3: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 01:11:56.17 ID:gy/NmuiO.net
いつものお昼休み、善子ちゃんとルビィちゃんと一緒に、教室でお昼を食べていたときのこと。
善子ちゃんが頬杖をつきながらふと呟いた。
ルビィ「変な夢??それってどんな夢なの??」
善子「いや、それがよく覚えてないのよね。目が覚めたら内容は忘れてるんだけど...。でも、同じ夢を見たってことだけは認識できるのよ」
そう言いながら、善子ちゃんは窓の外へ憂鬱そうな視線を向ける。
花丸「善子ちゃんにしては、面白みの無い話ずらね」
善子「ヨハネ!っていうか、何気に失礼でしょ!私にしてはってどういうことよ!」
花丸「善子ちゃんのことだから、また堕天の力がー、とか闇の眷属がー、とか、そんな変なことだと思ったずら」
ルビィ「ふふっ、確かにそっちの方が善子ちゃんっぽいね」
4: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 01:12:14.21 ID:gy/NmuiO.net
善子「堕天...」
ルビィ「善子ちゃん??」
ポツリと呟いたかと思えば、暫く思案に耽る善子ちゃん。
善子「いや、そう言われてみれば堕天使が関係しているような気が...」
花丸「適当ずら...。それで、その夢がどうしたっていうずら」
善子「あー、そうね。最近?というよりここ3日間ぐらいなんだけど、どうも朝起きたときに、また同じ夢を見たなって感じがするのよ。でも夢の内容自体ははっきりとは覚えてなくて...。でも、絶対に同じ夢を見てるのよね...」
花丸「それはさっき聞いたずら」
善子「だからぁ!なんだか夢の内容が思い出せなくて、ここ最近ずっとモヤモヤしてるって話!」
プンプンと擬音が聞こえてきそうなほど可愛らしく善子ちゃんは抗議してくる。全く、堕天使だなんだとか変なことを言わなければ可愛い女の子なのに勿体ないずら...。
ルビィ「でも、ルビィもその感覚分かる気がするな。朝起きたときに、前に見た夢だって思うんだけど、その夢をいつ見たかは思い出せないの」
善子「それって、夢の内容自体は覚えてるの??」
ルビィ「うん!こないだもそんな夢を見たんだぁ。あれはえっとねぇ...。うーん............。確かねぇ......」
善子「............」
ルビィ「ぅゅ...。わ、忘れちゃった...あはは...」
善子「ダメダメじゃない。世が世ならルビィ、あんたは市中引き回しの上打ち首獄門よ。そんで橋の下に3日間晒してやるわ」
ルビィ「ひどすぎるよぉ!」
ルビィちゃんが善子ちゃんに良いように遊ばれてるのを横目に、自分の記憶を引っ張りだしてみる。
花丸「ルビィちゃんの言ってるのはデジャヴに近いずら」
ルビィ「デジャヴ??」
ポカンとした顔でルビィちゃんはこちらを向く。
あれ、結構有名な単語のはずなんだけど...。
善子「あー、あのカジノで有名なやつね?」
花丸「それはベガスずら」
善子「じゃああれ?トルコのサンドイッチみたいな、おっきいお肉をクルクル回してるやつ」
花丸「それはケバブずら」
ルビィ「えっとえっと、あれかな、ワカメの根元部分のやつ!」
花丸「それはメカブずら。ルビィちゃんも無理に合わせなくていいずら。しかもただ韻を踏んでるだけずら」
花丸「じゃなくて、デジャヴずら。デ、ジャ、ヴ。日本語だと既視感とかに訳されるずらね」
善子「いや、まあ知ってるわよ。流石にね」
ルビィ「???」
花丸「簡単に言うと、見たはずの無い景色なのに、以前どこかで見たことがあるって感じたり、経験したことがないことも、以前に同じことをした覚えがある、みたいな感じずら」
ルビィ「なんだか、ルビィの状況にぴったり」
花丸「デジャヴは、忘れていた夢の残滓だという説もあるずら。だから、同じ夢を見たことは確かなんだけど、自分が以前見た夢を忘れているから、なんとなく気持ち悪い感じがするのかもしれないずらね」
ルビィ「うーん...。どうして夢を見るんだろう?」
花丸「ある学者は、夢は私たちの深層心理を反映していて、夢は願望を満たすために見ていると考えていたみたいずら」
善子「フロイトね」
善子ちゃんの口から思いもかけない言葉が聞こえてきて、思わず目を見開いてそちらを向く。
花丸「...よく知ってるずらね」
ルビィ「善子ちゃん、やっぱり頭いいんだね」
善子「まあ、夢占いを調べてたらちょっとね」
そういえば善子ちゃんの趣味というか特技というか...。まあ、なんというか奇癖は占いだったずら。最近はクラスで急に堕天使グッズを広げることも無くなったからすっかり忘れかけてたずら...。
善子「いや、そんなことはどうでもいいのよ。あれ、どうでもよくない?......私たち、何の話してたんだっけ」
ルビィ「えっと、善子ちゃんがおんなじ夢をよく見るって話だったような...」
花丸「でも善子ちゃんの場合、2回目の夢の内容自体忘れてるから、厳密にはデジャヴとは言えないかもしれないずらね」
善子「...え、じゃあさっきの話は何なのよ。私の悩みはどうなるのよ」
花丸「なーんにもわかんないずら!」
ふと時計を見ればもうすぐお昼休みが終わろうとしていた。
これではいけないと、さっさとお昼ご飯を消化するためにのっぽパンに齧り付く。内容自体は覚えていないのに、その夢を見たという実感だけは強く残る。確かに善子ちゃんの夢の話は興味を唆られる内容だったけど、のっぽパンには勝てないずら。
善子「......ずら丸、アンタも打ち首獄門よ」
次の日の朝、登校して教室に入ると珍しい顔が目に付いた。
花丸「あれ、善子ちゃん珍しいね。いつも遅刻ギリギリか遅刻するのに」
マルはどちらかというと登校時間の早い方ずら。生徒数が少ないとはいえ、マルが教室に入るときは先にいる生徒はいつも2人か3人。そこに善子ちゃんがいることは今まで無かったんだけど...。今日は珍しく、善子ちゃんがマルよりも早く登校していて、なおかつその顔はなんとも言えない輝きで満ちていたずら。
善子「ヨハネだってば!...あっ。...それよりも聞きなさいずら丸!この漆黒の堕天使ヨハネはついに!夢幻の世界へとその侵略の魔手を伸ばし、現世だけでなく幽世すらも平定することに成功したのよ!」
花丸「クラスの子が気になるなら最初からそのキャラ辞めるずら。それに、ちゃんと意味を理解して言葉使ってるずらか?」
善子「う、うっさいわね!とにかく聞きなさいよ!」
花丸「はいはい、で、どうしたずら?」
善子「昨日、夢の話をしたじゃない?それで、同じ夢をまた見るかもと思いながら寝たのよね!そしたらドンピシャ!やっぱりおんなじ夢を見ることができたのよ!」
花丸「でも、結局内容は覚えてないんでしょ?それじゃあ同じ夢を見ても意味ないずら。それどころか、同じ夢かどうかもわからないずら」
善子「甘いわねずら丸!もうほんっとーっに甘いわ!どのくらい甘いかっていうとそうね...。んー、甘エビぐらい甘いわね!」
花丸「甘エビ」
善子「堕天使ヨハネは日々進化しているのよ!何とねぇ、今回見た夢はきちんと内容を覚えているわ!」
花丸「ん、でも今日の夢の内容が今までに見た夢と同じとはわからないんじゃない?」
善子「それが不思議なことなんだけど、目が覚めた途端に確信したのよね。今まで見てきた夢はこれなんだって。こう、なんて言うのかしら...。世界が、変わった。はっきりわかんだね。って感じかしら」
花丸「い、意味がわからないずら」
善子「とーにーかーく!この堕天使ヨハネ様が、遂に夢幻の記憶の保持を成し遂げたってこと!」
花丸「夢の内容を覚えてたってだけでそこまで上機嫌になれるのは地球上で善子ちゃんだけずら。で、どんな内容だったの?」
善子「あら、ずら丸も気になってしょうがない、といった感じかしら?まぁ、そうねぇ、このヨハネ様に生涯変わらぬ忠誠を捧げるというのなら、教えてやってもよ・い・ぞ...」
じゃあ別にいいずら。
そう言って自分の椅子に座り、鞄の中から文庫本を引っ張りだす。やっぱり漱石はいいずらぁ...。
善子「あー、ウソウソ!ちょっとは興味持ちなさいよ!ほら、ちゃんと話してあげるから!」
花丸「最初からそうしてればいいずら」
善子「あんたサラッと毒舌よね。まぁいいわ、肝心の内容なんだけどね...」
善子「堕天使なのよ」
花丸「ん?」
善子「いや、だから堕天使なんだってば」
どうしよう、善子ちゃんがおかしくなっちゃったずら。
マルの困惑を知ってか知らずか、善子ちゃんは滔々と語り始める。
善子「昨日、夢の話をしたときにチラッと堕天使の話が出たじゃない?そのときになーんか引っかかってたのよね」
善子「そして昨日、夢の中で気付いたら真っ白な私の部屋にいたの」
花丸「善子ちゃんの部屋?」
善子「そうよ、寸分違わず私の部屋だったわ。ただ、なんて言うのかしらね、全てが白いっていうか...まあ、とにかく真っ白なのよ」
花丸「ぼんやりした説明ずら」
善子「夢なんてそんなもんよ。ただ、私の部屋とは違うところが一つあって、部屋のど真ん中に玉座みたいな赤い椅子が一つ置いてあるの」
善子「で、で、そこに誰が座ってると思う!?」
花丸「え、き、急になんずら!?」
善子「そこにはなんと!堕天使ヨハネが鎮座しているの!」
花丸「...うん?それは、えっと...善子ちゃんが座ってるってこと?」
善子「いいえ、堕天使ヨ・ハ・ネ・が!鎮座しているのよ」
えーと、つまり。善子ちゃんがここ最近で見ていた夢の内容っていうのが、真っ白な自分の部屋にある玉座みたいな赤い椅子に自分が座っているってこと...?
花丸「......」
善子「......」
花丸「............え、それだけ?」
善子「...なによ、これだけよ」
花丸「すごく時間を無駄にしたずら」
花丸「大体、どうして今までに見た夢が、そのー、部屋に善子ちゃんがいる夢だったってわかったの?」
善子「それはね、私に言われたからよ」
花丸「言われた?何を言われたんずら?」
善子「えぇ。玉座に座った私にね。『ようやく話せたわね』って」
花丸「ようやく?」
善子「そこで私はピンときたのよ。今までのぼんやりした夢は、おそらくもう1人の私が、いえ、ヨハネが私にコンタクトをとってきた証なんだって」
善子「夢の中で気付いたというか、起きてから確信したって感じなんだけど」
花丸「他には何か言われなかったの?」
善子「さあ?その後すぐに目が覚めたから、それきりね」
善子「それにね、夢占いで自分と話す夢を調べてみたのよ。そしたら、自分と話す夢を見る精神状態は、現状の自分に満足していてなおかつ、良い人間関係が構築できていることの現れなんだって!ついに私もリア充になったってことかしら!?」
花丸「たしかに善子ちゃん、Aqoursに入ってから毎日楽しそうだもんね。幼馴染みとしてマルも一安心ずら。それにそんな夢を見て喜ぶなんて、善子ちゃんがAqoursを大好きってことがバレバレずら」
善子「ちょっと、別にそこまでは言ってないわよ!」
花丸「でも、同じ夢を長期間に渡って見るなんて...。今までで何日ぐらい見てるずら?」
善子「ん?そうね、ボンヤリとしてた期間を含めたら大体4日ぐらいかしら?」
花丸「そっか。なんだかちょっと......」
善子「ちょっと?」
ーーー不気味だね。
その一言はどうしてか言えなかった。
善子ちゃんがマル達を、Aqoursを大切に思ってくれているその気持ちに、水を差すのがとても野暮だと思った。
花丸「いや、何でもないずら。あ、そろそろSHRが始まる時間ずら。ほら、善子ちゃんも席に戻るずら」
そう言って無理矢理に善子ちゃんを自分の席に戻す。
怪訝な顔でマルの方を見ていたけど、先生が入室してくると、その視線は黒板の方へと移った。
ちなみにこの日、ルビィちゃんは2時間遅刻したずら。
善子「ぷ、ぷふーっ!いやあ、しかし今朝のルビィはほんと笑えたわね!教室のドアを開けるなり「ぉ、ぉ寝坊しましたぁ!」だもの!お、お寝坊!高校生にもなって、お寝坊!!」
ルビィ「......善子ちゃん、うるさい」
善子「しかもその後、誰も聞いてないのに言い訳を始めて!?その内容が!?ダイヤが起こしてくれなかったから!?あんたたちの姉妹コントは留まるところを知らないわね!」
花丸「善子ちゃん、辞めるずら」
お昼休み。
大遅刻し、4時間目の初め頃に教室に到着したルビィちゃんを善子ちゃんが散々に煽り倒す。
ま、まあ、正直あの登場の仕方はマルも笑っちゃったけど...
ふとルビィちゃんの方を見ると、ルビィちゃんはじっとりとした目で善子ちゃんを睨め付けていた。
ただ、その目の端にキラリと光るものを認めた途端、流石の善子ちゃんも悪いと思ったのか素直に謝る。
善子「う...悪かったわよ...」
うん、やっぱり善子ちゃんは善い子の善子ちゃんずら。
善子「で、ルビィは毎朝ダイヤに起こしてもらってるわけ?」
前言撤回ずら。
善子ちゃんの顔は明らかに喜色を湛えていて
完全に今日のルビィちゃんを面白がっているみたい。
ルビィ「いつもはお母さんに起こしてもらうんだけど、今日は朝早くからお家を出てったから替わりにお姉ちゃんが起こしてくれるはずだったの」
善子「いや、起きれてないじゃない」
ルビィ「お姉ちゃんは起こし方が甘いんだぁ。ベッドで寝てるルビィに起きなさいって言うだけなの。そんなのじゃ二度寝しちゃうよね」
善子「あんた、かなりの大物よね...」
ルビィ「善子ちゃん、なんだか今日はご機嫌だね。休み時間はいっつも机で寝てるのに」
確かに。善子ちゃんは日頃の夜更かしが祟って基本的に日中は完全な無気力。
休み時間どころか、ともすれば授業時間中も机に突っ伏して寝ていることが多い。
マルは朝の話を聞いているから善子ちゃんが上機嫌な理由がわかるけど...
確かにルビィちゃんから見れば不思議な光景なのかも。
善子「ふっ...ルビ助!アナタも中々本質を捉える『眼』を会得し始めたようね...。このヨハネは遂に!夢幻の彼方さえもこの手に掌握せしめることができたのよ!」
ルビィ「???」
花丸「それじゃあ全くわからないずらよ」
善子ちゃんがまーた自分の世界に入っちゃったずら。
仕方がないからルビィちゃんに今朝の善子ちゃんの話を掻い摘んで説明する。
花丸「まあ、つまり、ここ最近見てた夢の続きを見ることができたってことずら」
ルビィ「えー!すごーい!」
善子「ふふ、そうでしょうそうでしょう。もっと私を崇めなさい!」
ルビィ「ルビィもね、今日はスイートポテトを一杯食べる夢を見たんだあ!でも食べようとした途端にお姉ちゃんの声で起きちゃって...。続きが見れるかなあと思って二度寝したのに見れなかったの...。夢の続きが見れるなんて、善子ちゃんは凄いなあ」
善子「......何か、急に程度が低くなっちゃったわね...」
花丸「正直、最初から程度の低い話ずら」
善子「何よ!崇高な話よ!」
善子「とーにーかーく!ヨハネは私に伝えたいことがあるみたいだから、今日もその夢の続きを見ないといけないのよ」
ルビィ「でも、どうしたら夢の続きなんて見れるんだろう?」
善子「それなのよ。昨日の夜も今までも、何か特別なことをしたってわけでもないし...。ずら丸、アンタこういうのは詳しくないの?」
花丸「マルを何だと思ってるずら...。枕の下に堕天使の写真でも入れてみたらどうずらか?」
善子「いや、確かによく言うけれども!そこまで子供っぽくないわよ!」
花丸「十分子供っぽいずら...」
ルビィ「でも、なんだか不思議な夢だよね。状況もそうだし、幻想的っていうか」
ーーー不思議な夢。
ーーーーーー幻想的。
ふと、頭に一文が浮かんだ。
花丸「ーーーこんな夢を見た」
善子「は?どうしたのよずら丸」
善子ちゃんが怪訝そうな顔でこちらを見る。
釣られて、ルビィちゃんの視線もマルの顔を捉える。
ふと口から溢れでた言葉が思いの外大きな声になってしまい、多少の恥ずかしさが顔を覆う。
花丸「そ、漱石の『夢十夜』の冒頭一文ずら。読んだことない?」
善子「あるわけないでしょ、そんなもん」
ルビィ「ルビィも無いかな」
花丸「か、過去ずら...。えーっと、『夢十夜』ていうのは」
花丸「『夢十夜』というものは漱石が夢をテーマに執筆した十遍の短編を纏めた小説ずら。漱石にしては珍しい幻想的な世界観が特徴で、1908年に当時の東京朝日新聞に連載されていたずら。「こんな夢を見た」っていう書き出しが有名なんだけど、実はそうやって始まるのは第一夜、第二夜、第三夜、第五夜の四篇だけなの。これは漱石にとっての現実と夢幻を区分するときに重要なファクターになるんだけど今は一旦置いておくずら。で、で、新聞連載小説っていうとあまり馴染みがないかも知れないんだけれど、これは当時の娯楽のあり方や、家父長制の観点からも
善子「わかった!わかったから!急に早口オタクみたいになるの辞めなさいよ!」
花丸「まだ殆ど話が出来てないずら...」
善子「いや、もう十分でしょうよ。とにかく、夢をテーマにした小説だってことはわかったわ」
ルビィ「何だか、善子ちゃんの夢も似たような感じだね」
花丸「そう!さすがルビィちゃんずら!マルもそう思ったの。何だか善子ちゃんの夢の話を聞いてたら『夢十夜』を思い出しちゃって」
善子「そうなの?」
花丸「もともと、夢というものは文学的、宗教的にも関わりが深いものずら。フロイト然りね」
善子「ふっ...剣術において夢想と名がつく流派が多いのも、数多の奥義は夢の中で開眼するものだからよ。さる剣豪もそう言い残しているわ...」
ルビィ「け、剣豪?」
花丸「......一体どこの何方ずらか?」
善子「いや、なんだっけ、ほら。たしか漫画で誰かが言ってたのよ。誰だっけなー。岩本虎眼先生だったかしら?」
花丸「聞いたことないずら。でもまあ、神託の多くは夢という形を取って齎されるものだから、あながち間違いではないのかも...」
善子「あんたも静岡県民なら虎眼先生ぐらい知っときなさいよ!」
善子「で?」
花丸「で?」
善子「オウム返ししてんじゃないわよ。で、その『夢十夜』が何だって言うのよ」
花丸「別に大したことじゃないんだけど...。何だか雰囲気が似てるなって」
喜子「不思議な夢を見たってだけでしょ?似てるっていうには根拠が薄すぎない?」
言われれば確かにそうなんだけど...。
マルが『夢十夜』に似ていると思ったのは、幻想の中に揺蕩う不気味な影。
漱石が描写した、どこか幻想的な世界の中に虚ろに存在する不穏な因子。
善子ちゃんの見た夢の話からは、それと似たものを感じた。
でも、やっぱり善子ちゃんにそれを言うのは憚られた。
なにより、笑顔の善子ちゃんを少しでも不安にさせるのは避けたかった。
花丸「でも、やっぱり『夢十夜』に出てきそうな話ずら。真っ白な自分の部屋の中で、自分自身に話しかけられるなんて」
まぁいいや。無理やり押し切ってしまおう。
マルが勝手に感じたことなんて、きっと大したことないんだから。
善子「そうかしら?ま、私の夢は文学になるほど高尚だってことね」
花丸「そうやってすぐ調子に乗るのは善子ちゃんの悪いところずら」
善子「うるさい!てかヨハネ!それよりルビィ、あんたは夢の続きを見る方法とか知らないの?」
ルビィ「う~ん。やっぱり、写真とか本を枕の下に入れるのが一番なんじゃないかなぁ」
ルビィ「寝る前に夢に見たいもののことだけ考えるのもいいって聞いたことあるけど、今朝は続きを見れなかったし,,,」
善子「あんた、後でダイヤに謝りに行きなさいよ」
花丸「枕の下に何か仕込むのも、一つの事だけ考えるのもどっちでもいいと思うずら」
花丸「結局、現実に起こったことが夢に影響するわけだから、狙えば見たい夢を見る事もできるんじゃないかな」
善子「うーん。確かに」
善子「昨日も寝る前にヨハネに会いたいって思いながら寝たから、今日その夢が見れたのかもしれないわね」
現実が夢に影響を与える。
自分の発した言葉が、すとんと入り込んできた。
そもそも、『夢十夜』自体が夢と現実を綯交ぜにした作品だったはず。
花丸「そういえば、『夢十夜』にも、現実が物語に影響を与えた話があるずら」
善子「そうなの?ちょっと興味出てきたわね。ずら丸、話してみなさい」
花丸「なんで上から目線になってるずら...」
花丸「さっき『夢十夜』は全十篇からなるって話をしたずら。それの第十夜、最終章の話ずら」
花丸「第十夜は、庄太郎が女に連れ去られてから7日目の晩に帰ってきたきり、熱で寝込んでいるってところから始まるずら」
善子「ちょちょちょ、いきなり急展開ね。庄太郎って誰なのよ」
花丸「庄太郎は町一番の好男子で、夕方になると水菓子屋の前で往来の女の顔を眺める趣味があるずら」
花丸「ちなみに庄太郎は第八夜にもちらっと出てくるよ。カメオ出演ってやつずら」
善子「なんの説明にもなってないんだけど...まぁいいわ。その庄太郎ってのが主人公なのね」
花丸「話を戻すずら。帰ってきた庄太郎に、皆はこの7日間どこへ行ってたのかを聞くの」
花丸「庄太郎が言うには、いつものように水菓子屋の前で往来を眺めてたら、立派な身なりをした女の人がやってきて、一番大きな籠詰を買ったの。でも、あまりに重たそうだから家まで運んであげることにしたずら」
ルビィ「優しい人なんだね」
善子「そんなわけないでしょ、こんなの下心100%よ。ルビィ、あんたは気をつけなさいよ」
花丸「庄太郎は女の人に連れられて電車で山へ向かった。電車を降りるとそこはあたり一面真っ青な原っぱで、女の人と一緒に歩いていると急に絶壁の天辺に出た。そのとき、庄太郎は女の人にここから飛び込んでみなさいと言われたずら」
善子「ほら見なさい!すけべ男に天罰が下ったんだわ!」
ルビィ「善子ちゃん、何だか嬉しそうだね」
花丸「変に感受性が強い...話を戻すずら」
花丸「もちろん、庄太郎はこんな崖からは飛び込むことなんてできないと拒否するずら」
善子「まぁ、当然のことよね」
花丸「しかし!女の人は続けて、もし飛び降りないのなら、豚に舐められますがよろしいですか?と庄太郎に問いかけるずら」
善子「はぁ?豚って、あの豚?」
花丸「哺乳綱鯨偶蹄目イノシシ科の動物で、イノシシを家畜化した、あの豚ずら」
ルビィ「そこまで聞いてないと思うけど...。でも豚さんって...」
善子「そんなの、好きに舐めさせればいいじゃない」
ルビィ「ルビィもそう思うな」
花丸「二人の言うことももっともずら。でも、庄太郎は豚と雲右衛門が大嫌いだったずら」
善子「まーた唐突に新キャラが出てきたわね。誰なのよ、その雲右衛門ってのは」
花丸「明治から大正にかけて活躍した浪曲師、桃中軒 雲右衛門のことずら」
花丸「ちなみに桃中軒っていう亭号は沼津駅にあった駅弁屋から取っているずら。現在も営業を続ける老舗のお弁当屋さんずら」
善子「意外とご当地キャラだったのね...」
花丸「豚は大嫌いだけど命には代えられない...でもやっぱり舐められるのも嫌だ...。そんな風に庄太郎がまごついていると豚が一匹、鼻を鳴らしてやってきたずら」
花丸「ここまでくるともうしょうがないと思って、庄太郎は豚の鼻頭を持っていたステッキで打った。すると、豚はぐうと一声鳴いたかと思うとごろりとひっくり返って、絶壁の下へと真っ逆さまに落ちていったずら」
善子「いや、素直に舐められなさいよ。庄太郎もまあまあ非道ね」
ルビィ「豚さんがかわいそう...」
善子「ルビィ、あんたはその心を大事にしていくのよ...」
花丸「お母さんずらか?......こほん、庄太郎は豚に舐められずにすんだとほっと一息。ところが、またしても大きな豚が鼻を擦りつけにやってきた。庄太郎はやむを得ず再度ステッキを振り下ろす。すると、先ほどの豚と同じように、ぐうと一声鳴いて、絶壁の下へと真っ逆さま」
花丸「すると、またしても豚があらわれる。ふと気づいて顔を上げると、遥か地平線の彼方から幾万匹か数えきれないほどの豚が群れを成して庄太郎目指して鼻を鳴らしてくるんずら」
善子「ふっ、自業自得ね。そのまま乙事主に突き落とされるがいいわ!」
ルビィ「善子ちゃん、それはイノシシだよ...」
花丸「庄太郎は心の底から恐怖した。それでもしょうがないから、近寄ってくる豚の鼻頭を一つ一つステッキで打ってたんずら。不思議なことにステッキが鼻に触れさえすれば豚はコロリと谷底へ落ちていく」
花丸「ふと谷底を覗いてみると、底の見えない絶壁を逆さになった豚が行列して落ちていく。庄太郎はこれくらいの豚を自分が落としたのかと我ながら怖くなったずら」
善子「自分で落としといてそれはヤバいわね。サイコパスの片鱗を感じるわ」
花丸「それでも豚は途切れることなく次々庄太郎に襲い来る。黒雲に足が生えたように、青草を踏み分けるような勢いで無尽蔵に鼻を鳴らしてくる」
花丸「庄太郎は必死になって、七日六晩にわたって豚の鼻頭を叩き続けたんずら」
善子「どんだけフィジカル!まるで果南ね...」
ルビィ「あっ!今の果南ちゃんに言っちゃお!」
善子「ちょ、殺されるわよ!」
花丸「二人とも果南ちゃんを何だと思ってるずら...」
花丸「庄太郎は必死に豚の鼻頭を叩き続けたずら。それでもとうとう精魂尽き果てて、手が蒟蒻のように弱ってきて、遂には豚に手を舐められてしまうずら」
善子「遂にきたわね!ふっ、ざまぁないわ」
花丸「そして、庄太郎はそのまま絶壁の上に倒れてしまいましたとさ」
ルビィ「庄太郎さんはどうなっちゃったの...?」
善子「そうよ、きちんと天罰が下ったんでしょうね」
花丸「第十夜はこれで終わりずら。その後が冒頭に繋がって、豚に手を舐められた庄太郎は熱がどっと出て寝込んでしまったんずら」
ルビィ「何だか、不思議な話だね」
善子「そもそもそういう「不思議」がテーマだってことでしょ?確かにちょっと面白い話ではあったわね」
善子「でも、その話のどこが現実が影響を与えてるっていうのよ。今のところ熱出た時に見る夢みたいな感じだけど」
花丸「そこは一度考えてみて欲しいずら。そこが文学作品の面白いところずら」
善子「考えるったって何を考えればいいのよ。全くのノーヒントじゃない」
そう言いながら善子ちゃんは頭に手を当て考え始める。
なんだかんだでノリがいいのも、善子ちゃんのいいところずら。
そんな折、ポツリとルビィちゃんが呟く。
ルビィ「どうして、豚さんなんだろう?」
善子「あー、確かにルビィの言う通りね。この話、別に豚じゃなくても話自体は成立するもの」
花丸「ルビィちゃん!!鋭いずら!!」
ルビィ「ピギィ!」
善子「ずら丸声デッカ」
花丸「さすが、ルビィちゃんは由緒正しいお家の生まれずら。素晴らしい素質を感じるずら」
ルビィ「えへへ、がんばルビィ!」
善子「生まれは関係ないでしょうよ」
花丸「確かに善子ちゃんのお母さんは学校の先生なのに、善子ちゃんには全く素養が見られないずら。生まれは関係ないのかもしれないずらね」
善子「あれは仮の同居人よ!ヨハネは闇より生まれし堕天使なの!」
ルビィ「墓穴掘っちゃったね、善子ちゃん」
善子「ヨハネ!こんなん回避不能でしょ」
善子「で!どこが鋭いポイントなのよ」
花丸「それは当時『夢十夜』が連載されていた時期を考えて欲しいずら」
ルビィ「それって、明治時代?」
善子「明治時代と、豚でしょ?なんか関係あるの?」
花丸「大ありずら。第十夜に登場する動物が、豚じゃないといけない理由がそこにあるずら」
ルビィ「うーん...。文明開花で、豚さんを食べるようになったとか??」
善子「どうかしらね。文明開花でフィーチャーされてたのは牛肉のイメージが強いわ。それに、肉食の解禁がこの話に繋がるとは思えないし...。なおかつ、現実から何かしらの影響を受けているってことでしょ?」
ルビィ「庄太郎さんは豚さんを嫌ってて、ステッキで崖から落としてて...」
善子「そんで、豚に舐められて高熱でダウン...」
うんうんと額に手を当てながら考え込む2人。
あーでもない、こうでもないと唸り続ける中、ふいに善子ちゃんがニヤリと笑う。
善子「フッ...謎は全て解けたわ」
ガタン、と椅子から立ち上がり、いつものよくわからないポーズを決める善子ちゃん。
その顔は驚くほど自信に満ち溢れているずら。いつもの善子ちゃんならここでズッコケ回答を披露してくれるずらが...。
善子「伝染病...。ずら丸、そうよね?」
ドキリ、と心臓が大きく跳ねた。
全くのノーヒントで答えを突かれたことにまずは驚愕が。
そして、善子ちゃんの綺麗な紅い瞳に射抜かれると、なんだか心の内すべてを見透かされているような気がして...。
花丸「......どうして、そう思ったずら?」
動揺を抑え込んで、何とか言葉を紡ぐ。
善子「豚って今でこそ綺麗好きだなんだって言われるけど、きっと明治時代とかだとそこまでのイメージは無かったと思うのよね。それこそ、ルビィの言う文明開花の折、養豚なんてまだまだ歴史が浅かったころの話だと思うし。明治時代だと、豚=不潔っていう図式が当時の人の中にあってもおかしく無いと思ったのよ」
善子「そんで、一番の決め手は庄太郎の高熱ね。そーんな不潔の象徴みたいな豚に、手を舐められた後に高熱で寝込む。これはもうインフルエンザとかの、その当時に流行ってた何かしらの伝染病を暗示していると考えたってワケ。ふふん、当たりでしょう、ずら丸?」
花丸「............大体、正解ずら」
善子「何でそんな渋い顔で言うのよ!もっと褒め称えなさいよ!!」
ルビィ「善子ちゃんしゅごい...!!」
善子「ルビィ、私のリトルデーモンはあなただけよ...」
花丸「でも、まさか正解するとは思わなかったずら」
善子「ま、このヨハネ様にかかれば、この程度の問題なんてちょちょいのちょいってことよ。さぁ、ずら丸!答え合わせをしてちょうだい」
花丸「うーん、答え合わせって言っても大体が善子ちゃんの言った通りずら」
花丸「まず、善子ちゃんの言った伝染病っていうのは、実際は豚コレラという病気ずら」
善子「コレラ?随分と物騒な病気じゃない」
花丸「コレラはね。豚コレラは実際には人に感染ることはないとされているずら。でも、当時はそこまで伝染病の研究なんて進んでなかったずら。そこに、明治41年に関東で2万頭を超える罹患豚が発生して、多くの人が大混乱に陥ったずら」
花丸「そして、『夢十夜』が連載されていたのも、同じ明治41年。第十夜は、当時流行していた豚コレラの脅威が背景にあったとマルは認識しているずら」
善子「なるほど。だからこそ豚じゃないと話が成立しなかったってことね?そして、現実の影響に即した内容だと」
ルビィ「でも、これも夢の話なんだよね?庄太郎さんは無事ってことだよね?」
善子「いやそもそも、夢の話でしょ?庄太郎は架空の人物だし」
花丸「そこが第十夜の面白いところでね?第一夜は冒頭に「こんな夢をみた」という一文から始まるんだけど、第十夜ではその一文は使われてないんずら。つまり、漱石は第十夜を夢の話ではなく、現実として描いているんじゃないかなって」
善子「えー、それってもう夢が関係無くなってるじゃない」
花丸「そうとも言えないずら。第十夜は夢であることを明記しないで、あくまで現実世界で起こっている出来事を夢想の世界に落とし込んだお話ずら。夢がベースになっていることは確かな前提条件ずら。第十夜だと現実が夢を侵食している構図だね」
善子「ま、結局夢みたいな不安定な存在は現実の前ではまったくの無力ということでしょ」
花丸「暴論ずら......。でも、そういうことかもしれないずらね。結局は夢なんて現実ありきのものずら」
善子「結論、見たい夢があるならそれを強く思い浮かべたり、現実で似たようなことをすればいいってことよね」
ルビィ「じゃあルビィ、お芋さんを食べる夢を見たいから、今日はお芋さんをおやつに食べようかなあ」
善子「ルビィ、あんたが会話に加わると、全体的にレベルの低い話をしている気になってくるわ...」
ルビィ「善子ちゃんひどいよぉ!」
花丸「堕天使の夢を見るよりは、マルもお芋さんの方が嬉しいずら」
善子「あんたは色気より食い気だものね」
花丸「堕天使に色気の要素なんて一切ないずら」
善子「ふっ...。あんたたちみたいな凡人には理解できまい...。堕天使に見初められし、このヨハネ様の美しさ、そして儚さを...」
ルビィ「ってことは、善子ちゃんは元々堕天使じゃなかったってこと?」
花丸「あ、ルビィちゃん鋭いずら。善子ちゃんは生まれついての堕天使じゃなかったってことだよね?いつ堕天使になったんずら?」
善子「......いや、私は生まれながらの堕天使だけど」
花丸「見初められしってことは、他の堕天使に仲間にしてもらったということじゃないずらか?」
善子「......いや、なにかしら。堕天使ってそういうんじゃないのよ。もっとこう、プライオリティ高めなスキームでこのグローバライゼーションされたソサエティにフルコミットしていく、いわばそういったロールをアサインされたハイアップなメンターってワケなのよ」
ルビィ「へぇ~、そうなんだぁ」
花丸「いや、絶対適当言ってるだけずら」
わいわいと、くだらないことを話して時間が流れる。
平和で穏やかな、普段と何も変わらないマルたちの日常。
そう、いつまでも続くと思っていた。
薄氷の上の、マルたちの日常。
それから数日たったある日、いつも通りの時間に教室に着くと
いつかのように善子ちゃんが席についているのが見えた。
花丸「あれ、今日も早いずらね。またなにか夢の進展でもあったずら?」
善子「...あぁ、ずら丸ね。夢ならずっと見てるわよ...」
頬杖をついて、どこか曖昧な目をした善子ちゃんと目が合う。
挨拶がわりに軽口を投げかけたら、予想と全く違うリアクションが返ってきて面食らってしまう。
いつものように、堕天使モードで嬉々として夢の内容を話し始めると思ったずらが...。
いや、でも確かに一昨日あたりからどうも元気が無かったような...。
花丸「どうしたずら?全然元気無いずらね」
善子「ん、ちょっと考え事してただけよ...」
花丸「善子ちゃん、少し前からなんだか元気なさそうずら。悩んでることがあるなら、話を聞かせてほしいずら。それに、夢をずっと見てるって...」
善子「............そうね、ちょっと聞いてくれる?」
大きくため息をついて、善子ちゃんはぽつぽつと語り出す。
善子「こないだ話した夢の件だけど、あれから毎日ずっと、同じ夢を見るのよ」
花丸「え、毎日ってそれじゃあ...」
善子「そうよ、かれこれ一週間ね。同じ夢を見続けてるの。さすがに気味が悪いったらありゃしないわ」
窓の外を眺めながら、さらにもう一つ大きなため息。
善子「それに、夢の内容もより鮮明になってきてるのよ」
花丸「どういうことずら?」
善子「前に、夢の中の私が「ようやく会えた」って言ってきたって話したの覚えてる?」
花丸「覚えてるずら。確か、真っ白な部屋で、もう一人の善子ちゃんが声を掛けてきたって」
善子「そう、そのときはそこで目が覚めたんだけど、この2日間はそこからさらに話しかけてきたのよ」
花丸「それは、どんな?」
善子「私は人間になりたいの。あなたが堕天使になりたいなら、私が代わってあげるってさ」
花丸「代わる...?」
代わるって、一体どういうことだろう。
怪訝な表情を浮かべていただろうマルの顔を見て、善子ちゃんが口の端をにやりと吊り上げる。
善子「そうよ、堕天使になりたい人間の私の夢に現れたのは、人間になりたい堕天使の私。漫画なら喜んでその提案を受け入れるんでしょうね」
どこか自嘲的な口調の善子ちゃん。
漫画じゃなくても、いつもの善子ちゃんなら即答しそうなものだけど...。
花丸「でも、善子ちゃんは普段から堕天使になりたいんじゃなかったずらか?」
善子「そうね。これが普通の夢だったら迷わず即答したと思うわ。でも、私はこの夢を1週間も連続で見てるの、寸分違わず同じ夢を」
ひやり、と背筋に冷たい感覚が広がっていく。
マル自身も薄々感じていたこと。きっと、今善子ちゃんが見ている夢は尋常の物ではない。
善子「それに、夢の中の私はそれに強く抵抗している...と思う。何かわからないけれど、とにかく早く目を覚まさないとって、それだけをずっと念じていたわ」
善子「ダメ押しで、朝起きた時には寝汗でパジャマとシーツがぐっしょり。朝からシャワーを浴びたらすっかり目が覚めちゃって、おかげさまでこんな時間から登校する羽目になっちゃったわ」
善子「とにかく、そんなこんなで何か言いようのない不安感に包まれてるってわけよ。ずら丸もそんな経験ない?休みの日の夕方遅くに起きちゃって、言いようのない不安がずっと心を苛む感じ」
マルはお休みの日でも早くに起きるから...。
そう答えつつも、善子ちゃんの言う何とも言い難い、じわりとした不安感が心を包む感覚はわかる気がした。
花丸「で、でも結局は夢の話ずら。善子ちゃんはそこまで深刻に考えなくてもいいんじゃないかな」
善子「なによ。ずら丸らしくないわね。いつもだったらもっとからかってくるのに」
花丸「そーんなことないずら。なんだか神妙で落ち着いてて、大人っぽい善子ちゃんなんて気味が悪いだけずら」
善子「なんか私のこと褒めてるみたいになってない?」
花丸「ぜーんぜん褒めてないずら!これが褒めてるように聞こえるなら随分お花畑ずら!まったく、心配して損したずら」
善子「あら、心配してくれてるの?あんたも可愛いとこあるのね」
花丸「いや、全然心配してないずらが?」
善子「意地張っちゃって。ま、たかが夢で思い悩むのも馬鹿らしいわね。せっかくの週末だし、ずら丸!今日の練習終わったら松月に行くわよ!」
花丸「......今日の練習は果南ちゃん考案のスペシャルメニューずら」
善子「......生き残ってたら行きましょう」
そして、この日から善子ちゃんの様子はおかしくなってしまった。
週が明けて月曜日。
マルがいつものように教室に入ると、甘ったるい刺激臭のような匂いが鼻を突いた。
思わず鼻を抑えて教室を見渡す。すると、異臭の元はすぐに見つかった。
まず目に入ったのはいつかのように頬杖を突いて窓の外を眺める善子ちゃん。
その机の上には、黒いアルミ缶に、けばけばしい蛍光緑の意匠が施された、見るからに体に悪そうなジュースが数本乗っていた。
花丸「善子ちゃん、朝から一体何を飲んでるずら?」
鼻をつまんで、ぱたぱたと手を振りながら善子ちゃんの席に近づいていく。
案の定、匂いの発生源は机の上のジュースで、近づくほどに鼻を刺す臭いは強くなっていく。
善子「何って、ただのエナドリよ」
ため息交じりにこちらを向いた善子ちゃんの顔を見て思わず息を呑んだ。
珍しく眼鏡をかけているものの、それは落ちくぼんで暗く影を落とす眼孔と、濃く刻まれた青黒いクマを隠すに至っていない。
どこからどう見ても、寝不足ということが見て取れる容貌だった。
花丸「ひどい顔してるずら。それに、その、えなどり?それもそんなに飲んじゃ身体に悪いよ」
善子「この土日はぶっ続けでゲームしてたからね。エナドリ飲まなきゃぶっ倒れちゃうわよ」
花丸「大体の授業中は寝てるくせに何言ってるずら...」
僅かな違和感。
普段であれば授業中であっても堂々と睡眠を決め込む善子ちゃんが、体に悪いジュースを何本も飲んでまで起きていようとする姿勢。
一日程度の徹夜では説明しきれないほどのやつれきった姿。
もしかして、先週末に分かれた後から一睡もしていない...?
善子ちゃんなら、お休みの日に寝ずにゲームをすることもあるかもしれない。
でも、ここ最近善子ちゃんを悩ませるある症状が脳裏を過ぎる。
確信にも近い予感が、思わず口をつく。
花丸「......夢を見るのが怖いずらか?」
大きなため息。
言葉にせずとも、マルの予感が当たっていたことを雄弁に語っていた。
善子「そう、あんたにはお見通しってわけね」
ふと視線を落とすと、善子ちゃんは両腕を掻き抱き、
小さな震えを必死に押し殺していた。
善子「ホント、情けないったらありゃしないわね。たかが夢の話でこんなに怖がっちゃって」
花丸「ううん、そんなことないずら。何があったか、聞かせて?」
震える手で机の上の缶を手に取り、口をつける。
そして、ぽつぽつと喜子ちゃんは話し始めた。何があったのかを。
善子「先週末の練習終わり、曜が梨子と千歌の家によるっていうから、一人で帰ってたの。で、その日の練習は果南考案のスペシャルメニューだったでしょ?バカみたいなハードワークで体力的にかなりキテたのよ。その日はいつもと違って一人で帰ってたから、バスでちょっと寝落ちしちゃったのよ」
善子「ほんのちょっとだけね。時間にしたら1分も経ってないと思うわ。ただ、そのわずかな時間で...」
善子ちゃんが口をつぐむ。
ああ、きっと、
花丸「また、あの夢を見たんずらか?」
善子「......そうよ。しかも、前回の続きをね」
花丸「続き?続きって確か...」
善子「そうよ、もう一人の私が変わって...、いや、私を乗っ取ろうとしてくる話よ」
花丸「乗っ取るってそんな...」
善子「何も大げさな話じゃないわよ。でも、バスの中で見た夢はそれだけで終わらなかった。もう一人の私が、私の手を取って...。そこから何をしようとしたのかはわからない。夢だっていうのに、あのとき感じた手の冷たさは今でも残ってる。というより、まるで触れられた場所の体温が奪われたみたいよ。ほら、ずら丸」
善子ちゃんが左手をマルへと伸ばしてくる。
両手で包み込んでみると、なるほど、確かに通常の体温よりも明らかに低い。
花丸「で、でも、徹夜してるせいで血行が悪くなってるだけじゃないずらか?」
善子「ま、私も最初はそう思ったわよ。でもね、ほら」
今度は右手が伸びてくる。
先ほどと同じようにそれも両手で包み込むと
花丸「え...温かい」
左手と比べるまでなく、先ほどは明らかに違う、温かな右手。
善子「お風呂に入っても、熱いお湯に手を浸しても、何をやったって右手に体温が戻らない。ほんと、嫌になってくるわ」
花丸「病院には?」
善子「行くわけないでしょ。どうせ原因不明って言われるか、心因性の適当な病名告げられるのがオチよ」
善子「それに、バスで寝ていた時間は1分もないくらいの短い時間だった。長浜のバス停からトンネル抜けるくらいまでかしらね。でも、私があの白い部屋にいた時間はそれよりももっと長い。いつも同じ夢を見てるんじゃない。夢を見るたびに、夢の内容が進んでいく...」
花丸「ゆ、夢と現実で時間の体感速度が違うのはよくある話ずら。そんなに怖がることないずらよ」
少しでも喜子ちゃんを安心させようと気休めを言ったが、きっとこれは逆効果だ。
誰の耳にもはっきりとわかるぐらい、マルの声は震えていたから。
善子「ずら丸、あんた猿夢って知ってる?」
花丸「さる、ゆめ?」
善子「ネットに疎そうなあんたは知らないかもね。ま、一昔前に流行った掲示板の怪談よ。すぐ読めるぐらい短いから...出てきた。ほら、読んでみなさいよ」
善子ちゃんに手渡されたスマートフォンにはなるほど、猿夢と題されたページが表示されている。
たどたどしく画面をスクロールしていき、そこに書かれている文章を読み進める。
たしかに、この話は......
善子「まさに今の私よ。しかも、猿夢と違って私は毎日この夢を見ている。猿夢程はっきりした危険が迫ってるわけじゃないけど...。次に眠ったとき私は私じゃなくなるかもしれない...」
花丸「だから、先週から一度も寝てないの?」
善子「そうよ。寝ないようにずっと高難度のゲームやってみたりしてね。それでも限界がきそうだったから学校に来たってワケ。学校ならもし寝ちゃってもすぐに先生が起こしてくれるしね」
まあ、一瞬寝ただけでおしまいかもしれないけど。
やさぐれたようにつぶやいてジュースを呷る。
善子ちゃんの震えは、未だ収まりそうもなかった。
善子ちゃんの話は、俄には信じられないほど突飛で荒唐無稽。
いつもならつまらない軽口を叩いて、流して終わり。
でも、ここでマルが善子ちゃんを突き放したら、きっと善子ちゃんの心は折れてしまう。
マルが、マルがなんとかしてあげないと...。
花丸「善子ちゃん、今日はAqoursの練習は休んでマルと一緒に帰ろう?おじいちゃんにお祓いしてもらえないか聞いてみるずら」
善子「あぁ...。そういえばあんたの家はお寺だったわね。寺生まれのTさん?いや、Hさんってわけ?」
花丸「茶化さないで欲しいずら。マルは、マルは善子ちゃんの力になりたいの...!善子ちゃんのことだから、他の人にも相談してないんでしょ?それでも、マルには話してくれた。善子ちゃんのことが、大切だから、だから心配なの...!」
善子「...ごめん、ちょっとやけっぱちになってた。そうね、お祓いしてもらおうかしら。頼ってもいい?」
もちろんずら。
そう言って、善子ちゃんの左手を手に取り、もう一度包み込む。
その冷ややかな左手を温めるように、善子ちゃんの恐怖を抱いた心が少しでも温まるように。
善子「ありがとね、花丸」
照れくさそうに微笑む善子ちゃんに、いつもの日常を見たずら。
花丸「練習、千歌ちゃんになんて言って休むずら?」
善子「ま、正直にお祓いに行くって言って休むのは論外ね。確実に千歌は大騒ぎするわよ」
花丸「かといって、適当な理由でも休めないずらよ」
善子「私が体調悪いから休むって言って、ずら丸が付き添って帰るって言えばいいじゃない。今日の私の顔を見せれば一発でしょ」
花丸「そうずらね。それが一番いいと思うけど、曜ちゃんはおうちも近いし、私が送るって言わないかな」
善子「曜ならそのヒーロームーブも様になるわね。ま、そこは押し切れるでしょ。最悪、千歌にLINE入れとくわ」
花丸「わかったずら。とにかく、授業が終わったらすぐにマルの家に行くずらよ」
善子「りょーかい。あ、あと、授業中にもしも私がウトウトしてたら、何をしてもいいから起こして」
花丸「何をしてもいいずらかぁ~??」
善子「頼んだわよ、花丸」
授業中、マルはほとんど話を聞き流し、横目で善子ちゃんの綺麗な横顔を伺っていた。
何をしてもいいとお墨付きをもらったけど、善子ちゃんは居眠りする素振りすらなく、真面目に授業を受けてノートを取っている。
先生も珍しい善子ちゃんを喜んで、机の上に載せたままの缶ジュースを見てもお咎め無し。
いつもこうだと完璧なのになぁと思ったりもしたずら。
そして、2限目が終わったあとの休み時間。
ルビィ「善子ちゃん、先生に褒められてたね!いつもは寝てたりして怒られてるのに」
善子「ま、私が本気を出せばこんなもんよ。私としてはルビィ、あんたが寝てても一切怒られないのが不思議だけどね」
ルビィ「ルビィ、入学してから今まで怒られたことないんだぁ。きっと運がいいんだよ。善子ちゃんはほら、不幸だし」
花丸「う~ん。ルビィちゃんが起こられないのは、きっと黒澤
善子「ちょ、ずら丸!消されるわよ!」
ルビィ「???」
花丸「善子ちゃんはルビィちゃんのおうちをなんだと思ってるずら...」
善子「そりゃあ勿論、ヤの付く職業でしょ」
花丸「やめるずら」
ルビィ「まじめに授業受けてたけど、善子ちゃん、いつもより顔色悪いよ?」
善子「あー、土日にずっとゲームしてたのよ。それで寝不足なの」
言いつつ、チラリとこちらに目線を遣ってくる。
言葉には出さないまでも、ルビィちゃんには夢の事は言わないでというサインに違いない。
善子ちゃんの性格からして、ルビィちゃんに余計な心配をかけたくないんだろう。
ルビィ「どんなゲームしてたの?」
善子「隻腕の忍者が侍をボコボコにするゲームよ。難しいったらありゃしないわ」
ルビィ「そうなんだあ、今度善子ちゃんがゲームしてるとこ見に行っていい?」
善子「ダメよ。あのゲームをしてるとき、私は人間ではなくなる...。ルビィ、貴方を殺意の波動に目覚めさせるわけにはいかないわ」
花丸「何をバカなこと言ってるずら。とにかく、善子ちゃんは学校終わるまで、きちんと起きておくずらよ」
善子「わーってるわよ」
三限目も善子ちゃんの方をずっと見ていたけど、特に問題はなかった。
ときどき、善子ちゃんがあくびを噛み殺しては涙目になっているのを目で揶揄ったりなんかして。
平穏と言っていい時間だった。現状を包む不安から目を背けていただけかもしれないけれど...。
でも、問題は四限目に起こってしまった。
ノートを取りつつ、横目で善子ちゃんの様子を伺っていると、どうやら善子ちゃんにも限界がきたようだ。
先ほどまではピンとして伸びていた背筋がやや猫背気味になり、黒板を見つめていた目は、今や焦点が合っておらず
とろんとした眼差しを虚空に向けていて、今にも瞼が閉じそうだ。
事前にお願いされていた通り、善子ちゃんを起こすためにシャーペンでわき腹を小突こうと手を伸ばした瞬間
ガタンッ!と大きな音を立てて、弾かれたように善子ちゃんが立ち上がった。
そのあまりの勢いに、立ち上がる際に引っ掛けた机が遅れて倒れ、二度目の大きな音を立てる。
静まり返る教室の中で立ち尽くす姿を見上げ、思わず息を呑んだ。
ただでさえ青白かった顔色はもはや一切の色を失い、まるで幽鬼のような様相を呈している。
瞳孔が開き、眼球はせわしなく上下左右にぐるぐると動く。錯乱状態にあることは明らかだった。
クラスメイトは愚か、教師でさえ異様な雰囲気に当てられてしまい、一言も発することができない。
時が止まったかのような錯覚を覚えるほどの沈黙の中、善子ちゃんがゆっくりとマルの方を向く。
マルの姿を認めると、その紅い双眸にじわりと涙が滲んでいく。
善子「はな...まる...」
か細く、掠れ切ったその声は、マル以外には聞こえていなかったかもしれない。
助けを求める声は余りに小さく、それ故に、マルにとっては十分だった。
花丸「保健室にいきます」
自分のカバンと善子ちゃんのカバンを引っ掴み、素早く席を立つ。
教師の返答を待たずに、善子ちゃんの腕を掴んで強引に廊下へと連れ出す。
あの一瞬。コンマ数秒にも満たないあの一瞬に、件の夢を見てしまったに違いない。
善子ちゃんの手を取ったまま、ずんずんと昇降口へと歩いていく。
先生には保健室へ行くと言ってはいたが、そんなつもりは毛頭なかった。
花丸「善子ちゃん、このままマルのおうちへ行って、お祓いしてもらおう」
善子「......花丸。私、どのくらい寝てた...?」
善子ちゃんが震える声でマルに問い掛ける。
目線は常に下を向き、必死に涙を堪えているように見える。
花丸「......ほとんど寝てないずら。時間にしたら、ほんの1秒にも満たないぐらい...」
善子「......そんなことだろうと思った。ほんの一瞬、意識が途切れるだけでも駄目なのね...」
花丸「今度は、どんな夢だったずらか?」
善子ちゃんの腕を引っ張りながら、昇降口を一心に目指す。
マルの家まではどうやって帰ろう。この時間はバスの本数も極端に少なく、またタクシーなどもアテにできない。
少なくとも長浜城跡までは歩かないといけないかも。
頭の中で様々な考えがぐるぐると回る。
でも、今はとにかく善子ちゃんの意識を繋ぎ止めておかなければ。
善子「......前回より、何もかもがハッキリしてる。夢の中のアイツが言うの。私が、人間になってあげる。貴方は堕天使になれるわよって。アイツはまた私の手を取って...多分、手の甲に口付けしようとしてたわ」
花丸「......口付け?」
それは、何かとても危険な雰囲気を纏う行動。
同じことを善子ちゃんも感じていたのだろう、震える声で独白を続ける。
善子「手の甲に口付けされたら、きっと夢は終わる。でも、次に目覚めたら、それは私じゃない。アイツに乗っ取られた別人の私......」
善子「それに、目が覚める直前、確かに聞こえたの...!次は、次は逃がさないって...!!」
善子「どうしよう花丸...!わたし、堕天使になんかなりたくない...!......怖いよ......」
花丸「とにかくマルのおうちで、一度お祓いしてもらおう。善子ちゃんは、絶対に守るから」
マルのおうちは、至って普通のお寺。
創作物の中にあるような、妖怪や悪霊の類をお祓いしたことなんてない。
お祓いだって、効果があるかどうかすらもわからない。
それでも、マルが今の善子ちゃんにしてあげられる数少ない選択肢の中で、お祓いがもっとも現実的で、かつ善子ちゃんを安心させることができると思った。
心因性のものなら、お祓いという行為がファクターとなって、善子ちゃんの抱えている問題が解決するかもしれない。
何より、今の善子ちゃんを見捨てるわけにはいかなかった。
震える善子ちゃんの手を握ったまま、とにかく足を止めずに歩き続ける。
昇降口を抜け、校門を抜けて坂道を下っていく。
バス停のある海岸線まで下ってもまだ、善子ちゃんの震えは止まらない。
坂道を下り切ったあとに少し戻り、バス停の時刻表を確認する。
この時間だとバスは1時間に1本。11時台のバスは10分ほど前に過ぎてしまっていた。
花丸「善子ちゃん、次のバスまで1時間ぐらい待つずら...。ベンチに座ろう?」
善子「......ううん。......ごめん、花丸。ちょっと...バスは乗りたくない...」
そうだった。
以前に善子ちゃんはバスに乗ってるときに悪夢を見ているんだった。
花丸「そっか。じゃあ少し歩くずら。途中でタクシーが通ったら、それに乗せてもらおう?」
善子「ごめんね、花丸。迷惑かけちゃって...」
しばらく歩いて、弁天島を越えたあたりでポツリと善子ちゃんが呟いた。
花丸「ううん、全然気にしないで。それより、大丈夫ずらか?」
善子「まあ、そうね...。平気ではないけど、少しは落ち着いてきたわ」
なるほど、確かに善子ちゃんの震えは止まっている。
幽鬼のようだった顔色も、少しずつ色が戻ってきたように見えた。
花丸「無理しないで。気になることがあったら何でも言ってね。マルが何でもしてあげるずら」
善子「ありがと、花丸。アンタ、ほんとに優しいわね」
ふっと、力なく微笑むその物憂げな表情に心がときめいたのは、きっと勘違いじゃない。
だからこそ、善子ちゃんのために、出来ることは何だってやってあげたいんだ。
長井崎トンネル前の四叉路に差し掛かったとき
ちょうど内浦方面からタクシーが一台向かってくるのが見えた。
このまま、マルの家まで歩かなくてよくなったのは僥倖ずら。
目一杯手を伸ばして、タクシーを呼び止める。
運良く空車だった車に善子ちゃんを乗せ、自身の体を滑り込ませる。
この時間に制服を着た学生が二人、タクシーに乗り込んだことに、運転手は一瞬怪訝な表情を浮かべたが、マルの自宅の住所を告げるとそのまま車を発進させた。
花丸「善子ちゃん、家に行くまでにどこか寄る?」
善子「あー...。そうね、エナドリ買い足しておこうかしら。...すいません、途中でコンビニがあったら寄ってもらっていいですか?」
運転手にそう告げ、頬杖をつきながら善子ちゃんは窓の外を眺める。
ふと、右手に何かが触れる。視線を落とすと、善子ちゃんの左手が、所在なさげに丸の右手の近くに置かれている。
善子ちゃんの手を包み込み、視線を上げる。
その横顔には朱が差しつつも、外を眺めたまま何も言わない。
......マルが守るんだ。
大事で、大切で............大好きな、善子ちゃんを。
途中でコンビニに寄り、善子ちゃんが身体に悪そうなジュースを買い、そのまま店の前で飲み始める。
花丸「ここで全部飲んじゃうつもりずら?」
善子「こんなもん車内で開けてみなさい、テロにも等しいわよ。それに、まだ何本か買ってあるから大丈夫よ」
花丸「マルだけじゃなく、運転手さんのことまで気にかけるなんて、やっぱり善子ちゃんは良い子ちゃんずら」
善子「もうっ!茶化さないで!」
花丸「うんうん。良い子にしてるご褒美に、また手を繋いで乗ってあげるね?」
善子「にゃああああああ!!!」
マルの家に到着してすぐ、おじいちゃんとおばあちゃんにお祓いをしてほしいと頼み込んだ。
最初は怪訝な顔をしていたけれど、事情を説明し、あまりにも尋常ではないマルたちの様子を見て、お祓いの準備に取り掛かってくれた。
善子「私が言うのも何だけど、よく応じてくれたわね」
花丸「善子ちゃんが善行を積んできたおかげずら」
善子「えぇ...。そんなもんなの?」
花丸「それは冗談として、学校を抜け出してまで駆け込んできたずらよ?さすがにおじいちゃんたちも、何かあると思ったんじゃないかな」
善子「それもそうね...。お祓いって、やっぱりあれかしら、白いフサフサを振るやつ?」
花丸「大幣のこと?それは神社だけずら。マルのおうちはお寺だから、護摩祈祷ずら」
善子「護摩祈祷?」
花丸「そう。仏様を招いて、炎の中に供物を捧げておもてなしするずら。それで、仏様に願いを聞き入れてもらったり、加護を貰ったりするの」
花丸「それに、護摩で焚かれる清らかな炎は、マルたちの心の邪なるものを焼き払うと言われているずら。だからきっと、善子ちゃんを悩ませてるものだって...」
善子「そっか。何から何までありがとね、ずら丸」
花丸「むぅ......」
善子「な、なによ、そんなにふくれちゃって」
花丸「マルのこと、ずらマルって呼んだずら。さっきまではちゃんと花丸って言ってくれてたのに...」
善子「そ、そうだったかしら?」
花丸「そうだったずら。善子ちゃんは、マルに借りがたーっくさんあるずら。だから、善子ちゃんはこれからもマルのこと、花丸って呼ばなきゃいけないずら」
善子「もう......。そうね、ありがとう、花丸」
ああ、やっぱり。
善子ちゃんには、こんなふうな笑顔が一番似合う。
願わくば、これからもずっと、その笑顔をマルにーーー。
おじいちゃんから、お祓いの準備が整ったと声がかかる。
これで、これできっと、善子ちゃんはいつも通りに戻れるずら。
善子「ね、ねえ花丸。お祓いのとき、花丸も一緒に居てくれるのよね?」
花丸「もちろん。善子ちゃんが怖がらないように、またマルが横で手を握っててあげるずら」
善子「ちがっ!単純に、また寝ちゃわないように見張っててもらおうと思っただけ!」
花丸「えー。本当にそれだけずらあ?」
善子「まあ...手を握っててもらえるのは嬉しいけど」
俯きがちに、唇を尖らせてもにょもにょと喋る善子ちゃん。
か、可愛いすぎるずら...。
護摩祈祷を行う間には、すでに炎が轟々と燃え上がり
開け放たれ、広々としたはずの広間の室温をじわりと汗が滲むほどにまで上げていた。
マルのおじいちゃんはすでに袈裟に身を包み、炎と向かい合っている。
花丸「善子ちゃん」
善子「え、えぇ」
マルは善子ちゃんの手をしっかりと握ったまま、炎へと近づく。
二人揃って、炎の前でちょこんと正座し、予め用意していた護摩札を取り出す。
護摩札を炎にあて、強く、強く念じる。仏様の加護を得られるように。
世界で一番大切な、善子ちゃんを守ってくれるように。
善子「花丸。この炎って、邪なものを燃やしてくれるのよね?だったら、これも一緒に燃やしてくれないかしら」
御火加持の途中で、ふと思いついたように、善子ちゃんは1枚の黒い羽を取り出す。
これって確か...。善子ちゃんが占いをするときやライブのときにお団子に刺していた...。
善子「これは、堕天使の私を象徴するアイテム...かもしれない」
花丸「......いいの?これって大事なものじゃ...」
善子「いいのよ。堕天使に憧れたり、振り回されたりはもう懲り懲り。これからは人間として、津島善子としての人生を歩んでいきたいの」
善子「それで...。できれば、その隣には花丸。アンタがいて欲しい」
花丸「え、え、それって、え、つまり...え、そ、そういうこと...??」
善子「動揺しすぎじゃない?まぁ、そういうことよ」
炎に照らされた善子ちゃんの顔はあまりにも真っ赤で
きっと、指摘すれば炎を言い訳にするんだろうな、なんて思ったりして。
そんなことがとても愛おしくて。
花丸「...うん。これからずっと、マルは善子ちゃんの隣にいる。マルが、善子ちゃんを支えてあげる」
善子「絶対よ?」
そうやって、真っ赤な顔のまま悪戯っぽく笑う善子ちゃんがあまりにも美しくて。
まずは、お祓いを終えたらいっぱい話そう。
今までのこと、そして、これからのこと。
うん...?お祓い......?
あ...
マルたちの思考は、気まずそうに咳払いするおじいちゃんによって、現実に引き戻された。
善子「全く...締まらないったらありゃしないわね」
花丸「でも、なんだかマルたちらしいずら」
それもそうね。
そう言って善子ちゃんは羽を手に立ち上がる。
善子「今回のこと、ちょうど良かったのかもね。もう堕天使になりたいとも、自分が堕天使とも思わない。私はただの津島善子。花丸にこうやって助けてもらうまで、本当に怖かったし不安だった。けど、アナタのおかげで、花丸ともっと仲良く、自分の気持ちに素直になれた」
花丸「善子ちゃん......」
善子「今まで私を支えてくれて、ありがとう。拠り所でいてくれて、ありがとう。でも、もう大丈夫。私には花丸がいるわ。......ごめんね」
堕天使の羽が、炎の中へと落ちていく。
落ちていった羽は、マルの位置からはよく見えない。
けれど、炎に照らされた善子ちゃんの何だか吹っ切れたような横顔は、やっぱりとても綺麗で、これで全てが終わったような確信をマルに抱かせた。
護摩祈祷が終わったあと、おじいちゃんから受け取った護摩札を善子ちゃんに手渡す。
花丸「このお札は、基本的にはお家の浄らかな場所に安置しておくずらが...。不安だから、今日はずっとお札を持っていてほしいずら」
善子「......そうね。私もそうしておきたい。ありがとね、ズラ丸」
花丸「あ、また!またズラ丸って言ったずら!もう!ズラ丸禁止ずら!」
善子「いいじゃない、私が呼ぶ分には。他の人にはズラ丸なんて呼ばさせない。だからアンタも、他の人にズラ丸なんて呼ばれんじゃないわよ」
花丸「も、もう!」
な、なんというタラシずらぁ...。
花丸「ところで、この後はどうするずら?学校、戻る?」
喜子「今から戻ったってまともに授業なんて受けらんないでしょ。なんだか安心したらお腹空いたし眠たくなっちゃったわね」
時計を見ると時刻は既に14時を過ぎており、今から学校へ行ったところで放課後だろうということは明らかだった。
今日の喜子ちゃんの様子からして、Aqoursの練習に参加させるのも......あ。
花丸「そ、そういえば、学校を抜けてきたこと、誰にも言ってないずら......」
喜子「あ......確かに。......ヤバっ!みんなから鬼のような連絡がきてる......」
花丸「ほんとずら......。お昼休みにルビィちゃんが保健室に来て、マルたちが居ないことに気づいてみんなで学校中探してくれてたみたい...」
喜子「うわ、ルビィからのなんて、段々と地雷系女子みたいなLINEになってる!こわ~~」
花丸「ひとまず、安否確認だけしておくずら...」
みんなには少しぼかして、喜子ちゃんの体調が悪くなったから早退したこと。
付き添いでマルが一緒に帰ったこと、今日の練習は参加できないことを伝えた。
皆からは色々と詮索されたずらが、また明日に詳しく話すと言って、なんとかひと段落ついたずら。
喜子「ま、とにかく。遅くなったけどお弁当食べましょ。ズラ丸もまだ食べてないでしょ?」
花丸「はい、これが喜子ちゃんの鞄。今ここでお弁当が食べられうのも、教室を出るときに鞄を持ってきたマルのふぁいんぷれーのおかげずら」
喜子「はいはい。えらいえらい。ありがとーズラ丸ー」
花丸「全然気持ちがこもってないずら!」
なんて。
そんな軽口を叩きながらのひと時はとっても楽しくて。
ここにルビィちゃんやAqoursのみんなも加わって。
マルがとっても大事に想っているものが、ここにはあったずら。
空になったお弁当箱を片付けて、他愛もない話をしていると、喜子ちゃんの瞳が段々と微睡んでいくのが見えた。
花丸「喜子ちゃん、眠たくなっちゃった?」
喜子「ん...まぁ、そうね。何だか緊張の糸が切れたっていうか、単純に数日間寝てないわけだしね」
花丸「そっか。じゃあ、マルと一緒にお昼寝する?ほら、お祓いは無事に済んだけど、まだやっぱり不安だったり...」
喜子「そ、それって、同じ布団でってこと?」
花丸「も、もちろんずら!」
しまった。
同じ布団がどうとかなんて考えてすらなかったずら。
でも、ということは......。
花丸「喜子ちゃんがそういうから、仕方なくずら!」
ふっ、と喜子ちゃんが柔らかく微笑む。
きっと、想いは同じはずだから。
善子「なんか落ち着かないわね...。お風呂入ってないけど大丈夫?」
花丸「別にマルは気にしないずら。パジャマのサイズは大丈夫?きつくないすらか?」
善子「何よ、ケンカ売ってるの?きついわけないでしょ!って普通はこれ逆じゃない?」
花丸「どういうことずら?」
善子「いや、わかんないなら別にいいわよ。それより、お風呂入ってないのに布団に入るのが平気なのかって話よ」
花丸「だから制服からパジャマに着替えたずら」
善子「いや、そうじゃなくて...。お風呂入ってから布団に入らないとなんか違和感ない?」
花丸「気にしたことないずら。善子ちゃんがそういうことを気にする方が意外ずら」
善子「失礼ね!」
花丸「......何をもじもじしてるずらか?」
先に布団に入ったものの、善子ちゃんは所在なさげに立ったまま
視線をあちこちにやり、両手を組んで人差し指をくるくる回している。
善子「いや...、別に...もじもじなんてしてないけど?」
花丸「じゃあ早くこっちに来たらいいのに」
善子「うっ...。あんた、意外と肝が据わってるわね」
花丸「あ、もしかして一緒にお風呂に入りたいずら?だからお風呂がどうって言ってたずらね?」
善子「ちがわい!そそそそれに、そ、そういうのはまだ早いわよ!」
花丸「......何を言ってるずら?」
善子「............何言ってるんだろ。お邪魔するわね」
おずおずと、小動物のような仕草で布団へと潜り込んでくる。
お互いの鼻息がかかるくらいの距離で、善子ちゃんの顔が見える。
長い睫毛。目尻がきゅっと上がり、知的で美人な印象を与える大きな紅い瞳。
西洋彫刻のようにスラッと通った鼻筋。潤いを湛えた薄桃色の美しい唇。
その容貌はとてもこの世のものとは思えないほど美しくて。
善子ちゃんはきっと、マルの前に舞い降りた天使なんだって。
そう、思った。
善子「な、なによ、そんなに見つめてきて」
花丸「............」
善子「え、ほんとに何?ちょ、変な匂いとかしないわよね?」
花丸「えなどりの匂いがするずら」
善子「~~~~っ!!!お風呂はいる!!」
花丸「うそうそ。じょーだんずら。善子ちゃんのいい匂いだよ?」
善子「その言い方もどうなのよ、まったく......」
花丸「ほら、もっと近くにきて?」
善子ちゃんの両手を、マルの両手でつつみこむ。
お祓い前までは冷たかった左手は、今はじんわりと温かく
護摩祈祷の炎の温もりが、その左手に宿っているように思えた。
花丸「善子ちゃん、左手。あったかくなってるずら」
善子「ええ、ほんとね...」
善子「正直言うとね、お祓いが終わってもすこし不安だったの。本当に大丈夫なのか、寝てしまったら、また同じ夢を見るんじゃないかって。でも今、花丸の傍にいて、ようやく安心できる。私はもう大丈夫だって」
善子「もうちょっと、そっちにいってもいい?」
花丸「もちろん。ほら、こっちにおいで?」
マルの胸元に、善子ちゃんが鼻を埋める。
鼻息が、なんだかむずがゆいような心地よいような感覚。
これからもずっと、マルが傍にいるから。
だから、だから今は。
善子「はなまるぅ...これからも......っと......しょに......」
花丸「ずっと一緒にいるずら」
花丸「大好きだよ」
ぎゅっと、善子ちゃんを抱きしめる。
2人のこれからを壊さないように。離れないように。
だから今は。
花丸「おやすみ、善子ちゃん」
善子『ありがとう、ずら丸』
ハッと、名前を呼ばれたような気がして目が覚める。
どうやら善子ちゃんと一緒に、マルも寝てしまっていたようずら。
部屋はすでに暗く手元の携帯を見ると、すでに時刻は夜の20時を回っていた。
花丸「あれ、善子ちゃん......?」
暗い部屋の中にはマル以外の気配はなく、呼びかけた声は虚空を反響する。
おかしいな、善子ちゃんに呼ばれた気がしたずらが...。
布団から立ち上がり、部屋の電気をつけると、枕元に一枚のメモが置かれているのが目に入った。
善子『ずら丸へ。今日はほんとうにありがとう。ママが学校を早退したことについて話があるっていうから、今日のところは一旦家に帰るわね。ま、上手いこと説明しておくわ。今日のことは、私とずら丸だけの秘密よ?また明日、学校で』
花丸「もう、起こしてくれてもいいのに!」
言いながらも、口元が緩んでいくのを自覚する。
いつも通りの善子ちゃんに戻ったみたいで、本当によかったずら。
翌朝。
昨日は変な時間帯に長いこと寝てしまったせいで
どうにも寝付きが悪く、結局朝も早く起きてしまったずら。
早く起きても特にやることはなく、どうせなら教室で読みかけの本でも読もうと一本早いバスで学校へと向かう。
学校までの坂道を登る。
マルが登校するのは比較的に早い時間。
同じような時間帯に投稿する生徒は少なく、それよりもさらに早い今日はマル以外の生徒は見当たらない。
まあ、そもそもの生徒数が少ないんずらが...。
学校に着き、昇降口で靴を履き替えてから教室へ向かう。
昨日のこと、みんなに何て説明しようかなあ...。
具合が悪くなった善子ちゃんをお家まで送り届けたってことで何とか説明するしかないずらね。
善子ちゃんとの距離感も気をつけないと、昨日何があったか
みんなにバレちゃうずら...!!
そんなことを考えながら教室のドアを開けると、一陣の風が吹いた。
白くはためくカーテンを見るに、どうやらそこの空いた窓から風が吹き込んだようだ。
風に揺られるカーテンと共に、艶やかな黒髪が目に入る。
窓際に立って外を眺めていた人物の横顔を見た途端に、胸が大きく高鳴った。
花丸「あれ、善子ちゃん...?」
善子「あら、おはよう、ずら丸。早いのね」
薄く微笑みながら、こちらへと近づいてくる。
朝日に照らされたその姿は見惚れてしまう程に美しく、しばし言葉を忘れてしまう。
花丸「......うん。昨日はあの後、あんまり眠れなかったから...」
善子「そうなの?アンタのことだから、いくらでも寝れるもんだと思ってたわ」
花丸「......もう、何言ってるずら...」
善子ちゃんがマルより早く学校に来ているのは驚いたけど、
どうやら、いつも通りの善子ちゃんに戻ったみたいずら...。
でも、なんだろう。ほんの少しの......違和感。
善子「昨日は本当にありがとう、ずら丸。前に話してくれたこと、覚えてる?夢は自分の願望を満たすために見るって話」
花丸「...覚えてるずら。フロイトの...話だよね」
善子「そう!私が望んでたのは、今のこの関係だったのよ」
悪戯っぽく笑いながらウインク。
そんな何気ない動作にも、変に鼓動が早くなるのを感じる。
花丸「関係って、その...マルとの?」
善子「ふふっ。なんだかとっても満たされた気分だわ。なーにを怖がってたんだろ。でもま、あなたのおかげよ、は・な・ま・る」
熱に浮かされたように饒舌に喋り続ける。
マルの言葉もどうやら耳に入っていない。
その姿を見ているうちに、先程の違和感が少しずつ大きくなっていくのを感じた。
しかし、その原因までははっきりとは分からない。
何だろう、何も変わったところは見受けられないし
昨日までが調子の悪い様子だったから、それとのギャップがある...のかも...。
花丸「ーーーーーーあ」
そうだった。
教室に入ったときからだ。
今日の善子ちゃんは、あまりにも......
ーーーーーー美し過ぎる。
「どうしたのよ?」
こちらを覗き込む眉も、瞳も、唇さえも。
不気味なほどに、美しい。
「ちょっと、急に固まっちゃってどうしたのよ?」
善子ちゃんの声が遠く聞こえる。
長い睫毛。目尻がきゅっと上がり、知的で美人な印象を与える大きな紅い瞳。
西洋彫刻のようにスラッと通った鼻筋。潤いを湛えた薄桃色の美しい唇。
その、容貌は、この世の、ものとは、思え、ないほど、美しくて。
そう。
それは、人間離れした、美しさ。
この表現こそが相応しい。
ああ。どうして。
こんな時に思い出してしまうのだろう。
何度も何度も頭の中で反響する。
どうか、どうか鳴り止んでーーー。
『夢十夜』の第十夜。その、最後の一文。
花丸「......ねぇ、善子ちゃん、だよね?」
「...えぇ。私が、津島善子よ」
ーーーーーー庄太郎は助かるまい。
終わりです。
ありがとうございました
元スレ
善子「堕天...」
ルビィ「善子ちゃん??」
ポツリと呟いたかと思えば、暫く思案に耽る善子ちゃん。
善子「いや、そう言われてみれば堕天使が関係しているような気が...」
花丸「適当ずら...。それで、その夢がどうしたっていうずら」
善子「あー、そうね。最近?というよりここ3日間ぐらいなんだけど、どうも朝起きたときに、また同じ夢を見たなって感じがするのよ。でも夢の内容自体ははっきりとは覚えてなくて...。でも、絶対に同じ夢を見てるのよね...」
花丸「それはさっき聞いたずら」
善子「だからぁ!なんだか夢の内容が思い出せなくて、ここ最近ずっとモヤモヤしてるって話!」
5: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 01:12:33.56 ID:gy/NmuiO.net
プンプンと擬音が聞こえてきそうなほど可愛らしく善子ちゃんは抗議してくる。全く、堕天使だなんだとか変なことを言わなければ可愛い女の子なのに勿体ないずら...。
ルビィ「でも、ルビィもその感覚分かる気がするな。朝起きたときに、前に見た夢だって思うんだけど、その夢をいつ見たかは思い出せないの」
善子「それって、夢の内容自体は覚えてるの??」
ルビィ「うん!こないだもそんな夢を見たんだぁ。あれはえっとねぇ...。うーん............。確かねぇ......」
善子「............」
ルビィ「ぅゅ...。わ、忘れちゃった...あはは...」
善子「ダメダメじゃない。世が世ならルビィ、あんたは市中引き回しの上打ち首獄門よ。そんで橋の下に3日間晒してやるわ」
ルビィ「ひどすぎるよぉ!」
6: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 01:12:54.30 ID:gy/NmuiO.net
ルビィちゃんが善子ちゃんに良いように遊ばれてるのを横目に、自分の記憶を引っ張りだしてみる。
花丸「ルビィちゃんの言ってるのはデジャヴに近いずら」
ルビィ「デジャヴ??」
ポカンとした顔でルビィちゃんはこちらを向く。
あれ、結構有名な単語のはずなんだけど...。
善子「あー、あのカジノで有名なやつね?」
花丸「それはベガスずら」
善子「じゃああれ?トルコのサンドイッチみたいな、おっきいお肉をクルクル回してるやつ」
花丸「それはケバブずら」
ルビィ「えっとえっと、あれかな、ワカメの根元部分のやつ!」
花丸「それはメカブずら。ルビィちゃんも無理に合わせなくていいずら。しかもただ韻を踏んでるだけずら」
7: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 01:13:19.62 ID:gy/NmuiO.net
花丸「じゃなくて、デジャヴずら。デ、ジャ、ヴ。日本語だと既視感とかに訳されるずらね」
善子「いや、まあ知ってるわよ。流石にね」
ルビィ「???」
花丸「簡単に言うと、見たはずの無い景色なのに、以前どこかで見たことがあるって感じたり、経験したことがないことも、以前に同じことをした覚えがある、みたいな感じずら」
ルビィ「なんだか、ルビィの状況にぴったり」
花丸「デジャヴは、忘れていた夢の残滓だという説もあるずら。だから、同じ夢を見たことは確かなんだけど、自分が以前見た夢を忘れているから、なんとなく気持ち悪い感じがするのかもしれないずらね」
ルビィ「うーん...。どうして夢を見るんだろう?」
花丸「ある学者は、夢は私たちの深層心理を反映していて、夢は願望を満たすために見ていると考えていたみたいずら」
善子「フロイトね」
8: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 01:13:40.51 ID:gy/NmuiO.net
善子ちゃんの口から思いもかけない言葉が聞こえてきて、思わず目を見開いてそちらを向く。
花丸「...よく知ってるずらね」
ルビィ「善子ちゃん、やっぱり頭いいんだね」
善子「まあ、夢占いを調べてたらちょっとね」
そういえば善子ちゃんの趣味というか特技というか...。まあ、なんというか奇癖は占いだったずら。最近はクラスで急に堕天使グッズを広げることも無くなったからすっかり忘れかけてたずら...。
善子「いや、そんなことはどうでもいいのよ。あれ、どうでもよくない?......私たち、何の話してたんだっけ」
ルビィ「えっと、善子ちゃんがおんなじ夢をよく見るって話だったような...」
花丸「でも善子ちゃんの場合、2回目の夢の内容自体忘れてるから、厳密にはデジャヴとは言えないかもしれないずらね」
善子「...え、じゃあさっきの話は何なのよ。私の悩みはどうなるのよ」
花丸「なーんにもわかんないずら!」
ふと時計を見ればもうすぐお昼休みが終わろうとしていた。
これではいけないと、さっさとお昼ご飯を消化するためにのっぽパンに齧り付く。内容自体は覚えていないのに、その夢を見たという実感だけは強く残る。確かに善子ちゃんの夢の話は興味を唆られる内容だったけど、のっぽパンには勝てないずら。
善子「......ずら丸、アンタも打ち首獄門よ」
9: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 01:14:17.19 ID:gy/NmuiO.net
次の日の朝、登校して教室に入ると珍しい顔が目に付いた。
花丸「あれ、善子ちゃん珍しいね。いつも遅刻ギリギリか遅刻するのに」
マルはどちらかというと登校時間の早い方ずら。生徒数が少ないとはいえ、マルが教室に入るときは先にいる生徒はいつも2人か3人。そこに善子ちゃんがいることは今まで無かったんだけど...。今日は珍しく、善子ちゃんがマルよりも早く登校していて、なおかつその顔はなんとも言えない輝きで満ちていたずら。
善子「ヨハネだってば!...あっ。...それよりも聞きなさいずら丸!この漆黒の堕天使ヨハネはついに!夢幻の世界へとその侵略の魔手を伸ばし、現世だけでなく幽世すらも平定することに成功したのよ!」
花丸「クラスの子が気になるなら最初からそのキャラ辞めるずら。それに、ちゃんと意味を理解して言葉使ってるずらか?」
善子「う、うっさいわね!とにかく聞きなさいよ!」
花丸「はいはい、で、どうしたずら?」
10: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 01:14:35.75 ID:gy/NmuiO.net
善子「昨日、夢の話をしたじゃない?それで、同じ夢をまた見るかもと思いながら寝たのよね!そしたらドンピシャ!やっぱりおんなじ夢を見ることができたのよ!」
花丸「でも、結局内容は覚えてないんでしょ?それじゃあ同じ夢を見ても意味ないずら。それどころか、同じ夢かどうかもわからないずら」
善子「甘いわねずら丸!もうほんっとーっに甘いわ!どのくらい甘いかっていうとそうね...。んー、甘エビぐらい甘いわね!」
花丸「甘エビ」
善子「堕天使ヨハネは日々進化しているのよ!何とねぇ、今回見た夢はきちんと内容を覚えているわ!」
花丸「ん、でも今日の夢の内容が今までに見た夢と同じとはわからないんじゃない?」
善子「それが不思議なことなんだけど、目が覚めた途端に確信したのよね。今まで見てきた夢はこれなんだって。こう、なんて言うのかしら...。世界が、変わった。はっきりわかんだね。って感じかしら」
花丸「い、意味がわからないずら」
善子「とーにーかーく!この堕天使ヨハネ様が、遂に夢幻の記憶の保持を成し遂げたってこと!」
11: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 01:14:55.68 ID:gy/NmuiO.net
花丸「夢の内容を覚えてたってだけでそこまで上機嫌になれるのは地球上で善子ちゃんだけずら。で、どんな内容だったの?」
善子「あら、ずら丸も気になってしょうがない、といった感じかしら?まぁ、そうねぇ、このヨハネ様に生涯変わらぬ忠誠を捧げるというのなら、教えてやってもよ・い・ぞ...」
じゃあ別にいいずら。
そう言って自分の椅子に座り、鞄の中から文庫本を引っ張りだす。やっぱり漱石はいいずらぁ...。
善子「あー、ウソウソ!ちょっとは興味持ちなさいよ!ほら、ちゃんと話してあげるから!」
花丸「最初からそうしてればいいずら」
善子「あんたサラッと毒舌よね。まぁいいわ、肝心の内容なんだけどね...」
善子「堕天使なのよ」
花丸「ん?」
善子「いや、だから堕天使なんだってば」
12: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 01:15:12.50 ID:gy/NmuiO.net
どうしよう、善子ちゃんがおかしくなっちゃったずら。
マルの困惑を知ってか知らずか、善子ちゃんは滔々と語り始める。
善子「昨日、夢の話をしたときにチラッと堕天使の話が出たじゃない?そのときになーんか引っかかってたのよね」
善子「そして昨日、夢の中で気付いたら真っ白な私の部屋にいたの」
花丸「善子ちゃんの部屋?」
善子「そうよ、寸分違わず私の部屋だったわ。ただ、なんて言うのかしらね、全てが白いっていうか...まあ、とにかく真っ白なのよ」
花丸「ぼんやりした説明ずら」
善子「夢なんてそんなもんよ。ただ、私の部屋とは違うところが一つあって、部屋のど真ん中に玉座みたいな赤い椅子が一つ置いてあるの」
善子「で、で、そこに誰が座ってると思う!?」
花丸「え、き、急になんずら!?」
13: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 01:15:28.22 ID:gy/NmuiO.net
善子「そこにはなんと!堕天使ヨハネが鎮座しているの!」
花丸「...うん?それは、えっと...善子ちゃんが座ってるってこと?」
善子「いいえ、堕天使ヨ・ハ・ネ・が!鎮座しているのよ」
えーと、つまり。善子ちゃんがここ最近で見ていた夢の内容っていうのが、真っ白な自分の部屋にある玉座みたいな赤い椅子に自分が座っているってこと...?
花丸「......」
善子「......」
花丸「............え、それだけ?」
善子「...なによ、これだけよ」
花丸「すごく時間を無駄にしたずら」
14: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 01:15:49.33 ID:gy/NmuiO.net
花丸「大体、どうして今までに見た夢が、そのー、部屋に善子ちゃんがいる夢だったってわかったの?」
善子「それはね、私に言われたからよ」
花丸「言われた?何を言われたんずら?」
善子「えぇ。玉座に座った私にね。『ようやく話せたわね』って」
花丸「ようやく?」
善子「そこで私はピンときたのよ。今までのぼんやりした夢は、おそらくもう1人の私が、いえ、ヨハネが私にコンタクトをとってきた証なんだって」
善子「夢の中で気付いたというか、起きてから確信したって感じなんだけど」
花丸「他には何か言われなかったの?」
善子「さあ?その後すぐに目が覚めたから、それきりね」
15: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 01:16:12.61 ID:gy/NmuiO.net
善子「それにね、夢占いで自分と話す夢を調べてみたのよ。そしたら、自分と話す夢を見る精神状態は、現状の自分に満足していてなおかつ、良い人間関係が構築できていることの現れなんだって!ついに私もリア充になったってことかしら!?」
花丸「たしかに善子ちゃん、Aqoursに入ってから毎日楽しそうだもんね。幼馴染みとしてマルも一安心ずら。それにそんな夢を見て喜ぶなんて、善子ちゃんがAqoursを大好きってことがバレバレずら」
善子「ちょっと、別にそこまでは言ってないわよ!」
花丸「でも、同じ夢を長期間に渡って見るなんて...。今までで何日ぐらい見てるずら?」
善子「ん?そうね、ボンヤリとしてた期間を含めたら大体4日ぐらいかしら?」
花丸「そっか。なんだかちょっと......」
善子「ちょっと?」
ーーー不気味だね。
その一言はどうしてか言えなかった。
善子ちゃんがマル達を、Aqoursを大切に思ってくれているその気持ちに、水を差すのがとても野暮だと思った。
花丸「いや、何でもないずら。あ、そろそろSHRが始まる時間ずら。ほら、善子ちゃんも席に戻るずら」
そう言って無理矢理に善子ちゃんを自分の席に戻す。
怪訝な顔でマルの方を見ていたけど、先生が入室してくると、その視線は黒板の方へと移った。
ちなみにこの日、ルビィちゃんは2時間遅刻したずら。
16: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 01:16:32.21 ID:gy/NmuiO.net
善子「ぷ、ぷふーっ!いやあ、しかし今朝のルビィはほんと笑えたわね!教室のドアを開けるなり「ぉ、ぉ寝坊しましたぁ!」だもの!お、お寝坊!高校生にもなって、お寝坊!!」
ルビィ「......善子ちゃん、うるさい」
善子「しかもその後、誰も聞いてないのに言い訳を始めて!?その内容が!?ダイヤが起こしてくれなかったから!?あんたたちの姉妹コントは留まるところを知らないわね!」
花丸「善子ちゃん、辞めるずら」
お昼休み。
大遅刻し、4時間目の初め頃に教室に到着したルビィちゃんを善子ちゃんが散々に煽り倒す。
ま、まあ、正直あの登場の仕方はマルも笑っちゃったけど...
ふとルビィちゃんの方を見ると、ルビィちゃんはじっとりとした目で善子ちゃんを睨め付けていた。
ただ、その目の端にキラリと光るものを認めた途端、流石の善子ちゃんも悪いと思ったのか素直に謝る。
善子「う...悪かったわよ...」
うん、やっぱり善子ちゃんは善い子の善子ちゃんずら。
17: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 01:16:49.45 ID:gy/NmuiO.net
善子「で、ルビィは毎朝ダイヤに起こしてもらってるわけ?」
前言撤回ずら。
善子ちゃんの顔は明らかに喜色を湛えていて
完全に今日のルビィちゃんを面白がっているみたい。
ルビィ「いつもはお母さんに起こしてもらうんだけど、今日は朝早くからお家を出てったから替わりにお姉ちゃんが起こしてくれるはずだったの」
善子「いや、起きれてないじゃない」
ルビィ「お姉ちゃんは起こし方が甘いんだぁ。ベッドで寝てるルビィに起きなさいって言うだけなの。そんなのじゃ二度寝しちゃうよね」
善子「あんた、かなりの大物よね...」
18: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 01:17:07.04 ID:gy/NmuiO.net
ルビィ「善子ちゃん、なんだか今日はご機嫌だね。休み時間はいっつも机で寝てるのに」
確かに。善子ちゃんは日頃の夜更かしが祟って基本的に日中は完全な無気力。
休み時間どころか、ともすれば授業時間中も机に突っ伏して寝ていることが多い。
マルは朝の話を聞いているから善子ちゃんが上機嫌な理由がわかるけど...
確かにルビィちゃんから見れば不思議な光景なのかも。
善子「ふっ...ルビ助!アナタも中々本質を捉える『眼』を会得し始めたようね...。このヨハネは遂に!夢幻の彼方さえもこの手に掌握せしめることができたのよ!」
ルビィ「???」
花丸「それじゃあ全くわからないずらよ」
善子ちゃんがまーた自分の世界に入っちゃったずら。
仕方がないからルビィちゃんに今朝の善子ちゃんの話を掻い摘んで説明する。
19: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 01:17:25.27 ID:gy/NmuiO.net
花丸「まあ、つまり、ここ最近見てた夢の続きを見ることができたってことずら」
ルビィ「えー!すごーい!」
善子「ふふ、そうでしょうそうでしょう。もっと私を崇めなさい!」
ルビィ「ルビィもね、今日はスイートポテトを一杯食べる夢を見たんだあ!でも食べようとした途端にお姉ちゃんの声で起きちゃって...。続きが見れるかなあと思って二度寝したのに見れなかったの...。夢の続きが見れるなんて、善子ちゃんは凄いなあ」
善子「......何か、急に程度が低くなっちゃったわね...」
花丸「正直、最初から程度の低い話ずら」
善子「何よ!崇高な話よ!」
20: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 01:17:42.02 ID:gy/NmuiO.net
善子「とーにーかーく!ヨハネは私に伝えたいことがあるみたいだから、今日もその夢の続きを見ないといけないのよ」
ルビィ「でも、どうしたら夢の続きなんて見れるんだろう?」
善子「それなのよ。昨日の夜も今までも、何か特別なことをしたってわけでもないし...。ずら丸、アンタこういうのは詳しくないの?」
花丸「マルを何だと思ってるずら...。枕の下に堕天使の写真でも入れてみたらどうずらか?」
善子「いや、確かによく言うけれども!そこまで子供っぽくないわよ!」
花丸「十分子供っぽいずら...」
ルビィ「でも、なんだか不思議な夢だよね。状況もそうだし、幻想的っていうか」
21: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 01:18:01.33 ID:gy/NmuiO.net
ーーー不思議な夢。
ーーーーーー幻想的。
ふと、頭に一文が浮かんだ。
花丸「ーーーこんな夢を見た」
善子「は?どうしたのよずら丸」
善子ちゃんが怪訝そうな顔でこちらを見る。
釣られて、ルビィちゃんの視線もマルの顔を捉える。
ふと口から溢れでた言葉が思いの外大きな声になってしまい、多少の恥ずかしさが顔を覆う。
花丸「そ、漱石の『夢十夜』の冒頭一文ずら。読んだことない?」
善子「あるわけないでしょ、そんなもん」
ルビィ「ルビィも無いかな」
花丸「か、過去ずら...。えーっと、『夢十夜』ていうのは」
22: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 01:18:20.94 ID:gy/NmuiO.net
花丸「『夢十夜』というものは漱石が夢をテーマに執筆した十遍の短編を纏めた小説ずら。漱石にしては珍しい幻想的な世界観が特徴で、1908年に当時の東京朝日新聞に連載されていたずら。「こんな夢を見た」っていう書き出しが有名なんだけど、実はそうやって始まるのは第一夜、第二夜、第三夜、第五夜の四篇だけなの。これは漱石にとっての現実と夢幻を区分するときに重要なファクターになるんだけど今は一旦置いておくずら。で、で、新聞連載小説っていうとあまり馴染みがないかも知れないんだけれど、これは当時の娯楽のあり方や、家父長制の観点からも
善子「わかった!わかったから!急に早口オタクみたいになるの辞めなさいよ!」
花丸「まだ殆ど話が出来てないずら...」
善子「いや、もう十分でしょうよ。とにかく、夢をテーマにした小説だってことはわかったわ」
ルビィ「何だか、善子ちゃんの夢も似たような感じだね」
花丸「そう!さすがルビィちゃんずら!マルもそう思ったの。何だか善子ちゃんの夢の話を聞いてたら『夢十夜』を思い出しちゃって」
23: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 01:18:47.83 ID:gy/NmuiO.net
善子「そうなの?」
花丸「もともと、夢というものは文学的、宗教的にも関わりが深いものずら。フロイト然りね」
善子「ふっ...剣術において夢想と名がつく流派が多いのも、数多の奥義は夢の中で開眼するものだからよ。さる剣豪もそう言い残しているわ...」
ルビィ「け、剣豪?」
花丸「......一体どこの何方ずらか?」
善子「いや、なんだっけ、ほら。たしか漫画で誰かが言ってたのよ。誰だっけなー。岩本虎眼先生だったかしら?」
花丸「聞いたことないずら。でもまあ、神託の多くは夢という形を取って齎されるものだから、あながち間違いではないのかも...」
善子「あんたも静岡県民なら虎眼先生ぐらい知っときなさいよ!」
24: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 01:19:06.99 ID:gy/NmuiO.net
善子「で?」
花丸「で?」
善子「オウム返ししてんじゃないわよ。で、その『夢十夜』が何だって言うのよ」
花丸「別に大したことじゃないんだけど...。何だか雰囲気が似てるなって」
喜子「不思議な夢を見たってだけでしょ?似てるっていうには根拠が薄すぎない?」
言われれば確かにそうなんだけど...。
マルが『夢十夜』に似ていると思ったのは、幻想の中に揺蕩う不気味な影。
漱石が描写した、どこか幻想的な世界の中に虚ろに存在する不穏な因子。
善子ちゃんの見た夢の話からは、それと似たものを感じた。
でも、やっぱり善子ちゃんにそれを言うのは憚られた。
なにより、笑顔の善子ちゃんを少しでも不安にさせるのは避けたかった。
25: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 01:19:31.65 ID:gy/NmuiO.net
花丸「でも、やっぱり『夢十夜』に出てきそうな話ずら。真っ白な自分の部屋の中で、自分自身に話しかけられるなんて」
まぁいいや。無理やり押し切ってしまおう。
マルが勝手に感じたことなんて、きっと大したことないんだから。
善子「そうかしら?ま、私の夢は文学になるほど高尚だってことね」
花丸「そうやってすぐ調子に乗るのは善子ちゃんの悪いところずら」
善子「うるさい!てかヨハネ!それよりルビィ、あんたは夢の続きを見る方法とか知らないの?」
ルビィ「う~ん。やっぱり、写真とか本を枕の下に入れるのが一番なんじゃないかなぁ」
ルビィ「寝る前に夢に見たいもののことだけ考えるのもいいって聞いたことあるけど、今朝は続きを見れなかったし,,,」
善子「あんた、後でダイヤに謝りに行きなさいよ」
26: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 01:22:28.93 ID:gy/NmuiO.net
花丸「枕の下に何か仕込むのも、一つの事だけ考えるのもどっちでもいいと思うずら」
花丸「結局、現実に起こったことが夢に影響するわけだから、狙えば見たい夢を見る事もできるんじゃないかな」
善子「うーん。確かに」
善子「昨日も寝る前にヨハネに会いたいって思いながら寝たから、今日その夢が見れたのかもしれないわね」
現実が夢に影響を与える。
自分の発した言葉が、すとんと入り込んできた。
そもそも、『夢十夜』自体が夢と現実を綯交ぜにした作品だったはず。
花丸「そういえば、『夢十夜』にも、現実が物語に影響を与えた話があるずら」
善子「そうなの?ちょっと興味出てきたわね。ずら丸、話してみなさい」
花丸「なんで上から目線になってるずら...」
27: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 01:22:45.43 ID:gy/NmuiO.net
花丸「さっき『夢十夜』は全十篇からなるって話をしたずら。それの第十夜、最終章の話ずら」
花丸「第十夜は、庄太郎が女に連れ去られてから7日目の晩に帰ってきたきり、熱で寝込んでいるってところから始まるずら」
善子「ちょちょちょ、いきなり急展開ね。庄太郎って誰なのよ」
花丸「庄太郎は町一番の好男子で、夕方になると水菓子屋の前で往来の女の顔を眺める趣味があるずら」
花丸「ちなみに庄太郎は第八夜にもちらっと出てくるよ。カメオ出演ってやつずら」
善子「なんの説明にもなってないんだけど...まぁいいわ。その庄太郎ってのが主人公なのね」
花丸「話を戻すずら。帰ってきた庄太郎に、皆はこの7日間どこへ行ってたのかを聞くの」
28: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 01:23:05.26 ID:gy/NmuiO.net
花丸「庄太郎が言うには、いつものように水菓子屋の前で往来を眺めてたら、立派な身なりをした女の人がやってきて、一番大きな籠詰を買ったの。でも、あまりに重たそうだから家まで運んであげることにしたずら」
ルビィ「優しい人なんだね」
善子「そんなわけないでしょ、こんなの下心100%よ。ルビィ、あんたは気をつけなさいよ」
花丸「庄太郎は女の人に連れられて電車で山へ向かった。電車を降りるとそこはあたり一面真っ青な原っぱで、女の人と一緒に歩いていると急に絶壁の天辺に出た。そのとき、庄太郎は女の人にここから飛び込んでみなさいと言われたずら」
善子「ほら見なさい!すけべ男に天罰が下ったんだわ!」
ルビィ「善子ちゃん、何だか嬉しそうだね」
花丸「変に感受性が強い...話を戻すずら」
花丸「もちろん、庄太郎はこんな崖からは飛び込むことなんてできないと拒否するずら」
善子「まぁ、当然のことよね」
花丸「しかし!女の人は続けて、もし飛び降りないのなら、豚に舐められますがよろしいですか?と庄太郎に問いかけるずら」
29: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 01:23:22.87 ID:gy/NmuiO.net
善子「はぁ?豚って、あの豚?」
花丸「哺乳綱鯨偶蹄目イノシシ科の動物で、イノシシを家畜化した、あの豚ずら」
ルビィ「そこまで聞いてないと思うけど...。でも豚さんって...」
善子「そんなの、好きに舐めさせればいいじゃない」
ルビィ「ルビィもそう思うな」
花丸「二人の言うことももっともずら。でも、庄太郎は豚と雲右衛門が大嫌いだったずら」
善子「まーた唐突に新キャラが出てきたわね。誰なのよ、その雲右衛門ってのは」
花丸「明治から大正にかけて活躍した浪曲師、桃中軒 雲右衛門のことずら」
花丸「ちなみに桃中軒っていう亭号は沼津駅にあった駅弁屋から取っているずら。現在も営業を続ける老舗のお弁当屋さんずら」
善子「意外とご当地キャラだったのね...」
30: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 01:23:45.37 ID:gy/NmuiO.net
花丸「豚は大嫌いだけど命には代えられない...でもやっぱり舐められるのも嫌だ...。そんな風に庄太郎がまごついていると豚が一匹、鼻を鳴らしてやってきたずら」
花丸「ここまでくるともうしょうがないと思って、庄太郎は豚の鼻頭を持っていたステッキで打った。すると、豚はぐうと一声鳴いたかと思うとごろりとひっくり返って、絶壁の下へと真っ逆さまに落ちていったずら」
善子「いや、素直に舐められなさいよ。庄太郎もまあまあ非道ね」
ルビィ「豚さんがかわいそう...」
善子「ルビィ、あんたはその心を大事にしていくのよ...」
花丸「お母さんずらか?......こほん、庄太郎は豚に舐められずにすんだとほっと一息。ところが、またしても大きな豚が鼻を擦りつけにやってきた。庄太郎はやむを得ず再度ステッキを振り下ろす。すると、先ほどの豚と同じように、ぐうと一声鳴いて、絶壁の下へと真っ逆さま」
花丸「すると、またしても豚があらわれる。ふと気づいて顔を上げると、遥か地平線の彼方から幾万匹か数えきれないほどの豚が群れを成して庄太郎目指して鼻を鳴らしてくるんずら」
善子「ふっ、自業自得ね。そのまま乙事主に突き落とされるがいいわ!」
ルビィ「善子ちゃん、それはイノシシだよ...」
31: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 01:37:05.28 ID:QagwjVeE.net
花丸「庄太郎は心の底から恐怖した。それでもしょうがないから、近寄ってくる豚の鼻頭を一つ一つステッキで打ってたんずら。不思議なことにステッキが鼻に触れさえすれば豚はコロリと谷底へ落ちていく」
花丸「ふと谷底を覗いてみると、底の見えない絶壁を逆さになった豚が行列して落ちていく。庄太郎はこれくらいの豚を自分が落としたのかと我ながら怖くなったずら」
善子「自分で落としといてそれはヤバいわね。サイコパスの片鱗を感じるわ」
花丸「それでも豚は途切れることなく次々庄太郎に襲い来る。黒雲に足が生えたように、青草を踏み分けるような勢いで無尽蔵に鼻を鳴らしてくる」
花丸「庄太郎は必死になって、七日六晩にわたって豚の鼻頭を叩き続けたんずら」
善子「どんだけフィジカル!まるで果南ね...」
ルビィ「あっ!今の果南ちゃんに言っちゃお!」
善子「ちょ、殺されるわよ!」
花丸「二人とも果南ちゃんを何だと思ってるずら...」
32: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 01:39:03.21 ID:QagwjVeE.net
花丸「庄太郎は必死に豚の鼻頭を叩き続けたずら。それでもとうとう精魂尽き果てて、手が蒟蒻のように弱ってきて、遂には豚に手を舐められてしまうずら」
善子「遂にきたわね!ふっ、ざまぁないわ」
花丸「そして、庄太郎はそのまま絶壁の上に倒れてしまいましたとさ」
ルビィ「庄太郎さんはどうなっちゃったの...?」
善子「そうよ、きちんと天罰が下ったんでしょうね」
花丸「第十夜はこれで終わりずら。その後が冒頭に繋がって、豚に手を舐められた庄太郎は熱がどっと出て寝込んでしまったんずら」
ルビィ「何だか、不思議な話だね」
善子「そもそもそういう「不思議」がテーマだってことでしょ?確かにちょっと面白い話ではあったわね」
33: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 01:39:37.73 ID:QagwjVeE.net
善子「でも、その話のどこが現実が影響を与えてるっていうのよ。今のところ熱出た時に見る夢みたいな感じだけど」
花丸「そこは一度考えてみて欲しいずら。そこが文学作品の面白いところずら」
善子「考えるったって何を考えればいいのよ。全くのノーヒントじゃない」
そう言いながら善子ちゃんは頭に手を当て考え始める。
なんだかんだでノリがいいのも、善子ちゃんのいいところずら。
そんな折、ポツリとルビィちゃんが呟く。
ルビィ「どうして、豚さんなんだろう?」
善子「あー、確かにルビィの言う通りね。この話、別に豚じゃなくても話自体は成立するもの」
花丸「ルビィちゃん!!鋭いずら!!」
ルビィ「ピギィ!」
善子「ずら丸声デッカ」
34: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 01:40:43.97 ID:QagwjVeE.net
花丸「さすが、ルビィちゃんは由緒正しいお家の生まれずら。素晴らしい素質を感じるずら」
ルビィ「えへへ、がんばルビィ!」
善子「生まれは関係ないでしょうよ」
花丸「確かに善子ちゃんのお母さんは学校の先生なのに、善子ちゃんには全く素養が見られないずら。生まれは関係ないのかもしれないずらね」
善子「あれは仮の同居人よ!ヨハネは闇より生まれし堕天使なの!」
ルビィ「墓穴掘っちゃったね、善子ちゃん」
善子「ヨハネ!こんなん回避不能でしょ」
善子「で!どこが鋭いポイントなのよ」
35: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 01:42:15.56 ID:QagwjVeE.net
花丸「それは当時『夢十夜』が連載されていた時期を考えて欲しいずら」
ルビィ「それって、明治時代?」
善子「明治時代と、豚でしょ?なんか関係あるの?」
花丸「大ありずら。第十夜に登場する動物が、豚じゃないといけない理由がそこにあるずら」
ルビィ「うーん...。文明開花で、豚さんを食べるようになったとか??」
善子「どうかしらね。文明開花でフィーチャーされてたのは牛肉のイメージが強いわ。それに、肉食の解禁がこの話に繋がるとは思えないし...。なおかつ、現実から何かしらの影響を受けているってことでしょ?」
ルビィ「庄太郎さんは豚さんを嫌ってて、ステッキで崖から落としてて...」
善子「そんで、豚に舐められて高熱でダウン...」
うんうんと額に手を当てながら考え込む2人。
あーでもない、こうでもないと唸り続ける中、ふいに善子ちゃんがニヤリと笑う。
善子「フッ...謎は全て解けたわ」
37: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 02:38:21.64 ID:QagwjVeE.net
ガタン、と椅子から立ち上がり、いつものよくわからないポーズを決める善子ちゃん。
その顔は驚くほど自信に満ち溢れているずら。いつもの善子ちゃんならここでズッコケ回答を披露してくれるずらが...。
善子「伝染病...。ずら丸、そうよね?」
ドキリ、と心臓が大きく跳ねた。
全くのノーヒントで答えを突かれたことにまずは驚愕が。
そして、善子ちゃんの綺麗な紅い瞳に射抜かれると、なんだか心の内すべてを見透かされているような気がして...。
花丸「......どうして、そう思ったずら?」
動揺を抑え込んで、何とか言葉を紡ぐ。
善子「豚って今でこそ綺麗好きだなんだって言われるけど、きっと明治時代とかだとそこまでのイメージは無かったと思うのよね。それこそ、ルビィの言う文明開花の折、養豚なんてまだまだ歴史が浅かったころの話だと思うし。明治時代だと、豚=不潔っていう図式が当時の人の中にあってもおかしく無いと思ったのよ」
善子「そんで、一番の決め手は庄太郎の高熱ね。そーんな不潔の象徴みたいな豚に、手を舐められた後に高熱で寝込む。これはもうインフルエンザとかの、その当時に流行ってた何かしらの伝染病を暗示していると考えたってワケ。ふふん、当たりでしょう、ずら丸?」
38: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 02:38:36.06 ID:QagwjVeE.net
花丸「............大体、正解ずら」
善子「何でそんな渋い顔で言うのよ!もっと褒め称えなさいよ!!」
ルビィ「善子ちゃんしゅごい...!!」
善子「ルビィ、私のリトルデーモンはあなただけよ...」
花丸「でも、まさか正解するとは思わなかったずら」
善子「ま、このヨハネ様にかかれば、この程度の問題なんてちょちょいのちょいってことよ。さぁ、ずら丸!答え合わせをしてちょうだい」
花丸「うーん、答え合わせって言っても大体が善子ちゃんの言った通りずら」
39: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 02:38:53.75 ID:QagwjVeE.net
花丸「まず、善子ちゃんの言った伝染病っていうのは、実際は豚コレラという病気ずら」
善子「コレラ?随分と物騒な病気じゃない」
花丸「コレラはね。豚コレラは実際には人に感染ることはないとされているずら。でも、当時はそこまで伝染病の研究なんて進んでなかったずら。そこに、明治41年に関東で2万頭を超える罹患豚が発生して、多くの人が大混乱に陥ったずら」
花丸「そして、『夢十夜』が連載されていたのも、同じ明治41年。第十夜は、当時流行していた豚コレラの脅威が背景にあったとマルは認識しているずら」
善子「なるほど。だからこそ豚じゃないと話が成立しなかったってことね?そして、現実の影響に即した内容だと」
ルビィ「でも、これも夢の話なんだよね?庄太郎さんは無事ってことだよね?」
善子「いやそもそも、夢の話でしょ?庄太郎は架空の人物だし」
40: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 02:39:35.82 ID:QagwjVeE.net
花丸「そこが第十夜の面白いところでね?第一夜は冒頭に「こんな夢をみた」という一文から始まるんだけど、第十夜ではその一文は使われてないんずら。つまり、漱石は第十夜を夢の話ではなく、現実として描いているんじゃないかなって」
善子「えー、それってもう夢が関係無くなってるじゃない」
花丸「そうとも言えないずら。第十夜は夢であることを明記しないで、あくまで現実世界で起こっている出来事を夢想の世界に落とし込んだお話ずら。夢がベースになっていることは確かな前提条件ずら。第十夜だと現実が夢を侵食している構図だね」
善子「ま、結局夢みたいな不安定な存在は現実の前ではまったくの無力ということでしょ」
花丸「暴論ずら......。でも、そういうことかもしれないずらね。結局は夢なんて現実ありきのものずら」
善子「結論、見たい夢があるならそれを強く思い浮かべたり、現実で似たようなことをすればいいってことよね」
ルビィ「じゃあルビィ、お芋さんを食べる夢を見たいから、今日はお芋さんをおやつに食べようかなあ」
善子「ルビィ、あんたが会話に加わると、全体的にレベルの低い話をしている気になってくるわ...」
ルビィ「善子ちゃんひどいよぉ!」
花丸「堕天使の夢を見るよりは、マルもお芋さんの方が嬉しいずら」
善子「あんたは色気より食い気だものね」
花丸「堕天使に色気の要素なんて一切ないずら」
41: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 02:44:05.45 ID:huXjq6CG.net
善子「ふっ...。あんたたちみたいな凡人には理解できまい...。堕天使に見初められし、このヨハネ様の美しさ、そして儚さを...」
ルビィ「ってことは、善子ちゃんは元々堕天使じゃなかったってこと?」
花丸「あ、ルビィちゃん鋭いずら。善子ちゃんは生まれついての堕天使じゃなかったってことだよね?いつ堕天使になったんずら?」
善子「......いや、私は生まれながらの堕天使だけど」
花丸「見初められしってことは、他の堕天使に仲間にしてもらったということじゃないずらか?」
善子「......いや、なにかしら。堕天使ってそういうんじゃないのよ。もっとこう、プライオリティ高めなスキームでこのグローバライゼーションされたソサエティにフルコミットしていく、いわばそういったロールをアサインされたハイアップなメンターってワケなのよ」
ルビィ「へぇ~、そうなんだぁ」
花丸「いや、絶対適当言ってるだけずら」
わいわいと、くだらないことを話して時間が流れる。
平和で穏やかな、普段と何も変わらないマルたちの日常。
そう、いつまでも続くと思っていた。
薄氷の上の、マルたちの日常。
42: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 02:44:29.90 ID:huXjq6CG.net
それから数日たったある日、いつも通りの時間に教室に着くと
いつかのように善子ちゃんが席についているのが見えた。
花丸「あれ、今日も早いずらね。またなにか夢の進展でもあったずら?」
善子「...あぁ、ずら丸ね。夢ならずっと見てるわよ...」
頬杖をついて、どこか曖昧な目をした善子ちゃんと目が合う。
挨拶がわりに軽口を投げかけたら、予想と全く違うリアクションが返ってきて面食らってしまう。
いつものように、堕天使モードで嬉々として夢の内容を話し始めると思ったずらが...。
いや、でも確かに一昨日あたりからどうも元気が無かったような...。
花丸「どうしたずら?全然元気無いずらね」
善子「ん、ちょっと考え事してただけよ...」
花丸「善子ちゃん、少し前からなんだか元気なさそうずら。悩んでることがあるなら、話を聞かせてほしいずら。それに、夢をずっと見てるって...」
善子「............そうね、ちょっと聞いてくれる?」
43: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 02:44:46.06 ID:huXjq6CG.net
大きくため息をついて、善子ちゃんはぽつぽつと語り出す。
善子「こないだ話した夢の件だけど、あれから毎日ずっと、同じ夢を見るのよ」
花丸「え、毎日ってそれじゃあ...」
善子「そうよ、かれこれ一週間ね。同じ夢を見続けてるの。さすがに気味が悪いったらありゃしないわ」
窓の外を眺めながら、さらにもう一つ大きなため息。
善子「それに、夢の内容もより鮮明になってきてるのよ」
花丸「どういうことずら?」
善子「前に、夢の中の私が「ようやく会えた」って言ってきたって話したの覚えてる?」
花丸「覚えてるずら。確か、真っ白な部屋で、もう一人の善子ちゃんが声を掛けてきたって」
善子「そう、そのときはそこで目が覚めたんだけど、この2日間はそこからさらに話しかけてきたのよ」
花丸「それは、どんな?」
善子「私は人間になりたいの。あなたが堕天使になりたいなら、私が代わってあげるってさ」
44: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 02:45:10.82 ID:huXjq6CG.net
花丸「代わる...?」
代わるって、一体どういうことだろう。
怪訝な表情を浮かべていただろうマルの顔を見て、善子ちゃんが口の端をにやりと吊り上げる。
善子「そうよ、堕天使になりたい人間の私の夢に現れたのは、人間になりたい堕天使の私。漫画なら喜んでその提案を受け入れるんでしょうね」
どこか自嘲的な口調の善子ちゃん。
漫画じゃなくても、いつもの善子ちゃんなら即答しそうなものだけど...。
花丸「でも、善子ちゃんは普段から堕天使になりたいんじゃなかったずらか?」
善子「そうね。これが普通の夢だったら迷わず即答したと思うわ。でも、私はこの夢を1週間も連続で見てるの、寸分違わず同じ夢を」
45: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 02:45:28.00 ID:huXjq6CG.net
ひやり、と背筋に冷たい感覚が広がっていく。
マル自身も薄々感じていたこと。きっと、今善子ちゃんが見ている夢は尋常の物ではない。
善子「それに、夢の中の私はそれに強く抵抗している...と思う。何かわからないけれど、とにかく早く目を覚まさないとって、それだけをずっと念じていたわ」
善子「ダメ押しで、朝起きた時には寝汗でパジャマとシーツがぐっしょり。朝からシャワーを浴びたらすっかり目が覚めちゃって、おかげさまでこんな時間から登校する羽目になっちゃったわ」
善子「とにかく、そんなこんなで何か言いようのない不安感に包まれてるってわけよ。ずら丸もそんな経験ない?休みの日の夕方遅くに起きちゃって、言いようのない不安がずっと心を苛む感じ」
マルはお休みの日でも早くに起きるから...。
そう答えつつも、善子ちゃんの言う何とも言い難い、じわりとした不安感が心を包む感覚はわかる気がした。
46: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 02:45:46.73 ID:huXjq6CG.net
花丸「で、でも結局は夢の話ずら。善子ちゃんはそこまで深刻に考えなくてもいいんじゃないかな」
善子「なによ。ずら丸らしくないわね。いつもだったらもっとからかってくるのに」
花丸「そーんなことないずら。なんだか神妙で落ち着いてて、大人っぽい善子ちゃんなんて気味が悪いだけずら」
善子「なんか私のこと褒めてるみたいになってない?」
花丸「ぜーんぜん褒めてないずら!これが褒めてるように聞こえるなら随分お花畑ずら!まったく、心配して損したずら」
善子「あら、心配してくれてるの?あんたも可愛いとこあるのね」
花丸「いや、全然心配してないずらが?」
善子「意地張っちゃって。ま、たかが夢で思い悩むのも馬鹿らしいわね。せっかくの週末だし、ずら丸!今日の練習終わったら松月に行くわよ!」
花丸「......今日の練習は果南ちゃん考案のスペシャルメニューずら」
善子「......生き残ってたら行きましょう」
そして、この日から善子ちゃんの様子はおかしくなってしまった。
51: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 16:57:59.41 ID:QagwjVeE.net
週が明けて月曜日。
マルがいつものように教室に入ると、甘ったるい刺激臭のような匂いが鼻を突いた。
思わず鼻を抑えて教室を見渡す。すると、異臭の元はすぐに見つかった。
まず目に入ったのはいつかのように頬杖を突いて窓の外を眺める善子ちゃん。
その机の上には、黒いアルミ缶に、けばけばしい蛍光緑の意匠が施された、見るからに体に悪そうなジュースが数本乗っていた。
花丸「善子ちゃん、朝から一体何を飲んでるずら?」
鼻をつまんで、ぱたぱたと手を振りながら善子ちゃんの席に近づいていく。
案の定、匂いの発生源は机の上のジュースで、近づくほどに鼻を刺す臭いは強くなっていく。
善子「何って、ただのエナドリよ」
ため息交じりにこちらを向いた善子ちゃんの顔を見て思わず息を呑んだ。
珍しく眼鏡をかけているものの、それは落ちくぼんで暗く影を落とす眼孔と、濃く刻まれた青黒いクマを隠すに至っていない。
どこからどう見ても、寝不足ということが見て取れる容貌だった。
花丸「ひどい顔してるずら。それに、その、えなどり?それもそんなに飲んじゃ身体に悪いよ」
善子「この土日はぶっ続けでゲームしてたからね。エナドリ飲まなきゃぶっ倒れちゃうわよ」
花丸「大体の授業中は寝てるくせに何言ってるずら...」
52: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 16:58:29.77 ID:QagwjVeE.net
僅かな違和感。
普段であれば授業中であっても堂々と睡眠を決め込む善子ちゃんが、体に悪いジュースを何本も飲んでまで起きていようとする姿勢。
一日程度の徹夜では説明しきれないほどのやつれきった姿。
もしかして、先週末に分かれた後から一睡もしていない...?
善子ちゃんなら、お休みの日に寝ずにゲームをすることもあるかもしれない。
でも、ここ最近善子ちゃんを悩ませるある症状が脳裏を過ぎる。
確信にも近い予感が、思わず口をつく。
花丸「......夢を見るのが怖いずらか?」
大きなため息。
言葉にせずとも、マルの予感が当たっていたことを雄弁に語っていた。
善子「そう、あんたにはお見通しってわけね」
ふと視線を落とすと、善子ちゃんは両腕を掻き抱き、
小さな震えを必死に押し殺していた。
善子「ホント、情けないったらありゃしないわね。たかが夢の話でこんなに怖がっちゃって」
花丸「ううん、そんなことないずら。何があったか、聞かせて?」
53: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 16:59:39.50 ID:QagwjVeE.net
震える手で机の上の缶を手に取り、口をつける。
そして、ぽつぽつと喜子ちゃんは話し始めた。何があったのかを。
善子「先週末の練習終わり、曜が梨子と千歌の家によるっていうから、一人で帰ってたの。で、その日の練習は果南考案のスペシャルメニューだったでしょ?バカみたいなハードワークで体力的にかなりキテたのよ。その日はいつもと違って一人で帰ってたから、バスでちょっと寝落ちしちゃったのよ」
善子「ほんのちょっとだけね。時間にしたら1分も経ってないと思うわ。ただ、そのわずかな時間で...」
善子ちゃんが口をつぐむ。
ああ、きっと、
花丸「また、あの夢を見たんずらか?」
善子「......そうよ。しかも、前回の続きをね」
54: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 17:00:02.27 ID:QagwjVeE.net
花丸「続き?続きって確か...」
善子「そうよ、もう一人の私が変わって...、いや、私を乗っ取ろうとしてくる話よ」
花丸「乗っ取るってそんな...」
善子「何も大げさな話じゃないわよ。でも、バスの中で見た夢はそれだけで終わらなかった。もう一人の私が、私の手を取って...。そこから何をしようとしたのかはわからない。夢だっていうのに、あのとき感じた手の冷たさは今でも残ってる。というより、まるで触れられた場所の体温が奪われたみたいよ。ほら、ずら丸」
善子ちゃんが左手をマルへと伸ばしてくる。
両手で包み込んでみると、なるほど、確かに通常の体温よりも明らかに低い。
花丸「で、でも、徹夜してるせいで血行が悪くなってるだけじゃないずらか?」
善子「ま、私も最初はそう思ったわよ。でもね、ほら」
今度は右手が伸びてくる。
先ほどと同じようにそれも両手で包み込むと
花丸「え...温かい」
55: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 17:03:29.72 ID:QagwjVeE.net
左手と比べるまでなく、先ほどは明らかに違う、温かな右手。
善子「お風呂に入っても、熱いお湯に手を浸しても、何をやったって右手に体温が戻らない。ほんと、嫌になってくるわ」
花丸「病院には?」
善子「行くわけないでしょ。どうせ原因不明って言われるか、心因性の適当な病名告げられるのがオチよ」
善子「それに、バスで寝ていた時間は1分もないくらいの短い時間だった。長浜のバス停からトンネル抜けるくらいまでかしらね。でも、私があの白い部屋にいた時間はそれよりももっと長い。いつも同じ夢を見てるんじゃない。夢を見るたびに、夢の内容が進んでいく...」
花丸「ゆ、夢と現実で時間の体感速度が違うのはよくある話ずら。そんなに怖がることないずらよ」
少しでも喜子ちゃんを安心させようと気休めを言ったが、きっとこれは逆効果だ。
誰の耳にもはっきりとわかるぐらい、マルの声は震えていたから。
56: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 17:03:58.04 ID:QagwjVeE.net
善子「ずら丸、あんた猿夢って知ってる?」
花丸「さる、ゆめ?」
善子「ネットに疎そうなあんたは知らないかもね。ま、一昔前に流行った掲示板の怪談よ。すぐ読めるぐらい短いから...出てきた。ほら、読んでみなさいよ」
善子ちゃんに手渡されたスマートフォンにはなるほど、猿夢と題されたページが表示されている。
たどたどしく画面をスクロールしていき、そこに書かれている文章を読み進める。
たしかに、この話は......
善子「まさに今の私よ。しかも、猿夢と違って私は毎日この夢を見ている。猿夢程はっきりした危険が迫ってるわけじゃないけど...。次に眠ったとき私は私じゃなくなるかもしれない...」
花丸「だから、先週から一度も寝てないの?」
善子「そうよ。寝ないようにずっと高難度のゲームやってみたりしてね。それでも限界がきそうだったから学校に来たってワケ。学校ならもし寝ちゃってもすぐに先生が起こしてくれるしね」
まあ、一瞬寝ただけでおしまいかもしれないけど。
やさぐれたようにつぶやいてジュースを呷る。
善子ちゃんの震えは、未だ収まりそうもなかった。
57: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 17:04:21.97 ID:QagwjVeE.net
善子ちゃんの話は、俄には信じられないほど突飛で荒唐無稽。
いつもならつまらない軽口を叩いて、流して終わり。
でも、ここでマルが善子ちゃんを突き放したら、きっと善子ちゃんの心は折れてしまう。
マルが、マルがなんとかしてあげないと...。
花丸「善子ちゃん、今日はAqoursの練習は休んでマルと一緒に帰ろう?おじいちゃんにお祓いしてもらえないか聞いてみるずら」
善子「あぁ...。そういえばあんたの家はお寺だったわね。寺生まれのTさん?いや、Hさんってわけ?」
花丸「茶化さないで欲しいずら。マルは、マルは善子ちゃんの力になりたいの...!善子ちゃんのことだから、他の人にも相談してないんでしょ?それでも、マルには話してくれた。善子ちゃんのことが、大切だから、だから心配なの...!」
善子「...ごめん、ちょっとやけっぱちになってた。そうね、お祓いしてもらおうかしら。頼ってもいい?」
もちろんずら。
そう言って、善子ちゃんの左手を手に取り、もう一度包み込む。
その冷ややかな左手を温めるように、善子ちゃんの恐怖を抱いた心が少しでも温まるように。
善子「ありがとね、花丸」
照れくさそうに微笑む善子ちゃんに、いつもの日常を見たずら。
58: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 17:04:45.36 ID:QagwjVeE.net
花丸「練習、千歌ちゃんになんて言って休むずら?」
善子「ま、正直にお祓いに行くって言って休むのは論外ね。確実に千歌は大騒ぎするわよ」
花丸「かといって、適当な理由でも休めないずらよ」
善子「私が体調悪いから休むって言って、ずら丸が付き添って帰るって言えばいいじゃない。今日の私の顔を見せれば一発でしょ」
花丸「そうずらね。それが一番いいと思うけど、曜ちゃんはおうちも近いし、私が送るって言わないかな」
善子「曜ならそのヒーロームーブも様になるわね。ま、そこは押し切れるでしょ。最悪、千歌にLINE入れとくわ」
花丸「わかったずら。とにかく、授業が終わったらすぐにマルの家に行くずらよ」
善子「りょーかい。あ、あと、授業中にもしも私がウトウトしてたら、何をしてもいいから起こして」
花丸「何をしてもいいずらかぁ~??」
善子「頼んだわよ、花丸」
59: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 17:05:10.02 ID:QagwjVeE.net
授業中、マルはほとんど話を聞き流し、横目で善子ちゃんの綺麗な横顔を伺っていた。
何をしてもいいとお墨付きをもらったけど、善子ちゃんは居眠りする素振りすらなく、真面目に授業を受けてノートを取っている。
先生も珍しい善子ちゃんを喜んで、机の上に載せたままの缶ジュースを見てもお咎め無し。
いつもこうだと完璧なのになぁと思ったりもしたずら。
そして、2限目が終わったあとの休み時間。
ルビィ「善子ちゃん、先生に褒められてたね!いつもは寝てたりして怒られてるのに」
善子「ま、私が本気を出せばこんなもんよ。私としてはルビィ、あんたが寝てても一切怒られないのが不思議だけどね」
ルビィ「ルビィ、入学してから今まで怒られたことないんだぁ。きっと運がいいんだよ。善子ちゃんはほら、不幸だし」
花丸「う~ん。ルビィちゃんが起こられないのは、きっと黒澤
善子「ちょ、ずら丸!消されるわよ!」
ルビィ「???」
花丸「善子ちゃんはルビィちゃんのおうちをなんだと思ってるずら...」
善子「そりゃあ勿論、ヤの付く職業でしょ」
花丸「やめるずら」
60: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 17:05:40.92 ID:QagwjVeE.net
ルビィ「まじめに授業受けてたけど、善子ちゃん、いつもより顔色悪いよ?」
善子「あー、土日にずっとゲームしてたのよ。それで寝不足なの」
言いつつ、チラリとこちらに目線を遣ってくる。
言葉には出さないまでも、ルビィちゃんには夢の事は言わないでというサインに違いない。
善子ちゃんの性格からして、ルビィちゃんに余計な心配をかけたくないんだろう。
ルビィ「どんなゲームしてたの?」
善子「隻腕の忍者が侍をボコボコにするゲームよ。難しいったらありゃしないわ」
ルビィ「そうなんだあ、今度善子ちゃんがゲームしてるとこ見に行っていい?」
善子「ダメよ。あのゲームをしてるとき、私は人間ではなくなる...。ルビィ、貴方を殺意の波動に目覚めさせるわけにはいかないわ」
花丸「何をバカなこと言ってるずら。とにかく、善子ちゃんは学校終わるまで、きちんと起きておくずらよ」
善子「わーってるわよ」
三限目も善子ちゃんの方をずっと見ていたけど、特に問題はなかった。
ときどき、善子ちゃんがあくびを噛み殺しては涙目になっているのを目で揶揄ったりなんかして。
平穏と言っていい時間だった。現状を包む不安から目を背けていただけかもしれないけれど...。
でも、問題は四限目に起こってしまった。
61: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 17:06:08.29 ID:QagwjVeE.net
ノートを取りつつ、横目で善子ちゃんの様子を伺っていると、どうやら善子ちゃんにも限界がきたようだ。
先ほどまではピンとして伸びていた背筋がやや猫背気味になり、黒板を見つめていた目は、今や焦点が合っておらず
とろんとした眼差しを虚空に向けていて、今にも瞼が閉じそうだ。
事前にお願いされていた通り、善子ちゃんを起こすためにシャーペンでわき腹を小突こうと手を伸ばした瞬間
ガタンッ!と大きな音を立てて、弾かれたように善子ちゃんが立ち上がった。
そのあまりの勢いに、立ち上がる際に引っ掛けた机が遅れて倒れ、二度目の大きな音を立てる。
静まり返る教室の中で立ち尽くす姿を見上げ、思わず息を呑んだ。
ただでさえ青白かった顔色はもはや一切の色を失い、まるで幽鬼のような様相を呈している。
瞳孔が開き、眼球はせわしなく上下左右にぐるぐると動く。錯乱状態にあることは明らかだった。
クラスメイトは愚か、教師でさえ異様な雰囲気に当てられてしまい、一言も発することができない。
時が止まったかのような錯覚を覚えるほどの沈黙の中、善子ちゃんがゆっくりとマルの方を向く。
マルの姿を認めると、その紅い双眸にじわりと涙が滲んでいく。
善子「はな...まる...」
か細く、掠れ切ったその声は、マル以外には聞こえていなかったかもしれない。
助けを求める声は余りに小さく、それ故に、マルにとっては十分だった。
65: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 22:35:05.57 ID:QagwjVeE.net
花丸「保健室にいきます」
自分のカバンと善子ちゃんのカバンを引っ掴み、素早く席を立つ。
教師の返答を待たずに、善子ちゃんの腕を掴んで強引に廊下へと連れ出す。
あの一瞬。コンマ数秒にも満たないあの一瞬に、件の夢を見てしまったに違いない。
善子ちゃんの手を取ったまま、ずんずんと昇降口へと歩いていく。
先生には保健室へ行くと言ってはいたが、そんなつもりは毛頭なかった。
花丸「善子ちゃん、このままマルのおうちへ行って、お祓いしてもらおう」
善子「......花丸。私、どのくらい寝てた...?」
善子ちゃんが震える声でマルに問い掛ける。
目線は常に下を向き、必死に涙を堪えているように見える。
66: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 22:35:31.79 ID:QagwjVeE.net
花丸「......ほとんど寝てないずら。時間にしたら、ほんの1秒にも満たないぐらい...」
善子「......そんなことだろうと思った。ほんの一瞬、意識が途切れるだけでも駄目なのね...」
花丸「今度は、どんな夢だったずらか?」
善子ちゃんの腕を引っ張りながら、昇降口を一心に目指す。
マルの家まではどうやって帰ろう。この時間はバスの本数も極端に少なく、またタクシーなどもアテにできない。
少なくとも長浜城跡までは歩かないといけないかも。
頭の中で様々な考えがぐるぐると回る。
でも、今はとにかく善子ちゃんの意識を繋ぎ止めておかなければ。
67: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 22:35:49.46 ID:QagwjVeE.net
善子「......前回より、何もかもがハッキリしてる。夢の中のアイツが言うの。私が、人間になってあげる。貴方は堕天使になれるわよって。アイツはまた私の手を取って...多分、手の甲に口付けしようとしてたわ」
花丸「......口付け?」
それは、何かとても危険な雰囲気を纏う行動。
同じことを善子ちゃんも感じていたのだろう、震える声で独白を続ける。
善子「手の甲に口付けされたら、きっと夢は終わる。でも、次に目覚めたら、それは私じゃない。アイツに乗っ取られた別人の私......」
善子「それに、目が覚める直前、確かに聞こえたの...!次は、次は逃がさないって...!!」
善子「どうしよう花丸...!わたし、堕天使になんかなりたくない...!......怖いよ......」
68: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 22:36:09.36 ID:QagwjVeE.net
花丸「とにかくマルのおうちで、一度お祓いしてもらおう。善子ちゃんは、絶対に守るから」
マルのおうちは、至って普通のお寺。
創作物の中にあるような、妖怪や悪霊の類をお祓いしたことなんてない。
お祓いだって、効果があるかどうかすらもわからない。
それでも、マルが今の善子ちゃんにしてあげられる数少ない選択肢の中で、お祓いがもっとも現実的で、かつ善子ちゃんを安心させることができると思った。
心因性のものなら、お祓いという行為がファクターとなって、善子ちゃんの抱えている問題が解決するかもしれない。
何より、今の善子ちゃんを見捨てるわけにはいかなかった。
震える善子ちゃんの手を握ったまま、とにかく足を止めずに歩き続ける。
昇降口を抜け、校門を抜けて坂道を下っていく。
バス停のある海岸線まで下ってもまだ、善子ちゃんの震えは止まらない。
69: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 22:36:27.36 ID:QagwjVeE.net
坂道を下り切ったあとに少し戻り、バス停の時刻表を確認する。
この時間だとバスは1時間に1本。11時台のバスは10分ほど前に過ぎてしまっていた。
花丸「善子ちゃん、次のバスまで1時間ぐらい待つずら...。ベンチに座ろう?」
善子「......ううん。......ごめん、花丸。ちょっと...バスは乗りたくない...」
そうだった。
以前に善子ちゃんはバスに乗ってるときに悪夢を見ているんだった。
花丸「そっか。じゃあ少し歩くずら。途中でタクシーが通ったら、それに乗せてもらおう?」
71: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 22:37:41.76 ID:QagwjVeE.net
善子「ごめんね、花丸。迷惑かけちゃって...」
しばらく歩いて、弁天島を越えたあたりでポツリと善子ちゃんが呟いた。
花丸「ううん、全然気にしないで。それより、大丈夫ずらか?」
善子「まあ、そうね...。平気ではないけど、少しは落ち着いてきたわ」
なるほど、確かに善子ちゃんの震えは止まっている。
幽鬼のようだった顔色も、少しずつ色が戻ってきたように見えた。
花丸「無理しないで。気になることがあったら何でも言ってね。マルが何でもしてあげるずら」
善子「ありがと、花丸。アンタ、ほんとに優しいわね」
ふっと、力なく微笑むその物憂げな表情に心がときめいたのは、きっと勘違いじゃない。
だからこそ、善子ちゃんのために、出来ることは何だってやってあげたいんだ。
72: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 22:38:18.11 ID:QagwjVeE.net
長井崎トンネル前の四叉路に差し掛かったとき
ちょうど内浦方面からタクシーが一台向かってくるのが見えた。
このまま、マルの家まで歩かなくてよくなったのは僥倖ずら。
目一杯手を伸ばして、タクシーを呼び止める。
運良く空車だった車に善子ちゃんを乗せ、自身の体を滑り込ませる。
この時間に制服を着た学生が二人、タクシーに乗り込んだことに、運転手は一瞬怪訝な表情を浮かべたが、マルの自宅の住所を告げるとそのまま車を発進させた。
花丸「善子ちゃん、家に行くまでにどこか寄る?」
善子「あー...。そうね、エナドリ買い足しておこうかしら。...すいません、途中でコンビニがあったら寄ってもらっていいですか?」
運転手にそう告げ、頬杖をつきながら善子ちゃんは窓の外を眺める。
ふと、右手に何かが触れる。視線を落とすと、善子ちゃんの左手が、所在なさげに丸の右手の近くに置かれている。
善子ちゃんの手を包み込み、視線を上げる。
その横顔には朱が差しつつも、外を眺めたまま何も言わない。
......マルが守るんだ。
大事で、大切で............大好きな、善子ちゃんを。
73: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 22:38:40.68 ID:QagwjVeE.net
途中でコンビニに寄り、善子ちゃんが身体に悪そうなジュースを買い、そのまま店の前で飲み始める。
花丸「ここで全部飲んじゃうつもりずら?」
善子「こんなもん車内で開けてみなさい、テロにも等しいわよ。それに、まだ何本か買ってあるから大丈夫よ」
花丸「マルだけじゃなく、運転手さんのことまで気にかけるなんて、やっぱり善子ちゃんは良い子ちゃんずら」
善子「もうっ!茶化さないで!」
花丸「うんうん。良い子にしてるご褒美に、また手を繋いで乗ってあげるね?」
善子「にゃああああああ!!!」
74: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 22:39:00.36 ID:QagwjVeE.net
マルの家に到着してすぐ、おじいちゃんとおばあちゃんにお祓いをしてほしいと頼み込んだ。
最初は怪訝な顔をしていたけれど、事情を説明し、あまりにも尋常ではないマルたちの様子を見て、お祓いの準備に取り掛かってくれた。
善子「私が言うのも何だけど、よく応じてくれたわね」
花丸「善子ちゃんが善行を積んできたおかげずら」
善子「えぇ...。そんなもんなの?」
花丸「それは冗談として、学校を抜け出してまで駆け込んできたずらよ?さすがにおじいちゃんたちも、何かあると思ったんじゃないかな」
善子「それもそうね...。お祓いって、やっぱりあれかしら、白いフサフサを振るやつ?」
花丸「大幣のこと?それは神社だけずら。マルのおうちはお寺だから、護摩祈祷ずら」
75: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 22:39:19.71 ID:QagwjVeE.net
善子「護摩祈祷?」
花丸「そう。仏様を招いて、炎の中に供物を捧げておもてなしするずら。それで、仏様に願いを聞き入れてもらったり、加護を貰ったりするの」
花丸「それに、護摩で焚かれる清らかな炎は、マルたちの心の邪なるものを焼き払うと言われているずら。だからきっと、善子ちゃんを悩ませてるものだって...」
善子「そっか。何から何までありがとね、ずら丸」
花丸「むぅ......」
善子「な、なによ、そんなにふくれちゃって」
花丸「マルのこと、ずらマルって呼んだずら。さっきまではちゃんと花丸って言ってくれてたのに...」
善子「そ、そうだったかしら?」
花丸「そうだったずら。善子ちゃんは、マルに借りがたーっくさんあるずら。だから、善子ちゃんはこれからもマルのこと、花丸って呼ばなきゃいけないずら」
善子「もう......。そうね、ありがとう、花丸」
ああ、やっぱり。
善子ちゃんには、こんなふうな笑顔が一番似合う。
願わくば、これからもずっと、その笑顔をマルにーーー。
76: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 22:39:38.24 ID:QagwjVeE.net
おじいちゃんから、お祓いの準備が整ったと声がかかる。
これで、これできっと、善子ちゃんはいつも通りに戻れるずら。
善子「ね、ねえ花丸。お祓いのとき、花丸も一緒に居てくれるのよね?」
花丸「もちろん。善子ちゃんが怖がらないように、またマルが横で手を握っててあげるずら」
善子「ちがっ!単純に、また寝ちゃわないように見張っててもらおうと思っただけ!」
花丸「えー。本当にそれだけずらあ?」
善子「まあ...手を握っててもらえるのは嬉しいけど」
俯きがちに、唇を尖らせてもにょもにょと喋る善子ちゃん。
か、可愛いすぎるずら...。
77: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 22:39:51.00 ID:QagwjVeE.net
護摩祈祷を行う間には、すでに炎が轟々と燃え上がり
開け放たれ、広々としたはずの広間の室温をじわりと汗が滲むほどにまで上げていた。
マルのおじいちゃんはすでに袈裟に身を包み、炎と向かい合っている。
花丸「善子ちゃん」
善子「え、えぇ」
マルは善子ちゃんの手をしっかりと握ったまま、炎へと近づく。
二人揃って、炎の前でちょこんと正座し、予め用意していた護摩札を取り出す。
護摩札を炎にあて、強く、強く念じる。仏様の加護を得られるように。
世界で一番大切な、善子ちゃんを守ってくれるように。
78: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 22:40:10.09 ID:QagwjVeE.net
善子「花丸。この炎って、邪なものを燃やしてくれるのよね?だったら、これも一緒に燃やしてくれないかしら」
御火加持の途中で、ふと思いついたように、善子ちゃんは1枚の黒い羽を取り出す。
これって確か...。善子ちゃんが占いをするときやライブのときにお団子に刺していた...。
善子「これは、堕天使の私を象徴するアイテム...かもしれない」
花丸「......いいの?これって大事なものじゃ...」
善子「いいのよ。堕天使に憧れたり、振り回されたりはもう懲り懲り。これからは人間として、津島善子としての人生を歩んでいきたいの」
善子「それで...。できれば、その隣には花丸。アンタがいて欲しい」
花丸「え、え、それって、え、つまり...え、そ、そういうこと...??」
善子「動揺しすぎじゃない?まぁ、そういうことよ」
79: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 22:40:28.47 ID:QagwjVeE.net
炎に照らされた善子ちゃんの顔はあまりにも真っ赤で
きっと、指摘すれば炎を言い訳にするんだろうな、なんて思ったりして。
そんなことがとても愛おしくて。
花丸「...うん。これからずっと、マルは善子ちゃんの隣にいる。マルが、善子ちゃんを支えてあげる」
善子「絶対よ?」
そうやって、真っ赤な顔のまま悪戯っぽく笑う善子ちゃんがあまりにも美しくて。
まずは、お祓いを終えたらいっぱい話そう。
今までのこと、そして、これからのこと。
うん...?お祓い......?
あ...
マルたちの思考は、気まずそうに咳払いするおじいちゃんによって、現実に引き戻された。
80: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 22:40:44.11 ID:QagwjVeE.net
善子「全く...締まらないったらありゃしないわね」
花丸「でも、なんだかマルたちらしいずら」
それもそうね。
そう言って善子ちゃんは羽を手に立ち上がる。
善子「今回のこと、ちょうど良かったのかもね。もう堕天使になりたいとも、自分が堕天使とも思わない。私はただの津島善子。花丸にこうやって助けてもらうまで、本当に怖かったし不安だった。けど、アナタのおかげで、花丸ともっと仲良く、自分の気持ちに素直になれた」
花丸「善子ちゃん......」
善子「今まで私を支えてくれて、ありがとう。拠り所でいてくれて、ありがとう。でも、もう大丈夫。私には花丸がいるわ。......ごめんね」
堕天使の羽が、炎の中へと落ちていく。
落ちていった羽は、マルの位置からはよく見えない。
けれど、炎に照らされた善子ちゃんの何だか吹っ切れたような横顔は、やっぱりとても綺麗で、これで全てが終わったような確信をマルに抱かせた。
81: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 22:41:01.15 ID:QagwjVeE.net
護摩祈祷が終わったあと、おじいちゃんから受け取った護摩札を善子ちゃんに手渡す。
花丸「このお札は、基本的にはお家の浄らかな場所に安置しておくずらが...。不安だから、今日はずっとお札を持っていてほしいずら」
善子「......そうね。私もそうしておきたい。ありがとね、ズラ丸」
花丸「あ、また!またズラ丸って言ったずら!もう!ズラ丸禁止ずら!」
善子「いいじゃない、私が呼ぶ分には。他の人にはズラ丸なんて呼ばさせない。だからアンタも、他の人にズラ丸なんて呼ばれんじゃないわよ」
花丸「も、もう!」
な、なんというタラシずらぁ...。
82: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 22:41:21.81 ID:QagwjVeE.net
花丸「ところで、この後はどうするずら?学校、戻る?」
喜子「今から戻ったってまともに授業なんて受けらんないでしょ。なんだか安心したらお腹空いたし眠たくなっちゃったわね」
時計を見ると時刻は既に14時を過ぎており、今から学校へ行ったところで放課後だろうということは明らかだった。
今日の喜子ちゃんの様子からして、Aqoursの練習に参加させるのも......あ。
花丸「そ、そういえば、学校を抜けてきたこと、誰にも言ってないずら......」
喜子「あ......確かに。......ヤバっ!みんなから鬼のような連絡がきてる......」
花丸「ほんとずら......。お昼休みにルビィちゃんが保健室に来て、マルたちが居ないことに気づいてみんなで学校中探してくれてたみたい...」
喜子「うわ、ルビィからのなんて、段々と地雷系女子みたいなLINEになってる!こわ~~」
花丸「ひとまず、安否確認だけしておくずら...」
みんなには少しぼかして、喜子ちゃんの体調が悪くなったから早退したこと。
付き添いでマルが一緒に帰ったこと、今日の練習は参加できないことを伝えた。
皆からは色々と詮索されたずらが、また明日に詳しく話すと言って、なんとかひと段落ついたずら。
83: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 22:41:41.21 ID:QagwjVeE.net
喜子「ま、とにかく。遅くなったけどお弁当食べましょ。ズラ丸もまだ食べてないでしょ?」
花丸「はい、これが喜子ちゃんの鞄。今ここでお弁当が食べられうのも、教室を出るときに鞄を持ってきたマルのふぁいんぷれーのおかげずら」
喜子「はいはい。えらいえらい。ありがとーズラ丸ー」
花丸「全然気持ちがこもってないずら!」
なんて。
そんな軽口を叩きながらのひと時はとっても楽しくて。
ここにルビィちゃんやAqoursのみんなも加わって。
マルがとっても大事に想っているものが、ここにはあったずら。
84: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 22:42:00.11 ID:QagwjVeE.net
空になったお弁当箱を片付けて、他愛もない話をしていると、喜子ちゃんの瞳が段々と微睡んでいくのが見えた。
花丸「喜子ちゃん、眠たくなっちゃった?」
喜子「ん...まぁ、そうね。何だか緊張の糸が切れたっていうか、単純に数日間寝てないわけだしね」
花丸「そっか。じゃあ、マルと一緒にお昼寝する?ほら、お祓いは無事に済んだけど、まだやっぱり不安だったり...」
喜子「そ、それって、同じ布団でってこと?」
花丸「も、もちろんずら!」
しまった。
同じ布団がどうとかなんて考えてすらなかったずら。
でも、ということは......。
花丸「喜子ちゃんがそういうから、仕方なくずら!」
ふっ、と喜子ちゃんが柔らかく微笑む。
きっと、想いは同じはずだから。
85: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 22:42:23.72 ID:QagwjVeE.net
善子「なんか落ち着かないわね...。お風呂入ってないけど大丈夫?」
花丸「別にマルは気にしないずら。パジャマのサイズは大丈夫?きつくないすらか?」
善子「何よ、ケンカ売ってるの?きついわけないでしょ!って普通はこれ逆じゃない?」
花丸「どういうことずら?」
善子「いや、わかんないなら別にいいわよ。それより、お風呂入ってないのに布団に入るのが平気なのかって話よ」
花丸「だから制服からパジャマに着替えたずら」
善子「いや、そうじゃなくて...。お風呂入ってから布団に入らないとなんか違和感ない?」
花丸「気にしたことないずら。善子ちゃんがそういうことを気にする方が意外ずら」
善子「失礼ね!」
86: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 22:42:41.66 ID:QagwjVeE.net
花丸「......何をもじもじしてるずらか?」
先に布団に入ったものの、善子ちゃんは所在なさげに立ったまま
視線をあちこちにやり、両手を組んで人差し指をくるくる回している。
善子「いや...、別に...もじもじなんてしてないけど?」
花丸「じゃあ早くこっちに来たらいいのに」
善子「うっ...。あんた、意外と肝が据わってるわね」
花丸「あ、もしかして一緒にお風呂に入りたいずら?だからお風呂がどうって言ってたずらね?」
善子「ちがわい!そそそそれに、そ、そういうのはまだ早いわよ!」
花丸「......何を言ってるずら?」
善子「............何言ってるんだろ。お邪魔するわね」
87: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 22:42:58.34 ID:QagwjVeE.net
おずおずと、小動物のような仕草で布団へと潜り込んでくる。
お互いの鼻息がかかるくらいの距離で、善子ちゃんの顔が見える。
長い睫毛。目尻がきゅっと上がり、知的で美人な印象を与える大きな紅い瞳。
西洋彫刻のようにスラッと通った鼻筋。潤いを湛えた薄桃色の美しい唇。
その容貌はとてもこの世のものとは思えないほど美しくて。
善子ちゃんはきっと、マルの前に舞い降りた天使なんだって。
そう、思った。
善子「な、なによ、そんなに見つめてきて」
花丸「............」
善子「え、ほんとに何?ちょ、変な匂いとかしないわよね?」
花丸「えなどりの匂いがするずら」
善子「~~~~っ!!!お風呂はいる!!」
88: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 22:43:14.49 ID:QagwjVeE.net
花丸「うそうそ。じょーだんずら。善子ちゃんのいい匂いだよ?」
善子「その言い方もどうなのよ、まったく......」
花丸「ほら、もっと近くにきて?」
善子ちゃんの両手を、マルの両手でつつみこむ。
お祓い前までは冷たかった左手は、今はじんわりと温かく
護摩祈祷の炎の温もりが、その左手に宿っているように思えた。
花丸「善子ちゃん、左手。あったかくなってるずら」
善子「ええ、ほんとね...」
善子「正直言うとね、お祓いが終わってもすこし不安だったの。本当に大丈夫なのか、寝てしまったら、また同じ夢を見るんじゃないかって。でも今、花丸の傍にいて、ようやく安心できる。私はもう大丈夫だって」
善子「もうちょっと、そっちにいってもいい?」
花丸「もちろん。ほら、こっちにおいで?」
89: 名無しで叶える物語 2022/12/16(金) 22:43:29.79 ID:QagwjVeE.net
マルの胸元に、善子ちゃんが鼻を埋める。
鼻息が、なんだかむずがゆいような心地よいような感覚。
これからもずっと、マルが傍にいるから。
だから、だから今は。
善子「はなまるぅ...これからも......っと......しょに......」
花丸「ずっと一緒にいるずら」
花丸「大好きだよ」
ぎゅっと、善子ちゃんを抱きしめる。
2人のこれからを壊さないように。離れないように。
だから今は。
花丸「おやすみ、善子ちゃん」
90: 名無しで叶える物語 2022/12/17(土) 00:10:14.01 ID:MQi1PYYg.net
善子『ありがとう、ずら丸』
ハッと、名前を呼ばれたような気がして目が覚める。
どうやら善子ちゃんと一緒に、マルも寝てしまっていたようずら。
部屋はすでに暗く手元の携帯を見ると、すでに時刻は夜の20時を回っていた。
花丸「あれ、善子ちゃん......?」
暗い部屋の中にはマル以外の気配はなく、呼びかけた声は虚空を反響する。
おかしいな、善子ちゃんに呼ばれた気がしたずらが...。
布団から立ち上がり、部屋の電気をつけると、枕元に一枚のメモが置かれているのが目に入った。
善子『ずら丸へ。今日はほんとうにありがとう。ママが学校を早退したことについて話があるっていうから、今日のところは一旦家に帰るわね。ま、上手いこと説明しておくわ。今日のことは、私とずら丸だけの秘密よ?また明日、学校で』
花丸「もう、起こしてくれてもいいのに!」
言いながらも、口元が緩んでいくのを自覚する。
いつも通りの善子ちゃんに戻ったみたいで、本当によかったずら。
92: 名無しで叶える物語 2022/12/17(土) 00:11:35.24 ID:MQi1PYYg.net
翌朝。
昨日は変な時間帯に長いこと寝てしまったせいで
どうにも寝付きが悪く、結局朝も早く起きてしまったずら。
早く起きても特にやることはなく、どうせなら教室で読みかけの本でも読もうと一本早いバスで学校へと向かう。
学校までの坂道を登る。
マルが登校するのは比較的に早い時間。
同じような時間帯に投稿する生徒は少なく、それよりもさらに早い今日はマル以外の生徒は見当たらない。
まあ、そもそもの生徒数が少ないんずらが...。
学校に着き、昇降口で靴を履き替えてから教室へ向かう。
昨日のこと、みんなに何て説明しようかなあ...。
具合が悪くなった善子ちゃんをお家まで送り届けたってことで何とか説明するしかないずらね。
善子ちゃんとの距離感も気をつけないと、昨日何があったか
みんなにバレちゃうずら...!!
そんなことを考えながら教室のドアを開けると、一陣の風が吹いた。
白くはためくカーテンを見るに、どうやらそこの空いた窓から風が吹き込んだようだ。
93: 名無しで叶える物語 2022/12/17(土) 00:11:54.07 ID:MQi1PYYg.net
風に揺られるカーテンと共に、艶やかな黒髪が目に入る。
窓際に立って外を眺めていた人物の横顔を見た途端に、胸が大きく高鳴った。
花丸「あれ、善子ちゃん...?」
善子「あら、おはよう、ずら丸。早いのね」
薄く微笑みながら、こちらへと近づいてくる。
朝日に照らされたその姿は見惚れてしまう程に美しく、しばし言葉を忘れてしまう。
花丸「......うん。昨日はあの後、あんまり眠れなかったから...」
善子「そうなの?アンタのことだから、いくらでも寝れるもんだと思ってたわ」
花丸「......もう、何言ってるずら...」
善子ちゃんがマルより早く学校に来ているのは驚いたけど、
どうやら、いつも通りの善子ちゃんに戻ったみたいずら...。
でも、なんだろう。ほんの少しの......違和感。
94: 名無しで叶える物語 2022/12/17(土) 00:12:10.40 ID:MQi1PYYg.net
善子「昨日は本当にありがとう、ずら丸。前に話してくれたこと、覚えてる?夢は自分の願望を満たすために見るって話」
花丸「...覚えてるずら。フロイトの...話だよね」
善子「そう!私が望んでたのは、今のこの関係だったのよ」
悪戯っぽく笑いながらウインク。
そんな何気ない動作にも、変に鼓動が早くなるのを感じる。
花丸「関係って、その...マルとの?」
善子「ふふっ。なんだかとっても満たされた気分だわ。なーにを怖がってたんだろ。でもま、あなたのおかげよ、は・な・ま・る」
95: 名無しで叶える物語 2022/12/17(土) 00:12:32.70 ID:MQi1PYYg.net
熱に浮かされたように饒舌に喋り続ける。
マルの言葉もどうやら耳に入っていない。
その姿を見ているうちに、先程の違和感が少しずつ大きくなっていくのを感じた。
しかし、その原因までははっきりとは分からない。
何だろう、何も変わったところは見受けられないし
昨日までが調子の悪い様子だったから、それとのギャップがある...のかも...。
花丸「ーーーーーーあ」
そうだった。
教室に入ったときからだ。
今日の善子ちゃんは、あまりにも......
ーーーーーー美し過ぎる。
「どうしたのよ?」
こちらを覗き込む眉も、瞳も、唇さえも。
不気味なほどに、美しい。
96: 名無しで叶える物語 2022/12/17(土) 00:13:01.88 ID:MQi1PYYg.net
「ちょっと、急に固まっちゃってどうしたのよ?」
善子ちゃんの声が遠く聞こえる。
長い睫毛。目尻がきゅっと上がり、知的で美人な印象を与える大きな紅い瞳。
西洋彫刻のようにスラッと通った鼻筋。潤いを湛えた薄桃色の美しい唇。
その、容貌は、この世の、ものとは、思え、ないほど、美しくて。
そう。
それは、人間離れした、美しさ。
この表現こそが相応しい。
98: 名無しで叶える物語 2022/12/17(土) 00:16:27.68 ID:MQi1PYYg.net
ああ。どうして。
こんな時に思い出してしまうのだろう。
何度も何度も頭の中で反響する。
どうか、どうか鳴り止んでーーー。
『夢十夜』の第十夜。その、最後の一文。
花丸「......ねぇ、善子ちゃん、だよね?」
「...えぇ。私が、津島善子よ」
ーーーーーー庄太郎は助かるまい。
99: 名無しで叶える物語 2022/12/17(土) 00:20:09.98 ID:MQi1PYYg.net
終わりです。
ありがとうございました
善子「最近、変な夢を見るのよね」