1: 名無しで叶える物語 2022/05/20(金) 19:57:21.62 ID:1n09RrQP.net

歩夢「侑ちゃん、私を忘れないで欲しいな・・・」後編

↑のラストからエピローグまでの3年間にあったお話です

この話は閲覧注意ではありません



2: 名無しで叶える物語 2022/05/20(金) 19:59:59.19 ID:1n09RrQP.net

 

 ────PiPiPiPi・・・


「んんっ・・・・・・」


 スマホのタイマー機能で平日だけ鳴るように設定しているアラームが朝7:00に鳴り始める。

とはいえ、アラームが鳴る30秒くらい前には不思議と目が覚めるので鳴らさなくても起きれるといえば起きれるのだけれど・・・・・・。


「さてと・・・・・・」


 朝は昔から弱いのでついつい二度寝しそうになるのだが、私が甘えることができる相手はもういない。

"朝起きたら私に毎日LINEしてくれる?"という半分冗談で言ったお願いを、律儀にも1年近く(毎日ではないが・・・)守ってくれた彼女はもう私から離れて行ってしまったんだ・・・・・・。
 



5: 名無しで叶える物語 2022/05/20(金) 20:02:31.14 ID:1n09RrQP.net

 

 ボーッとしながらベッドから起き上がり、台所へ向かう。


(あ・・・、しまった)


朝食用に買い込んでおいた食パンが切れていることに気付く。

自然と軽い溜息が出たが、気持ちを切り替えてヤカンでお湯を沸かしインスタントコーヒーをマグカップに淹れる用意をする。

このインスタントコーヒーの買い置きも、その彼女が絶えず補充していてくれたもの。

おそらく、あと1週間もあれば底をつくだろう。

 



6: 名無しで叶える物語 2022/05/20(金) 20:05:12.56 ID:1n09RrQP.net

────
──


 私はピアノの家庭教師の仕事をしている。

今も徒歩で今日の最初の仕事先へ向かおうとしているところ。

始めてから2年弱で結構お客さんも増え、平日は朝から夕方まで仕事をすることができる。

給料は歩合制なので仕事量がある程度確保出来ていることは本当にありがたい。

おかげでそこそこ余裕を持って生活できるくらいには稼げるようになった。

 



8: 名無しで叶える物語 2022/05/20(金) 20:07:49.57 ID:1n09RrQP.net

 

(さてと・・・・・・)


 ~♬


 インターホンを鳴らし、応答を待つ。

毎週決まった曜日の決まった時間に私が来ることをわかっているので、ここのお客さんは"どちらさまですか?"という確認もせずにドアを開けてくれる。

もし私じゃない人が玄関先に立っていたらどうするのだろう?と防犯上の不安も感じてしまうが、あえてツッコまない方がいいのかな・・・・・・。


「おはようございます!高咲です!」


ドアが開かれると私は笑顔で挨拶し、中へ通されその日のレッスンが開始する。

こんな感じを1日何回も繰り返すのだが、相手も違うし、伺う度にお客さんも上手になって行くので飽きるということがない。

ホント楽しい仕事だ。

こういうのを天職というのだろうか・・・・・・。

 



10: 名無しで叶える物語 2022/05/20(金) 20:10:20.90 ID:1n09RrQP.net

────
──


「ただいま~」


 1人暮らしで家には当然誰もいないがつい無意識で言ってしまう。

彼女がいた頃は、彼女の部屋に行くと必ずそう挨拶していた。

そのクセがまだ抜けないんだ。

その元カノと別れてからかれこれ半年も経つというのに・・・・・・。


「ふうっ・・・・・・」


 ベッドに身を預けるかのように倒れ、横になる。

その彼女と別れたきっかけは実に自分本位というかわがままというか・・・・・・、一時の気の迷いというか。

決してその彼女が嫌いになったからではない。

 



11: 名無しで叶える物語 2022/05/20(金) 20:12:55.29 ID:1n09RrQP.net

 

むしろ、好きだった。


でも、私は・・・・・・ その彼女と一緒になる前に付き合っていた元彼女であり幼馴染でもある長年人生を共にして来た子を選ぼうとした。

だが、その時の自分なりの気持ちをぶつけて寄りを戻そうとしたが、私の気持ちは届かなかった。

いや、気持ちは届いたのかもしれないが、その時の私の有り様を見透かされていたのだろう。

あれから時間が経ち、冷静に思い返すことが出来るようになってきたからそれがよくわかる。


そして私は全てを失い、今に至る。

 



13: 名無しで叶える物語 2022/05/20(金) 20:15:41.20 ID:1n09RrQP.net

────
──


 ある日の夕方、仕事を終えて家に帰る途中に行きつけのコッペパン専門店に寄る。

木の扉を開くと据え付けられたおしゃれで可愛い鐘が来客を知らせる役割として店内にカランカランと鳴り響く。


「あ! 侑せんぱい!」

「いらっしゃいませ~!!」


笑顔で私を出迎えてくれるその子は中須かすみちゃん。

私が所属していた高校時代の同好会の後輩だ。


「かすみちゃん、久しぶり!」


実はかすみちゃんのお店に足を運ぶのはかなり久しぶりで約半年振り。


「侑せんぱいっ! 半年近くもかすみんのお店に来ないなんて酷いんじゃないですかぁ!」


ジトッとした目付きで私を見ながらかすみちゃんはそうボヤく。


「あはは~、ご、ごめんね~」


さすがに以前は少なくとも週1以上は通っていたのに、半年も顔を出さなかったので申し訳なさから少し詰まりながらそう返事をする。


「ま、侑せんぱいが何でかすみんのお店に来なかったのは大体察していますけどね」


少し得意げにそう言うかすみちゃん。おそらく、私の今の状況を知っているのだろう。

それを誰から聞いたのかは分からないが、私の元カノがかすみちゃんのお店に顔を出した際、かすみちゃんとの会話の中からかすみちゃんにグイグイ詮索されて話したんじゃないかと思う。

その様子が容易に想像できるので無意識に苦笑いしてしまう。

 



14: 名無しで叶える物語 2022/05/20(金) 20:18:13.35 ID:1n09RrQP.net

 

「侑せんぱい、今日もお任せでいいですか?」

「あ、うん!」


半年振りだが以前の注文方法は健在で、かすみちゃんのコッペパンを数ある中からお任せで売ってもらう。


「・・・・・・あ、今日は3つでいいからね」


私はかすみちゃんがトングで一つ目のコッペパンに手を付ける前にそう伝える。

何故3つなのかと言うと、それが私の一食分だから。

彼女と付き合っていた頃は6つ売って貰っていた。

彼女は、3つでは一食分としては多いと言っていたが、翌日くらいまでは保存も効くだろうし、翌日の朝食にでもして欲しいと思い毎回私はそういう買い方をしていた。


「はい、お待たせしました!」


かすみちゃんのお任せでコッペパンを3つ選んで貰い、紙袋に入れてもらう。

それを受け取ると同時にお金を渡し、お釣りを受け取る。


「じゃ!またくるね!」


ホントは積もる話もあったのだけど、別れたことを詮索されるのもちょっと嫌だったのでそそくさと店をあとにする。


「ありがとうございました~♪ 今度お話聞かせてもらいますからね!」

「!?」

「あはは~・・・ またね!」


しっかりと見透かされていたみたいだ・・・・・・。

"その話はまた今度ね!ごめんね!"と頭の中で謝りつつ、私は自分の家に向かう。

 



15: 名無しで叶える物語 2022/05/20(金) 20:20:45.84 ID:1n09RrQP.net

────
──


 ある日のこと・・・・・・


 その日の仕事も終え、帰宅途中に頭の中で最近めきめき上達している小学生の教え子に次はどの曲を弾かせるか考えていると、そろそろ指導用に使う楽譜を追加で買っておいた方が良いのでは?と思いつく。

家庭教師事務所から指導用の楽譜は段階に応じて使い分けるものを用意して貰っているのだが、筋が良い教え子には私なりに別の曲も弾かせてあげたいという思いがあるのだ。



 急遽、家に向かう足を止め、普段利用している最寄りの楽器店よりも規模の大きい楽器店に行く為に駅に向かう。


そちらの方が音楽関連書籍の種類も量も豊富だから、時間掛けて行くだけの価値はあるんだ。

 



16: 名無しで叶える物語 2022/05/20(金) 20:23:52.41 ID:1n09RrQP.net

────
──


 私の家の最寄り駅から2つ離れた駅で降り、改札を抜ける。

ちょうど仕事を終えて帰宅する人達が駅にゾロゾロと向かって来る時間帯なので凄く混雑している。

この辺りはオフィス街もあるので余計にそういう人が多いのだ。


 その帰宅の為に駅へ向かってくる人の波をかいくぐり、私は目的地である楽器店へ向かう。


「────・・・がよろしければお食事でも・・・・・・」

「────・・・ええ、たまには・・・」


歩いていると色々な会話が耳に入ってくるわけだが、普通であればその内容など左耳から聞こえた声は右耳から抜け、右耳から聞こえた声は左耳から抜けて行く。


でも、その声は雑踏音の中からでも一瞬だけはっきりと聞こえた。

聞こえた声の方向に一瞬目を向けると、ビジネススーツを着た女の人が2人、私と逆方向に向かって歩いているのが見えた。

 



17: 名無しで叶える物語 2022/05/20(金) 20:27:11.36 ID:1n09RrQP.net

 

「!?」


それは間違いなく私が知っている2人だった。


そのうちの1人は、今の私が出来ればあまり顔を合わせたくない元彼女だ・・・・・・。


(・・・・・・そうだった、彼女の勤め先はこのあたりだったっけなぁ)


私は彼女と会っても申し訳無さから話しも出来ないと思っているので、すれ違い時に気付かれていないことを祈りつつ、一応念の為、余計な遠回りをしながら楽器店へ向かう。

 



18: 名無しで叶える物語 2022/05/20(金) 20:29:47.38 ID:1n09RrQP.net

────
──


 20分くらい余計に歩き回りようやく目当ての楽器店にたどり着く。

"私、しょうもないことしてるよなぁ"と思いながらピアノ関連の楽譜が並んでいるコーナーを見て回る。


(・・・・・・小学生の練習向けに丁度いい楽譜、何か良いのないかなぁ)


楽譜もたくさんのものが発売しているが、闇雲に選べば良いというわけでもなく、一度手に取り中身をパラパラと確認し、指導に適切なものであるかを慎重に判断していく。


「あ、これでいいじゃん・・・・・・」


何冊か手に取っては棚に戻しを繰り返したのちに丁度良さそうなものを見つける。

想定していた内容に近いものを見つけたのが嬉しいので自然と声がもれてしまった。

値段は想定していたより高かったが、ケチるほどでもない程度の高さなので購入を決意。

手に取った楽譜を購入するためにレジに向かおうとする。


そうすると・・・・・・

 



19: 名無しで叶える物語 2022/05/20(金) 20:32:20.44 ID:1n09RrQP.net

 

「侑さん?」


何故か私の名を呼ばれ、不意を突かれた驚きから立ち止まってしまう。

私の脳の中ではその声の主が誰か分かっているのだが、目で見て確認するために声が聞こえた方向に振り返る。


「な、菜々ちゃん・・・・・・?」

「・・・・・・やっぱり侑さんでしたか」


その彼女はホッとしたような安堵の笑みを浮かべる。

久しぶりに見たその笑顔に私も嬉しい気持ちがあるものの、やはりまだ後ろめたい気持ちもあるせいか目を逸らしてしまう。


「先程、外で侑さんが歩いているのを見かけたものですから」


やはり、あの時に気付かれていたみたい。


「そ、そうなんだ・・・・・・」


私は少し詰まりながら返事をする。


「そのあとすぐに侑さんを見失ってしまいましたが、おそらくこの楽器店にいるんじゃないかと思い、来てみたんです」

「お会いできて良かった・・・・・・」

 



21: 名無しで叶える物語 2022/05/20(金) 20:34:53.00 ID:1n09RrQP.net

 
彼女は偶然見かけた私に会いたくて追いかけて来たようだ。

彼女の気持ちに嬉しいようなそうじゃないような複雑な感情が揺れるのだけど、立ち止まったままだと何だか気まずい・・・・・・。

 とりあえず、楽譜を買いたいのでレジに向かい会計を済まそうとすると、彼女も自然と私のすぐ後ろをついてくる。

以前、付き合っていた頃であれば当たり前だったその行動がいまは少し重い。

いや、重いと思っているのは自分に後ろめたさがあるからか・・・・・・。


「これ、お願いします」


レジにいる店員さんに楽譜を渡すと"いらっしゃいませ"という挨拶をしながら楽譜のバーコードをリーダーで読み取る。

金額を伝えられ、それをカードで決済し楽譜を受け取る。


「ありがとうございました」


店員はそう挨拶すると軽く会釈し、私もありがとうございますと反射的に答え、向きを変え店の出口の方へ向かおうとする。

私の斜め後ろで会計が終わるのを待っていた彼女も私に合わせてついて来る。

 



22: 名無しで叶える物語 2022/05/20(金) 20:37:28.61 ID:1n09RrQP.net

 

「何を買われたのですか?」


私と店員のやり取りを見ていれば私が買ったものが楽譜であることが分かるとは思うが、会話を繋げたいがためか彼女はそう私に問いかける。


「うん、仕事で使う為の楽譜をね」


私も当たり障りのない返事をする。


 "仕事"で使う為・・・・・・

思い返すと、大学を卒業してから疎遠になっていた私と彼女が再び交流をもつようになったきっかけも私の仕事だった。

ある時たまたま路上で再会し、私が今の仕事を始めたということを伝えると後日お客さんとして家庭教師事務所に申し込んで来たのだ。

そういえば、最初はマメにピアノレッスンしていたけれど、彼女が上達するにつれて頻度も少なくなり、いつの間にか仕事の契約も解約したんだっけ・・・・・・。

"いつも一緒にいるんだし、お金貰ってレッスンするのは野暮だよ!私がいつでも教えてあげる!" ・・・ある時、そんなことを私が言い出したと記憶している・・・・・・。


「お仕事は順調ですか?」


商業ビルの5階にある楽器店から出て、エスカレーターで1階に向かいながら彼女はそう私に問いかけて来た。


「うん、まぁね」


良いのか悪いのかわからないような返事を苦笑い混じりにして自分の後ろめたさをごまかす。


「・・・・・・特にお変わりなさそうで安心しました」


少し言葉に詰まりながら彼女は私にそう答える。

私の微妙な返答に対しての返答を会話を続けるために絞り出したのだろう。


 その後お互い無言のまま1階に降り、ビルから外に出る。

彼女から食事でも一緒にどうかと誘われたが、"忙しいから"と伝えその場は別れた。


別れ際、彼女は少し悲しそうな表情を浮かべていた。

 



23: 名無しで叶える物語 2022/05/20(金) 20:40:15.96 ID:1n09RrQP.net

────
──


「ただいま・・・」


 帰宅し、まずはベッドに腰を下ろす。

さっきの別れ際の彼女の悲しそうな表情が頭から離れない。

私が後ろめたいだけで彼女は何も悪くないので冷たい態度を取ってしまったことに罪悪感を感じる・・・・・・。

さっきの誘いに乗り、一緒に外食でもしていればどうなっていただろうという期待なのか不安なのか分からないモヤモヤ感が込み上げる。


「ふうっ・・・ 冷めないうちに食べるか・・・・・・」


自炊する気力もないので、帰宅途中に近所の安い弁当屋で唐揚げ弁当を500円で買ってきた。

何か食べれば余計なことを考えなくても済むかなと思い、弁当を開封して食べ始める。


 輪ゴムで止められたプラスチックの蓋を取るとニンニクで味付けられた唐揚げの匂いが立ち昇る。

美味しそうな匂いだけど、身体に残る独特の匂い。

そう言えば前にあんなことがあったなと思い出す。

 



24: 名無しで叶える物語 2022/05/20(金) 20:43:35.69 ID:1n09RrQP.net






 Prrrr・・・ Prrrr・・・


「んっ・・・ なんだ・・・・・・?」


 弁当を食べていると突然スマホが鳴り出す。

この半年くらいは家庭教師事務所からの連絡と、ごく稀に実家から掛かってくるくらいだけだったのに・・・・・・。


「!?」


おそるおそるスマホを覗き込むと、そこにはさっきバッタリ再会した彼女の名前が・・・・・・。

電話に出るべきなのか、鳴り響くスマホの前で私は固まる・・・・・・。そして、スマホの着信音は鳴り止む。


「・・・・・・・・・・・・」


決して悪意で掛けて来たわけではないのは分かる。

でも出られなかった・・・・・・。

折り返し掛け直すべきなのか・・・・・・。


食べかけの弁当はそこで箸が止まった。

 



25: 名無しで叶える物語 2022/05/20(金) 20:46:56.37 ID:1n09RrQP.net

────
──


「お疲れさまです」


 それから幾日か経過したある日のこと。久しぶりに家庭教師事務所の事務員さんから連絡が入ったので事務所に顔を出す。


「高咲さん、お疲れ様です」

「私に用件とは何かありましたか?」

「実は、高咲さんに受け持って貰っているお客様の中から退会のお客様が出ることになりまして」

「そうですか、それは仕方ないですよね・・・・・・」


事務員さんの話だと、私のお客さんのうち2組から退会の申し出があったとのこと。

それは別に珍しいことではなく、やめるお客さんというのは必ず出てくるものだ。


「その代わり新しい申し込みも来ていますので、高咲さんの空いた時間を埋められるようにお客様を紹介しますので」

「ありがとうございます」


別れがあれば新しい出会いもある。


(今度のお客さんはどんなお客さんなんだろう?)


長く続けてくれる人だといいな。それには、私が楽しくピアノを教えてあげないといけないよな・・・・・・と改めて気を引き締める思いだ。

 



26: 名無しで叶える物語 2022/05/20(金) 20:49:41.15 ID:1n09RrQP.net

────
──


 それからまた幾日か経ったある日、また家庭教師事務所から電話連絡が入る。


「はい、もしもし。高咲です」

『高咲さん、新しいお客様が決まりました。明日の18時に事務所に来て頂くことは可能ですか?』

「18時?? はい、大丈夫ですけど・・・・・・」

『では、宜しくお願い致します』


・・・・・・と、明日の18時に出向く約束をして通話を終了したが、どこか違和感が残る。

いつもならば、新しく受け持つお客さんへは私の方から出向いて挨拶するからだ。

事務所からも、"新しいお客様が決まったので、アポを取った上で挨拶に伺ってください"という風に指示を受けるのが毎回のこと。


いや、でも・・・・・・ 私もこの仕事を始めて2年弱くらいだが、今までがたまたまそうだっただけで、今回みたいなケースも本当は珍しくないのかもしれない。

まずは、言われた通り明日18時に事務所へ行ってみよう・・・・・・。

 



27: 名無しで叶える物語 2022/05/20(金) 20:52:33.94 ID:1n09RrQP.net

────
──


 ・・・・・・そして翌日。

その日最後のお客さんのレッスンを17:00に終了し、急いで事務所へ。

事務所までは少し距離があるお宅だったが、17:45頃到着。


「お疲れさまです」


事務室のドアを開けると同時に私は挨拶をし入室する。


「あ、高咲さん。お疲れ様です」


事務員さんもいつものように私の挨拶に反応する。


「で、18時にということなので来てみましたけど・・・・・・」

「間もなくお客様がいらっしゃる予定です。もう少しお待ちください」


「いつもなら、最初の挨拶も私から伺ってますけど、こういうこともあるんですね」

「はい、中にはこういうケースもありますね」


・・・・・・と、昨日連絡を受けた時に感じた疑問を実際に事務員さんに尋ね、雑談をする。

そして話は本題から逸れて笑い話をしていると例の来客があったようで事務員さんはそちらへ向かう。


「あとで応接室に呼びますので待っていてくださいね」


そう言って事務員さんはお客さんの応対に向かう。

私のような関係者が出入りする入り口と、お客さんが来社した際の出入り口は別なのだ。

 



28: 名無しで叶える物語 2022/05/20(金) 20:55:06.90 ID:1n09RrQP.net

 
こんな時間に向こうから出向くのだから、いつもの子供の教え子なのではなく、たまに現れる大人のお客さんなんだろうなと予想した。


「高咲さん、では応接室へお願いします」

「あ、はい!」


そう考えていると事務員が戻ってきて私を応接室へ行くよう促す。

私もそれに従い、応接室へ向かう。


事務室を一度廊下に出るとすぐ隣が応接室だ。

ノックをし、ドアを開けて入室する。


「失礼します!」


印象が悪くならないよう、笑顔とはっきりとした声で発音する。

そして、応接室の奥に腰掛けているお客さんを目にし、私は呆然とする・・・・・・。


「・・・・・・お久しぶりですね」


どこか不安そうな表情から振り絞るように笑顔を作りながらそう言ったのはまさかの彼女だった・・・・・・。

 



29: 名無しで叶える物語 2022/05/20(金) 20:57:44.99 ID:1n09RrQP.net

 

「な、菜々・・・ ちゃん?」


全く想定していなかった出来事に私は頭が真っ白になってしまう・・・・・・。


「お忙しい中でしょうに、このような形でお呼びしてすみません」


彼女は私を気遣ってか、そう言った。


「い、いや・・・ 私の仕事だし・・・・・・」


立っていても仕方がないので私も席に着き対面する。そして、少し間があった後に私が話を切り出そうとすると・・・・・・


「以前のように、またピアノを改めて始めようと思いまして・・・・・・」


目の前の彼女はどこか不安そうな声色でそう言った。


「そ、そうなんだ・・・・・・」


仮にもお客さんとして来ているのに、本来ならば"ありがとうございます"などの返事があるべきだろうに、私はそんな返事しかできなかった。


「侑さんには以前ピアノを教えて頂いてましたので、また習うならば侑さんに教わった方が良いかと思ったんです」

「ご、ご迷惑だったなら・・・ すみません・・・・・・」


そして少し俯きながら彼女はそう続ける。


「・・・・・・いや、迷惑ってことはないよ。お客さんなんだもん」


私が高くはないトーンでそう答えると、目の前の彼女は一瞬安堵したような表情を見せた。


「ま、また・・・・・・ 以前のように教えて頂けますか??」


そう依頼してくるお客さんに、私が断るなんて普通ならありえない。

個人的な感情では少し逃げたい気持ちもあるが、仕事を請け負う身としては、断る理由がない・・・・・・。


「・・・・・・うん」


"はい"と返事すべきか少し悩んだが、"うん"という言葉が出た。


そして、その場ではお互い少しぎこちないながらもレッスンを行う日時を打ち合わせして契約という流れになった。


「では、宜しくお願い致します」


そう言いながらお辞儀をして事務所をあとにする彼女を私は見送る。


あの日から止まっていた私の時間が、また動き始めたような気がした・・・・・・。

 



30: 名無しで叶える物語 2022/05/20(金) 21:00:29.41 ID:1n09RrQP.net

────
──


 そして、彼女とのレッスンの初日がやってきた。

以前と同様に、彼女が仕事を終えて帰宅してからの時間帯でのレッスンになる。


このアパートに出向くのもかなり久しぶり。

以前は毎日のように通っていた時もあったのに・・・・・・。


 ~♬


インターホンを鳴らす・・・・・・。

そうすると、ドアが開く・・・・・・。


「お越し頂きありがとうございます」

「こんばんは、今日からよろしくね・・・・・・」


ちょっと他人行儀な気がしたが、仕事だからという気持ちがあるのか言葉の選択に困り、こんな返事しかできない。


「どうぞ」


そして、何度も通った部屋に私は再び招き入れられる・・・・・・。


「とりあえず、お掛けください」

「あ、うん」


そう言われ、あれから特に配置も変わってない部屋の真ん中にあるテーブルの横に座る。

 



31: 名無しで叶える物語 2022/05/20(金) 21:03:40.10 ID:1n09RrQP.net

 

何となく部屋を見渡すと、私との思い出を重ねるにつれて増えていった私との写真が飾られていたはずだが見当たらない・・・・・・。

そりゃそうだと思う・・・・・・。

別れたんだから・・・・・・。

別れた女の写真なんか飾っていても仕方がないのだから。






「すみません、お待たせしました」


ぼーっと座っていると、付き合っていた頃のようにコーヒーを出してくれた。


「あ、ありがとう」


カップに手を伸ばすと違和感を感じる。

これは来客用のコーヒーカップ。私専用に用意してくれていたお揃いの物とは違う・・・・・・。

これもまぁ、写真が片付けられていたことに気付いた時点で想定は出来たことだ。

そして、少しぎこちない手付きで私はコーヒーを一口啜る。


「一休みされたらレッスン始めて頂きましょうか」

「・・・・・・うん、そうだね」


お互い何を話したら良いか分からず、私はコーヒーをひたすら啜り、ごまかす。

 



32: 名無しで叶える物語 2022/05/20(金) 21:06:13.97 ID:1n09RrQP.net

────
──


「じゃあ、今日は時間なのでここまでね」

「はい、ありがとうございました」


まだ2人でレッスンしていた頃にやっていた練習内容を思い出し、そこから再開するかのような練習を進めてみたが、思いのほか順調にレッスンは進んだ。

まるであの頃から時間を隔てていないかのように・・・・・・。


私は次のレッスンまでの復習内容を伝え、帰宅の用意をする。

以前のように"お食事でも"と声を掛けられるのではないかと思ったが、そんなことはなく私は部屋をあとにした。


 そして、アパートのエントランスから歩道に出る。通い慣れた道を私の家に向けて歩き始める。


歩きながら、色々な事が頭をよぎる・・・・・・。


少しこわいなと思っていたのが、また彼女の部屋に入ることで、また彼女を好きになってしまうのではないかということ。

・・・・・・いや、本心では今も好きな気持ちはあるのだが、抑え付けている思いがまた気持ちの表面に出て来てしまうのではないかということ。

それがこわかった。


あんな別れ方をしたのに、私に彼女を想う資格はないんだ。


そう、この約半年の間、自分にずっとそれを言い聞かせてきた・・・・・・。

 



33: 名無しで叶える物語 2022/05/20(金) 21:08:58.19 ID:1n09RrQP.net

────
──


「どうでしょうか?」

「うん! 凄く良いんじゃないかな!」


 あれからレッスンで何度もこの部屋に来ている。

仕事として割り切ろうと心に決め、余計なことは考えないようにし、指導に集中するようにした。

そのおかげか、後ろめたさは少し軽くなったような気がする。


「先週はつまずいていたところがスムーズに弾けるようになったね」

「はい、今回までに弾けるようになって、侑さんにお聴き頂きたかったので」


彼女はそう言うと屈託のない笑顔を見せる。

つい先日まではお互いぎこちなかったのが、ピアノを介して自然なやりとりが出来ているように感じる。

それには私も少しホッとしており、やはり料金が発生する仕事なのでお互いに遠慮していては良い仕事は出来ないから。


「さて、今日も時間だね。ここまでにしようか」

「はい、ありがとうございました」


この日は前回の復習も含めて新たに練習したところもスムーズに出来た為、次回まで復習しておいて欲しい項目を設けなかった。

たまにはこういう時があってもいいだろう。


「侑さん、今回は次回までの復習項目はないのですか?」

「ああ、うん。今回は私が求めていた以上に練習の出来が良かったからね。でも、自主的に練習するのは良いことだけど宿題にはしないよ」

「わかりました」


本来であれば、この日の練習内容は100点だよと言っているようなものなので喜ばれるのだが、目の前にいる彼女は少し寂しそうに見えた。

 



34: 名無しで叶える物語 2022/05/20(金) 21:11:50.52 ID:1n09RrQP.net






「さて、私は失礼しようかな・・・・・・」


 荷物をまとめて帰ろうとしたところ、今日はいつも持ち歩いている仕事用のバッグ以外にもう一つ少し大きな紙袋も持って来た事を思い出した。

昼過ぎの時間帯に急にかすみちゃんから電話があり、新メニューを何種類か作ってみたからお店に来て欲しいと言われたのだ。

とはいえ、私もニートしていた頃とは違い平日はレッスンが午前から夕方まであり、行くタイミングがあるとすれば仕事を終えた後の時間帯くらいしかない。

でも、可能な限り早く来て欲しいと念を押されたのでここへ来る前にかすみちゃんのお店に回って来たのだ。

当初、"モニターみたいなものだからお代はいりませんよぉ♪"と言われたが、そういうわけにもいかないと思い幾らかは払って来ている。

私が新作コッペパンを貰いに行った時には既に紙袋に入れてあり、その紙袋も3個買って帰る時の紙袋より一回り大きなものだった。


「あ、そうだ・・・・・・」

「どうしました?」


私はガサゴソとその紙袋を開けてみる。

案の定、いつも買っている3個よりも多い6個のコッペパンが入っていた。


「サービスしてくれるのは嬉しいけど、食べ切れないんだよなぁ・・・・・・」

「??」


私はやれやれとありがた迷惑だなと思いつつも、お裾分けできる丁度いい人が目の前にいるなと思い、中味を確認して取り出す。

 



35: 名無しで叶える物語 2022/05/20(金) 21:14:41.26 ID:1n09RrQP.net

 

「えーと、3種類が2個ずつか・・・・・・。はい、コレよかったら」


紙袋の中から3つ取り出しテーブルに置く。


「もしかして、かすみさんのお店から買って来られたのですか?」

「うん、新メニュー作ってみたから食べて欲しいと言われてね。1人で6つも食べられないから半分置いて行くよ」

「美味しそうですね、ありがとうございます」


再び立ち上がり帰ろうとしたところ。


「お付き合いしていた頃、こうしてたまに買って来て下さいましたよね」


彼女は懐かしむようにそう言った。

私もあの当時、この部屋でコッペパンを頬張りながら他愛のない話をしていた風景を思い出す。

付き合って1年の節目で旅行を計画した事など、色々と楽しかった思い出が蘇る・・・・・・。


一瞬涙腺が緩み、涙が出て来そうになったので慌てて私は立ち上がる。


「そうだったね。あの頃は楽しかったね・・・・・・」


そう告げ、彼女に私が目に涙を浮かべていることを悟られないよう顔を背けたまま部屋を出ようとする。


「じゃ、また次回・・・・・・」

 



36: 名無しで叶える物語 2022/05/20(金) 21:17:18.13 ID:1n09RrQP.net

 

玄関に向かい、靴を履こうとすると突然・・・・・・。


「・・・・・・あの時の事なら・・・ 私は侑さんを責める気はありませんよ」


そういいながら私の背中から覆い被さるように彼女は抱きついて来た。

バランスを崩して一瞬焦ったことと、掛けられた言葉から私の心拍が早まるような感覚を覚える。


「・・・・・・私も・・・ 言い訳出来ないことをしていましたので・・・・・・」


彼女は泣きそうになるのを堪えているかのように小さく震えた声でそう言った。

それについては、私にも原因があると思っているので、彼女がそのことで自分を責めているならば背負い過ぎだと思う。

当時、私の知らないところで彼女がとある人と体を重ねていたことにはショックを受けたけど、私はそれ以上に彼女へ酷いことをしている。


「あの時も言ったけど、悪いのは私だよ。そして、その様子は菜々ちゃんも見ていたよね・・・・・・」


私がそう言うと彼女は少し震えたまま黙る・・・・・・。


「・・・・・・・・・・・・」


2人が佇む玄関の狭い空間にあるのは重い沈黙だけ。

わずか数秒のこともその倍以上の時間に感じるくらい重い・・・・・・。

 



37: 名無しで叶える物語 2022/05/20(金) 21:19:52.74 ID:1n09RrQP.net

 

「・・・・・・あの場で、侑さんのけじめは見届けさせて頂きました」


沈黙を破るように、彼女は呟くような声で言う。


「私は・・・・・・ まだ・・・・・・」

「けじめをつけていません・・・・・・」


私は閉じていた回路が開くかのようにハッとした・・・・・・。


「ううっ・・・・・・ うっ・・・・・・」


彼女は、私の背中で啜り泣いている・・・・・・。


私は、あの時の事の顛末を全て自分のせいと決めつけ、彼女の気持ちを一切考えていなかったことに気がついた・・・・・・。

彼女も同じように、自分が犯した過ちのせいであの時のことが起きたのだと責めていたのかもしれない・・・・・・。


そうなると、私はあの時に一つのけじめをつけているのに、彼女は・・・ 菜々ちゃんは・・・あの時から何も終わっていないんだ・・・・・・。


「菜々ちゃん・・・・・・」

「うっ・・・ ううう・・・・・・」


あの時、私は間違いなく歩夢に振られる運命だったのだろう。

そして、それを見届けた菜々ちゃんも何かけじめをつけたかったのかもしれない・・・・・・。
 



38: 名無しで叶える物語 2022/05/20(金) 21:22:31.36 ID:1n09RrQP.net

 
あの時彼女が言った"私は、引き止めてくれないのですね"。

その言葉に裏にはけじめをつけることが出来ない無念があったんだ・・・・・・。


"いつかまた楽しい日々が過ごせることを祈ります"


このままでは・・・ 彼女に・・・ 菜々ちゃんに心の底から楽しい日々など再び訪れることはないんだ・・・・・・。

それを私が奪い続けている??


 私の後ろから抱きついて、首から胸にかけて回してきていた菜々ちゃんの手をそっと握る・・・・・・。


「菜々ちゃんは、私と寄りを戻したいんじゃなくて、ゼロに戻したかったのかな・・・・・・」


「・・・・・・ は、はいいっ・・・」


嗚咽をこらえながら菜々ちゃんは答える・・・・・・。

相手のことも考えないで逃げていた私はやっぱりダメだったんだ・・・・・・。

あの時、歩夢を呼び出して伝えた気持ちもただ一方的で、まるで重みもない軽いものでしかなかったんだ・・・・・・。


頭の中で、何かが繋がったような感覚がした。


「菜々ちゃん・・・・・・ ごめん・・・・・・ あの時引き止めてあげられなくて・・・・・・」

「うっ・・・ ううっ・・・・・・」


私は背中で泣く菜々ちゃんを一度少し離し、対面するように後ろを向く。

 



39: 名無しで叶える物語 2022/05/20(金) 21:26:06.25 ID:1n09RrQP.net

 

「い、いまさら・・・・・・ あ、謝っても・・・・・・ 何の誠意もありませんよね・・・・・・」


菜々ちゃんは涙を指で拭いながらそう話す。

私はその事は当時から責める気もなく、菜々ちゃんがその事でいつまでも鎖に縛られたままになっていることから解放してあげたい・・・・・・。

今は心からそう思う。


「菜々ちゃんは何も悪くないよ・・・・・・ 私はその事について責める気もないから・・・・・・」


言葉は以前と同じことを言っているが意味は少し違う・・・・・・。

今・・・・・・ 私が菜々ちゃんにしてあげられることは・・・・・・。

お互いを一度白紙に戻すには・・・・・・。


話して気持ちを伝え合うのも大切だけど、今はそれでは本当のお互いの気持ちは伝わらない。

感じ合うしかないのかもしれない・・・・・・。


私の中で、あの時にやるべき最後のことをやり直すのは今だと悟り、気がついたら菜々ちゃんを抱きしめていた・・・・・・。

 



40: 名無しで叶える物語 2022/05/20(金) 21:28:43.13 ID:1n09RrQP.net

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 尽き果てて横になっていると時計の針が日付を跨ぐ直前まで来ていることに気付く・・・・・・。


以前の私達は、ただひたすらにに抱き合うだけだった。

それはそれで満たされていたが、今は本当に心から繋がったんじゃないかと思う・・・・・・。


「いつの間にか、もうこんな時間だよ・・・・・・」

「はい、そうですね・・・・・・」


そんな言葉を交わしたが、私達は抱き合ったまま、まだ動かない・・・・・・。


「たぶん、あの時菜々ちゃんがつけようとしていたけじめとは違う形でのけじめになっちゃったんじゃないかな・・・・・・」

「そうですね・・・・・・ 少し、不本意ですけど・・・・・・ これで良いです・・・・・・」


菜々ちゃんの言葉はそれでもどこか静けさがあり、あの時に縛られたままだった鎖が解けたようだ。


「私が言うのもなんだけど・・・・・・ またやり直せるかな・・・・・・」


「・・・・・・・・・・・・もちろんです」

 



41: 名無しで叶える物語 2022/05/20(金) 21:31:16.43 ID:1n09RrQP.net

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 そして私達はまた止まったままの時間を進めることができた。


だが、もう一つだけ、つけていないけじめがある。


それは・・・・・・ どうすべきかもう分かっている。


もう一度、旅行でもしながら行ってみよう。

歩夢に会いに。



~おしまい~

 


元スレ
菜々「侑さん、私を忘れないでください・・・」