開くか開かないかするうちに、宮本さんが一生懸命話しだした。
「あ、あのね、それ貼るのって意外と難しいの……埃が入ったりするとね、台無しになるから。
この間もどこからか入ってきた野良猫の毛がくっついたからピンセットで取る羽目になったし、それに……」
そんなこんなで随分な長口上だ。
話を遮られて少し嫌な気がしたけれど、何故だか宮本さんの話は面白かった。
猫が入ってきていつも邪魔をすること、それでその猫は嫌いなこと、そのくせ猫のために、日が差すようにカーテンを開けていること。
「それでね、せっかく私が開けてあげたのに、全然違うところで日向ぼっこするから……大嫌い」
宮本さんは息を吐き出すように微笑んだ。
それから数秒間沈黙が流れたから、それで私は、この話が一応終を迎えたのだと気づいた。
大嫌い、で終わった割には、彼女は随分と楽しそうだ。
「あのー」
カウンターのほうで誰かが呼んでいる。
見てみると、おかっぱ頭の女の子だった。
無表情で淡々とした喋り方が、妙に図書室の雰囲気にあっている。
はあい、と返事をして、宮本さんは小走りでカウンターへ向かっていった。
机の上に、宮本さんが読んでいる本がある。
『学問のすゝめ』だ。
意外に難しそうな本を読んでいる、もっと小説などを読むのかと思った、
などと考えながら、ぱらぱらと捲ると、ところどころマーカーで線が引いてある。
びっくりして裏表紙のところを確認すると、カバーは貼ってあるが、学校所有の印鑑は押されていなかった。
「あ、ちょっと」
戻ってきた宮本さんに本をひったくられる。
彼女の反応と、本に引いてあったラインを重ねあわせて、妙な気持ちになった。
なんというか、とても悪いことをしてしまったような。
「……勝手に見ないで」
現に、宮本さんも恥ずかしそうに俯いて、大事そうに本を胸に抱えている。
「ごめんなさい」
罰が悪くなって、とりあえず私は謝った。
宮本さんは明るく微笑んで、いいよ、と言ってくれた。
数分ほどまた宮本さんと話していると、図書準備室の扉が開いた。
「あ、のどか遅い」
と不平を言いながら、風子が入ってきた。
どうやら暇に任せてまた読書をしていたようで、胸に分厚い本を抱えている。
風子の後ろには、私より数段癖の強い髪の毛の二年生の女の子が、明るく笑いながら、すこし緊張した様子でついてきていた。
「あの、どうも、鈴木です」
「はあ、どうも」
丁寧に挨拶をされて、つい私も姿勢を正した。
それを見て、鈴木さんはへらっと笑った。
「なんか図書館会議をするそうで。私も参加しようかと思って。図書室好きなので!図書室好きなので!」
何故二回言ったんだろう、と訝しんでいると、風子と鈴木さんはどかっと椅子に座った。
椅子に座るなり、二人ともまるで姉妹のように同じタイミングで本を開いた。
「ちょっとちょっと」
宮本さんが困ったような声を上げると、また二人とも同時に顔を上げて、苦笑した。
風子が言い訳がましく言う。
「ごめんねえ、ここに来たら本開くのが癖になってて」
どうやらいつもこんな感じらしい。
ちらちらと本のほうに目を遣る二人を宮本さんが諌めて、やっと話し合いが始まった。
「ええと、確か本の返却期日を守ってくれない人が多いんでしたよね、宮本さん」
「そう、鈴木さんや高橋さんみたいな、殆ど毎日来る人はちゃんと返してくれるんだけど、
長期休業中に借りたままの人みたいに、普段来ない人が中々返してくれなくて」
「ああ、困ったね」
風子がそれだけ言って、私を見た。
むしろ私は、それで風子の発言が終わりなのかと驚いたくらいなのだが、どうやらもう私が喋る番のようだ。
「っていうか、督促状出しても駄目なら校内放送なり何なりすれば良いんじゃないの。
なんなら直接回収しに行ってもいいし」
至極真っ当な意見のつもりだったのだが、他の三人は溜息を付いた。
「駄目ですよ、えと、ええと」
「真鍋よ。一応生徒会長だから名前くらいは知っておいて欲しかったんだけど」
「すみません。で、ですね、真鍋さん、それされたら嫌じゃないですか」
はあ、と間抜けな声が出た。
「嫌ですよ。それじゃあ図書館に来なくなっちゃうかも知れないでしょ?」
「まあ、そうね」
「それじゃ駄目ですよ」
他の二人もうんうんと頷いている。
そんなものかと思おうとしたが、全く理解出来ない。
「でも、本返してもらいたいんでしょう?」
「そうだよ」
返事をしたのは風子だった。
「でも、人が来なくなるのはちょっとイヤかなあって」
「いや、それは我侭よ」
「のどかなら何とかしてくれるかなって。無理ならいいけど」
私は自分で意識する前に、口に出していた。
「無理じゃないわよ、やるわ」
さて、困った。
なにより驚いたのは、あれで話し合いが終りになってしまったことだ。
私がやる、と言ったらそれでおしまい。どういうことだ。
少し途方にくれて、中庭でぼうっとしていると、とん、と肩を叩かれた。
「どうも」
鈴木さんだった。
軽快な動作で私の隣に座って、ちらとこっちを見てくる。
「真鍋さん、どうするつもりです?」
「……困ったわよねえ」
私がそういうと、彼女は顔を輝かせた。
無邪気な笑みで、図書室の中で見るのと外で見るのとでは全く違った印象を与える。
「ですよね。もしかして真鍋さんもあれで解決したのかと思って、びっくりしちゃいました」
「やっぱりそうよね、あれで話し合い終わりなんて絶対おかしいわよね」
「ええ。それで、もうちょっと話し合いませんか? どうにも不安でならないので」
それで私と鈴木さんとで話し合いを始めたが、全く進まない。
終いには鈴木さんも私も苛々してきた。
「だから、トレードオフだって言ってるじゃないの」
「難しい言葉使わないでくださいよ!とにかく、人が来なくなるのは嫌なんです、なんで分からないんですか」
「だって」
私は常々考えていたことを、そして、当然正しいと思っていることを言った。
「分かる訳ないじゃないの。他人が何をどう考えているのかなんて」
鈴木さんは一瞬目を見開いて、それから頭を掻いた。
まいった、なんて言っている。
私はそれを、じっと見ていた。
「……そうですね、そういうふうに真鍋さんが考えているってことも、私には分からなかったわけで」
なんだか妙にしおらしい。
会ってから十数分、ずっと溌剌だった彼女が急にこんな調子になれば、不安にもなる。
「え、なんかごめんなさい」
「いえ、でもですね、私、そういうの好きです。最近好きになりました」
ふと気がつくと、鈴木さんの目が、風子や宮本さんと同じように見えた。
目を逸らそうと思ったけれど、出来ない。
「そういうの?」
「こういうのです」
それっきり、鈴木さんは黙りこんでしまった。
しようがないので私も黙って中庭を見つめる。
春先だから、どこから種子が飛んできたのやら、たんぽぽが生えていた。
鈴木さんがぼうっとどこかを見つめながら、こんなことを言った。
「誰が何をどう考えているのかなんて、分からないんですねえ……そうですよね」
「なによ」
「いいえ、なんでも!」
鈴木さんが勢い良く立ち上がる。
たんぽぽが揺れた。
「楽しかったです!」
そう言って、彼女は駆けていった。
楽しかった。そう言った。
楽しかった。
意見の相違は、価値観の相違は不快感しか生まないと思っていたのだけれど。
楽しかった、か。
予鈴がなる前に教室に戻ると、幼馴染の唯が、むつかしい顔をして本とにらめっこしていた。
その肩をちょん、と叩いて尋ねる。
「ねえ、唯、それ返却期日は守ってるわよね」
「あ」
と言って、唯は固まった。
恐る恐る貸し出しカードを取り出して、溜息をつく。
「やっちゃったあ……昨日返却だったよ。図書館警察来ちゃうなあ」
「図書館警察?」
「そう。返却期日を守らないと強制的に回収しに来るの。怖いなあ」
私はちょっと黙り込んだ。
またなんか馬鹿な事を言っている、ぐらいで済ますことも出来ない。
「ねえ、唯」
声をかけておいて、その後で私は言葉を探した。
「どうして期日忘れちゃったの?」
唯は満面の笑みで答えてくれた。
「楽しいから」
それから、図書室で本を借りていると思しきクラスメイト何人かに声をかけた。
そのうちには、返却期日を守っていない人もいた。
とりあえず、立場上早く返すように促しておいたけれど、むしろ気になるのは、彼女たちが読んでいる本だった。
立花さんは夏目漱石の三四郎なんかを読んでいて、かなり意外だった。
彼女は髪を茶色にそめていて、軽くパーマも当てている、所謂不良っぽい子なのだが、
純文学の文庫本を片手に、足を組んで頬杖を付き読書に勤しむ姿は中々様になっている。
「立花さん、立花さん」
「うん?」
「それ、面白い?」
「面白いよ」
それっきり、立花さんは本に集中して、私のことは気にかけていない様子だった。
ふと思い出したように貸し出しカードを見て、あちゃあ、と言った。
「ごめん、これ期日過ぎてんね」
「あら、そうなの」
「ていうかこれ春休みから借りっぱなしだ……道理で機嫌悪いはずだよ」
「誰が?」
「アキヨ。悪いことしたなあ」
考えこむように額に手を当てて、黙りこむ。
ちらと私の方を見て、苦笑した。
「どうしたもんかな」
「どうして遅れたの?」
「そりゃあ」
立花さんは嬉しそうに笑う。
「面白いから、何度か読んでるんだ。毎週延長しに行ってたらなんかしらけちゃうし」
唯と同じような笑い方だ。
そっか、と返して、私も笑った。
「怒りやしないわよ、きっと」
なんとなく、だけど。
ちょっと楽しいと思った。
なんども本を読むなんて私はしないけれど、こんな風に楽しそうにそれをする人もいる。
私と違うところが、そのまま彼女の特徴になる気がした。
それだけで、ちょっと彼女のことを知れた気がした。
「図書館警察かあ」
私は独りごちた。
存外、人の話を聴くのは面白い、と思うようになってきた。
昼休み、私は個人的に本を返却していない人のところを訪ねて、その本についての話をしつこく聞かせてもらうことにした。
楽しそうに話をしてくれる人もいれば、不審気に眉をひそめる人もいる。
どちらにしても、大抵はそれで次の日には返してくれている、らしい。
宮本さんから聞いた話によると、だが。
しかし、手ごわい人もいる。
私は今日も中庭へ向かい、体操座りをしているその女の子の隣に腰を下ろした。
「それ、面白い……って、前にも聞いたわね」
「前にも言ったわ」
女の子はちらりとこっちを見て、また、膝の上に置いてある本に視線を戻した。
「どうなったの、主人公は」
「図書館警察を、お菓子で撃退した……なかなか独創的」
図書館警察、というのは、小説に出てくる虫のような怪物のことらしい。
やっと読み終わったのか、と私は微笑んだ。
「そうなんだ……もう一回読むの?」
「読まないよ」
「じゃあ、返すの?」
「返さない」
「じゃあ」
私の言葉を右手で遮る。
おかっぱ頭の彼女は本を口元まで上げて、くすりと笑って言った。
「持ってるの。図書館警察が来るまで」
そうして、読み終わった本を胸に抱えて、ぼうっと空をながめている。
彼女は誰に言うでもなく、独りで呟いた。
「面白いでしょう」
そうねえ、と答えて私は中庭に目を遣った。
たんぽぽが何本も生えている。
時たま触れ合って、揺れている。
あとしばらくしたら、触れ合うたびに種子が飛ぶようになるんだろう。
「楽しいなあ」
私の声は春に飲まれた。
アキヨ「ピッチン!」
私は昼休みが始まってそうそう図書室に訪れて、図書準備室にこもった。
カーテンの開いた隙間から、日光が差し込んでいる。
私は作業台に積んである本を一冊とって、表紙を外してから、その寸法を図った。
棚からブックカバーフィルムを取り出して、本の縦横の長さから2センチ程の余白を取って、切り取る。
本の表紙をティッシュで綺麗に拭いて、埃が舞わないように、そっと窓とドアを閉めた。
ぺり、と台紙から端のほうを剥がして、本の表紙にあてがう。
そのまま、定規を押し当てながら、フィルムを貼り付けていく。
それが終わると、綺麗にフィルムが貼られた表紙を、次は本に着ける。
なあ。
猫の鳴き声が聞こえた。
「……君は」
思わずため息が漏れる。
声のしたほうを見ると、棚の後ろから、猫が顔をひょっこりと覗かせていた。
毛が入らないように、私はまだ粘着力の残っているフィルムをシール台紙に貼りつけた。
「おいで」
私が呼ぶと、猫は私とは反対方向に歩いて行く。
カーテンを開けると、そことは全然別なところで日向ぼっこをする。
ちぇ、と呟いて、私はまた作業に戻った。
「毛が入るから、どこかに行ってほしいな」
そう猫に言ってみるも、猫は私を丸い目で見つめたきり動かない。
私も無視をして、作業に集中することにした。
しかし、猫の毛が一本入ってしまって、どうにもはかどらない。
結局私はいい加減に作業を済ませて、読書を始めた。
その文庫本には、何本も線が引いてある。
気に入ったところとか、よく分からないところとか。
そうしておいて、もう一度読み返すときは、前回自分が読んだ時の思いだとかを呼び起こすようにしている。
今読んでいる学問のすゝめにも、一見すると滅茶苦茶なくらい線が引いてある。
世話の字の義、の章では、"一に保護の義、一は命令の義"というところに何本か線が引いてあるから、
きっと私は前回、その部分がすごく気に入ったんだろう。
どうせ一度読んだものだし、とその部分から読み進めてみると、数ページでその章は終わっていた。
ざっくばらんに言えば、相手のためを思って保護して指図するときは、保護と指図の塩梅を考えましょうね、というようなことが書かれていた。
今度誰かに教えてあげよう。
誰に……そうだ、真鍋さんなんか。
最近よく話しかけてくれるし。
鈴木さんは……まだ、こういう思想本なんかは好きじゃなさそうだ。
ふと思い返してみると、図書館で見る顔が近頃急に増えているような気がした。
不思議な感じだ。
自分の考えにふけって、ページを捲る手を止めていると、準備室の扉が開いた。
「やっぱいた……アキヨ、これ返しに来たの」
茶色い髪をゆさゆさと上下させながら、立花さんが準備室に入ってきた。
その手には"三四郎"という題の小説がある。
春休みに私が勧めてから、今まで返しに来てくれなかったというのも凄い話だ。
「遅かったんだね」
私は言った。
非難がましい口調になっていないか、そればかりが気になる。
「うん、ごめんね。何度か読んでたんだけどさ、昨日真鍋さんに急かされた」
それを聞いて、不安になる。
急かさないようにしてって、言ったのに。
「早く返せって、言われたの?」
もしそう言われてしまったのなら、気分を害しただろうから、私が謝っておこう。
そう思っていたが、意外にも立花さんはおかしくてたまらないといった様子だ。
「それがさ、そうじゃないんだ。なんか"それ面白い、どう面白い?"ってずっと訊いてくるの。
一から説明してあげるんだけど、そうしたらさ、私も読みたいわ、って恥ずかしそうに言うんだよ」
よく考えたものだ、と少し感心した。
「なんか、結構可愛いよ。半分くらい唯が入ってる感じだよね。
そんなわけだから、真鍋さんが借りに来るといけないと思って、返しに来たの」
遅れてごめんね、と立花さんはもう一度謝った。
別に気にしていないから、そう言おうと思ったのだけれど、どうしたことか、言葉につまる。
結局、
「うん」
としか言えなかった。
いつもこうだ。
肝心なところでは、妙に言葉が頭から飛んでいってしまう。
本の感想を聞かれても、おもしろかった、というのが精一杯なもので、酷いときは何も言えなくなってしまう。
この間、鈴木さんにやっとこさ、図書館が好きだと言えたときは、小躍りしそうな気持ちになった。
「アキヨ、ここ座っていいかな。図書室よりは準備室のほうが好きなんだよね」
そう言って、立花さんは椅子を動かして、私の隣に腰掛けた。
彼女の長い髪の毛が私の手に当たる。
少し乾いた感じの、ぱさぱさした手触りだった。
彼女が開いた本を隣から覗いてみると、後書きやら時代背景の解説やらを一生懸命に読んでいた。
しばらくそうして、立花さんは私のほうを見た。
「ねえ、なんか面白い小説ある?」
突然訊かれて、少しどもってしまいながらも、私はなんとか答えた。
「あ、えと、車輪の下とか……」
「誰の?」
「ヘルマン・ヘッセ……おもしろいよ」
またこれだ。
おもしろいだけじゃなくて、もっとこう、社会の不合理だとか理想と現実の剥離だとか、それらしいことが言えたらいいのに、と思う。
けれど立花さんは、にっこり笑って私の頭を撫でた。
「じゃあ、安心だ。アキヨの"おもしろい"は大抵あてになるから」
そう言って、準備室を出て行く。
外で、おおボンボンちゃんだ、なんて声が聞こえた。
続いて、あ、真鍋さん、これ三四郎、とかいう声。
立花さんは社交的だ。
私が気兼ねせずに話せる相手の中で、本の虫の素養がないのにあれだけ私に合わせてくれる人は中々居ない。
もしかしたら真鍋さんはそれに近いかも知れないけれど、立花さんほどじゃない。
なあご、という声がしたから振り向いてみると、先程の猫が訳知り顔でこちらを見ている。
なんだか気恥ずかしくなって、文句の一つでも言ってやろうかと思ったら、準備室の扉が開いた。
「いや、鈴木さんに真鍋さんに高橋さん、なんか面白いことやってんね」
けらけらと笑いながら、立花さんが入ってきた。
扉のはめ込みガラスから図書室のほうを見てみると、高橋さんが本を読んでいるのを、鈴木さんと真鍋さんが見つめている。
耳をすますと、
「ねえ、風子、それ誰の本? 読み終わったら貸してね」
「わかったわかった」
「高橋さん高橋さん、私ソクラテスの弁明読めるようになりましたよ。小説から一歩前進です」
「わかったったら」
などと、二人して高橋さんに話しかけていた。
高橋さんは気にする様子もなく本を読み続けている。
「なにやってんだろうね」
立花さんがまた笑った。
そのときに、ふと猫に気がついたらしい。
不思議そうな顔をして、
「猫だ」
などと私に言ってくる。
「うん、猫だよ」
と私がそのまま返すと、立花さんは優しく微笑んだ。
「可愛いね?」
可愛いだろうか。
背と腹で綺麗に色が白黒に分かれているし、毛も柔らかそうだけど、どうにもその不遜な態度は。
そんなことを思いながらも、立花さんがそばにいると、
「うん、可愛い」
という言葉はすんなりと出てきた。
なああ、と猫は満足そうに鳴いて、大儀そうに準備室を出て行った。
その姿を見て、立花さんはまた笑った。
「そういえばさ、アキヨ、なんだけ、ウィト……えっと」
「ウィトゲンシュタイン?」
「そう、それ。その本、読んだ?」
「まだだよ……青色本が読みたいんだけど、無いの。論理哲学論考はわけが分からなかったし」
「そうなんだ。じゃあやめとこう」
そう言って、立花さんは胸に抱えていた分厚い本を一冊机に置いた。
ウィトゲンシュタイン著作集、とか書いてある。
あまり借りられていない本特有の、手垢のついていない、純粋に酸化した色をしている。
「読もうと思ったの?」
「アキヨに聞きながら読めばなんとかなるかと思って。でも、駄目なら仕方ないね」
それからしばらくヘッセの小説を読んで、貸出手続きをしてから、立花さんは教室に戻って行った。
途端に暇になって、私は返却された本を棚に戻すことにした。
分厚い本、薄い本、合わせて50センチくらいの高さにはなる本の束を抱えている私を見かねたのか、真鍋さんが声をかけてくれた。
「宮本さん、手伝うわ」
半分は真鍋さんが持って、さっさと元の位置に戻していく。
途中、なんで巻順に並んでいないのよ、と苛立った様子で本を並び替えていた。
最後の何冊か、特に分厚い思想本を、哲学書の棚に戻すときに、真鍋さんがあら、と声を上げた。
「あれ、入れる位置間違えてるんじゃないかしら」
真鍋さんが指さす先には、真っ青な文庫本があった。
布製のハードカバーの本と比べて、明らかに浮いている。
手にとってみると、図書館所蔵の印が押してなかった。
「これ、青色本だ……」
私が言うと、真鍋さんはちょっと得意げになった。
「あ、私知ってるわよ。ウィトゲンシュタインでしょ」
いつも生真面目な彼女が、こんなふうに子供っぽく得意そうにしているのは、なんだか面白い。
この、図書館に溶け込めていない本のページをぱらぱらと捲ってみると、中から手紙が落ちてきた。
『読んでみたけど訳がわからない。読んでみて内容教えてね 立花姫子』
と書いてある。
真鍋さんが隣でくつくつと笑っていた。
「ふふ、こういうのもあるのね……図書館て楽しいわね」
私が返事をしようとすると、また、なああ、と聞こえた。
猫が日を浴びて、心地良さそうに丸まっている。
「可愛いわね」
真鍋さんが言った。
私は、青色本を胸に抱えて、傍に立花さんも居ないけれど、微笑んで言えた。
「可愛いね、君は」
猫が満足そうに鳴いた。
あずにゃん二号「俺は猫なんだけど」
「行ってきまあす」
ぼんぼんが家を出た。
朝から騒がしい奴だ。
近頃は家に帰ってきては本を読んでばかりいて、とうとう気でも狂ったのかと思ったのだが、
この朝の騒々しさから察するに、ありゃあ一時の気まぐれだろう。
「はーいご飯よ」
俺の世話係が食事を持ってきた、
猫まんまを本当に猫に食わせる奴があるか。
心のなかで毒づいたが、他に食うものもないからしようがない。
もうちょっと上手いものを食いたいなあ、と思いながら、すぐに居心地の悪い家を後にした。
外は存外いい天気だ。
そういえば、本は日光に当てると痛んでしまうんだが、あのボンボンは知っているだろうか。
この間見たときは本を読みながら下校していて、車に轢かれやしないかとワクワクドキドキしたのだが。
いや、ドキドキしたのだが。
塀の上を歩いていると、俺が時たま吐く毛玉のようなものが見えた。
案の定ボンボンだ。
隣には、勝手に俺のことを二号呼ばわりしてくれた触覚が並んでいる。
「純さあ、最近付き合い悪くないかな」
「そう? まあここんところは昼休みは図書室行ってるからね」
「私と憂とで二人ぽっちで食べてんだよ?」
「まあ、いいじゃないの」
ボンボンは事も無げだ。
触覚が少し可哀想に思える。
でも正直どうでもいいので、こいつらの話を盗み聞きするのはそれなりにして歩みを進めた。
空き地について、塀を降りる。
たんぽぽが生えている。
まだ大体まっ黄色だが、いくらか既に種子を付けているのもある。
いつだかボンボンが、たんぽぽに息を吹きかけて飛ばしていたことがあった。
お前にはできないね、などと俺に言っていた。
思い出すだに腹がたつ。
ぱし、と手で叩いてみる。
種は飛び散ってはすぐに落ちるばかりで、あいつがやったようには飛んでいかない。
ちくしょう。
しばらくそうして時間を潰して、お昼時に学校へ向かった。
この時間に校舎に入るといくらなんでも目立ってしまう。
ボンボンにバレたら何を言われるか分かったものではないので、なるべく人に見られないように入らなければいけないのだが、
俺はこの間お誂え向きな場所を見つけた。
木から二階の窓の傍の出っ張りに飛び移って、ちょっといったところ、ここ。
ここにベニヤ板で隠されてはいるが、穴があるのだ。
穴は人間の顔くらいの大きさがあるから、俺は悠々と通れる。
ここ最近はこの穴を利用させてもらっているが、全く人間はお馬鹿さんだ。
この穴から泥棒が入ったらどうするんだ。ボンボンが怪我するんじゃないか。
それにしてもちくしょう、出口のポスターが邪魔臭いな。
なんだか良く分からない音がなった。
知ってる、これはチャイムとか言う奴だ。
ということは、時間的にもいい具合だ。
俺は尻尾をぴんと張って図書室へ向かった。
図書室には実は俺がいつも一番乗りだ。
棚の後ろに隠れて、眼鏡をかけた引っ込み思案が来るのを待つ。
引っ込み思案眼鏡は直ぐに来た。
今までは、カーテンを開けてくれたり場所を開けてくれたり、なんやかんや尽くしてくれて、
かつそれを無視すると反応が可愛かったものだが、最近は無視しても
「もう、困るなあ」
しか言わない。
しかも笑っている。絶対困っていない。
だから、近頃は暇だ。
ちょっとすると派手な茶髪も図書室に遊びに来るが、こいつはもっと苦手だ。
引っ込み思案眼鏡が好いているようだから、ずっとここに居座るのも気まずくなってしまう。
今日は図書室をうろうろ歩きまわってみよう。
ちょっと待ってると、短髪眼鏡が来た。
図書室に来る奴なんて、大体眼鏡だらけだ。
「あら、あなたまた来たのね」
と言って笑っている。
存外こいつは頭を撫でるのが上手い。俺もつい犬のようにやられてしまう。
それから、長髪眼鏡が来た。
こいつは俺に見向きもせずに本を読みつづけるから嫌いだ。
いくらなんでも完全に無視されるのは寂しい。
そうして、最後にボンボンだ。
「高橋さん、真鍋さん、こんにちは」
などと礼儀正しく言っている。
昨日なんかは宿題が終わらないと言って俺をひっぱたいたくせに、よくもまあこうも猫をかぶれるものだ。
本職の猫から言っても感動的なくらい、上手に猫をかぶっている。
今すぐ化けの皮をひっぺがしてやりたいが、怒られるのは嫌だから俺は本棚に隠れた。
静かな時間が流れる。
実を言うと、俺はこの感じが好きだ。
紙と糊の匂いが鼻孔をくすぐる。頁の摺り合う音が心地いい。
「ところで、真鍋さん」
だから、俺はボンボンが嫌いだ。
「どうして胸ってセックスアピール足りえるんでしょうか」
黙れよホントにもう。
「……それは、どういう意味かしら」
短髪眼鏡も不思議そうな顔をしている。
しかし、困ったことだ。
「単純に胸が大きいほうが遺伝子的に優位だと認識しているから、じゃないのかしら」
こいつは割と話に乗ってくる。
俺は悲しくなりながら、こいつらの会話に耳を澄ませる。
「それがどうしてか、って話ですよ。例えばお尻なら、安産型とかいいますし、遺伝的に優位だというのもわかります」
分かるのかよ。
「しかしですね、胸が大きいというのはどうなんでしょう。
人間が野生動物であったときのことを考えてみると、これはハンデでしか無いじゃないですか」
「なるほど、確かに敵から逃げるのが遅くなるものね!すごいわ純ちゃん」
なんでそんなに楽しそうなんだ。
「えへへ。それでですね、やはり胸がセックスアピールになるのはどう考えても不自然でしょう?
病弱に魅力を感じるくらい可笑しいことです、生物的に考えると」
「そうね。しかし、もしかしたら胸は生物的ではなく社会的欲求に答えているのかも知れないわ。
病弱と同じく、生物的に不利な面を見ることが、社会性を持つ動物としての人間の理性に訴えかけるんじゃないかしら」
「あー、確かに弱そうな子を見ると守ってあげたくなりますもんね」
嘘つけよテメエ。
「優しいのね」
優しくないよ。逆博愛主義だ、そいつは。
「いやー、私って昔から正義感強くて……」
それからしばらくボンボンの独り語りが続いた。
共同生活を営んでいる俺からすれば、八割方嘘だった。
こいつがしょうもないことをしゃべり続けている間、長髪眼鏡は黙々と本を読んでいて、大したもんだと思った。
「それで言ってやったんです、私の本質は身体ではなく魂に、つまり物体ではなく精神にあるのだと。
すると彼は感涙を流し、そして……」
数分ほどボンボンはしゃべり続けていた。
俺も好い加減眠くなってくる。
短髪眼鏡も、途中からは本を読みながら、話半分に聞いていた。
それが、急にひらめいたように口を開いた。
「ねえ、思ったんだけど、胸の大きい人って基本的にお尻も大きいじゃない?」
「あ、その話しに戻りますか」
その話に戻るんだ?
「うん、もどるの。それでね、つまり胸はお尻と連動した評価基準となっているのよ。
それで、人間の歩行体勢から考えても胸のほうがより見え易いから、胸が目立ったアピールポイントになるんじゃないかしら」
「なるほど、つまり本体は尻だと!」
「そう、胸は幻影、写像でしか無かったのよ。イデアは胸にあったの!」
何を言っているのか良く分からない。
長髪眼鏡も心なしか苛立っている様子だ。
「そうだったんだ……じゃあ、豊胸って虚しいですね」
「そうね、看板ばかり整えて、店はぼろいようなもんよね。詐欺ね」
「しかし胸が重要な性徴だということは分かりましたね!」
「ええ、だからこれからもブラジャーを着けましょうね?」
「はい!」
俺は静かに立ち上がり、図書室を後にした。
いいかげん黙ってよ、と悲痛な叫び声が聞こえてきたが、俺は振り返らなかった。
ボンボンが楽しそうで何より。
家に帰って、また本を読んでいるところに寄って行くと、頭を撫でられた。
短髪眼鏡のほうが上手だったが、いい気分なので、撫でられてやった。
「……毛玉はかないでよ?」
おまえが言うなよ、頭に毛玉付けてるくせに。
俺はそう言って、ごろりと横になった。
にゃあ。
梓「桜ヶ丘高校奇譚クラブ」
近頃純は、昼休みになると直ぐに図書室に向かう。
お陰で昼食は憂と二人ぽっちで食べている、
憂に不満をこぼすと、
「そのうち飽きるよ」
と言って笑っていた。
しかし一向に飽きる気配がない。
「そろそろ寂しくなってきたねえ」
と憂も言っていたので、私たちも図書室へ向かうことにした。
お昼時の柔らかい日差しの中で、特に用事もないのに図書室へ行くなんて、馬鹿馬鹿しい事この上ない。
純のせいだ。
歩みを進める間、自然と苛立ちは募っていく。
途中、憂に呼び止められた。
「歩くの速すぎるよ」
図書室へ着くと、相変わらずの空気だ。
窓とカーテンを開けようかと思ったが、日光に当てると紙は痛んでしまう、とどこかで聞いたので、止めた。
純は偉そうに分厚い本を机に載っけて、頬杖を突きながら読んでいる。
私と目が合うと、
「おお、梓、どうしたの」
と言った。
憂がにこにこ笑いながら、
「梓ちゃん寂しがり屋だから」
と言ってきたので、私は彼女の口を塞いだ。
全く気にくわないことだが、カーテンの隙間からわずかに漏れる陽の光を浴びて、
柔らかく頁をめくる純は、やけに大人びて見える。
純は憂の言葉を聞いたのか聞いていないのか、小さく微笑んだ。
「梓も本読めば。これ、面白いよ」
そう言って、純はそばに置いてあった文庫本を私に手渡してきた。
表紙とタイトルから察するに、モダンホラーのようだ。
「オカルト嫌いだもん」
そう言って私はその本を机の上に置き、本棚へ向かった。
本棚はまるで、どこまでも続いていくようだ。
ふと手にとってみた本は、昭和四十年に出版されたものだった。
またある本は、どうやらドイツ語の原書らしかった。
本だけがぎっしり積まれている棚を眺めていると、ぐるぐるぐるぐる、目が回る。
本を開くたび、ずらっと並んだ活字に辟易した。
こんなに大量に並んだ文字が、全部何かの意味を指し示しているなんて、不思議だ。
さらに、それだけでない何かも感じる。
本の中に、全く別の、この世界のどこにもないものが詰まっているような、そんな感じ。
私は数十秒、呆然として本を眺めた。
にゃあ。
後ろで小さな猫の鳴き声がした。
そっと近づいていくと、本棚の影に猫は丸まっていた。
おかっぱ頭の、無表情な生徒の膝の上で、気持よさそうにしている。
「どうしたのかしら」
その人は、そこに置かれた丸椅子に座って、両手で開いた薄い写真集か何かを眺めたまま、淡々と言った。
「え、私ですか?」
私は思わず訊き返す。
あんまり彼女の表情に変化がないものだから、果たして彼女が私のことを認めているのかどうかすら、怪しかった。
しかし、その女性はぱたんと写真集を閉じて、じっと私を見つめてきた。
「あなた。流石に、私も猫に話しかけたりはしないから」
ちなみに私は猫に話しかけたことがある。
だから、少し恥ずかしくなった。
その女性はお構いなしに、相変わらず抑揚のない喋り方で続けた。
「本をずっと眺めていたじゃない。どうして?」
なああ、と猫が鳴いた。
どこかで見た覚えのある猫だ。
私はまた本棚を眺めて、溺れるような感覚を味わって、何故か至極素直に言った。
「不思議だな、と。ただの文字の羅列が、こう、なんていうか」
どもった私を見ても、その女性はくすりともしない。
ただ、目を伏せて猫を撫でて、相変わらずの調子で言う。
「言語は、基本的に現実世界のあるものを指し示す記号だと考えられてきたわ。
けれど、逆に言語が人間の意識内の世界を分割して、意味を持たせる、という考え方もあるみたい」
そこまで一息で言って、疲れたように本を棚に戻した。
そして、真っ直ぐに私の目を見つめて、言った。
「そんなところかもしれないわね」
それを聞いて、私はまた本棚を眺め回してみた。
不思議だ。
じゃあ、もしかしたら……
「じゃあ、もしかしたら。言葉は、同じものを指しているとは限らないかも知れない、んですか」
「そうかもしれないわね。とある地方の原住民は、雪を幾通りもの言い方で表現するそうよ。
私たち日本人も、風や雨なんかが大好きみたいね」
時雨、春雨、五月雨、霖雨、地雨、霧雨……云々。
ざあ、と細い線のような雨が、私の頭を一杯にするような気がする。
不思議なその人は、なんでもないかのように私に尋ねた。
「オカルトは嫌い?」
曖昧に誤魔化すことも選択肢として浮かんだが、この人に対しては、それはしてはならないような気がする。
「嫌いです」
「そう。私は好き。どうして嫌いなのかしら」
「だって、嘘っぱちじゃないですか」
「そうかもね」
それっきり、その人は黙りこんでしまった。
退屈そうに、本棚から本を取り出そうとして、やめた。
そうして、また私を見つめてくる。
「ところで、こんな話があるの……」
彼女は相変わらず淡々としている。
私は無理やり頭の中に言葉を詰め込まれるような、変な気がした……
あるところに女の人が居ました。
女の人はとても聡明で、また読書家でありました。
女の人には好きな人がありました。
その男性はとても深い思想を持っており、また社交的で、美男子でした。
そんなわけで当然、女性は男性の虜になってしまいます。
女性はまず手紙を書きました。
「あなたの好きなものが知りたいです」
男性は返事をしました。
つらつらと、彼が好むものが書いてありました。
女性はそれを全部覚えました。
女性は手紙を書きました。
「あなたが好きな女性のタイプを知りたいです」
男性は前回と同じように返事をしました。
女性はなるたけその像に近づこうと、努力を怠りませんでした。
女性は何度も何度も男性に手紙を出して、男性は何度も何度もしました。
そのうち話題はだんだん深く、思想や人生観といったところまで入って行きました。
女性は男性からの返事をすべてとってありました。
彼女は本当にその男性が好きだったのです。
そのうち、男性と女性は恋人同士となりました。
それでも彼女たちは毎日のように手紙をやり取りしました。
ある日、男性が女性の部屋に訪れたついでに、勝手に机周りを片付けてしまいます。
それからすぐに、後生大事にとっておいた手紙が亡くなったことに気がついて、女性は死にました。
「おしまい」
「……は?」
私はぽかんと口を開けて間抜けな声を上げた。
おかっぱ頭の人は、くすくす笑って、言った。
「変な顔」
私は無性に腹が立ってきた。
「なんですか、今の話」
「恋人の後を追って自[ピーーー]る女性の話」
「死んだのは女性だけじゃないですか」
批難がましく言う私を、彼女は不思議そうに見つめてきた。
「どうしてあなたは、恋人と聞いて男性を思い浮かべたの?」
「は?」
「女性かも知れないじゃない。もっと言えば、活字かも知れない」
「……手紙ですか」
「そう、言語を通してみる世界が違っていたのなら、手紙の上に描いた像のほうが大切だったかも知れないわね」
「納得行きません」
「そりゃあ、私が今適当に創った話だから、じゃないかしら」
私は言葉を失ってしまう。
彼女はまた、なんでもないかのように立ち上がって、ひらひらと私に手を振った。
猫が膝から飛び降りる。
「オカルト臭いのもたまにはいいでしょう? 本当じゃなくても、それなりに意味はあるから」
そう言って、出口へ歩いて行く。
猫はもう一つ、なあ、と鳴いて、どこかへ歩いて行った。
ひとりぽっちで取り残される。
周りの本を見てみると、以前より一層奇妙な気持ちになった。
色んな物が混ざった沼の中に溺れてしまうようだ。
そして、ぞっとすることに、それは心地良くもある。
「梓ちゃん」
ぽん、と後ろから肩を叩かれて、私は飛び跳ねた。
振り向いてみると、憂が大きく目を見開いて立っていた。
「……あ、あのね、和さんが、昼食取りたいなら準備室使えばいい、って言ってくれたんだけど」
「ああ、そう……うん、わかった」
何が分かったのか良く分からないくせに、私は分かったと言った。
案外そんなものなのかも知れない。
私はそこを出て、図書室の扉を閉めて、近いうちにまた来るだろうと思った。
来なくても、来るだろうと思った。
急にノリが軽くなったことを感じつつ、やっと話の决着点が見えてきたのを喜びながら、こんなかんじです
元スレ
純「ゴールデンガール!」
3: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/07(月) 18:08:50.30 ID:xFxtMZ4Ao
図書館は少し苦手だ。特にこういう昼休みなんかの、ほとんど人がいない学校の図書館。
あんまり静かすぎて、却って落ち着かない。
ページを捲る音だとか、指で拍子を取る音だとかが不自然に大きく聞こえてきて、どことなく不気味な気さえする。
「あーずさ、帰ろうよ」
私は頬杖をついて、雑誌のバックナンバーを読みながら言う。
長いツインテールの友人は熱心に音楽理論の本なんかを読んでいる。
結構なことで。
「帰れば。私はもうちょっといるから」
自分で誘っておいて勝手なものだ。
独りで帰るのも虚しいし寂しい。
私は立ち上がって、ぶらぶらと本棚の間を徘徊し始めた。
参加した紙の匂いがする。
世界の名著、世界の文学、うんぬん。
誰が借りるのかも分からないような分厚い本が並んでいる。
そのくせ、手にとって貸し出しカードを見ると、誰かしら借りた形跡がある。
「ゴーリキー……トルストイ、A.トルストイ」
随分と筋肉質そうな名前だ。
後ろの二人は別人なんだろうか。
「デカルト、ショーペンハウアー、アリストテレス、ウィトゲンシュタイン……青色本?」
指で本棚の本を追っていると、古目の本の中に、明らかに浮いている文庫サイズの本があった。
タイトル通り、真っ青な表紙だ。
ぱらぱらとページを捲り、中を見てみると、言語ゲームだのメタ言語だの意味が分からない。
むう。
小さく唸って、私はその本を元に戻した。
4: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/07(月) 18:11:50.91 ID:xFxtMZ4Ao
哲学から文学へ、本の内容は少しずつ変わっていく。
たまに手にとって眺める本文も、だんだんと綺麗な、抽象的でふわふわ浮かぶような言葉になっていった。
「畢竟」
見慣れない言葉を見つけてつぶやいた。
変な感じがする。どこかに迷いこんでしまったようだ。
その瞬間、図書館独特の不気味さが私を襲ってきて、私は慌てて本を棚に戻した。
突き当たりまで歩いて行って、となりの本棚に移ると、現代小説が並べてある。
その中に、目の惹かれるタイトルがあった。
「The body……体?」
棚から取り出してみると、表紙には線路伝いに歩く少年たちが載っている。
隣には"ゴールデンボーイ"と言うタイトルの本がある。
作者は同じで、恐怖の四季とか言うシリーズの本らしい。
読んでみると、なかなか面白そうな内容だ。
頭が良くなったような気がして、気分が良くなり、その本を持ったまま、私はまた古臭い紙の匂いがする本棚に戻った。
やはり、時間と空間の座標を間違えてしまったような気分になる。
けれど、その中に明らかに現代のものがあった。
「あら」
長い黒髪をしたその女性は、物珍しそうに私を眺める。
丸い眼鏡が似合っている。知性を溢れ出させていた。
「この本棚、あまり使う人いないんだよね」
その女性は親しげに私に近寄ってきて、私が持っている本を指さした。
「ステイーヴン・キング、好きなの?」
「いえ、別にそういうわけでは」
私はさっと目を背けた。
女性は胸に分厚い本を抱えている。
ドストエフスキイだとか、三島由紀夫だとか、ガルシア・マルケスだとかいう作者の名前が、
分厚い本の高級そうな布製の背表紙に書かれてある。
「そう。読書は好きなの?」
女性は少し残念そうな顔をした。
背表紙が私を睨みつけているような気がする。
5: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/07(月) 18:14:51.58 ID:xFxtMZ4Ao
「……いえ、そういうわけでも」
私は、そう言えば彼女がまた落胆するだろうとは思ったが、
時間も空間も超えて貯蔵された叡智と芸術の中で、彼女に嘘を付くことは不可能であるように感じた。
結局、曖昧に濁すことも出来ずに、私は言った。
「好きじゃないです。というか、漫画くらいしか読みませんね」
しかし彼女は優しく微笑むだけだった。
「そうなの。ちょっと残念」
そう言って、女性は柔らかい足取りで私から離れていった。
髪の毛が無風の屋内でも揺れている。
私は自分の癖毛を触って、溜息を付いた。
梓のところへ戻ると、怒られた。
「どこ行ってたの。帰るよ」
酷い。
私は少し苛立ったけれど、気を取り直して本をカウンターへ持って行った。
さっきの女性が分厚い本を借りている。
「あら、それ、借りるの?」
「あ、はい。ちょっと読んでみようかと」
へえ、と女性は嬉しそうに笑った。
図書委員が読み込んだバーコードに、高橋風子と書いてあった。
「はい、どうも……じゃあね。図書館、割合楽しいでしょう?」
彼女は分厚い本を抱えて、ひらひらと手を振る。
私はやっぱり、その本の厚みに気圧されて、子供のように実直な言葉で返してしまう。
「どうでしょう」
高橋さんはまた、長い髪をなびかせて帰っていった。
6: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/07(月) 18:17:52.22 ID:xFxtMZ4Ao
ピッ、と電子音がする。
大人しそうな図書委員の子が、遠慮がちに私に本を差し出している。
「あ、どうも」
私が本を受け取ると、後ろから梓が襟元を引っ張った。
「ほら、帰ろ。次の授業は音楽だよ、おんがく」
とても楽しそうだ。
梓の紙も真っ黒で、長い。
当然彼女の髪もふわふわと揺れているのだけれど、どこか、高橋さんとは違うような気がする。
「はいはい、分かったから引っ張らないで欲しい」
そう言って、梓についていく。
図書室を出ようとしたとき、後ろから声をかけられた。
「あの」
振り向いてみると、図書委員の子だった。
恥ずかしそうに、拳を握りしめて、精一杯笑っている。
「ゴールデンボーイ……同じ作者の。あれも、ちょっと方向性は違うけど、面白い小説ですよ」
この短い会話だけで、彼女が引っ込み思案だと分かる。
なんとなく私も恥ずかしくなって、頭を掻いていった。
「そうですか」
図書委員の子はぱあっと笑った。
「そうです」
なんとなく、ほんのちょっぴりだけれど、図書館も面白いかも知れないと思った。
図書委員の子の髪も、短く結われているけれど真っ直ぐだった。
7: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/07(月) 18:20:52.92 ID:xFxtMZ4Ao
梓に急かされてとっとと音楽室へ向かう。
梓はすごく楽しそうだ。
私の背中には、梓に言われて部室から持ってきたエレキベースがかかっている。
「梓ちゃん、すごく活き活きしてるねえ」
憂がポニーテールを揺らして歩きながら微笑む。
全くその通り、私がついていけない程のスピードで歩くせいで、長い髪はぶんぶんと揺れている。
「だって、憂も純もなんだかんだで真面目にセッションしてくれるし」
「あんなの、適当に合わせてるだけだよ。あれで真面目って……」
私がそこまで言うと、梓は心底悔しそうな顔をした。
「痛い所突いてくるね、純……」
私は、軽音楽部は普段どんななんだ、という言葉は飲み込んでおいた。
授業が始まると、梓は早速ギターをじゃかじゃか鳴らし始めた。
指のストレッチだの運指練習だのはすっとばして、楽しそうにコードアルペジオをしている。
私は適当にベースを弾いて、窓から図書室のほうを眺めた。
なんとなく、やはりあそこだけは違う時間が流れているような感じがする。
今までは嫌いだったのが、ちょっとうっとりしてしまう。
「……純」
梓が寂しそうな声を上げた。
気がつくと、私は演奏をやめてしまっていた。
「部活で練習しないからさあ……授業中くらい真面目に音楽したいよ」
「ごめんごめん」
私は梓に向き直り、またベースを弾きだした。
憂は相変わらずにこにこと微笑んでキーボードを演奏している。
私は指の動きと、溢れ出る音とに身を埋めて、その授業中過ごした。
ついでに、そのまま放課後の部活も過ごした。
8: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/07(月) 18:23:53.74 ID:xFxtMZ4Ao
なあ。
猫が鳴いている。梓に、勝手に二号扱いされた可哀想な奴だ。
「私は読書に勤しんでるんでーす」
ごろり、と一つ寝返りを打って、猫を追い払った。
猫は不満げに、も一つ鳴いて、私から離れていった。
読んでいる本は当然、今日図書室で借りたスティーヴン・キングのThe bodyだ。
少年たちがやけにはしゃいでいるので何事かと思ったら、死体を探しに行こう!だなんて言っている。
なんて不謹慎な。
しかし話はすごく面白い。
私もちょっくら外に出て、暫く歩きたくなってくる。
そうこうして大分読み進めたとき、やっとThe bodyの訳が"死体"だということに気がついた。
「趣味悪う……」
私は寝転んだまま本を読んで、呟いた。
9: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/07(月) 18:26:54.31 ID:xFxtMZ4Ao
私にしては珍しく、夜遅くまで本を読んでしまった。
途中から、小説の中に出てきたように、体中にヒルがくっつく想像をしてしまって、中々寝付けなかった。
全く、悪趣味だ。
少し気を緩めると、睡魔に体を乗っ取られてしまう。
私はお祓いのために、激しく頭を振った。
しかし、授業中に一度負けてしまった
「……鈴木、白河夜船か」
「純ちゃーん」
憂に突っつかれて目を覚ましたときには、授業は終礼を迎えてしまっていた。
そんなわけで、昼休みだ。
梓と憂が机をくっつけて、弁当箱を広げている。
「純も早く」
梓に急かされたが、私は軽く手を振って、
「ごめん。私、しばらく文学少女だから」
などと訳のわからないことを言って、図書室へ向かった。
10: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/07(月) 18:29:55.03 ID:xFxtMZ4Ao
図書室の空気を吸い込む。
奥のほうからは酸化した紙の匂いが。
近くからはポップのマジックの匂いが流れてくる。
「あら」
昨日と同じような声を上げて、私を眺めてくる人があった。
高橋さんだ。机の上に、分厚い本を置いて読んでいる。
「今日も来たんだ。いつもは来てないよね?」
高橋さんは本を閉じることはしなかったが、私の目をじっと見つめて言った。
私はまた、素直に答えた。
「来てないです。ただ、昨日借りたのが面白かったので、静かなところで読もうかと思って」
「そうなんだ」
高橋さんはすごく嬉しそうだ。
私は吸い込まれるように、彼女の隣に座った。
隣から彼女の本を覗き込んでみると、酸模、というタイトルの小説であった。
「本、読むんじゃないの?」
くすくすと、高橋さんは笑った。
私は、びっしりと旧字体の字が並ぶ小説を眺めたまま、尋ねた。
「誰の小説ですか?」
「これ? 三島由紀夫の酸模」
「すかんぼう」
「そう。綺麗な文章でしょ?」
私は読書家ではない。
けれど、たしかにその文章はきれいで、書いた人の世界と、時代に吸い込まれていきそうだった。
なによりも、それを全部飲み込んだような、高橋さんの瞳が綺麗だった。
11: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/07(月) 18:32:56.24 ID:xFxtMZ4Ao
「よく分からないですけど、そう思います」
「分からなくても思うことはあるし、感じることもあるもんね」
高橋さんは物知り顔で言った。
私が言っても様にならないだろう台詞だ。
彼女はそれからずっと本を読んでいて、私のほうを見向きもしなかった。
私も彼女に習った。
今までになく、落ち着いた昼休みだった。
そろそろ教室に戻ろうかというときに、図書委員の子が私に声をかけてきた。
「あの、それ、あとどのくらいで読み終わりそうですか?」
「あ、えっと、The body?」
「そうです。よければ、ゴールデンボーイを予約しておきますよ」
昨日と同じ子がカウンターに立っている。
毎日いるのか、大変じゃないのか、と聞くと、その子は笑って答えた。
「どうせ当番じゃなくても図書室には来ますし、それに、割と暇なんですよ」
そう言われてみれば、昼休みの図書室にはあまり人がいない。
寂しいものだが、これがあるべき姿のような気もする。
私は図書室を見渡して、その子に向き合った。
「じゃあ、お願いします。あと一週間位で読めると思います」
「はい。きっとまた来てくださいね」
なんとなく、寂しい台詞だった。
私が図書室を出ると、高橋さんも出てきた。
親しげに私の隣を歩く。
12: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/07(月) 18:35:56.96 ID:xFxtMZ4Ao
「ねえ、えっと……」
その高橋さんの様子で、互いに自己紹介をしていないことに気がついた。
「私、鈴木です。鈴木、純」
「鈴木さんね。私は高橋 風子。よろしくね」
彼女は笑って、肩にかかった髪の毛を払った。
「あのね、鈴木さん、図書館の雰囲気に合ってると思うよ」
「図書館の雰囲気、ですか」
「そう。ごったまぜになったような、空気。酸化した紙と、劣化しない思想の匂いが溢れてる空気」
何を言っているのか、今ひとつ私には理解しかねたが、褒められているのだろうとは思った。
だから、ちょっと嬉しくなった。
「似合いますか」
「うん、似合う。雑食っぽいもん、鈴木さん」
褒められていないのかも知れない。
「そういえば、高橋さんは昼食はどこで摂ってるんですか?」
ちなみに、私は図書室から帰るときに購買でパンを買っている。
「昼食はねえ、教室に戻って友達と弁当突っついてるよ」
「その人も、お弁当食べるの遅いんですね」
「生徒会に入ってるから。ここんところ、今年度の行事についての話し合いが忙しいみたい」
ふうん、と言って、私はその友人を想像してみる。
多分、その人も高橋さんと同じような歩き方をして、同じように髪を揺らすんだろう。
13: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/07(月) 18:38:57.97 ID:xFxtMZ4Ao
「パンは」
もしかしたら、私はちょっとした嫉妬を感じていたのかも知れない。
あったばかりの憧れの人、その友人に、小さな嫉妬を。
「パンは、食べないんですか?」
「パン? ああ、そういえば、ゴールデンチョコパンとかいうのがあるんだよね。あれはちょっと食べてみたいかな」
「ゴールデンチョコパン!」
私は声を張り上げて、駆けだした。
購買についたが、見当たらない。
がっくりと落とした肩を叩かれる。
「どうしたの、鈴木さん。急に走りだして」
振り向くと高橋さんが肩で息をしていた。
ざっと購買を見渡して、言う。
「流石にもう無いよ。一日限定三個だったっけ?」
「ですよねえ……」
一日限定三個のゴールデンチョコパン。
これは、戦争だ。
14: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/07(月) 18:41:58.63 ID:xFxtMZ4Ao
次の日。
私はちょっとした嘘を付いた。
「先生……頭がすごく痛いです」
私の声はとても悲痛そうで、聞いているもの全てに同情の念を起こさせただろう。
「純……」
梓が心配そうに言っている。
先生は板書をやめて、私に向き直った。
「そりゃあ、お前、さっき寝ぼけて頭を机に打ち付けてただろうが」
駄目だった。
心なしか、梓が可哀想な子を見るような目をしている気がする。
私は嘘を付くのをやめた。
「すみません、顔洗ってきて良いですか。眠くてしようがないです」
「ん、行って来い」
私は教室を出て、走った。
こら、と先生がドアから顔を覗かせたが、気にせず走った。
びゅんびゅんと窓が後ろへ流れていく。
その窓の中に、パン配達のトラックが見えた。
角を曲がって階段を駆け下りる。
最後の五、六段ほどは、勢い良く跳んだ。
購買を通り越して、私は外へ出た。
トラックが丁度荷を下ろしている。
そこへ駆け寄って、作業着の男性に声をかけた。
「あの!ゴールデンチョコパンを!」
「ゴールデンチョコパンは……もう購買の方へ運んでるね」
15: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/07(月) 18:44:59.27 ID:xFxtMZ4Ao
無駄足だった。
しかし気を落としている暇はない、私は直ぐに踵を返し、大きく足を踏み出して走る。
購買が見えた、私は勝った!
「あの、ゴールデンチョコパン!」
「ごめんねえ、今売れちゃったよ」
購買のおばちゃんが苦笑した。
私は呆然とする。意味が分からない。
何故、そんなことが?
ありえない、授業中に抜け出してきたというのに、この仕打……
「あ、あの……ごめん、今日、朝は病院行っててさ。ラッキーと思って買っちゃった」
購買の入り口に、派手な外見の女の人がいる。
茶色く染められた髪、着崩した制服の割に、存外態度は丁寧だ。
思わず私は頭を下げた。
「あ、いえ、こちらこそ。どうぞ味わってください」
「えっと、うん、いや……」
ぽりぽりと頭を掻いて、その女性は手に下げている袋のうち一つを私に差し出した。
もうひとつの袋には、ファッション誌やら漫画雑誌、あと、どうみても不自然な文芸雑誌に外人女性のポスター。
それに、メロンパンなんかが入っている。
私に差し出された袋には、ゴールデンチョコパンが入っていた。
「上げる。途中のコンビニでパンは買ってきてるから」
「え、本当にいいんですか!」
「うん。全然オッケー。ちょっと買い占めてみたかっただけだから」
そんじゃあねえ、と言って、手を振って、その女性は階段を登っていった。
いい人だ。ちょっと髪が傷んでいるんじゃないかと心配だが、しっとりと、彼女の髪は体にあわせて上下していた。
「……いい人だ」
なんとなく、私はそう呟いた。
16: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/07(月) 18:47:59.85 ID:xFxtMZ4Ao
教室に戻ると先生に怒られた。
パンの入った袋を持って戻ってきたのだから当たり前だ。
けれど、私はそんなことは気にせず、昼休みになると急いで図書室へ向かった。
相変わらずいい匂いだ。
ごたごたしたこと、いろんな悩み事を、もっと乱雑で深遠な文字の海へ叩き落す匂いだ。
その中に、今日は私のパンの匂いが混ざっている。
「随分と早いんですね」
がちゃ、と準備室の扉を開けて、図書委員の娘が出てきた。
今になって気がついたが、リボンの色からして彼女は三年生のようだ。
ちょっと申し訳なさそうな顔をして見せる。
「ごめんなさい、今はゴールデンボーイ、貸し出されてます。来週までには戻ってきますけど」
「あの」
私はどうしても気になることがあって、彼女の話を遮った。
「名前、聞いてないですね」
「ああ、そうですね。宮本 アキヨです。よろしく」
宮本さんは結われた短い髪を軽く触って、控え目に笑った。
なんで敬語なんだろう。
私がそれを訊くと、宮本さんは私を準備室の中へ入れてくれた。
図書室とはまた違った匂がする。
接着剤の匂いだ。
宮本さんは、少し得意げに、顔を赤らめて言った。
「あのね、私、本が好きだから……図書室では敬意を払いたいの、お客さんに」
この人も、いい人だと思った。
私は自分でも気がつかないうちに、ゴールデンチョコパンを一つ差し出していた。
17: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/07(月) 18:51:00.53 ID:xFxtMZ4Ao
「ここで一緒に食べませんか?」
宮本さんは驚いたように目を見開いて、恥ずかしそうにくすりと笑う。
「うん、喜んで」
宮本さんの髪も、短いながら優雅に揺れる。
そのうち高橋さんが、これまた髪を揺らしながら準備室に入ってきた。
「あ、ゴールデンチョコパン!」
「上げますよ」
「ホント!?」
高橋さんは急いで私たちの隣に座って、チョコパンを食べだした。
頬を押さえて、とろけているような声でいう。
「甘美だあ……流石鈴木さん、授業をほっぽり出して買いに行っただけはあるね」
何故知っているんだろう。
私は弁明しようと、急いでチョコパンを飲み込んだ。
「……サボっちゃったの?」
宮本さんがなにか言いたそうにこちらを見つめてくる。
しかし、何も言わない。
それでいて、高橋さんが
「授業はサボっちゃ駄目だよね。学問をする機会がせっかく平等に与えられてるんだから」
と言ったときには、大きく頷いていた。
やっぱり、宮本さんは引っ込み思案なんだろう。
18: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/07(月) 18:54:01.46 ID:xFxtMZ4Ao
「サボってないです。走って昼休みに買ってきたんです!」
「嘘だあ。立花さんがボンボンの娘にチョコパンあげたって言ってたもん」
「立花さん?」
「ちょっとヤンキーっぽい娘だよ。購買であったでしょ?」
確かに、会った。
もしかして、高橋さんは、ボンボンから私を連想したんだろうか。
私が頬をふくらませて反論しようとすると、宮本さんがゆっくりと口を開いた。
若干俯き加減だ。
「でも……でも、いい人だよ。ちょっと見た目は派手だけど」
その時に、分かった。
だから私は、今までで多分一番大人っぽく微笑んだ。
「そうでしょうね」
19: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/07(月) 18:57:02.02 ID:xFxtMZ4Ao
私は今部屋で本を読んでいる。
長い道のりを経て死体にたどり着いた少年たちが、悪ガキたちと対峙している。
死体を前に、何かを感じた少年と、何も感じない悪ガキたちだ。
歩いてここまで来た少年たちと、車で来た悪ガキたちだ。
そばにいてくれ。
いつも強気な少年が、友人に言った。
拳銃を構えて、悪ガキたちを追っ払う……
「……終わっちゃったなあ」
チョコパンを食べて、その日の授業を終えて家に帰ってから、気がつけば夢中になって本を読んでいた。
宮本さんが進めてくれた"ゴールデンボーイ"を借りるまでに一週間間が開くかと思うと、少し憂鬱でさえある。
なあご、と鳴いて、哀れな二号が近づいてくる。
ちょっと撫でて、首もとの跳ねた毛を抑えてやる。
しかし、真っ直ぐにはならない。
「どうしようもないなあ」
なんとなくだけれど、今日思った。
高橋さんも、宮本さんも、もしかしたら立花さんも。
あの落ち着いた居振る舞いと、どことなく不思議な魅力は、歩いてきたから、なのかもしれない。
車に乗らずに、ただ、一生懸命歩いて行く。
そう、読書なんかいい。今、私は文学少女だから。
そうすれば、ひょっとしたら、私も……
20: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/07(月) 19:00:03.10 ID:xFxtMZ4Ao
次の日の朝、私はちょっと早起きをした。
鏡の前で暫く悪戦苦闘して、なんとか外見だけ取り繕って、家を出る。
通学途中に出会った梓が、お、と声を上げる。
「純、髪の毛下ろしてるんだ」
「うん。変かな?」
「いや、そんなことないよ。なんか大人っぽい」
そっか。
ちょっと嬉しくなる。
そうして数歩スキップをして、やはり私は髪をヘアゴムで縛った。
「ありゃ、結局縛るんだ?」
「今はまだ、これでいいよ」
しばらくは、これでいい。
私がちょっとしたことで浮かれてスキップをしないようになったら。
自分の瞳の中に、人を引きこんでしまうような世界を持てたら。
その時はまたヘアゴムを外そう。
21: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/07(月) 19:03:03.78 ID:xFxtMZ4Ao
唯「音楽準備室のリタ・ヘイワース」
22: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/07(月) 19:06:04.34 ID:xFxtMZ4Ao
音楽準備室の壁に穴が開いているのを見つけた。
不思議なことに、その穴は外人女性のポスターで隠されている。
明らかに何らかの器具で穴を広げたと思われる痕跡があって、私はますます首を傾げた。
誰が、どうしてこんなことを?
泥棒だろうか?
だとすると、ちょっと怖い……
23: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/07(月) 19:09:04.81 ID:xFxtMZ4Ao
「はあ、穴?」
休み時間に相談すると、姫子ちゃんは不思議そうな顔をした。
私だって同じ気持ちだ。
「穴……でも、なんで私に相談するの?」
だって、姫子ちゃん強そうだから。
「これまた微妙な……ま、いいけど。ちょっと観に行こうか。昼休み、まだちょっとあるし」
姫子ちゃんは頼りになる。
和ちゃんとはまた違った方面で。
それに、学校の壁に穴が開いている、なんて、生徒会長の和ちゃんに言う勇気は、私にはない。
姫子ちゃんはさっさと歩いて、音楽準備室の扉を勢い良く開けた。
ざっと見渡して、手を広げる。
「穴なんて無いじゃん」
あるよ、ほらここ。
「あ、本当だ。ていうか、このポスター……」
えっちいね。
「え、うん、なんかごめん。でも、これ泥棒でも何でもないと思うよ」
どうして?
「いやあ、ちょっと言いたくないかな。えっちいとか思われたくないし」
そんなことを言って、姫子ちゃんはじっと穴とポスターを見つめる。
そして、けらけらと笑い出した。
「あはは、結構愉快なことするなあ。うん、ちょっとイメージ変わったかな」
そんなもんかな、やっぱ、なんて言いながら、姫子ちゃんは音楽準備室を後にした。
24: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/07(月) 19:12:05.83 ID:xFxtMZ4Ao
私はしばらくポスターを眺めて、それを捲り穴を見て、縁を触って、教室へ戻った。
教室では、風子ちゃんと和ちゃんが弁当をつっつき合っていた。
「最近本の返却が遅れてる人が多いみたいだよ。アキヨが困ってた」
「そうなんだ」
「そうなの」
風子ちゃんが訴えかけるような目で和ちゃんを観ている。
和ちゃんは何かに気づいたように、ため息を付いた。
「なんとかしろってのね」
「うん、まあそんなとこ」
和ちゃんがなんとかすることなの?
「そりゃまあ、生徒会の建前としては、健全で規律正しい学園生活を守らなきゃだから」
規律正しいって、例えばなにか壊しちゃったりしたら、和ちゃんに怒られるってこと?
「……なに、唯、あなたなんか壊したの?」
和ちゃんがじとっと睨みつけてきたから、私はすごすごと退散した。
25: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/07(月) 19:15:06.49 ID:xFxtMZ4Ao
気になる。穴がとても気になる。
珍しく放課後の部活で練習をしていても、気を抜くと準備室のほうを見てしまう。
あの、中指の先から第二関節くらいまでの深さしか無い、小さな穴が、何故ポスターなんかで隠されているんだろう。
その日部活を終えて、私はしばらく音楽室に残った。
やはりどうしても我慢ができなくて、準備室のポスターを捲る。
穴が広がっていた。
掌ほどの大きさしか無かった穴は、今では人間の頭より少し大きいくらいになっている。
そして、中指が全部埋まるくらい深くなっている。
私はぞっとして学校を出た。
校門の傍まで走っていき、肩で息をする。
夕陽が校舎を照らす。
あそこだ。あの、外から見れば何の変化も認められない、あそこの壁。
その内側で、少しずつ穴が広がっている……
「唯ちゃん?」
突然名前を呼ばれて、私は飛び跳ねた。
後ろで、柔らかい金髪の女の子が怪訝そうな顔をしていた。
26: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/07(月) 19:18:07.36 ID:xFxtMZ4Ao
「なにしてるの?」
なんでもないよ。
「……本当に?」
本当だってば。
「そう」
ムギちゃんは、何をしてるの?
「私はね、図書館に行くの。本返さないといけないから……図書館警察が来ちゃうしね」
ムギちゃんはくすりと、妖しく笑った。
ぞく、と背筋が凍るような思いがする。
私は恐る恐る、図書館警察について尋ねた。
「図書館警察はね、その名のとおり、図書館の警察なの。
期限が切れても本を返さない人がいると、その人の家に行って本を持ってっちゃうのよ」
それだけ……別に怖くないよ?
「本当に? 本当に怖くないの?」
ムギちゃんが目を見開いた。
私はその視線に射られて、動けなくなる。
「そう……唯ちゃんは図書館警察が怖くないの……そうなの……」
くすくすと笑いながら、ムギちゃんは図書室のほうへ歩いて行った。
私は走って家へ帰った。
27: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/07(月) 19:21:08.11 ID:xFxtMZ4Ao
家に帰って、すぐに部屋にあがり、布団に潜り込む。
そして、視界に入ってしまった。
少し開いたドア、その間には、ただ空間があるばかりだ。
なにかがいるわけでもないが、空間がいる。
時間と一緒に、けたけた笑っている、そんな気がする。
怖い。怖い、怖い、怖い……
図書館警察は怖い。
頭の中は、ちょっと話しに聞いただけの図書館警察でいっぱいだ。
多分、図書館警察は、あの穴から出てくるんだ。
本の返却期限が迫るに連れて、あの穴が大きくなっていくんだ。
どろどろと、まっくろな塊が穴から出てきて、少しずつ不恰好な人の形をなしていくところを想像して、私は口を抑えた。
電話がなった。
「お姉ちゃーん、電話出てくれる?」
夕飯を作っているらしい妹が、大声で私を呼ぶ、
私はそろそろと階段を降りて、電話をとった。
綺麗な女性の声が聞こえてきた。
優しい声だったが、その第一声が……
「こんにちは!図書館警察です。お宅の憂さん、返却期限を守ってくれないんですね?
スティーヴン・キングのゴールデンボーイ。返してくれないんですか、どうしてですか……」
28: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/07(月) 19:24:08.92 ID:xFxtMZ4Ao
私が唖然として、ただ受話器の声に耳を澄ませていると、その声は突然切れた。
次いで、掠れた声で歌が聴こえる。
「紙を捲って歴史を眺めて思想を食んでは吐き出して……」
私は受話器を急いで置いた。
そして、リビングから顔を覗かせた妹を無視して、再び私は全速力で学校へ向かった。
穴を塞ぐんだ。
穴を塞いじゃえば、きっと大丈夫だ。
そう何度も自分に言い聞かせても、流れる冷や汗を止めることは出来なかった。
汗が流れていく、風景が後ろへ飛んでいく。
そうして、学校についた。
さっきまでの威勢はどこへやら、急に私の足は動かなくなった。
それでも、無理に動かして、一歩ずつゆっくりと音楽準備室へ向かう。
しかし、見つけてしまった。
もう、穴が開いている。
真っ暗な、顔くらいの大きさの穴は、音楽準備室に続いている。
出てくる、きっと出てくる、図書館警察が、私の妹を連れに……
「あ……うああ……憂……」
「やっほー!図書館警察でーす」
ムギちゃんがにこにこと笑って穴から顔を出したときには、私は泣き出していた。
29: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/07(月) 19:27:09.70 ID:xFxtMZ4Ao
「あの、本当にごめんね……そんなに怖がってるなんて思わなくて」
怖いよ……
「いや、もっと、ドッキリ大成功!みたいなノリになるかと思ったの……」
……穴、ムギちゃんが開けたの?
「うん、このあいだ掃除したときに見つけて、なんとなく面白そうだと思って」
面白い?
「うん。ちょっと、悪いことをしてみたくなってしまいました……姫子ちゃんからポスターを貰って隠したりもしました……」
ムギちゃんがシュンと肩を落とした。
私も大分落ち着いてきて、なんだか面白いと思えるようになってきた。
「広げたはいいけど思ったより使い途がなくてね、こんなふうに使ってしまいました……」
そう。割と面白かったよ?
「ホント!?」
うん、ちょっと怖かったけどね。
「うふふ、唯ちゃんならこういうの怖がると思ったわ……想像力あるもんね?」
その時のムギちゃんの顔は、なんていうか、旧知の友人みたいな、気のおけない姉妹みたいな優しさがあった。
そんなことがあってから、私はたまにモダンホラー小説を読んでいる。
思うに、人を怖がらせるには、喜ばせるのと同じくらい、その人のことを知っていないといけないのだ。
証拠もある。
30: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/07(月) 19:30:10.34 ID:xFxtMZ4Ao
「ばあ、図書館警察だー!」
「きゃー」
ある日、私が穴から顔をのぞかせると、ムギちゃんは胸に鞄を抱えて、私を見上げて微笑んだ。
「可愛いよ」
そう言われたとき、私はすっごく、嬉しかったんだから。
43: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/09(水) 21:21:49.98 ID:AkYKfhzZo
和「図書館警察」
44: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/09(水) 21:24:50.83 ID:AkYKfhzZo
電子音がなって、私は目を覚ました。
朝日が私の顔を照らして眩しいから、私は布団を顔のあたりまで引っ張ってみたが、如何せん日光は強い。
結局私は朝日を浴びて起きた。
階段を降りて、顔を洗ってから、洗面所の前で跳ねた髪を撫で付ける。
短い髪がいろんな方向に跳ねていて、なんともみっともない。
特に耳の辺りはどうにもならないほど癖が強い。
耳回りは諦めて、他を櫛ってから歯を磨いた。
制服に着替えた後、朝食を摂りながら、今日の予定を確認する。
今年度の行事、さしあたっては体育祭の話し合いが、今日も生徒会室である。
しかも、よりにもよって昼休み。
これのせいで、私はここのところ昼食をとるのが遅れてしまっている。
そういえば、他にも友人に頼まれていたことがあったっけ。
忙しいというのは、即ち充実しているということでもあるけれど、いくらなんでも少し疲れてきた。
「いってきます」
朝から憂鬱な気分で家を出た。
45: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/09(水) 21:27:52.30 ID:AkYKfhzZo
日課として、私は毎朝幼馴染の家に向かうことにしている。
彼女の名前は唯、ついでに妹は憂だ。
彼女はまったくだらしがなく、妹に起こしてもらわなければ、寝坊をしないことのほうが珍しいくらいである。
けれど、その天真爛漫な性格からか、私も彼女の妹も、彼女の世話をするのをそこまで嫌がっていない。
あまりよくないことだとも思いながら、私は彼女の家に着き、インターフォンを鳴らした。
「はーい……あ、和ちゃん」
洒落た洋風建築から、私と同い年くらいの女の子が顔を覗かせる。
応対したのは彼女の妹であった。
姉と正反対にしっかりしたこの娘は、柔らかい髪を縛ってショートポニーにして、エプロンを着けている。
「お姉ちゃんねえ、もう学校行っちゃったよ。珍しいよね」
「あら」
と言って、私は続けるべき言葉を見つけられなかった。
ただ、そうね、とだけ返しておく。
すると彼女は一旦家の中に引っ込んで、しばらくするとお弁当を入れた布鞄を二つと、通学鞄を持って出てきた。
「じゃあ、学校行こうか。お姉ちゃんがいないと遅刻する心配もないね?」
こうは言うけれど、憂は姉の悪口をいうふうでもなく、ただ、今日はちょっとのんびり歩ける、くらいの気持ちのようだ。
小さく伸びをすると、結った髪が揺れた。
46: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/09(水) 21:30:52.98 ID:AkYKfhzZo
「そういえばさ、最近お姉ちゃんが学校の図書館に入り浸ってるの。中々似合わない気がしない?」
唯はあまり本を読むのは好きではなかった記憶がある。
じっと座って本を読むよりは、外を歩き回るような子だ。
精神から外界に出て文字として固着した思想よりは、生きた会話の端々から、何かを掴もうとする子だ。
そんな彼女が図書館でおとなしく座っているというのは、なるほど言われてみれば少しおかしな気がする。
「そうねえ……でも、あの娘移り気だから、そのうち飽きるでしょうよ」
そう言うと、憂も同意して首を縦に振った。
事実唯は飽きっぽい。
唯は軽音楽部に所属しているが、ギターを飽きずに続けられているのが不思議なくらいだ。
とは言え夢中になったときの集中力はなかなか凄まじい物もあるので、短い間でも、彼女は結構な量の知識を書物から得るかも知れない。
ちょっと楽しみだ。
そうこう話しているうちに、学校についた。
47: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/09(水) 21:33:53.74 ID:AkYKfhzZo
「じゃあねー」
手を振って憂と別れる。
階段を登ろうと足を踏み出すと、上から名前を呼ばれた。
「あ、のどか」
そのまま、たた、と階段を駆け下りてきて、名前を呼んだ女の子は、じっと私を見つめた。
顔にかかった長い黒髪を払うと、横に長い楕円形の眼鏡の奥に瞳が見える。
「図書館の件、どうなったの? 無理なら無理で別にいいんだけどさ」
そういえば、そんなことを頼まれていた。
確か、返却期限を過ぎても本を返さない生徒が多いから、なんとかしてくれ、とか。
正直、それを生徒会に言われても困るのだが、仲の良い友人からの頼みを無下にすることも出来なかった。
「ああ、あれ、は……宮本さんと今日の昼休み、詳しく話しあいましょう。
現状の把握もできてないまま勝手に行動するのも不味いし」
私が言うと、彼女は納得したように頷いた。
そのまま並んで、私たちは教室へ向かった。
彼女は高橋風子という。
いわゆる本の虫で、暇さえあれば図書館にいるような気がする。
何度か、一緒にお弁当を突っついているときに、図書館がいかに素晴らしいか語られたのだが、全く理解出来ない。
ついでに、彼女は宮本アキヨというクラスメイトと近頃懇意にしている。
宮本さんは図書委員をしているそうで、この間は風子が図書準備室で一緒にパンを食べたと言っていた。
割と引っ込み思案に見えて、自分で言えばいいものを、わざわざ風子伝いに私に頼んできたのも、その辺りが原因かと思う。
なんか、面倒くさい。
48: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/09(水) 21:36:54.83 ID:AkYKfhzZo
とは言え、今更断るわけにも行かない。
それに、なんというか宮本さんの頼みも風子の頼みもなんとなく断りづらい。
ある程度こちらが断ることを予想しているような感じがあって、断るのが逆に癪だ。
かりかりとペンを走らせていると、昼休みになった。
早速風子が私の席の近くに来る。
その後ろには、髪を短く結った宮本さんが、俯き加減で隠れている。
「じゃあ、図書館いこう」
風子がしれっと言ってきた。
私は毒の一つでも吐いて、とっとと生徒会室へ向かおうと思ったが、
「あ、でも……真鍋さん生徒会があるって、高橋さん言ってたじゃない……」
などと宮本さんが怖ず怖ずと言うので、私は肩を落とした。
「……直ぐに終わらせてくるから、図書館で待っててくれる?」
それだけ言って、私は教室を後にする。
振り返ると、風子と宮本さんがじっとこちらを見つめていた。
引きこまれてしまいそうで、身が引き裂かれてしまいそうだったから、さっと私は目を逸らした。
49: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/09(水) 21:39:55.65 ID:AkYKfhzZo
腹立たしいのは、昼休みに人を呼んでおきながら、生徒会の話し合いが一向に進まないということだ。
「運動会の父兄参観、準備に手間かかる割には見に来る人も少ないですし、いっそ取りやめにしませんか」
と言う人がいれば、
「建前としては学校での集団教育の成果の発表でもあるわけですから」
うんぬん、などと言う人もいる。
困ったことに、こういう風に意見が割れると大抵の場合は会議が進まない。
だから、私はいつも頬杖を突いて、気持ち半分程度に話を聴くことにしている。
なんとかして早く話し合いを気持ちよく解決させたいものだとも思うのだが、どうにもならない。
意見の相違は価値観の相違で、人生の相違だ。
同時に、それは不快感しか催さない。
「はい」
ぱん、と私は手を叩いた。
「今日はこれまで。残りは放課後に。一応、早いところ運動会と学園祭の二つくらいは決めておかないといけません。
双方、現実的な妥協点を模索していきましょう、では」
こんなことを言って話し合いを終わらせる。
そうして生徒会室を出た後、結局一番偉そうにしている生徒会長の私が、会議中だんまりを決め込んでいたことに気がついて、なんだかおかしくなった。
私は独りでくつくつと笑いながら、生徒会室を出たその足で図書館へ向かった。
50: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/09(水) 21:42:56.19 ID:AkYKfhzZo
扉を開ければ、直ぐに分かる。
図書館には不思議な空気が流れている。
貯蔵されている情報の匂いだ。
時代遅れの腐った匂いだ。
十数年前の新書本、などという矛盾したものを大事に保管してあるところ、どうにも私には図書館は合わないと感じる。
きい、と図書準備室の扉を開けると、少し違う匂いが鼻をついた。
接着剤、か。
図書室とは違って、また不思議な感じがする。
「あ、真鍋さん」
椅子に座って本を読んでいた宮本さんが、私を見つけて控え目に微笑んだ。
私も微笑み返す。
「入っていいかしら?」
「どうぞ」
思えば、図書準備室なんぞに入るのは初めてだ。
大きな机の上には何故か定規やシール台紙なんかが置いてある。
「あ、それブックカバーフィルム……司書さんが忙しい時は、私が貼るの」
そういえば、図書館の本には透明のフィルムが貼ってある。
あれは誰かが貼っているんだという当たり前のことに、今更気がついて、ちょっと感心した。
「へえ、これ」
私が口を開くか開かないかするうちに、宮本さんが一生懸命話しだした。
「あ、あのね、それ貼るのって意外と難しいの……埃が入ったりするとね、台無しになるから。
この間もどこからか入ってきた野良猫の毛がくっついたからピンセットで取る羽目になったし、それに……」
そんなこんなで随分な長口上だ。
話を遮られて少し嫌な気がしたけれど、何故だか宮本さんの話は面白かった。
猫が入ってきていつも邪魔をすること、それでその猫は嫌いなこと、そのくせ猫のために、日が差すようにカーテンを開けていること。
「それでね、せっかく私が開けてあげたのに、全然違うところで日向ぼっこするから……大嫌い」
宮本さんは息を吐き出すように微笑んだ。
それから数秒間沈黙が流れたから、それで私は、この話が一応終を迎えたのだと気づいた。
大嫌い、で終わった割には、彼女は随分と楽しそうだ。
51: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/09(水) 21:45:57.16 ID:AkYKfhzZo
「あのー」
カウンターのほうで誰かが呼んでいる。
見てみると、おかっぱ頭の女の子だった。
無表情で淡々とした喋り方が、妙に図書室の雰囲気にあっている。
はあい、と返事をして、宮本さんは小走りでカウンターへ向かっていった。
机の上に、宮本さんが読んでいる本がある。
『学問のすゝめ』だ。
意外に難しそうな本を読んでいる、もっと小説などを読むのかと思った、
などと考えながら、ぱらぱらと捲ると、ところどころマーカーで線が引いてある。
びっくりして裏表紙のところを確認すると、カバーは貼ってあるが、学校所有の印鑑は押されていなかった。
「あ、ちょっと」
戻ってきた宮本さんに本をひったくられる。
彼女の反応と、本に引いてあったラインを重ねあわせて、妙な気持ちになった。
なんというか、とても悪いことをしてしまったような。
「……勝手に見ないで」
現に、宮本さんも恥ずかしそうに俯いて、大事そうに本を胸に抱えている。
「ごめんなさい」
罰が悪くなって、とりあえず私は謝った。
宮本さんは明るく微笑んで、いいよ、と言ってくれた。
52: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/09(水) 21:48:57.91 ID:AkYKfhzZo
数分ほどまた宮本さんと話していると、図書準備室の扉が開いた。
「あ、のどか遅い」
と不平を言いながら、風子が入ってきた。
どうやら暇に任せてまた読書をしていたようで、胸に分厚い本を抱えている。
風子の後ろには、私より数段癖の強い髪の毛の二年生の女の子が、明るく笑いながら、すこし緊張した様子でついてきていた。
「あの、どうも、鈴木です」
「はあ、どうも」
丁寧に挨拶をされて、つい私も姿勢を正した。
それを見て、鈴木さんはへらっと笑った。
「なんか図書館会議をするそうで。私も参加しようかと思って。図書室好きなので!図書室好きなので!」
何故二回言ったんだろう、と訝しんでいると、風子と鈴木さんはどかっと椅子に座った。
椅子に座るなり、二人ともまるで姉妹のように同じタイミングで本を開いた。
「ちょっとちょっと」
宮本さんが困ったような声を上げると、また二人とも同時に顔を上げて、苦笑した。
風子が言い訳がましく言う。
「ごめんねえ、ここに来たら本開くのが癖になってて」
どうやらいつもこんな感じらしい。
ちらちらと本のほうに目を遣る二人を宮本さんが諌めて、やっと話し合いが始まった。
53: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/09(水) 21:51:58.55 ID:AkYKfhzZo
「ええと、確か本の返却期日を守ってくれない人が多いんでしたよね、宮本さん」
「そう、鈴木さんや高橋さんみたいな、殆ど毎日来る人はちゃんと返してくれるんだけど、
長期休業中に借りたままの人みたいに、普段来ない人が中々返してくれなくて」
「ああ、困ったね」
風子がそれだけ言って、私を見た。
むしろ私は、それで風子の発言が終わりなのかと驚いたくらいなのだが、どうやらもう私が喋る番のようだ。
「っていうか、督促状出しても駄目なら校内放送なり何なりすれば良いんじゃないの。
なんなら直接回収しに行ってもいいし」
至極真っ当な意見のつもりだったのだが、他の三人は溜息を付いた。
「駄目ですよ、えと、ええと」
「真鍋よ。一応生徒会長だから名前くらいは知っておいて欲しかったんだけど」
「すみません。で、ですね、真鍋さん、それされたら嫌じゃないですか」
はあ、と間抜けな声が出た。
「嫌ですよ。それじゃあ図書館に来なくなっちゃうかも知れないでしょ?」
「まあ、そうね」
「それじゃ駄目ですよ」
他の二人もうんうんと頷いている。
そんなものかと思おうとしたが、全く理解出来ない。
「でも、本返してもらいたいんでしょう?」
「そうだよ」
返事をしたのは風子だった。
「でも、人が来なくなるのはちょっとイヤかなあって」
「いや、それは我侭よ」
「のどかなら何とかしてくれるかなって。無理ならいいけど」
私は自分で意識する前に、口に出していた。
「無理じゃないわよ、やるわ」
54: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/09(水) 21:54:59.70 ID:AkYKfhzZo
さて、困った。
なにより驚いたのは、あれで話し合いが終りになってしまったことだ。
私がやる、と言ったらそれでおしまい。どういうことだ。
少し途方にくれて、中庭でぼうっとしていると、とん、と肩を叩かれた。
「どうも」
鈴木さんだった。
軽快な動作で私の隣に座って、ちらとこっちを見てくる。
「真鍋さん、どうするつもりです?」
「……困ったわよねえ」
私がそういうと、彼女は顔を輝かせた。
無邪気な笑みで、図書室の中で見るのと外で見るのとでは全く違った印象を与える。
「ですよね。もしかして真鍋さんもあれで解決したのかと思って、びっくりしちゃいました」
「やっぱりそうよね、あれで話し合い終わりなんて絶対おかしいわよね」
「ええ。それで、もうちょっと話し合いませんか? どうにも不安でならないので」
それで私と鈴木さんとで話し合いを始めたが、全く進まない。
終いには鈴木さんも私も苛々してきた。
「だから、トレードオフだって言ってるじゃないの」
「難しい言葉使わないでくださいよ!とにかく、人が来なくなるのは嫌なんです、なんで分からないんですか」
「だって」
私は常々考えていたことを、そして、当然正しいと思っていることを言った。
「分かる訳ないじゃないの。他人が何をどう考えているのかなんて」
鈴木さんは一瞬目を見開いて、それから頭を掻いた。
まいった、なんて言っている。
私はそれを、じっと見ていた。
55: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/09(水) 21:58:00.62 ID:AkYKfhzZo
「……そうですね、そういうふうに真鍋さんが考えているってことも、私には分からなかったわけで」
なんだか妙にしおらしい。
会ってから十数分、ずっと溌剌だった彼女が急にこんな調子になれば、不安にもなる。
「え、なんかごめんなさい」
「いえ、でもですね、私、そういうの好きです。最近好きになりました」
ふと気がつくと、鈴木さんの目が、風子や宮本さんと同じように見えた。
目を逸らそうと思ったけれど、出来ない。
「そういうの?」
「こういうのです」
それっきり、鈴木さんは黙りこんでしまった。
しようがないので私も黙って中庭を見つめる。
春先だから、どこから種子が飛んできたのやら、たんぽぽが生えていた。
鈴木さんがぼうっとどこかを見つめながら、こんなことを言った。
「誰が何をどう考えているのかなんて、分からないんですねえ……そうですよね」
「なによ」
「いいえ、なんでも!」
鈴木さんが勢い良く立ち上がる。
たんぽぽが揺れた。
「楽しかったです!」
そう言って、彼女は駆けていった。
楽しかった。そう言った。
56: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/09(水) 22:01:01.25 ID:AkYKfhzZo
楽しかった。
意見の相違は、価値観の相違は不快感しか生まないと思っていたのだけれど。
楽しかった、か。
予鈴がなる前に教室に戻ると、幼馴染の唯が、むつかしい顔をして本とにらめっこしていた。
その肩をちょん、と叩いて尋ねる。
「ねえ、唯、それ返却期日は守ってるわよね」
「あ」
と言って、唯は固まった。
恐る恐る貸し出しカードを取り出して、溜息をつく。
「やっちゃったあ……昨日返却だったよ。図書館警察来ちゃうなあ」
「図書館警察?」
「そう。返却期日を守らないと強制的に回収しに来るの。怖いなあ」
私はちょっと黙り込んだ。
またなんか馬鹿な事を言っている、ぐらいで済ますことも出来ない。
「ねえ、唯」
声をかけておいて、その後で私は言葉を探した。
「どうして期日忘れちゃったの?」
唯は満面の笑みで答えてくれた。
「楽しいから」
57: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/09(水) 22:04:01.87 ID:AkYKfhzZo
それから、図書室で本を借りていると思しきクラスメイト何人かに声をかけた。
そのうちには、返却期日を守っていない人もいた。
とりあえず、立場上早く返すように促しておいたけれど、むしろ気になるのは、彼女たちが読んでいる本だった。
立花さんは夏目漱石の三四郎なんかを読んでいて、かなり意外だった。
彼女は髪を茶色にそめていて、軽くパーマも当てている、所謂不良っぽい子なのだが、
純文学の文庫本を片手に、足を組んで頬杖を付き読書に勤しむ姿は中々様になっている。
「立花さん、立花さん」
「うん?」
「それ、面白い?」
「面白いよ」
それっきり、立花さんは本に集中して、私のことは気にかけていない様子だった。
ふと思い出したように貸し出しカードを見て、あちゃあ、と言った。
「ごめん、これ期日過ぎてんね」
「あら、そうなの」
「ていうかこれ春休みから借りっぱなしだ……道理で機嫌悪いはずだよ」
「誰が?」
「アキヨ。悪いことしたなあ」
考えこむように額に手を当てて、黙りこむ。
ちらと私の方を見て、苦笑した。
58: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/09(水) 22:07:03.03 ID:AkYKfhzZo
「どうしたもんかな」
「どうして遅れたの?」
「そりゃあ」
立花さんは嬉しそうに笑う。
「面白いから、何度か読んでるんだ。毎週延長しに行ってたらなんかしらけちゃうし」
唯と同じような笑い方だ。
そっか、と返して、私も笑った。
「怒りやしないわよ、きっと」
なんとなく、だけど。
ちょっと楽しいと思った。
なんども本を読むなんて私はしないけれど、こんな風に楽しそうにそれをする人もいる。
私と違うところが、そのまま彼女の特徴になる気がした。
それだけで、ちょっと彼女のことを知れた気がした。
「図書館警察かあ」
私は独りごちた。
59: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/09(水) 22:10:03.60 ID:AkYKfhzZo
存外、人の話を聴くのは面白い、と思うようになってきた。
昼休み、私は個人的に本を返却していない人のところを訪ねて、その本についての話をしつこく聞かせてもらうことにした。
楽しそうに話をしてくれる人もいれば、不審気に眉をひそめる人もいる。
どちらにしても、大抵はそれで次の日には返してくれている、らしい。
宮本さんから聞いた話によると、だが。
しかし、手ごわい人もいる。
私は今日も中庭へ向かい、体操座りをしているその女の子の隣に腰を下ろした。
「それ、面白い……って、前にも聞いたわね」
「前にも言ったわ」
女の子はちらりとこっちを見て、また、膝の上に置いてある本に視線を戻した。
「どうなったの、主人公は」
「図書館警察を、お菓子で撃退した……なかなか独創的」
図書館警察、というのは、小説に出てくる虫のような怪物のことらしい。
やっと読み終わったのか、と私は微笑んだ。
「そうなんだ……もう一回読むの?」
「読まないよ」
「じゃあ、返すの?」
「返さない」
「じゃあ」
私の言葉を右手で遮る。
おかっぱ頭の彼女は本を口元まで上げて、くすりと笑って言った。
「持ってるの。図書館警察が来るまで」
そうして、読み終わった本を胸に抱えて、ぼうっと空をながめている。
彼女は誰に言うでもなく、独りで呟いた。
「面白いでしょう」
そうねえ、と答えて私は中庭に目を遣った。
たんぽぽが何本も生えている。
時たま触れ合って、揺れている。
あとしばらくしたら、触れ合うたびに種子が飛ぶようになるんだろう。
「楽しいなあ」
私の声は春に飲まれた。
60: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/09(水) 22:13:04.69 ID:AkYKfhzZo
アキヨ「ピッチン!」
61: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/09(水) 22:16:05.36 ID:AkYKfhzZo
私は昼休みが始まってそうそう図書室に訪れて、図書準備室にこもった。
カーテンの開いた隙間から、日光が差し込んでいる。
私は作業台に積んである本を一冊とって、表紙を外してから、その寸法を図った。
棚からブックカバーフィルムを取り出して、本の縦横の長さから2センチ程の余白を取って、切り取る。
本の表紙をティッシュで綺麗に拭いて、埃が舞わないように、そっと窓とドアを閉めた。
ぺり、と台紙から端のほうを剥がして、本の表紙にあてがう。
そのまま、定規を押し当てながら、フィルムを貼り付けていく。
それが終わると、綺麗にフィルムが貼られた表紙を、次は本に着ける。
なあ。
猫の鳴き声が聞こえた。
「……君は」
思わずため息が漏れる。
声のしたほうを見ると、棚の後ろから、猫が顔をひょっこりと覗かせていた。
毛が入らないように、私はまだ粘着力の残っているフィルムをシール台紙に貼りつけた。
「おいで」
私が呼ぶと、猫は私とは反対方向に歩いて行く。
カーテンを開けると、そことは全然別なところで日向ぼっこをする。
ちぇ、と呟いて、私はまた作業に戻った。
「毛が入るから、どこかに行ってほしいな」
そう猫に言ってみるも、猫は私を丸い目で見つめたきり動かない。
私も無視をして、作業に集中することにした。
しかし、猫の毛が一本入ってしまって、どうにもはかどらない。
結局私はいい加減に作業を済ませて、読書を始めた。
62: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/09(水) 22:19:05.84 ID:AkYKfhzZo
その文庫本には、何本も線が引いてある。
気に入ったところとか、よく分からないところとか。
そうしておいて、もう一度読み返すときは、前回自分が読んだ時の思いだとかを呼び起こすようにしている。
今読んでいる学問のすゝめにも、一見すると滅茶苦茶なくらい線が引いてある。
世話の字の義、の章では、"一に保護の義、一は命令の義"というところに何本か線が引いてあるから、
きっと私は前回、その部分がすごく気に入ったんだろう。
どうせ一度読んだものだし、とその部分から読み進めてみると、数ページでその章は終わっていた。
ざっくばらんに言えば、相手のためを思って保護して指図するときは、保護と指図の塩梅を考えましょうね、というようなことが書かれていた。
今度誰かに教えてあげよう。
誰に……そうだ、真鍋さんなんか。
最近よく話しかけてくれるし。
鈴木さんは……まだ、こういう思想本なんかは好きじゃなさそうだ。
ふと思い返してみると、図書館で見る顔が近頃急に増えているような気がした。
不思議な感じだ。
自分の考えにふけって、ページを捲る手を止めていると、準備室の扉が開いた。
63: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/09(水) 22:22:06.74 ID:AkYKfhzZo
「やっぱいた……アキヨ、これ返しに来たの」
茶色い髪をゆさゆさと上下させながら、立花さんが準備室に入ってきた。
その手には"三四郎"という題の小説がある。
春休みに私が勧めてから、今まで返しに来てくれなかったというのも凄い話だ。
「遅かったんだね」
私は言った。
非難がましい口調になっていないか、そればかりが気になる。
「うん、ごめんね。何度か読んでたんだけどさ、昨日真鍋さんに急かされた」
それを聞いて、不安になる。
急かさないようにしてって、言ったのに。
「早く返せって、言われたの?」
もしそう言われてしまったのなら、気分を害しただろうから、私が謝っておこう。
そう思っていたが、意外にも立花さんはおかしくてたまらないといった様子だ。
「それがさ、そうじゃないんだ。なんか"それ面白い、どう面白い?"ってずっと訊いてくるの。
一から説明してあげるんだけど、そうしたらさ、私も読みたいわ、って恥ずかしそうに言うんだよ」
よく考えたものだ、と少し感心した。
「なんか、結構可愛いよ。半分くらい唯が入ってる感じだよね。
そんなわけだから、真鍋さんが借りに来るといけないと思って、返しに来たの」
遅れてごめんね、と立花さんはもう一度謝った。
別に気にしていないから、そう言おうと思ったのだけれど、どうしたことか、言葉につまる。
結局、
「うん」
としか言えなかった。
64: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/09(水) 22:25:07.70 ID:AkYKfhzZo
いつもこうだ。
肝心なところでは、妙に言葉が頭から飛んでいってしまう。
本の感想を聞かれても、おもしろかった、というのが精一杯なもので、酷いときは何も言えなくなってしまう。
この間、鈴木さんにやっとこさ、図書館が好きだと言えたときは、小躍りしそうな気持ちになった。
「アキヨ、ここ座っていいかな。図書室よりは準備室のほうが好きなんだよね」
そう言って、立花さんは椅子を動かして、私の隣に腰掛けた。
彼女の長い髪の毛が私の手に当たる。
少し乾いた感じの、ぱさぱさした手触りだった。
彼女が開いた本を隣から覗いてみると、後書きやら時代背景の解説やらを一生懸命に読んでいた。
しばらくそうして、立花さんは私のほうを見た。
「ねえ、なんか面白い小説ある?」
突然訊かれて、少しどもってしまいながらも、私はなんとか答えた。
「あ、えと、車輪の下とか……」
「誰の?」
「ヘルマン・ヘッセ……おもしろいよ」
またこれだ。
おもしろいだけじゃなくて、もっとこう、社会の不合理だとか理想と現実の剥離だとか、それらしいことが言えたらいいのに、と思う。
けれど立花さんは、にっこり笑って私の頭を撫でた。
「じゃあ、安心だ。アキヨの"おもしろい"は大抵あてになるから」
そう言って、準備室を出て行く。
外で、おおボンボンちゃんだ、なんて声が聞こえた。
続いて、あ、真鍋さん、これ三四郎、とかいう声。
立花さんは社交的だ。
私が気兼ねせずに話せる相手の中で、本の虫の素養がないのにあれだけ私に合わせてくれる人は中々居ない。
もしかしたら真鍋さんはそれに近いかも知れないけれど、立花さんほどじゃない。
なあご、という声がしたから振り向いてみると、先程の猫が訳知り顔でこちらを見ている。
なんだか気恥ずかしくなって、文句の一つでも言ってやろうかと思ったら、準備室の扉が開いた。
65: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/09(水) 22:28:08.83 ID:AkYKfhzZo
「いや、鈴木さんに真鍋さんに高橋さん、なんか面白いことやってんね」
けらけらと笑いながら、立花さんが入ってきた。
扉のはめ込みガラスから図書室のほうを見てみると、高橋さんが本を読んでいるのを、鈴木さんと真鍋さんが見つめている。
耳をすますと、
「ねえ、風子、それ誰の本? 読み終わったら貸してね」
「わかったわかった」
「高橋さん高橋さん、私ソクラテスの弁明読めるようになりましたよ。小説から一歩前進です」
「わかったったら」
などと、二人して高橋さんに話しかけていた。
高橋さんは気にする様子もなく本を読み続けている。
「なにやってんだろうね」
立花さんがまた笑った。
そのときに、ふと猫に気がついたらしい。
不思議そうな顔をして、
「猫だ」
などと私に言ってくる。
「うん、猫だよ」
と私がそのまま返すと、立花さんは優しく微笑んだ。
「可愛いね?」
可愛いだろうか。
背と腹で綺麗に色が白黒に分かれているし、毛も柔らかそうだけど、どうにもその不遜な態度は。
そんなことを思いながらも、立花さんがそばにいると、
「うん、可愛い」
という言葉はすんなりと出てきた。
66: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/09(水) 22:31:10.14 ID:AkYKfhzZo
なああ、と猫は満足そうに鳴いて、大儀そうに準備室を出て行った。
その姿を見て、立花さんはまた笑った。
「そういえばさ、アキヨ、なんだけ、ウィト……えっと」
「ウィトゲンシュタイン?」
「そう、それ。その本、読んだ?」
「まだだよ……青色本が読みたいんだけど、無いの。論理哲学論考はわけが分からなかったし」
「そうなんだ。じゃあやめとこう」
そう言って、立花さんは胸に抱えていた分厚い本を一冊机に置いた。
ウィトゲンシュタイン著作集、とか書いてある。
あまり借りられていない本特有の、手垢のついていない、純粋に酸化した色をしている。
「読もうと思ったの?」
「アキヨに聞きながら読めばなんとかなるかと思って。でも、駄目なら仕方ないね」
それからしばらくヘッセの小説を読んで、貸出手続きをしてから、立花さんは教室に戻って行った。
途端に暇になって、私は返却された本を棚に戻すことにした。
分厚い本、薄い本、合わせて50センチくらいの高さにはなる本の束を抱えている私を見かねたのか、真鍋さんが声をかけてくれた。
「宮本さん、手伝うわ」
半分は真鍋さんが持って、さっさと元の位置に戻していく。
途中、なんで巻順に並んでいないのよ、と苛立った様子で本を並び替えていた。
最後の何冊か、特に分厚い思想本を、哲学書の棚に戻すときに、真鍋さんがあら、と声を上げた。
「あれ、入れる位置間違えてるんじゃないかしら」
真鍋さんが指さす先には、真っ青な文庫本があった。
布製のハードカバーの本と比べて、明らかに浮いている。
手にとってみると、図書館所蔵の印が押してなかった。
67: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/09(水) 22:34:10.79 ID:AkYKfhzZo
「これ、青色本だ……」
私が言うと、真鍋さんはちょっと得意げになった。
「あ、私知ってるわよ。ウィトゲンシュタインでしょ」
いつも生真面目な彼女が、こんなふうに子供っぽく得意そうにしているのは、なんだか面白い。
この、図書館に溶け込めていない本のページをぱらぱらと捲ってみると、中から手紙が落ちてきた。
『読んでみたけど訳がわからない。読んでみて内容教えてね 立花姫子』
と書いてある。
真鍋さんが隣でくつくつと笑っていた。
「ふふ、こういうのもあるのね……図書館て楽しいわね」
私が返事をしようとすると、また、なああ、と聞こえた。
猫が日を浴びて、心地良さそうに丸まっている。
「可愛いわね」
真鍋さんが言った。
私は、青色本を胸に抱えて、傍に立花さんも居ないけれど、微笑んで言えた。
「可愛いね、君は」
猫が満足そうに鳴いた。
71: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/14(月) 18:18:23.75 ID:gcT4ji9so
あずにゃん二号「俺は猫なんだけど」
72: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/14(月) 18:21:24.73 ID:gcT4ji9so
「行ってきまあす」
ぼんぼんが家を出た。
朝から騒がしい奴だ。
近頃は家に帰ってきては本を読んでばかりいて、とうとう気でも狂ったのかと思ったのだが、
この朝の騒々しさから察するに、ありゃあ一時の気まぐれだろう。
「はーいご飯よ」
俺の世話係が食事を持ってきた、
猫まんまを本当に猫に食わせる奴があるか。
心のなかで毒づいたが、他に食うものもないからしようがない。
もうちょっと上手いものを食いたいなあ、と思いながら、すぐに居心地の悪い家を後にした。
外は存外いい天気だ。
そういえば、本は日光に当てると痛んでしまうんだが、あのボンボンは知っているだろうか。
この間見たときは本を読みながら下校していて、車に轢かれやしないかとワクワクドキドキしたのだが。
いや、ドキドキしたのだが。
塀の上を歩いていると、俺が時たま吐く毛玉のようなものが見えた。
案の定ボンボンだ。
隣には、勝手に俺のことを二号呼ばわりしてくれた触覚が並んでいる。
「純さあ、最近付き合い悪くないかな」
「そう? まあここんところは昼休みは図書室行ってるからね」
「私と憂とで二人ぽっちで食べてんだよ?」
「まあ、いいじゃないの」
ボンボンは事も無げだ。
触覚が少し可哀想に思える。
でも正直どうでもいいので、こいつらの話を盗み聞きするのはそれなりにして歩みを進めた。
73: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/14(月) 18:24:25.69 ID:gcT4ji9so
空き地について、塀を降りる。
たんぽぽが生えている。
まだ大体まっ黄色だが、いくらか既に種子を付けているのもある。
いつだかボンボンが、たんぽぽに息を吹きかけて飛ばしていたことがあった。
お前にはできないね、などと俺に言っていた。
思い出すだに腹がたつ。
ぱし、と手で叩いてみる。
種は飛び散ってはすぐに落ちるばかりで、あいつがやったようには飛んでいかない。
ちくしょう。
しばらくそうして時間を潰して、お昼時に学校へ向かった。
この時間に校舎に入るといくらなんでも目立ってしまう。
ボンボンにバレたら何を言われるか分かったものではないので、なるべく人に見られないように入らなければいけないのだが、
俺はこの間お誂え向きな場所を見つけた。
木から二階の窓の傍の出っ張りに飛び移って、ちょっといったところ、ここ。
ここにベニヤ板で隠されてはいるが、穴があるのだ。
穴は人間の顔くらいの大きさがあるから、俺は悠々と通れる。
ここ最近はこの穴を利用させてもらっているが、全く人間はお馬鹿さんだ。
この穴から泥棒が入ったらどうするんだ。ボンボンが怪我するんじゃないか。
それにしてもちくしょう、出口のポスターが邪魔臭いな。
74: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/14(月) 18:27:26.66 ID:gcT4ji9so
なんだか良く分からない音がなった。
知ってる、これはチャイムとか言う奴だ。
ということは、時間的にもいい具合だ。
俺は尻尾をぴんと張って図書室へ向かった。
図書室には実は俺がいつも一番乗りだ。
棚の後ろに隠れて、眼鏡をかけた引っ込み思案が来るのを待つ。
引っ込み思案眼鏡は直ぐに来た。
今までは、カーテンを開けてくれたり場所を開けてくれたり、なんやかんや尽くしてくれて、
かつそれを無視すると反応が可愛かったものだが、最近は無視しても
「もう、困るなあ」
しか言わない。
しかも笑っている。絶対困っていない。
だから、近頃は暇だ。
ちょっとすると派手な茶髪も図書室に遊びに来るが、こいつはもっと苦手だ。
引っ込み思案眼鏡が好いているようだから、ずっとここに居座るのも気まずくなってしまう。
75: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/14(月) 18:30:27.25 ID:gcT4ji9so
今日は図書室をうろうろ歩きまわってみよう。
ちょっと待ってると、短髪眼鏡が来た。
図書室に来る奴なんて、大体眼鏡だらけだ。
「あら、あなたまた来たのね」
と言って笑っている。
存外こいつは頭を撫でるのが上手い。俺もつい犬のようにやられてしまう。
それから、長髪眼鏡が来た。
こいつは俺に見向きもせずに本を読みつづけるから嫌いだ。
いくらなんでも完全に無視されるのは寂しい。
そうして、最後にボンボンだ。
「高橋さん、真鍋さん、こんにちは」
などと礼儀正しく言っている。
昨日なんかは宿題が終わらないと言って俺をひっぱたいたくせに、よくもまあこうも猫をかぶれるものだ。
本職の猫から言っても感動的なくらい、上手に猫をかぶっている。
今すぐ化けの皮をひっぺがしてやりたいが、怒られるのは嫌だから俺は本棚に隠れた。
76: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/14(月) 18:33:27.97 ID:gcT4ji9so
静かな時間が流れる。
実を言うと、俺はこの感じが好きだ。
紙と糊の匂いが鼻孔をくすぐる。頁の摺り合う音が心地いい。
「ところで、真鍋さん」
だから、俺はボンボンが嫌いだ。
「どうして胸ってセックスアピール足りえるんでしょうか」
黙れよホントにもう。
「……それは、どういう意味かしら」
短髪眼鏡も不思議そうな顔をしている。
しかし、困ったことだ。
「単純に胸が大きいほうが遺伝子的に優位だと認識しているから、じゃないのかしら」
こいつは割と話に乗ってくる。
俺は悲しくなりながら、こいつらの会話に耳を澄ませる。
77: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/14(月) 18:36:28.51 ID:gcT4ji9so
「それがどうしてか、って話ですよ。例えばお尻なら、安産型とかいいますし、遺伝的に優位だというのもわかります」
分かるのかよ。
「しかしですね、胸が大きいというのはどうなんでしょう。
人間が野生動物であったときのことを考えてみると、これはハンデでしか無いじゃないですか」
「なるほど、確かに敵から逃げるのが遅くなるものね!すごいわ純ちゃん」
なんでそんなに楽しそうなんだ。
「えへへ。それでですね、やはり胸がセックスアピールになるのはどう考えても不自然でしょう?
病弱に魅力を感じるくらい可笑しいことです、生物的に考えると」
「そうね。しかし、もしかしたら胸は生物的ではなく社会的欲求に答えているのかも知れないわ。
病弱と同じく、生物的に不利な面を見ることが、社会性を持つ動物としての人間の理性に訴えかけるんじゃないかしら」
「あー、確かに弱そうな子を見ると守ってあげたくなりますもんね」
嘘つけよテメエ。
「優しいのね」
優しくないよ。逆博愛主義だ、そいつは。
「いやー、私って昔から正義感強くて……」
それからしばらくボンボンの独り語りが続いた。
共同生活を営んでいる俺からすれば、八割方嘘だった。
こいつがしょうもないことをしゃべり続けている間、長髪眼鏡は黙々と本を読んでいて、大したもんだと思った。
78: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/14(月) 18:39:29.04 ID:gcT4ji9so
「それで言ってやったんです、私の本質は身体ではなく魂に、つまり物体ではなく精神にあるのだと。
すると彼は感涙を流し、そして……」
数分ほどボンボンはしゃべり続けていた。
俺も好い加減眠くなってくる。
短髪眼鏡も、途中からは本を読みながら、話半分に聞いていた。
それが、急にひらめいたように口を開いた。
「ねえ、思ったんだけど、胸の大きい人って基本的にお尻も大きいじゃない?」
「あ、その話しに戻りますか」
その話に戻るんだ?
「うん、もどるの。それでね、つまり胸はお尻と連動した評価基準となっているのよ。
それで、人間の歩行体勢から考えても胸のほうがより見え易いから、胸が目立ったアピールポイントになるんじゃないかしら」
「なるほど、つまり本体は尻だと!」
「そう、胸は幻影、写像でしか無かったのよ。イデアは胸にあったの!」
何を言っているのか良く分からない。
長髪眼鏡も心なしか苛立っている様子だ。
「そうだったんだ……じゃあ、豊胸って虚しいですね」
「そうね、看板ばかり整えて、店はぼろいようなもんよね。詐欺ね」
「しかし胸が重要な性徴だということは分かりましたね!」
「ええ、だからこれからもブラジャーを着けましょうね?」
「はい!」
俺は静かに立ち上がり、図書室を後にした。
いいかげん黙ってよ、と悲痛な叫び声が聞こえてきたが、俺は振り返らなかった。
79: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/14(月) 18:42:29.95 ID:gcT4ji9so
ボンボンが楽しそうで何より。
家に帰って、また本を読んでいるところに寄って行くと、頭を撫でられた。
短髪眼鏡のほうが上手だったが、いい気分なので、撫でられてやった。
「……毛玉はかないでよ?」
おまえが言うなよ、頭に毛玉付けてるくせに。
俺はそう言って、ごろりと横になった。
にゃあ。
80: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/14(月) 18:45:30.51 ID:gcT4ji9so
梓「桜ヶ丘高校奇譚クラブ」
81: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/14(月) 18:48:31.70 ID:gcT4ji9so
近頃純は、昼休みになると直ぐに図書室に向かう。
お陰で昼食は憂と二人ぽっちで食べている、
憂に不満をこぼすと、
「そのうち飽きるよ」
と言って笑っていた。
しかし一向に飽きる気配がない。
「そろそろ寂しくなってきたねえ」
と憂も言っていたので、私たちも図書室へ向かうことにした。
お昼時の柔らかい日差しの中で、特に用事もないのに図書室へ行くなんて、馬鹿馬鹿しい事この上ない。
純のせいだ。
歩みを進める間、自然と苛立ちは募っていく。
途中、憂に呼び止められた。
「歩くの速すぎるよ」
82: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/14(月) 18:51:32.86 ID:gcT4ji9so
図書室へ着くと、相変わらずの空気だ。
窓とカーテンを開けようかと思ったが、日光に当てると紙は痛んでしまう、とどこかで聞いたので、止めた。
純は偉そうに分厚い本を机に載っけて、頬杖を突きながら読んでいる。
私と目が合うと、
「おお、梓、どうしたの」
と言った。
憂がにこにこ笑いながら、
「梓ちゃん寂しがり屋だから」
と言ってきたので、私は彼女の口を塞いだ。
全く気にくわないことだが、カーテンの隙間からわずかに漏れる陽の光を浴びて、
柔らかく頁をめくる純は、やけに大人びて見える。
純は憂の言葉を聞いたのか聞いていないのか、小さく微笑んだ。
「梓も本読めば。これ、面白いよ」
そう言って、純はそばに置いてあった文庫本を私に手渡してきた。
表紙とタイトルから察するに、モダンホラーのようだ。
「オカルト嫌いだもん」
そう言って私はその本を机の上に置き、本棚へ向かった。
83: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/14(月) 18:54:33.89 ID:gcT4ji9so
本棚はまるで、どこまでも続いていくようだ。
ふと手にとってみた本は、昭和四十年に出版されたものだった。
またある本は、どうやらドイツ語の原書らしかった。
本だけがぎっしり積まれている棚を眺めていると、ぐるぐるぐるぐる、目が回る。
本を開くたび、ずらっと並んだ活字に辟易した。
こんなに大量に並んだ文字が、全部何かの意味を指し示しているなんて、不思議だ。
さらに、それだけでない何かも感じる。
本の中に、全く別の、この世界のどこにもないものが詰まっているような、そんな感じ。
私は数十秒、呆然として本を眺めた。
にゃあ。
後ろで小さな猫の鳴き声がした。
そっと近づいていくと、本棚の影に猫は丸まっていた。
おかっぱ頭の、無表情な生徒の膝の上で、気持よさそうにしている。
「どうしたのかしら」
その人は、そこに置かれた丸椅子に座って、両手で開いた薄い写真集か何かを眺めたまま、淡々と言った。
「え、私ですか?」
私は思わず訊き返す。
あんまり彼女の表情に変化がないものだから、果たして彼女が私のことを認めているのかどうかすら、怪しかった。
しかし、その女性はぱたんと写真集を閉じて、じっと私を見つめてきた。
「あなた。流石に、私も猫に話しかけたりはしないから」
ちなみに私は猫に話しかけたことがある。
だから、少し恥ずかしくなった。
その女性はお構いなしに、相変わらず抑揚のない喋り方で続けた。
84: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/14(月) 18:57:34.64 ID:gcT4ji9so
「本をずっと眺めていたじゃない。どうして?」
なああ、と猫が鳴いた。
どこかで見た覚えのある猫だ。
私はまた本棚を眺めて、溺れるような感覚を味わって、何故か至極素直に言った。
「不思議だな、と。ただの文字の羅列が、こう、なんていうか」
どもった私を見ても、その女性はくすりともしない。
ただ、目を伏せて猫を撫でて、相変わらずの調子で言う。
「言語は、基本的に現実世界のあるものを指し示す記号だと考えられてきたわ。
けれど、逆に言語が人間の意識内の世界を分割して、意味を持たせる、という考え方もあるみたい」
そこまで一息で言って、疲れたように本を棚に戻した。
そして、真っ直ぐに私の目を見つめて、言った。
「そんなところかもしれないわね」
それを聞いて、私はまた本棚を眺め回してみた。
不思議だ。
じゃあ、もしかしたら……
「じゃあ、もしかしたら。言葉は、同じものを指しているとは限らないかも知れない、んですか」
「そうかもしれないわね。とある地方の原住民は、雪を幾通りもの言い方で表現するそうよ。
私たち日本人も、風や雨なんかが大好きみたいね」
時雨、春雨、五月雨、霖雨、地雨、霧雨……云々。
ざあ、と細い線のような雨が、私の頭を一杯にするような気がする。
不思議なその人は、なんでもないかのように私に尋ねた。
「オカルトは嫌い?」
85: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/14(月) 19:00:35.40 ID:gcT4ji9so
曖昧に誤魔化すことも選択肢として浮かんだが、この人に対しては、それはしてはならないような気がする。
「嫌いです」
「そう。私は好き。どうして嫌いなのかしら」
「だって、嘘っぱちじゃないですか」
「そうかもね」
それっきり、その人は黙りこんでしまった。
退屈そうに、本棚から本を取り出そうとして、やめた。
そうして、また私を見つめてくる。
「ところで、こんな話があるの……」
彼女は相変わらず淡々としている。
私は無理やり頭の中に言葉を詰め込まれるような、変な気がした……
86: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/14(月) 19:03:36.02 ID:gcT4ji9so
あるところに女の人が居ました。
女の人はとても聡明で、また読書家でありました。
女の人には好きな人がありました。
その男性はとても深い思想を持っており、また社交的で、美男子でした。
そんなわけで当然、女性は男性の虜になってしまいます。
女性はまず手紙を書きました。
「あなたの好きなものが知りたいです」
男性は返事をしました。
つらつらと、彼が好むものが書いてありました。
女性はそれを全部覚えました。
女性は手紙を書きました。
「あなたが好きな女性のタイプを知りたいです」
男性は前回と同じように返事をしました。
女性はなるたけその像に近づこうと、努力を怠りませんでした。
女性は何度も何度も男性に手紙を出して、男性は何度も何度もしました。
そのうち話題はだんだん深く、思想や人生観といったところまで入って行きました。
女性は男性からの返事をすべてとってありました。
彼女は本当にその男性が好きだったのです。
そのうち、男性と女性は恋人同士となりました。
それでも彼女たちは毎日のように手紙をやり取りしました。
ある日、男性が女性の部屋に訪れたついでに、勝手に机周りを片付けてしまいます。
それからすぐに、後生大事にとっておいた手紙が亡くなったことに気がついて、女性は死にました。
87: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/14(月) 19:06:36.91 ID:gcT4ji9so
「おしまい」
「……は?」
私はぽかんと口を開けて間抜けな声を上げた。
おかっぱ頭の人は、くすくす笑って、言った。
「変な顔」
私は無性に腹が立ってきた。
「なんですか、今の話」
「恋人の後を追って自[ピーーー]る女性の話」
「死んだのは女性だけじゃないですか」
批難がましく言う私を、彼女は不思議そうに見つめてきた。
「どうしてあなたは、恋人と聞いて男性を思い浮かべたの?」
「は?」
「女性かも知れないじゃない。もっと言えば、活字かも知れない」
「……手紙ですか」
「そう、言語を通してみる世界が違っていたのなら、手紙の上に描いた像のほうが大切だったかも知れないわね」
「納得行きません」
「そりゃあ、私が今適当に創った話だから、じゃないかしら」
88: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/14(月) 19:09:37.70 ID:gcT4ji9so
私は言葉を失ってしまう。
彼女はまた、なんでもないかのように立ち上がって、ひらひらと私に手を振った。
猫が膝から飛び降りる。
「オカルト臭いのもたまにはいいでしょう? 本当じゃなくても、それなりに意味はあるから」
そう言って、出口へ歩いて行く。
猫はもう一つ、なあ、と鳴いて、どこかへ歩いて行った。
ひとりぽっちで取り残される。
周りの本を見てみると、以前より一層奇妙な気持ちになった。
色んな物が混ざった沼の中に溺れてしまうようだ。
そして、ぞっとすることに、それは心地良くもある。
「梓ちゃん」
ぽん、と後ろから肩を叩かれて、私は飛び跳ねた。
振り向いてみると、憂が大きく目を見開いて立っていた。
「……あ、あのね、和さんが、昼食取りたいなら準備室使えばいい、って言ってくれたんだけど」
「ああ、そう……うん、わかった」
何が分かったのか良く分からないくせに、私は分かったと言った。
案外そんなものなのかも知れない。
私はそこを出て、図書室の扉を閉めて、近いうちにまた来るだろうと思った。
来なくても、来るだろうと思った。
89: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2011/02/14(月) 19:12:38.68 ID:gcT4ji9so
急にノリが軽くなったことを感じつつ、やっと話の决着点が見えてきたのを喜びながら、こんなかんじです
SS速報VIP:純「純和風図書館!」